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第四話

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 日常はゆっくりと積み重ねられていく。
 夏になり、衣替えが終わり、やがては期末試験。そしてあっという間に夏休みに突入した。
 夏休みに入ってすぐ、僕ら天文部は合宿を行った。以前透が言っていた通り、簡単なキャンプをしながら星を見るという活動だ。僕と透と明日香、そして勇次郎。天文部の部員全員が参加した。
 四人で電車とバスを乗り継ぎ、有名なキャンプ場へと向かう。僕らはそこで二泊三日の合宿を行うことになっていた。
 しかし天文部という部活の性質上、昼間は特にやることがない。
 ――いや正確に言えば、昼間に観測することのできる天体もある。または太陽の黒点を観測したりもできる。……が、それらはわざわざここに来てまでやる必要のあるものではなかった。
 だから昼間のうちは、部活動とは関係のないことを好き勝手にやっていた。皆で談笑したり、近くの森を散歩したり、静かな木陰で本を読んだり。
 そして夕方になれば食事をとり、夜には四人揃って星を見上げた。透は何かパソコンをいじっていた。聞けば、これから一晩中かけて写真を撮るのだと言う。
 僕はちらりとその画面を見たのだが、彼女が何をしているのかさっぱり分からなかった。
 それから僕らは、いつかの屋上の時のように寝袋で眠った。
 こうして一日目は終了し、二日目もそれとほとんど変わらない形で終わった。
 天文部の活動というよりも、友達同士でただキャンプに来ただけという感じだった。
 だけど僕はそれが楽しかった。今までこういう経験がまったくなかったというのもあるかもしれない。
 とにかくそうして、僕らの合宿は無事に終了した。

 大体夏休みが半分くらい過ぎたある日の朝、僕はインターホンの音によって起こされた。
 時刻は午前十時。
 起き上がると少し体が重い。朝食を食べてからすぐに眠ってしまったのが原因だろう。
 佐々木家で朝食をご馳走になっているという都合上、僕は彼らと同じ時間に起きなくてはならない。文句を言う筋合いではないのは分かっているが、夏休みでも平日と同じ時間に起きて食事を摂るというのは、なんというか、すごく疲れる。その後すぐに二度寝をしてしまうのは仕方がないことだと思う。
 僕は重い体を引きずり、階段を降りて玄関に向かう。
 何の用かわからないけれど多分透だろう――などと思いながら扉を開くと、予想通りの姿がそこにはあった。
「正人、迎えに来たよ」
「…………迎えに?」
 何のことだろう?
「今日は天文部の活動をするって前から言ってたじゃないの。それについさっき、朝ごはんを食べながらちゃんと確認したのに……」
 彼女は困ったように言う。
 言われてみればそんな話をしていたような気もする。すっかり忘れていた。
「ごめん。すぐに着替えるから」
「早くしてね。明日香を待たせると悪いから」
 簡単に寝ぐせを直し、制服に袖を通す。かかった時間はだいたい三分程だ。
「準備はできた? じゃあ行こうか」
「うん」
 そうして僕と透はいつもの道を通って学校に向かった。
 夏の日差しは強く、到着する頃には僕らは汗だくになっていた。
「暑い……」
「……部費で、クーラーとかつけちゃマズいかしら……」
「夏は扇風機で我慢するのが、ここ白崎高校の校風だから……」
 部室もやはり暑かった。明日香が僕らよりも早くにやって来ていて、窓を開けて扇風機を回していたのだが、それでもまだ半端じゃない暑さだった。
「……先輩。こう暑い日は部活するのやめましょうよ。熱中症で死んじゃいますよ……」
 暑さのせいかふにゃふにゃになった声で明日香は言った。
「それは、本当にそうしたいところだけど。……残念ながら、私達にそんな暇はもう無いのよ」
「暇が無い?」
 何のことを言っているのかわからない。何かやらなくちゃいけないことでもあったのか?
 心当たりが無いという様子の僕と明日香を見て、透はため息をついてから、
「文化祭よ文化祭。夏休みが終わって一ヶ月くらいで文化祭があるじゃないの。それなのに天文部はまだ何の準備もしていないわ」
「……あー。そういえば」
「文化祭!! 私、あれ、すごく楽しみにしてるんですよ!」
 未だ経験したことがない明日香は文化祭という単語に敏感に反応した。
「そうやってはしゃぐのも良いけど、文化祭は見るだけじゃないんだから。私達自身の出し物もきちんと完成させないと。……というわけで、今から私達天文部の出し物を決めるわよ」
「天文部の、出し物……?」
 文化系の部活の場合、それぞれの活動内容がそのまま文化祭で使われることが多い。だが、僕ら天文部がしている活動と言えば天体観測くらいしかない。
「……来てくれた人達皆で、天体観測をするとか?」
「それは時間的に考えて難しいわよ」
 天体観測と言えば基本的に夜にやるものだ。他の出し物と時間帯が一致しないどころか、仮に無理に許可を取ったとしても、来てくれる人はあまり多くはないだろう。
「……それじゃあ昼に見える天体だけでも。金星とか木星とか」
「うーん。それも良いけど……ちょっとそれだけだと味気ないと思うわ」
「……」
 その通りだ。
「それじゃあ、何か展示を作ったりするのはどうですか? 写真と文章で何かを説明したり、動画を用意したり」
 そう明日香は提案するが、
「上手くやればそれも面白くなるだろうから、時間が余ればその準備もしたいわね。だけど、それをメインにするのは流石に少し寂しいわ」
「そうですよね……」
「……」
 そして僕らは沈黙した。
 やがて僕は観念して透に言った。
「透は文化祭で何をするべきだと思ってるの? さっきからもう何かアイデアがあるように見えるんだけど」
 透は「ふふふ」と不敵に笑った後、僕ら二人にこう告げた。
「プラネタリウムを作るわ」

 その提案に僕と明日香は驚いた。プラネタリウムといえば、それ専用の大きな施設があり、そこでお金を払って見るものだと、そう僕らは思いこんでいたのだ。
 が、どうやらそれはただ僕らが勉強不足なだけだったらしい。
 後で調べてみて分かったのだが、天文部が文化祭でプラネタリウムを自作するのは、結構一般的なことだった。
 もちろん、ちゃんとした施設と同じようなレベルのものを作るのは不可能だ。しかし程度の低いものの中には、中学生や高校生がサクッと簡単に作れてしまうものもあるという。
 考えてみれば、プラネタリウムというのはただ光を映し出すだけの装置だ。その原理自体はまったく難しくないのである。
「それに、自慢じゃないけど私、前の高校でプラネタリウムを作ったことがあるのよ。それも、座標と時間を入力するとその星空を映し出してくれるような、ちゃんとしたやつを」
 ふふんと鼻を鳴らしながら透は言う。
 ……それにしても「自慢じゃないけど」という言葉ほど自慢げな台詞もないのではなかろうか。
「と言っても、その時はパソコン部と合同の企画だったから、あまり私が貢献できたとは思えないけど」
 プログラムに関する多くの部分で彼らの力を借りたらしい。
「それに、時間が無くて北半球側しか完成できなかったけどね」
 たとえそれが北半球だけだったとしても、座標や時間を入力して星空を変えるというのは、なかなかすごいことなのではないだろうか。
 基本的に普通科の高校ではプログラミング等を学ぶことはないため、僕なんかからすれば何をどうしたのかさっぱり分からない。
「――と、言うわけだけど、二人はどう思う? プラネタリウムを作ることに関して」
「賛成です!!」
 明日香が飛び跳ねるように叫んだ。目がキラキラしている。
 もしかすると彼女の想像の中では既にプラネタリウムが完成しており、その感動に浸っているのかもしれない。
「作ります! 作りますよもちろん! 必要だと言うなら、不眠不休でプログラミングを勉強しますよ!!」
「あ、いや、今回はそういうのじゃなくて、もっと簡単なのにしようと思ってるから。誰かの助けがないとああいうのはできないからね」
「なんでもいいですよ! とにかく私は賛成ですから!!」
 そして透は僕のほうをちらりと見た。
「もちろん僕も賛成するよ。プラネタリウムって、普段星にまったく興味が無い人でも喜んでくれそうだし」
「よし! それならこれで決まりね!」
 透は笑顔でそう言った。
 ちなみに今この場に出席していない勇次郎だが、彼は最近かなり忙しいようだ。
 文化祭に関してはクラスの出し物と剣道部の出し物の両方の準備をしており、さらには夏休みの終わりには剣道の大きな試合があるらしく、その練習にも力を注いでいる。
 僕と一日中ダラダラとゲームをしたりしていた去年とはえらい違いだ。
 そんな彼の様子から判断して、恐らくこちらに顔を出すことはほとんどできないだろう。
 ……彼の意見を聞かず、僕らは三人で勝手に出し物を決めてしまったわけなのだが、そういう事情もあるということで許して欲しい。……まあ実際には、彼のことをすっかり忘れてしまっていただけなのだが。
 とにかくそうして、僕らはプラネタリウムを作ることになった。

 人数は三人と少なく、なおかつそのうち二人は完全な初心者のため、僕らはかなりシンプルな形のプラネタリウムを作ることになった。
 まずは肝心の本体として、アクリル半球を使用して恒星球を作成する。その工程は簡単だ。
 最初に星図を用意し、それをアクリル半球の内側に丁寧に貼っていく。その後、投影したい星の位置をマジックで正確に写しとり、全てを写しとったところでドリルを使って穴を開けていく。穴を開け終わったら、後はカラースプレーで半球を黒に染めていくだけだ。
 途中いくつか注意するところはあるが、基本的にはこれだけで恒星球を作ることができる。
 恒星球が出来てしまえば、あとは外の光を遮断するドームを作り、その中にそれを設置してしまえば、もうプラネタリウムは完成である。
 もちろんプログラミングの技術なんか必要ない。簡単な工作だけで容易に作ることができるというわけだ。
 以上のことを透は僕らに説明した。
 そしてその説明の後、早速作業に取り掛かるために、まず決めなくてはならないことがあった。
「役割分担をしましょう」
「……」
「……」
 意外と簡単に作れることが分かり、喜んでいた僕と明日香は透のその言葉に沈黙した。
 これから役割分担をする。たったそれだけのことになぜ僕らが沈黙してしまったかと言えば、それは単に、絶対にやりたくない役割があるからである。
 漂う緊張感の中、透は、
「まあ、私は恒星球とドームの作成に入るのが当然よね。以前の高校で天文部の経験があるわけだから。ドームの作成には段ボールを使おうと思ってるんだけど、あれは見た目以上に作るのが面倒だから、経験者は絶対に必要だと思うのよ」
 そう爽やかな顔で言った。
「でも一人でやるには作業量が多いから、もう一人くらいはこっちに必要ね。そして残った一人は……まあ、頑張ってね」
「……」
「……」
 再びの沈黙。
「あ、あの」
 明日香は恐る恐る口を開く。
「何?」
「残った一人ってのは、やっぱり……」
「もちろん。――中で解説をやってもらうわ」
 ――そうなのである。
 プラネタリウムという出し物はただ星を投影するだけでは終わらない。浮かび上がる星々について、やって来た人達に解説をしなくてはならないのだ。
 プラネタリウムに行った経験があまりない人は、たかが解説、と思うかもしれない。
 しかし実際のところ、その役割はすごく重大だ。
 プラネタリウムを見に来る人の中には、星に対して興味がない人もいる。特に文化祭という場でやるのなら、なんとなく見に来た、という人の方が多くなるのではないだろうか。
 そんな人達にプラネタリウムに入ってもらったとして、果たしてそれだけで感動してもらえるだろうか?
 言うまでもなく、答えはノーである。
 彼らは星を見るということの楽しみ方を知らない。だから、その楽しみ方を教える人が必要になる。そしてその人の実力によって、彼らが感動するかしないかが分かれてくるのだ。
 どんなに精巧なプラネタリウムであろうと、解説が拙ければ、見に来た人は喜ばない。そして逆に、プラネタリウムの程度が低かったとしても、その解説によっては喜ばせることができるのだ。
 つまり一言で言うならば、解説役というのはこの出し物で一番重要な役割なのである。
「ぼ、僕はちょっと」
「私なんてとてもとても!!」
 慌てる僕らに透は、
「何言ってるの。これはプラネタリウムの花形なのよ? それを押し付け合うってどういうことなのよ」
「そこまでいうなら透先輩がやってくださいよ!」
「そうしたいのは山々だけど、私はこっちの準備で忙しいからねー。二人のうちのどっちかに経験があれば、別に私がやっても良かったんだけどねー。あー、残念だなー」
 わざとらしく透は言う。
「……」
「……」
 来てくれた人に解説をする? まさか。そんなこと僕にはできない。
 人前で何かを話すというのは、僕の最も苦手な行動の一つだ。性格的に考えて、僕はどう考えても裏方向きだ。
「――明日香ならできるんじゃないか? ほら、友達多そうだし、話すのは得意だろ?」
「なななな何言ってるんですか! それとこれとは別ですよ!! ――正人先輩の方こそ、星座とかに詳しいんですから、やってみたらどうですか!?」
「……原稿を作る手伝いくらいならやってもいいよ」
「先輩がやるなら、私だってそれくらいは手伝いますよ!」
「まあまあ、二人共落ち着いて」
 透はそう言うが、落ち着いていられるわけもない。
 が、
「こういう時は、公平にジャンケンで決めるべきよ」
「……」
「……」
 その言葉に僕らはあっさり落ちつきを取り戻した。
 ジャンケン。完全に運に任せた決め方。二人でやるということは、二分の一の確率で僕は解説役をやらなければならなくなるということだ。
 そんな危険な賭けなどしたくない。
 しかし、それ以外に決める方法は思いつかない。このまま話し合いを続けたところで、何時まで経っても決まらないのは目に見えている。
 僕は覚悟を決めた。そして恐らく、明日香も。
「――先輩、やりますよ」
「ああ」
「「最初はグー、ジャンケン――――」」

 そのジャンケンは七回続いた。
 果たしてどういう偶然なのか、僕と明日香は同じ手を六回出した。そして引き分けるたびに、どんどん互いの緊張レベルは上がっていった。
 気づけば息をすることさえ忘れるくらいに集中している。脳の奥はキンキンに冷えており、もはやそのジャンケンの事以外は考えられない。暑さとは関係のない汗が頬をつたう。
 そんな魂を削るような七回の死闘の末、
「――――――え?」
 敗北したのは、彼女、九栗明日香であった。
「えーーーーーーーーー!?」
「――――やっ、た――」
 かすれた声で僕は勝利を喜んだ。
 高校受験に成功した時の百倍くらい嬉しかった。
「はい。それじゃあ決まりね。解説は明日香にやってもらうわ」
「そ、そんなそんな!! 今のは、今のは……! 後出しとか……!」
「私はちゃんと見てたわ。後出しなんて無かったわよ」
「か、鏡を使ったイカサマとか……」
「一体何を覗くのよ」
「じゃ、じゃあ――――その、えっと……!」
 ――とにかくそうして、僕ら三人の役割は決まった。
 透と僕が恒星球やドームの準備をして、明日香は当日の解説をすることになった。
 もちろん明日香だけで解説の原稿を作ることは難しいため、僕や透も手伝いをするということになっている。
 そして役割が決まったこの日から、僕らは文化祭の準備を始めた。
 僕と透が最初にしたのは材料集めだ。必要になる主なものとしては、恒星球を作る時に使うアクリル半球や、ドームの作成に使用する段ボールなどがある。
 段ボールに関しては、きちんとしたドームを作るためにはそれなりの量が必要になる。もちろん段ボールならなんでも良いというわけではなく、大きさや強度も考えなくてはならない。
 そして材料が集まったところで、僕らは恒星球、段ボールドームの順に作成していくことにした。
 その頃明日香はというと、どういう解説をすればいいのかを知るために、あちこちのプラネタリウムへ足を運んでいた。
 最初は自分がその役をやるということに本気で絶望していた彼女だったが、プラネタリウムを回るのは楽しいらしく、次第にその機嫌はもとに戻っていった。
 やがていくつかのプラネタリウムを経験した彼女は、解説の全体の構成を組み立てる作業に着手することになった。
 そして時間は過ぎ、夏休みは終わり新学期が始まる。
 三人共作業は順調に進んでいた。既に恒星球はできており、段ボールのドームもほとんど完成に近い。そして明日香のほうも、その原稿はでき上がりつつある。
 最初僕は、準備に時間が足りなくなるのではないかと心配していたのだが、実際にはその逆になった。むしろ時間が余ってしまったため、プラネタリウム以外にも簡単な展示を行うことにしたのだ。
 僕らのプラネタリウムを見てくれた人、あるいはこれから見てくれる人に向けて、シンプルなクイズを用意した。これで星に興味を持つ人が増えるといいなあ、などと思いながらクイズを考えるのは、思いの外楽しかった。
 そうこうしているうちにあっという間に時は流れていき、気づけばもう文化祭まであと二日になっていた。

 文化祭直前のこの時期、学校全体がかなり騒がしくなる。
 あちこちから何か指示を出している人の声が聞こえるようになり、廊下の隅などには用途不明の段ボールやら何やらが転がり始める。皆、最後の仕上げのために頑張っているのだ。
 しかし、僕ら天文部の準備はとっくに終わっていた。…………ただ、九栗明日香を除いて。
「――あの、ペルセウス座ってちょっと複雑すぎません? これ、私自身が場所を間違えちゃいますよ」
 プラネタリウムの上映中は、当然明日香はその中で解説をすることになる。レーザーポインター等を使用して説明をするわけだが、本人が場所を把握していなければもちろん話にならない。
「天文部員なのに情けないなぁ……」
「でも、間違えても多分誰も分からないですよね」
「馬鹿。本当に星が好きな人が見に来る可能性もあるのよ」
 透が呆れた顔で言う。
「そんなこと言われても……」
 対する明日香はもう半分泣きそうな顔である。それを見た透は小さくため息をついて、
「――仕方ない。じゃあ、分担しましょうか」
「分担?」
「私がレーザーポインターを動かして、あなたが解説をする、っていう具合に」
「え!? いいんですか!?」
「だって、本番で間違えたら大変だもの。それにまあ、外側は一人でも大丈夫だろうし」
「……まあ、多分問題無いと思うけど……」
 プラネタリウムの上映というのは、時間も人数も限られている出し物だ。そこで僕らは、一気に大勢の人が来るという事態をさけるために、入場券というものを配布することになっている。
 その入場券は、上映時間だけが書かれたシンプルなものだ。僕らは一日に五回上映をし、それを文化祭のある二日間続ける。つまり用意した入場券は十種類。そしてそれぞれ、一回の入場可能人数分だけ作成してある。
 出し物を見に来てくれた人には、まずその入場券を渡す。そして上映時間には、その入場券を持っている人だけがプラネタリウムを見ることができるということだ。
 そしてその入場券を渡したり受け取ったりするのが、本番での僕と透の役割だった。
 ここで透が上映時間中に中に入るとすると、その間それらの仕事は全部僕がやることになる。――といってもそんなに難しい仕事ではないため、少しばかり大変になったとしても、一人でできないこともないだろう。
「じゃあ外側は正人にお願いね。――それじゃあ明日香、一緒にやりましょうか」
「あ、あ、ありがとうございます先輩!」
 そうして明日香は感激しながら頭を下げた。と、ちょうどそこで何かの電子音が鳴った。
「――おっと。ごめんね」
 透はポケットから携帯電話を取り出した。無機質なその電子音は、彼女の携帯の着信音だったらしい。
 彼女はそのディスプレイを見て、微かに笑みを浮かべた。親しい人なのだろうか。
「――茉莉? 久しぶりね。どうしたの?」
「…………」
「あれ? どうしたんですか正人先輩? なんか微妙な顔をしてますけど」
 茉莉と言って思い出すのは、以前会ったことのある性格がかなり珍妙なあの女の子だ。うまく形容することができない感情が顔に現れてしまうのも仕方がない。
 透はそのまま電話で話をする。しかし一体どういう内容なのか、最初は笑顔だった彼女の顔が、次第に困ったようなそれに変わっていく。やがて、
「……ごめんね。ちょっと考えさせて。――大丈夫。出来る限り協力するから……それじゃあ、また後で」
 透は困り顔のまま通話を終えた。
「…………はぁ」
「……どうしたんですか? 透先輩」
「ちょっと、私が前いた高校で、友達が少し困ってることになってるらしくて……」
「困ってること?」
 ――それからの彼女の説明を要約すると、つまりはこういうことだった。
 透は一年前、こことは違う高校の天文部で、文化祭の出し物としてプラネタリウムをやった。しかしそれは今僕らがやっているような簡単なものではなく、プログラムで制御するそれなりに手のかかるものらしい。彼女はそれをパソコン部の部員と協力して成功させたのだ。
 そしてそのプラネタリウムはかなり評判になったらしい。それ自体は喜ばしいことだったのだが、一年経った今、今度はそれが困った事態を引き起こしていた。
 茉莉が言うには、去年のそのプラネタリウムの評判を聞いて、今年もすごい出し物をやるのだろうという期待が高まっているのだという。
 が、去年のプラネタリウムの作成にメインで関わっていた透は既にこちらに転校してきており、また、その時に協力をしたパソコン部の部員はもう卒業してしまっている。そして残された人間には、去年のプラネタリウムを満足に動かすことさえできないらしい。
 そういうわけだから、少しの間こっちに戻って来て手伝って欲しい、ということだった。
「……そのプラネタリウムを動かすのって、そんなに難しいことなの?」
 僕が尋ねると、透はなんとも言えない顔をして、
「そういうわけじゃない、と私は思うんだけど……。でも、私が入部するまでの天文部って、結構いい加減だったから。動かすことができる人がいないってのは、あながち間違いでもないかもしれないのよ」
 結構いい加減だった、という部分に妙に感情が篭っているような気がした。
 もしかすると、ガタガタに崩れかけていた天文部を彼女は立て直したのだろうか。彼女の真っ直ぐな性格と、その能力を考えればそれも十分に考えられる。
 如月茉莉が透のことをやたら尊敬している理由を僕はまだ聞いていないが、ひょっとするとそういう経緯があったからなのかもしれない。
「――困っているなら行ってあげなよ。透は、前の天文部も好きだったんだろ?」
「うん……。そうしたいんだけど、向こうに行ってしまったら、こっちの文化祭に出ることができなくなるから……」
 ああ、そういうことか。
 以前彼女が通っていた高校は、ここから随分と遠い。行き帰りだけでも一泊は要る。向こうで動作のチェックや部員への説明をしたとすると、もっと時間はかかる。……つまり、間に合わない。
 そして文化祭に出られないということは――
「えっと、もしかして、私のせいで行けないんですか?」
 明日香は恐る恐るという様子で言った。
 ちょうど電話がかかる直前、二人で協力して解説をするという約束をした。透がここでいなくなれば、明日香は一人でやらなくてはならなくなる。
「――別に、明日香のせいじゃないわ。私だって文化祭に出たいのよ。ここまでやったんだから」
「…………」
 僅かな間、部室が沈黙に覆われた。
 しかし、
「私なら大丈夫ですよ」
「明日香……?」
「まだ時間はありますから、今から頑張って覚えます。最初からその予定だったんですから、問題ないですよ。それに、複雑な星座以外はもう頭に入ってますから」
「……」
「だいたい私も天文部なんですから、こんなの余裕ですよ余裕。できないほうがおかしいです。だから行ってきて下さい透先輩」
「…………」
 そして再びの沈黙。
 迷った末、彼女は顔を上げた。
「ありがとう。――私、今から行く準備をするわ」
 そうして、僕らは透が不在の状態で文化祭を迎えることに決まった。

「――と言うわけで、いよいよ明日が文化祭なわけだけど。大丈夫そう?」
 僕が言うと、明日香は心配そうな顔をして、それでも、
「意外と、できるような気がします」
「そう?」
「はい。昨日は夜遅くまでずっと覚えてたんですけど、……まだ完璧というわけではありませんが、明日までにはなんとか」
「そっか。それはよかった」
 色々と不安はあるが、今は彼女の言葉を信じよう。
「さて、じゃあ道具を運ぼうか。さっさとやって、実際のプラネタリウムの中でリハーサルをしよう」
「はい!」
 そうして僕と明日香は、割り当てられた教室まで必要な物を運びはじめた。
 まずはプラネタリウムとは関係ない展示品を一つ目の教室に運び込む。そして次に段ボールで作ったドームのパーツを二つ目の部屋へと運ぶ。そしてドームを組み立ててから、最後にいくつかの小さな物を運ぶことになった。
 上映時間を記した張り紙やその入場券、そういった雑多なものを僕が、そして――プラネタリウムの要である恒星球は明日香が持つことになった。恒星球を固定する台については既に運び終わっているため、それ自体はとても小さく、小柄な彼女でも一人で運ぶことは簡単だった。
 ――――が、後から顧みれば、どうしてこの時彼女に恒星球を持たせてしまったのかと思う。
 別にそれを僕が運んでもよかったのだ。彼女は、落としても壊れないような、僕が持っているものを運んでも、別によかったのだ。……だが、実際には逆だった。
 教室に戻ると、そこには暗幕が置かれていた。当日は電灯を消し、暗幕によってかなり暗くなった教室で、さらに段ボールのドームの中に入るのだ。その時に使用するために委員会に予約しておいた暗幕を、誰かが持ってきてくれたらしい。
 床に直接置いていったという点については文句を言いたいが、その程度のことで恨むわけにはいかないだろう。
 ただ、教室に入ろうとした明日香がその暗幕に足をとられて転んだというのは、紛れも無い事実だ。
 そして彼女が両手で抱えていた恒星球がその手から離れ、まるで吸い込まれるかのように窓の外に消えていったのもまた、事実である。
「――あ」
 ここは校舎の三階だ。そして窓の下にはアスファルトがある。アクリルという素材はそんなに脆いものではないが、これだけの条件が揃えば無事でいられるはずもない。
「あ、あああああああああああああああ!?」
 明日香は叫んだ。対する僕は頭の中が真っ白になっていた。
 僕と明日香は慌てて階段を降り、それが落ちた場所へと走っていった。
 拾って確認すると、ぱっと見は球の形を留めており、無事のように思えた。が、もちろん無傷なわけがない。
 その恒星球には致命的なまでに大きな亀裂が入っていた。
「あ、あ、あ」
「…………」
 言葉にならない声を出す明日香と、声を出すことさえ出来ない僕。
 本番を明日に控えた今、これは絶望的な出来事だった。

 まず最初に、その亀裂を接着剤で塞ぐことを考えた。
 しかしそれはうまくいかなかった。大きな傷痕に関してはなんとかなるのだが、小さく細かい部分になると、それを修正するのはもう不可能だった。
 この恒星球を修理することはできない。ならばどうすればいいのか?
 一つだけ簡単な方法がある。それは、プラネタリウムという出し物自体を最初からなかったことにしてしまうのだ。
 しかしそれは、今まで僕らが頑張ってきたことを全て捨ててしまうということでもある。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。私が、もっとちゃんとしていたら。ごめんなさい!」
「……いや、謝らないで」
「でも、私が……」
「いいから。――いいから、明日香は帰って、明日に備えたほうがいいよ」
「明日に……?」
「リハーサルはほとんどできないから、その分、今日中に全部しっかり確認しておいたほうがいい」
「え? ……正人先輩は?」
「頑張って間に合わせるよ。これから」
 修理はできず、かといって出し物を取り消すのは嫌だ。だとすれば、もう方法は一つしかない。
 一から作り直すのだ。今から急いで。
「い、今からやって間に合うんですか!?」
「――――問題なく進めば、なんとかギリギリ、っていう感じかな」
 アクリル半球に星の印をつけ、ドリルで穴を開け、黒く塗装をするだけ。言うほど簡単ではないが、実際にやることといえばたったこれだけだ。
 だから今から急いでやれば、間に合う可能性は十分にある。
「で、でもそれじゃあ私も手伝いますよ! 私が壊したんですから!」
「馬鹿。僕は明日、ただ入場の管理をするだけだけど、明日香は明日こそが本番なんじゃないか」
 作り直すのにいったいどれだけ時間がかかるか分からない。日付が変わるまで頑張らなくてはならないかもしれない。
 彼女の役は、そんな疲れきった状態でこなせるものではないのだ。
「そ、それでも」
「今まで頑張ってきたんだから、ちゃんと成功させたいんだ。明日香だってそうだろう?」
「…………」
 彼女は少しの沈黙の後、
「……はい。分かりました。恒星球は全部任せますね、正人先輩」
「うん。任せてくれ」

 ゆっくりと時間は過ぎていく。
 外ではもう太陽が完全に沈みきっている。白い電灯の下、僕は一人で作業を続ける。
 星の印をつけるところまでは、手間取ることなく簡単にできた。しかし問題なのはドリルを使って穴を開ける工程だ。
 恒星球を作る一番重要な作業であり、失敗は許されない。普段からこういう機材に慣れている人は問題なくこなせるのだろうが、僕はほぼ完全な素人である。
 前の恒星球を作る時は、この作業の殆どを透に任せていた。僕はただ横で見ているだけだった。そんな状態で果たしてうまくいくのか。
 しかし、心配していても仕方がない。
 僕は部室から技術室に移動した。
 広い部屋に、僕の足音だけが響く。
「……やるか」
 小さく深呼吸をすると、僕はその作業を開始した。
 作業をしている間にも時間は流れていく。
 そして始めてからどれだけの時間が経過したのか、気づけば時計の針は夜の十一時を指していた。途中、軽い夕食を摂るために作業を中断したのだが、それでもかなり長い時間このドリルと向き合っているような気がする。
 しかしそのかいあってか、もう恒星球の大部分は完成してきている。まだ四分の一ほど残っているが、ここまでくればなんとかなるだろう。
「もっとギリギリになるかもしれないと思ってたけど……これなら結構、余裕を持って終われそうだ」
 僕は軽く安心した。
 ――――そうしてほっとしたのが、僕の一番の失敗だった。
 人は気を抜いた瞬間にミスをするものなのだ。だから僕は、安心するのはドリルを使った工程を全て終わらせてからにするべきだった。後は塗装をするだけ、という段階になってから。
 しかし僕はそれができなかった。
 そして、
「――――――あっ」
 その気の緩みが、致命傷となった。
 ドリルの位置が少しだけズレた。そして焦った僕は、慌ててそれを修正しようとして、さらに悪いことになった。
 ぴきりと、アクリル半球にヒビが入ってしまったのだ。
「あ、ああ……!」
 失敗した。
 あと少しだったのに、こんなところで、失敗してしまった。
「ど、どうすれば……」
 全身から冷や汗が出てくる。心臓の音がうるさい。まずは落ち着かなければならない。落ち着かなければ。
 ゆっくりと深呼吸をして、落ち着いてそのヒビの入ったアクリル半球を眺める。
 昼に壊してしまったあの恒星球ほど大きな亀裂ではない。が、小さいわりに、その壊れ方は非常にやっかいだ。こういうのに慣れている人ならともかく、初めてプラネタリウムを作る僕には、到底直せそうにない。
 ダメなのだ、これは。
 またしても壊れてしまった。
 ――だとすれば、再び、作りなおさなければならない。
「……夕方からずっと作業をしてきて、今までだいたい五時間か六時間。今からやれば、ギリギリ、間に合う可能性はある……」
 可能性があるのならば、やらなくてはならない。幸い、予備のアクリル半球がまだ残っている。
 失敗に驚き、恐怖している場合ではないのだ。
「――よし」
 誰もいない部屋で一人、僕は気合を入れた。

 ――父が買ってくれた星座の本は、すごくシンプルなものだった。
 代表的な星座がいくつか、それにまつわる物語とともに載っている。それは全体的にあっさりしていて、明らかに子供向けに書かれた本だった。
 僕はそんな本を持って外に出た。
 星空を見上げて星座を探すのは、パズルのピースを当てはめていくのに似ている。
 最初の頃の僕が見たのは、光が沢山あるだけの、ただの暗い空だった。本の中で図に示されていても、星座など簡単には見つけられない。どれがどの星かなんて、一目見ただけではわからない。
 何度も本と空を照らしあわせて、ようやく僕は一番簡単な星座を見つけた。……はっきりとは覚えていないが、多分それは、夏の大三角だったと思う。ベガ、アルタイル、デネブによって作られる、かなり有名な三角形だ。
 それを見つけた時、ピースがぱちりとあったような気がした。今まで完全にバラバラだった星空から、一つのある法則を見つけだしたのだ。
 そして次の項目にある星座を探し始める。そしてそれが見つかればさらに次を。……そして気づけば、僕の目に映る星空は、その本を読む前とは随分違っていた。無秩序に並んでいた光が、いつのまにかいくつもの世界を作り出していた。
 星座なんてものはただのこじつけだ。こんなふうに見えなくもない、という適当な想像の集合だ。
 しかしそんなあやふやなものでありながら、実際にそれによって作り上げられた世界は、確かに美しかった。当時まだ小学生だった僕にも、その美しさを理解することはできた。
 そしてその美しさを共有したくて、よく透を連れて星を見に行った。
 きちんと共有できていたのかは分からない。その時透が、僕と同じように感動していたかどうかは、分からない。しかし、当時の僕はそれでも満足だった。
 そうして見上げた星空は、随分と時間が経った後でも、僕の心の奥にちゃんと残っていた。
 その出来事自体は忘れてしまっていても、その時の感覚は、きちんと記憶されていた。
 ふと思う。
 天文部を一緒に作ろうと言う透の手を僕が取った時、もしかすると僕は、あの頃に戻りたいと願っていたのかもしれない。
 美しい光景を見て、それを彼女と共有して、そんな、幸福な時代に戻りたかったのかもしれない。嫌なことなど何もなく、毎日が楽しく、素晴らしかったあの時代に。
 だけどもちろん、あの頃に戻るなんてことはできない。時間は戻すことも止めることもできない。
 だから、――だから僕ができる事と言えば、本当はもうたった一つしかない。

 気づけば全身が激しく揺らされていた。
 意識はどこか朦朧としていて、今にも眠ってしまいそうだ。――いやもしかしたら、今の今まで眠っていたのかもしれない。何か懐かしいことを思い出していたような気もする。
「―――――先輩」
 誰かの声が耳に入ってくる。
「――先輩。そろそろ起きて下さい。開会式が始まりますよ」
「…………え?」
 ぼんやりと目を開けると、そこには後輩である明日香の姿があった。
「あ、ああ――」
 僕はうめき声を漏らしながら上体を起こした。睡眠不足でぐにゃぐにゃになった思考回路に、だんだんと昨日の記憶が流れ込んでくる。
「それにしても先輩、ありがとうございます! 間に合ったんですね! すごいです!」
「――ああ、頑張ったよ」
 それが完成したのは、恐らくちょうど今から一時間くらい前だ。
 文化祭の準備のために校舎に宿泊していた人達が、徐々に起き出してくる時間帯。僕はなんとか、恒星球を作成する全ての工程を終えたのだ。
 そしてドームの中で一度それの試運転をし、ちゃんと使えることを確認してから、僕は眠りに落ちた。ふらふらと天文部の部室に行き、寝袋を探したところまでは憶えている。
「私も今日はもうバッチリですよ。完璧です。今朝、早くに来て一度簡単なリハーサルをしたんです。全然問題なかったですよ」
「そっか。明日香も、頑張ったな」
「先輩ほどじゃありませんよ。――――と、それより時間が無いんですよ。あと十分くらいで開会式が始まっちゃいます。急いで体育館に行かないと」
 別に、開会式なんて出なくても問題はない。
 このままここで仮眠を取り続けることもできる。
 が、僕はそうしたくはなかった。そしてそれが分かっているからこそ、彼女は僕を起こしたのだと思う。
 今日と明日の二日間は、僕らが今まで頑張ってきたことを発表する場だ。どれだけ疲れていようとも、その最初のスタートをいい加減にきることはできなかった。
「――ん。じゃあ僕は顔を洗ってくる」
「急いで下さいよ!」

 開会式が終わると、それぞれ生徒達は自分の居場所へと戻っていく。
 僕と明日香はそのままプラネタリウムのある教室へと向かった。
 始まるまでに明日香はそこで簡単なリハーサルをした。僕もそれを見ていたのだが、彼女の言う通り、その解説は完璧だった。よく短い時間でここまでできたものだと思う。
 それから僕は廊下に設置した受付に向かい、プラネタリウムに興味を惹かれてやってきた人達に、入場券の説明と配布をした。もしかすると、星に興味を抱く人なんてほとんどいないのではないかという心配もあったのだが、結果からするとそれは杞憂だった。
 用意した入場券はどんどん減っていった。
 そのことに喜びを感じているうちに、一回目の上映の時間がやってきた。
 本番になって明日香が何か大きな失敗をするのではないか、なんてこともチラリと思ったのだが、これもまたやはり杞憂だった。
 教室から出てくる人達は皆、満足げな顔をしていた。
「先輩! やりましたよっ」
「うんっ。すごく好評だった。この調子でいこう」
「はい!」
 それからのプラネタリウムの上映も、特に何の問題もなく成功していった。
 そして一日が終わるころには僕も明日香もクタクタに疲れていた。僕は昨日から一時間くらいしか眠っていない、そして彼女のほうは今日一日ずっと頑張っていたのが原因だろう。互いに相手をねぎらうだけの余裕もなく、それぞれさっさと家に帰って休むことにした。
 そして二日目。
 僕が受付に座っていると、勇次郎がやってきて、
「少しの間代わってやろうか? 昨日は俺も忙しかったが、今日は一日中自由なんだ」
 そう提案したので、僕はその言葉に甘えることにした。
 ……ちなみに昨日勇次郎は、体育館の舞台でやる何かの劇に出ていたらしい。役柄はヤクザで、妙に堂に入ったその様子はなかなか好評だったと聞いている。彼の演技力について僕はまったく知らないが、普段から好んで任侠映画などを見ていることを考えると、そういう評価も十分にありえるのかもしれない。
 昨日は一日中受付に張り付いていたため、僕は他の出し物を何も見ることができていない。明日香でさえ、上映時間の合間を縫ってクラスメイトらしき人たちと外部ステージを見に行っていたというのに。
 しかし、いざ勇次郎に仕事を任せて自由時間ができてしまうと、今度はそれを持て余すようになってしまった。
 何よりも悪いのは、僕が一人だということだ。
 なんとなく、文化祭当日は勇次郎だとか透だとかと一緒にあちこちをまわることができると思っていた。
 しかし実際には、勇次郎は僕のかわりに受付に座っており、透に至ってはそもそもこの町にはいない。……というか、透はいつ帰ってくるんだろう?
 どれだけかかるとか、何時までには帰れるだとか、そういうことは一切聞いていない。
「はあ……」
 僕は小さくため息をついた。
 結局この自由時間、僕はとくに目的もなく校舎内をふらふらとさまよっただけで終わった。せっかくの文化祭なのに、もったいない。

「正人」
「え?」
「うまくやれてる?」
 プラネタリウムの最後の上映が始まる直前、僕に声をかけてきたのは透だった。
「あ、帰って来たんだ」
「うん。ちょうど今。……ごめんね、任せっきりにしてしまって」
「いいよ。それで向こうはうまくいったの?」
「もちろん。完璧よ」
 透は笑顔で言った。
「それより、こっちの調子はどう? 何か問題が起きたりとかは?」
「うーん。ちょっとトラブルはあったけど、問題なくできてるよ」
「トラブル?」
 僕は、文化祭直前に恒星球が壊れてしまったことを話した。それに驚く彼女だったが、さらに、僕が徹夜で頑張って当日に間に合わせたことを話すと、彼女はほっとした顔をした。
「そうか、やっぱり正人はすごいわね」
 彼女のその言葉がくすぐったかった。
 そうして彼女と話しているうちに、最後の上映が終わった。
 満足気な顔でプラネタリウムから出てくる人々。最後の最後で、彼らのその様子を、発案者の透に見せることができて本当によかったと思う。
「あ、透先輩!」
「明日香。ちゃんと出来たみたいね。よく頑張ったわ」
「先輩っ」
 透の顔を見て感極まったのか、明日香は彼女に抱きついた。
「やりましたよ、私。最後までやりきりましたよ! 頑張りましたから!」
「うん。そうだね。ありがとう」
 明日香はその感情の揺れが頂点に達したのか、そのまま泣き始めてしまった。透は戸惑ったような表情で彼女の頭を撫でている。まるでお母さんだ。
 やがて落ち着くと、僕らは揃って体育館へと向かった。もうすぐ閉会式がある。
 二日間に渡る文化祭はもう終わろうとしていた。

 分厚く重い扉を開くと、そこから冷たい風が一気に吹き込んできた。
 もう太陽は完全に沈んでいる。この時間帯の屋上はひどく寒い。暦の上ではまだ秋だが、実際にはもう冬に入りかけているのだろう。
 そんな寒さを感じながら、僕は屋上の柵のところに歩いて向かった。
 見下ろす町並みはキラキラと輝いている。沢山の生活の光がある。そして上を見れば、目に入ってくるのは無数の星々。
「……終わった、な」
 今から二時間くらい前に、閉会式が終わった。そしてそれからは片付けの時間だった。
 いくつかの展示と、プラネタリウムの恒星球自体は保存しておくことにしたが、段ボールドームはそのまま捨てることにした。
 そうして段ボールをゴミ捨て場に持って行くと、そこには沢山の人が来ていた。そして、数えきれないほど多くのゴミが集まっていた。それらは少し前まではゴミではなく、誰かを喜ばせるための何かだったのだと思うと、すこし不思議な気分になった。
 あちこちから、何かを壊したり取り外したりする音が聞こえてくる。少し前までは、みんなそれを作り上げるのに必死になっていたのに。
 彼らは皆自分の努力の証を壊しているのだ。
 しかし、そこに悲壮感などあるはずがない。あるのはただ、満足気な笑みだけ。
 そうして片付けをしている間の空気はすごく居心地が良かった。終わってしまったことの寂しさと、最後までやりとげてやったという達成感が混ざり合っている。もしかするとこれこそが青春というものなのではないかと、そんな恥ずかしいことを思ったりもした。
 やがて片付けの時間は終わり、生徒達はそれぞれ帰宅することになった。
 しかし僕は、心のどこかがまだ落ち着いていなかった。もう少しだけ、この祭りの後の空気に浸っていたかった。
 そうして僕は、こんな時間に屋上にやってきていた。
「……」
 今日は楽しかった。
 少し前まで、こんな気持ちを抱くことができるようになるなんて、想像さえしていなかった気がする。
 家族を失った時、世界は透明になってしまった。何をしていても現実味がなく、ありとあらゆるものが白々しく見えていた。
 しかし今、なんとなく、世界に色が戻って来たような気がする。はっきりとはわからないけれど、なんとなくそんな感じがする。
 そして、そうなったのはきっと、彼女の存在があったからなのだと、僕は思う。
 唐突に、重たい扉が開く音がした。
「あ、こんなところにいたんだ」
「透……」
 彼女は風に揺れる髪を手で抑えながら、僕のところに向かってくる。
 ふと、僕は唐突に泣いてしまいそうになった。
 慌てて僕は目を大きく開いて空を見上げた。乾燥した風が、涙を引っ込めてくれる。
「こんなところでどうしたの?」
「い、いや……。ちょっと、空が見たくて」
 声に動揺が現れてしまうのを必死に押さえた。
 透は僕の隣に立ち、同じように星空を見上げる。
 僕のすぐ横に彼女がいる。三十センチも離れていないのではないか。触れようと思えば、すぐに触れることができる。なんだか変な気分になってくる。
 その気持ちを紛らわすために、僕は見上げた空に意識をやった。
 そこには光。あんなに暗い場所に、こんなに沢山のきらめきがある。だけどそれは、きっとそんなに珍しいことじゃない。僕らの現実も、これと同じなんだ。
 すっと視線を落とすと、星に見とれる透の姿がある。その開かれた瞳に、星空が映しだされている。
 僕はそれに吸い寄せられるように近づき、
「え?」
 気づけば、彼女にくちづけをしていた。
 やさしい香りがする。今まで一緒にいたのに、嗅いだことは一度もない。ゼロ距離にまで近づいてようやく感じることのできたそれが、今はひどく愛おしい。
「え? ――え!?」
 透は戸惑っている。そして僕もまた、自分の唐突な行動に驚いていた。
 何か言わなければならないとは思うが、何を言えばいいのかわからない。そしてその沈黙がさらに僕の口を重たくしていく。
 膠着状態がそのまま続き、やがて、透は両手で自分の顔を覆った。
 そして漏れるのは嗚咽。その泣き声を聞いて、僕は一気に現実に引き戻された。全身の血が凄まじい勢いで引いていく。
 僕は慌てて弁解を始めた。
「ご、ごめん! なんか、ちょっと、衝動的になっちゃって――」
 途中で言葉を止めた。透が首を横に振っていた。
「違う、違うのよ。……ごめんね。なんか感情が、溢れちゃって」
「……」
 つまり、嫌だったというわけでは、ないということか?
 再び見た透の顔は、泣きながらも笑っていた。だから多分、そういうことなんだろう。
「好きだ」
「……うん」
「だから、付き合おう」
「…………うん」
 彼女は頷き、そしてどういうわけか、また両手で顔を覆った。そして今度は、先ほどまで小さな嗚咽ではなく、大きな声で泣き始めた。必死に声を抑えようとしていても、うまくできないようだ。
 なんとなく、そうして泣く彼女に懐かしさを憶えた。
 今から七年程前。透がこの町を去る時も、こんなふうに号泣していた。彼女の両親がすごく困った顔をしていた記憶がある。
 そういえばその時、僕は泣いていたんだっけ? それとも泣いていなかったっけ? そのあたりの記憶はかなり曖昧だ。
 僕はそんな過去のことを頭の隅で思い出しながら、できるだけ優しく彼女を抱き寄せた。
「ありがとう」
 そして呟く。
 また、この町に戻って来てくれて、ありがとう。……本当なら、彼女に会った最初の日にこれを言わなくちゃいけなかったのかもしれない。
 彼女の体は温かかった。
 その熱によって、ゆっくりと、僕の中で止まっていた何かが動き出したような気がした。
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