どんな人が来るのだろう――。
築地から銀座へと向かうタクシーの中、僕は座席に身を沈め、寒風に背を丸めて歩く人の群れをぼんやりと眺めながら、そんなことを考えていた。
二月某日、東京。オフ会と称する場に参加するのは、初めての経験である。
確かに、以前にも、異業種交流会とは名ばかりの集団合コンや、勉強会という名目の接待に駆り出されたことはある。しかしそれらは友人のツテであったり、あるいは上司の命令であったり、いずれにせよ僕の現実生活と切り離しがたい接点をどこかに持っていた。
今回は違う。
僕はこれから出合う人の顔も、年齢も、勤め先も、果ては本名すらも知らない。把握しているのは、ネットで互いを識別するためのハンドルネームのみ。事前情報も何もない。紹介する上司も、落とすべき女の子も、接待すべき取引先もいない。互いの日常から完全に切り離された交流の場。
改めて考えてみると、恐ろしい話ではないか。
聞けば新都社は元々、あの悪名高い匿名掲示板「2ちゃんねる」から派生したサイトだという。ネットの闇、ヤバイ奴らの集会所、ウエルカム・トゥ・アンダーグラウンド。待ち合わせ場所に着くなりギザギザ肩パッドをつけた偉丈夫どもに周囲を固められ、黒塗りの高級車に詰め込まれた後に身包み剥がされ東京湾の汚泥の底で魚のエサになる。そんな未来だって充分にあり得るのだ。
これから会う二人は、「ワームズ」「足立マイナーロボッツ」などの代表作で知られ、最近は小説「彼女のクオリア」で高い人気を得ている東京ニトロ氏と、「藤色アワー」「その倫理観、カリソメにつき」で新人離れした筆力を見せ付け話題となっている柴竹氏。どちらも燦然と才能の輝きを放つ存在であり、自分のような弱小ワナビクソ野郎とは知名度および実力が天と地、月とスッポン、ベテルギウスとゾウリムシほども離れているのだが、それはさておき二人はある共通点を持っている。
どちらの作家も、少々危険な――暴力的な表現を作品に用いているというところだ。
特に東京ニトロ氏、彼はいけない。過去の作品とTwitterでの言動を見る限り、世界に対する激しい恨みと、常軌を逸した破壊衝動を内に秘めていると思われる。以前の漫画作品の多くは削除されているが、いずれも都市がありとあらゆるやり方で無残に破壊され、登場人物が無為に殺害されていくものばかりであった。最近は警察もサイバーパトロールに力を入れていると聞く。恐らく、危険分子として目を付けられることを恐れ、前もって作品を消したに違いない。ただ危険なだけでなく、自身の印象を冷静に分析するインテリジェンスも持ち合わせている。一筋縄ではいかない、恐ろしい人物だ。
小説「彼女のクオリア」の文章から滲み出す知性も鑑みれば、先述の肩パッド男のようなゴリゴリ脳筋野郎ではないことは容易に類推できる。身長は180センチほどだろうが、体格は比較的細身だろう。だが、決して荒事に疎いというわけではない。身に纏った白スーツの下には、猫科の猛獣を思わせるしなやかで高密度の筋肉が隠されている。見た目に騙されうっかり手を出そうものなら、ガブリとやられるという寸法だ。シャープな銀縁眼鏡の奥には、剃刀を思わせる鋭い眼光。小脇に抱えたセカンドバックには重火器か、最低でも刃物は忍ばせており、万一に備え腹には自決用のダイナマイトを巻いている。周囲三メートル以内に近付かないことにしようと、僕は事前に決めていた。
一方で、淡い期待もある。
待ち合わせているもう一人の作家、柴竹氏。僕は密かに、彼――いや彼女は三つ編みロングスカートの眼鏡っ娘文学少女である、という確信めいた予感を抱いていた。
まだ大学生だという柴竹氏の、年齢に見合わぬ端正で流麗な文の運び、キャラクターの細部を、わずかな仕草や口癖に至るまで丹念に書き分けるその細やかさ……。捻った展開や文章の勢いではなく、細部の語り口で読者を酔わせるその手法は、女性作家特有のものに思われる。
Twitterでは、いわゆるウェーイ系のチャラい大学生を演出しているが、僕はこれを演技だと見る。おそらくは、大学デビューを目指すも持ち前の引っ込み思案で果たせず、せめて電脳空間の中だけでもと思い立って、健気にリア充を演じているのではないか。そう思って見返してみれば、柴竹氏のテンションには、時折いささか無理をしているような綻びが見受けられる。時々見せるシャイな一面や、柔らかい文章こそが彼女の本質なのだ。そうに違いない。
だが、そんな彼女は今、深い孤独に悩まされている。
終始柔らかい雰囲気だった「藤色アワー」の更新が突然止まり、代わりに始まった連載「その倫理観、カリソメにつき」では一転、世の優しさを嘲笑うような凄惨なシーンが読者に叩きつけられた。
思い当たる理由は一つしかない。
長きに渡る現実世界での孤独が、彼女の心を蝕んだのだ。
日々図書館にこもり、冷えた弁当をひとり食べる日々――。「わたしには本があるもん」と強がっていても、キャンパスライフを謳歌する他の学生たちを見て、多感な20代の心は傷つき、暗く淀んでいく。そして、ある日飽和点に達した黒い衝動が、ついにあの作品となって噴出したのだ。いわばあの作品は彼女のSOSサイン、孤独の大海原から私を見つけて欲しい、と言う精一杯の発炎筒なのである。
大丈夫。
分かってる。
お兄さん全部分かってるから。
出会ったらぎゅっと抱きしめて、「がんばったね」って言ってあげるから――。
「お客さん」
運転手の不機嫌な声が、僕の思考を分断した。
「着きましたけど」
いつの間にやらタクシーは止まり、目の前には銀座三越の交差点が広がっていた。胸元にこぼれたよだれを拭い、僕はフロントガラスを透かしてあたりを見回す。
道を歩く、人。人。人。それらしき人影を探そうにも、視線はいたずらに泳ぐばかり。
「えっと、あの、すみません、ライオン像ってドコですか?」
「ライオン像? ここ降りて、信号渡ってすぐ。ほらアレだよ」
指差す先を見てみれば、なるほどハチ公サイズのライオンが、アパートの前に鎮座していた。
運転手に礼を言って代金を支払い、走り去るタクシーを見送る。携帯の時計を見ると時刻は午後一時三十分。事前に伝えてはいたものの、やはり待ち合わせ時間に大幅に遅れてしまった……。と、そこまで考えてはたと気付く。
僕は時間に間に合わなかった。
とすれば、あそこにいるのは、東京ニトロ氏と柴竹氏の、二人のみ。
片や、獣性を危険な知性で覆い隠した危険分子。
片や、孤独に傷つき、慣れない東京の人混みに惑う、可憐な少女。
……彼女の貞操が危ない。
信号が青に変わるや否や、僕は駆け出していた。目の前を塞ぐ人混みをかきわけ、横断歩道を渡る。
いかに背伸びをしていようと、柴竹ちゃんは大学生。修羅場を潜ったニトロ氏にかかれば、赤子も同然である。ささくれた心に言葉巧みに入り込み、そして二人は僕を置いて街へと繰り出す。慣れないお酒と、ニトロ氏の洗練されたエスコートにほぐされた彼女の心は知らず高鳴り、そして二人はホテルへと……。
いやいや。もしかするとより直接的な手段に訴えたかもしれない。
街角に一人たたずむ少女。その目の前におもむろに黒塗りの高級車が止まる。ドアが開くなり伸ばされる手。あっと悲鳴を上げる間もなく、彼女は車内に引きずりこまれてしまう。そのまま急発進する車。後には彼女が身につけていた、手編みのマフラーだけが残されるばかり……。
脳裏を次々とよぎる、悪夢の情景。横断歩道を渡り、ライオン像の前にたどりつく。見回すがそれらしき人影はない。携帯を取り出し、Twitterを確認した。
『東京ニトロ:緑色のスニーカー履いてます』
緑色のスニーカーだと? そんなもの、彼が身につけるはずがない。僕のイメージでは彼は爪先がやたらとんがっているテッカテカの革靴を履いているはずだ。きっと僕を撒いて柴竹ちゃんとヨロシクやるための偽装工作に違いない。まったくこれだから足立区民は卑怯――
目の前に緑色のスニーカーがあった。
視線をゆっくりと上げる。そこに立っていたのは、温和そうな顔をした中肉中背の男性。
「ニトロさん?」
「そうです。いしまつさんですね?」
男性はそう言ってにっこりと笑った。イメージとだいぶ違う。作品から滲み出す狂気や凶暴さは、その表情からは微塵も感じられなかった。いやいやおかしいこんなはずはない。さてはアレか、影武者か。だとすれば一体何の目的で……? いや、それよりも柴竹ちゃんだ。確かもう着いているはず。どこだ、どこにいるんだっ。やはりもう誘拐されてしまった後なのか?
その時、後ろから肩に手が置かれた。僕は振り返る。
「こんにちは」
想像よりも低い声。
「はじめまして、いしまつさん」
サイズの大きい洒落たメガネをかけた顔には、人懐こそうな小さな瞳。
「柴竹ッス。よろしく!」
ニカッと笑うと、その口からは白い歯がのぞく。よく日に灼けた体躯はがっしりとして、広い肩幅はラガーマンを思い起こさせた。
「ああ、うん、よろしく」
……うん。僕だって一応、社会人だ。少しばかりのイレギュラーで、いちいち取り乱すことはない。呆けた表情をただちに繕い、落ち着いたよそゆきの笑顔を浮かべて、二人と握手してみせた。そう。そのくらいの分別は持ち合わせている。
だがな。
僕はあの時、心の中で泣いていたんだ。
泣いていたんだよ、柴竹くん。
なぜロングスカートの黒髪三つ編みメガネっ娘じゃなかったんだい、柴竹くん。
あ、ニトロ氏はとてもいい人でした。