03.振り向けばこんにちは
なんとか絶対神からの圧迫面接をクリアーした僕は辛くも午後へと辿り着いた。お昼ごはんを食べられていないのでバリバリ貧血である。隣の席の望月さんに「大丈夫? 死ぬんだね」などと失礼千万なことを言われながらも、僕はグルグル鳴るおなかを抱えて五時間目の数学に耐えていた。上沢さんは寝ている。それでいいのか女神様。
「うう……」
「おい、葉垣が死にそうだぞ。何か手を打ってやろう」
「ほら、これをお食べ」
言葉の端々から人を舐めている気配を感じつつ、しかしありがたいことはありがたいので、僕は男子たちからお菓子をこっそり譲ってもらってバリバリ喰った。おいしい。畜生、と思う。それもこれも恋咲のやつが朝からキッチンでスッ転んで食卓をひっくり返すというドジっ子属性をぶちまけていたのがいけない。そのせいで僕は弁当を作り忘れ、上沢さんにとっ捕まり、このザマだ。うう。
つらい時は窓の外を見るに限る。
僕は教室の窓から透き通るように青い空を見上げた。いいなあ。雲の中に入っていきたいなあ。なーんも考えずに……そんなちょっと危険な思考回路を形成していると、ふと校庭の隅っこに誰かがいるのに目が止まった。飼育係が世話をしているウサギの小屋の前に誰かがしゃがみこんでいる……
って……
「は、恋咲!」
「どうした葉垣!?」
数学の後藤が黒板の上の二次関数をほったらかしにしてスッ飛んできた。
「なにか辛いことがあるなら先生に言え!」
「なんでもないです!」
僕の首を締め上げて辛いことや悩んでいることを吐かせようとする後藤に対して僕の嫌悪感はマックスだ。やり方がパワー系すぎる。隣の席の望月さんはクスクス笑っているし、この世を総べる上沢さんは一瞬だけ目を覚ましたかと思うとまた眠りの世界(神様の夢ってどんなんだろう?)に急速潜航、僕を宙吊りから助けてくれそうな人はいそうにない。ぐぇぇ。
「せ、先生、このままだと僕は死にます」
「そうか、早く言え」
パッと手を放されて床へ落下する僕。ゲホゲホしながら考える、何コレ、新手の校内暴力? でも気持ちはありがたいので受け取っておく。
「トイレいってきます」
「よし、わかった! ……おまえらぁ! 学校でウンコしに行く葉垣のことを笑ったやつがもしいたら、俺が俺の名の下にぶっ飛ばす! わかったな!」
もし十年後、同窓会とかを開催しても後藤だけは呼ばない、そう心に誓いながらクスクス笑いの海を駆け抜け、僕は廊下に飛び出した。壁に激突。どうしてこうも上手くいかない。しかし、痛がってなどいられない。今もウサギ小屋の前では広域指名手配犯(それはもう、比喩じゃなく)、がウサギの喉を「うりうり」と弄んでいるのだ。ウサギを突然のストレスから解放するため、そして捨て神を救うため、僕は走った。
「あ、燈七郎じゃない」
「ふぁっくゆー」
「ぐぇっ」
ウサギ小屋の前に行くと、僕が中学生だった頃に着ていた服を借りている恋咲が「よっ」と手を挙げてきたので、僕は暴力に訴えた。
「なにやってんの? 家から出ちゃダメって言ったよね?」
「控えおろう、控えおろう」
首を締め上げられ酸欠でわけわかんなくなっている恋咲を僕はぶんぶん揺さぶった後、そばの茂みに引っ張り込んだ。僕は彼女を解放した。
「うぉーげっほげっほ! な、何をするのよ!」
「それはこっちのセリフだよ。なんで家から出てきちゃったの?」
ちゃんとカップ麺の食べ方も教えてあげてたのに……
僕が責めると、恋咲はぷいっと顔を背けた。
「……仕方ないじゃない。だって、つまらないんだもの、一人でいても」
「いや、君って結構ガチで追われてるんだけど」
「だから、帽子をかぶってきたでしょう?」
恋咲は野球帽のつばをくいっと持ち上げた。燈色の髪はアップにまとめられて、帽子の中に仕舞いこまれている。僕はため息をついた。
「外は危険でいっぱいなんだよ。捕まりたいの?」
っていうか、そんなチャチな変装したところで、モフモフふさふさの尻尾が隠れてないし……
「ふん、わけのわからない新参者の神に大きな顔をされて、黙っている私じゃないわ」
「気持ちは分からなくもないけど……」
「ばっくしょーい!」と校舎のほうから凄まじい爆音が響き渡ってきた。上沢さんがクシャミをしたらしい。音デカすぎである。
「……とにかく、家に帰っててくれよ恋咲。僕、もうすぐ学校終わるし」
「嫌よ。燈七郎、帰りましょう?」
「ええ?」なにそのアグレッシブな学校否定?
曲がりなりにも美少女に「帰ろう?」とか言われちゃうと僕の決意も揺らぐ。試験も学校も放り出してキャッキャウフフだけできたらどんなにいいだろう……あれ? 帰ろうかな? 帰っていいかなコレ。
いやいやダメだ。僕は首をぶんぶん振った。
「僕には守るべき未来と人生があるんだ。勉強していい点数取ることによって」
「なにそれつまんない」
神様がそういうこと言わないでくれるかな?
「それに、ここには絶対神の分霊がいるんだよ」
「分霊……」
「ああ。彼女に見つかったら君は一巻の終わりだぞ? それでもいいのか?」
「そう言われると、会ってみたくなるわね」
「いやいやいや」
どうしてそう好戦的なの。ふふん、みたいな顔で笑ってるし。やめてよ。僕の心労が悪化していく……
「ねえ、燈七郎。会わせてよその分霊ってやつに」
「ダメです。ほんとにダメ」
「なんでよ。私、負けないわ」
「いや神対神とか見たくないからやめて」
この街ごと吹っ飛んじゃったりするんじゃないの? ふよふよ浮き始めた恋咲を見ながら僕はそんな予感がした。
「……ぶう」
「膨れてもダメ」
くそ、可愛いな。頬を膨らませてちょっと潤んだ目で僕を睨んでくる恋咲を見ていると、なんでも許してあげちゃいそうになってしまう。
「ダメだって」
「じゃ、いいわ」
くるりん、と身を翻す恋咲。僕はほっと安堵のため息をついたのだが……
「この学校の案内をしてもらうだけで満足してあげる」
「そっか、よかった……って、ええ!? そんなめんどくさいことを僕にさせようっていうのか!」
「ええ」
当然でしょ、みたいな顔で僕を見てくる恋咲。コイツ……
「だって気になるんですもの。私の子供たちがどんなところで暮らしてるのか」
「いや君の子じゃなくね?」
神様の思考回路はよくわからない。
「いいから、いくわよ燈七郎。案内してくれないとどこへでも勝手に入ってっちゃうから」
「やめて」
僕は不承不承、神様の学校見学に付き合わされることになった。
やれやれ。
○
「ずいぶん窮屈そうなのね」
引き戸の窓ガラスから教室の中を覗き込もうとした恋咲の首根っこを僕は押さえつけた。
「へいへーい中から見えちゃうYO」
「背伸びしないと見えないじゃないの」
なにをする放せ、と身悶えする忘れ神を僕は羽交い絞めにした。
「普通は授業中に知らない子が顔を出したりしないんだYO。みんなビックリしちゃうYO」
本当に勘弁してほしい。昨夜出会ったばかりなのにもう僕の心労ゲージはマックスを超えた。
「静かに、なるべく静かにっていう約束だっただろ?」
「仕方ないわね」
不承不承、恋咲は教室を覗き込もうとするのをやめてくれた。
「建物を見て回るだけで我慢してあげるわ」
「ありがたき幸せ」
「うむ」
うむじゃねーよ。泣きそう。なんなのこの子。
まァ、僕も百年後の未来に飛ばされたりしたら、あっちこっち見て回るかもしれないけど……
「でも、なんだか白っぽくて変な建物ね」
恋咲はコンコンと壁を叩いた。
「どこからこんな木を持ってきたんだか」
「木に見えんの?」ていうかコンクリートだって教えたじゃん。
自然を司る神様の目、マジ節穴。
「……そういえば、私の祠はどうなったんだろう」
「ああ、祠とかあったんだ」
「ええ。私は偉かったからね」
えっへん、とよく育った胸を張る忘れ神。
「ヤオヨロズで祠持ちなんて、それこそ限られてるのよ?」
「ふーん、じゃあなんか、人に祀られるようなことしたの?」
「特にしてない」
「え?」
「祠よこせって人里に下りていって暴れたら村の大工たちが作ってくれたわ」
「うわあ、ひどいカツアゲ」
祠カツアゲする神様ってどうなんだ。もはや邪霊の領域。
「駄目だよ人間には優しくしなきゃ」
「そうね……って、あなた自分が甘やかされたいだけじゃないの?」
「まさか、そんな。言いがかりだよ」
鋭い神め。
「まァいいわ。ねえ燈七郎、なにか遊べるところないの?」
「んな無茶な。学校は勉強するところだよ」
「さっき寝てる子がいたわ」
「ああ、佐竹のこと? あいつは進級を諦めた選ばれざる戦士なんだよ」
「?」
赤点七つ取った級友のことを教えてやると、神様はさらりとこう言った。
「向いてないならやめればいいのに」
「それが出来たら苦労はしません」
「どうして? 向いてないことやっても無駄だわ。産後七十五日も経てば何が出来る子なのかみんなで話せば分かるでしょ?」
「どんな子育て?」
エスパーの所業かよ。
「みんな何になりたいのかしら」
またもや教室の中を覗き込もうとする恋咲の襟首を僕は掴んで引っ張った。
「コラコラ、学習能力ゼロ?」
「……」
「恋咲?」
「あれ……?」
ふら、と恋咲がよろめいた。嫌がっていた白い壁に手をつき、呼吸を荒げる。頬が紅潮し、胸元を押さえる手が震えていた。
「どうしたの?」
「なん……だか……気分……が……」
「えっ、なっ、ちょっ、だ、大丈夫!?」
僕は慌てて恋咲の身体を支えた。そしてビックリした。
氷のように冷たい。
「燈七郎……」
恋咲はつぶやいた。
「つらい……」
「は、恋咲っ!」
力を失って僕に倒れ掛かって来た恋咲のおデコがものの見事に僕の鼻っ柱に激突した。痛い。しかし、それどころではない。恋咲は眠ってしまっていた。僕はテンパった、が、もうこうなったら仕方がない。
保健室に連れていくことにした。
幸い、それほど距離は遠くなかった。ノックしてもしもしすると、反応がなかったが、鍵は開いていた。保健の先生は不在のようだ。僕は引っ越し業者になった気分で、恋咲の身体を引きずった。なんかもう女の子だからどうとか以前に、手足があるだけでかなり人間って重いんだと思う。彼女は神様だけど。何もかも綿菓子のようにはいかない。
僕は真っ白で清潔なシーツの上に神様を横たえた。
「恋咲……」
「う……」
寝ている恋咲はうなされていた。何か悪い夢でも見ているのだろうか。
「神様なのに……大変なんだな」
僕は汗で張り付いた恋咲の前髪を指ですくって払いのけ、布団をかけてあげた。
そして手持無沙汰になる。可哀想だけど、僕にはもうしてあげられることは何もない。このまま保健の先生が帰って来た時の言い訳を考えておくくらいだ。なんて言おう。困ったなあ。
なんとなくやるせない気分になった僕は、ふと先生の机の上にあるブックエンドに教科書が立てかけられていることに気が付いた。神学の教科書だ。なにげなく手に取って、索引を見てみる。僕は神学専攻じゃないし、まだ三年生にもなっていないのでこの教科書は知らない。しかし、結構いい作りをしていた。分厚いし。
忘れ神の項目はちゃんとあった。めくってみる。
――ヤオヨロズは自然発祥の神。それに対して絶対神(カルド)は機械文明が発達してから出来た神で、一説によると歯車の神とも言われているが、本人は否定している。
ちゃっかりと本に登場してくる上沢さん。やっぱ凄いな。
ぺらぺらめくっていくと、『消滅』という項目に辿り着いた。
――ヤオヨロズ、絶対神を問わず、神は信仰を失うと消滅する。元来、祭事とは神の名を忘れぬために行うものであり、一つの祭事が失伝すれば、一つの神がいなくなることと同義である。しかし、絶対神がおわす現在、ヤオヨロズの存在価値は低い。
僕は本にデコピンしてから、先を読んだ。
――消滅しかけた神は風邪と似たような症状を出す。せき、頭痛、眩暈、吐き気、虚脱感などである。それを解消するためには、その神を崇める祭事を行う必要がある。
「……なるほど」
僕は教科書を閉じて、眠る恋咲を見た。
どうやら、忘れ神である彼女は百年の眠りから覚め、信仰の大部分を失っているようだ。僕に名前を語ったことで少し誤魔化されていたのかもしれないが、やはり耐え切れなかった……らしい。たぶん。いや、かなりテキトーだけど、そんな感じだろうきっと。
つまり、咲楽守恋咲という神様を誰かに思い出してもらわなければ、彼女は……
「…………」
関係ない、とか言っちゃえばそれまでだけど。
知らんぷりすれば、反逆者にならなくて済むんだけど。
でも……
「燈七郎……」
か細い声で僕の名前を呼ぶ恋咲を見て、僕はため息をつく。
仕方ない。
乗りかかった船、拾ってしまった忘れ神。
僕は携帯を取り出して、クラスメートの森崎さんにメールを入れた。
ちょっとした知り合いなのだ。