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今日は何月何日だっけ。
毎日毎日同じことの繰り返し。
俺。僕。私?
それを良しとするか悪しとするかは人によりけり。
時間は何も言わずただ傍観しているようだ。

もうこんな時間か。
引きこもりになって早いもので1年半が過ぎた。
幸いなことに死んだ両親が莫大な金を遺産として残してくれていたので、生活には困っていない。
無駄遣いをしなければ一生ニートだって出来るだろう。
部屋には僅かばかりの家具と本。
目的もなくだらだらと過ごす日々。
食事は弁当。
定期契約で1日1回3食分を届けてもらっている。
外に出るのは月に1回。
行先は銀行。
それ以外の日は家で引きこもりだ。
特に不自由はない生活。
不満はほとんどない。
ピンポーン。
呼鈴の音がする。
どうせ隣の家だろう。
もう弁当は届いているからな。
ピンポーンピンポーンピポピポ。
五月蠅い。
静かな引きこもりライフを邪魔することは誰であっても許さない。
文句を言うためにドアを開ける。
すると一人の女性が視界に入ってきた。
「すみませんが、もう少し静かにしていただけないでしょうか。」
口調は丁寧だが感情を込めずに言葉を発した。
「ごめんなさい。ここのチャイムの仕組みがよく分からなくて連打してしまいました。」
女はまあまあ可愛い。年齢は10代後半くらいだろうか。
「私、この度隣に越してきました、田村直子と申します。これからよろしくお願いします。」
女の髪には桜の花びらが付いていた。
花びらを見て今が春だということを知った。
下駄箱の上に置いてあるデジタル時計は4月1日を示す。
「私、大学進学のために上京してきたんです。」
花びらに気を取られて直ぐにドアを閉めなかったせいだろうか、女は語り始める。
「ここから約15分くらいで大学に行けるんです。上知という大学です。」
上知大学。確か同級生が在籍していたはずだ。
女性の比率が高いことで有名だったような。
いけない、早く話を切り上げなければ。
「…。あの俺忙しいんでもう…良いですか?」
「あ、すみません。長話に付き合わせてしまって。お詫びという訳ではありませんが、これ。良かったら。」
どうやらこの女は人が話を聞いていればいつまでも話続けるタイプみたいだ。
女に渡されたのは、綺麗な包装紙に包まれた恐らく菓子の詰め合わせと何かが入ったタッパーだった。
「私、料理をするのが趣味なんです。朝、部屋の確認をしに来た時あなたが宅配お弁当を受け取っているのをみました。お節介だと思うのですが、お弁当だけでは栄養が偏ってしまうので作ってみたんです。良かったら食べてみてください。」
完全にお節介だ。
でも相手はお隣さんである。
ご近所トラブルに巻き込まれたらそれこそ面倒くさい。
「ありがとう。また今度ね。」
「はい。夜分遅くに失礼しました。」
女は隣の部屋に消えた。
液晶画面に映る数字は19:09。
「そんなに遅くないのに。」
受け取ったタッパーに入っていたものは肉じゃが。
栄養バランスとかあんまり関係ない気がする。
一口箸で取り口に運んでみる。
「不味くは、ないな。」
優しい、母親のような味がした。
眠っていた俺の味覚が目を覚ます。
きっとこれが美味しいってことなんだ。
久方ぶりの刺激に心が乱れた。
2, 1

  

気が付くと朝になっていた。
ソファーに座っている間に眠りについてしまったようだ。
昨夜のことはあまり憶えてはいない。
まあ、忘れているということは特に何かが起きたわけではないのだろう。
足元に本が置かれている。
"人と円滑に付き合う方法とは?"
"素直になれない日本人"
「誰だよ。こんな本出した奴は。」
ああ俺か。
いくら引きこもりをやっているとはいえ、いや引きこもりだからこそ部屋は清らかにしておきたい。
不潔な部屋は嫌いなのだ。
本が床にあるなど、以ての外。
整理整頓された部屋でこそ理想の引きこもりライフを送れるというものである。
さてと。
本棚に本を戻し、テレビの電源を入れる。
これもまたいつも通りの日々。
画面には4月2日という日付が表示される。
ついでに時刻は午前8時。
最近のテレビはハイテクだな。
こうして引きこもりの1日はまた始まりを告げる。
それにしても昨日は1日だったのか。
引きこもりをやっていると日付感覚が狂う。
4月1日。
記憶の中のあの人は笑う。
「今日はね、」
そうか、エイプリルフールだ。
エイプリルフールは嘘をついても良い日。
「嘘をついても良い日なんだよ。今日の私は私であって私でないのだよ、諸君。」
お生憎様だが俺には関係のないことだ。
虚言を吐く相手はいないのだから。
俺にはそんな人は。
テーブルに目をやる。
そこには美しい包装紙で包まれた箱が置かれていた。
「これ。良かったら。」
隣に越してきたという女の顔が頭を過った。
女から渡された箱を開けてみることにした。
薄桃色の和紙。
破り捨てるには勿体ない。
が、俺は男だ。
ここは豪快にいくに限る。
包装がズタボロになった時、顔を出したのは小分けにされたかりんとう。
味は桜、抹茶、みたらし、黒糖。
その内の黒糖を手に取る。
「君もかりんとう好きだよね。私ね、かりんとうを食べると懐かしい気分になるんだよ。」
karintou。
カリントウ。
かりん、とう。
水が頬を流れる。
勝手に。
知ってるんだ、俺は。
その感情は忘れて、無くしたことを。
そうでなければならないんだ。
そうでないと俺は…。
場違いな音が切り離された空間を繋げた。
ピピピという目覚まし時計。
不快な声。
俺はかりんとうを激しく床に投げつけた。
そして踏む。
かりんとうはかりんとうであることをやめたのだ。
「ああ、こんなに汚れて。」
掃除をしなければ。
これは、ただの生理現象なのだから。
4, 3

  

「ふー。」
額から汗が一つ、二つ、また滴り落ちる。
掃除は楽しい。
何も考えずただ没頭するだけの簡単な作業。
掃除機のスイッチを押す。
ウィーンと機械が鳴く。
この音はあまり好きではない。
不快な、音。
ピンポーンピンポーンピポピポ。
うっとうしい音だ。
「私、この度隣に越してきました、田村直子と申します。これからよろしくお願いします。」
想起される女の声。
そうか、昨日はあの女に会ったのだった。
名前は、田村とかいったか。
人の名前を覚えることが苦手だった脳が会ったばかりの人間の名前を記録していることに驚いた。
人間の脳はそれなりに優秀であるらしい。
何もせずただ引きこもっていたのだから機能は退化しているはずなのだが。
あ。
女がくれた肉じゃがのことを思い出し冷蔵庫へと向かう。
あった。
ふと壁掛け時計を見ると時刻は12:41。
もうこんな時間。
掃除をしていたからな。
こんなに経っていたのは予想外ではあるが。
部屋は十分に綺麗になった。
「少し、休むか。」
わざわざ声に出して言ってみる。
自分に言い聞かせるように。
肉じゃがが入ったタッパーをレンジの中へ入れる。
今日の昼飯は、これ。
2分ほどしてタッパーをテーブルに置く。
いただきます。
「っ。あっつ。」
少し暖め過ぎた。
正直に言おう、俺は猫舌だ。
我ながらその事実を全く考えていなかった。
情けない限りである。
「ふーふーふー。」
熱いと分かればやることは一つである。
昔、母さんもよくこうしてくれたっけ。
母さん。
それは大切な人。
何かをしてあげたかった人。
何か、とは。

今更そんなことに思いを馳せても仕方ないだろう。
あれは『仕方ないこと』だったのだから。
俺は悪くない。
俺は・・・。
暫しの沈黙。
ただただ肉じゃがを口に運ぶ。
鉛のような味。
前は美味しかったのに。
俺が悪いのですか?
俺があんなことしなけりゃ・・・。
俺が・・・。
ふふっ。
あははは。
はははははははははは。
乾いた嗤い。
そんなノイズが部屋に反響する。
何だろう、笑っているのに目から汁が零れてくるや。
何でだろうね。
何で。
知らぬ間に肉じゃがは消えていた。
そこにあるのは森閑とした空間のみ。
「ごめんね、桜さん。」



椅子にもたれて天井を見上げる。
チクタクと秒針が進む音。
時間は絶対に止まってはくれない。
そうだ。
タッパーを洗わなきゃ。
これ、やっぱり返した方が良いよな。
とりあえず流しに立つ。
洗い物をするなんて久しぶりだ。
引きこもりを始めてからは特に洗い物をする必要がなかった。
弁当を頼んでいたから、ゴミを捨てるだけで良かったのだ。
しかし流しには洗剤とスポンジがある。
いつ購入したのかは自分でもよく分からない。
多分気まぐれだったんだと思う。
過去の俺の心情を今の俺が完全に理解出来るなんて有り得ないことは言わないが、それでもそいつは俺なのだ。
昔も今も俺は俺という一人の人間であることに変わりはないのだから。
ところで、この時間になっても弁当が届いていないのは何故だろうか。
いつもなら大体11時くらいに玄関のチャイムが鳴っていたように思う。
まあいいか。
人間は何も食わなくても約1ヵ月は生きていけるらしい。
水分を取らなければ3日。
弁当をほんの1日食わなくたって問題はない。
このまま1ヵ月放置されるのもそれはそれで面白いのだが。
掃除はほとんど終わってしまったのでやることが無くなってしまった。
本を読もう、そう思って本棚に向かった時。
ピンポーン。ピンポーン。
弁当が届いたんだろう。
玄関へ急ぐ。
ドアを開けると強い日差しが差し込んで思わず目を閉じた。
部屋の中は恒常的にカーテンで覆われていて、何もかもを遮断する。
その居心地の良さに俺は酔っている。
ずっとここにいたい。
|俺をどうか見つけないでください《どうか僕をミツケテクダサイ》。
「今日は良い天気ですね。そんなに目を閉じたら勿体ないですよ。」
誰かの声がしたせいでつい瞳を開いてしまった。
「こんにちは。タッパーの催促に来ました。」
向日葵のような笑みを顔に貼り付けた女がその場にいた。
ああ。
こいつは、田村直子だ。
6, 5

  

ふふ、と女は笑う。
「そんなに驚いた顔しちゃって。私が来たのがそんなに意外でしたか?」
そりゃそうだろ。
弁当の宅配だと思ってドアを開けたら、眩しくて、そして隣の女がいて。
俺でなくともそういう反応をするはずだ。
「少し待ってろ。」
「はい。」
女からは甘い香りがした。
確か流しで乾かした後、綺麗にふいて机の上に置いたはず。
しかし、やはり何か謝礼をした方が良いのだろうか。
本当は受け取る気なんて更々無かったが受け取ってしまったことは事実なのだ。
何もしないのは礼儀としてどうなのだろう。
相手はお隣さんだからな。
せめて表面上だけでも円滑な関係を築いておきたい。
ご近所トラブルでここから追い出されるなんて嫌だしな。
でも俺はほとんど外出をしていないから女が喜びそうな物は部屋には、ない。
悩んでいると本棚が目に入る。
そうか。
本があった。
ここにあるものは本とゴミぐらいだ。
本なら謝礼としては十分だと思うのだ。
いやこれは俺自身が読書を好むからこそ抱いた感情かもしれない。
だが何も渡さないよりはましであろう。
何が良いだろうか。
頭に浮かぶ小説は、人間失格、こころといった俺のお気に入りの作品。
それを渡しても良いのだが有名な作品故、既に読んだことがあるもしくは所持をしている可能性がある。
そこから導き出される答えはこれだ。
"魔女のパン"
オー・ヘンリー作の小説である。
女に対する精一杯の皮肉だ。
"魔女のパン"とは善意で行ったことが仇となってしまう話である。
女はきっと優しい世界で育ったのだと思う。
善意はそれを捉える人間によって悪意にもなりえる。
それをこの話から知ってほしい。
このアイロニーに女が気付くことを祈って。
女も俺も浅はかで愚かでちっぽけな人間でしかない。
誰かのためにを言い訳にして生きていけるほど世界は優しくないんだ。
紙袋にタッパーと本を詰めて女の元へと向かう。
「肉じゃが、美味かったよ。」
「お口にあったのなら良かったです。私も作った甲斐がありました。」
「はい、これ。」
女に袋を手渡す。
「本当は私、タッパーの催促にきたわけではないんです。いえ、そうではあるのですが・・・。」
女は深呼吸をして言った。
本当はあなたに会いに来たのですよ、と。
最初は何を言っているのか、まるで把握出来なかった。
一分ほどの間を経て、漸く女の言葉の意味が理解出来た。
女は不気味にも含み笑いをしながら、そんな俺の様子を観察しているようだった。
俺は女に倣い深呼吸をした後、唇を開いた。
「俺に会いに?」
ただ確認するように、静かに。
「そうですよ。」
そう言って、女は一歩、二歩とこちらへ近づいてきた。
「あなたに会いたかったのです。」
冷汗が背中を濡らしたような気がした。
「悪い、もう帰って。俺これからやることあるから。」
本当はそんな予定なんて無いのに。
ただ部屋に引きこもっているだけだ。
知らない人と関わっちゃいけないと小学生の頃も習っただろ。
ああそれは知らない人について行くなだったか。
どちらにせよ、こんな女と馴れ合っている場合ではないのだ。
どうせエイプリルフールのドッキリか何かなんだろう。
これだから外の人間は、と明確な拒絶の意思が俺を支配する。
「そうですか。では、これを。」
女が何かを差し出す。
「これは?」
「ふふ、敢えて言うことを避けます。お楽しみです。今日はまだお弁当届いていないですよね。」
どういう訳でそんなことを話すのか。
「大家さんから聞きました。いつも11時くらいにお弁当を届けてもらっているのでしょう。」
それはそうだが、そんなことはお前には関係のないことだろう。
「言ったでしょう。お弁当だけでは栄養が偏ってしまいますよと。私があなたの食生活を正して差し上げます。」
お前が、俺の?
「お前、本当にお節介だな。」
「よく言われます。それは寧ろ私にとって褒め言葉なのですよ。」
「俺は好きで弁当を食っているんだ。あんたにどうこう言われる筋合いはない。」
ふと見ると、女の顔から笑みは消えていた。
それどころか、少し険しい顔付になっていた。
「あなたがそうでも、私が困るんです。」
鼓膜が破れるかと思った。
それくらい女の声は大きかった。
「私たち、お隣さんですよね。ご近所さんですよね。お隣さんって助け合って生きるものじゃないんですか。」
早口過ぎて聞き取れない箇所がある。
「私はお隣さんが病気になったりしたらすごく、すっごく悲しいんです。」
「え、あの。」
いつの間にやら俺が女の迫力に怯んでいた。
「だから、私の料理を食べてください。ちゃんと栄養とか考えてますから。」
女と俺の距離は拳二つ分ぐらいに縮まっていた。
視線を下に落とすと女の柔らかそうな双丘が見えた。
でかかった。
「どうか、私のためだと思って。」

結論から言うと、バッと差し出された風呂敷包みを俺はつい受け取ってしまった。
女は満足げに、我が家を後にしたのだった。
「やっちまったな、俺。」
8, 7

  

また朝がやってきた。
昨日女から受け取った風呂敷包み。
昨日は気が進まなかったので全く手をつけなかった。
俺は今から、この包みをほどいてみようと思う。
風呂敷には桜の花びらが描かれていた。
この春を刈り取ると四角い漆塗りの重箱が顔を出した。
こいつ、すましていやがる。
自信があるのだろうな。
さて、蓋を取ってみて中身を見た率直な感想を言う。
ただ豪勢なだけだ。
せっかくの和食だというのに質素にしなくてどうする。
料理は豪華にすれば良いというわけではない。
女は何と言っていただろうか。
栄養バランスを考えていると言っていたはずだ。
ふん、やはり口先だけだったな。
俺の足元にも及ばん。
今でこそ宅配弁当生活だが、俺はこれでも昔は自炊をしていた。
俺の方が田村より料理が得意であることは明らかである。
まあ何も食わずに否定から入るというのも、どうかと思うから味見はしておく。
不味かったら問答無用でゴミ箱にぶち込んでやる。
とりあえずこの煮物から食おう。
約3分の間の後、電撃が脳内を走る。
「な、なんだこりゃ。」
口内に梅の花が咲いたかのような味だ。
梅の味というわけではないのだが、何だろう。
芸術的な味がする。
材料に何を使ったいるかが分からないから的確な比喩は出来ないのが残念だ。
訂正しよう。
女の料理は俺ほどではないが俺の足元に跪ける程度には美味い。
肉じゃがはまぐれかと思ったが、連続して美味いとなると話は別だ。
重箱は4段あったが2段目まで食べると流石に腹も膨れた。
眠い。
先程起きたばかりではあるが、今は己の欲望に素直になろう。
少し、休む。

また春が来て桜が咲く。
「桜が、好きなんだね。」
うん。だってすごく綺麗だもん。
ぼくの家も桜でいっぱいになればいいんだよ。
花びらがぱあってさ。
そしたら父さんも幸せになれると思うんだ。
「優しいんだね。君は本当に優しい。」
彼女の手がそっと小さな身体を抱きしめる。
どうして泣いているの?
「君が、愛しいからだよ。」
花弁が散る、散る、散る。


柔らかい感触。
あの人はいるんだ。
たとえ夢であったとしても。
この人だけはもう二度と離さない。
この世界が永遠に続けば良いのに。
言えなかった言葉を伝えるために、彼女の腕を掴んだ。
「柔らかい…。」
掴んだ、はずだった。
「何が柔らかい!ですか!!寝ぼけてる場合じゃないですよ!!」
「ん…。桜さん…?おれ、俺…。」
「桜さんではありません、直子です。」
「なーこ…?」
「な、お、こ!」
なおこなおこなおこ…。
「もう、いつまで寝ぼけてるんだか…。目、覚めましたか?おーい。」
おーい、おーいと数十回ほど女は俺の肩をゆすぶった。
「てめぇ、らんぼうな起こし方すんじゃねへよ。」
「ふぅ。寝てる時は可愛い顔してたのになあ。」
「なんだとぅ~。」
俺は安眠を邪魔されることは大嫌いなのだ。
意識が朦朧として頭が回らない。
変な話し方になってしまった。
よりにもよって田村直子の前で。
「あと、そのえと。非常に申上げにくいことですが、その、私の胸から手を離してもらえますか?」
「は?」
「だから、あなたの手が私の胸に当たってるんですよー!!」
「あ、ああ。すまない。」
しまった。
どうやら寝ぼけて女の胸を何かと勘違いしてしまったようだ…。
くそ、どうせならもっと触っておけば良かったぜ…。
こいつから風呂敷包みを受け取ってしまったのも、思うにこの大きな胸の魔力によるのかもしれない。
「そういえばあなた、何故あんな場所で寝ていたのですか?」
いきなり可笑しなことを言うもんだ。
「あんな場所?」
「そうです。ここまで運ぶの、大変だったんですから。大家さんにも手伝ってもらって…。」
「ごめん。全く記憶にないんだが。」
昨日の行動の記憶を辿ってみる。
「お酒でも飲んでたんですか?二度目はないですからね…。」
「俺、どこで寝てたの?」
「私の部屋のドアの前です。体育座りでグテーっと。」
おかしいな、部屋で寝たはずだったのだが。
「どうしたんですか、そんな真面目な顔をして。」
「本当に記憶にないんだ。だから眠りにつくまでの行動を思い出している。」
「やっぱりお酒を飲んで酔っ払ってたんじゃないんですか?」
「そうなのかな…。」
「きっとそうですよ。ふふ。」
何が可笑しい。
「いえ、あなたがお酒を飲んでいる様子があまり想像できなかったもので。次にお酒飲む時には気を付けてくださいね。」
「ああ、心得ておく。今日は迷惑をかけてすまなかった。」
「いえいえ、あ。渡した物、全部食べてもらえたみたいで嬉しかったです。」
俺の記憶では二段までしか食べなかったはずだが…。
「全部?」
「ええ、全部。せっかく腕によりをかけたのに、もしかして覚えていないんですか?」
すまん、完全に忘れているようだ。
「ああ、そうらしい…。すまない。」
「そう何度も謝らないでくださいな。また作ります。」
おいおい、またかよというツッコミはひとまずやめておこう。
どうやらこの部屋まで運んでもらった恩もあるようだし。
「あのさ、美味かったよ。」
「はい。これ、持って帰ってまた詰めてきますね。」
「ありがとう。」
「では、私は失礼します。」
女の髪がさらりと靡く。
シャンプーの香り。
「ちょっと待って。今日の日付だけ教えて。」
「今日ですか?今日は4月7日です。私、明日から大学始まるんですよ。」
4月7日。
「そうなんだ、頑張って。」
はい、と女はまた笑った。
今日だけで何度彼女の笑みを見たことか。
4月7日。
何かが、おかしい。
10, 9

  

いくらなんでも、今日が7日だなんてありえない。
「思い出せ、俺。」
何があったのか。
ちゃんと、きちんと。
「あ、あっああぐ…。」
頭がひどく痛んだ。
痛くて痛くて痛くて。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
頭と胸がまるで誰かに締め付けられているようで、ひどく苦しい。
考えてはいけないような気がする。
身体が自分の行為を拒絶しているのだ。
「はぁっはぁ…。」
疾うの昔に完治したはずの喘息が再発したかのようだった。

よう、久しぶり。
オレは知ってるぜ、お前の苦しみを。
全部オレに任せるんだ。
そう、まずは呼吸を整えて、慣れた手順でさ。
なあに心配するなよ。
今までだってずっとそうしてきただろ?
自分の中に閉じこもって周囲を拒絶した。
お前はずっとそうしていれば良いんだ。
オレが言う通りに。
そうしてりゃ、オレだけは見捨てないでいてやるよ。
だから今は休め。

そいつは残酷なくらい優しい。
そいつの存在に安堵している自分がいることを俺は恨めしく思った。



そこは満開の桜の下。
僕のお母さんはやさしかったんだ。
すっごくすっごく。
お母さんがいたから、僕たち家族はわらっていられたの。
「お母さんに、会いたい?」
僕は…平気だよ。
いっぱいお勉強をしてね、それからね、えっと。
僕ね、お父さんにわらってほしい。
「お父さん?」
お母さんがお星さまになるまえみたいに、あはって。
お母さんに怒られてえへへって。
「お父さん、好き?」
僕ね、わらっているお父さんが大好き。

無邪気な子供の体には小さな痣があった。



ピンポーン。
とあるアパートの104号室の鈴が鳴る。
「すみません、鞄を忘れてしまったみたいなんです。ドアを開けてくださいませんか。おーい。」
バタンと扉が開き、そこから男が顔を出した。
「もう、乱暴に開けちゃ…ダメ、ですよ…?」
「ああ、ごめんね。なんだ直子ちゃんか。」
「え…あの、えっとその…。」
女は自分の直感が告げる違和感に戸惑っていた。
「直子ちゃんなら、良いよね。」
そう言いながら男は女の唇を自分のそれで塞いだ。
女は暫し硬直をしたが、状況を理解すると顔を真っ赤に染めた。
「なんてことをするんですか!!変態!最低!!貴方なんて、知りません!!」
パシーンと頬を平手打ちされる男。
が、それくらいでは怯まない。
「ひどいな、キスぐらいで。」
「なにがキスぐらいですか!!初めてだったのに!!」
女はひどく取り乱している様子だ。
「ごめん、ごめん。オレが責任取るからさ?ね?」
女と比べると男がキスなどに動じていないことは明らかであった。
「お断りします。信じられない、こんな人が本当にいるなんて…。」
「ひっどいなー。こんな色男、オレ以外にいるわけないって。」
首をかしげながら、男はやれやれとジェスチャーをしてみせた。
「そういう意味で言ったんじゃありません。誰ですか、貴方は!!」
どうやら女は男の言動に呆れてしまったようで、地団太を踏みながら105号室へと戻っていった。
「へぇ。珍しいタイプだな。用心しとかねえと。」
また邪魔されたらたまらねぇよ、と男は心の中で呟いた。
やっと桜がいなくなったのに。
次はどうしてやるべきか。
「迷うな。ははっ。」
11

れいか 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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