第六話 絆と本能の両天秤
「多芸なヤツだな…」
紗薬による手当てを受けながら、俺は呟く。
鎌鼬の援護を受けながら懐に潜り込んで放った全力の一撃。
あれは結局直撃とはいかなかった。
衝撃が伝わり切る前に、ヤツは拳を押し返す突風を生み出しながらも同時に自らを後方に吹き飛ばす突風をも発生させた。
直打の威力を殺しつつ、高速で後ろに飛んで衝撃を逃がした。
それを理解した瞬間に俺も咄嗟の判断で“倍加”を五十倍にまで引き上げて拳を振り抜いたが、おそらく伝わった衝撃は直撃の半分程度だろう。
言葉も忘れた獣のような状態のくせに、戦闘面では予想以上に頭を使っているようだ。
「実際、本気で戦えば一番強いのは転止ですから。普段から生き物を傷つけることを嫌がっていたので、あそこまで全力の転止を見るのはわたしたちも初めてでしたが…」
壺から掬い取った薬を俺の外傷に塗る紗薬が俺の呟きにそう答える。
半減されたとはいえ、全力の一撃をもらった転止は腹を押さえて下がり、そのまま旋風と共に路地裏から逃げ出した。
追う気はなかったし、夜刀も単身追撃したところで意味が無いことをわかっていたのか追い掛けようとはしなかった。
いくら人気のない路地裏だったとはいえ流石に騒ぎ過ぎた。誰かに見られる前に、俺達は路地裏を構成していた建物の屋上へと駆け上り人目を避けた場所で手当てを行った。
「確かに、ありゃお前らじゃ手に負えないな…ぺっ」
「あの、人間さん」
「なんだよ」
錆臭い口の中の唾を屋上の端に吐き捨てると、紗薬が壺を抱えて俺を見上げていた。
「もしかして、体の内側も傷ついているんじゃないですか?口から血が…」
「だったらなんだよ」
「これ、舐めてください」
ずいっと薬の壺を差し出す。
「………これ、塗り薬だろ」
「体内の傷は、これを取り込むことで癒えます。直接塗るわけじゃないので少し時間は掛かりますが…」
塗ってもいい、舐めてもいい。やたら万能だな。
「鎌鼬の性質からして内臓の傷を治す機会はないと思うんだが」
「はい。ですがわたしは『薬』に特化した鎌鼬ですので、こういうこともできます」
『旋風』も『鎌』も他より劣る分、『薬』の能力が高いんだったか。そういえば。
夜刀は擦過傷を治す程度しかできないとか言ってたしな。
…………。
「おい、あの転止ってのは鎌鼬としては一番優秀だったんだよな、『旋風』と『鎌』の役割を両方こなせるくらいに」
なら。それなら、
「『薬』はどうなんだ。アイツ、傷を癒す『薬』としての素質はどうだったんだ」
俺の言葉に紗薬は顔を伏せて、
「…転止の『薬』としての素質は、わたしよりは下で、夜刀よりは上でした」
「ハッ、ちょっとした打撲だの裂傷だのだったらすぐさま自力で治すだろうよ、アイツは」
自嘲気味に言った夜刀の発言で、さっきの一撃がほとんど無意味に終わったのを理解する。
一度撤退した以上、次に現れるまでにダメージの回復を図るのはいくら獣と化した鎌鼬でも当然の行動だろう。
「面倒臭いな…」
思わず口に出たその言葉を聞いて、夜刀が俺を一瞥して、
「だからテメエはもう失せろっつってんだ。関係ねえだろうが」
「お前も人の話を聞かないヤツだな。もう無関係じゃねえって言ってんだよ」
溜息混じりに答えながら、紗薬の壺から薬を一掬いして口に運ぶ。
…なんだろう、まろやかな甘みがある。でも甘過ぎない、キャラメルを薄めたみたいな。
まさか糖分が入っているわけもないだろうが、何故こんな味がするんだ。まあ不味いよりかはいいけどさ。
「何が関係あるんだよテメエに。散々オレらのことをけなしておいて」
別にけなしたつもりはなかったが、コイツの中ではそういう認識だったんだろう。いちいち訂正するのも面倒だ、コイツに説明する気もない。
だから夜刀の疑問にだけちゃっちゃと答える。
「転止は次も俺を狙ってくるだろう。粗末な屑肉を食ってたのにいきなり極上のステーキにかぶり付いたらもう次はそれしか食えない」
ヤツは俺の血肉をとても美味そうに喰らい付いていた。自覚は無いが、異能を持ち、なおかつそれを使いこなしている人間の味というものは人食いからしたら忘れられないほどの美味であるらしいから。
「明日の晩かそこら。下手すりゃ人気が無くなった瞬間日中でも襲ってくるかもしれねえが、好都合だ。これでこっちから探す手間も省ける」
「…もしかして、その為にわざわざ転止に自分の体を食べさせた、んですか?」
紗薬が信じられないとでも言わんばかりの眼差しで俺を見ている。
「悪いかよ、こっちだって巻き込ませたくない人がいる。そっちに矛先が向く可能性を考えれば、ずっと俺に向けてくれてた方が気が楽なんだ」
手遅れになって嘆くよりは、関わりたくなくても我慢して手早く片づけた方がずっといい。
「お前らも諦めるつもりはないんだろ、どうするかは勝手だがあまり俺の周りをウロチョロすんのはやめろよ」
俺の周囲にいればいずれヤツはやってくる。コイツらとしてもその方が仲間とケリをつけるのも都合がいいはずだ。
正気に戻すにしても、殺すにしてもな。
「テメエ…何考えてんだ」
見れば、夜刀はさっきとは違う感情の乗った瞳で俺を見据えていた。
怒りから困惑へ。
俺のやっていることが、コイツにはよくわからないらしい。
そんなに理解できないことだろうか。そんなことは決してないとは思うんだが。
「考えてること自体はお前とそう変わらんよ。お前らがお前らで|人外《なかま》の為に命張るのと同じように、俺だって|同属《にんげん》…特に親しい人の為ならこれくらいやろうと思えるさ」
だからこの鎌鼬達の気持ちもわからんでもない、というか分かる。
ただ俺が人外を好きになれないから関わりを持とうとはしていないだけで、根底の部分は人外も人間も大差ないとは思う。
でも、やっぱり俺は認められない。
人を傷つける人外を。
俺自身が傷つけられてきたからこそ。
認められない。
紗薬による手当てを受けながら、俺は呟く。
鎌鼬の援護を受けながら懐に潜り込んで放った全力の一撃。
あれは結局直撃とはいかなかった。
衝撃が伝わり切る前に、ヤツは拳を押し返す突風を生み出しながらも同時に自らを後方に吹き飛ばす突風をも発生させた。
直打の威力を殺しつつ、高速で後ろに飛んで衝撃を逃がした。
それを理解した瞬間に俺も咄嗟の判断で“倍加”を五十倍にまで引き上げて拳を振り抜いたが、おそらく伝わった衝撃は直撃の半分程度だろう。
言葉も忘れた獣のような状態のくせに、戦闘面では予想以上に頭を使っているようだ。
「実際、本気で戦えば一番強いのは転止ですから。普段から生き物を傷つけることを嫌がっていたので、あそこまで全力の転止を見るのはわたしたちも初めてでしたが…」
壺から掬い取った薬を俺の外傷に塗る紗薬が俺の呟きにそう答える。
半減されたとはいえ、全力の一撃をもらった転止は腹を押さえて下がり、そのまま旋風と共に路地裏から逃げ出した。
追う気はなかったし、夜刀も単身追撃したところで意味が無いことをわかっていたのか追い掛けようとはしなかった。
いくら人気のない路地裏だったとはいえ流石に騒ぎ過ぎた。誰かに見られる前に、俺達は路地裏を構成していた建物の屋上へと駆け上り人目を避けた場所で手当てを行った。
「確かに、ありゃお前らじゃ手に負えないな…ぺっ」
「あの、人間さん」
「なんだよ」
錆臭い口の中の唾を屋上の端に吐き捨てると、紗薬が壺を抱えて俺を見上げていた。
「もしかして、体の内側も傷ついているんじゃないですか?口から血が…」
「だったらなんだよ」
「これ、舐めてください」
ずいっと薬の壺を差し出す。
「………これ、塗り薬だろ」
「体内の傷は、これを取り込むことで癒えます。直接塗るわけじゃないので少し時間は掛かりますが…」
塗ってもいい、舐めてもいい。やたら万能だな。
「鎌鼬の性質からして内臓の傷を治す機会はないと思うんだが」
「はい。ですがわたしは『薬』に特化した鎌鼬ですので、こういうこともできます」
『旋風』も『鎌』も他より劣る分、『薬』の能力が高いんだったか。そういえば。
夜刀は擦過傷を治す程度しかできないとか言ってたしな。
…………。
「おい、あの転止ってのは鎌鼬としては一番優秀だったんだよな、『旋風』と『鎌』の役割を両方こなせるくらいに」
なら。それなら、
「『薬』はどうなんだ。アイツ、傷を癒す『薬』としての素質はどうだったんだ」
俺の言葉に紗薬は顔を伏せて、
「…転止の『薬』としての素質は、わたしよりは下で、夜刀よりは上でした」
「ハッ、ちょっとした打撲だの裂傷だのだったらすぐさま自力で治すだろうよ、アイツは」
自嘲気味に言った夜刀の発言で、さっきの一撃がほとんど無意味に終わったのを理解する。
一度撤退した以上、次に現れるまでにダメージの回復を図るのはいくら獣と化した鎌鼬でも当然の行動だろう。
「面倒臭いな…」
思わず口に出たその言葉を聞いて、夜刀が俺を一瞥して、
「だからテメエはもう失せろっつってんだ。関係ねえだろうが」
「お前も人の話を聞かないヤツだな。もう無関係じゃねえって言ってんだよ」
溜息混じりに答えながら、紗薬の壺から薬を一掬いして口に運ぶ。
…なんだろう、まろやかな甘みがある。でも甘過ぎない、キャラメルを薄めたみたいな。
まさか糖分が入っているわけもないだろうが、何故こんな味がするんだ。まあ不味いよりかはいいけどさ。
「何が関係あるんだよテメエに。散々オレらのことをけなしておいて」
別にけなしたつもりはなかったが、コイツの中ではそういう認識だったんだろう。いちいち訂正するのも面倒だ、コイツに説明する気もない。
だから夜刀の疑問にだけちゃっちゃと答える。
「転止は次も俺を狙ってくるだろう。粗末な屑肉を食ってたのにいきなり極上のステーキにかぶり付いたらもう次はそれしか食えない」
ヤツは俺の血肉をとても美味そうに喰らい付いていた。自覚は無いが、異能を持ち、なおかつそれを使いこなしている人間の味というものは人食いからしたら忘れられないほどの美味であるらしいから。
「明日の晩かそこら。下手すりゃ人気が無くなった瞬間日中でも襲ってくるかもしれねえが、好都合だ。これでこっちから探す手間も省ける」
「…もしかして、その為にわざわざ転止に自分の体を食べさせた、んですか?」
紗薬が信じられないとでも言わんばかりの眼差しで俺を見ている。
「悪いかよ、こっちだって巻き込ませたくない人がいる。そっちに矛先が向く可能性を考えれば、ずっと俺に向けてくれてた方が気が楽なんだ」
手遅れになって嘆くよりは、関わりたくなくても我慢して手早く片づけた方がずっといい。
「お前らも諦めるつもりはないんだろ、どうするかは勝手だがあまり俺の周りをウロチョロすんのはやめろよ」
俺の周囲にいればいずれヤツはやってくる。コイツらとしてもその方が仲間とケリをつけるのも都合がいいはずだ。
正気に戻すにしても、殺すにしてもな。
「テメエ…何考えてんだ」
見れば、夜刀はさっきとは違う感情の乗った瞳で俺を見据えていた。
怒りから困惑へ。
俺のやっていることが、コイツにはよくわからないらしい。
そんなに理解できないことだろうか。そんなことは決してないとは思うんだが。
「考えてること自体はお前とそう変わらんよ。お前らがお前らで|人外《なかま》の為に命張るのと同じように、俺だって|同属《にんげん》…特に親しい人の為ならこれくらいやろうと思えるさ」
だからこの鎌鼬達の気持ちもわからんでもない、というか分かる。
ただ俺が人外を好きになれないから関わりを持とうとはしていないだけで、根底の部分は人外も人間も大差ないとは思う。
でも、やっぱり俺は認められない。
人を傷つける人外を。
俺自身が傷つけられてきたからこそ。
認められない。
正直、学校は休もうと思っていた。
俺という存在を食った鎌鼬が、もう夜間だけに限定して動くかどうかはもうわからなかったし、俺もいつ襲われるかわからない状況で登校するのもどうかと思ったからだ。
しかし、朝のこのメールでその考えは消えた。
『昨日と同じ所で待ってるね』
静音先輩は昨日の約束をきちんと覚えていたようで、俺と二人で登校するつもり満々だったらしい。こんなメール見たらもう行かないわけにはいかない。
あの人に嫌な思いはさせたくない。
というわけで普通にいつも通りの時間に朝食をとり、着替えて支度をした後にいつも通りに家を出た。
俺はあまり自分から話題を振れる方じゃないので、基本的には静音さんから色々話をしてくれる。俺も彼女を楽しませられる話題の一つでも持ってればいいんだが、どうにも普段の生活で楽しめる話というものが無い。
人外との血みどろの戦いなんて話されても困るだろうしな。俺だってしたくないし。
そんな感じで静音さんの話に相槌を打ったり頷いてたりしてる合間も、俺は気を張り詰めて周囲の様子を窺っていた。
今のところ、二つの気配しかしない。
そっちの方に視線を向けて見ても、直前に何かがいたかのように渦を巻く風の残滓があるのみで姿は見えないが。
…あんまりウロチョロするなって言ったんだけどな。
それともわかった上でやっているのか。嫌がらせのつもりなら上等だ。
「…守羽?」
「あ、はい。なんですか静音さん」
俺があらぬ方向に顰めた顔を向けていたせいか、静音さんが俺の顔を覗き込むように下から見上げていた。
「どうかした?」
「いえ?何も」
「……そう」
静音さんが俺の見ていた方向を追って目を向けるが、当然そこにはガラの悪い小柄な鎌鼬も、壺を抱えた少女の鎌鼬もいやしない。
「それで静音さん、そのあとどうなったんですか?」
不思議そうに小首を傾げる静音さんに、さっきまでの話に戻すように促す。
「…うん。それでね」
俺の謎の挙動にも特に言及せず、静音さんは俺に続きを聞かせてくれる。
…多分、いくらか勘付いてるんだろうなあ。こういうことは過去にも一度や二度じゃきかないくらいやらかしてるし。
それでも触れないでいてくれるんだから、この人は本当にいい人だ。
「…いい加減、姿を晒せよ」
昼休み。
昨日と同じく屋上で、俺は誰もいないはずの空間でそう言った。
ちなみに昨日ぶっ壊れたドアは壊した張本人である俺の同級生が自力で修理したようだ。
「ウロチョロされんのもそうだが、姿も見せずに周囲にいられる方が鬱陶しい」
「…………やっぱ気付いてやがったか」
ビュウ、と強い風が一吹きすると、背後からそんな声がした。
「なんとなく、そんな気配がしたからな」
昔から人外を相手に戦ってきたせいか、人ならざるモノの気配には敏感になっているみたいだ。
「お前らはどうやって移動してんだよ。気配はしたのに見えなかったぞ」
「オレらは鎌鼬だ。風の吹くところなら、どこでも風に乗って移動できる。視界に映る前に移動してんだよ」
風に乗って人を斬る妖怪としては、その程度は造作もないってことか。
後ろを振り返ると、そこには逆立った黄土色の髪を持つ小柄な男だけがいた。
「…紗薬はどうした、夜刀」
「気安く呼ぶなっつってんだろ、守羽」
嫌味たっぷりに俺の名前を呼ぶ。
なんで知ってるんだと思ったが、朝から俺に付いて回っていたんだから静音さんが俺を呼ぶ時にもいたんだろう。そこで知ったか。
「紗薬はこの周りを見て回ってる。見つけたらすぐにオレを呼ぶようにも言ってある、アイツだけじゃ話にならないからな」
「そうか」
適当に答えつつ、屋上のフェンスに寄り掛かる。
普段屋上は閉鎖されている。誰も来ないし、大きな音でも立てさえしなければ学年主任が様子を見に来ることもない。
互いに話すこともなく。ただ無言の時間が過ぎる。
俺から人外へ話すこともなければ、ヤツも人間に話をすることもない。
それでいいと思っているが、それでもこの機会はちょうどいい。
事前に一言、言っておいた方がいい。
「先に言っとくけどな」
そう前置きして、
「もう俺も無関係じゃねえ。狙われる以上は正当防衛だ、殺しても文句は言うなよ」
「……なら、テメエは手を出すな」
苦々しい表情で、夜刀は言う。
やりたくないけど、仕方ないからやると言いたげな表情で。
「狙われるなら守ってやる、庇ってやる。テメエに害を及ばせないようにする。だからテメエは手を出すな」
嫌っている人間、特に険悪な関係しかない俺を守る。
そこまでしてコイツは仲間を、兄を助けようとしている。
「本能に乗っ取られた人外が、元に戻れるパターンなんてあるのか?」
俺は反転した人外が元に戻れたのを見たことが無い。
「戻す。何がなんでもな」
「ヤツは相手が|仲間《おまえ》でも殺しに来るぞ」
「だがまだ殺されていない」
……。
「転止の実力ならオレや紗薬を殺すくらいわけないはずだった。なのにやらなかった。最初に反転したヤツを止めようと戦った時も、昨夜もだ」
「手を抜いたってのか?」
その割りに俺は死にそうな目に遭ったが。
「アイツは人を傷つけたくない、仲間も傷つけたくない。それがオレらの兄貴なんだ。それは『鎌鼬』じゃなくて『転止』が望んでいることだ」
俺にだけではなく、自分にも言い聞かせるように夜刀は続ける。
「人に害成し命を刈る、そんなふざけた化物なんかには成り下がらねえ。オレも紗薬も、転止もな。だからオレらが止める、オレらなら止められる」
ジャギンッ、と右手の甲から太い鉤爪ーーー『鎌』を出して夜刀はそれを忌々しげに見つめる。
「自分の存在を否定する気はねえが…こんな『|鎌鼬《ほんのう》』なんかに、俺達兄弟の絆を踏み躙らせたりはしねえ。絶対にな…!」
「…そうかい」
コイツにしては長々と喋ったな。そんなことを思いながらただ一言そう返す。
上回るのは、果たして人外としての本能か。
それとも長い年月を共にしてきた仲間同士の絆、想いか。
掛けられた天秤がどちらに傾こうが、俺のやるべきことは変わらない。
…ただ、傾く側によっては俺も楽をできるかもしれないな。
俺という存在を食った鎌鼬が、もう夜間だけに限定して動くかどうかはもうわからなかったし、俺もいつ襲われるかわからない状況で登校するのもどうかと思ったからだ。
しかし、朝のこのメールでその考えは消えた。
『昨日と同じ所で待ってるね』
静音先輩は昨日の約束をきちんと覚えていたようで、俺と二人で登校するつもり満々だったらしい。こんなメール見たらもう行かないわけにはいかない。
あの人に嫌な思いはさせたくない。
というわけで普通にいつも通りの時間に朝食をとり、着替えて支度をした後にいつも通りに家を出た。
俺はあまり自分から話題を振れる方じゃないので、基本的には静音さんから色々話をしてくれる。俺も彼女を楽しませられる話題の一つでも持ってればいいんだが、どうにも普段の生活で楽しめる話というものが無い。
人外との血みどろの戦いなんて話されても困るだろうしな。俺だってしたくないし。
そんな感じで静音さんの話に相槌を打ったり頷いてたりしてる合間も、俺は気を張り詰めて周囲の様子を窺っていた。
今のところ、二つの気配しかしない。
そっちの方に視線を向けて見ても、直前に何かがいたかのように渦を巻く風の残滓があるのみで姿は見えないが。
…あんまりウロチョロするなって言ったんだけどな。
それともわかった上でやっているのか。嫌がらせのつもりなら上等だ。
「…守羽?」
「あ、はい。なんですか静音さん」
俺があらぬ方向に顰めた顔を向けていたせいか、静音さんが俺の顔を覗き込むように下から見上げていた。
「どうかした?」
「いえ?何も」
「……そう」
静音さんが俺の見ていた方向を追って目を向けるが、当然そこにはガラの悪い小柄な鎌鼬も、壺を抱えた少女の鎌鼬もいやしない。
「それで静音さん、そのあとどうなったんですか?」
不思議そうに小首を傾げる静音さんに、さっきまでの話に戻すように促す。
「…うん。それでね」
俺の謎の挙動にも特に言及せず、静音さんは俺に続きを聞かせてくれる。
…多分、いくらか勘付いてるんだろうなあ。こういうことは過去にも一度や二度じゃきかないくらいやらかしてるし。
それでも触れないでいてくれるんだから、この人は本当にいい人だ。
「…いい加減、姿を晒せよ」
昼休み。
昨日と同じく屋上で、俺は誰もいないはずの空間でそう言った。
ちなみに昨日ぶっ壊れたドアは壊した張本人である俺の同級生が自力で修理したようだ。
「ウロチョロされんのもそうだが、姿も見せずに周囲にいられる方が鬱陶しい」
「…………やっぱ気付いてやがったか」
ビュウ、と強い風が一吹きすると、背後からそんな声がした。
「なんとなく、そんな気配がしたからな」
昔から人外を相手に戦ってきたせいか、人ならざるモノの気配には敏感になっているみたいだ。
「お前らはどうやって移動してんだよ。気配はしたのに見えなかったぞ」
「オレらは鎌鼬だ。風の吹くところなら、どこでも風に乗って移動できる。視界に映る前に移動してんだよ」
風に乗って人を斬る妖怪としては、その程度は造作もないってことか。
後ろを振り返ると、そこには逆立った黄土色の髪を持つ小柄な男だけがいた。
「…紗薬はどうした、夜刀」
「気安く呼ぶなっつってんだろ、守羽」
嫌味たっぷりに俺の名前を呼ぶ。
なんで知ってるんだと思ったが、朝から俺に付いて回っていたんだから静音さんが俺を呼ぶ時にもいたんだろう。そこで知ったか。
「紗薬はこの周りを見て回ってる。見つけたらすぐにオレを呼ぶようにも言ってある、アイツだけじゃ話にならないからな」
「そうか」
適当に答えつつ、屋上のフェンスに寄り掛かる。
普段屋上は閉鎖されている。誰も来ないし、大きな音でも立てさえしなければ学年主任が様子を見に来ることもない。
互いに話すこともなく。ただ無言の時間が過ぎる。
俺から人外へ話すこともなければ、ヤツも人間に話をすることもない。
それでいいと思っているが、それでもこの機会はちょうどいい。
事前に一言、言っておいた方がいい。
「先に言っとくけどな」
そう前置きして、
「もう俺も無関係じゃねえ。狙われる以上は正当防衛だ、殺しても文句は言うなよ」
「……なら、テメエは手を出すな」
苦々しい表情で、夜刀は言う。
やりたくないけど、仕方ないからやると言いたげな表情で。
「狙われるなら守ってやる、庇ってやる。テメエに害を及ばせないようにする。だからテメエは手を出すな」
嫌っている人間、特に険悪な関係しかない俺を守る。
そこまでしてコイツは仲間を、兄を助けようとしている。
「本能に乗っ取られた人外が、元に戻れるパターンなんてあるのか?」
俺は反転した人外が元に戻れたのを見たことが無い。
「戻す。何がなんでもな」
「ヤツは相手が|仲間《おまえ》でも殺しに来るぞ」
「だがまだ殺されていない」
……。
「転止の実力ならオレや紗薬を殺すくらいわけないはずだった。なのにやらなかった。最初に反転したヤツを止めようと戦った時も、昨夜もだ」
「手を抜いたってのか?」
その割りに俺は死にそうな目に遭ったが。
「アイツは人を傷つけたくない、仲間も傷つけたくない。それがオレらの兄貴なんだ。それは『鎌鼬』じゃなくて『転止』が望んでいることだ」
俺にだけではなく、自分にも言い聞かせるように夜刀は続ける。
「人に害成し命を刈る、そんなふざけた化物なんかには成り下がらねえ。オレも紗薬も、転止もな。だからオレらが止める、オレらなら止められる」
ジャギンッ、と右手の甲から太い鉤爪ーーー『鎌』を出して夜刀はそれを忌々しげに見つめる。
「自分の存在を否定する気はねえが…こんな『|鎌鼬《ほんのう》』なんかに、俺達兄弟の絆を踏み躙らせたりはしねえ。絶対にな…!」
「…そうかい」
コイツにしては長々と喋ったな。そんなことを思いながらただ一言そう返す。
上回るのは、果たして人外としての本能か。
それとも長い年月を共にしてきた仲間同士の絆、想いか。
掛けられた天秤がどちらに傾こうが、俺のやるべきことは変わらない。
…ただ、傾く側によっては俺も楽をできるかもしれないな。
日中の間は、特に襲撃されることもなかった。
何事もなく授業を終え、静音さんと下校し家まで送り届け、そして自宅に帰る。
昨日、一昨日と夜な夜な遅くまで起きていたせいもあって、学校ではほとんど寝ていた。おかげで今晩の睡眠時間もある程度は短くて済みそうだ。
「おい、気配は?」
「黙ってろ。……近づいてる、確実にここへ向かってるな」
「…転止」
母さんにはもちろん何も話していない。昨日の戦闘でボロボロになった服は捨てたからバレてはいないと思う。
街の外れには、取り壊しもされていない無人の廃ビルが乱立している。一切手を付けられていないのは、取り壊すだけでも手間と費用が掛かるからだろうか。
なんにしても俺はここを重宝させてもらっている。
人外との戦いは、基本的にここでするようにしている。
手っ取り早く済むなら近所の空き地を使うが、そうでない場合はなるべく人目が無い場所の方がいいからだ。
そういった時、この場はとても都合がいい。
「守羽、テメエは手を出すなよ。これはオレらの問題だ」
「何度言わせれば気が済むんだボケ。襲われてんのは俺で、ヤツがここへ来てる狙いも俺だ。それで手を出すなとか、お前は俺に死ねって言ってんのか」
「大丈夫です、守羽さん。ちゃんとわたしたちが守りますから」
一応この付近は立ち入り禁止の領域とされている。手付かずのビルが倒壊でもして一般人が巻き込まれたら大変だからだろう。もっとも勝手に倒壊してくれた方が取り壊しの手間が省けて助かる連中もいるだろうけど。
「そういう問題じゃねえよ。俺は俺が殺されないように動く、お前らはお前らでやりたいようにやればいいだろ」
「…邪魔すんなよ」
「お前がな」
「怪我は、わたしが治しますから安心してください」
「それは俺に無茶をしろって言ってんのか?」
深夜、廃ビルの屋上で。
俺と二人の人外は夜風に衣服や髪をなびかせながら会話していた。
人間の血肉を求める風の獣は、俺の匂いを追ってじきにここへ来る。この会話は、それまでの暇潰しのようなもの。
「紗薬、薬を持って構えてろ。どうせ夜刀だけじゃ勝ち目は無い。お前も戦力としては見込めない。多少以上は夜刀に無茶をさせて、やばそうになったら薬で援護してやれ。どうせ二、三回は死に掛けねえと勝ちの目は見えないからな」
「……守羽さんのお力を、貸していただくわけにはいきませんか?」
「甘えんな。殺すんなら手を貸してやってもいいが、それ以上を求めるなら手に負えねえ。お前らの兄貴だろ、お前らでどうにかしろ」
「ハッ、人間の力なんざ必要ねえよ。せいぜい死なねえようにビクビクしながら隅っこで震えてろ」
いつでも威勢のいい不良のような外見の鎌鼬は、そう吐いて両手を構える。
手の甲から太い鉤爪が突き出て、風が渦巻く。
不安げな表情で薬の入った壺を抱えた紗薬も、余った片手の爪を伸ばして『鎌』を出す。
(…三十倍、固定)
いつ俺へ矛先が向いても対応できるよう、俺も自身の身体能力を総じて“倍加”させる。
「夜刀」
「なんだよ」
「転止…元に戻せるかな」
「戻すんだろ、戻るまでやってやるさ」
「………」
「お前の薬、頼りにしてんぞ。気に入らねえが、クソ人間の言ってることは間違ってねえ。この戦い、何度も命を懸けなきゃとてもじゃねえが勝てない」
「うん…」
「転止はオレの数倍強い。オレだけじゃ無理だ、お前と組んでも薬をフルに使っても怪しい」
「…うん」
来た。
鋭敏化された五感が、遥か遠くから高速で飛んでくる何かの存在を感知する。いや、何かなんて表現は回りくどいな。
三人兄弟の長男、転ばせ役の『旋風』にして、鎌鼬としてもっとも高い素質を備えた鎌鼬。
「だが止める。オレとお前ならできる。兄貴の目を覚まさせてやろうぜ。鎌鼬の本能なんてクソ喰らえだ。オレら三人の間に、そんなモンが割り込む余地が無いってことを、ちょうどいい、ここで証明してやる。なあ、紗薬!」
「っ…うん!」
最後に力強く紗薬が頷き、一歩下がって壺と爪を構える。
俺はその二人が前に見える位置、一番後ろで正面を見据える。
紗薬と夜刀の背中を越えて、さらにその先。
闇夜が分厚く視界を遮るその先。十数秒後に風に乗ってやって来る敵を。
「ーーー来やがれ!!」
夜刀には何かが見えたのか、先んじて右手を前に突き出す。
ドンッ!!と手の平から溜め込んだ強力な斬撃、『鎌』が飛ぶ。
それを見た直後、屋上のフェンスの向こう側からも同種の斬撃が飛んで来るのを強化された視覚が捉えた。
フェンスを粉々に斬り飛ばして、兄を止めんとする『鎌』と暴走する獣と化した『鎌』とが正面衝突して互いに掻き消えた。
「ギィ…ア゛アァ゛アアアァッァァァアアアアア!!!」
夜空の果てから、凶暴な敵意を撒き散らして、
そのほとんどが反転し青紫色に浸食された黄土色の短髪をなびかせ、
人外としての本能に身を乗っ取られた鎌鼬は、悲鳴にも似た金切声を上げながら襲い掛かる。
何事もなく授業を終え、静音さんと下校し家まで送り届け、そして自宅に帰る。
昨日、一昨日と夜な夜な遅くまで起きていたせいもあって、学校ではほとんど寝ていた。おかげで今晩の睡眠時間もある程度は短くて済みそうだ。
「おい、気配は?」
「黙ってろ。……近づいてる、確実にここへ向かってるな」
「…転止」
母さんにはもちろん何も話していない。昨日の戦闘でボロボロになった服は捨てたからバレてはいないと思う。
街の外れには、取り壊しもされていない無人の廃ビルが乱立している。一切手を付けられていないのは、取り壊すだけでも手間と費用が掛かるからだろうか。
なんにしても俺はここを重宝させてもらっている。
人外との戦いは、基本的にここでするようにしている。
手っ取り早く済むなら近所の空き地を使うが、そうでない場合はなるべく人目が無い場所の方がいいからだ。
そういった時、この場はとても都合がいい。
「守羽、テメエは手を出すなよ。これはオレらの問題だ」
「何度言わせれば気が済むんだボケ。襲われてんのは俺で、ヤツがここへ来てる狙いも俺だ。それで手を出すなとか、お前は俺に死ねって言ってんのか」
「大丈夫です、守羽さん。ちゃんとわたしたちが守りますから」
一応この付近は立ち入り禁止の領域とされている。手付かずのビルが倒壊でもして一般人が巻き込まれたら大変だからだろう。もっとも勝手に倒壊してくれた方が取り壊しの手間が省けて助かる連中もいるだろうけど。
「そういう問題じゃねえよ。俺は俺が殺されないように動く、お前らはお前らでやりたいようにやればいいだろ」
「…邪魔すんなよ」
「お前がな」
「怪我は、わたしが治しますから安心してください」
「それは俺に無茶をしろって言ってんのか?」
深夜、廃ビルの屋上で。
俺と二人の人外は夜風に衣服や髪をなびかせながら会話していた。
人間の血肉を求める風の獣は、俺の匂いを追ってじきにここへ来る。この会話は、それまでの暇潰しのようなもの。
「紗薬、薬を持って構えてろ。どうせ夜刀だけじゃ勝ち目は無い。お前も戦力としては見込めない。多少以上は夜刀に無茶をさせて、やばそうになったら薬で援護してやれ。どうせ二、三回は死に掛けねえと勝ちの目は見えないからな」
「……守羽さんのお力を、貸していただくわけにはいきませんか?」
「甘えんな。殺すんなら手を貸してやってもいいが、それ以上を求めるなら手に負えねえ。お前らの兄貴だろ、お前らでどうにかしろ」
「ハッ、人間の力なんざ必要ねえよ。せいぜい死なねえようにビクビクしながら隅っこで震えてろ」
いつでも威勢のいい不良のような外見の鎌鼬は、そう吐いて両手を構える。
手の甲から太い鉤爪が突き出て、風が渦巻く。
不安げな表情で薬の入った壺を抱えた紗薬も、余った片手の爪を伸ばして『鎌』を出す。
(…三十倍、固定)
いつ俺へ矛先が向いても対応できるよう、俺も自身の身体能力を総じて“倍加”させる。
「夜刀」
「なんだよ」
「転止…元に戻せるかな」
「戻すんだろ、戻るまでやってやるさ」
「………」
「お前の薬、頼りにしてんぞ。気に入らねえが、クソ人間の言ってることは間違ってねえ。この戦い、何度も命を懸けなきゃとてもじゃねえが勝てない」
「うん…」
「転止はオレの数倍強い。オレだけじゃ無理だ、お前と組んでも薬をフルに使っても怪しい」
「…うん」
来た。
鋭敏化された五感が、遥か遠くから高速で飛んでくる何かの存在を感知する。いや、何かなんて表現は回りくどいな。
三人兄弟の長男、転ばせ役の『旋風』にして、鎌鼬としてもっとも高い素質を備えた鎌鼬。
「だが止める。オレとお前ならできる。兄貴の目を覚まさせてやろうぜ。鎌鼬の本能なんてクソ喰らえだ。オレら三人の間に、そんなモンが割り込む余地が無いってことを、ちょうどいい、ここで証明してやる。なあ、紗薬!」
「っ…うん!」
最後に力強く紗薬が頷き、一歩下がって壺と爪を構える。
俺はその二人が前に見える位置、一番後ろで正面を見据える。
紗薬と夜刀の背中を越えて、さらにその先。
闇夜が分厚く視界を遮るその先。十数秒後に風に乗ってやって来る敵を。
「ーーー来やがれ!!」
夜刀には何かが見えたのか、先んじて右手を前に突き出す。
ドンッ!!と手の平から溜め込んだ強力な斬撃、『鎌』が飛ぶ。
それを見た直後、屋上のフェンスの向こう側からも同種の斬撃が飛んで来るのを強化された視覚が捉えた。
フェンスを粉々に斬り飛ばして、兄を止めんとする『鎌』と暴走する獣と化した『鎌』とが正面衝突して互いに掻き消えた。
「ギィ…ア゛アァ゛アアアァッァァァアアアアア!!!」
夜空の果てから、凶暴な敵意を撒き散らして、
そのほとんどが反転し青紫色に浸食された黄土色の短髪をなびかせ、
人外としての本能に身を乗っ取られた鎌鼬は、悲鳴にも似た金切声を上げながら襲い掛かる。