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人物
男(タケダ)
女1
その夫
ナース



※戯曲中、二段に組まれた部分は上下同時進行で行われる。

 舞台上にはいくつかのドアが並んでいる。上手側にはアパートと思われる建物が見える。下手に電柱が一本立っている。ノックの音が数度聞こえたのち、男、下手から登場。そわそわしながら下手側の建物のドアをノックする。

男   すみません。すみません。

 返事が無い。男はごく軽い足踏みをしながらしばらく待つが、やはりドアが開く気配は無い。見切りをつけて隣家まで早歩きし、またドアをノックする。

男   すみません。すみません。
女1  …………
男   (もう一度ノックして)すみません、すみません。
女1  ……(ドアを閉めたまま応対する)どなた。
男   あの、お手洗いをお借りしたいのですが。
女1  …………
男   (語調を強めて)あの、お手洗いをお借りしたいのですが。
女1  どなた、と。
男   は?
女1  どなた、と私はお聞きしたのですが。別に、何の用件かお聞きした訳ではありませんで。
男   えっと、あの、(アパートを指さしながら)あそこの……
女1  「あそこの」ではわかりませんので。ドア越しにお話ししているものですから。
男   あ、はい、では、あの……
女1  (話を遮って)もっと簡単に。
男   はい?
女1  もっと簡単に、あなた自分が誰かを伝える方法があるんじゃなくって?
男   はあ(半ばうわの空である)……
女1  ときに、あなたお財布はもってらして。
男   あ、財布、ええ、持ってますが。
女1  「が」、何ですか?
男   え?
女1  「持ってますが」と来たんです。後に来る文章には逆説の内容が入っていて然るべきだと思いまして。
男   ああ、いや、そういう意味では。
女1  「そういう意味では」、何ですか?
男   ああ……そういう意味では、(以下強調して)ありません。
女1  そうですか。じゃあさっきの逆説についてご説明下さいませ。
男   はい?
女1  「財布、持ってますが」、「が」、何ですか?
男   ああ、それは、その、すいません、お手洗いの後ではいけませんでしょうか。それに、日が落ちて、どんどん寒くなってきておりまして……
女1  ……それも考えたんですがね、この調子ではあなた、うちに上げてもお手洗いに入るまであと四、五回何かありそうよ。
男   そんなに、ですか。
女1  ええ。それに、ひとつ問題を解決しても、その前の問題に戻らなくちゃいけないでしょう。
男   はい、今のように。
女1  でしょう。今だってまだ、あなたがお財布を持っているかどうか、私がドア越しにお話を聞いている限りでは定かではありませんものね。
男   ええと……それなら、あなたがドアを開けてこちらへいらしたら良いのでは……
女1  「では」
男   「では」、ないでしょうか?
女1  (嘆息)日本語って、とかく難しいわね。
男   そのセリフはせめて私に言わせて下さい。
女1  そうね、じゃあ出ようかしら……
男   (これ見よがしに)「そうね」、とは?
女1  は?
男   今の「そうね」、これはさっきの私のどの会話に対する「そうね」何です?
女1  ええと……
男   つまり、「ドアを開けてこちらにいらしたらどうですか」という勧誘、と言いますか、(下腹部をさすりながら)この喫緊の事態においてはもうほとんど懇願なんですがね、これについての「そうね」であるのか、それとも、「そのセリフはせめて私に言わせて下さい」、これについての「そうね」であるのか、どちらでしょう?
女1  そうね…………
男   さあ、私の膀胱が言うことを聞かなくなる前に!
女1  …………ダブルニーミングよ!
男   えっ?
女1  ダブルニーミングです。私、その瞬間に機転を利かして二つの状況にまとめて「そうね」で返答致した次第でございますわ。
男   何という……もしや、会話検定を持っていらっしゃる?
女1  何です?
男   日本会話検定です。日本会話検定委員会が主催している。
女1  日本会話検定委員会……
男   そうです、日本会話検定委員会。
女1  そんな検定、持ってませんわ。
男   なんと、もったいない。
女1  そうかしら……
男   これを機に、受けてみてはいかがです?
女1  日本会話検定を?
男   ええそうです。準一級。どうです?
女1  どうですって言われても…………ねえ。
男   いいえ、そう言わずに。
女1  (「隙あり」と言わんばかりに)「そう言わずに」、とはどう言わずに、ですか?
男   (表情を変えずに)と言いますと?
女1  だって今、あなたのお誘いに、「ねえ」ってお返ししただけですわ。「ねえ」に対して、「そう言わずに」も何も、ねえ。
男   (大げさに)出た! 「ねえ」重ね!
女1  何です?
男   いやはや、よっぽどの実力者。
女1  どういうことかしら?
男   いえ、ね、ですから、あなた、わたし、あなた、とこの連続する会話のうちに「ねえ」を文末で二度使ったでしょ、あなた。
女1  無意識ですわ。
男   本当ですか!
女1  ええ、会話の語尾なんて、意識的に使っていたら気が狂いますでしょう。
男   驚きました。公式テキストでも最後に扱う項目なのに、あなたときたら、無意識でお使いになる。
女1  はあ……公式テキスト?
男   ええ。(カバンから分厚いテキストを取り出して)こちらね、(ぱらぱらとページを捲りながら)このように検定内容が過不足なくきっちり詰め込まれているほか、ビジュアル資料も充実していて……あ、すいません。ご覧になれないんでしたね。何でしたら目次、最初から読み上げましょうか?
女1  結構です。
男   ま、そう言わずに。『日本会話検定委員会主催 日本会話検定公式テキスト』対象、日本会話検定八級から一級までを受験しようと考えている方。このテキストの特色……
女1  結構です!
男   ……そうですか、ではこのくらいにして。いや、なに、確かにこちらのテキストは分厚いんですがね、この内容で二千三百円ですからね、非常にお買い得だと思いますよ。
女1  それより……
男   それより、ああ、特典が気になりますか。そうですね、現在公式テキストお買い上げの方には……
女1  (遮って)違います。それより、あなたお手洗いは?
男   はい。
女1  あなたさっきからお手洗いに行きたかったんじゃなくって?
男   ああ、そうですが。
女1  言うこと聞かないんじゃなくって?
男   はい?
女1  膀胱が……あなたの膀胱、言うこと聞かないんじゃなくって?
男   ええ、そろそろ。
女1  じゃあ私の言うことに従ったらどうかしら?
男   いえ、ですから、言うこと聞かないんですよ。
女1  ……それは、膀胱でしょう?
男   ええ、膀胱が、です。
女1  だから、私の言うことを聞けばって。
男   ですから言うことを……
女1  膀胱が! 言うこと聞かないんだったら、あなたは! 私の言うこと聞けばいいんじゃないの?
男   そうしたいのはやまやまなんですが……
女1  「ですが」、何なのよ。
男   せっかくの機会ですから、どうしてもご紹介したいんです。
女1  公式テキスト?
男   と、いうよりは、日本会話検定の受験を考えて頂けたらなあ、と思いまして。
女1  日本会話検定委員会主催の。
男   よくご存じで。
女1  (ムッとして)前に聞いたおぼえがありまして。
男   そうですか、でしたら話が早い。(と、カバンからファイルとペンをを取り出して)こちらの受験票にご記入頂いて……
女1  だからドア越しで話しているんだから見えないって言っているでしょう?
男   あ、そうでございましたね。では、失礼致しまして……(とおもむろにドアを開けようとする)
女1  ちょっと、何やってんのよ。
男   いえ、ですから、改めてご案内を……
女1  やめてよ。

 そのまま男と女1、ドアを引き合うようなかたちで揉み合いになる。

女1  やめなさいって
男   そんな言い方よして下さい、私たち、初対面なんですから。
女1  初対面だから、何なんですか。
男   初対面ですから、もう少し……
女1  だいたい私たちは顔も見てないんだから、初対面かどうかもわからない訳でしょう。
男   推定初対面ということで。
女1  何ですの、それは。
男   現代日本の刑事法下では有罪が宣告されるまではいくら疑わしい容疑者であろうと無罪だとされるんですからね、それと同じです。
女1  同じって、あなたね。
男   私たちもすでに面識があるかどうか、それが確定するまでは初対面だと、そういうことです。
女1  じゃあ、あなたの理論に従えば、街中をひとりで歩いている女性はみんな推定処女だということになるわね?
男   ええ、推定処女に推定童貞です。
女1  馬鹿馬鹿しい。
男   何をおっしゃいます、わたしだって、あなただって、推定童貞に推定処女ですよ。
女1  うちには主人がおりますから。
男   ご主人をまだお見かけしていないものですから。
女1  子供だっております。
男   実際に見てみないことには……
女1  それに、私はともかく、あなたが推定童貞だって、どういうことなのよ。あなた、自分のことくらいわからないの?
男   自分のことは、自分が一番わかりませんからね。
女1  …………
男   しかしねえ、あなた。それでは議論が進みませんでしょう。
女1  議論? あなたと議論しているつもりは無かったんですが。
男   無かったとしてもです。AとBとがそこに居て、二人が互いに自論を述べ合ったその途端に、二人はまぎれもなく議論をしたことになるんです。
    さ、おうちに入れて下さい。議論し合った仲じゃないですか。
女1  嫌ですよ。
男   どうして? 議論までしたのに!
女1  議論なんかしてませんよ。
男   いいえしましたよ。
女1  してません。
男   しました。
女1  してません。
男   (「墓穴を掘ったな」と言わんばかりに)今したじゃない! あたしが議論したと言ってるのに、あなたは「議論してない」、言い張ったじゃない。論じ合ったじゃない!
女1  (困惑して)そ、そうだったかな……
男   議論したかどうかについて、今、議論したじゃない、(余韻で歌い出す)あなた約束したじゃない……逢いたい
女1  歌わないで下さい。
男   いいじゃないのよ歌ぐらい。日本国憲法でも保証されてるでしょ。
女1  どこでされてるんです?
男   ……わかんないけど、されてますよ、きっと。なんか、十四条くらいに……こう、「歌唱の自由」とかいって。まったく、いちいちしつこい男よね。いいじゃない、歌うくらい。
女1  男じゃありません。
男   推定男よ。
女1  またまた……
男   どうせ何人もの推定女たちを泣かせてきたんでしょう。
女1  (一瞬戸惑って)え?
男   何ですか。
女1  今の表現に、聞き捨てならないものがありまして。
男   聞き捨てならない? ああ、そういえば、「ききずてならない」の「ず」は「つ」に点々がつくのか、「す」に点々がつくのか、難しいところですよね。私小学生の頃ね、鼻血が「ち」に点々なのに布地が「し」に点々だという事実に憤慨したことがありましてね、だって、おかしいでしょう? 鼻血は鼻からでた血だから「ち」が濁って「はなぢ」、これはよくわかります。ですがね、布地は布の材料、生地、いわゆる地でしょう。地、これすなわち漢字で書くと土偏のあれですよ、「ち」じゃないですか。それが濁って「ぬのぢ」なんだから、これも「ち」が濁るべきなんですよ。
女1  ……確かに。
男   「確かに」なんですか?
女1  確かに、そう思います。
男   そこまで言って頂かないと。大事なところなんですからね、今度は私に同意して頂けるのか、それともまた議論することになってしまうのか……
女1  待って下さい。さっきも言った通り、私あの議論に関しては議論していたつもりでは無かったんです。
男   ですから言ったでしょう。つもりが無くても議論していれば議論していることになってしまうんです。あなた、今、「生きていたい」って思います?
女1  はい?
男   ね、特にそんなこと意識してなかったでしょう。でもね、あなた今生きてるんですよ。
女1  そりゃ、生きてますけど……
男   「けど」、何ですか? 生きてることに何か、留保が必要なんですか?
女1  留保って、そんな……
男   (嘆息)ねえ、日本語ってとかく難しいでしょう。
女1  …………
男   今ならテキスト、三十パーセント引きに致しますよ?
女1  要りません。
男   そうですか……
女1  あなた、お手洗いに行きたいんでしょう?
男   ええ。
女1  私がにべもなくあなたのお誘いをお断りした今、もう余計な商魂抜きでお手洗いを借りたい欲求と向き合えるんじゃなくって?
男   …………
女1  あら? どうしたの? ちょっと
男   …………
女1  ちょっと、大丈夫? まさか……やめてちょうだいね、人の家の軒先で……(と、ドアを少しだけ開けて様子をうかがおうとする)
男   確かに!
女1  な、何です?
男   確かに、今なら、純粋にお手洗いを借りたいと思える! 思えます! (開きかけたドアに手をかけながら)ありがとうございます、ありがとうございます。
女1  (べたべたと触れる男の手つきが気持悪く、反射的にドアを閉める)いやっ
男   ……裏切ったんですか。
女1  裏切るだなんて、人聞きの悪い……

 とそこへ、女1の夫が下手からやって来る。なんとなく話を聞いていたようだ。

夫   あんた、何してるんだ。
男   あなたには関係ないでしょう。
夫   大いにあるね。そこはうちだ。
男   あ……ご主人でしたか。(女1に向かって)奥さん、今、あなたを奥さんと呼ぶ根拠ができましたよ。
女1  何ですって?
男   ですから、あなたの推定処女が、消えました。
夫   処女? 何の話をしているんだ君は! というか、まず、何の用だ。
男   彼女……いや、奥様が、私を入れてくれないんです、その……私お手洗いをお借りしたかったのにも、かかわらず。
女1  あら? 過去形なんですね。
男   あ、いえ、お借りしたい気持ちは、今も変わりありません。
夫   そう…………入れてあげたら、いいんじゃないの?
女1  ええ、私もそう思いましたよ、最初は。
夫   どういうことだい?
女1  まあ、あなただけでもお入りになったら。
夫   そう、かい。
男   待って下さい。それは……少し、不公平なのでは。
夫   うん?
女1  さ、いいから、あなた……(と、ドアを開けようとする)
男   いいえ、いけませんよ(開きかけたドアを押さえる)。私なんてかれこれもう……十分近くここで待たされてる訳ですからね。
夫   おい、ユミエ、それはどういうことだ。
男   そうですよユミエさん。
女1  名前で呼ばないで下さい。
男   なぜです、今までは奥様のお名前がわからなかったので「奥様」とお呼びしていたまでのことです。推定奥様です。
女1  何よ、あなたはさっきから推定、推定って……
男   奥様のお顔を拝見しておりませんので、推定するより仕方が無いのです。
女1  でもあなた、それじゃあ居るか居ないかもわからない私に向かって、よくお手洗いを借りようとする気になったわね。
男   …………そういえば、そうだな……
女1  それに、私の家にお手洗いがあるかどうかもわからないというのに。
男   本当だ……
女1  推定お手洗いじゃない。
夫   何言ってんだ。
男   確かにそうですが、奥様……いいえユミエさん
女1  無理して言わないで。
男   奥様、の家にお手洗いがあるだろうという、一種の、信頼とでもいいましょうか、その……下腹部の圧迫感から来る一種の懇願……懇願から起こる一種の信頼……とにかく、奥様が入れてくれさえすれば……
女1  よしんばうちにお上がりになっても、うちにお手洗いが無かったらどうするの?
男   あきらめが、つきます。
女1  やだ! 汚い!
男   いえいえ! そういうことではなく、あ、ええと、圧迫具合によっては……ですが、できる限りのことはします。
女1  何をするの?
男   例えば……その、お隣にきくとか……
夫   隣には、お手洗いはあるのか?
男   あ……それも、まあ、わからないですが。
女1  じゃあどうするの?
男   聞くと、思います。
女1  お隣にも?
男   はい。
女1  うちと同じように?
男   そうです。
女1  それは、あまりにもひどいんじゃないかしら?
男   どういうことですか?
女1  だって、今、あなたうちにお手洗いがあるっていう信頼を、他でもないこの私に持っていてくれたんじゃないの?
男   はあ、はい。
女1  それなのに同じやり方でお隣にも聞くの? 私だろうが他の誰だろうが同じようにするの?
夫   そうだよ、君。うちだろうが他だろうが関係ないんだったら、うちじゃなくてもいいじゃないか。
男   はあ。
夫   うちである根拠は無いの?
男   ええ……その……
夫   困るなあ。そんな浅薄な気持ちでうちのトイレを借りようっていうのは。どうなの。
男   確かに……その通りです。
女1  あなたねえ、自分にこう、何か行動の指針となるような大きな軸っていうのは無いわけ?
男   軸、ですか?
女1  そう。行動の軸。
夫   トイレを借りるんだって、何軒もある候補のうち、何処で借りるのか。君はそういうものを選ぶ時、何を基準にするの?
男   基準……ですか。
夫   何もそんな細かいことじゃなくてもいい。人生の大きなスパンで、どうやって生きていこう、とか、こういう方向で動いていこう、とか、何かないの?
男   そうですね、あまり、はっきりとは。
女1  同じなんですよ。
男   はい?
夫   お手洗いを借りる家のことで迷う。人生の大きな方向性で迷う。細かいことでも、大きなことでも、つまるところ同じなんです。
男   同じ……なんですか。
夫   だってそうでしょう。結局構造は一緒なんですから。札幌の場所が分からない人も北海道の形が分からない人も、日本地図を見れば一緒に解決できますでしょう。
男   ああ、確かに。
女1  もう……(とドアの隙間から夫を見る)
夫   なあ(と女1を見返す)。
    それで、ねえ。
女1  ふふ(と笑う)。
男   はあ。
夫   君は、神社には行くかい?
男   神社ですか……
夫   そう。何も、日常的に行くとか、そういうことじゃなくてだね、初詣とか、厄払いとか。
男   ああ、行きます、それなら。
夫   鳥居くぐるとき、何処を通る?
男   ああ、それは、聞いた事ありますね。真ん中は神様が通るから通っちゃダメだって。
夫   そうそう。よく知ってるねえ。
男   いやあ、そうですかね。
夫   (女1に向かって)ねえ、知ってるよねえ。
女1  よくご存じです。
男   そう、ですか。
夫   それが分かってるなら、話早いよな。
女1  早いですよ。
男   何の、話ですか。
夫   いやあね、その……神様には、いろいろと種類があるってのは、聞いた事ある?
男   ああ……言われてみれば、何となく聞いた事あるような。
女1  十一月は神無月だから、全国の神様が居なくなるとか、聞くでしょう。
男   ああ、はい、聞きますね。
夫   そういうことだよ。お稲荷さんとか、七福神とか、現人神とか、言うでしょう?
女1  最後のはちょっとどうなのよ。
夫   何だい。
女1  最後のはちょっと違うんじゃないのって。
夫   そうかなあ。
女1  そうじゃありません?
夫   いやあ……それは僕にはちょっと理解し難いけど……

 静かに険悪になっていく二人を男が止めに入る。

男   ああ、その、こういう話は、ややこしくなりますから、また、そのうちに……
女1  どこがどういう風にややこしいのかしら?
男   え! あ、いや……そのう、ねえ(と夫を見る)
夫   そうだよ、どこがややこしいか、君の私見を聞かせて欲しいね。
男   …………(たまらず目を逸らす。しかし視界に女1が入る。)
女1  ほら。やっぱり。
夫   やっぱりねえ。
男   はあ。
夫   軸が無いんだねえ。
女1  無いですね、軸が。あなた脊椎、ちゃんと持ってらっしゃる?
男   脊椎ですか? (背筋を伸ばしたり丸めたりしてみる)ええ、多分、あると思うんですが。
女1  「ですが」?
夫   ほら。君の話し方からも出てるよ。背骨への不信感が。
男   背骨への不信感……
女1  軸は必ずしも外部に無くてもいいのよ。それは身体の内部にだってあるんだから。
男   背骨が、内部の軸ですか。
夫   それは、そうでしょう。ラジオ体操に、こういう動きがあるでしょう(と、「腕を振って身体をねじる運動」をやってみせる)。

 男、夫と一緒にやってみるが、大きく振ったあと、どうも腕が逆になってしまう。

夫   ほらね、合ってないね。
女1  軸がブレているんでしょう。
男   ああ……そうなんだ……それは、どうしたらいいんでしょうね。
夫   さっきも言った通り、細かいことでも大きなことでも……ミクロの世界でもマクロの世界でも、軸ってのはひとつ、しっかりしたものがあればいい。
女1  背骨がしっかりした人でしたら、それだけでいいんでしょうけどね。
夫   でも君は、内部の軸がどうも危なっかしい。
男   はい……
夫   これでは、いけないよね。
男   はい。
夫   何か一本、軸になるもの、ピシーっと、柱になるようなもの、欲しいよね。
男   ……そうですね。
夫   例えば、そうだな、だいぶ即物的になってしまうけれども、例えばそこの電柱。この電柱は、君にとっての柱になるだろうか?
男   ええ? いやあ…………僕にとっての柱、ですか。
夫   そうだよ。
男   でも、電柱は、その、公共物ですし、やっぱり……
夫   電柱の本質を見ることではどうだい?
男   電柱の本質ですか。
夫   そうさ。何も例えが即物的だからって、考え方も即物的になる必要は無い。電柱と言う即物的な対象を、抽象的なアプローチから自分の物にしていくのもアリだ。
男   抽象的に……
夫   そう、畳み掛けるように……
男   畳み掛けるように……
夫   そう。慎重かつ大胆に。
男   アタックチャーンス(と、手をグーにして決めポーズ)。
夫   ふざけない(と、その手を下ろしにかかる)。
男   失礼。抽象的に……
女1  どうかしら。
男   いやあ、難しいですね。
夫   そうだろう。
男   はあ。
夫   無理なんだよね。
男   (呆気にとられて)無理? え、今までのは……
夫   そう、無理なの。
男   え、ええ!
夫   いくら何でも、やっぱり電柱は難しいでしょう。
女1  やっぱり即物的よね。
夫   そうなんだよ。……そこでだ。さっき、神様の話をしただろう。神様って、君はどうやって数える?
男   ああ、それも聞いたことがあるような。何だったかな…………
夫   (電柱を二、三度たたく)
男   あ……あ、「はしら」?
女1  そうそう!
夫   ひとはしら、ふたはしら、って言うだろう。
男   ああ、ああ、言い……まあ、私そんなに日常生活で神を数え上げることが無いので……
夫   まあ、言い方として。
男   はい。
夫   神ってのはまあ、簡単に言うと……これがまあ簡単にする度合いが難しいんだけどね……困ったときの神頼みとか、言うでしょう。
男   言いますね。
夫   つまりその、精神的支柱だね。明神だってトルシエジャパンの精神的支柱だったでしょ?
男   明神? …………
女1  いるでしょう、ガンバ大阪に。
男   ああ、ああ、居た……と思います、はい。
女1  はっきりしないんだから。
夫   まあ、彼を責めるんじゃない。まだ柱が無いだけなんだから。
女1  そうね。
男   で、明神……
夫   明神は関係ないんだが、だから、その、神様っていうのは、柱という概念に非常に近い存在だと言うことができないかな。
男   はあ、今の説明を聞いていると。
女1  それも、とてつもなく大きな力を持った柱だと思わない?
男   そうですね。
夫   この電柱なんかより……まあ、電柱もつまり、ミクロとマクロの関係で言えば同じ柱なんだけどね、それでも、電柱よりは、神様の方が、より君が寄りかかりやすい存在だと思わないか。
男   寄りかかるんですか。
夫   そう。寄りかかるんだ。これは即物的ではないよ。抽象的に、寄りかかるんだ。言い回しにもこういうのがあるね、「心のよりどころ」。
    どうかな。電柱も寄りかかることはできるけど、神様の方が、こう、懐が深そうだろう。
男   ……そうです、ね。
夫   ああ、そうだよ。そうか、君もそう思ったか。
男   ええ、はい。
女1  あら、良かったわ。
夫   (女1に)私が見込んだだけのことはあっただろう?
男   見込まれてたんですか、私。
夫   見込んでたよ。見込みもない人にこんな話しないんだから。
女1  そうよ。見込んでもいない人に、ねえ。
男   ああ、何だかありがとうございます。
夫   礼なんて要らないよ。
女1  そうよ、私たち、同じ意見を共有したんだから、いわば仲間よ。
男   仲間……ですか。
女1  ええ。さっきあなた、「私と議論してる」って言ってらしたでしょ。
男   それは、さっきは、ええ。
女1  でもね、大きな流れの中では私たち、何の意見の相違も無いのよ。
夫   そうだね。マクロで見て同じ意見なんだからね。
男   いや、しかしさっきの話は、その、根本的に問題が違うといいますか……
夫   それは、君が問題を取り違えていた、とは考えられんかな。
男   そんなことは……
夫   何があったかはよく分からないけど、まあ、いいじゃないか。とにかく我々は意見が一致したんだ。
男   はあ。
女1  神様よ。
夫   そう、神様。
男   神様。
夫   どうだい、一度、うちに上がって、話を聞いていかないか。
女1  そうね、お手洗いをお貸ししますから、そのあとゆっくり。
男   話、とは?
夫   ああ、それについても、うちで。
男   え、いや、さわりだけでも……
女1  でもお手洗い、先に済ませた方が良いんじゃありません?
男   いやあ、確かに、それはそうですが……
女1  「ですが」、何なの?
男   いや、ええ、まあ、ねえ。
夫   いいじゃないか。意見が合う者どうし、ゆっくり中で話そうじゃないか。なあ、(女1に)紅茶を淹れてくれないか。
女1  ええ、すぐに。……あ、でも、お紅茶にはカフェインが含まれてますから、余計にお手洗いを済ませてからでないと。
夫   ああ、そうだね。(男に)さ、どうぞ。ほら、ほら。

 夫、男の肩に手をかけて家の中へと導く。しかし男はなかなか入ろうとしない。

男   いや、ちょ、ちょっと待って下さい。
夫   何か?
男   いえ、あの、その……
女1  ほうら、そういう軸のブレには、みたまのお力が必要ですよ。
夫   まったくだ。一度、話だけでも聞いていきなさい。
男   いいえ、ほら、あの……

 ドアの内から女1が、外から夫がドアを開けて男を中へ入れようとする。男は二人に抗っている。またしても揉み合いになる。

 と、そこへ雪が降ってくる。照明も舞台全体を照らしていたのがどんどん薄暗くなってきた。

女1  雪ですね。
夫   降ってきたか。
男   大降りになりますね。
夫   いえ、じき止みます。
男   止まないと思いますよ。
夫   止むでしょう。
男   雪も降ってきましたし、私そろそろ帰らないと。
女1  あら、雪が降ってきたことですから、うちで暖まってからお帰りになれば?
男   いえ、そういう訳には。
夫   いいじゃないか、せっかくここで一つの関係が成立したんだから、こんな中途半端に別れてしまうのはもったいないよ。
男   いえ、帰ります。
夫   いいじゃないか!
男   いえ…………
女1  推定童貞が!

男   はい?
夫   おい!

女1  (構わず続ける)推定童貞が、本当の童貞……いや、あなたにそういうご経験があったか無かったかはわからないんだけど……その、とにかく、推定ばかりの人生が変わると思うの!
    私はこうやってここに姿を表したじゃない。推定処女が、推定奥様になって、それで今こうしてあなたの目の前に現れたことでユミエになったわ! ……あなたも、推定から、確定に、ね。変わりましょう、ほら。
男   確定、童貞にですか。
夫   童貞……だったんだね。
女1  (夫を一瞥して)そうよ、童貞だろうが何だろうが知らないけど、とにかく確定させるの。
夫   (心無しか得意げな顔に見える)そうだよ、確定させよう。君の背骨に、ピーンと一本、みたまの柱を立てようじゃないか!
男   みたま……はしら……
女1  さあ、ね?
夫   ささ、入ろう。
男   いえ、本当に。
女1  「本当に」、何なの?
夫   本当に、みたまについて解ったの?
男   いやあ、わかりますんけど……

女   何て?
夫   はあ?

男   い……いえ、あの、ええ、もうそろそろ。はい、あの、お手洗いにも行かなくてはいけませんから(と上手へ逃げようとする)。

 女1と夫、何とかして男を中に引き入れたい。男は体をねじったり振るったり、伸びたり縮んだり、どうにかして逃げようと試みるも、向こうは二人がかりであって、腕はがっしり掴まれている。
 長く揉み合っているうち、ふとした拍子で二人の手から男の腕が離れて、男は地面に背中を打ったような格好。それでもゆっくり近づいてくる二人から逃れようと、にじにじと後ずさりする。
 立ち上がった男は一番上手側のドアを押したり引いたりしているが、一向に開く気配が無く焦る。
 もはや全照は消え、男にスポットが当たっている。雪は未だ降り続く。

男   (ドアを何度も素早くノックしながら)すいません、誰かいませんか? すいません! すいません!
    (女1と夫の方を見遣ったあとでまた素早くノックを続け)すいません! すいません! …………(誰も来る気配は無いのだが)うわあああああ! (と、叫びながら上手へと逃げていく。そのまま退場。)

 男を追っていたスポットが溶暗して少しの間暗転する。その後また同じあたりからスポットがぼんやりつき始める。これはやがて全照に変わっていく。

 上手からナースが登場。モップで薄く積もった雪を掃きながら……

ナース まったく……トイレ行くにも一苦労なんだから……」

 下手まで来るとそのまま折り返して一往復する。モップを適当なところに立てかけたのち……

ナース タケダさん、タケダさーん!

 一番上手側のドアを横にスライドさせると、簡単に開いた。

ナース もう、タケダさん……

 ナースがドアの向こうに消える。
 薄暗がりの中、もう一度雪がしんしん降って……
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