第三十二話 『神門』の側面
(さあて…)
素手で大鬼との攻防を繰り広げながら、『僕』たる神門守羽は相手の強さを見越した上での戦い方を思案していた。
(相手は金剛力を持つ鬼の総大将、単純な力比べじゃ僕だって勝ち目は無い。それに)
二百五十倍で叩き付け合った拳が砕け、指がおかしな方向へ捻じ曲がるのを、淡い光を纏わせることで癒し治す。
だが、これはいつまでも続けられるものではない。
(元々、この治癒の力は自分自身には使えないもんだからな…今は無理矢理に屁理屈こじつけてズルしてるだけであって、もうあと数度使えば終わりだ)
由音のように身を壊しながらも力を行使し続けるような強引な戦い方は出来ない。
だからこそ、
(…五大開放、掌握、使役。悪い|精霊種《おまえら》、少しだけ僕に貸してくれ)
不可視の存在へ語り掛け、自らの存在性質から|経路《パス》を通し力を汲み上げる。
純粋な力押しで敵わないのなら、違う何かで埋め合わせるしかない。そして今の神門守羽であれば、それが出来る。
「“沈め”」
「おぁっ!?」
ズボァ!!と勢いよく音を上げて、次撃の為に踏み込んだ酒呑童子の右足が深々と地面に膝まで埋まる。
「“爆ぜろ”」
体勢を崩した鬼の直近で、その呟きに合わせて急激に大気を喰らい膨張した炎が一気に弾ける。
(右腕力二百八十倍)
間を空けることなく爆炎を受けた鬼の鳩尾に右拳を突き入れる。
ッパァン!
沈んだ拳がさらにその奥まで進行しようとした瞬間に、酒呑童子の左手が大きく振るわれ右腕ごと払われる。
一瞬腕が無くなったかと思うほどの衝撃を受け、払われた右腕に振り回されるように空中を二回転ほどした守羽の胴体に、大鬼の足裏が豪速で迫る。
「くっ」
ギリギリのところで左手で真横から迫った蹴りの足首を掌で叩くようにして空中でさらに跳ねる。すぐそばをダンプカーが掠ったような突風を受けつつも、跳ねた勢いと回転する身を利用して鬼の頭上を飛び越えてその延髄に二百八十倍強化の変則回し蹴りを加える。
「ぬん!」
背後を振り返らず一喝入れた酒呑童子が僅かに震え、その両足から地面へと無数の亀裂が走った。
(耐えた…一歩も動かず踏ん張りやがったこの鬼!)
ノーガードで直撃させた蹴りにも関わらず、両足を肩幅に開いて踏み止まった鬼は不動の姿勢で首だけぐるりと守羽へと向ける。
延髄に叩き込まれた足を片手で掴むと、地面まで弧を描く軌跡で一息に落とした。
「かはっ!」
「そんなモンかァ『鬼殺し』!?」
足を掴まれているせいで満足な受身も取れぬまま、掴んだままの守羽の体を今度は逆側に振り回して地面へ激突させんと容赦なく豪腕が唸りを上げる。
「ちっ、“木行によりて|相剋《そうこく》!”」
恐ろしい握力で掴まれ地面に激突しようとする間際に唱えた言霊により、その力は地面に浸透していた属性に干渉される。
ヒビ割れ荒れていた廃ビル群地のアスファルトが突如サァッと音を立てて崩れ、砂と化す。
細かな砂塵となった地面へ叩きつけられた守羽は、目論見通りさしたるダメージも受けずに次の一手を実行する。
「“土行を喰らいて相乗!解き放ちて緊縛!”」
砂塵と化した地面から、そして大鬼の足元から急速に伸びた植物が蛇のように鬼の体に巻きついて動きを制限する。
「邪魔ッ臭ェ!」
それらは蜘蛛の巣を払うようにあっさりと引き千切られてしまうが、その隙に掴まれていた足を強引に蹴り払って脱出に成功する。
(『僕』に替わって肉体が壊されることはそうそう無くなったが、それにしたって限度がある。耐久力二百倍も出してるってのに気を抜けばヘシ折られそうになるってのはなぁ…)
周囲から水の刃と火の球を発生させて牽制の為に射出しながら、距離を保ちつつ考える。
対する鬼の方はといえば、迫る水と火を軽く振るった両手で打ち消しながら、愉快げに口の端を吊り上げて離れた距離を埋めんと走り出す。
「傷の治癒と精霊種の恩恵を借り受けた属性の掌握、あからさまに妖精種の能力だな!忌々しいと思っていたのはテメェが『鬼殺し』ってだけの理由じゃあなかったってわけだ!!」
「鬼と妖精じゃ、童話にだって同じ舞台にゃ立たねえからな。本能柄、僕とお前じゃ相容れることはないさ」
「違いねェ!」
軽口を叩き合いながら、万象を味方につけた守羽が周囲に水と火を付き従え地面ごと地形を変化させながら鬼の行動を阻害する。
(やっぱり、まだ本調子とはいかないか。『俺』の方にもうちょっと余裕があればよかったんだが、まだ早かったか…?)
金剛力を持つ大鬼の素手の攻撃に細心の注意を払い直撃は避けるようにしながら、隙を窺い細かく攻撃を刻んでいく。
だが、以前として鬼の肉体に傷が生まれることはない。
(今の僕じゃ、ノーガードの奴に全力を打ち込んだところで致命打になるか怪しいな。そもそもダメージにならないから鬼も避けないだけで、その気になれば全部避けてるはずだ)
この鋼の肉体で慢心しているらしいが、おそらく通じる攻撃が来るとなればこの鬼はすぐさま察知して完全回避を実行するだろう。
どの道、この鬼に通用する攻撃は相手の油断を待つだけでは通せない。
(ったく、せめて鬼を無力化させる酒か首を落とした天下の名刀のどっちかでもあれば出自由来の特効性で簡単に倒せたろうに)
内心で今現在どこに存在しているのかも不明な物のことを愚痴りながらも、守羽は今出せる手札でのみ勝てる算段を組み上げる。
神門守羽の、『僕』の出せる手は何もこれだけではないのだから。
(ふうむ、『こっち』の方はあまり使いたくないんだけどな、『俺』が僕を出したがらないのと一緒で。あの性質は僕の管轄外だし)
しかし躊躇している場合ではない。そもそも最初からこうなることは予想していた。前回の茨木童子戦においてもこれは同じことだったが。
「出せよ」
守羽の思案顔を見て何か思ったか、それとも初めからまだ何かあると踏んでいたのか。酒呑童子は攻撃の手を緩めないまま世間話をするかのような気軽さで言う。
「ジリ貧でくたばるのを待つか?『鬼殺し』。それでもいいが、せめて出すモン全部出してから殺されろよ。せっかくここまでお膳立てしてやったんだ」
「…はっ」
読まれていることにも焦りといったものは見せず、あくまでも『僕』は冷静なスタンスを崩さずに息を吐き出し笑う。
「いいさ。そんなに見たけりゃ見せてやるよ。不本意ながら、『鬼殺し』と呼ばれるに至った由来は、おそらくこれだ」
言って、守羽は間近の鬼を睨み上げながら力をさらに引き摺り出す。
神門守羽を構成している、違う側面の力を。
素手で大鬼との攻防を繰り広げながら、『僕』たる神門守羽は相手の強さを見越した上での戦い方を思案していた。
(相手は金剛力を持つ鬼の総大将、単純な力比べじゃ僕だって勝ち目は無い。それに)
二百五十倍で叩き付け合った拳が砕け、指がおかしな方向へ捻じ曲がるのを、淡い光を纏わせることで癒し治す。
だが、これはいつまでも続けられるものではない。
(元々、この治癒の力は自分自身には使えないもんだからな…今は無理矢理に屁理屈こじつけてズルしてるだけであって、もうあと数度使えば終わりだ)
由音のように身を壊しながらも力を行使し続けるような強引な戦い方は出来ない。
だからこそ、
(…五大開放、掌握、使役。悪い|精霊種《おまえら》、少しだけ僕に貸してくれ)
不可視の存在へ語り掛け、自らの存在性質から|経路《パス》を通し力を汲み上げる。
純粋な力押しで敵わないのなら、違う何かで埋め合わせるしかない。そして今の神門守羽であれば、それが出来る。
「“沈め”」
「おぁっ!?」
ズボァ!!と勢いよく音を上げて、次撃の為に踏み込んだ酒呑童子の右足が深々と地面に膝まで埋まる。
「“爆ぜろ”」
体勢を崩した鬼の直近で、その呟きに合わせて急激に大気を喰らい膨張した炎が一気に弾ける。
(右腕力二百八十倍)
間を空けることなく爆炎を受けた鬼の鳩尾に右拳を突き入れる。
ッパァン!
沈んだ拳がさらにその奥まで進行しようとした瞬間に、酒呑童子の左手が大きく振るわれ右腕ごと払われる。
一瞬腕が無くなったかと思うほどの衝撃を受け、払われた右腕に振り回されるように空中を二回転ほどした守羽の胴体に、大鬼の足裏が豪速で迫る。
「くっ」
ギリギリのところで左手で真横から迫った蹴りの足首を掌で叩くようにして空中でさらに跳ねる。すぐそばをダンプカーが掠ったような突風を受けつつも、跳ねた勢いと回転する身を利用して鬼の頭上を飛び越えてその延髄に二百八十倍強化の変則回し蹴りを加える。
「ぬん!」
背後を振り返らず一喝入れた酒呑童子が僅かに震え、その両足から地面へと無数の亀裂が走った。
(耐えた…一歩も動かず踏ん張りやがったこの鬼!)
ノーガードで直撃させた蹴りにも関わらず、両足を肩幅に開いて踏み止まった鬼は不動の姿勢で首だけぐるりと守羽へと向ける。
延髄に叩き込まれた足を片手で掴むと、地面まで弧を描く軌跡で一息に落とした。
「かはっ!」
「そんなモンかァ『鬼殺し』!?」
足を掴まれているせいで満足な受身も取れぬまま、掴んだままの守羽の体を今度は逆側に振り回して地面へ激突させんと容赦なく豪腕が唸りを上げる。
「ちっ、“木行によりて|相剋《そうこく》!”」
恐ろしい握力で掴まれ地面に激突しようとする間際に唱えた言霊により、その力は地面に浸透していた属性に干渉される。
ヒビ割れ荒れていた廃ビル群地のアスファルトが突如サァッと音を立てて崩れ、砂と化す。
細かな砂塵となった地面へ叩きつけられた守羽は、目論見通りさしたるダメージも受けずに次の一手を実行する。
「“土行を喰らいて相乗!解き放ちて緊縛!”」
砂塵と化した地面から、そして大鬼の足元から急速に伸びた植物が蛇のように鬼の体に巻きついて動きを制限する。
「邪魔ッ臭ェ!」
それらは蜘蛛の巣を払うようにあっさりと引き千切られてしまうが、その隙に掴まれていた足を強引に蹴り払って脱出に成功する。
(『僕』に替わって肉体が壊されることはそうそう無くなったが、それにしたって限度がある。耐久力二百倍も出してるってのに気を抜けばヘシ折られそうになるってのはなぁ…)
周囲から水の刃と火の球を発生させて牽制の為に射出しながら、距離を保ちつつ考える。
対する鬼の方はといえば、迫る水と火を軽く振るった両手で打ち消しながら、愉快げに口の端を吊り上げて離れた距離を埋めんと走り出す。
「傷の治癒と精霊種の恩恵を借り受けた属性の掌握、あからさまに妖精種の能力だな!忌々しいと思っていたのはテメェが『鬼殺し』ってだけの理由じゃあなかったってわけだ!!」
「鬼と妖精じゃ、童話にだって同じ舞台にゃ立たねえからな。本能柄、僕とお前じゃ相容れることはないさ」
「違いねェ!」
軽口を叩き合いながら、万象を味方につけた守羽が周囲に水と火を付き従え地面ごと地形を変化させながら鬼の行動を阻害する。
(やっぱり、まだ本調子とはいかないか。『俺』の方にもうちょっと余裕があればよかったんだが、まだ早かったか…?)
金剛力を持つ大鬼の素手の攻撃に細心の注意を払い直撃は避けるようにしながら、隙を窺い細かく攻撃を刻んでいく。
だが、以前として鬼の肉体に傷が生まれることはない。
(今の僕じゃ、ノーガードの奴に全力を打ち込んだところで致命打になるか怪しいな。そもそもダメージにならないから鬼も避けないだけで、その気になれば全部避けてるはずだ)
この鋼の肉体で慢心しているらしいが、おそらく通じる攻撃が来るとなればこの鬼はすぐさま察知して完全回避を実行するだろう。
どの道、この鬼に通用する攻撃は相手の油断を待つだけでは通せない。
(ったく、せめて鬼を無力化させる酒か首を落とした天下の名刀のどっちかでもあれば出自由来の特効性で簡単に倒せたろうに)
内心で今現在どこに存在しているのかも不明な物のことを愚痴りながらも、守羽は今出せる手札でのみ勝てる算段を組み上げる。
神門守羽の、『僕』の出せる手は何もこれだけではないのだから。
(ふうむ、『こっち』の方はあまり使いたくないんだけどな、『俺』が僕を出したがらないのと一緒で。あの性質は僕の管轄外だし)
しかし躊躇している場合ではない。そもそも最初からこうなることは予想していた。前回の茨木童子戦においてもこれは同じことだったが。
「出せよ」
守羽の思案顔を見て何か思ったか、それとも初めからまだ何かあると踏んでいたのか。酒呑童子は攻撃の手を緩めないまま世間話をするかのような気軽さで言う。
「ジリ貧でくたばるのを待つか?『鬼殺し』。それでもいいが、せめて出すモン全部出してから殺されろよ。せっかくここまでお膳立てしてやったんだ」
「…はっ」
読まれていることにも焦りといったものは見せず、あくまでも『僕』は冷静なスタンスを崩さずに息を吐き出し笑う。
「いいさ。そんなに見たけりゃ見せてやるよ。不本意ながら、『鬼殺し』と呼ばれるに至った由来は、おそらくこれだ」
言って、守羽は間近の鬼を睨み上げながら力をさらに引き摺り出す。
神門守羽を構成している、違う側面の力を。
暴風、と呼ぶに相応しかった。
「く、グッ!ぬがァっ!!」
路地裏の地面と壁を飛び跳ねるようにして、白いワンピース姿の少女が縦横無尽に駆け回る。
両の爪で、あるいは足で。目にも留まらぬ速度で猫の妖精は馬頭の金棒を掻い潜りながら様々な角度から攻撃を仕掛ける。
「クソがァァああ!!」
鬼の金剛力を持ってして振るわれる金棒は一向に猫の少女を捉えることが叶わず、その身に少しずつ細かな傷を作っていく。
「馬頭、落ち着け!翻弄されては敵の思うツボだぞ!」
対する牛頭はといえば、現状の時点では相手を圧倒していた。
「……ごぼっ」
全身を刺叉で切り刻まれた由音が、そのU字の刃に首を引っ掛けられたまま壁に押し付けられて身動きを封じられていた。
(|工程解除《リリース》の|項目《コマンド》で“憑依”の深度が初期化されちまったからな……引き上げにはまた時間が掛かる…けど、)
裂けた首と口から明らかな致死量の出血を噴き出しながら、しかし昏い色を乗せた由音の瞳は揺らぐことなく余裕で余所見を決め込んでいる敵をしっかり見つめていた。
(ひとまずはこれで充分っ!)
ある程度まで引き上げた力を身に纏わせ、深度上昇の証である濁った両眼は強く牛の人外の顔を睨み、首に突き刺さったままの武器も放って伸ばせる限り右手を伸ばす。
「っ!?ちぃっ!」
あと少しでその牛面にアイアンクローを極められたというところまで伸びた手は、直前で視線を戻した牛頭に気付かれた。慌てて真横に薙ぎ払った刺叉に、引っ掛かった首が持っていかれ路地裏の地面を転がる。
「本当に不死身か貴様…っ」
「冗談!不死身の人間がいるかよ馬鹿か!」
「人間であるかどうかが既に疑問なんだがな!」
すぐさま起き上がった由音が素手で刺叉を押さえに掛かる。
その十数メートル離れた位置では、馬頭が目で追い切れない敵に四苦八苦しながら金棒を振り回していた。
「この、ちょこまか動くんじゃねえ!」
「おっ、とと。ほっ、てぃ!」
吹き荒れる風のように捉えられない身軽な人外には、いくら一撃で相手を粉砕できるであろう威力のある攻撃だったとしてもまるで無意味。しかもギリギリのラインを見極めて回避しているので柳の枝を相手にしているかのような手応えの無さを返してくる。単純に当たらないよりも遥かにストレスと苛立ちを覚え、ついつい大振りになってしまう。
それを待っていたかのように、暴風は攻撃に転じ始める。
「せりゃ!」
「ッ!」
爪を伸ばしたまま緩く握った拳を素早く突き出して馬頭の額に当てる。
殴るというよりは叩くような、猫パンチに似たじゃれつくような微笑ましさすらある攻撃方法。
だが目で追えないほどの速度で、となればその威力は桁違いだ。
ヴォッ!!と空気を震わせてシェリアの右手が唸る。
額が陥没したんじゃないかと思うほどの一発が正確に叩き込まれ、思わず馬頭はたたらを踏んで数歩後ろへよろめく。
「もいっちょ!」
パァンッ!
「ぶっ!」
「さらにっ!」
ズパンッッ!!
右頬を打たれ、さらに胸部を強く叩かれ馬頭は金棒で防御することも出来ずに後退させられる。
「つっ……ってえなこのクソ妖精があ!!」
「まだまだぁ!」
怒りに任せ金棒を振り上げた馬頭の正面で、五指を広げたシェリアが爪を構えて一撃を放つ体勢に入っていた。
金剛力の一撃よりも遥かに出が早く、強力な爪撃が来る。
当然馬頭の金棒など間に合うわけもなく、
「退け馬頭ッ!」
そんな背後からの声に、身を捻じってシェリアと牛頭との間に直線的な空間を空けることくらいしか出来る行動はなかった。
全力のサイドスローで投擲された牛頭の刺叉が、U字の刃をぎらつかせてシェリアの眉間に飛来する。
「わわっ!?」
突然空いた空間から飛び出て来た刺叉に驚きつつも小柄な体躯を沈み込ませることで回避したシェリアを、身を捻じったことで多少ながらぐらついた体勢からでも無理矢理に金棒を叩き込まんと両手で握る馬頭が再度狙う。
爪撃は体勢を崩され、いくら出の速さがあろうともこの状況ならば馬頭の一撃の方がより早く届くのは確実。頭上高く掲げられた金棒が忌々しい妖精の頭を渾身の力で砕き割る。
そのはずだった。
「“蒼天に吹け、|流《なが》る|辻風《つじかぜ》っ”」
何か力の気配を感じさせる文言を唱えると、途端に振り下ろした金棒の直撃コースにいたはずのシェリアの姿がずっと後方にまで下がっていた。
猫の跳躍力にしても、たった一歩でそこまで下がれるものなのか。いやそもそもの話、あのタイミングは絶対に回避に回れる体勢ではなかった。よしんば強引に背後に跳ぶことができたとて、完全に下がり切る前に馬頭の金棒はシェリアを叩き潰しせる範囲内にいたはずなのだ。
何かをした。
妖精特有の技を使って。
気付いたときには遅かった。
シェリアは遥か後方で爪を構え直していて、
「どこ見てんだお前っ!!」
「…っ!」
馬頭のフォローに回って獲物を手放した牛頭は由音の攻撃を受けて馬頭の背中にドンとぶつかっていた。
「?…うぉ、やっべ!」
その直後に気付いたらしき由音が跳び退るのと同時に、シェリアの下から上へ掬い上げるように振り上げられた爪が路地裏を縦に断つ斬撃と化して放たれた。
「く、グッ!ぬがァっ!!」
路地裏の地面と壁を飛び跳ねるようにして、白いワンピース姿の少女が縦横無尽に駆け回る。
両の爪で、あるいは足で。目にも留まらぬ速度で猫の妖精は馬頭の金棒を掻い潜りながら様々な角度から攻撃を仕掛ける。
「クソがァァああ!!」
鬼の金剛力を持ってして振るわれる金棒は一向に猫の少女を捉えることが叶わず、その身に少しずつ細かな傷を作っていく。
「馬頭、落ち着け!翻弄されては敵の思うツボだぞ!」
対する牛頭はといえば、現状の時点では相手を圧倒していた。
「……ごぼっ」
全身を刺叉で切り刻まれた由音が、そのU字の刃に首を引っ掛けられたまま壁に押し付けられて身動きを封じられていた。
(|工程解除《リリース》の|項目《コマンド》で“憑依”の深度が初期化されちまったからな……引き上げにはまた時間が掛かる…けど、)
裂けた首と口から明らかな致死量の出血を噴き出しながら、しかし昏い色を乗せた由音の瞳は揺らぐことなく余裕で余所見を決め込んでいる敵をしっかり見つめていた。
(ひとまずはこれで充分っ!)
ある程度まで引き上げた力を身に纏わせ、深度上昇の証である濁った両眼は強く牛の人外の顔を睨み、首に突き刺さったままの武器も放って伸ばせる限り右手を伸ばす。
「っ!?ちぃっ!」
あと少しでその牛面にアイアンクローを極められたというところまで伸びた手は、直前で視線を戻した牛頭に気付かれた。慌てて真横に薙ぎ払った刺叉に、引っ掛かった首が持っていかれ路地裏の地面を転がる。
「本当に不死身か貴様…っ」
「冗談!不死身の人間がいるかよ馬鹿か!」
「人間であるかどうかが既に疑問なんだがな!」
すぐさま起き上がった由音が素手で刺叉を押さえに掛かる。
その十数メートル離れた位置では、馬頭が目で追い切れない敵に四苦八苦しながら金棒を振り回していた。
「この、ちょこまか動くんじゃねえ!」
「おっ、とと。ほっ、てぃ!」
吹き荒れる風のように捉えられない身軽な人外には、いくら一撃で相手を粉砕できるであろう威力のある攻撃だったとしてもまるで無意味。しかもギリギリのラインを見極めて回避しているので柳の枝を相手にしているかのような手応えの無さを返してくる。単純に当たらないよりも遥かにストレスと苛立ちを覚え、ついつい大振りになってしまう。
それを待っていたかのように、暴風は攻撃に転じ始める。
「せりゃ!」
「ッ!」
爪を伸ばしたまま緩く握った拳を素早く突き出して馬頭の額に当てる。
殴るというよりは叩くような、猫パンチに似たじゃれつくような微笑ましさすらある攻撃方法。
だが目で追えないほどの速度で、となればその威力は桁違いだ。
ヴォッ!!と空気を震わせてシェリアの右手が唸る。
額が陥没したんじゃないかと思うほどの一発が正確に叩き込まれ、思わず馬頭はたたらを踏んで数歩後ろへよろめく。
「もいっちょ!」
パァンッ!
「ぶっ!」
「さらにっ!」
ズパンッッ!!
右頬を打たれ、さらに胸部を強く叩かれ馬頭は金棒で防御することも出来ずに後退させられる。
「つっ……ってえなこのクソ妖精があ!!」
「まだまだぁ!」
怒りに任せ金棒を振り上げた馬頭の正面で、五指を広げたシェリアが爪を構えて一撃を放つ体勢に入っていた。
金剛力の一撃よりも遥かに出が早く、強力な爪撃が来る。
当然馬頭の金棒など間に合うわけもなく、
「退け馬頭ッ!」
そんな背後からの声に、身を捻じってシェリアと牛頭との間に直線的な空間を空けることくらいしか出来る行動はなかった。
全力のサイドスローで投擲された牛頭の刺叉が、U字の刃をぎらつかせてシェリアの眉間に飛来する。
「わわっ!?」
突然空いた空間から飛び出て来た刺叉に驚きつつも小柄な体躯を沈み込ませることで回避したシェリアを、身を捻じったことで多少ながらぐらついた体勢からでも無理矢理に金棒を叩き込まんと両手で握る馬頭が再度狙う。
爪撃は体勢を崩され、いくら出の速さがあろうともこの状況ならば馬頭の一撃の方がより早く届くのは確実。頭上高く掲げられた金棒が忌々しい妖精の頭を渾身の力で砕き割る。
そのはずだった。
「“蒼天に吹け、|流《なが》る|辻風《つじかぜ》っ”」
何か力の気配を感じさせる文言を唱えると、途端に振り下ろした金棒の直撃コースにいたはずのシェリアの姿がずっと後方にまで下がっていた。
猫の跳躍力にしても、たった一歩でそこまで下がれるものなのか。いやそもそもの話、あのタイミングは絶対に回避に回れる体勢ではなかった。よしんば強引に背後に跳ぶことができたとて、完全に下がり切る前に馬頭の金棒はシェリアを叩き潰しせる範囲内にいたはずなのだ。
何かをした。
妖精特有の技を使って。
気付いたときには遅かった。
シェリアは遥か後方で爪を構え直していて、
「どこ見てんだお前っ!!」
「…っ!」
馬頭のフォローに回って獲物を手放した牛頭は由音の攻撃を受けて馬頭の背中にドンとぶつかっていた。
「?…うぉ、やっべ!」
その直後に気付いたらしき由音が跳び退るのと同時に、シェリアの下から上へ掬い上げるように振り上げられた爪が路地裏を縦に断つ斬撃と化して放たれた。
(印はやってる余裕がねえ、文言と素質頼りで強引に発動まで持っていく!)
両手両脚を総動員して大鬼と競り合いながら、冷や汗混じりに守羽は息を整えて呟くように意味ある言の葉を紡ぐ。
「…“魔を穿つ。この身は邪に『臨』む『兵』”」
「ほう」
ただの呟きでも独り言でもないことを気配で感じ取った酒呑童子は、お膳立てをしてやったと言っておきながらもそれを阻害する為に拳を振るう。
受けるというよりも逸らすように拳を打ち合わせて、守羽は大鬼の金剛力から直撃を極力避けていく。
威力は言うに及ばず、今の『僕』たる神門守羽にとっても直撃は即死を免れない。だが、速度自体はそれほどではない。もちろん普段の五十倍程度しか引き出せない状況であればそれすら見切ることは出来なかっただろうが、今なら話は変わって来る。
全身を二百倍固定で強化し、同様に強化した動体視力をもって眼球を高速で動かして鬼の次の一手を、その軌道を読みながら攻防はかろうじて成立していく。
「“討ち果たす。この身は退魔を担う『闘』う『者』”」
効力を、範囲を、強度を、綿密に織り込んでいく。
「フッ!」
「っはぁ!!」
大鬼は守羽の手足を枯れ枝のように容易く折って砕く。受け流し方を少しでも間違えればすぐにでも衝撃は急所を突く。数打で使い物にならなくなる両手足に治癒を掛けながら、守羽はこの状況がじきに終わることを理解する。
ズキン、と脳に響く痛みが守羽の顔を顰めさせる。
(自分自身に掛ける治癒はもうそろ限界か。予想よりは保った方だが…)
しかしそれにしても、早い。
まだだ、もう少し。
もう少しだけ時間が欲しい。
「ッ!!」
大鬼の回避不可能な拳を右手で受けようとして、咄嗟に引っ込め左で拳の側面を叩く。
右手は駄目だ。せめて利き手は残しておかねば不味い。
直前で起こした不測の動きに攻撃を捌き切れず、豪腕が肩を掠める。それだけで肩の関節が外れた。
「かっ……!“遮る土砂の隔壁、打ち貫く鉱鉄の|片礫《へんれき》!”」
本命の言霊を保留して、時間を稼ぐ為に違う現象を生み出す。
ズドンと重低音を響かせて守羽と大鬼との間に土の壁が突き出て双方を視界から遮断する。即座に壁を粉砕しようと拳を振るった酒呑童子の攻撃が土壁を破壊するより先に、土壁から黒色の金属が散弾のように破裂して飛び散った。
どの面に当たっても傷を生じるように歪に尖らせた黒鉄の散弾が今まさに土壁を粉砕すべくしていた大鬼に殺到する。
(くそっこれだから馬鹿力のクソ鬼は嫌いなんだ!この辺は『俺』でも僕でも変わらん感想だな!)
眼前の壁に外れた肩を押し付けるようにタックルして半ば強引に嵌め直す。
直後、押し付けた壁を貫通して鬼の右手が飛び出て守羽の首を鷲掴みにした。
「けはっ!こ、の……!!」
「危ないじゃねェか、目に入ったらどうすんだよ」
目に入ったら、とかそういうレベルの塵芥程度にしかあの金属片散弾を意識していない鬼が、掴んだ手をそのままに土壁をまるで薄紙を破るように破壊しながらその巨躯を現す。
「で、いつまで遊んでんだ『鬼殺し』。自分で言うのもなんだが、オレはそこまで気長に待ってやれる性分じゃねェぞ」
ギリギリと絞め上げながら、地面から離れた守羽が大鬼に首を掴まれたまま持ち上げられる。
「っ…」
「……チッ、終わりか?」
目当てのモノを見れずに相手を殺してしまうことに若干の躊躇いを見せつつも、それならばそれで脅威と見なす程のモノでもなかったのだろうと自分に言い聞かせるようにして、大鬼は妖精の力を操る人間の首を握り潰そうと力を強める。
その酒呑童子の、文字通り目と鼻の先で。
守羽が開いた掌を向けていた。
そこからどんな攻撃が来ようと、たとえ顔面に直撃したところで大鬼にさしたるダメージは無い。首を締める手の力が緩むこともないだろう。
それを知っているから、守羽は強力な一撃を放とうとは思っていなかった。
ぽっと掌で小さな火の玉が灯った。
「?」
なんのつもりかと疑問符を浮かべた酒呑童子の視界を、一瞬間後に真っ白な光が覆った。
「お、ォお!?」
爆炎なら見た。
火球も確認した。
だがこれは知らない。
火の力を使ったのは間違いない。ただし強めた力のベクトルが違った。
爆発力や火力を引き上げたのではなく、おそらくは明度の調整。
強力に圧縮した火の玉の制御を一気に手放すことによって、爆発するのではなく昼下がりの太陽のように眩い光量を生んだ。
普段の守羽なら知らない、『僕』たる神門守羽だから知っていた。
鬼は確かに強い、そして硬い。
肉質や腕力は人間の比ではない。どうあってもこの人外に致命傷を負わせることは人間の身だけでは不足。
だが、人型をして、人の言葉を解し、人のように行動できる構造を持っているからこそ、人間とよく似た共通の感覚や弱点も確かに存在する。
そして、その弱点だけは確かに人間より効き目は薄くとも効果はあった。
五感。
目の錯覚や、幻聴、味の誤認や臭いの違和。
そういったものは、鬼に限らず人型の人外や獣のような化物にだってきちんと成立していることは、『僕』が知っていた。
だから、間近でいきなり灯った強力な光に対し眼球を刺されるような痛みを覚えたことは相手が大鬼であってもそれほど不自然なことではなかった。
予想外のことで思わずといった具合に緩まった手を力任せに開き、守羽は咳き込みながらも地面に着地する。
「けほごほ!っ…“解き放つ。『皆』にして、『陣』を敷き『列』を組め!”」
「やって、くれんじゃねェか人間ッ!」
「!!」
一時的に目を使い物にならなくされた大鬼が、気配を頼りに右脚を大きく振るう。充分に酸素を肺に送り込めていない状況で、咳き込む守羽はそれを避け切れなかった。
メキャッ!!!
「っつう!!」
鬼の爪先を左腕で受け、予想通り受け切れずにその身は冗談のように大きく吹き飛ぶ。一つ二つと廃ビルを巻き込み、三つ目の廃ビルの壁面に大きなクレーターを発生させて体をコンクリートに沈みこませながらようやく止まる。
ごぼっ。
水中で息を吐き出したような不自然な水音を立てて、顔を上げながら守羽は意識を外傷より内側の方へ向ける。
(内臓がいくつか死んだ。特に、肺が……やばい)
左腕は原型は保てている。が、使い物にはなりそうにない。
おそらく使える治癒の力はこれで最後。それさえもこの傷を全て治し切るにはまだ足りない。
(いい。とりあえず致命的なやつだけ治して、…くそ、足りない。肺は片方が限界、か)
片方は圧力で完全に潰れた。もう片方は骨が刺さったのか、うまく機能を果たしていない。壊れた内臓器官の致命的な部分だけを治癒に回して、肺を片方に限って治してもまだ足りない。
ずっと正面からは凄まじい勢いでこちらへ疾走してくる赤髪の巨漢の姿が見える。
視線を右にずらせば、そちらにも走り寄ってくる人影があった。
(来ちゃ駄目だって……僕としてもあんたは、巻き込み、たく…ないって、のに)
右手を上げて、走り寄る静音に静止のジェスチャーを向ける。
(来るな)
両目に宿るそんな意思の力を読み取ったのか、途中で両足を止めた静音が泣きそうな表情でこっちを見ている。今の自分はよほど酷い惨状らしい。
だがまだだ。まだ終わらない。
声どころか息を吸うことすら困難な状態で、それでも片側の肺頼りに吸った酸素を言霊に換えて紡ぐ。
最後の一節を。
「…………“九字の、法。我が、怨敵は…眼の『前』に、『在』りてーーー”」
廃ビルの壁面に体を預けたまま、震える右手を鬼に向けて、立てた人差し指と中指で中空に何かを描く。
それはただの直線。
縦に四、横に五。網目を描くようにして交互に振るう指先が九度目の直線を引いた時、
条件は整った。
鬼を封じる手立てを確立させる。
「げぶっ!!ーーー……っッ!」
減り込んでいた壁面から背中を剥がしながら、気合いで吐血と共に声を振り絞る。
「“|切九字《きりくじ》・|護法《ごほう》|牢格《ろうかく》!!”」
全霊の言霊に応じ、万象に意味を生み現象と成す。
「…あァ?」
まず初めに、光が流れた。
それは『鬼殺し』の少年へ疾駆する酒呑童子の正面に現れ、瞬時に縦横へと空中を奔り抜ける。
縦に四本、横に五本と奔る光のラインは途中で折り返し、大鬼を取り囲うように正方形の枠を作っていった。
「テメェの仕業か、『鬼殺し』」
酒呑童子は守羽を睨み、光が形を作り終えるより前に全力でその光の枠を殴打する。
どういった代物かは不明だが、こんな弱々しい光の囲い。自分の前には襖を破るより容易く破壊できる。大鬼は信じて疑わなかった。
その自信は、その過信は、その妄信は。
大抵の生物を粉微塵にしてしまう金剛力を持つ、その鬼の一撃が光に触れて大きく弾かれたことで、ようやく揺らぐに至った。
「あ゛?」
ビリビリと痺れを残す弾かれた拳に視線を落とし、大鬼はわけがわからないといった風に眉根を寄せた。
その間に、縦横に奔る九本の光の線は完全に鬼を取り囲い、正方形の枠に人外を閉じ込めた。
光の線同士の間隔からしても、いくら巨漢の酒呑童子でも体を横にすればすり抜けることは可能に見えた。だが違った。
枠が完成すると同時に、それは一分の隙もなく不可視の障壁を張り巡らせていた。それは帯電しているかのようにバチバチと火花のようなものを放つ。まるで内側に囲った大鬼を逃がすことを許さぬと強調しているようだった。
(無駄だ。そいつは陽に満ち満ちた破魔の法。調伏の格子。護法の陣。…魔に属す鬼性種じゃ内からも外からも干渉は不可能)
もはや声に出して言うことさえ困難な守羽が、よろりと立ち上がりながら光の檻に閉じ込めた大鬼を見据える。
『成身辟除結界護身法』。
より一般的には『九字護身法』。
九つの意味ある文字から成る『九字』に依り、特殊な印と所作を成立させることで引き起こす陰陽道の術法。
弾かれ黒く焦げた拳の表面をまじまじと見ていた酒呑童子は、僅かに目を見開いて瀕死の守羽を光の檻越しに眺めて、呟いた。
「そ、うか。その力、知ってるぞ。いや、思い出したの方が正しいか。その奇怪な術……あの引法とかいう|糞爺《クソジジィ》が使ってたのと同じ法力!!」
何を思い出したのか、酒呑童子は途端に歯が砕けんばかりに食いしばり、これまでのが手加減だったと知らしめる全力を発揮して光の檻を全力で殴り始めた。
当然、その拳は檻に阻まれ、弾かれる。魔に対する攻性を持つ結界は弾くだけに留まらず、その拳に与える衝撃と同等のダメージを与える。
消耗するのは大鬼のみ。延々と結界の内側で消耗し、封じ閉じられた空間内で魔性の者はその身が朽ちるまで暴れ続ける。
ーーーと、認識している者はこの場に一人も居なかった。
閉じ込められた大鬼・酒呑童子も、術法を展開した守羽自身も、そして少し離れたところから様子を見守っていた静音ですら。
これで終わり、封じて終了、などとは思っていなかった。いや思えなかった。
仮にも相手は日本史上最大最強と謳われる鬼の首領。
九字を切った程度の結界では、押さえ切れない。
人間の浅知恵で生み出した術式程度で、押さえられるものか。
互いが内心でこの状況が長く続かないことを理解していた。
理解していたからこそ、動くのは速かった。
鬼の腕力が光の檻に叩きつけられる度、拳が焼け焦げる嫌な音と同時に、結界が軋みを上げてヒビ割れていく音も重なっていく。
「なっるほどなァ、確かにこれなら茨木くれェならヤれるかもしれねェ」
自分の両手が黒ずんでいくのも気にせず、酒呑童子は笑みすら浮かべて結界を破壊する為に容赦なく金剛力をぶつけていく。
その内に結界が内側の魔を排除する為に電撃のようなものを放つが、それを全身に浴びても大鬼は意に介することなく破壊のみに意識を注いでいた。
効いていない。
「だがオレは無理だな。これでも鬼性種ん中じゃ頂点張ってるオレを、たかが妖精混じりの|人間《ガキ》一人の術で押さえ込めるものかよ!」
「…ああ、知ってる」
小さく呟いた守羽が、おぼつかない足並みでゆっくりと上体を倒し、無事な方の右手を左側面の腰にぴたりと当てた。
それはまるで何かの構え。
静音はそれを見て思った。その手元にありもしないはずのものを幻視して、それを抜き放とうとする構えのようだと。
それは刀。
腰に差した刀を鞘から引き抜こうとする、抜刀の構え。
物こそ無いが、守羽の構えはそれに酷似していた。
「僕一人で、お前みたいな化物を、封じられるはずがない。……茨木童子ですら無理、だったんだ。知ってたさ、そんなことは」
頭部から口から腕から、血を噴き出し垂れ流しながら、守羽は腰溜めに力を蓄えるように腰に添えた右手に深く集中する。
この一撃が最後。
そう強く意識して。
「けほ、ごぼっ!……そいつはただの、前座だ。本命は……こっち」
先の結界を描いた時と同じように人差し指と中指を立てた右手が、僅かに光る。正確にはその二本の指の先。
九字の文言はまだ続く。結界に捉えた対象は、ただ囲い閉じ込めるだけに留まらない。
本来であれば刀(あるいはその鞘)を用いて行う刀印という所作、その様子から『九字を切る』とも呼ばれるようになったという。
空に格子の模様を描けば、それは魔を防ぐ結界となる。
あるいは鞘から刀を抜き放つ所作であれば、それは魔を断つ刃となる。
魔を討つ不可視の刃が、指の先で静かに砥がれる。
抜き放つは一瞬。この一撃が必倒。
『鬼殺し』と呼ばれた、これが所以。
ひゅーひゅーと呼吸音が歪になっていく状態で、酷い顔色でも視線と構えは崩さぬままに、守羽は気力任せに一刀を薙ぐ。
「く、ったばれ…“|早九字《はやくじ》・|断魔《だんま》|祓浄《ふつじょう》!!”」
二本指を立てた右手を、抜刀の勢いで右下から左上へと斜め一線に振るう。
振るった軌跡をなぞるように、光の太刀が空間を裂く。
「ッ…ぜァァああああああ!!」
ただならぬ脅威を感じ取ったのか、酒呑童子も結界の破壊を止めて身に迫る斬撃に備え右の正拳を突き出す。
光の檻ごと斬り払った断魔の太刀が、大鬼の拳と真っ向から衝突する。
両手両脚を総動員して大鬼と競り合いながら、冷や汗混じりに守羽は息を整えて呟くように意味ある言の葉を紡ぐ。
「…“魔を穿つ。この身は邪に『臨』む『兵』”」
「ほう」
ただの呟きでも独り言でもないことを気配で感じ取った酒呑童子は、お膳立てをしてやったと言っておきながらもそれを阻害する為に拳を振るう。
受けるというよりも逸らすように拳を打ち合わせて、守羽は大鬼の金剛力から直撃を極力避けていく。
威力は言うに及ばず、今の『僕』たる神門守羽にとっても直撃は即死を免れない。だが、速度自体はそれほどではない。もちろん普段の五十倍程度しか引き出せない状況であればそれすら見切ることは出来なかっただろうが、今なら話は変わって来る。
全身を二百倍固定で強化し、同様に強化した動体視力をもって眼球を高速で動かして鬼の次の一手を、その軌道を読みながら攻防はかろうじて成立していく。
「“討ち果たす。この身は退魔を担う『闘』う『者』”」
効力を、範囲を、強度を、綿密に織り込んでいく。
「フッ!」
「っはぁ!!」
大鬼は守羽の手足を枯れ枝のように容易く折って砕く。受け流し方を少しでも間違えればすぐにでも衝撃は急所を突く。数打で使い物にならなくなる両手足に治癒を掛けながら、守羽はこの状況がじきに終わることを理解する。
ズキン、と脳に響く痛みが守羽の顔を顰めさせる。
(自分自身に掛ける治癒はもうそろ限界か。予想よりは保った方だが…)
しかしそれにしても、早い。
まだだ、もう少し。
もう少しだけ時間が欲しい。
「ッ!!」
大鬼の回避不可能な拳を右手で受けようとして、咄嗟に引っ込め左で拳の側面を叩く。
右手は駄目だ。せめて利き手は残しておかねば不味い。
直前で起こした不測の動きに攻撃を捌き切れず、豪腕が肩を掠める。それだけで肩の関節が外れた。
「かっ……!“遮る土砂の隔壁、打ち貫く鉱鉄の|片礫《へんれき》!”」
本命の言霊を保留して、時間を稼ぐ為に違う現象を生み出す。
ズドンと重低音を響かせて守羽と大鬼との間に土の壁が突き出て双方を視界から遮断する。即座に壁を粉砕しようと拳を振るった酒呑童子の攻撃が土壁を破壊するより先に、土壁から黒色の金属が散弾のように破裂して飛び散った。
どの面に当たっても傷を生じるように歪に尖らせた黒鉄の散弾が今まさに土壁を粉砕すべくしていた大鬼に殺到する。
(くそっこれだから馬鹿力のクソ鬼は嫌いなんだ!この辺は『俺』でも僕でも変わらん感想だな!)
眼前の壁に外れた肩を押し付けるようにタックルして半ば強引に嵌め直す。
直後、押し付けた壁を貫通して鬼の右手が飛び出て守羽の首を鷲掴みにした。
「けはっ!こ、の……!!」
「危ないじゃねェか、目に入ったらどうすんだよ」
目に入ったら、とかそういうレベルの塵芥程度にしかあの金属片散弾を意識していない鬼が、掴んだ手をそのままに土壁をまるで薄紙を破るように破壊しながらその巨躯を現す。
「で、いつまで遊んでんだ『鬼殺し』。自分で言うのもなんだが、オレはそこまで気長に待ってやれる性分じゃねェぞ」
ギリギリと絞め上げながら、地面から離れた守羽が大鬼に首を掴まれたまま持ち上げられる。
「っ…」
「……チッ、終わりか?」
目当てのモノを見れずに相手を殺してしまうことに若干の躊躇いを見せつつも、それならばそれで脅威と見なす程のモノでもなかったのだろうと自分に言い聞かせるようにして、大鬼は妖精の力を操る人間の首を握り潰そうと力を強める。
その酒呑童子の、文字通り目と鼻の先で。
守羽が開いた掌を向けていた。
そこからどんな攻撃が来ようと、たとえ顔面に直撃したところで大鬼にさしたるダメージは無い。首を締める手の力が緩むこともないだろう。
それを知っているから、守羽は強力な一撃を放とうとは思っていなかった。
ぽっと掌で小さな火の玉が灯った。
「?」
なんのつもりかと疑問符を浮かべた酒呑童子の視界を、一瞬間後に真っ白な光が覆った。
「お、ォお!?」
爆炎なら見た。
火球も確認した。
だがこれは知らない。
火の力を使ったのは間違いない。ただし強めた力のベクトルが違った。
爆発力や火力を引き上げたのではなく、おそらくは明度の調整。
強力に圧縮した火の玉の制御を一気に手放すことによって、爆発するのではなく昼下がりの太陽のように眩い光量を生んだ。
普段の守羽なら知らない、『僕』たる神門守羽だから知っていた。
鬼は確かに強い、そして硬い。
肉質や腕力は人間の比ではない。どうあってもこの人外に致命傷を負わせることは人間の身だけでは不足。
だが、人型をして、人の言葉を解し、人のように行動できる構造を持っているからこそ、人間とよく似た共通の感覚や弱点も確かに存在する。
そして、その弱点だけは確かに人間より効き目は薄くとも効果はあった。
五感。
目の錯覚や、幻聴、味の誤認や臭いの違和。
そういったものは、鬼に限らず人型の人外や獣のような化物にだってきちんと成立していることは、『僕』が知っていた。
だから、間近でいきなり灯った強力な光に対し眼球を刺されるような痛みを覚えたことは相手が大鬼であってもそれほど不自然なことではなかった。
予想外のことで思わずといった具合に緩まった手を力任せに開き、守羽は咳き込みながらも地面に着地する。
「けほごほ!っ…“解き放つ。『皆』にして、『陣』を敷き『列』を組め!”」
「やって、くれんじゃねェか人間ッ!」
「!!」
一時的に目を使い物にならなくされた大鬼が、気配を頼りに右脚を大きく振るう。充分に酸素を肺に送り込めていない状況で、咳き込む守羽はそれを避け切れなかった。
メキャッ!!!
「っつう!!」
鬼の爪先を左腕で受け、予想通り受け切れずにその身は冗談のように大きく吹き飛ぶ。一つ二つと廃ビルを巻き込み、三つ目の廃ビルの壁面に大きなクレーターを発生させて体をコンクリートに沈みこませながらようやく止まる。
ごぼっ。
水中で息を吐き出したような不自然な水音を立てて、顔を上げながら守羽は意識を外傷より内側の方へ向ける。
(内臓がいくつか死んだ。特に、肺が……やばい)
左腕は原型は保てている。が、使い物にはなりそうにない。
おそらく使える治癒の力はこれで最後。それさえもこの傷を全て治し切るにはまだ足りない。
(いい。とりあえず致命的なやつだけ治して、…くそ、足りない。肺は片方が限界、か)
片方は圧力で完全に潰れた。もう片方は骨が刺さったのか、うまく機能を果たしていない。壊れた内臓器官の致命的な部分だけを治癒に回して、肺を片方に限って治してもまだ足りない。
ずっと正面からは凄まじい勢いでこちらへ疾走してくる赤髪の巨漢の姿が見える。
視線を右にずらせば、そちらにも走り寄ってくる人影があった。
(来ちゃ駄目だって……僕としてもあんたは、巻き込み、たく…ないって、のに)
右手を上げて、走り寄る静音に静止のジェスチャーを向ける。
(来るな)
両目に宿るそんな意思の力を読み取ったのか、途中で両足を止めた静音が泣きそうな表情でこっちを見ている。今の自分はよほど酷い惨状らしい。
だがまだだ。まだ終わらない。
声どころか息を吸うことすら困難な状態で、それでも片側の肺頼りに吸った酸素を言霊に換えて紡ぐ。
最後の一節を。
「…………“九字の、法。我が、怨敵は…眼の『前』に、『在』りてーーー”」
廃ビルの壁面に体を預けたまま、震える右手を鬼に向けて、立てた人差し指と中指で中空に何かを描く。
それはただの直線。
縦に四、横に五。網目を描くようにして交互に振るう指先が九度目の直線を引いた時、
条件は整った。
鬼を封じる手立てを確立させる。
「げぶっ!!ーーー……っッ!」
減り込んでいた壁面から背中を剥がしながら、気合いで吐血と共に声を振り絞る。
「“|切九字《きりくじ》・|護法《ごほう》|牢格《ろうかく》!!”」
全霊の言霊に応じ、万象に意味を生み現象と成す。
「…あァ?」
まず初めに、光が流れた。
それは『鬼殺し』の少年へ疾駆する酒呑童子の正面に現れ、瞬時に縦横へと空中を奔り抜ける。
縦に四本、横に五本と奔る光のラインは途中で折り返し、大鬼を取り囲うように正方形の枠を作っていった。
「テメェの仕業か、『鬼殺し』」
酒呑童子は守羽を睨み、光が形を作り終えるより前に全力でその光の枠を殴打する。
どういった代物かは不明だが、こんな弱々しい光の囲い。自分の前には襖を破るより容易く破壊できる。大鬼は信じて疑わなかった。
その自信は、その過信は、その妄信は。
大抵の生物を粉微塵にしてしまう金剛力を持つ、その鬼の一撃が光に触れて大きく弾かれたことで、ようやく揺らぐに至った。
「あ゛?」
ビリビリと痺れを残す弾かれた拳に視線を落とし、大鬼はわけがわからないといった風に眉根を寄せた。
その間に、縦横に奔る九本の光の線は完全に鬼を取り囲い、正方形の枠に人外を閉じ込めた。
光の線同士の間隔からしても、いくら巨漢の酒呑童子でも体を横にすればすり抜けることは可能に見えた。だが違った。
枠が完成すると同時に、それは一分の隙もなく不可視の障壁を張り巡らせていた。それは帯電しているかのようにバチバチと火花のようなものを放つ。まるで内側に囲った大鬼を逃がすことを許さぬと強調しているようだった。
(無駄だ。そいつは陽に満ち満ちた破魔の法。調伏の格子。護法の陣。…魔に属す鬼性種じゃ内からも外からも干渉は不可能)
もはや声に出して言うことさえ困難な守羽が、よろりと立ち上がりながら光の檻に閉じ込めた大鬼を見据える。
『成身辟除結界護身法』。
より一般的には『九字護身法』。
九つの意味ある文字から成る『九字』に依り、特殊な印と所作を成立させることで引き起こす陰陽道の術法。
弾かれ黒く焦げた拳の表面をまじまじと見ていた酒呑童子は、僅かに目を見開いて瀕死の守羽を光の檻越しに眺めて、呟いた。
「そ、うか。その力、知ってるぞ。いや、思い出したの方が正しいか。その奇怪な術……あの引法とかいう|糞爺《クソジジィ》が使ってたのと同じ法力!!」
何を思い出したのか、酒呑童子は途端に歯が砕けんばかりに食いしばり、これまでのが手加減だったと知らしめる全力を発揮して光の檻を全力で殴り始めた。
当然、その拳は檻に阻まれ、弾かれる。魔に対する攻性を持つ結界は弾くだけに留まらず、その拳に与える衝撃と同等のダメージを与える。
消耗するのは大鬼のみ。延々と結界の内側で消耗し、封じ閉じられた空間内で魔性の者はその身が朽ちるまで暴れ続ける。
ーーーと、認識している者はこの場に一人も居なかった。
閉じ込められた大鬼・酒呑童子も、術法を展開した守羽自身も、そして少し離れたところから様子を見守っていた静音ですら。
これで終わり、封じて終了、などとは思っていなかった。いや思えなかった。
仮にも相手は日本史上最大最強と謳われる鬼の首領。
九字を切った程度の結界では、押さえ切れない。
人間の浅知恵で生み出した術式程度で、押さえられるものか。
互いが内心でこの状況が長く続かないことを理解していた。
理解していたからこそ、動くのは速かった。
鬼の腕力が光の檻に叩きつけられる度、拳が焼け焦げる嫌な音と同時に、結界が軋みを上げてヒビ割れていく音も重なっていく。
「なっるほどなァ、確かにこれなら茨木くれェならヤれるかもしれねェ」
自分の両手が黒ずんでいくのも気にせず、酒呑童子は笑みすら浮かべて結界を破壊する為に容赦なく金剛力をぶつけていく。
その内に結界が内側の魔を排除する為に電撃のようなものを放つが、それを全身に浴びても大鬼は意に介することなく破壊のみに意識を注いでいた。
効いていない。
「だがオレは無理だな。これでも鬼性種ん中じゃ頂点張ってるオレを、たかが妖精混じりの|人間《ガキ》一人の術で押さえ込めるものかよ!」
「…ああ、知ってる」
小さく呟いた守羽が、おぼつかない足並みでゆっくりと上体を倒し、無事な方の右手を左側面の腰にぴたりと当てた。
それはまるで何かの構え。
静音はそれを見て思った。その手元にありもしないはずのものを幻視して、それを抜き放とうとする構えのようだと。
それは刀。
腰に差した刀を鞘から引き抜こうとする、抜刀の構え。
物こそ無いが、守羽の構えはそれに酷似していた。
「僕一人で、お前みたいな化物を、封じられるはずがない。……茨木童子ですら無理、だったんだ。知ってたさ、そんなことは」
頭部から口から腕から、血を噴き出し垂れ流しながら、守羽は腰溜めに力を蓄えるように腰に添えた右手に深く集中する。
この一撃が最後。
そう強く意識して。
「けほ、ごぼっ!……そいつはただの、前座だ。本命は……こっち」
先の結界を描いた時と同じように人差し指と中指を立てた右手が、僅かに光る。正確にはその二本の指の先。
九字の文言はまだ続く。結界に捉えた対象は、ただ囲い閉じ込めるだけに留まらない。
本来であれば刀(あるいはその鞘)を用いて行う刀印という所作、その様子から『九字を切る』とも呼ばれるようになったという。
空に格子の模様を描けば、それは魔を防ぐ結界となる。
あるいは鞘から刀を抜き放つ所作であれば、それは魔を断つ刃となる。
魔を討つ不可視の刃が、指の先で静かに砥がれる。
抜き放つは一瞬。この一撃が必倒。
『鬼殺し』と呼ばれた、これが所以。
ひゅーひゅーと呼吸音が歪になっていく状態で、酷い顔色でも視線と構えは崩さぬままに、守羽は気力任せに一刀を薙ぐ。
「く、ったばれ…“|早九字《はやくじ》・|断魔《だんま》|祓浄《ふつじょう》!!”」
二本指を立てた右手を、抜刀の勢いで右下から左上へと斜め一線に振るう。
振るった軌跡をなぞるように、光の太刀が空間を裂く。
「ッ…ぜァァああああああ!!」
ただならぬ脅威を感じ取ったのか、酒呑童子も結界の破壊を止めて身に迫る斬撃に備え右の正拳を突き出す。
光の檻ごと斬り払った断魔の太刀が、大鬼の拳と真っ向から衝突する。