「カシマがですか?」
職員室で話を聞いたヤマベの胸はざわついた。
「ええ、保健室にもいなくて」
「じゃあ、私が探しますよ。ヤマモト先生は授業に戻ってください」
職員室を出て、カシマキミコが行きそうな場所を考える。
すぐに屋上が浮かぶ。
屋上で向かい合った昨日のキミコを思い出す。真っ赤な顔をしていた。勇気を振り絞ったに違いない。泣き出しそうな声の言葉。
女同士であることを否定する気はない。しかしそれ以前に、彼女は生徒で自分は教師なのだ。
彼女の思いに応えることはできない。今までもそうしてきた。いずれ彼女の中でもその思いは少女時代の思い出となって、微かな感傷だけを残すだろう。
自然屋上へ向かっていたヤマベの足が止まったのは、その思考に微かな物音が割り込んできたためである。
耳を澄ますと、それは人の声のように聞こえた。音を辿ると、理科室から聞こえてきているようだった。この時間はどのクラスも使っていないはずだ。ヤマベはキミコが科学部であったことを思い出した。
入口に近付くと、話声が耳に入った。
――あーあ「いちじに」しちゃった。二人になっちゃった。
――彼の能力にはいつも呆れるね。肉体は壊せても物は壊せないなんて。
――あははは、乱暴者の癖に木のドア一枚壊せない。
二人で話しているのだろうか。しかしどこか不自然だった。そしてその声はどちらもキミコに似ていたが、話し方がまるでキミコと違った。またその会話の他に、別のうめき声が漏れ聞こえてくるのだった。
ヤマベはドアについた窓から、そっと理科室の中を覗いた。実験机の上にキミコが腰かけているのが見えた。
そのキミコの手が誰かの髪の毛を掴んで、その頭を桶の中に押さえこんでいる。押さえこまれている方が必死でもがいている。しばらくそうした後、キミコはその顔を桶から引き上げた。ヤマベにもそれがカオリの顔であることが見えた。カオリの顔は濡れて光を反射していたため、ヤマベは桶の中の水で窒息させているのだと理解した。
しかし実際、それは水ではなかった。
ヤマベはすぐに飛び込んで止めるべきであったが、普段のキミコとあまりにかけ離れた行動を目の前にして、体が硬直した。
引き上げられたカオリの顔が、悲痛なうめき声を上げる。
――声、出るようになってきたね。
――しようがないさ。損傷は治しているから、痛みで麻痺しているだけなんだ。
――はぁい、じゃあもう一回うがいしようね。
キミコが実験机の上の茶色い瓶を手に取り、喘いでいるカオリの口に注ぎ込んだ。瓶には「硫酸」と表示されている。カオリが激しく喉を鳴らし暴れるが、その体を掴むキミコの手は微動だにしない。液体が口の中でぼこぼこと泡立つ。
――はい、ぺーしましょ。
キミコがカオリの頭を強引に押し下げると、口から液体が桶の中にだらだらと垂れ落ちる。カオリは悲鳴を上げるが喉がかすれて声が出ない。そのまま桶の中にまた頭を押し込まれる。
怖ろしい熱さで焼かれるような痛みがカオリの顔面を支配する。顔の皮膚がべろべろになり侵されていくのがわかる。カオリはすでに失禁している。何度繰り返されても、新鮮な苦痛が彼女を襲った。
カオリには信じられないだろうが、桶から引き上げられる彼女の顔は全く傷付いておらず、健康な皮膚がただ濡れているだけに見えた。制服の首元が腐食して崩れてきていることだけが、彼女の潜らされているものがただの水ではないことを証していた。
「やめ、てぇ」
次に顔を引き上げられた時、カオリの口から言葉が漏れた。痛みで麻痺した喉は絞り出すように微かな、そして聞き取り難い声しか出さなかったが、確かにその声は言っていた。
「やめ、てぇ」
――え? なぁに?
「やめ、てぇ」
――本当に止めて良いの? 私は止めない方がいいと思うけど。
「やめ、てぇ」
キミコはカオリの頭をもう一度桶の中に浸した後、ふっと息を吐いて、カオリの髪の毛から手を離した。
途端にカオリの顔が赤く焼け爛れ、皮膚が崩れ出した。カオリは叫び声を上げたがベロベロになった喉の内部組織がぐちゃぐちゃと絡んで奇妙な嗚咽が漏れるばかりだった。
カオリの顔に起こった急変を見て、ヤマベも我に返った。事態は近い出来なかったが、固まっていた体が動きだし理科室に飛び込んだ。
「何をしているのっ!」
キミコが振り向く。驚く様子もなく、微笑む。
すぐにカオリに駆け寄ろうと思っていたヤマベは、キミコの表情に一瞬、たじろいだ。
その隙に、キミコが介抱するようにカオリを支え、そのまま水道まで導いた。キミコが蛇口をひねって緩やかな水を出す。
――洗い流すと良い。
カオリに囁いて、体から手を離すと、キミコはヤマベの方に近付いた。
昨日までのキミコとは似ても似つかない雰囲気に、ヤマベは思わず一歩後退する。
キミコの背後でカオリが声にならない悲鳴を上げて床に転げ回った。硫酸に水を入れると水和熱が発生する。カオリの顔の上で沸騰した水が飛沫を上げた。
咄嗟に駆け寄ろうとしたヤマベをキミコが立ち塞ぐ。
キミコの顔には相変わらず微笑みが浮かんでいたが、ふとその顔から表情が消えた。
――今何か言った?
――いいや、何も言っていないさ。
ヤマベの方に一歩近付こうとして、出しかけた足をキミコは止める。
――また。
――私は何も言っていないが。
――ダメ。
――ほら、今の声よ。
――誰だい? 一体。この娘の中にはもう私達二人しかいないはずだが。
――ダメ、先生を襲っちゃ駄目!
――あれれ、これってもしかして!
――おいおい、この娘、魂が残ってるぞ!