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第三話

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 夜。
 僕は一人、自室でノートパソコンに向かっていた。テキストエディタを開き、文章を書いていく。
 流れるようにキーボードを叩いていくのだが、ある程度進んでから読み返すと、
「……なんか違うな」
 納得がいかなくて、そのほとんどを消してしまう。
 そんなことを繰り返しているうちに、気づけばもう夜中になっていて、就寝しなくてはならなくなる。そして眠り、起き、学校に行って帰ってくれば、また同じことを繰り返す。
 ――書き始めて、もう一ヶ月程が経過していた。
 しかし、僕の小説は、まだほとんど書けていない。

 朝起きると、なんだか全身がひどく重たかった。鳴っている目覚ましを止め、そのままその手を自分の額にあてる。
「…………分からないな」
 前々から疑問に思っていたのだが、本当にこれで熱があるかどうかなんて分かるんだろうか? フィクションではよくあるのだが、実際にはできないような気がする。
 僕はふらふらと階段を降り、リビングに向かった。そして母に体温計を出してもらい、測る。
 その結果は、三十七・五を少し超えたくらいだった。まだまだなんとか動ける範囲ではあるのだが、悪化するといけないので、念のため学校を休むことにした。
 少しだけ朝食を取り、また自室のベッドに戻った。
 目を閉じるとすぐに眠気がやってきて、僕の意識はそのまま落ちた。

 目を覚ますと、時刻はもう夕方になっていた。寝る前よりも体が軽くなったように感じる。寝ている間に幾分回復したらしい。
 ――が、実を言うとそんなことはどうでもよかった。
 僕はベッドから這い出すと、真っ先に勉強机の上のノートパソコンを起動させた。スイッチを押した後、起動するまでの時間がひどくもどかしい。
 寝ている間に、夢を見た。その内容は、僕が今執筆している小説に関するものだった。だから僕は、そのイメージが消えないうちに、なんとかして文章にしなければならなかった。
 起動してすぐにテキストファイルを開き、即座に執筆に取り掛かる。
 胸の奥で、何かがわめているような気がした。衝動と言えばいいのだろうか。早く書け、と僕に向かって訴えている何かがいるのだ。そして僕はその命令に従い、文章を書いていくしかなかった。
 僕はただ書き続けた。

 十二月の中旬。
 大学受験はもう目前にまで近づいてきていた。
 しかし僕は、もうほとんど受験勉強をしなくなっていた。そんなことよりも、やらなければならないことがあったから。
 馬鹿みたいな話だと思う。思春期特有の、後から思い返したら笑ってしまうような、間抜けな行動だと思う。だけどとにかく、今の僕は、小説を書き上げることしか考えられなかった。
 受験は失敗しても、来年できる。だけど、小説をここで投げ出してしまったら、もう一生できないような気がする。
 だから僕は、自分のそんな馬鹿げた判断にため息をつきながら、それでも書くしか無かった。
 そんなある日、僕は廊下で偶然、上出香奈枝に出会った。
「あれ? 七原じゃん? 久しぶり」
「ああ、うん。久しぶり」
「……お前どうした? なんか顔色悪いぞ?」
「いや、これは……」
「まーあたし達は受験生だからな。そりゃ色々疲れも溜まるか」
「……」
 それから彼女とは、簡単な雑談をして別れた。どうやら彼女のほうは順調に受験勉強を進めることができているらしい。そして、趣味の漫画の方も地道にやれているとか。羨ましい限りだ。
 彼女の言うとおり、僕は疲れが溜まっている。
 もちろんそれは受験勉強のせいじゃない。小説を書いているからだ。
 最近はいつも、夜うまく眠れない。眠らないといけないとは思うのだが、頭の中でこれから書くべきことについてゴチャゴチャと考えてしまう。そうしていると段々、眠れないのにベッドに横になっている自分が馬鹿みたいに思えてくる。そして結局、ベッドから起き出し、パソコンを立ち上げて執筆をするようになる。やがて気づけば朝、なんてことも、最近ではよくあるのだ。
「……少し、休まないとなぁ」
 なんだか、ひどく肩が凝ってしまったような気がする。全身が重たい。
 精神的にも身体的にも、疲れは溜まってきている。

 そうして、どんどん消耗していきながらも、僕は書き続けていった。
 どんなに遅い足取りでも、日数が重なれば、それなりの量になる。いつの間にか僕は、小説を中盤くらいまで書き進めていた。
 しかし、そこで止まった。
 僕はラストを考えないまま書き始めた。書いていくうちに、見えてくるだろうと思っていた。しかし、まだ何も見えてこない。いやむしろ、以前よりも見えなくなってしまったような気がする。
 どんどん、分からなくなっていく。宮田がいつか言っていた、分からないことが際限なく出てくる、という言葉を思い出す。なるほど、これがそういうことなのか。
 日付は、既に十二月の下旬に差し掛かっている。
 僕は壁にぶち当たっていて、ただ一人、孤独の中パソコンに向かい合っている。なんだか、目眩がした。
 時計を見ると、もう夜中の三時を過ぎている。最近まともに寝ていないことを考えると、そろそろ眠った方がいい。もっとも、それでもまだ全然足りないのだが。
 僕は寝る前に何か飲もうと、一階のリビングに向かった。
 キッチンから牛乳を取り出し、コップに注ぎ、飲む。
「――――――――」
 途端、ひどい吐き気が僕を襲った。慌ててトイレに駆け込み、便器の中に胃の中のものをぶちまける。
「はぁ……はぁ……」
 耳の奥がぼうっとする。喉は焼けるように熱く、口の中はとにかく不快な臭いが充満している。
 僕は便器の中の吐瀉物を流し、うがいをし、顔を洗った。
 ――もう、限界かもしれない。
 必死に押し隠していたそんな言葉が、ふと意識の表層に浮上してきた。もうそれを否定することはできなかった。
 ただ、小説を書いているだけ。別に厳しい鍛錬をしているわけでもない。パソコンの前に座り、ポチポチとキーボードを押していくだけ。ただ、それだけなのに。
 歴史に残る最高傑作を作ろうってわけじゃない。ただ、普通に、書きたいだけだ。完成させたいだけだ。
 たかが、小説。
 それも、ほとんど完全な素人の書いた小説だ。文章は拙く、ジタバタともがいているだけ。他の人から見たらそれはただの落書きと相違ない。
「…………」
 それは、こんなに追い詰められながら、書くことなんだろうか?
 書く価値があるんだろうか? 意味があるんだろうか?
 …………そんなもの、あるわけがない。最初から分かっていたことだ。
 一ヶ月以上執筆を続け、小説は中盤に差し掛かっている。ここまできて、僕は初めて、もう全部投げ出してやろうかと思った。
「……とりあえず、もう、寝よう」
 それ以上余計なことを考えるのが嫌で、僕はベッドに入った。眠っている間、夢はまったく見なかった。

 僕はすっかり忘れていたのだが、冬休みに入る前には試験があった。
 といっても、受験生であることを学校側も考慮してか、よくある期末テストではなく、受験向けの実力テストだ。だから普通に受験勉強をしていれば、その実力テストでもそう悪い点は取らない。
 が、受験勉強をサボっていた人間は、もちろん悲惨な結果になる。
 夏休み前後にやった模試の成績はA判定だった。しかしこの前返って来た成績は、B判定に変わっていた。ちょうど、小説を書こうと決心してからすぐにあった試験だ。
 そしてこの冬休み直前の実力テストは、かつてないほどひどいものになった。
 そもそも、試験をまともに受けることができなかった。ここ最近ずっと頭の奥がぼうっとしていて、物事をうまく考えることができない。だから解答用紙の半分以上が白紙のまま提出することになった。
 何もかもが、悪い方向に向かっているような気がする。

「先輩」
 帰ろうとしているところに、後ろから声をかけられた。姿を見なくても声でわかる。僕の後輩の井上智里だ。
「久しぶりですね。最近、部室に来てくれないから」
「……受験生がこの時期に部室に行っていたら、それはそれでおかしいだろ」
「まったくですね。上出さんは相変わらずですけど」
「そっか」
 僕と智里は並んで歩く。
 ふわふわと雪がちらついている。
 僕は雪というものが好きで、降っているのを見るといつも気分が良くなる。だけど、この時の僕はまったく何も感じなかった。ああ、雪だ、と思っただけだ。
「顔色、悪いですよ?」
「……そうか?」
「真っ青です。寝てないんですか? あるいは成績が悪かったんですか?」
「両方かな……」
「……受験生は大変ですね」
「まぁ、ね……」
 会話が途切れる。なんだかいつもよりも、その沈黙が深く重たく感じた。
「勉強、してます?」
「……」
「……やっぱり。小説ですよね? 先輩が疲れてるのは」
「……どうして分かる?」
「顔を見れば分かりますよ。単純ですから」
「……嫌な後輩だ……」
 吐く息が白かった。その白さが、なんだかひどく煩わしく感じた。
「キツいんですか? 書くのは」
「……俺は、キツいよ。信じられないくらい。多分、人によるんだろうけど。多かれ少なかれ、何かを書くってのは楽なことじゃない」
「だったら、少し休んだらどうです?」
「……」
「受験生なんですから……少し休んで、勉強に専念して、終わってから再開したほうがいいですよ。受験に失敗したら元も子も無いじゃないですか」
「…………正論だ」
「ですよね?」
「……でも、それは、なんか違う」
「それは、どういう意味で?」
「………………………………分からない」
 そういうものじゃないんだ。今、僕の目の前にあるモノは。
 一時的に忘れておいて、落ち着いてから取り組むとか、そういう方法が通じるような奴じゃないんだ。そんな扱いをしたら、きっと何の意味も無くなってしまう。
 書くとしたら、今書かなくちゃいけない。書かないとしたら、きっともう一生書けない。
「今の、俺は……」
 ふと目頭が熱くなった。後輩に涙を見せないように必死に堪えながら、僕は言った。
「何も分からなくて……書けないけど……」
「……」
「でも、書かなくちゃいけないだ。それが、どれだけ馬鹿げたことで、無意味なものだったとしても……」
 それは偽ることのない本当の思いだった。
 書かなければならない。唯一、僕が分かるのはそれだけだ。
「…………よく、分かりません」
「……俺も分からない。だから、書ける」
 僕が涙を堪えながら笑うと、彼女は困ったような顔で、それでも笑みを返してくれた。

 智里と別れて一人になってから、僕は少し泣いた。
 しばらくして涙が止まった頃、僕の中にはなぜか、小説の続きが思い浮かんでいた。最後の最後のラストシーンまで、かなり鮮明に。
 僕は家に向かって走り出した。ゆっくり帰ることなんて、とうていできない。早く書かなければ。
 帰宅してすぐにパソコンの前に座り、続きを書き始めた。
 書いて、書いて、書いて……。

 それから三日後の深夜、僕の小説は完成した。
4

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