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魍魎の匣

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魍魎の匣


地獄の火車がやってくる。
轟轟怨怨燃え盛る。
五臓六腑を七里にばら撒き。
猫引く車がやってくる。


  * * * * * *


にゃーお。
猫がなく。
今日は悲しいお葬式。
愛しきご主人思い馳せ。
猫がなくなくにゃおにゃおにゃーお。


  * * * * * *


僕は、死んだ。
流行病だった。
その病は、とても熱かった。
躰が燃えるように熱かった。
誰かが汗を拭いてくれている。
でも、次から次へと、止めどなく水分が流れていく。
そして死ぬ直前、僕の躰から突如、熱という熱がざあっと引いた。
その瞬間だけ、僕はこの上なく安心した。
安堵して、死んだ。


  * * * * * *


愛しい愛しいご主人様。
この身を焦がすような愛を感じたご主人様。
あなた様だけを愛しています。
あなたにだけ、この気持ちを手向けます。
ああ、もどかしい。
あなたの躰を清めたい。
あなたの躰にむしゃぶりつきたい。
舐めて舐って、あなたの味を、あなたの血肉を味わいたい。
ああ、側の刃物がもどかしい。


  * * * * * *

目の前には、娘がいる。
周りは、火炎で覆われている。
ここは火車の中だと。
そして娘は、僕の家で飼っていた猫だという。
実に信じがたいが、もうどうでも良かった。
僕は、死んだ。
そう聞かされたからだ。
猫の娘にそう言われたのだ。
流行病で、古呂利と死んだという。
「僕の死後、家はどうなりました?」
「絶えました」
水気のない、乾いた声がそう教えてくれた。
それは目の前にいる、娘の声だった。
「あなた様の後を継いだ男は、それはもう無能でござんした。
 費やす捨てるおまけに潰す。前代未聞のうつけ者でしたよ」
にこりと猫が嗤った。
その男を詳しく話す価値もない、乾いた笑顔がそう物語っている。
「そうですか。僕の一生は、あの人生で築き上げたものは、無意味だったのですね」
人生とはまさしく、燃え盛る車輪のようだ。
どんなに懸命に走っても、結局は燃え尽きて灰になってしまう。
そうなったら、走った跡は残らない。
僕の走った、意味もない。
「そんなことはありんせん。あなたの生きた証は、あなた様が築いたものは、
 ちゃあんと残ってますよう」
そう言って、猫はしなだれてきた。
空空と笑って、水気のない声で僕に囁く。
「あたしの愛は、この、火炎のように激しい恋心は、あなた様が死んでもずうっと、
 残っていましたよ」
乾いた材木のような声に、火が付いた。
そんな音がした。


  * * * * * *


火炎に嘗められながら、僕と女は交わる。
燃え盛る火炎の如く、激しく絡まる。
情欲と獣欲に支配されて、僕たちは動く。
火車の中で、一つとなって、ただただ淫靡に揺れる。
相手が獣であろうと構わない。
所詮僕は死者なのだ。
何と交わろうと、何と一つになろうと関係ない。
罪が重なるのは、生前だけなのだ。
死後、何をしようと加算されることなどありはしない。


  * * * * * *


嗚呼、嬉しゐ。
あのお方と一緒になれるなンて。
ずつと、ずうつと、お慕ゐ申しておりました。
あの邸ニ居憑ゐた時から、あなた樣だけをずうつと。
嬉しゐ。嬉しゐ。あゝ嬉しゐ。
この上なき幸せ。
慾しゐ。慾しゐ。
あなた樣とのお子が慾しゐ。
愛の證を、戀の證明を。
生きてゐた時でハ、決して結ばれなかつたあたしたち。
あゝ、無上の喜び。


  * * * * * *


「ここが火車の中だということは、僕は地獄行きなのですね」
死装束を纏いながら、僕は尋ねる。
綺麗に生きてきたつもりもないから、既に確信もしている。
「ええ、この車の行き先は地獄でござんす」
衣服を直しながら、猫の女は答えた。
「本来は、ね」
「本来は?」
どういうことだろう。
まさか、特例で極楽へ連れて行ってくれる火車だとでも言うのか。
そんな馬鹿な話はない。
「勿論、極楽行きでもありんせん」
「では、何処に?」
「どこにも」
ねとりと、女は僕を見た。
「どこにも?」
「どこにもいきません」
粘ついた目が、僕を絡めとる。
「何処にもいかないって、本来は地獄に行くのだろう?」
「ええ、本来は。しかし、何事も例外がございます。
 そして何より、罪人を閉じ込められるのならば、
 別に地獄でなくても良いではないですか」
猫がぬらりと、また僕にしなだれた。
「ねえ、ご主人様。ずうっと、ここであたしと一緒に居りましょう?
 ずっと、あたしを組み敷いてください。あたしに子をください。
 二人の子をここで育てましょう?」
目を細めて、妖艶に女は微笑する。
車内の火炎がちろちろと猫を照らして、その真っ赤な唇が、更に紅く見えた。
「……そういう訳にはいかないだろう」
とても魅力的で、淫靡で、抗い難い誘惑だった。
でも、なぜか、僕は否定の言葉を出した。
一度交わって、何を躊躇する必要がある。
しかし、なぜか、僕は。

一瞬だけ、残してきた妻のことを思い出してしまった。

小さな刺のように、罪悪感が突き刺さる。
じくじくと、痛みが広がる。
一度認識してしまったら、目を背けることはできない。
残していった妻はどうなったのだろうか。
家が潰れて、路頭に迷ってしまったのだろうか。
それとも縁故を辿って、どこかに身を寄せることができたのだろうか。
心配事が、次々と頭のなかに広がる。
あの、純朴で、素直すぎる妻は、どうなったのだろうか。
「猫よ」
「なんでございましょう?」
「僕の妻は、どうなったのだ?」
「そんなことを聞いてどうする」
声色が変わった。
さっきまでの、粘ついて、乾いていて、媚びるような声とは打って変わった、
地獄の業火のような声だった。
「あの女のことなど知らない。あなたが知ったところで何も出来ないではないか」
「確かにそうだ。でも、彼女がどうなったを知るくらい良いではないか」
「そんなことは許さない」
獣が唸るような声を出して、猫は激怒している。
僕はこの女が何かを知っていると勘付いた。
そしてなんとか、聞き出そうと思ったのだ。
「猫よ、もし教えてくれたら、僕の憂いは無くなる。
 そうしたら、君と一緒に暮らすのだってなんの問題もない。
 しかし、このまま一緒になっても、お互いの隠しごとで軋轢が生じるかもしれないだろう?
 今後のためにも、教えてはくれないだろうか?」
「それは、教えたら、あたしとずうっと一緒にいてくれる。
 夫婦になってくれるということですか?」
女は、その丸い頬を林檎のように赤らめて僕を見つめた。
水気の滴るその目は、まるで宝石のように煌めいていた。
「ああ、勿論だよ」
「ああ、ならば教えましょう。喜んで教えましょうとも」

「あの女は斬首刑に処せられました」


  * * * * * *


こんなにも、汗を滴らせて、お可哀想に。
息も絶え絶えで、苦しそうです。
汗を拭いても汗を拭いても、何度拭いても噴き出してくる。
水を呑ませても、躰は一向に冷えやしない。
なんて苦しそう、なんてお辛そう。
わたくしは学がないから、どうしたら楽になるのかわからない。
お医者様の言葉では、いずれ死を迎えると、おっしゃっていたわ。
いつか亡くなるその日まで、この苦しみが続くのだろうか。
それはあまりにも不憫だと、わたくしは思った。
ならば、せめて。
不出来な妻だったわたくしに、最後の恩返しを。
こんなわたくしを愛してくれた。あなたに。


  * * * * * *


言葉が出なかった。
「さあ、ご主人様。あたしを愛して、あたしとまぐわって。あたしたちの子を作りましょう?」
何事もなかったかの如く、猫は僕に求愛する。
僕はもう何も聞くことが出来なかった。
「ごめん。
 ごめん。
 悪いが、それはできない」
もう僕は、そんなことをできる状態ではない。
早く、早く行かなければ。
「え?なぜ?なんでそんなことを言うのです?
 だって、教えたらあたしと」
「そのつもりだった、どんな結果であれ、受け入れるつもりだった。
 でも、ごめん」
僕は地獄へ落ちなければならない。
地獄へ行かねばならない。
あの女に、あんなことをさせてしまった僕の責任を、取らねばならない。
「そんなことは許さない!」
猫が怒鳴る。
目を見開き、口からは火炎を吹くかのように言葉を吐き出す。
「教えたら一緒になってくれると言ったではないか!
 あたしとの子を作ってくれると言ったではないか!
 嘘つき!嘘つき!
 憂いもなくなって!幸せに過ごせるといったくせに!」
叫ぶ、怒鳴る、狂乱する。
地団駄を踏んで猫が怒り狂う。
「ごめん」
僕は猫から目を逸らし、外へ向かって走りだす。
すると、転んだ。
「許さない」
何が起こったのかわからなかった。
脚が、引き裂かれ、切り取られていた。
「他の女のところに行く脚なんて、許さない」
もぎ取った僕の脚を、猫は外に放り投げた。
僕は腕だけで外を目指した。
すると、地面に顔を打ち付けた。
腕が、切り取られ、引き裂かれていた。
「他の女を抱こうとする腕なんて、許さない」
捻じ取った僕の腕を、猫は外に放り出した。
「これで、あなたはあたしだけ。あたしだけのもの」
死者故に、痛みは感じない。
だが、心が痛かった。
地獄にすら行けぬ我が身が痛かった。
快楽に溺れる心が痛かった。
ごめん。
僕は、この燃え盛る匣の中で、永遠に不義を重ね続ける。
2

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