10.美術館
「あー面白かった。あたしたち、いったい何から逃げてたの?」
「斧を持ったバケモンだよ」
「なにそれ。あ、食い逃げしてきちゃった」
やばいなあ、みたいな顔でダイナーを振り返る上沢さんの肩をポン、と叩いた。
「大丈夫、会計は済ませてある」
「ほんとう? ありがとう!」
嬉しそうな顔で微笑む上沢さんは、眩しいくらいに輝いていた。
「でも、それじゃあ本当になんで追いかけられたんだろう……」
考え込む彼女を「まぁまぁいいじゃないか」と引っ張って、美術館の受付でチケットを切ってもらった。うーむ、やっぱり何度見ても神殿に見える。
「神聖な感じがするね……」
「そうだね……」
はああ、とため息でもつきそうに建物を見上げる上沢さんに僕はツッコミを入れるべきだったのだろうか。それはともかく、館内へと入る。日曜日ということもあり、美術館の中はそれなりに活気があった。若いカップルの姿もチラホラ。
絞られた照明が、展示された絵画にスポットライトを当てている。上沢さんがつつ、と僕のそばに寄って来た。僕は強くなりつつある動悸を無視して、絵画に関心があるふうを装う。
「ふむ……なるほど」
「なにがなるほどなの?」
「全然わからない」
僕が目をつけた絵は残念ながら原色画だった。黒と赤と青がべたべたにぶちまけられているだけで何がなにやらわからない。普通、こういうところにはタイトルや作者のプロフィールなんかが書かれたプレートが飾られていたりするものだけれど、それもないので、いまのところ学芸会の課題か夏休みの宿題に追い詰められた少年の絶叫にしか見えない。
あはは、と上沢さんが笑う。
「ちょっと難解だよねぇ。あたしもよくわかんないもんコレ」
「もうちょっとわかりやすくしてほしいよね」
カルド様を称える作品なわけだから、天使風の上沢さんがヤオヨロズの軍勢に敢然と立ち向かう絵とか。……うーむ、想像してみると物凄くラノベっぽい。
「なんてタイトルなんだろう?」
「えーとね」上沢さんは受付でもらった小冊子をペラペラめくり始めたが、爪を切ったばかりなのか手の油がうっすいのか全然めくれてない。僕は腕を組んで、原色画を見上げた。
「……僕がこの絵の作者なら、タイトルは『混沌』にするね」
「おや、凄いですね。正解ですよ」
「何奴」
振り返ると、そこには黒いスーツを着た老紳士が立っていた。老人、とは言わない。御髪は真っ白だけれども香りのいい整髪剤できちっと整えられ、顔の深いしわはかつての苦労と経験の重みを感じさせる。背筋は曲がっていないどころか鉄骨のようにピシリとしている。なんか凄いジジィ来た。
僕は上沢さんを手で庇った。
「僕の彼女に手出しはさせない」
「は、葉垣くん……! はうう……」
ノリツッコミを期待したのに上沢さんは蕩然と顔を肉まんみたいに緩めていた。やめろ! これじゃただ僕が恥ずかしいだけだ!
顔を真っ赤にして自分の軽率さを後悔していると「くつくつ」と老紳士が笑った。
「これは失礼。べつにあなたの大事な恋人をさらおうとしていたわけではないのですが」
「えーと……どなたでしょう」
「この人はね」と上沢さんがニヤニヤしながら老紳士を掌で示した。
「崇臣だよ」
「ほわっつ?」
「……梓様、それでは説明不足かと。申し遅れました、葉垣燈七郎様、私、荒木第三管理区の天使長、階崇臣(きざはし たかおみ)と申します。以後、お見知り置きを」
スッ……と手品のように白手袋のどこかから出現した名刺を差し出され、僕は思わず受け取った。
「あ、これはどうも。えーと、僕のことは……?」
「存じておりますよ」ニコっと笑い皺を作り、
「我らが神の若き騎士殿だとね」
「もぉっ! やめてよ崇臣!」
「梓様、スネ蹴りはおやめください」
巧みなバックステップで上沢さんのローキックをかわしていく崇臣さん。避ける時にも姿勢が変わっていない……これも手品の一つだろうか。
「私、当美術館の館長も務めさせて頂いております。よろしければ、今日はお二人の初デート、ということで、当館をご案内させて頂ければと」
「本当ですか? 光栄だなあ」
「やめてよ崇臣、またあたしを子供扱いして!」
僕の腕を引っ張って、上沢さんは「べぇ!」と崇臣さんに舌を出した。
「やれやれ。はしたないですよ、梓様」
「崇臣が悪いんだもん」
「まったく」
崇臣さんがチラッと僕を見てきた。「若い女性の扱いにはいくつになっても困りますな」とでも言いたげで、僕もくすりと笑い返した。まったくもって同感だ。僕も昨夜、恋咲を格ゲーでボコボコにしたら本体をボコボコにされる羽目になったばかりだ。理不尽は女性につきもの。
「いいじゃないか、上沢さん。崇臣さんに案内してもらおうよ」
「えー……」
「正直、解説してくれる人がいないと、僕らに芸術への道は開かれそうにないよ」
「よろしいですかな?」
「仕方ないなあ。あとでお小遣いちょうだいね」
「……やれやれ」
いまにもゲシゲシと蹴りつけそうな勢いで「そばによるな!」と崇臣さんを威嚇する上沢さんと腕を組みながら、僕らは館内を回ることになった。足元もよく見えない館内を僕らはゆっくりと歩いていく。壁に展示されている絵画や、ロープで隔離された彫像などが夢のように僕らの視界をスライドしていった。
「絶対神カルド、つまり梓様の真霊がこの世界に降臨なされたのが百年ほど前になります」
崇臣さんは指揮者のように指先を振るいながら、解説してくれた。
「自然、降臨直後に創作された作品が多くなります」
「そうなんだ」と感心している上沢さん。
「そうなんだって上沢さん、自分のことでしょ?」
「あたしは分霊だから、生まれた時からのことしか知らないの。みんなと同じ十六歳なのだ」
びしっとポーズを決めてから、
「ま、本気になれば真霊にアクセスすることは出来るけど、やったことない」
「ふーん……」
なんだか複雑な事情がありそうだ。
「ヤオヨロズの神々はかつて人々から生贄を求める邪神でした」
崇臣さんが、一枚の絵を示した。半神半狼の怪物を超至近距離から描いた油絵だった。
「信仰を集め、それを力の糧とし、民を苦しめ支配していたヤオヨロズたちを滅ぼし、世界を統一なされた絶対神カルドに、人々は感謝の念を禁じえなかったと言います。それはこれからの神聖画からも読み取れます」
僕は黙って、興味がないフリをしていた。
「……ヤオヨロズの抵抗はとても激しいものでした。ですが、信仰を求めずにはいられない神のサガ、それまでの悪事の数々が民衆の心をヤオヨロズから離れさせ、絶対神カルドの庇護を求める者たちが多くなりました。それを描いたのがこの絵です」
黄色い下地に、ぼろぼろになって線のように細くなってしまった人々が丘の上を目指している絵だった。縫い針のように細い丘の突端には、両手を広げた大きな女性が描かれている。これが絶対神カルド、その真霊ということだろう。
「ここから先は、よく映画などでも作られていますね。絶対神カルドによる大地平定の戦旅(いくさたび)のくだりです。この時、カルドの腕となり足となり働いた人間たちが、現在の天使制度の先駆けだったと言われています。……過去の英雄たちの苦労を思うと私、思わず涙が流れてしまいそうです」
ぼそっと呟いた崇臣さんを上沢さんがガン見している。こほん、と崇臣さんは素知らぬ顔で続ける。
「百年前、まだ発達した科学を持たなかった人類の神を求める気持ちはそれはそれは強かったと言います。数学や化学、機械工学などは全て絶対神カルドがもたらした八十の神算書から人々が着想を得て進歩させたものです。それは絶対神カルドの持つ力そのものを衰弱させてしまうものでありましたが、カルドは人類の繁栄のために己の身を切るようにその書物を民衆に配って歩いたそうです」
「へぇー」と上沢さんは面白そうに聞いている。
「で、戦旅は何年続いたんだっけ」
「五年です」と崇臣さんは答えた。
「戦いは終わりました。弱きヤオヨロズは滅ぼされ、強きヤオヨロズは封印や追放に処されました。絶対神カルドの時代の到来です。民衆は歓喜し、カルドの霊力は最高潮に達しました。その時の絵が……」
チラっと崇臣さんが次の絵に視線を流した。僕も釣られてそれを見る。それはどことなく写実的なタッチで描かれた絵だった。曖昧で誤魔化すところがなく、建物や人々がくっきりと描写されている。そして祭壇の上に立ち、紋章のあしらわれた剣を天空へ向かって突き出す女神は、ボロきれ一枚をまとっているだけだった。というか、半分裸婦だった。つまり、
おっぱいが見えている。
「見ないでぇっ!」
「ぐっはァ!!」
零距離からぶちかまされた左フックが僕のアバラにクリーンヒットした。
「うわああああ! こ、こんなの飾っておかないでよ崇臣!」
「貴重な芸術作品ですから……」
「うわああああああああん! 恥ずかしいよぉ! こ、これ、みんなに見られてるの!?」
顔を両手で押さえてメソメソする上沢さん。しかし僕はそれどころではない。強打された肋骨が音叉みたいに激震している。こ、こ、これは効く……
「お、お、落ち着いて上沢さん……これは絵だから……」
確かにとても魅力的な乳房ではあるけれども。
「撮影は禁止です、葉垣様」
「……なんのことやら」
ポケットから出しかけた携帯電話を仕舞わざるを得ない僕。
「つ、次いこ次! 崇臣、あれだけはすぐに外してね! じゃないといますぐ大型台風を三つくらい呼ぶから!」
「……かしこまりました、梓様」
ぺこり、とお辞儀して、崇臣さんはその場に留まった。警備員に素早く何か囁き、絵が撤去され始める。僕らはそんな崇臣さんを残して、暗い回廊を後にした。
そこから先はお土産物コーナーになっており、ちょっと曲がってしまった上沢さんの機嫌は少しずつよくなっていったのだった。