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第一話

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 狭く、散らかった部屋であった。
 長机が二つほど真ん中にあり、パイプ椅子がいくつか適当な位置に置かれている。その中には本がやたら高くまで積み上げられている椅子もある。本棚に入りきらなかった本は、こうしてあちこちに塔を作ることになる。
「んー…………」
 そんな散らかった文芸部の部室で、一人頭を抱えて悩んでいるのが僕だった。
「あ、先輩。来てたんですか」
 部室の扉を開き、入ってきた後輩は意外そうな顔で僕にそう言った。
「ここ最近、まったく来ていなかったのに」
「来たらマズかった?」
「いえいえとんでもない。……だけど、受験勉強は大丈夫なんですか?」
「……まぁ、今のところは」
 彼女の名前は井上智里。一つ下の高校二年生。
「油断しないでくださいね。七原先輩はよく、最後の最後で致命的なミスをしますから」
「……そうだっけ?」
「ほら、先輩が二年生の時、文化祭のクラスの出し物で――」
「あー、うん、いい。あれの話はまぁいい。分かったから」
「……よっぽどトラウマなんですねぇ」
 何があったのか思い出すのも嫌だ。もちろん、ここで述べることもできない。
「それで、何をしているんですか?」
「うーん……」
 どう答えるべきか迷ってから、言った。
「小説を書こうと思うんだ」
「え?」
「ほら、文芸部のくせに、俺って小説をほとんど書いていなかったから。だから最後に、ちゃんとしたものを書きたくて」
 理由は少し誤魔化した。だけどまぁほとんど嘘はついていない。
「あぁ……まぁ、いいですけど……本当に、受験勉強は大丈夫なんですか?」
「それはそれ、これはこれ。……まぁ、息抜きにもなるし」
「そうなんですか?」
「そうなんですそうなんです」
 なんとなく呆れたような顔に見えるが、きっと僕の気のせいだろう。
「――それで、どういうものを書くんですか?」
「それが、まだ決まってないんだ。今考えているところ」
 智里はぐいっと身を乗り出し、僕の前に置かれたメモ用紙を覗き込んだ。
「……字が汚くて読めません」
「どうせ大したことは書いてない。ほんと、何を書けばいいのかまださっぱり」
「少しはイメージとか無いんですか?」
「うーん。そうだな……」
 僕は少しだけ悩んだ末、言った。
「超感動巨編スペクタル小説がいいな」
「……なんて適当な」
「流行をふんだんに取り入れつつ、人間の内面を極限まで掘り下げるようなヤツがいいな。あと可愛い女の子も出したい」
「はぁ……」
 今度こそ彼女は呆れた顔をした。わざとらしくため息までついて。
「つまり、まだ何も考えてないということですね?」
「……だから、さっきそう言ったじゃないか」
 正確には、考えすぎてゴチャゴチャになっているという感じだ。
 なんとか高校生のうちに、ちゃんとしたものを一つ書きたい。いい加減なものじゃダメだ。……そう考えれば考える程、何を書くべきか分からなくなっていく。
「――とはいえ、私も執筆とかはまったくしませんからねぇ……」
「文芸部のくせに」
「先輩だってほとんどしなかったじゃないですか」
「まぁそうだけども」
 二人共ダメダメな文芸部員であった。
「――――ちーっす」
 と、そんな雑な挨拶とともに一人の女子生徒が部室に入ってきた。
「って、え? なんで七原がいるの?」
「……いちゃ悪いか」
「いやいや全然。でも受験生だろ? この時期、部室に顔を出す受験生なんていないだろうに」
「いや待て、お前も受験生だろう」
 彼女は上出香奈枝。僕と同じ三年生であり、本来ならばもう受験に集中しなければならないはずだ。
「あたしはここで勉強してるんだ。家より捗るからな」
「……どうしてそう言いながら漫画雑誌を取り出すんだ」
「ちょっと気になるから仕方ないだろ」
「全然勉強する気ないじゃないか!」
「だからちょっとだってば! 読み終わったらすぐ勉強するって!」
 なんだか嘘っぽい。
「だいたいそういうお前はどーなんだよ! 七原! お前勉強は大丈夫なのか!?」
「まぁ、うん、それなりには……」
 勉強のことになると急に歯切れが悪くなるのは香奈枝だけではなかった。……というより、受験生は皆そうだと思う。
「――で、何やってるんだ?」
 そして香奈枝もまた、ぐいっと身を乗り出して僕のメモを覗き込んだ。そしてそれをじっと眺めた後、
「なんだ? これから小説でも書くのか?」
「すごいです上出先輩! この字が読めるなんて……」
「まぁ勘と経験だ。慣れれば誰でも読めるようになるさ」
「……」
 そんなに難しいか?
「――だけどまぁちょうどいいや。香奈枝。物語とか作るの少しは慣れてるだろ? 何かアドバイスしてくれよ」
 僕がそう言うと、彼女は鼻で軽く笑った。
「アドバイスできることなんてあるわけねーだろ。最初のイメージさえ決まってないんだろ? そこを誰かに頼ってたら、それはもうお前の作品じゃないじゃねーか。……そういうのは、最低限のイメージを固めた後に言うべきだ」
「…………確かに、そうなんだけどさ……」
 誰かと協力して行くのは良い。だけど、目的地は自分で決めなくては意味が無い。
 それは理解しているのだが、しかし、どう決めればいいのか分からないから困るのだ。
「じゃあ言い方を変えるけどさ、香奈枝は、どんなものが読みたい?」
「バトル」
 一切迷うこと無く彼女はそう答えた。
「ガツンと熱いバトルが読みたいね。ライトノベルでもハードボイルドでもいいけどさ。読んでいて血が滾るような、強烈な戦闘シーンのあるやつがいい」
「……ああ、そういえばそうだった」
 こいつはこんな風に、滅茶苦茶嗜好が偏っているんだった。
「二人の人間がいて、そいつらは互いが互いであることが許せないんだ。思想の対立だとか、そんなぬるいものじゃなくてさ、もっと根源的な部分で存在を認めることができない。だから倒さなくてはならない。自分がより正しい自分になるために――と、そういう話があたしは大好きだね」
「相変わらず、濃いですねぇ……」
 ふふんと香奈枝は鼻を鳴らした。
「あたしはそういうものしか読まないし、そういうものしか描けないんだ。だからあたしに聞いても無駄だぜ」
 そう言うと、彼女はどかっと座って漫画雑誌に目を通し始めた。
 ――彼女、上出香奈枝は文芸部に所属しているが、実際のところ彼女が描くのは漫画だけだ。
 本来なら漫画研究部に入るべき人間なのだが、残念ながらこの高校にはそういった部活が存在しなかった。だから彼女は仕方なく文芸部にやってきた。……いや、漫画研究部がダメだから文芸部に来るというのが、妥当な判断かどうかは僕にも分からないのだが。
 香奈枝は漫画を読み、漫画を描く。彼女の嗜好は極端に偏っているが、だからこそ、彼女と波長の合う読者を思い切りを引き込むことができる。彼女はネット上に自分の作品を公開している。物語はものすごくシンプルであり、絵は素人目に見てもかなり雑であるが、それでもかなりの読者がいる。彼女の作品には、それだけの魅力があるということだろう。
「やっぱり、アドバイスなら部長にしてもらうほうがいいんじゃないですか?」
 智里は言った。
「宮田かぁ、そうだなぁ……」
「でも、部室にはもうまったく来ないですけどね」
「受験生だからなぁ」
「……本当は、私以外全員受験生なんですけどね」
「俺は仕方がないよ」
「あたしもだ」
 香奈枝はそれだけ言うと、また漫画雑誌に戻った。
「ま、とにもかくにも頑張ってみるしかないか……」
「高校卒業まで、まだ時間はありますからね」
「うん」
 そして僕は再び、小説のイメージを探す作業に戻った。

 しかし結局、この日は何の進展もなく終わった。どれだけイメージをメモ用紙に書き出してみても、それだけでは意味が無い。イメージの海に溺れていくだけだ。
 何より、高校を卒業するまでになんとかして書き上げたい、という妙に強い意志があるのがマズい。肩肘張ってしまって、なんだかすごく考えにくくなっているような気がする。せっかくだから最高に面白いものを作りたい、なんて自分からハードルを上げてしまっている。
 僕は自室の本棚にある、いわゆる創作指南書と呼ばれる本を読むことにした。
 どれも、小説を書こうと思って買い、一度は読んだことのある本ばかりだ。しかし言うまでもなく、どれもただ読んだだけで、実践にうつすことはほとんどできなかった。
「……うーん……」
 ざっと全部に目を通し終えた頃には、もう夜の十二時を回っていた。しかし相変わらず、どうすればいいかは分からなかった。
 翌日の放課後、僕は高校の図書室に向かった。
 図書室にもそういった創作指南書は置いてある。僕が読んでいないものも沢山あり、とりあえずいくつか借りていこうと思ったのだが、
「お、七原。久しぶり」
「ん? ああ、宮田か」
 思いもがけず、知り合いと出会った。
「どうした? 俺と同じで、ここに受験勉強しに来たのか?」
「いや、俺は……ちょっと、小説を書こうと思って」
 言うと、彼――文芸部の元部長である、宮田浩司は驚いたような顔をした。
「へぇ……今から? 受験生なのに?」
「うん。ダメか?」
「いや、いやいや。ダメなわけない。むしろ、今だからこそ書けるものもありそうだ」
 宮田はクイと黒縁の眼鏡を上げた。彼はいつもここぞというところでこういう動作をする。……フィクションなら様になるかもしれないが、現実だと……なんと言えばいいのか……とにかく、少し残念な気持ちになる。
「それで、小説を書くとして、どうして図書室に?」
「いや、創作指南書でも借りてみようかと思って……」
「あー、なるほど」
 宮田は頷く。
「なるほどなるほど。じゃあ、いくつか俺が紹介してやるか」
「ああ、頼むよ」
 そして彼は歩き出した。僕もそれについていく。
 いくつかの棚を素通りし、一番壁際の棚の前で彼は立ち止まった。
「それで、お前はどの段階で躓いているんだ?」
「あー、えっと。それが……」
「ん?」
「まだ、最初のイメージも掴めてなくって……」
 言うと、宮田は目を瞬かせた。
「あぁ、そういう段階か……」
「うん」
「確かに、一番どうしようもないところなんだけど……だけど困ったな、さすがにその辺りはどうしようもないぞ」
「……やっぱり?」
「方法論じゃどうしようもないところだからな。……でもまぁ、ある意味ではその部分だけを書いた本なんかもあるか」
「え?」
「これとか、これとか……あとこれもそうか」
 三冊の本を手に取り、僕に渡してくる。
「小説を書くとはどういうことか、それを考えている本だ。……といっても、読んだからといって今のお前の悩みが解決できるとは思えないけどな」
「あぁ。そっか……」
 僅かな沈黙の後、宮田は言った。
「それじゃあ、俺は勉強をするよ。図書室にはそのために来たんだし」
「ああ、うん。助かったよ、ありがとう」
「おう。良い物を書けよ。そしてできれば、良いものができたら俺に見せてくれ。――それじゃあ」
「あ、ちょっと待ってくれ、最後に、参考なまでに聞きたいんだけど――」
「ん? 何だ?」
「宮田は、どんなものが読みたい?」
「…………」
 少しの間考え込んだ後、彼は言った。
「なんでもいい」
「え?」
「なんでもいい。きちんと悩んで考えて書かれたものなら、それがどんなものであっても、間違いなく傑作だ」
 彼はそう言い、眼鏡をクイと上げた。

 この日の夜、僕は散々悩んだ末、何を書くべきか決めた。
 ――きちんと悩んで考えて書かれたもの。
 世にある小説のうち、この条件を満たさないものは結構あるような気がする。流行を追いかけているものはダメだとか、エンタメ性しかないものは低俗だとか、そういうことを言っているのではない。もっと根本の部分の話だ。
 書きたいものを書けばいいってわけじゃない。書きたくないものでも、そこに自分の存在を感じることができれば、書く価値はある。
 自分の存在の一部を、文章で表現するのだ。
 今の自分を書かなければならない。今の自分が悩んでいること、考えていることを、書かなければならない。
 だから僕は、メモ用紙にぐちゃぐちゃと書かれた取り留めのないアイデアを消し、その下に大きくこう書いた。
『主人公は高校生。彼はこれから小説を書こうとしている』
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