カツカツカツ、と靴音がする。ガラガラっと引き戸が開く。と、次の瞬間、大きなダミ声が響く。
「ええ、そうです私が刑事課の十文字疾風ですが」
うわっ、また来たよ……と三日月は渋い顔をする。ぐえっ。とはいえ、今日は少しばかり様子がおかしい。
手を振り振り、かざしかざして有名人気取りでいるところはいつもと変わらないように見えなくもないが、今日は有名人「気取り」ではない。テレビカメラが何台か十文字を追っている。
「十文字さん、あなたは現在容疑者と目されているようですが」
「いえいえ皆さん心配にはおよびませんよ、私は無事です、ええ」
「そうではなく、十文字さん」
「しつこいなあ、事務所を通してもらえます? ねえ、蜂須賀さん」
「んあ? あっごめん聞いてなかった」
「行きましょう、蜂須賀さん」
おおん、と中途半端な相槌を打ったか打っていないかはわからないが、とにかくテレビクルーを巻くように颯爽と歩いていく十文字を追って蜂須賀も早足になる。
三日月は事態が呑み込めぬまま、署の一番奥でぬるぬると駄弁りつづけている時効管理課の一群に近づいて行く。
「めけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめめけめけめけめけめけめけめけめけ」
やっぱりこの人たち、いつ近づいてもよく解らない。そんなことを思いながらも三日月は話しかけるしかないのである。
「何……やってるんですか?」
「あ、三日月い」いの一番に食いついてくるのはだいたい又来である。
「めけめけゲームだよ」
「」は? ……あっいけない、言いたいことがカギカッコから外れて表情に出てしまった。
「あ、お前いま意味わかんないって顔したなあ」さすがに又来、隙がない。
「ひとりずつ『めけ』『めけめけ』『めけめけめけ』って『めけ』を足しながら言っていくんだよ」
「そう。それで、数え間違えたり、言い間違えたりしたら負けなんだよ」時効管理課長の熊本だ。どうしてそんなに暇でいられるのか。
「で、」三日月は聞き返す。「次は誰の番なんです」
「あ、そうだよ、霧山、次だろ」
促されて「めけめけめけ」とやりはじめるが三日月が茶々を入れてしまったので何度繰り返せばいいのかがわからない。おそらく、この場にいる誰もわかっていない。
「めけ……めけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけ」と言い続けている霧山の後頭部にポカリと平手が入った。
「よう霧山、お前はまだ時効管理課なんかでめけめけやってんのか。俺なんか見てみろ。刑事課のエースすら飛び越えて、今は容疑者候補だぞ」
「それって危ないんじゃないですかー」サネイエの平板かつ冷酷な突っ込みにも十文字は負けない。
「だいいちこの俺が犯罪なんて犯す訳無いだろう、なあ霧山」
「うん、犯罪はしないと思うよ」
「そうだろうそうだろう、やっぱりお前はわかってくれるか。じゃあ、がんばれよ、めけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけ」そう言いながら奥へと消えていった。
「十文字くん、どこ行ったの、ちょっと、十文字くん」取材陣を堰のように押しとどめていた蜂須賀が、もうこらえきれんとばかりにどっと押し倒され、慌てて十文字の方へと向かって時効管理課を走り抜けていった。
「めけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけめけ」
「霧山くん、まだやるの」
もはや三日月以外に霧山に注意を向けるものはなく、熊本は時効になった事件の書類を眺め、又来は机に「十文字のバーカ」と細かい文字でぎゅうぎゅうに書き並べている。
そこへ真加出がやってきた。
「霧山さん、『めけ』が五回多いですよ」
「えええ」
「ええええええ」
「えええええええええ」
「えええ」までゲームだと思ったのか、霧山の驚きの声がサネイエ、又来に飛び火してこだまする。
「霧山さん、時効の事件を捜査する趣味ってやめちゃったんでしたっけ」
「ああ、確かに最近やってないなあ」それが自分の行動について言う言葉か、と三日月は独りごちる。まったく、人の気も知らないで。
「じゃあやっちゃえばいいんじゃないの? これなんか、面白い事件だと思うけどなあ」
そう言って熊本はバン! と振りかぶって勢いよくハンコを押した。「時効」
時効を迎えた事件を趣味で捜査する男、霧山修一朗。一度は帰ってきそこなった時効警察第一話、「やまいだれは恋の落とし穴と言っても過言では無いのだ」を、よろしくお願いします。
東総武市で十五年前に起こった大学教授殺人事件。現場は出版社の辞書を編纂する会議室。被害者は鈴井裕太郎、後頭部を鈍器で殴られて死亡、凶器は犯行現場の机の上に置いてあった国語辞典とみられており、辞典の歪み方と被害者の後頭部の傷跡がほぼ一致しているところからまず間違いないとされている。しかし辞書の指紋は拭き取られており、犯人の特定には至っていない。
「先生……先生!」
死体の第一発見者は辞典の出版元である山川堂書店の編集者、伊藤。編纂会議は三ヶ月前から同じ会議室で週二回ほど行われており、他には被害者と同様の大学教授が三人、編集者がもう一人の計六人で構成されていた。現場の鍵は編集部が管理しており、会議の前後で厳重に戸締まりしていたため、部外者が立ち入ることはほとんど不可能だった。
「ねえねえ霧山くん、それって何ていう辞典なの」と三日月。
「あ、ええっとね……『新語解国語辞典』かな」
「え、何それ……センス悪い」又来が口を挟む。
「どうしてですか」
「だって、『新語解』とか……誤解しちゃいそうじゃない」
「そうだよねえ、絶対売れないよねえ」これは熊本課長の声だ。そこにサネイエが斬り込む。
「熊本課長知らないんですか、『新語解国語辞典』は辞書界じゃ珍しく空前のヒットを飛ばして話題になったんですよ」
「私も三冊買っちゃいました」とは真加出の言葉。
「あ、それ私も知ってる」
「何だい三日月くんまで」徐々にちっちゃくなっていく熊本。
「辞書のことなんて、知りませんからねえ」
「そうだよ、なあに君たち、辞書系女子? 辞書女子?」
そこへ十文字が飛び込んでくる。「そうですよ君らはじしょけいじし$?〒◎~」
「噛むなよ十文字、辞書系女子、辞書女子だよ」
ドン、と勢い良く机を叩くサネイエ。普段冷静なサネイエの突然の行動に凍る面々。
「わたしは処女じゃありませんよ!」
事件当日は鈴井裕太郎が会議の二時間前から調べものをしたいと部屋を開けてもらっていた。鍵は鈴井が持っていて、彼以外に会議室に近づいた者はいなかったという証言が残っている。
「だれの証言なの?」
「編集部の人がそう言っていたらしいよ。会議室に行くには編集部の中を通らなきゃいけないようになってるんだって」
「ちょっとお待ち頂けますか、今当時の担当の者を呼んできますので」
担当者が席を外している間に霧山が三日月に話しかける。
「土日でも忙しいんだね、出版社って」
「そうだね」と言いつつ編集部を見渡す三日月。
「あ、あのひと日曜日なのに眼鏡かけてる、イギリス人じゃないんだから、ねえ」
「何言ってんの三日月くん。あの人はイギリス人だよ」
よく見ると欧米風な顔つきをしている。机に目を移すと、パソコンの壁紙がユニオンジャックでペン立てには国旗が刺さっている。イギリス人じゃなければ何者だ。
「伊藤と申します。……警察の方、ですか」
「今日伺ったのは、確かに事件の話ですが、事件自体はもう時効を迎えています。あくまでも趣味として、お話をうかがいたいのです」
「趣味……ですか」
やまいだれは恋の落とし穴と言っても過言では無いのだ!
「あれは議論がいちばん紛糾していた頃でした。鈴井さんも自分の意見を通すために躍起になっていたところがあるのかも知れません。一所懸命に文献をあさっていました」
「会議が始まる前には殺されていたんですか」
「ええ、他の教授がいらしたので、そろそろと思って一緒に会議室に行きましたら、鈴井さんが」
「その教授と言うのは」
「吉岡先生という方で、鈴井さんと最も活発に意見を戦わせていた方です。二年前に、お亡くなりになってしまいましたが……もうすぐ、命日なんですよ」
「当時、容疑者の筆頭に上げられていたようですね」とファイルを見ながら霧山が問う。
「ええ。ですが、私がついていましたし、他の社員も私と吉岡さん以外は見ていないと言っていますから」
「……なるほど。現場を見せていただいてもよろしいですか」
そのままにはなっていませんよ、と釘をさされながらも三人は会議室へと向かう。
「ダムウェーターですか」霧山が珍しがっている。
「在庫を運ばなければならないこともありますから」
「ダムウェーターって、エレベーターよりも小ちゃいのに強そうですよねえ、名前が」
「はあ」
「霧山くん」三日月がまた始まったとばかりに咎める。「すいませんね」
「廊下の突き当たりが倉庫なんです。その手前が会議室で、手前から一二三と番号が振ってありますよね。先生が亡くなったのは、一番編集部に近い、手前側の『会議室1』です」
三人は「会議室1」と書かれた部屋の中へと入る。真ん中に簡素な折りたたみ机が三脚、縦長になるように隙間なく並んでいる。片側の壁には一面ずらりと本棚が並び、日本語にまつわる本や辞典の類が古今東西あまねく集まっている。ドアと正対する方向に広い窓があり、大通りに面しているためそこそこ眺めが良い。
「鈴井さんはどんなふうに亡くなっていたんですか」
「はい、このあたりで」と、伊藤は本棚に寄りかかるように倒れるふりをする。
「なるほど、じゃあ、犯人はこのあたりで」『大林辞』と書かれた分厚い本を取り出して、霧山は伊藤を殴るふりをする。
「じゃあ、私は伊藤さんのふりを……伊藤さん、名前は何ていうんですか」
「名前ですか、知子(さとこ)です」
「じゃあ知子役やります、」
「いいよ三日月くんは」
しゅん。
「へえ、それじゃあ密室ってやつだ」
「密室かあ」
「密室ハ! 事件ヲ生ミマスヨネ!」
「……サネイエ、そりゃそうだろ。現に事件が起きてるんだからさ」
「ソウデスヨネ」
「なんだかなあああ」うなだれる霧山。
「おう霧山、相変わらずだな」
「十文字くん……」
「俺は相変わらずだぞ」
「十文字、まだ犯人なの」
「又来さん、犯人じゃないんですよ僕は。容疑者候補ですよ、容疑者候補」と又来の背中を叩く。
「いでっ」又来はそれが義務であるかのように痛がり、またそれが義務であるかのように黒板に正の字で叩かれた回数を記録する。
十文字 正正一
「アリバイが無いんですよ……」
「全く?」
「全く」
「全くアリバイが無いんだったら、全くアリバイが無いことを示せば良いんじゃないの」
「どういうことだよ霧山」
「誰も十文字くんを見てないっていうことから、十文字くんの無実が示せないかなって。密室じゃないんでしょ」
「密室だなんて、霧山、探偵小説にでもかぶれたか」
「いやあ、そんなことはないんだけど……でも密室じゃないなら、一番近くでアリバイが見つかった人も、十分怪しいのかなって思ってさ。ほら、人間の記憶って一分一秒間違いないなんてことはないじゃない。だから、逆に付近の誰にも顔を見られていないって事実の方が説得力があるような気がして」
「なーに言ってんだ霧山、やっぱり霧山はピンボケだなあ、いやドンソク?」
「トンカツ」
「パンチラ?」
「いや、ポンコツでしょ……」
十文字=気の毒がトレンチコートを着こなして颯爽と去っていく。そのカオティックな雰囲気の中で、霧山はひとり閃いていた。
「……そうだよ!」
立ち上がった振動で真加出が積み上げていたジェンガが一斉に崩れ出す。たちまち時効管理課はジェンガに溺れてしまう。
「き……やま……くん、一体……何が……かったの」
「なんだって……かづきくん……」
「霧山くん、何が……わかったの」
「あ、それは……密室だろ……アリバイだろ……だから……そういうことだよ」
土曜日、眼鏡をかけた霧山と三日月は、そぼ降る雨の中墓地へ出かけた。
「三日月くん、それ、眼鏡じゃなくてサングラスでしょ」
「あれ、ばれた」
「バレッバレだし、ぜんっぜん似合ってない」
「うう……もう、怒ったから」
「お、三日月くんが怒った」
「もう、激おこプンゲンストウヒ!」
元旦に使ったあとどうすればいいのやらと悩むような2015の数字をかたどったサングラスを怒りにまかせて外していると、誰かが近づいてくるのが見えた。
「三日月くん、こっちこっち」
袖を引っ張られて草むらにしゃがみ込むような形になった。「霧山くん」三日月はささやく。
「こんなところで、駄目だよ」
「何言ってんの三日月くん」
「だめ。墓地なんかじゃ、するならもっと、ちゃんとしたところで……」
ぺしっ。三日月が目を開けると、両目の間に十五センチ定規が当てられていた。
「何すんのよもう、げきお……」
霧山に口を塞がれて悪い気はしなかった。だが霧山はそんなことに目もくれず、前方をひたと見据えていた。吉岡の墓をたずねていたのは、ピンクのスーツをすらりと身に付けた、他でもない伊藤知子その人だった。
総武警察署鑑識課。諸沢がなよなよとした動きで霧山に近づく。
「なあ霧山」蛇が這うような声を出した。「なあ霧山、これ、見てくれよ」
諸沢が出してきた写真は実験室で使う試薬が写っているものだった。ラベルに「ツルベクリン」と印字されている。
「どう思う」
「鶴瓶、ですか」
「鶴瓶がなんなんだ」
「なんなんだって言われても」
「何だよ。せっかくまけてやろうと思ったのに」
「えっ、いくらになるんだったんですか」
「二円」
「嘘だ」
「通常、写真鑑定一枚千円のところ、その写真で面白いことを言ってくれたら二円」
「嘘だ」
「嘘じゃない、嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない」
霧山は仕方が無く千円札を出して諸沢に手渡す。
「あの写真な、こんなもんが写ってたぞ」
二人は卓上の写真を覗き込むように見ていた。
「会議が始まる前には殺されていたんですか」
「ええ、他の教授がいらしたので、そろそろと思って一緒に会議室に行きましたら、鈴井さんが」
「その教授と言うのは」
「吉岡先生という方で、鈴井さんと最も活発に意見を戦わせていた方です。二年前に、お亡くなりになってしまいましたが……もうすぐ、命日なんですよ」
「当時、容疑者の筆頭に上げられていたようですね」とファイルを見ながら霧山が問う。
「ええ。ですが、私がついていましたし、他の社員も私と吉岡さん以外は見ていないと言っていますから」
「……なるほど。現場を見せていただいてもよろしいですか」
そのままにはなっていませんよ、と釘をさされながらも三人は会議室へと向かう。
「ダムウェーターですか」霧山が珍しがっている。
「在庫を運ばなければならないこともありますから」
「ダムウェーターって、エレベーターよりも小ちゃいのに強そうですよねえ、名前が」
「はあ」
「霧山くん」三日月がまた始まったとばかりに咎める。「すいませんね」
「廊下の突き当たりが倉庫なんです。その手前が会議室で、手前から一二三と番号が振ってありますよね。先生が亡くなったのは、一番編集部に近い、手前側の『会議室1』です」
三人は「会議室1」と書かれた部屋の中へと入る。真ん中に簡素な折りたたみ机が三脚、縦長になるように隙間なく並んでいる。片側の壁には一面ずらりと本棚が並び、日本語にまつわる本や辞典の類が古今東西あまねく集まっている。ドアと正対する方向に広い窓があり、大通りに面しているためそこそこ眺めが良い。
「鈴井さんはどんなふうに亡くなっていたんですか」
「はい、このあたりで」と、伊藤は本棚に寄りかかるように倒れるふりをする。
「なるほど、じゃあ、犯人はこのあたりで」『大林辞』と書かれた分厚い本を取り出して、霧山は伊藤を殴るふりをする。
「じゃあ、私は伊藤さんのふりを……伊藤さん、名前は何ていうんですか」
「名前ですか、知子(さとこ)です」
「じゃあ知子役やります、」
「いいよ三日月くんは」
しゅん。
「へえ、それじゃあ密室ってやつだ」
「密室かあ」
「密室ハ! 事件ヲ生ミマスヨネ!」
「……サネイエ、そりゃそうだろ。現に事件が起きてるんだからさ」
「ソウデスヨネ」
「なんだかなあああ」うなだれる霧山。
「おう霧山、相変わらずだな」
「十文字くん……」
「俺は相変わらずだぞ」
「十文字、まだ犯人なの」
「又来さん、犯人じゃないんですよ僕は。容疑者候補ですよ、容疑者候補」と又来の背中を叩く。
「いでっ」又来はそれが義務であるかのように痛がり、またそれが義務であるかのように黒板に正の字で叩かれた回数を記録する。
十文字 正正一
「アリバイが無いんですよ……」
「全く?」
「全く」
「全くアリバイが無いんだったら、全くアリバイが無いことを示せば良いんじゃないの」
「どういうことだよ霧山」
「誰も十文字くんを見てないっていうことから、十文字くんの無実が示せないかなって。密室じゃないんでしょ」
「密室だなんて、霧山、探偵小説にでもかぶれたか」
「いやあ、そんなことはないんだけど……でも密室じゃないなら、一番近くでアリバイが見つかった人も、十分怪しいのかなって思ってさ。ほら、人間の記憶って一分一秒間違いないなんてことはないじゃない。だから、逆に付近の誰にも顔を見られていないって事実の方が説得力があるような気がして」
「なーに言ってんだ霧山、やっぱり霧山はピンボケだなあ、いやドンソク?」
「トンカツ」
「パンチラ?」
「いや、ポンコツでしょ……」
十文字=気の毒がトレンチコートを着こなして颯爽と去っていく。そのカオティックな雰囲気の中で、霧山はひとり閃いていた。
「……そうだよ!」
立ち上がった振動で真加出が積み上げていたジェンガが一斉に崩れ出す。たちまち時効管理課はジェンガに溺れてしまう。
「き……やま……くん、一体……何が……かったの」
「なんだって……かづきくん……」
「霧山くん、何が……わかったの」
「あ、それは……密室だろ……アリバイだろ……だから……そういうことだよ」
土曜日、眼鏡をかけた霧山と三日月は、そぼ降る雨の中墓地へ出かけた。
「三日月くん、それ、眼鏡じゃなくてサングラスでしょ」
「あれ、ばれた」
「バレッバレだし、ぜんっぜん似合ってない」
「うう……もう、怒ったから」
「お、三日月くんが怒った」
「もう、激おこプンゲンストウヒ!」
元旦に使ったあとどうすればいいのやらと悩むような2015の数字をかたどったサングラスを怒りにまかせて外していると、誰かが近づいてくるのが見えた。
「三日月くん、こっちこっち」
袖を引っ張られて草むらにしゃがみ込むような形になった。「霧山くん」三日月はささやく。
「こんなところで、駄目だよ」
「何言ってんの三日月くん」
「だめ。墓地なんかじゃ、するならもっと、ちゃんとしたところで……」
ぺしっ。三日月が目を開けると、両目の間に十五センチ定規が当てられていた。
「何すんのよもう、げきお……」
霧山に口を塞がれて悪い気はしなかった。だが霧山はそんなことに目もくれず、前方をひたと見据えていた。吉岡の墓をたずねていたのは、ピンクのスーツをすらりと身に付けた、他でもない伊藤知子その人だった。
総武警察署鑑識課。諸沢がなよなよとした動きで霧山に近づく。
「なあ霧山」蛇が這うような声を出した。「なあ霧山、これ、見てくれよ」
諸沢が出してきた写真は実験室で使う試薬が写っているものだった。ラベルに「ツルベクリン」と印字されている。
「どう思う」
「鶴瓶、ですか」
「鶴瓶がなんなんだ」
「なんなんだって言われても」
「何だよ。せっかくまけてやろうと思ったのに」
「えっ、いくらになるんだったんですか」
「二円」
「嘘だ」
「通常、写真鑑定一枚千円のところ、その写真で面白いことを言ってくれたら二円」
「嘘だ」
「嘘じゃない、嘘じゃない嘘じゃない嘘じゃない」
霧山は仕方が無く千円札を出して諸沢に手渡す。
「あの写真な、こんなもんが写ってたぞ」
二人は卓上の写真を覗き込むように見ていた。
ひとつお断りしておきますが、これからあなたにお話しするのは、あくまで僕の趣味の捜査の結果です。事件そのものは時効ですから、たとえあなたが犯人でも、僕がどうすることでもありません。もっと言えば、この時効事件の捜査は、すべて犯人の皆さんの善意に支えられているんです。犯人の皆さんの善意の自白が必要なんです。
「善意?」
単刀直入に申し上げます。伊藤知子さん、あなたが鈴井裕太郎さん殺人事件の……犯人のひとりではないでしょうか。
眼鏡は霧山の手から三日月の手へとわたる。
「何を言っているんです」
十五年前に殺人が行われた日、伊藤知子さん、あなたは吉岡さんと一緒にいたのではないでしょうか。おそらくは、仕事での関係よりも、もっと深い関係において。その夜、辞典の編纂作業でどうしても話がしたいという鈴井さんの頼みを聞くために、あなたは鈴井さんの家に向かうことになった。しかし、運が悪いことに、あなたの電話は吉岡さんにも聞こえていた、いや、というよりも吉岡さんがそうさせたのでしょう。
吉岡さんは当然そうした会議には自分も行くものだと思っていたはずです。編纂会議を秘密裏に行うなんて普通あり得ないでしょうし、あまつさえその頃敵対すらしていた吉岡さんを差し置いて作業を進めるなんて……吉岡さんは「自分も行く」と言い張ったはずです。でも実際にはあなたと鈴井さんは編纂会議などするつもりなかった。伊藤さん、あなた、鈴井さんとも深い関係をお持ちでしたね……鈴井さんの遺留品から、色褪せた写真が出てきました。最初は何かわからなかったのですが、鑑識課に調査を依頼したところ、写真の印画紙だとわかり、さらに少しばかり修復もしてもらいました。あなたと、鈴井さんが写っています。
「……熱海です」
「ハトヤホテルですか」
「三日月くん、それは伊東でしょうが」
「あ、そっか」
「……もう、邪魔しないで」
そして半ば強引にその事実が明かされ、犯行が起きた。鈴井さんは驚いたはずです。自分が誘った相手とは違う人、それもまさに犬猿の仲である吉岡さんが戸口に立っていたのですから。
伊藤さん、あなたは犯行が行われたあと、吉岡さんと協力して密室殺人に仕立てた。翌朝、鈴井さんが会議室に来ていると嘘をついた。
「嘘?」
……いや、正確に言えば、その時までは嘘だった、ということでしょうか。鈴井さんはその後運ばれてきた。それも、地下から、ダムウェーターに乗って。そうですね。
「……ええ」
乗せたのは吉岡さんで、受け取ったのは伊藤さんだった。おそらくは凶器もその時に一緒に運ばれてきたのではないでしょうか。
アリバイを証言した者の内部に共犯者がいたために、この事件は一筋縄では行かなくなった……
「……以上が、私が趣味で調べたすべてです。あとは、犯人であるあなたのご好意に甘えるしかないのですが」
「…………父の話をさせていただいてもよろしいですか」
「はあ……どうぞ」
「私の父は文字に関しておかしなこだわりを持っている人でした。私の本当の名前も『知子(さとこ)』ではありません。『痴子(さとこ)』と書くのです」
と知子、いや痴子はメモ用紙に名前をふたつ書いて見せた。
「それでは、知子さんというのは……」
「偽名、といいますか、外向きに名乗る時には、そう名乗っているのです。取り調べの時には、どうなることかと思いましたが」
「どうにか免れた、と」
「はい」
「あの……由来は」
「三日月くん」
「でも、気になるじゃない」
その会話を、それもそうだとばかりに笑いながら痴子は続ける。
「『知る』に『やまいだれ』がつく、つまり、何かを行き過ぎるくらいに探求して欲しい、他人におかしがられるほどに好奇心を持って行動して欲しい、そういう願いがあったと聞いています。
あるとき、鈴井にそのことを話す機会がありました。すると鈴井は一瞬は驚いたものの、そのあと笑顔になって私に言いました。
『いい名前じゃないか。そうだ、痴という字の説明に〈行き過ぎて賢い〉という意味も入れてやろうか』
私は冗談を言っているのだと思っていましたが、どうやら彼は本気のようでした。というのも、当時ある学説では、江戸時代の書物中に『痴』をその意味で用いていたという解釈が可能なものがあったとかいう話で」
「それを鈴井さんは取り入れようとした」
「そうなんです。でも、吉岡はいち学説に過ぎないものを正統な辞典に取り入れるなんてもってのほかだと言って争いになりました」
「なるほど、それで……」霧山は想像の中に鈴井と吉岡の諍い、そしてその果ての殺しを見る。
「鈴井が殺されたあと、私は鈴井の宿願だった『痴』の新解釈を取り入れる約束を吉岡に取り付けて、吉岡の殺人を見なかったことにしたのです」
「なるほど、そういう訳でしたか」机の上に開かれた『新語解』の「痴」の項目に目を落とす霧山。
「さて、」と霧山が切り出す。三日月が手渡した眼鏡を、霧山はかけ直す。
「伊藤さん、事件はもう時効ですから、これで終わりです。あっ、でも、せっかくご協力いただいた共犯者の方を、不安な気持ちにさせてはいけないと思いましてですね……これ、『帰ってきた! 誰にも言いませんよカード』です」
釈然としない知子。
「これに、僕の認印を押しますから、お持ちになっていてください。……どうぞ」
変わんないなあ、霧山くんは……
カツカツカツ、と靴音がする。ガラガラっと引き戸が開く。と、次の瞬間、大きなダミ声が響く。
「ええ、そうです私が刑事課の十文字疾風ですが」
無音。
「あれ、誰かいるでしょう、誰か」
「なんだ、十文字さんか」
「なんだ、三日月か」
「なんだとはなんですか」
「そっちこそなんだとはなんだとはなんだ」
「なんだとはなんだとはなんだとはなんですか」
「何だと! なんだとはなんだとはなんだとはなんだとはなんだとはなんだ」
「あ、十文字さんアウトですよ」真加出は相変わらず目ざとい。
「なあに君たち、今度は『なんだなんだ』ゲームなの」
「違いますよ熊本課長」
「なんだ、みんないるじゃないか。それじゃあ俺は行かなくちゃ。じゃあな霧山、お前はせいぜい時効管理課でめけめけやってろ。俺なんかな、刑事課のエース、容疑者候補を飛び越えて」
「飛び過ぎだな」
「チョモランマのあとエベレスト飛び越えるくらい飛び過ぎですね」
「それどっちも同じ山ですよ」すかさず真加出。「チッ」サネイエの舌打ち。
「サネイエさん今舌打ちしました?」
「してませんよ! サネイエさん今舌打ちしてませんよ!」
「……あ、じゃあいいです」
「急に盛り下がるなよ」
間の悪さに全員がひと呼吸置こうとお茶を飲む。ずずず……
「でなあ、俺はまたまた刑事課のエースに舞い戻ったんだ」
「容疑晴れたんですか」サネイエがなぜか不思議そうにしている。
「俺にはアリバイが無かっただろう。そ・こ・が、盲点だったんだよなあ。事件の関係者が誰も俺のことを見てないんだから、俺がその場にいる可能性は限りなく低いものになる、そう言ってやったんだ。じゃあな、念仏」
「十文字くん、僕は念仏じゃなくて、ポツネンだよ」と言う間もなく彼は消えていた。
「十文字くんも刑事課のエースに戻ったことだし、僕も趣味を再開させようかなあ」
「本当に」
「うん、やってみようかな」
三日月の「よしっ!」が署内に明るく響き渡る。
次回の時効警察、「酒は飲んでも飲まれるな、でも飲まれた方が夢の世界に近づくこともある……かも」を、よろしくお願いします。
※推論はアブダクションですが…このドラマはフィクションであり、登場人物、団体名等は全て「時効警察」シリーズのものをお借りしているか、架空のものです。
「善意?」
単刀直入に申し上げます。伊藤知子さん、あなたが鈴井裕太郎さん殺人事件の……犯人のひとりではないでしょうか。
眼鏡は霧山の手から三日月の手へとわたる。
「何を言っているんです」
十五年前に殺人が行われた日、伊藤知子さん、あなたは吉岡さんと一緒にいたのではないでしょうか。おそらくは、仕事での関係よりも、もっと深い関係において。その夜、辞典の編纂作業でどうしても話がしたいという鈴井さんの頼みを聞くために、あなたは鈴井さんの家に向かうことになった。しかし、運が悪いことに、あなたの電話は吉岡さんにも聞こえていた、いや、というよりも吉岡さんがそうさせたのでしょう。
吉岡さんは当然そうした会議には自分も行くものだと思っていたはずです。編纂会議を秘密裏に行うなんて普通あり得ないでしょうし、あまつさえその頃敵対すらしていた吉岡さんを差し置いて作業を進めるなんて……吉岡さんは「自分も行く」と言い張ったはずです。でも実際にはあなたと鈴井さんは編纂会議などするつもりなかった。伊藤さん、あなた、鈴井さんとも深い関係をお持ちでしたね……鈴井さんの遺留品から、色褪せた写真が出てきました。最初は何かわからなかったのですが、鑑識課に調査を依頼したところ、写真の印画紙だとわかり、さらに少しばかり修復もしてもらいました。あなたと、鈴井さんが写っています。
「……熱海です」
「ハトヤホテルですか」
「三日月くん、それは伊東でしょうが」
「あ、そっか」
「……もう、邪魔しないで」
そして半ば強引にその事実が明かされ、犯行が起きた。鈴井さんは驚いたはずです。自分が誘った相手とは違う人、それもまさに犬猿の仲である吉岡さんが戸口に立っていたのですから。
伊藤さん、あなたは犯行が行われたあと、吉岡さんと協力して密室殺人に仕立てた。翌朝、鈴井さんが会議室に来ていると嘘をついた。
「嘘?」
……いや、正確に言えば、その時までは嘘だった、ということでしょうか。鈴井さんはその後運ばれてきた。それも、地下から、ダムウェーターに乗って。そうですね。
「……ええ」
乗せたのは吉岡さんで、受け取ったのは伊藤さんだった。おそらくは凶器もその時に一緒に運ばれてきたのではないでしょうか。
アリバイを証言した者の内部に共犯者がいたために、この事件は一筋縄では行かなくなった……
「……以上が、私が趣味で調べたすべてです。あとは、犯人であるあなたのご好意に甘えるしかないのですが」
「…………父の話をさせていただいてもよろしいですか」
「はあ……どうぞ」
「私の父は文字に関しておかしなこだわりを持っている人でした。私の本当の名前も『知子(さとこ)』ではありません。『痴子(さとこ)』と書くのです」
と知子、いや痴子はメモ用紙に名前をふたつ書いて見せた。
「それでは、知子さんというのは……」
「偽名、といいますか、外向きに名乗る時には、そう名乗っているのです。取り調べの時には、どうなることかと思いましたが」
「どうにか免れた、と」
「はい」
「あの……由来は」
「三日月くん」
「でも、気になるじゃない」
その会話を、それもそうだとばかりに笑いながら痴子は続ける。
「『知る』に『やまいだれ』がつく、つまり、何かを行き過ぎるくらいに探求して欲しい、他人におかしがられるほどに好奇心を持って行動して欲しい、そういう願いがあったと聞いています。
あるとき、鈴井にそのことを話す機会がありました。すると鈴井は一瞬は驚いたものの、そのあと笑顔になって私に言いました。
『いい名前じゃないか。そうだ、痴という字の説明に〈行き過ぎて賢い〉という意味も入れてやろうか』
私は冗談を言っているのだと思っていましたが、どうやら彼は本気のようでした。というのも、当時ある学説では、江戸時代の書物中に『痴』をその意味で用いていたという解釈が可能なものがあったとかいう話で」
「それを鈴井さんは取り入れようとした」
「そうなんです。でも、吉岡はいち学説に過ぎないものを正統な辞典に取り入れるなんてもってのほかだと言って争いになりました」
「なるほど、それで……」霧山は想像の中に鈴井と吉岡の諍い、そしてその果ての殺しを見る。
「鈴井が殺されたあと、私は鈴井の宿願だった『痴』の新解釈を取り入れる約束を吉岡に取り付けて、吉岡の殺人を見なかったことにしたのです」
「なるほど、そういう訳でしたか」机の上に開かれた『新語解』の「痴」の項目に目を落とす霧山。
「さて、」と霧山が切り出す。三日月が手渡した眼鏡を、霧山はかけ直す。
「伊藤さん、事件はもう時効ですから、これで終わりです。あっ、でも、せっかくご協力いただいた共犯者の方を、不安な気持ちにさせてはいけないと思いましてですね……これ、『帰ってきた! 誰にも言いませんよカード』です」
釈然としない知子。
「これに、僕の認印を押しますから、お持ちになっていてください。……どうぞ」
変わんないなあ、霧山くんは……
カツカツカツ、と靴音がする。ガラガラっと引き戸が開く。と、次の瞬間、大きなダミ声が響く。
「ええ、そうです私が刑事課の十文字疾風ですが」
無音。
「あれ、誰かいるでしょう、誰か」
「なんだ、十文字さんか」
「なんだ、三日月か」
「なんだとはなんですか」
「そっちこそなんだとはなんだとはなんだ」
「なんだとはなんだとはなんだとはなんですか」
「何だと! なんだとはなんだとはなんだとはなんだとはなんだとはなんだ」
「あ、十文字さんアウトですよ」真加出は相変わらず目ざとい。
「なあに君たち、今度は『なんだなんだ』ゲームなの」
「違いますよ熊本課長」
「なんだ、みんないるじゃないか。それじゃあ俺は行かなくちゃ。じゃあな霧山、お前はせいぜい時効管理課でめけめけやってろ。俺なんかな、刑事課のエース、容疑者候補を飛び越えて」
「飛び過ぎだな」
「チョモランマのあとエベレスト飛び越えるくらい飛び過ぎですね」
「それどっちも同じ山ですよ」すかさず真加出。「チッ」サネイエの舌打ち。
「サネイエさん今舌打ちしました?」
「してませんよ! サネイエさん今舌打ちしてませんよ!」
「……あ、じゃあいいです」
「急に盛り下がるなよ」
間の悪さに全員がひと呼吸置こうとお茶を飲む。ずずず……
「でなあ、俺はまたまた刑事課のエースに舞い戻ったんだ」
「容疑晴れたんですか」サネイエがなぜか不思議そうにしている。
「俺にはアリバイが無かっただろう。そ・こ・が、盲点だったんだよなあ。事件の関係者が誰も俺のことを見てないんだから、俺がその場にいる可能性は限りなく低いものになる、そう言ってやったんだ。じゃあな、念仏」
「十文字くん、僕は念仏じゃなくて、ポツネンだよ」と言う間もなく彼は消えていた。
「十文字くんも刑事課のエースに戻ったことだし、僕も趣味を再開させようかなあ」
「本当に」
「うん、やってみようかな」
三日月の「よしっ!」が署内に明るく響き渡る。
次回の時効警察、「酒は飲んでも飲まれるな、でも飲まれた方が夢の世界に近づくこともある……かも」を、よろしくお願いします。
※推論はアブダクションですが…このドラマはフィクションであり、登場人物、団体名等は全て「時効警察」シリーズのものをお借りしているか、架空のものです。