『すかれない』
|敷島《しきしま》|陽次《ようじ》は、自分が動物に好かれていないことをようやく自覚した。
齢十八にしてようやくである。
というのも、敷島には動物に逃げられた経験というものがまるでなかったからなのだが。
幼少の頃というのは、とりわけ男子に於いては、何かと動物に接する機会の多いものだ(世代にもよるが)。
それは昆虫であったり、魚類であったり、爬虫類であったりもするが、敷島にとっては犬であった。
敷島の実家は一軒家であり、従ってペットを飼うに支障はなく、敷島家の人間に犬を嫌う者はなかった。
となれば幼い敷島が犬を拾って帰り、それを飼育したいと申し出れば、断られることなどない。
晴れて拾われた捨て犬は飼い犬となり、家族の一員……とまではいかないまでも、敷島と元捨て犬は飼い主とそのペットとして分別のついた付き合いをし、十年後、元捨て犬は元犬となって敷島家からいなくなった。寿命だった。
以来、敷島家は犬を飼わなくなった。月並みではあるが、ペットとの別れを繰り返したくないという想いが家族の間にはあったのだ。
代わりと言うには何だったが、敷島陽次は野良猫を可愛がるようになった。
エサをやるでもなく、ただ野良猫を見かけると寄っていって撫でたり、遊んでやったりする。
エサをやらないのは、それが野良猫と遊ぶときのルールだろうと、敷島が決めつけているだけのことである。餌付けは飼育のうちに入るのではと、そういう思考だった。
敷島が野良猫を構うとき、野良猫たちは決して敷島の前から逃げようとしなかった。
やけに大人しく、それこそ借りてきた猫の如くに、敷島にされるがままなのであった。敷島が満足して立ち上がると、金縛りが解けたように駆け出すのが可笑しいといえばそうだった。
ああ、そういえばアイツも、あの何犬とも知れぬ元捨て犬も、家族の言うことなど話半分にも聞いていないようだったが(そもそも犬に話が通ずるものでもないが)、俺の言うことはよく聞くやつだったと、猫と(あるいは猫で)戯れていた敷島は懐かしんだ。
そう、こんな具合に神妙にして、と猫の顎を指でなぞる。猫はそれを、ちらとも動かずに受け入れる。
もふもふで、ふわふわであった。
目を細め、にたりと笑う敷島。私服姿は立派なチンピラと呼ばれる強面の男が、笑うとどうしてもこうなるのだった。
しかし、と敷島は思う。猫をこうして思うさま撫でられるのは、いい。何しろもふもふで、ふわふわだ。だがその猫が、自分の住むアパートの周りからいなくなったのは何故だろう、と。
敷島陽次は今、アパートの一室に住んでいる。安い、1Kの部屋だ。せめても風呂とトイレが別なのが、良心的と言えばそうだろう。
実家を出た理由は、至極ありきたりのものだ。高校を卒業し、大学生になるから、という。なったから、でないのは、今が春先であり、高校では卒業式を行なったものの、未だ大学の入学式はカレンダーの幾らか先、敷島の身分が宙ぶらりんで中途半端の状態だからだ。公式には高校生としての身分であろうが、心情は、そうだ。
そのアパートというのが、この時期、猫が良く出た。昼間には中々姿を見ないが、夕刻から夜中まで、どこからか数匹姿を現しては、隣接する駐車場でじゃれている。そこを敷島が強襲し、撫でくる、というのを越して来て猫に気づいてから行なっていたのだが、ここ数日では見かけなかったのだった。
別段、だから気落ちするわけでも、わざわざ探しに出たわけでもないが、夜半にコンビニに出かけて戻る途中で猫に遭って、今こうして撫でている。
俺があすこに住んでいて、やたらと撫でくりなでくりしているのが、猫の界隈で知られたがためだろうか。益体もないことを敷島は考える。
そんな中でそれに気付いたのは、単なる偶然だった。
猫は、いや猫に限ったことではないが、動物は目の前に注視すべき人間がいるのに、|そ《・》|ん《・》|な《・》|も《・》|の《・》|は《・》|ど《・》|う《・》|で《・》|も《・》|よ《・》|ろ《・》|し《・》|い《・》とばかりに、まるで違う方向を|じ《・》|っ《・》と見ることが、ときたまある。
人には見えないものを見るからだなどと|嘯《うそぶ》く者もいるが、このときに限って言えばそう間違ってもいなかった。
ただ、人に見えないはずのものを、敷島は目にしてしまったのだが。
ふとこちらを見ない猫の視線をたどればそこに、異形がいた。
見てしまえばもう、そこから視線は外せなかった。
全体には、長毛の犬のように見える。長い毛は犬ならば目のあるはずの場所を隠し、口も覆ってしまっていてその表情は窺えない(動物の表情が分かるほど敷島は動物観察が得意なわけでもないが)。
だが目も口も、笑っているのがよっく分かった。
喉から腹にかけてだけは地肌が丸見えで、そこに目玉と口が幾つもいくつもついていたからだ。
全ての目は|細《ほそ》められ、全ての口は笑みの形を作っている。
決して優しくはない、獲物を前にした肉食獣の浮かべるような、そんな笑いの――
一つの目玉と視線がぶつかり、敷島はしりもちをついた。
途端、口は全てが閉じられて、|十《とお》ではきかない視線が己に集まるのを感じた。
じり、とついた尻を上げないまま、敷島は後じさりした。したが、その行為に何の意味もないこともどこか理解していた。
|こ《・》|い《・》|つ《・》|は《・》|俺《・》|と《・》|繋《・》|が《・》|っ《・》|て《・》|い《・》|る《・》――!
ならば逃げられようはずもない。
どうすれば――どうすれば。
たんっ、と、軽い音がした、それを見ようと――あるいは異形の多重視線から逃れようと、敷島が音の方を向く――
生ぬるい風が、敷島の頬を撫ぜていった。
向いた先には、先ほどまで遊んでいた猫がいた。動けなくなっていた位置から、少し逃れたような場所で。
べぢん、という音が鳴らなかったかと、処理の遅れている脳が言う。
潰れた音だ。|何《・》|か《・》|が《・》。
犬の脚が見える。長い毛をした犬の、脚。その下に、猫。
そこから広がる液体。
頬にくすぐったさを感じる。ああ、犬の毛が、|文《・》|字《・》|通《・》|り《・》|に《・》|伸《・》|ば《・》|し《・》|た《・》|前《・》|脚《・》に生えた長い毛が、俺の頬に触れている。
その脚をたどるように再び、異形の犬を見る。
犬はまた、笑っていた。顔しか見えなかったが、それで充分だった。
毛を退けるほどに吊り上がった口角と、毛の隙間から覗く瞳の輝きは、人の笑顔によく似ていたから。
敷島が目覚めると、自分の部屋の布団の中にいた。
枕元には、昨晩コンビニで買ってきた飲み物がある。
夢だった、のだろうか。
そう思いたい気持ちは、玄関を開けたところで打ち砕かれた。
上半身が潰れた猫の死体が、玄関前に置かれていたのだ。
主人に獲物を見せるが如く。
それを埋葬した敷島は、齢十八にもなってようやく、自分が動物に好かれてはいないのだと理解した。