第二話 隣と探り合い
第二話 隣と探り合い
トイレに入ると3つある個室の真ん中が使用中だった。僕は迷うことなく入口から近い方の個室に入る。いちばん落ち着くのは奥の個室だけど、真ん中を取られた時は追いつめられた感じがするので壁ぎわでない方が安心できるのだ。
僕は尻を出して便座に座った。今朝は積極的な排便欲求がないので静かに深呼吸を繰り返し、肛門に便意が走るのを待った。集中が深まっていくにつれて、聞くつもりがなくても周りのかすかな音や気配がつぶさに捉えられるようになる。隣の個室の主が薄い仕切の向こうで身じろぎひとつせず、呼吸の音にさえ気を遣っているのがひしひしと伝わってきた。
様子を伺われているな、と感じた。もしも僕が高速排便タイプなら息を殺してやり過ごし、至福の時間をもう少し楽しもうとしているのだろう。だがすまない、僕も排便に喜びを見出すタイプだ。僕は完全に気配を殺し、隣と同じく長期戦の構えに入った。
無言の応酬がしばし続く。そっちが先に入っていたのだから、出るのも先だろうという理屈をよりどころに僕は石となっていたが、もし舌打ちでもされようものなら一生忘れられないだろうなと怯えてもいた。
沈黙が重くなってきた頃、隣から身じろぎする衣擦れの音がした。体勢を立て直したのであろうお隣は「んっ……」と押し殺した声を漏らしていきんだ。控えめな放屁が「ぱす」と鳴ったのを皮切りに、プペペペペペという排便音が後を追った。音が止み、しばしの余韻のあと、お隣はウォシュレットで尻を洗い、身支度を整えて個室を出ていった。
残された僕はせっかく望んだ空間を手に入れたにもかかわらず、探り合いの緊張が残っていたせいで芯からリラックスすることができなかった。回り始めた脳味噌は、今の出来事を反芻し始める。そういえば尻を洗った後、ずいぶんと気忙しく出ていったような気がする。もしかしたらイラッとされたのではないだろうかと考えると気が沈んだ。答えの出ない問いに悶々としていると、電流のような便意が僕の肛門に走った。
――来た。
その感覚によって些事は一瞬にして消え失せ、僕の根源的な欲求が揺るぎない光を放った。そうだ、うんこだ。うんこをするんだ。僕はそのためにここにいるんだ。どんなことがあったって、うんこが好きだっていうこの気持ちは消せやしない。うんこだ。うんこなんだ。
僕の頭はうんこでいっぱいになった。体中を満たしていたうんこが何もかもを連れていって、僕はからっぽの命そのものになった。これでいいんだ。僕は僕なんだと全身が喜びの声を上げているようだった。
……なかなかのうんこが流れていくのを眺めながら、僕はいったい何に興奮していたのだろうかと首をひねった。もしかしたら僕は排便時に麻薬物質のようなものが生成される「うんこ依存症」のような体質なのかもしれない。危険うんこ、脱法うんこ、脱糞うんこ、などと取り留めのないフレーズを思い浮かべながら僕はトイレを後にした。