「ムノー、音楽プレイヤー貸して」
自身の苗字をもじった蔑称で呼ばれ、少年は工具を動かす手を止めて顔を上げる。
彼を呼んだのは離れたところにある小さな階段に腰掛ける少女だった。この辺りでは見かけない制服、それも今時珍しい正統派のセーラー服を身につけた少女は、耳の周辺を押さえながら横目で少年を見ていた。
「ああ……いいよ」
要求に応じ、少年はジーンズのポケットから古びた音楽プレイヤーを取り出した。年代モノというわけではなく、実はつい最近まで少年が使っていたものなのだが、その外装は随分と綻びている。
「イヤホンは?」
「ううん、自分のがあるから大丈夫」
そか、と少年は微笑みながら、少女に音楽プレイヤーを投げ渡す。少女は手を耳から離してそれを受け取った。その時に一瞬見えただけだったが、少女の耳は既に白く薄い『膜』のようなものに覆われ始めていた。
少年は眉をひそめ、言う。
「進行が酷いようなら、しばらく貸すよ、それ。僕は恐らく必要ないし」
「有り難いけど、その発言も随分と危険行為だと思うよ、ムノー」
「その、ムノーって呼ぶの辞めないかい」
少女の返答はない。黒いイヤホンを耳に突っ込んで、一心に音楽を聴いている所為だ。ムノーと呼ばれた少年は別段それを指摘することはなかった。それが今の彼女にとって必要だということは分かっていたからだ。
ふう、と息を一つ吐いて少年は再び手元に目を遣る。
少年がドライバーでいじくり回していたのは、これこそ年代物のステレオラジオだった。
今居る街を彷徨いている時に偶然見つけたもので、古めかしい物や骨董品に興味のある少年にとっては不幸中の幸いとも言える逸品だ。ただ、当然といえば当然なのだが、ラジオは既に壊れていて動かない。だから少年は直そうと試みていた。別に少年は機械に詳しいわけではなかったが、とりあえず中を開けてみればまた動くのではないかという機械音痴特有の理論に駆られ、今まさにその蓋を開こうとしていた。
ばかっ、とネジの外れた裏蓋をこじ開けて、少年はラジオの中身を確認する。
そこには、少年の望まざるモノが広がっていた。同時に、少年がむむむと顔をしかめる。
「まあ、そりゃあ、そうだよなあ」
少年は大袈裟に肩を落とし、解剖途中のラジオをがしゃり、と乱雑に放り投げる。
ラジオの中には、大量の蜘蛛が巣を貼ったような真っ白い『膜』で満たされていた。回路から配線に至るまで、その全てが白く厚みのある『膜』で包まれていて、もうまともに機能しそうにはない。
こうなっていることを予想していたとはいえ、現実に見てしまうと思っていた以上に悲壮感が溢れてくる。少年は自分に活を入れるかのごとく両頬を叩くと、服に付いた埃を払いながら立ち上がる。
「……どこか、行くの?」
それに気付いた少女が、長い髪を揺らしながら少年を見上げた。
どこか不安げな表情の少女。イヤホンをしているので、言葉で答えても少女には伝わらない。だから少年は、口を閉じたまま首を横に振ることでそれを回答とした。
「いいや、僕はどこへも行かないよ」
返答とは裏腹に少年は少女から離れ、曇天の街中を歩き始める。
間違った回答をしたわけではない。
ただ、どこかへ行くわけではなくて、どこへも行かないという選択肢が少年にはなかったのだ。
武藤学。ムトウガク、それが少年の名前。
初対面の相手にはだいたいムトウマナブ君と呼ばれてきたので、最近では名前は名乗らずに武藤とだけ言うようになった。少女が武藤のことをムノーと呼ぶのにもそれが一因となっていた。無能な武藤、だからムノー。ひねりも何もない短絡的なあだ名を武藤は嫌っていたが、それを正面から否定することはしなかった。
なぜなら、不躾なあだ名でさえも自分が存在している証拠になるからだ。
「酷い有様だ」
武藤は呟く。彼の歩く街並みはその多くが白い『膜』に覆われている。ベンチで寝ている人、古めかしい郵便ポスト、誰もいないイタリア料理店。街中の至るところが蜘蛛に生け捕りにされたように、白い布を思わせる『膜』で包まれてその動きを止めている。武藤を初め、ほとんどの人がこの現象を『繭化』と呼んでいた。
なぜそう呼ぶのかは定かではない。十数年前にこの現象が始まってから、ある時誰かが急にそう言い出した。気付けば誰もが『繭化』と呼んでいた。その呼び名の起源など、誰も気に留めなかった。
繭化の原因は知れていない。気からくる病という学者が居れば、感染症の一種だとする医師も居る。
だが、そうではないのだ。そういうことではないのだ。
武藤はそれが分かっているからこそ、何もかもかなぐり捨てることにした。
今まで住んできた街は、結論から言えば手遅れだ。大部分が白い膜で覆われていて、ほぼ完全に活動を停止してしまっている。膜を剥がしてしまっても無駄だということは武藤も分かっていたので、同じことは繰り返さなかった。
ここに居れば、いずれ自分たちも同じ道をたどることになる。
そう考えた武藤は、少女の元へ戻った後に独り言のように言った。
「旅に出よう」
「旅?」
イヤホンを首に掛けた少女が武藤を見上げる。
武藤は肯いて答えた。
「そう、旅に出るんだ。こんな塩造りのような街にいつまでも住んでると、頭がおかしくなってしまいそうだからね。だから旅に出て、己の見聞を広めようと思う。君は?」
「私、この街から出たことない」
「奇遇だね」
武藤はリュックを原付に縛り付ける。
「僕もこの街から出たことがない。この街の外の世界なんて全く知らない。だから、僕にはそれを見届ける意味がある。君はどうだい明穂。僕はの決意はもう固まった」
ヘルメットを投げ渡して、武藤は言う。
「いつまでもこの街で余計な荷物を背負って『繭化』してしまうか。それとも全てをかなぐり捨てて僕と旅に出るか。僕が君に与える選択肢はその二つだ。もしその気があるのなら、それを被って後ろに乗るといい。嫌ならそれは、そうだね、護身にでも使ってくれ」
言い終わるのと同時に、武藤は原付に跨った。
燃料は満タン、忘れ物もなし。何も補給しなくても、一週間は持つだろう。
その確認をしている隙に、明穂はいつの間にかヘルメットを頭に被り、武藤のそばに近寄っていた。白い膜が張り始めていた耳は、元通りの血色を取り戻している。
「……さて、後悔は」
「あるわけないよ。最初からそうするって決めてたから」
「そう言うと思ったよ、明穂」
武藤は笑って、エンジンを掛ける。
白空の下、二人を載せる原付は街を逃げ出した。