天使の化石
夜の海は、黒曜石の輝きを持ち灰色の空の下に横たわっている。
羽毛の白さを持つ波が、漆黒の平面を渡ってゆく。
空は、海獣の腹が持つ銀灰色に光る雲が群れを成していた。
おとこは、立っている。
世界一高い塔の、最上階のベランダに。
そこにある手摺の向こうは、奈落の底に見える地上があった。
地上は電子機器を思わせる幾何学的精密さで、明かりが並んでいる。
風が、吹き荒れていた。
魔女の叫びのような風が、最上階のベランダを吹き抜ける。
おとこは、白衣を纏っていた。
風がその白衣をはためせ、天使の翼に見せる。
おとこは白衣の下に、死神の漆黒で塗りつぶされたシャツを身につけていた。
痩せて鋭い目をし、彫りが深く高い鼻を持ったそのおとこは薄く笑う。
「さて、いよいよだ」
誰にともなく呟いたその言葉を、瞬く間に風が運んでいく。
「世界をこの手にする日が、ようやくきた」
そういい終えると、おとこは大きな魔神の笑いを見せた。
金切り声をあげる魔女たちが巻き起こしたような風に向かって、おとこは身を投じる。
一瞬だけ、天使が羽ばたいたかに見えたが、すぐに地上へ堕ちてゆく。
残ったのは、真紅の染みであった。
羽毛の白さを持つ波が、漆黒の平面を渡ってゆく。
空は、海獣の腹が持つ銀灰色に光る雲が群れを成していた。
おとこは、立っている。
世界一高い塔の、最上階のベランダに。
そこにある手摺の向こうは、奈落の底に見える地上があった。
地上は電子機器を思わせる幾何学的精密さで、明かりが並んでいる。
風が、吹き荒れていた。
魔女の叫びのような風が、最上階のベランダを吹き抜ける。
おとこは、白衣を纏っていた。
風がその白衣をはためせ、天使の翼に見せる。
おとこは白衣の下に、死神の漆黒で塗りつぶされたシャツを身につけていた。
痩せて鋭い目をし、彫りが深く高い鼻を持ったそのおとこは薄く笑う。
「さて、いよいよだ」
誰にともなく呟いたその言葉を、瞬く間に風が運んでいく。
「世界をこの手にする日が、ようやくきた」
そういい終えると、おとこは大きな魔神の笑いを見せた。
金切り声をあげる魔女たちが巻き起こしたような風に向かって、おとこは身を投じる。
一瞬だけ、天使が羽ばたいたかに見えたが、すぐに地上へ堕ちてゆく。
残ったのは、真紅の染みであった。
極東の島国にあるその街は、かつては栄えたであろう大都会の面影を微かに残している。
しかし、実際には広大な廃墟にしか過ぎない。
立ち並ぶ摩天楼の残骸は、巨人の墳墓がごとく見えた。
かつての高架道路は、龍の死骸を思わせる。
巨獣の屍にも見える廃墟の向こう、海があるところには世界一高い塔が水晶の剣となって夜空へ突き立てられていた。
髭面のおとこは、その塔を真紅のスポーツカーに乗って眺めている。
煙草を燻らせるおとこは、洒落たテーラードスーツを粋に着こなし頭にテンガロンハットを載せていたが、その腰には洒落ものには似合わない大きな拳銃が二丁吊るされていた。
おとこの乗る車は、アルファロメオ・ジュリア・GTCである。
沈む太陽の真紅に染められたアルファロメオは、オープンカーであったが今は幌が車体に被さっていた。
おんなの名を持つ優美でかつ精悍なボディラインを持つ、美しい車だ。
灰色の廃墟の中で、真紅のボディは浮いて見える。
廃墟となったこの街には、似つかわしくない。
この街は、かつて首都の一部であったが首都機能の殆どを洋上都市に移した今となっては、取り壊しを待つただの廃墟である。
司法が既に介入することも無くなったため、事実上の治安放棄地区であった。
そのため、非合法のビジネスを生業とするものたちが寄り集まり、スラム街が形成されている。
髭面のおとこの横に座る居合道着を着たおとこが、ぽつりと呟く。
「帰って来たようだ」
居合道着のおとこは、白鞘に収まった剣を抱き立て膝をしてナビゲータシートに収まっている。
その剣の柄に手をあて、言葉を重ねた。
「安定してないようだな」
アルファロメオの停めてある路地の向こうは、広場がある。
その広場に、冬の空が持つ鮮やかな青に染められたテーラードスーツを着たおとこが、入ってきた。
奇妙な様相の、おとこである。
顔形に特徴があるわけではなく、むしろ無個性の部類に入るだろうか。
ただ、その表情は若者が持つ猛々しさと、老人が持つ倦怠感を同時に兼ね備えている。
その身のこなしは、道化の持つ剽軽さと騎士が持つ気高さが隣り合わせに宿っていた。
とらえどころのない、おとこである。
そのおとこを見て、髭面のおとこはぽつりと言った。
「やれやれ、面倒なことになりそうだ」
そして、紫煙をそっと吹き出す。
すこし踊るような足取りで、奇妙なおとこは広場の中央に入ってゆく。
そこにある、もう水はでていない噴水台に上り、奇声をあげた。
「ひゃっほぅー」
無造作にポケットから札束を取り出すと、宙にばら撒く。
夜空に昇った札束は、枯葉のようにひらひら地面に落ちていった。
いつのまにか、夜の獣が持つ目をしたおんなたちが、おとこを遠巻きにしている。
金と銀で夜に染められたドレスを飾ったおんなたちは、戦士の足取りでおとこに歩み寄っていた。
誰も、ばら撒かれた札束には目を向けない。
年嵩の、大きな胸をしたおんなが声を発した。
「あんた、名はなんてんだい」
「おれかぁ?」
おとこは、子供のように無邪気に笑うが、その瞳は夜の闇を宿しているかの様だ。
「おれはなぁ、ルパン、ていうんだ」
おとこは高らかに、笑う。
その巫山戯た台詞を聞いたおんなたちの間には、失笑すらおこらない。
ただ、戸惑ったような迷惑そうな瞳でおとこを見つめていた。
年嵩のおんなだけが、沈痛な瞳でおとこを見ている。
「判ったよ」
年嵩のおんなが、言葉を重ねた。
「あんたの墓には、そう刻んどいてやるさ」
その言葉を待っていたように、黒服のおとこたちがその広場へ入ってきた。
屈強の身体を持った黒服たちは、ルパンと名乗ったおとこを取り囲んでゆく。
おんなたちは花びらが風に舞うように、広場から去っていた。
ルパンは、面白そうに黒服たちを見ている。
黒服の一人が、ルパンに声をかけた。
「おれたちの金を、返してもらおうか」
ルパンは、腰をおろし膝に肘をつけると自分の顎を撫ぜる。
面白がっているように、その目は綺羅綺羅輝き楽しげだ。
「おいおい、こいつはおれがあんたらのカジノで稼いだ金だぜ」
黒服は、失笑する。
「てめぇが、イカサマで盗んだ金だよ」
「いやいや」
ルパンは、顔の前で指を振った。
「正確にはこうさ。あんたらのイカサマが上手く働かず、おれが儲かるように制御されてしまった」
言い終えるとルパンは爆笑し、ひっくりかえった。
腹を抱えて、水のない噴水場で転がっている。
狂気じみた、笑いであった。
黒服のおとこたちは舌打ちすると、拳銃を抜く。
アルファロメオの中で、髭面のおとこが咥えていた煙草の火を消す。
「仕方ない」
髭面のおとこと、居合道着のおとこはアルファロメオの扉を開いて広場に入る。
髭面のおとこが、声を発した。
「おーい」
黒服たちは、一斉に髭面のおとこを見る。
髭面のおとこは、黒い球を黒服たちに向かってほうりなげた。
その黒い球は地面に落ちる瞬間に、炸裂する。
廃墟を揺るがせるような轟音と、真昼の太陽が落ちてきたかのごとき閃光があたりを満たした。
黒服たちが立ちすくむなか、猫化の野獣を思わせる身のこなしで髭面のおとこが地面で前転しながら二丁のリボルバーを撃つ。
その銃は、S&WのM500である。
50口径マグナムという凶悪な銃弾が一度に10発ばらまかれ、ボディーアーマーの上からおとたちの肋骨をへし折り薙ぎ倒した。
巨人がハンマーを、一振りしたかのようにおとたちが地面へ倒れ伏す。
膝立ちとなった髭面のおとこは、くるりと銃をひと回転させると排莢しながらスピードロッダーを使い二丁一度に装填する。
「この野郎」
最初の銃撃を生き延びたおとこは、怒声を発しながら引き金に手をかける。
いつの間にかそのそばにきた居合道着のおとこが、剣を抜き一閃させた。
一瞬、月の光が煌めいたかに見え、拳銃を持った手が地面に転がる。
錆びた金属の色をした血が迸り、黒服は絶叫した。
居合道着のおとこは剣を車に回し、その後ろのおとこ目掛け上段から斬りつける。
反射的に黒服は銃をを剣の軌道に持ってきて、受けようとした。
しかし、その長銃身のリボルバーは、剣にバレルを切断され黒服の頭が縦に割られる。
血の海へ沈むおとこを見ながら、居合道着のおとこは薄く笑いながら言った。
「ハイス鋼のロングソードだ。ロックウェル硬度はHRC60を越える。拳銃弾くらいなら切り裂いてやるぜ。試すか?」
黒服たちがたじろいだ瞬間、再びマグナムが轟音を響かせた。
おそらく黒服全員が地面に倒れ伏すまで、1分もかからなかったであろう。
ふたりのおとこは、拳銃と剣をホルスターと鞘におさめると、寝転がっているルパンの側へゆく。
ルパンは、仰向けになり眠っていた。
その寝息は、ベッドの上にいるかのように健やかだ。
髭面のおとこは、長い溜め息をつく。
「適合しなかったようだな」
居合道着のおとこは、無言で頷いた。
髭面のおとこは、ルパンを裏返すと脊髄のあたりにつけられている、小さな円盤状の金属を回収する。
そして、廃墟の向こうに聳える世界一高い塔を見た。
「どうやら、今回はおれたちだけでやることになりそうだ」
そういうと、咥えた煙草に火を灯す。
煙草を燻らせながら、ポケットから携帯電話を取り出した。
メールソフトを起動し、添付ファイルを開く。
ひとりの少女が、画面に浮かびあがった。
それは精巧にできた画像であったが、人工的につくられたもののようだ。
その少女は、現実には存在しない架空のものらしい。
そして架空の少女は、人工的に合成された声で囁きかける。
「ねえ、ルパン。聞いて」
少女は、儚げな花の笑みを浮かべて歌うように言った。
「あなたの探していた天使の化石、それはザ・タワーにあるの」
髭面のおとこは少し唇を歪めると、遠くに聳える塔に向かってゆっくり煙を吐き出した。
しかし、実際には広大な廃墟にしか過ぎない。
立ち並ぶ摩天楼の残骸は、巨人の墳墓がごとく見えた。
かつての高架道路は、龍の死骸を思わせる。
巨獣の屍にも見える廃墟の向こう、海があるところには世界一高い塔が水晶の剣となって夜空へ突き立てられていた。
髭面のおとこは、その塔を真紅のスポーツカーに乗って眺めている。
煙草を燻らせるおとこは、洒落たテーラードスーツを粋に着こなし頭にテンガロンハットを載せていたが、その腰には洒落ものには似合わない大きな拳銃が二丁吊るされていた。
おとこの乗る車は、アルファロメオ・ジュリア・GTCである。
沈む太陽の真紅に染められたアルファロメオは、オープンカーであったが今は幌が車体に被さっていた。
おんなの名を持つ優美でかつ精悍なボディラインを持つ、美しい車だ。
灰色の廃墟の中で、真紅のボディは浮いて見える。
廃墟となったこの街には、似つかわしくない。
この街は、かつて首都の一部であったが首都機能の殆どを洋上都市に移した今となっては、取り壊しを待つただの廃墟である。
司法が既に介入することも無くなったため、事実上の治安放棄地区であった。
そのため、非合法のビジネスを生業とするものたちが寄り集まり、スラム街が形成されている。
髭面のおとこの横に座る居合道着を着たおとこが、ぽつりと呟く。
「帰って来たようだ」
居合道着のおとこは、白鞘に収まった剣を抱き立て膝をしてナビゲータシートに収まっている。
その剣の柄に手をあて、言葉を重ねた。
「安定してないようだな」
アルファロメオの停めてある路地の向こうは、広場がある。
その広場に、冬の空が持つ鮮やかな青に染められたテーラードスーツを着たおとこが、入ってきた。
奇妙な様相の、おとこである。
顔形に特徴があるわけではなく、むしろ無個性の部類に入るだろうか。
ただ、その表情は若者が持つ猛々しさと、老人が持つ倦怠感を同時に兼ね備えている。
その身のこなしは、道化の持つ剽軽さと騎士が持つ気高さが隣り合わせに宿っていた。
とらえどころのない、おとこである。
そのおとこを見て、髭面のおとこはぽつりと言った。
「やれやれ、面倒なことになりそうだ」
そして、紫煙をそっと吹き出す。
すこし踊るような足取りで、奇妙なおとこは広場の中央に入ってゆく。
そこにある、もう水はでていない噴水台に上り、奇声をあげた。
「ひゃっほぅー」
無造作にポケットから札束を取り出すと、宙にばら撒く。
夜空に昇った札束は、枯葉のようにひらひら地面に落ちていった。
いつのまにか、夜の獣が持つ目をしたおんなたちが、おとこを遠巻きにしている。
金と銀で夜に染められたドレスを飾ったおんなたちは、戦士の足取りでおとこに歩み寄っていた。
誰も、ばら撒かれた札束には目を向けない。
年嵩の、大きな胸をしたおんなが声を発した。
「あんた、名はなんてんだい」
「おれかぁ?」
おとこは、子供のように無邪気に笑うが、その瞳は夜の闇を宿しているかの様だ。
「おれはなぁ、ルパン、ていうんだ」
おとこは高らかに、笑う。
その巫山戯た台詞を聞いたおんなたちの間には、失笑すらおこらない。
ただ、戸惑ったような迷惑そうな瞳でおとこを見つめていた。
年嵩のおんなだけが、沈痛な瞳でおとこを見ている。
「判ったよ」
年嵩のおんなが、言葉を重ねた。
「あんたの墓には、そう刻んどいてやるさ」
その言葉を待っていたように、黒服のおとこたちがその広場へ入ってきた。
屈強の身体を持った黒服たちは、ルパンと名乗ったおとこを取り囲んでゆく。
おんなたちは花びらが風に舞うように、広場から去っていた。
ルパンは、面白そうに黒服たちを見ている。
黒服の一人が、ルパンに声をかけた。
「おれたちの金を、返してもらおうか」
ルパンは、腰をおろし膝に肘をつけると自分の顎を撫ぜる。
面白がっているように、その目は綺羅綺羅輝き楽しげだ。
「おいおい、こいつはおれがあんたらのカジノで稼いだ金だぜ」
黒服は、失笑する。
「てめぇが、イカサマで盗んだ金だよ」
「いやいや」
ルパンは、顔の前で指を振った。
「正確にはこうさ。あんたらのイカサマが上手く働かず、おれが儲かるように制御されてしまった」
言い終えるとルパンは爆笑し、ひっくりかえった。
腹を抱えて、水のない噴水場で転がっている。
狂気じみた、笑いであった。
黒服のおとこたちは舌打ちすると、拳銃を抜く。
アルファロメオの中で、髭面のおとこが咥えていた煙草の火を消す。
「仕方ない」
髭面のおとこと、居合道着のおとこはアルファロメオの扉を開いて広場に入る。
髭面のおとこが、声を発した。
「おーい」
黒服たちは、一斉に髭面のおとこを見る。
髭面のおとこは、黒い球を黒服たちに向かってほうりなげた。
その黒い球は地面に落ちる瞬間に、炸裂する。
廃墟を揺るがせるような轟音と、真昼の太陽が落ちてきたかのごとき閃光があたりを満たした。
黒服たちが立ちすくむなか、猫化の野獣を思わせる身のこなしで髭面のおとこが地面で前転しながら二丁のリボルバーを撃つ。
その銃は、S&WのM500である。
50口径マグナムという凶悪な銃弾が一度に10発ばらまかれ、ボディーアーマーの上からおとたちの肋骨をへし折り薙ぎ倒した。
巨人がハンマーを、一振りしたかのようにおとたちが地面へ倒れ伏す。
膝立ちとなった髭面のおとこは、くるりと銃をひと回転させると排莢しながらスピードロッダーを使い二丁一度に装填する。
「この野郎」
最初の銃撃を生き延びたおとこは、怒声を発しながら引き金に手をかける。
いつの間にかそのそばにきた居合道着のおとこが、剣を抜き一閃させた。
一瞬、月の光が煌めいたかに見え、拳銃を持った手が地面に転がる。
錆びた金属の色をした血が迸り、黒服は絶叫した。
居合道着のおとこは剣を車に回し、その後ろのおとこ目掛け上段から斬りつける。
反射的に黒服は銃をを剣の軌道に持ってきて、受けようとした。
しかし、その長銃身のリボルバーは、剣にバレルを切断され黒服の頭が縦に割られる。
血の海へ沈むおとこを見ながら、居合道着のおとこは薄く笑いながら言った。
「ハイス鋼のロングソードだ。ロックウェル硬度はHRC60を越える。拳銃弾くらいなら切り裂いてやるぜ。試すか?」
黒服たちがたじろいだ瞬間、再びマグナムが轟音を響かせた。
おそらく黒服全員が地面に倒れ伏すまで、1分もかからなかったであろう。
ふたりのおとこは、拳銃と剣をホルスターと鞘におさめると、寝転がっているルパンの側へゆく。
ルパンは、仰向けになり眠っていた。
その寝息は、ベッドの上にいるかのように健やかだ。
髭面のおとこは、長い溜め息をつく。
「適合しなかったようだな」
居合道着のおとこは、無言で頷いた。
髭面のおとこは、ルパンを裏返すと脊髄のあたりにつけられている、小さな円盤状の金属を回収する。
そして、廃墟の向こうに聳える世界一高い塔を見た。
「どうやら、今回はおれたちだけでやることになりそうだ」
そういうと、咥えた煙草に火を灯す。
煙草を燻らせながら、ポケットから携帯電話を取り出した。
メールソフトを起動し、添付ファイルを開く。
ひとりの少女が、画面に浮かびあがった。
それは精巧にできた画像であったが、人工的につくられたもののようだ。
その少女は、現実には存在しない架空のものらしい。
そして架空の少女は、人工的に合成された声で囁きかける。
「ねえ、ルパン。聞いて」
少女は、儚げな花の笑みを浮かべて歌うように言った。
「あなたの探していた天使の化石、それはザ・タワーにあるの」
髭面のおとこは少し唇を歪めると、遠くに聳える塔に向かってゆっくり煙を吐き出した。
漆黒の部屋である。
夜の闇よりも尚昏いその部屋に、彼女はいた。
仮想空間であるがゆえに、その闇は現実のそれよりもさらに深く濃い。
そしてその闇は今、鋼の緊張感に満たされている。
彼女は闇の中にいると同時に、仮想空間にいる自分のアバターを見下ろす視点を持っていた。
現実であれば、幽体離脱とでもいうのだろうか。
彼女は、闇の中に腰をおろしている自分を見つめる。
彼女の髪はその闇の中ではチャコールグレーに見え、闇の黒から少し浮かび上がっていた。
彫りが深く端麗な容姿は美しいが、女教皇のように冷たい印象を与える。
彼女は仮想空間で自分の分身となるアバターにも、自身の容姿そのままを与えていた。
若く美しい容姿は、色々なメリットもあるが当然デメリットもある。
彼女はそれらを、あるがままに受け入れていた。
結果的に、そのほうが面倒は少ない気がしたためだ。
闇の中で、薄い灰色に浮かび上がったいくつかの人影がある。
彼らが、審議するのは世界の運営であった。
ここでの決定により、国家が滅んだり民族が消滅することも珍しくはない。
そういう立場のひとびとが集う、仮想空間である。
「では、アシュケナージの自殺はプロジェクトの遂行に影響は無いと言う結論でいいのだな」
彼女は、頷いた。
「彼は、自身の役割が終ったのを見届けた後で、自殺しましたから」
「いいだろう」
影たちは、静かに頷いている。
死者たちが冥界で、囁きあっている様を彼女は連想した。
「それと、例のおとこの件は君に一任する」
彼女は、少し苦い笑みを浮かべた。
「怪盗ルパン、の件ですか」
「そうだ。ICPOから派遣されたインスペクターを名乗るおとこも含めてだ」
影たちは、少し嘲るような笑いを静かに谺させている。
「好きなように扱っていい。どのような結果になろうと、政治的な決着は既についてる」
殺す、殺さないは彼女の裁量にゆだねるということか。
要するに、彼らには興味の無い雑事ということだ。
「ただし」
影たちは、宣告を下すように言った。
「もしも君の手に余るようであれば、我々は介入することに躊躇いはしない。その意味は判るな?」
影たちの黒さは、重さを増したような気がした。
仰々しい宣告だが、たかが怪盗を手に余すなどありえない、彼女はそう思う。
彼女は皮肉に唇を歪め、頷いてみせた。
彼女が頷いたのを見届けた影たちは、閉会を宣言する。
次々とログアウトしてゆくのを見届けた後、彼女もまたその仮想空間を去ることにした。
彼女は網膜投影ディスプレイを内蔵したヘッドセットを外し、現実世界へ戻る。
眼差しを、外へ投げた。
西の空は豪華な黄金の炎に、包まれている。
その金色の夕焼けに落とされた血の雫である赤い太陽が、ゆっくりと闇へ沈んでいくのを彼女は見ていた。
現時点で世界で最も高い建築物である塔の最上階、その天井は透明の強化ガラスでドーム状に覆われている。
青から濃い藍へと移り変わる昏い空の下でオペレーションブースに座り、彼女は色彩の交響楽となった夕暮空を眺めていた。
塔の下は夕闇が支配を終えており、街は黒く塗りつぶされている。
そこは、精密機械を思わせる幾何学状に配置された街灯が、煌めいている。
東の空は既に夜のビロードに覆われ、冥界の闇に沈んだ海との境界を失っていた。
彼女は、ふっと笑みをもらす。
それは、自嘲の笑みであったかもしれない。
世界を支配するようなこの場所にいながら、結局自分は何をコントロールしているのかと思う。
その笑みを見咎めたのか、彼女の傍らに立つトレンチコートの男が声をかけてくる。
「もうそろそろ時間です、ミス・ナオミ・ロスチャイルド」
彼女は、自身の出自をあらわすナオミの名で呼んだおとこを、少し皮肉な目で見る。
「ええ、そうね。怪盗813号が予告した時間ね」
「国際指名手配番号170813号です、ミス・ナオミ・ロスチャイルド」
「ナオミでいいわよ。そう言ったでしょう」
律儀に彼女の言葉を訂正し、さらに彼女をご丁寧にフルネームで呼ぶICPOの警部をたしなめる。
通称怪盗813号、その番号がルブランの古いピカレスク小説を連想させるため、通称怪盗ルパンとも呼ばれる。
怪盗ルパンはその名が示すがごとくロマン派時代の盗賊を真似たのか、予告状を送りつけた上で盗みを働く。
ナオミたちの元にも、予告状が来ていた。
時刻指定つきの、親切な予告状が。
警部は武骨な表情を崩すことなく、ナオミに話しかける。
「疑っておられるのではないでしょうな、813号がここにくることを」
ナオミは、ふっと笑みを再び浮かべる。
「疑っているのは、あなたのほうではないの?」
ICPOの警部は、岩盤のように武骨な顔を微かに曇らせる。
「わたしたちが怪盗ルパンをICPOに引き渡さず、殺してしまうのではないかと」
ここ、極東の島国に築かれた世界で最も高い塔がある洋上都市、第24区バビロンエリアは行政特区になっており司法が介入できないエリアであった。
本来であれば、ICPOですら介入できないはずであったが、オブザーバーとしての立場でインスペクター(警部)ひとりの派遣が許されている。
ただ、逮捕権までは認められていないがゆえ、あくまでも立会い者の立場であった。
警部は、冷たい瞳でナオミを見ると乾いた声で言う。
「では、あなた方は813号を確保できると思っておられる」
「いいえ」
ナオミの口許が、皮肉に歪められた。
「その怪盗ルパンはこの場所に、たどり着けるとは思っていないわ」
そしてナオミは、頭上を見上げる。
いつしか透明の天井の向こうは、夜空に変わっていた。
ビロードの闇が天空を覆い、そしてその遥か高みで金色の女神が月光という刃を地上に投げ下ろしている。
その金色の刃は、強化ガラスの下に吊るされた透明の球体を闇の中に浮かび上がらせていた。
アクリル樹脂で造られた透明の球体、その中には石が収められている。
綺麗な卵型をした、ひとの頭ほどの大きさの卵。
それは、天使の卵と呼ばれている。
巫山戯た名前だと、ナオミは思う。
813号は、その卵を盗み出そうとしている。
ナオミは、その天使の卵と呼ばれるものがただの石であると知っていた。
それは、物理学者でもある彼女自身が調査した結果から得た、結論だ。
にも関わらず。
その石は、全ての中心にある。
ナオミが、この場所に来た理由。
この塔が、治外法権の行政特区となった理由。
そもそも、この世界一高い塔が築かれた理由。
全ては、天使の卵のためといって過言ではない。
ナオミは、クレール・F・ミネという国際ジャーナリストが書き上げた天使の卵についてのレポートを読んだことがある。
長編小説に匹敵する量のレポートを、ミネ女史はドキュメンタリーとして出版するつもりであったがロスチャイルドはその原稿を買い取って阻止した。
もしかすると、ミネ女史ははじめからそのつもりだったのかもしれないが、定かではない。
ナオミは冷めた眼差しを、コヨーテブラウンのトレンチコートを纏ったおとこに戻す。
「あなたにはあの天使の卵はただの石に見えるかもしれないけれど、わたしたちはあれを守ることに本気なの」
警部は少し片方の眉をあげ、問いを発する。
「わたしたち?」
「もちろん、わたしたちロスチャイルドがよ」
ナオミは、宣告を下す裁判官の口調で語る。
「わたしたちの持つ国際金融資本の複合体は、世界の半分を実効支配している。残りの半分は遠隔でコントロールしている。わたしたちは、ナチスを飼い犬として支配下に置いていた。ボルシェビキも、CIAもただの操り人形なの。わたしたちは、幾つもの国家を崩壊させ、様々な民族の殲滅を行ってきたわ」
少しだけ、ナオミは穏やかな笑みを浮かべる。
「そのわたしたちが本気になっても、おとぎ話から出てきたような怪盗を阻止できない、そうあなたは思うのかしら? 警部」
警部は、穏やかな笑みを見せる。
それは本当であれば失笑するところだが、自分は礼儀正しいのでそんなことはしませんよ、という含みを持った笑みだ。
少なくとも、ナオミにはそう見える。
ナオミが表情を険しくするのを気にした風もなく、警部は落ち着いた教師の口調で語った。
「国家を崩壊させるのと盗みを働くのは、全く別のゲームです、ミス・ナオミ。ボクシングのチャンピオンであっても、チェスの試合には負ける。そうでは、ありませんか?」
ナオミは、自分の口調に刺が混ざるのを止められなかった。
「わたしたちが、セキュリティの素人だと仰るつもりなの、警部」
警部は、武骨なその顔をゆっくり横に振った。
「もちろん、あなた方の警備は完璧です。非の打ち所はない」
ナオミは、憮然とした顔でおとこの冷静な顔をみる。
いささか、大人気ない気もするが、面白くないのは否定しようがない。
「わたしは、5年にわたり813号を追い続けてきました」
警部は、少し遠くを見る目をして言葉を続ける。
「やつは、今の状況よりシビアな警備を切り抜けてきています」
ナオミは、長いため息をついた。
まあ、いいだろう。
この警部を、納得させる必要はない。
怪盗ルパンが予告した時間がくれば、このおとこも理解するはずだ。
この世界一高い塔のセキュリティを崩すなど、誰にもできないことに。
「警部、あなたにひとつ、面白いものを見せてあげるわ」
警部が何か言おうとするのを無視して、ナオミは目の前のコンソールを操作する。
空中投影ディスプレイが、何もない空間に浮上するように姿を現した。
それは、夜空に浮かび蒼く光る窓のようである。
ディスプレイの向こうには、昏い夜が透けて見えた。
そのディスプレイが投影されるのと同時に、大きなリングが床から天使の卵に向かってせり上がってゆく。
そのリングを目で指し示しながら、ナオミが言った。
「あれは、ソナーで物質の内部構造をスキャニングする装置。警部、これからあなたに卵の中を見せてあげるわ」
リングが、卵の収まったアクリル樹脂でできている透明な球体を中に収める。
リングの動きに合わせ、ディスプレイに画像が映し出されていく。
警部は、息をのんだ。
石のなかにあるのは、胎児のように身を丸めたひとの姿である。
しかし、それはただのひとではない。
その背中には白鳥の持つような翼を、備えている。
天使の卵の中にあるのは、天使の姿をした石の彫像であった。
いや、それは天使の化石と呼ぶべきものか。
いかなるテクノロジーを持ってすれば、そのようなものを造り出せるのか彼には想像もつかない。
言葉を失った警部を、ナオミは上機嫌で見ている。
そして、追い討ちをかけるように語りだした。
「あの天使の化石が持つ見た目は、それほど重要な問題ではないの」
警部は、少し驚いた顔でナオミを見る。
ナオミはチュシャ猫のような笑みを浮かべ、言葉を重ねる。
「問題は、天使の化石を構成している物質にある。あれはね、プルトニウムなのよ。極めて純度の高い」
警部は、理解していないようだ。
説明を求める目で、ナオミを見ている。
ナオミは、それに答えた。
「自然界にプルトニウムは、存在しない。特に純度の高いものは。それはね、ウランが核反応を起こすことで生成される。言い換えると原子炉の中でしか造り出せない物質」
むう、と警部は唸った。
「ではあれは、人工物ということですな」
ナオミは、頷く。
「広い意味でのね」
警部は、再び困惑した顔になる。
「あれは1943年に、ナチスドイツの特殊部隊がアフリカで見つけたものよ」
警部の顔が、強ばる。
「ロンメル将軍は、それをドイツ本国に送った。そうして今度はナチスに協力していた物理学者、ハイゼンベルク博士の手にわたる。終戦後それはイスラエルに渡り、一旦ロスチャイルドの管理下に入るのだけれど中東紛争の最中、失われることになる。最後にはこの塔を設計した建築家ミハイル・アシュケナージがエジプトで見いだすのだけれど」
「1943年、それに間違いはないのですな」
戸惑いつつ警部は、確認する。
ナオミは、頷く。
「ハイゼンベルク博士のレポートは信頼できるものだし、アシュケナージの見つけたものと、細部まで一致する」
「ということは」
ナオミは、警部が口にできなかったことを言った。
「1940年代以前に原子炉をもってるのは、宇宙人かもしれないわね」
警部は、もう一度静かに唸った。
「813号、ルパンのやつは一体なんのつもりで、あんなものを盗もうとしているのだ」
ナオミは、くすくす笑う。
「あら、おとぎ話の中の怪盗が獲物にするのに丁度いい、でたらめさではないかしら」
警部は、肩を竦めた。
彼は、それ以上この件についてとやかう言う気はなくしたようだ。
「ひとつ、確認したいのですが」
ナオミは、警部の顔を窺うように見る。
「何かしら」
「その、天使の卵はアシュケナージ氏の所有物だったのですな」
ナオミは、ふっと笑う。
「ええ。アシュケナージが自殺する3日前までは」
「今は、ロスチャイルド家の管理下にある。そういうことですか?」
「そうね、それが何か?」
ナオミの言葉に、警部はただ首を振っただけであった。
「この部屋から、アシュケナージ氏は、飛び降りたのですな」
ナオミは、ふっとため息をつく。
奇妙な死であった。
普通、高層建築の最上階から飛び降りるなど、出来ないような設計になっているものだ。
ただ、アシュケナージは飛び降りることができるような隠し扉を用意していた。
自分自身が、設計したのだから可能ではある。
しかし、それではまるで。
「まるで、彼は自殺するためにこの建物を造ったようだ」
ナオミは、何も言わずただ空中投影された天使の化石を見る。
もしかすると、追いつづければ追い求めるものに死をもたらす、殺戮の天使なのかもしれない。
そしてその怪盗ルパンもまた、死に魅せられたもののひとりなのだろうか。
そう思ったが、ナオミは何も言わずただ笑みだけを浮かべつづけた。
夜の闇よりも尚昏いその部屋に、彼女はいた。
仮想空間であるがゆえに、その闇は現実のそれよりもさらに深く濃い。
そしてその闇は今、鋼の緊張感に満たされている。
彼女は闇の中にいると同時に、仮想空間にいる自分のアバターを見下ろす視点を持っていた。
現実であれば、幽体離脱とでもいうのだろうか。
彼女は、闇の中に腰をおろしている自分を見つめる。
彼女の髪はその闇の中ではチャコールグレーに見え、闇の黒から少し浮かび上がっていた。
彫りが深く端麗な容姿は美しいが、女教皇のように冷たい印象を与える。
彼女は仮想空間で自分の分身となるアバターにも、自身の容姿そのままを与えていた。
若く美しい容姿は、色々なメリットもあるが当然デメリットもある。
彼女はそれらを、あるがままに受け入れていた。
結果的に、そのほうが面倒は少ない気がしたためだ。
闇の中で、薄い灰色に浮かび上がったいくつかの人影がある。
彼らが、審議するのは世界の運営であった。
ここでの決定により、国家が滅んだり民族が消滅することも珍しくはない。
そういう立場のひとびとが集う、仮想空間である。
「では、アシュケナージの自殺はプロジェクトの遂行に影響は無いと言う結論でいいのだな」
彼女は、頷いた。
「彼は、自身の役割が終ったのを見届けた後で、自殺しましたから」
「いいだろう」
影たちは、静かに頷いている。
死者たちが冥界で、囁きあっている様を彼女は連想した。
「それと、例のおとこの件は君に一任する」
彼女は、少し苦い笑みを浮かべた。
「怪盗ルパン、の件ですか」
「そうだ。ICPOから派遣されたインスペクターを名乗るおとこも含めてだ」
影たちは、少し嘲るような笑いを静かに谺させている。
「好きなように扱っていい。どのような結果になろうと、政治的な決着は既についてる」
殺す、殺さないは彼女の裁量にゆだねるということか。
要するに、彼らには興味の無い雑事ということだ。
「ただし」
影たちは、宣告を下すように言った。
「もしも君の手に余るようであれば、我々は介入することに躊躇いはしない。その意味は判るな?」
影たちの黒さは、重さを増したような気がした。
仰々しい宣告だが、たかが怪盗を手に余すなどありえない、彼女はそう思う。
彼女は皮肉に唇を歪め、頷いてみせた。
彼女が頷いたのを見届けた影たちは、閉会を宣言する。
次々とログアウトしてゆくのを見届けた後、彼女もまたその仮想空間を去ることにした。
彼女は網膜投影ディスプレイを内蔵したヘッドセットを外し、現実世界へ戻る。
眼差しを、外へ投げた。
西の空は豪華な黄金の炎に、包まれている。
その金色の夕焼けに落とされた血の雫である赤い太陽が、ゆっくりと闇へ沈んでいくのを彼女は見ていた。
現時点で世界で最も高い建築物である塔の最上階、その天井は透明の強化ガラスでドーム状に覆われている。
青から濃い藍へと移り変わる昏い空の下でオペレーションブースに座り、彼女は色彩の交響楽となった夕暮空を眺めていた。
塔の下は夕闇が支配を終えており、街は黒く塗りつぶされている。
そこは、精密機械を思わせる幾何学状に配置された街灯が、煌めいている。
東の空は既に夜のビロードに覆われ、冥界の闇に沈んだ海との境界を失っていた。
彼女は、ふっと笑みをもらす。
それは、自嘲の笑みであったかもしれない。
世界を支配するようなこの場所にいながら、結局自分は何をコントロールしているのかと思う。
その笑みを見咎めたのか、彼女の傍らに立つトレンチコートの男が声をかけてくる。
「もうそろそろ時間です、ミス・ナオミ・ロスチャイルド」
彼女は、自身の出自をあらわすナオミの名で呼んだおとこを、少し皮肉な目で見る。
「ええ、そうね。怪盗813号が予告した時間ね」
「国際指名手配番号170813号です、ミス・ナオミ・ロスチャイルド」
「ナオミでいいわよ。そう言ったでしょう」
律儀に彼女の言葉を訂正し、さらに彼女をご丁寧にフルネームで呼ぶICPOの警部をたしなめる。
通称怪盗813号、その番号がルブランの古いピカレスク小説を連想させるため、通称怪盗ルパンとも呼ばれる。
怪盗ルパンはその名が示すがごとくロマン派時代の盗賊を真似たのか、予告状を送りつけた上で盗みを働く。
ナオミたちの元にも、予告状が来ていた。
時刻指定つきの、親切な予告状が。
警部は武骨な表情を崩すことなく、ナオミに話しかける。
「疑っておられるのではないでしょうな、813号がここにくることを」
ナオミは、ふっと笑みを再び浮かべる。
「疑っているのは、あなたのほうではないの?」
ICPOの警部は、岩盤のように武骨な顔を微かに曇らせる。
「わたしたちが怪盗ルパンをICPOに引き渡さず、殺してしまうのではないかと」
ここ、極東の島国に築かれた世界で最も高い塔がある洋上都市、第24区バビロンエリアは行政特区になっており司法が介入できないエリアであった。
本来であれば、ICPOですら介入できないはずであったが、オブザーバーとしての立場でインスペクター(警部)ひとりの派遣が許されている。
ただ、逮捕権までは認められていないがゆえ、あくまでも立会い者の立場であった。
警部は、冷たい瞳でナオミを見ると乾いた声で言う。
「では、あなた方は813号を確保できると思っておられる」
「いいえ」
ナオミの口許が、皮肉に歪められた。
「その怪盗ルパンはこの場所に、たどり着けるとは思っていないわ」
そしてナオミは、頭上を見上げる。
いつしか透明の天井の向こうは、夜空に変わっていた。
ビロードの闇が天空を覆い、そしてその遥か高みで金色の女神が月光という刃を地上に投げ下ろしている。
その金色の刃は、強化ガラスの下に吊るされた透明の球体を闇の中に浮かび上がらせていた。
アクリル樹脂で造られた透明の球体、その中には石が収められている。
綺麗な卵型をした、ひとの頭ほどの大きさの卵。
それは、天使の卵と呼ばれている。
巫山戯た名前だと、ナオミは思う。
813号は、その卵を盗み出そうとしている。
ナオミは、その天使の卵と呼ばれるものがただの石であると知っていた。
それは、物理学者でもある彼女自身が調査した結果から得た、結論だ。
にも関わらず。
その石は、全ての中心にある。
ナオミが、この場所に来た理由。
この塔が、治外法権の行政特区となった理由。
そもそも、この世界一高い塔が築かれた理由。
全ては、天使の卵のためといって過言ではない。
ナオミは、クレール・F・ミネという国際ジャーナリストが書き上げた天使の卵についてのレポートを読んだことがある。
長編小説に匹敵する量のレポートを、ミネ女史はドキュメンタリーとして出版するつもりであったがロスチャイルドはその原稿を買い取って阻止した。
もしかすると、ミネ女史ははじめからそのつもりだったのかもしれないが、定かではない。
ナオミは冷めた眼差しを、コヨーテブラウンのトレンチコートを纏ったおとこに戻す。
「あなたにはあの天使の卵はただの石に見えるかもしれないけれど、わたしたちはあれを守ることに本気なの」
警部は少し片方の眉をあげ、問いを発する。
「わたしたち?」
「もちろん、わたしたちロスチャイルドがよ」
ナオミは、宣告を下す裁判官の口調で語る。
「わたしたちの持つ国際金融資本の複合体は、世界の半分を実効支配している。残りの半分は遠隔でコントロールしている。わたしたちは、ナチスを飼い犬として支配下に置いていた。ボルシェビキも、CIAもただの操り人形なの。わたしたちは、幾つもの国家を崩壊させ、様々な民族の殲滅を行ってきたわ」
少しだけ、ナオミは穏やかな笑みを浮かべる。
「そのわたしたちが本気になっても、おとぎ話から出てきたような怪盗を阻止できない、そうあなたは思うのかしら? 警部」
警部は、穏やかな笑みを見せる。
それは本当であれば失笑するところだが、自分は礼儀正しいのでそんなことはしませんよ、という含みを持った笑みだ。
少なくとも、ナオミにはそう見える。
ナオミが表情を険しくするのを気にした風もなく、警部は落ち着いた教師の口調で語った。
「国家を崩壊させるのと盗みを働くのは、全く別のゲームです、ミス・ナオミ。ボクシングのチャンピオンであっても、チェスの試合には負ける。そうでは、ありませんか?」
ナオミは、自分の口調に刺が混ざるのを止められなかった。
「わたしたちが、セキュリティの素人だと仰るつもりなの、警部」
警部は、武骨なその顔をゆっくり横に振った。
「もちろん、あなた方の警備は完璧です。非の打ち所はない」
ナオミは、憮然とした顔でおとこの冷静な顔をみる。
いささか、大人気ない気もするが、面白くないのは否定しようがない。
「わたしは、5年にわたり813号を追い続けてきました」
警部は、少し遠くを見る目をして言葉を続ける。
「やつは、今の状況よりシビアな警備を切り抜けてきています」
ナオミは、長いため息をついた。
まあ、いいだろう。
この警部を、納得させる必要はない。
怪盗ルパンが予告した時間がくれば、このおとこも理解するはずだ。
この世界一高い塔のセキュリティを崩すなど、誰にもできないことに。
「警部、あなたにひとつ、面白いものを見せてあげるわ」
警部が何か言おうとするのを無視して、ナオミは目の前のコンソールを操作する。
空中投影ディスプレイが、何もない空間に浮上するように姿を現した。
それは、夜空に浮かび蒼く光る窓のようである。
ディスプレイの向こうには、昏い夜が透けて見えた。
そのディスプレイが投影されるのと同時に、大きなリングが床から天使の卵に向かってせり上がってゆく。
そのリングを目で指し示しながら、ナオミが言った。
「あれは、ソナーで物質の内部構造をスキャニングする装置。警部、これからあなたに卵の中を見せてあげるわ」
リングが、卵の収まったアクリル樹脂でできている透明な球体を中に収める。
リングの動きに合わせ、ディスプレイに画像が映し出されていく。
警部は、息をのんだ。
石のなかにあるのは、胎児のように身を丸めたひとの姿である。
しかし、それはただのひとではない。
その背中には白鳥の持つような翼を、備えている。
天使の卵の中にあるのは、天使の姿をした石の彫像であった。
いや、それは天使の化石と呼ぶべきものか。
いかなるテクノロジーを持ってすれば、そのようなものを造り出せるのか彼には想像もつかない。
言葉を失った警部を、ナオミは上機嫌で見ている。
そして、追い討ちをかけるように語りだした。
「あの天使の化石が持つ見た目は、それほど重要な問題ではないの」
警部は、少し驚いた顔でナオミを見る。
ナオミはチュシャ猫のような笑みを浮かべ、言葉を重ねる。
「問題は、天使の化石を構成している物質にある。あれはね、プルトニウムなのよ。極めて純度の高い」
警部は、理解していないようだ。
説明を求める目で、ナオミを見ている。
ナオミは、それに答えた。
「自然界にプルトニウムは、存在しない。特に純度の高いものは。それはね、ウランが核反応を起こすことで生成される。言い換えると原子炉の中でしか造り出せない物質」
むう、と警部は唸った。
「ではあれは、人工物ということですな」
ナオミは、頷く。
「広い意味でのね」
警部は、再び困惑した顔になる。
「あれは1943年に、ナチスドイツの特殊部隊がアフリカで見つけたものよ」
警部の顔が、強ばる。
「ロンメル将軍は、それをドイツ本国に送った。そうして今度はナチスに協力していた物理学者、ハイゼンベルク博士の手にわたる。終戦後それはイスラエルに渡り、一旦ロスチャイルドの管理下に入るのだけれど中東紛争の最中、失われることになる。最後にはこの塔を設計した建築家ミハイル・アシュケナージがエジプトで見いだすのだけれど」
「1943年、それに間違いはないのですな」
戸惑いつつ警部は、確認する。
ナオミは、頷く。
「ハイゼンベルク博士のレポートは信頼できるものだし、アシュケナージの見つけたものと、細部まで一致する」
「ということは」
ナオミは、警部が口にできなかったことを言った。
「1940年代以前に原子炉をもってるのは、宇宙人かもしれないわね」
警部は、もう一度静かに唸った。
「813号、ルパンのやつは一体なんのつもりで、あんなものを盗もうとしているのだ」
ナオミは、くすくす笑う。
「あら、おとぎ話の中の怪盗が獲物にするのに丁度いい、でたらめさではないかしら」
警部は、肩を竦めた。
彼は、それ以上この件についてとやかう言う気はなくしたようだ。
「ひとつ、確認したいのですが」
ナオミは、警部の顔を窺うように見る。
「何かしら」
「その、天使の卵はアシュケナージ氏の所有物だったのですな」
ナオミは、ふっと笑う。
「ええ。アシュケナージが自殺する3日前までは」
「今は、ロスチャイルド家の管理下にある。そういうことですか?」
「そうね、それが何か?」
ナオミの言葉に、警部はただ首を振っただけであった。
「この部屋から、アシュケナージ氏は、飛び降りたのですな」
ナオミは、ふっとため息をつく。
奇妙な死であった。
普通、高層建築の最上階から飛び降りるなど、出来ないような設計になっているものだ。
ただ、アシュケナージは飛び降りることができるような隠し扉を用意していた。
自分自身が、設計したのだから可能ではある。
しかし、それではまるで。
「まるで、彼は自殺するためにこの建物を造ったようだ」
ナオミは、何も言わずただ空中投影された天使の化石を見る。
もしかすると、追いつづければ追い求めるものに死をもたらす、殺戮の天使なのかもしれない。
そしてその怪盗ルパンもまた、死に魅せられたもののひとりなのだろうか。
そう思ったが、ナオミは何も言わずただ笑みだけを浮かべつづけた。
第二十四行政特区、通称バビロンエリア。
バビロンエリアは、塔の麓に広がる街である。
世界一高い塔、完成してまもないその塔は、ただザ・タワーとだけ呼ばれ明確な呼称が無い。
しかし、ザ・タワーという呼び名はこのバビロンエリアでは、定着している。
おとこは、煙草を咥えながらそのバビロンエリアにあるオープンテラスのバーでぼんやりとザ・タワーを眺めていた。
夜の闇を貫くようにライトアップされたその姿は、夜空へ向かい突き立てられた剣である。
塔の内部の観覧エリアが一般公開されるのはまだこの先、一ヶ月後らしい。
完成直後に、設計者のおとこが飛び降り自殺をしたこともあり、色々混乱もあったようだが予定どおり公開されるようだ。
そうなると、この街も随分さわがしくなるだろうなと、おとこは思う。
夜の帳がおりたこの街はまだ、閑散としている。
ただ、法律の適応外とされたこの街には、いつの間にかいろいろなひとびとが紛れ込んできていた。
おとこもまあ、そんなような者のひとりである。
まだプレオープンとでもいうべき今の状態では、本格的な街の活動は始まっていない。
けれど、密やかにアウトローたちは法の外で行われるビジネスを開始しつつあった。
おとこは、そんな騒々しい世界の狭間に生きる情報屋である。
そして、今は客を待っていた。
客の名は、クレール・F・ミネという。
クレールは、無造作といってもいい体でそのバーに姿を現した。
おとこを認めると、真っ直ぐ向かってくる。
クレールは、単刀直入に声をかけてきた。
「あなたがクロウね。情報屋の」
クロウと呼ばれたおとこは、煙草の煙を吐きながら傍らのストゥールをさししめす。
クレールは、そこに腰を降ろした。
バーテンにクロウが声をかけ、クレールがカクテルを注文する。
クロウは口の端を少し歪めて、笑いをみせながら言った。
「で、あんたがミス・クレール・F・ミネだね」
「ええ、クレールでいいわ」
クロウは、品定めをするようにクレールを見る。
クレールはその視線を気にした風もなく、受け流した。
おそらく、美しいおんななのだろうと思う。
夜の繁華街の少し浮ついた照明の中でも、深みのあるブラウンの瞳はひとを魅了する輝きを放っていた。
しかし、今の彼女はアーミージャケットを身につけ髪を引っ詰めにまとめた、現場で取材中のジャーナリストらしいスタイルだ。
本来であれば、おんならしい美しさを放つであろうその顔も、雲に隠された月と同じで朧げな輝を放っている。
「あんたは、魔女のところに行きたいんだって?」
クロウは、早速要件に入った。
クレールは、頷いてみせる。
「ええ、この街にいると聞いたわ」
クロウは、肩を竦める。
「話はつけてあるが、あまりお勧めはしない」
「それを判断するのは、わたし」
取り付くしまのない言い方に、クロウは苦笑する。
「まあいい、行こうか」
クロウは、バーテンに支払いを済ませ街の通りを歩き始める。
歩きながら、クレールに声をかけた。
「で、取材なのか?」
クレールはどこか戸惑ったような笑みをみせながら、答える。
「いいえ、原稿はもうロスチャイルドに売ったから。まあ、半分好奇心からというところかしら」
「そいつはよかった。もし、取材なら期待しないよう言うつもりだった」
クレールは片方の眉をあげて、問いをなげる。
クロウはその問いに、答えた。
「なにしろ齢百にとどこうかという、魔女だ。その言葉は少々ひとの理解を超えている」
クレールは、苦笑した。
「どうということは、ないわ。そんな取材も、よくあることよ」
クロウは皮肉な笑みを浮かべ、先へ進む。
バビロンエリアのメイン通りから少し裏の路地へと入ると、壁の一ヶ所に手をかける。
見た目は、全くふつうの建物の壁と変わらない。
しかし、クロウが手を触れると操作パネルが出現する。
クロウはそこに、パスコードを打ち込んだ。
壁の一部が、闇に置き換わる。
隠し扉が、開いたのだ。
クロウとクレールは、その闇に入り込む。
闇の中を少し歩くと、黄昏より暗い灯りに照らされたエレベータホールにたどり着いた。
そこにあるエレベータで、地下へ降る。
おそらく、数十階ほどの距離を地下へ下った。
ゆっくりとしたエレベータであったため、随分長い時間下ったように思える。
あたかも、地の底へと沈んでしまったようだ。
エレベータの扉が開くと、地下世界が目の前に開けた。
剥き出しになったタワーの基盤部分は、太古の遺跡を思わせる。
その壮大かつ重厚な鉄筋の柱が神話の世界がごとく立ち並ぶ麓には、荒んだ街があった。
高い天井の人工照明が、混沌としたバラック街を照らし出す。
そこは、元々工事に従事する作業者たちが使用するための巨大な倉庫のように使われている場所であったが、工事があらかた完了した今では街のアウトローが集う場所になっている。
もともと行政特区として法の外にあるバビロンエリアが独自に持つ内部規程も届かない、さらなる無法区域であった。
その地下世界は、地上の街とは様相が一変する。
地下の街は、驚くほど混沌としていた。
ブラジルあたりの、ファベーラとそう変わらないような無秩序ぶりだ。
高い天井の下の広大なフリースペースにはバラック小屋のような違法建築の屋台が、立ち並ぶ。
それらの小屋は、宗教的か民族的な装飾が施されており、それらは世界中のあらゆる地域のものがあるようだ。
血塗られた刀を振り上げる女神の絵や、獣面神の彫像が置かれている。
十字架のとなりに、バフォメットの像があり、そのまたとなりに中東の幾何学文様を持つタペストリがあった。
それら民族学的世界のアイテムの隣には、最新の電子機器が無造作に置かれている。
屋台の露天商では、ジャンクフードだけではなく、電子機器やソフトウェアのジャンクも売られているようだ。
ドラッグや、武器の類も扱っているように見える。
いわゆるスラムというものはどこの国にも在るが、ここまで無国籍で多文化の混在を許容したスラムも珍しいだろう。
クロウは客引きや呼び込みをたくみに躱しつつ、バラック街の奥深くに入っていく。
次第にあたりは薄暗くなり、店はドラッグバーや性風俗店の立ち並ぶエリアになる。
派手な化粧と原色のドレスに身を包んだ年かさのおんなたちが道端でドラッグ混じりの煙草をふかし、野獣の瞳を持つおとこたちが彼女らを物色するように行き交う。
そんな場所でも顔色を変えず、平然と歩くクレールにクロウは少し感心した。
その夜の中にある夜のような場所に入り込んだふたりは、魔女の家にたどり着く。
魔女の家は、そこだけ時間の流れ方が違うのではと思うような静けさに包まれている。
そう、たとえてみればそれは森の奥にある静けさのようなものだろう。
そして、魔女の家は様々な草花に包まれており、それ自体が植物のコロニーを思わせ生き物のような気配すら漂わせていた。
クロウは、蔦と苔に被われている木製の扉に手をかけ一気に開く。
濃い闇が液体状に部屋の中に満ちていたが、所々に赤い灯りが浮き上がっておりそれは漆黒の宇宙を遊弋する惑星を思わせた。
闇に目がなれてくると、部屋の中がぼんやりと見えてくる。
そこは森の奥に潜む精霊たちが息づいているような、場所であった。
異様な形状を持つ仮面が並び、儀式用の装飾が施された楽器が置かれている。
部屋の壁を埋める棚には、得体のしれぬ生き物の標本を詰めた瓶や、薬品が並んでいた。
そして、その部屋の中央には半ば植物化している老婆が安楽椅子に腰かけている。
微睡んでいるように目をとじ、穏やかな息はこの部屋に穏やかなリズムを生み出していた。
彼女がこの部屋の主、「魔女」である。
クロウは、ちらりとクレールに視線をなげた。
この魔力が渦巻いているかのような部屋に入り込んでも、なんら動じる様子はなく冷静にあたりを観察しているようだ。
クロウは魔女に視線を戻すと、かるく挨拶をする。
「よう」
魔女は、少しだけ目をひらいた。
何かをするつもりはなさそうだが、皺と刺青が刻み込まれた顔にそっと笑みを浮かべたようにみえる。
「この間伝えたあんたに会いたいというおんなを、つれてきたぜ」
魔女は、ゆっくりと眼差しをクレールに向ける。
歳を経た巨大な爬虫類が、じっと獲物を見据える様を思わせた。
クレールはその眼差しに気圧されることもなく、真っ直ぐ見返す。
魔女は、地の底から響くかのごとき低い声でそっと言った。
「なにしに、きたんだい」
「話を聴きにきました」
魔女は、失笑したように見える。
「質問の意味は、わかってるんだろう。おまえは、なぜここバビロンエリアに来たんだ。これからここでおこることは、おまえにはもう関係のないことだ」
「不思議なことが、あるんです」
クレールは不思議な、こころの奥底を垣間見せるような表情をして語る。
「もうずっと彼を失っていたはずなのに。ここにくれば、会えるような予感がするんです」
魔女は、呆れたように目を開きそしてそれをまた細める。
「おまえがもとめるのなら、その予感は本物だろう。問題はおまえがもとめているかさね」
「あなたは、ハイゼンベルク博士が求めたが故に彼に天使の卵を与えたのですか?」
魔女は、ちょっとしたジョークを聞いたときのようにくすりと笑った。
クロウは、目をむく。
「おいおい、それは八十年以上は昔のことだろう」
魔女は、こともなげに言い放つ。
「百年は経っておるまいが」
クロウは呆れたように、肩を竦める。
「まあ、あのころはこのわたしも年端のゆかぬ小娘であったがの」
「想像つかないね」
クロウの言葉に、魔女は乾いた声で笑った。
「小娘であったが、呪術師としてはもう一人前だったよ。だから、黒十字の兵隊どもは、このわたしの前にきた」
クレールは、表情を変えぬまま問いを発する。
「その時にあなたは、ハイゼンベルク博士のことを知っておられたのですか?」
「呪術師のやり方で、そいつのことは知っていた」
魔女は、魔物のような笑みを浮かべる。
「北の地には、世界の理を知ろうとするものたちがおり、天使の卵のある役割を知ることができることをな」
「ある役割」
クレールの言葉に、魔女は頷く。
「世界というものはな、ある意味誰かの夢のようなものだ」
クロウは少し鼻で笑ったが、魔女は気にすることもなく話し続ける。
「あるいは、この世の始めから存在するたったひとりの怪物が見る夢といってもいいかもしれぬ」
次第に謎めいていく魔女の言葉であったが、クレールは気にする様子もなく問いを発する。
「世界は夢でも、わたしたちの目の前には現実と呼ばれるものがある。そうでは、ありませんか」
魔女は、少し驚いた顔をする。
「そうさね。夢の先端部分を現実と呼ぶのなら、そうだよ」
「ハイゼンベルク博士の不確定性原理は、夢の先端がどのように出現するかを語ったものではありませんか」
魔女は、苦い笑みを見せた。
「まあ、無粋なやり方ではあるが、そうともいえる」
「天使は」
クレールは、いつしか取り憑かれたものの瞳で魔女を見ていた。
「その、夢の先端部分を出現させるためのものではないのですか」
「少し違うね」
どこか邪悪な翳りを持つ表情で、魔女は語る。
「所詮は、すべては夢なんだよ。だから先端とはいえ、夢ではある。夢は完全に溶けてしまうと、海に帰る」
クレールは、我が意を得たかのように頷く。
「それこそがハイゼンベルク博士の友人が見出した、ディラックの海ですね」
魔女は、ふんと鼻をならす。
「何と呼ぼうがかまわんよ。本質に違いはないからね。その海には、あらゆるものが溶け込んでいる。だから、その海の底からは、あらゆるものを引き上げられる」
クレールは、大きく頷く。
「天使こそが、海の底から何かを引き上げられる」
「ああそうだ。あらゆるものを。死者であれ。神であれ。悪魔であれ。お伽話の住人であっても、天使は引きずり出せるだろうね。なぜなら天使は逆しまの時で、夢見ているから」
「ああ、なぜあなたはそんな恐ろしいものを、ハイゼンベルク博士に与えたのです」
少し蒼ざめたクレールに、魔女は邪悪な笑みで答える。
「このわたしにも、若いころがあったということさ」
魔女は笑みを消すと、猛禽が獲物を狙う目でクレールを見つめた。
「で、あんたはここに海の底から何かが引きずり出されるのを見るためにきたというんじゃあ、ないだろうね」
クレールは、頷く。
「わたしは、それを見届けるつもりでここに来ました」
魔女は、鼻で笑う。
「あんたが失ったものが、ここで引きずり出されると」
「ええ」
クレールは再び頷き、暫く沈黙があたりを支配する。
魔女は、喉の奥から漏れてくる笑い声で、その沈黙を破った。
「あんたの失ったものを、言ってごらん」
「旧ユーゴスラビア。そこに戦争がありました。わたしが彼、ラウール・ダンドレジーと出会ったのはそこです」
魔女は、沈黙でその先を促す。
クレールは、遠くを見つめるような瞳をして続きを語る。
「それは恋だったのかもしれません。わたしたちは戦火の支配する国で、互いを求めあい同じ時を過ごしました」
魔女は、頷く。
「で、そのおとこは死んだのかね」
「わかりません。彼はただ、消えたのです」
クレールは、静に首を振った。
「戦場から離れた後、わたしは某国でエスピオナージュにたずさわっていました。そのとき色々な情報に触れましたが、ユーゴスラビアでの戦死者リストに彼の名はありませんでした。彼は少なくとも各国の諜報機関の情報網からは、完全に消え去り生死不明となったのです」
魔女は頷き、悪魔の笑みを見せた。
「で、その彼が引きずり出されると。しかし、なぜ」
「怪盗ルパン」
クレールの答えは、シンプルである。
「わたしは、謎の怪盗にラウールの匂いを感じます」
クロウが、失笑する。
「ルパンなら、存在してるじゃねか。こんな面倒なことをしなくても」
クレールは、首をふる。
「ルパンを5年、追ったわ。たどり着いた答えはひとつ」
クレールの瞳が、祈るような光を宿す。
「ルパンは、存在していない」
クロウは、あんぐりと口を開け言葉を失う。
魔女は、大きく笑った。
「奇遇だね、わたしも同じ考えだ」
「では」
クレールは、真っ直ぐ魔女を見つめる。
「あなたはアシュケナージが、天使の卵を使ってルパンを招いたと。そう思いますか?」
魔女は、喉の奥で笑う。
「知らないね、そんなことは。ただ」
魔女は、昏く光る目でクレールを見た。
「面白いことが起こるにはちがいないよ、もうすぐ。ここでね」
クレールは、その言葉をどこか肉食獣の残忍さを潜ませたような笑みを浮かべ聞いていた。
クロウはそれを見て、なぜかぞっとする。
クロウとクレールは、魔女の家を出た。
クロウは魔女とクレールの会話に含まれていた毒気にあてられたのか、少し眩暈がする。
首をふってそれを追い払うと、クレールを見て言った。
「あんた、地上へ戻るんだろ。送っていくぜ」
地下のスラムは、無法地帯の中にある無法地帯である。
一歩踏み間違えば、やっかいなところに入り込んでしまう。
しかし、クレールは意外なことに首をふった。
「もう少し、地下に用事がある」
クロウは目を剥く。
「一体、これ以上何をしようっていうんだ」
クレールは、薄く笑った。
かつてはエスピオナージュで活躍したおんなにふさわしい、妖艶ながら酷薄さを滲ませた不思議な笑みだ。
「あなたにもし興味があれば、連れていってあげるわ」
クロウは、苦笑する。
「一体どこにだよ」
「ルパンの家」
クロウは、もう一度目を剥いた。
バビロンエリアは、塔の麓に広がる街である。
世界一高い塔、完成してまもないその塔は、ただザ・タワーとだけ呼ばれ明確な呼称が無い。
しかし、ザ・タワーという呼び名はこのバビロンエリアでは、定着している。
おとこは、煙草を咥えながらそのバビロンエリアにあるオープンテラスのバーでぼんやりとザ・タワーを眺めていた。
夜の闇を貫くようにライトアップされたその姿は、夜空へ向かい突き立てられた剣である。
塔の内部の観覧エリアが一般公開されるのはまだこの先、一ヶ月後らしい。
完成直後に、設計者のおとこが飛び降り自殺をしたこともあり、色々混乱もあったようだが予定どおり公開されるようだ。
そうなると、この街も随分さわがしくなるだろうなと、おとこは思う。
夜の帳がおりたこの街はまだ、閑散としている。
ただ、法律の適応外とされたこの街には、いつの間にかいろいろなひとびとが紛れ込んできていた。
おとこもまあ、そんなような者のひとりである。
まだプレオープンとでもいうべき今の状態では、本格的な街の活動は始まっていない。
けれど、密やかにアウトローたちは法の外で行われるビジネスを開始しつつあった。
おとこは、そんな騒々しい世界の狭間に生きる情報屋である。
そして、今は客を待っていた。
客の名は、クレール・F・ミネという。
クレールは、無造作といってもいい体でそのバーに姿を現した。
おとこを認めると、真っ直ぐ向かってくる。
クレールは、単刀直入に声をかけてきた。
「あなたがクロウね。情報屋の」
クロウと呼ばれたおとこは、煙草の煙を吐きながら傍らのストゥールをさししめす。
クレールは、そこに腰を降ろした。
バーテンにクロウが声をかけ、クレールがカクテルを注文する。
クロウは口の端を少し歪めて、笑いをみせながら言った。
「で、あんたがミス・クレール・F・ミネだね」
「ええ、クレールでいいわ」
クロウは、品定めをするようにクレールを見る。
クレールはその視線を気にした風もなく、受け流した。
おそらく、美しいおんななのだろうと思う。
夜の繁華街の少し浮ついた照明の中でも、深みのあるブラウンの瞳はひとを魅了する輝きを放っていた。
しかし、今の彼女はアーミージャケットを身につけ髪を引っ詰めにまとめた、現場で取材中のジャーナリストらしいスタイルだ。
本来であれば、おんならしい美しさを放つであろうその顔も、雲に隠された月と同じで朧げな輝を放っている。
「あんたは、魔女のところに行きたいんだって?」
クロウは、早速要件に入った。
クレールは、頷いてみせる。
「ええ、この街にいると聞いたわ」
クロウは、肩を竦める。
「話はつけてあるが、あまりお勧めはしない」
「それを判断するのは、わたし」
取り付くしまのない言い方に、クロウは苦笑する。
「まあいい、行こうか」
クロウは、バーテンに支払いを済ませ街の通りを歩き始める。
歩きながら、クレールに声をかけた。
「で、取材なのか?」
クレールはどこか戸惑ったような笑みをみせながら、答える。
「いいえ、原稿はもうロスチャイルドに売ったから。まあ、半分好奇心からというところかしら」
「そいつはよかった。もし、取材なら期待しないよう言うつもりだった」
クレールは片方の眉をあげて、問いをなげる。
クロウはその問いに、答えた。
「なにしろ齢百にとどこうかという、魔女だ。その言葉は少々ひとの理解を超えている」
クレールは、苦笑した。
「どうということは、ないわ。そんな取材も、よくあることよ」
クロウは皮肉な笑みを浮かべ、先へ進む。
バビロンエリアのメイン通りから少し裏の路地へと入ると、壁の一ヶ所に手をかける。
見た目は、全くふつうの建物の壁と変わらない。
しかし、クロウが手を触れると操作パネルが出現する。
クロウはそこに、パスコードを打ち込んだ。
壁の一部が、闇に置き換わる。
隠し扉が、開いたのだ。
クロウとクレールは、その闇に入り込む。
闇の中を少し歩くと、黄昏より暗い灯りに照らされたエレベータホールにたどり着いた。
そこにあるエレベータで、地下へ降る。
おそらく、数十階ほどの距離を地下へ下った。
ゆっくりとしたエレベータであったため、随分長い時間下ったように思える。
あたかも、地の底へと沈んでしまったようだ。
エレベータの扉が開くと、地下世界が目の前に開けた。
剥き出しになったタワーの基盤部分は、太古の遺跡を思わせる。
その壮大かつ重厚な鉄筋の柱が神話の世界がごとく立ち並ぶ麓には、荒んだ街があった。
高い天井の人工照明が、混沌としたバラック街を照らし出す。
そこは、元々工事に従事する作業者たちが使用するための巨大な倉庫のように使われている場所であったが、工事があらかた完了した今では街のアウトローが集う場所になっている。
もともと行政特区として法の外にあるバビロンエリアが独自に持つ内部規程も届かない、さらなる無法区域であった。
その地下世界は、地上の街とは様相が一変する。
地下の街は、驚くほど混沌としていた。
ブラジルあたりの、ファベーラとそう変わらないような無秩序ぶりだ。
高い天井の下の広大なフリースペースにはバラック小屋のような違法建築の屋台が、立ち並ぶ。
それらの小屋は、宗教的か民族的な装飾が施されており、それらは世界中のあらゆる地域のものがあるようだ。
血塗られた刀を振り上げる女神の絵や、獣面神の彫像が置かれている。
十字架のとなりに、バフォメットの像があり、そのまたとなりに中東の幾何学文様を持つタペストリがあった。
それら民族学的世界のアイテムの隣には、最新の電子機器が無造作に置かれている。
屋台の露天商では、ジャンクフードだけではなく、電子機器やソフトウェアのジャンクも売られているようだ。
ドラッグや、武器の類も扱っているように見える。
いわゆるスラムというものはどこの国にも在るが、ここまで無国籍で多文化の混在を許容したスラムも珍しいだろう。
クロウは客引きや呼び込みをたくみに躱しつつ、バラック街の奥深くに入っていく。
次第にあたりは薄暗くなり、店はドラッグバーや性風俗店の立ち並ぶエリアになる。
派手な化粧と原色のドレスに身を包んだ年かさのおんなたちが道端でドラッグ混じりの煙草をふかし、野獣の瞳を持つおとこたちが彼女らを物色するように行き交う。
そんな場所でも顔色を変えず、平然と歩くクレールにクロウは少し感心した。
その夜の中にある夜のような場所に入り込んだふたりは、魔女の家にたどり着く。
魔女の家は、そこだけ時間の流れ方が違うのではと思うような静けさに包まれている。
そう、たとえてみればそれは森の奥にある静けさのようなものだろう。
そして、魔女の家は様々な草花に包まれており、それ自体が植物のコロニーを思わせ生き物のような気配すら漂わせていた。
クロウは、蔦と苔に被われている木製の扉に手をかけ一気に開く。
濃い闇が液体状に部屋の中に満ちていたが、所々に赤い灯りが浮き上がっておりそれは漆黒の宇宙を遊弋する惑星を思わせた。
闇に目がなれてくると、部屋の中がぼんやりと見えてくる。
そこは森の奥に潜む精霊たちが息づいているような、場所であった。
異様な形状を持つ仮面が並び、儀式用の装飾が施された楽器が置かれている。
部屋の壁を埋める棚には、得体のしれぬ生き物の標本を詰めた瓶や、薬品が並んでいた。
そして、その部屋の中央には半ば植物化している老婆が安楽椅子に腰かけている。
微睡んでいるように目をとじ、穏やかな息はこの部屋に穏やかなリズムを生み出していた。
彼女がこの部屋の主、「魔女」である。
クロウは、ちらりとクレールに視線をなげた。
この魔力が渦巻いているかのような部屋に入り込んでも、なんら動じる様子はなく冷静にあたりを観察しているようだ。
クロウは魔女に視線を戻すと、かるく挨拶をする。
「よう」
魔女は、少しだけ目をひらいた。
何かをするつもりはなさそうだが、皺と刺青が刻み込まれた顔にそっと笑みを浮かべたようにみえる。
「この間伝えたあんたに会いたいというおんなを、つれてきたぜ」
魔女は、ゆっくりと眼差しをクレールに向ける。
歳を経た巨大な爬虫類が、じっと獲物を見据える様を思わせた。
クレールはその眼差しに気圧されることもなく、真っ直ぐ見返す。
魔女は、地の底から響くかのごとき低い声でそっと言った。
「なにしに、きたんだい」
「話を聴きにきました」
魔女は、失笑したように見える。
「質問の意味は、わかってるんだろう。おまえは、なぜここバビロンエリアに来たんだ。これからここでおこることは、おまえにはもう関係のないことだ」
「不思議なことが、あるんです」
クレールは不思議な、こころの奥底を垣間見せるような表情をして語る。
「もうずっと彼を失っていたはずなのに。ここにくれば、会えるような予感がするんです」
魔女は、呆れたように目を開きそしてそれをまた細める。
「おまえがもとめるのなら、その予感は本物だろう。問題はおまえがもとめているかさね」
「あなたは、ハイゼンベルク博士が求めたが故に彼に天使の卵を与えたのですか?」
魔女は、ちょっとしたジョークを聞いたときのようにくすりと笑った。
クロウは、目をむく。
「おいおい、それは八十年以上は昔のことだろう」
魔女は、こともなげに言い放つ。
「百年は経っておるまいが」
クロウは呆れたように、肩を竦める。
「まあ、あのころはこのわたしも年端のゆかぬ小娘であったがの」
「想像つかないね」
クロウの言葉に、魔女は乾いた声で笑った。
「小娘であったが、呪術師としてはもう一人前だったよ。だから、黒十字の兵隊どもは、このわたしの前にきた」
クレールは、表情を変えぬまま問いを発する。
「その時にあなたは、ハイゼンベルク博士のことを知っておられたのですか?」
「呪術師のやり方で、そいつのことは知っていた」
魔女は、魔物のような笑みを浮かべる。
「北の地には、世界の理を知ろうとするものたちがおり、天使の卵のある役割を知ることができることをな」
「ある役割」
クレールの言葉に、魔女は頷く。
「世界というものはな、ある意味誰かの夢のようなものだ」
クロウは少し鼻で笑ったが、魔女は気にすることもなく話し続ける。
「あるいは、この世の始めから存在するたったひとりの怪物が見る夢といってもいいかもしれぬ」
次第に謎めいていく魔女の言葉であったが、クレールは気にする様子もなく問いを発する。
「世界は夢でも、わたしたちの目の前には現実と呼ばれるものがある。そうでは、ありませんか」
魔女は、少し驚いた顔をする。
「そうさね。夢の先端部分を現実と呼ぶのなら、そうだよ」
「ハイゼンベルク博士の不確定性原理は、夢の先端がどのように出現するかを語ったものではありませんか」
魔女は、苦い笑みを見せた。
「まあ、無粋なやり方ではあるが、そうともいえる」
「天使は」
クレールは、いつしか取り憑かれたものの瞳で魔女を見ていた。
「その、夢の先端部分を出現させるためのものではないのですか」
「少し違うね」
どこか邪悪な翳りを持つ表情で、魔女は語る。
「所詮は、すべては夢なんだよ。だから先端とはいえ、夢ではある。夢は完全に溶けてしまうと、海に帰る」
クレールは、我が意を得たかのように頷く。
「それこそがハイゼンベルク博士の友人が見出した、ディラックの海ですね」
魔女は、ふんと鼻をならす。
「何と呼ぼうがかまわんよ。本質に違いはないからね。その海には、あらゆるものが溶け込んでいる。だから、その海の底からは、あらゆるものを引き上げられる」
クレールは、大きく頷く。
「天使こそが、海の底から何かを引き上げられる」
「ああそうだ。あらゆるものを。死者であれ。神であれ。悪魔であれ。お伽話の住人であっても、天使は引きずり出せるだろうね。なぜなら天使は逆しまの時で、夢見ているから」
「ああ、なぜあなたはそんな恐ろしいものを、ハイゼンベルク博士に与えたのです」
少し蒼ざめたクレールに、魔女は邪悪な笑みで答える。
「このわたしにも、若いころがあったということさ」
魔女は笑みを消すと、猛禽が獲物を狙う目でクレールを見つめた。
「で、あんたはここに海の底から何かが引きずり出されるのを見るためにきたというんじゃあ、ないだろうね」
クレールは、頷く。
「わたしは、それを見届けるつもりでここに来ました」
魔女は、鼻で笑う。
「あんたが失ったものが、ここで引きずり出されると」
「ええ」
クレールは再び頷き、暫く沈黙があたりを支配する。
魔女は、喉の奥から漏れてくる笑い声で、その沈黙を破った。
「あんたの失ったものを、言ってごらん」
「旧ユーゴスラビア。そこに戦争がありました。わたしが彼、ラウール・ダンドレジーと出会ったのはそこです」
魔女は、沈黙でその先を促す。
クレールは、遠くを見つめるような瞳をして続きを語る。
「それは恋だったのかもしれません。わたしたちは戦火の支配する国で、互いを求めあい同じ時を過ごしました」
魔女は、頷く。
「で、そのおとこは死んだのかね」
「わかりません。彼はただ、消えたのです」
クレールは、静に首を振った。
「戦場から離れた後、わたしは某国でエスピオナージュにたずさわっていました。そのとき色々な情報に触れましたが、ユーゴスラビアでの戦死者リストに彼の名はありませんでした。彼は少なくとも各国の諜報機関の情報網からは、完全に消え去り生死不明となったのです」
魔女は頷き、悪魔の笑みを見せた。
「で、その彼が引きずり出されると。しかし、なぜ」
「怪盗ルパン」
クレールの答えは、シンプルである。
「わたしは、謎の怪盗にラウールの匂いを感じます」
クロウが、失笑する。
「ルパンなら、存在してるじゃねか。こんな面倒なことをしなくても」
クレールは、首をふる。
「ルパンを5年、追ったわ。たどり着いた答えはひとつ」
クレールの瞳が、祈るような光を宿す。
「ルパンは、存在していない」
クロウは、あんぐりと口を開け言葉を失う。
魔女は、大きく笑った。
「奇遇だね、わたしも同じ考えだ」
「では」
クレールは、真っ直ぐ魔女を見つめる。
「あなたはアシュケナージが、天使の卵を使ってルパンを招いたと。そう思いますか?」
魔女は、喉の奥で笑う。
「知らないね、そんなことは。ただ」
魔女は、昏く光る目でクレールを見た。
「面白いことが起こるにはちがいないよ、もうすぐ。ここでね」
クレールは、その言葉をどこか肉食獣の残忍さを潜ませたような笑みを浮かべ聞いていた。
クロウはそれを見て、なぜかぞっとする。
クロウとクレールは、魔女の家を出た。
クロウは魔女とクレールの会話に含まれていた毒気にあてられたのか、少し眩暈がする。
首をふってそれを追い払うと、クレールを見て言った。
「あんた、地上へ戻るんだろ。送っていくぜ」
地下のスラムは、無法地帯の中にある無法地帯である。
一歩踏み間違えば、やっかいなところに入り込んでしまう。
しかし、クレールは意外なことに首をふった。
「もう少し、地下に用事がある」
クロウは目を剥く。
「一体、これ以上何をしようっていうんだ」
クレールは、薄く笑った。
かつてはエスピオナージュで活躍したおんなにふさわしい、妖艶ながら酷薄さを滲ませた不思議な笑みだ。
「あなたにもし興味があれば、連れていってあげるわ」
クロウは、苦笑する。
「一体どこにだよ」
「ルパンの家」
クロウは、もう一度目を剥いた。
水深40メートルともなれば、光はとどかない。
ましてや夜の海となると、個体となった闇が満ちている。
ダイビングスーツを纏ったおとこは、闇の中に溶け込みながら片手で水中スクーターを操作し、もう一方の手でダイビングライトを操り海底を照らす。
個体化した闇を光の刃が切り裂き、海底を浮かび上がらせる。
やがておとこは、海底に施工されたケーブルを見出し満足げに頷く。
闇を裂く光でケーブルを照らしながら、辿っていった。
暫く行くと、ケーブルが中継装置に収納されているポイントへたどりつく。
おとこは水中スクーターを巧みに操って、海底の中継装置があるところまで潜っていった。
中継装置のところで、一旦モーターを停止したスクーターを手放し海底へ降りる。
中継装置に、四角い箱をとりつけた。
それは、タイマー型の起爆装置がついた水中爆弾である。
おとこはワイヤーを使って、爆弾を中継装置に固定し終わった。
再び水中スクーターを手に取ると、モーターを起動し水上に向かって移動していく。
おとこは夜の海面に、出た。
遠くに、夜空に向かって聳える水晶の塔にも見えるザ・タワーがある。
その世界一高い塔は、距離感を失わせるような巨大さであった。
すぐ側にあり頭上に覆い被さってくるような、気がする。
実際には、まだ、1キロ以上の距離があるはずだ。
おとこは、海面を移動し小型ボートにたどりつく。
そのボートはよく見ると、SDVと呼ばれるSEAL輸送潜水艇であることが判る。
小型であるが、潜水能力も持っていた。
開かれたハッチに入り込むと、ダイビングスーツを脱ぎ去る。
その下から、テーラードジャケットを身につけた髭面のおとこが現れた。
洒落たジャケット姿のおとこは傍らからテンガロンハットを取り出すと、頭にのせる。
洋上にいながらショットバーでグラスを傾けながらくつろいでいるようなスタイルになったおとこは、懐から煙草を取り出した。
墨を流し込んだような闇に満たされている夜の海に、ポーラスターの光がポツリと灯る。
おとこが吐き出し蒼ざめた光を受ける紫煙が、黒いタールのように落ち着いた海の上を流れてゆく。
おとこは、巨人が天から投げ下ろした杖にも見えるザ・タワーに嘲るような笑みを投げた。
傍らに置かれていたトランシーバーを取り上げると、言葉を発する。
「ああ、こちらは終わった。そっちも、もう済んだのか?」
返事を聞いた髭のおとこは、笑みを楽しげなものに変える。
「オーケードーキー。お楽しみの時間が来たわけだ」
おとこは、深く煙草を吸うと煙をタワーに向かって吐き出す。
「これからおまえをひろいに行く。さあ、天使に会いにいこうじゃあないか」
そういい終えるとおとこはトランシーバーのスイッチを切り、ボートのコックピットへ身を沈める。
上部のハッチを閉めると、エンジンをかけ夜の海へ進みだした。
海を進むSDVの姿は、黒い海獣を思わせる。
金属の海獣は雪のような泡っを水面に残し、静かに漆黒の闇へと潜り消えていった。
ルパンの予告時間が、いよいよ迫ってきたころ。
ナオミのいる最上階に、保守部隊のおとこたちが上がってきた。
四人一組のチームが四つ、16人のおとこたちが配置についてゆく。
その保守部隊を率いる長身のおとこを、ナオミは手招きした。
「警部、対ルパンの特別保安チームのリーダを紹介しておくわ」
警部は、片方の眉をあげ胡散臭そうに保守部隊のおとこたちを見る。
今まで、対ルパン専任チームがあることすら伝えていなかったのでこの土壇場で紹介される警部の気持ちを考えると多少不躾なところもあったが、ナオミはそのようなことは気にせず長身のおとこを傍らに呼んだ。
手足が長く、髪もミュージシャンのように伸ばしており、保安部隊のリーダというよりはアーティストのようなおとこである。
しかし、彫りが深く整った顔立ちの瞳には冷酷な光が宿っており、荒事専門らしい凄みもあった。
「はじめまして、インスペクター・ヘイジ・ミョウジンシタ。わたしは、対ルパン専任部門のチームリーダ、ジョシュア・リリエンタールです」
この身体がでかい異相のおとこがリリエンタール(百合の谷)という名前なのは、何かのジョークだとナオミはいつも感じる。
ジョシュアは死神のように非道な笑みを見せつつ、警部に手をさし出した。
「それにしても、インスペクターとはね。ICPOには捜査権も逮捕権も無いのだから、本来は事務官とお呼びすべきなんでしょうな」
警部は、ジョシュアのさし出した手を無視しながらも、無表情を保って返答をする。
「かつてアルカイダの捜査の際、あまりに各国の情報提供が杜撰だったため、ICPOの協定を見直し各国の許可があれば捜査に介入し逮捕もできるようになったのは、ご存知ありませんか?」
ジョシュアは、鼻で笑う。
「許可があればね」
ジョシュアは、ナオミのほうを振り向いて言った。
「許可を与えたのか、ナオミ?」
ナオミは、頷く。
「捜査権は認めたわよ、何か問題があるかしら」
ジョシュアは、苦笑する。
「まあ、無駄に終わるということ以外に問題はないな」
ジョシュアは、警部のほうへ向き直り皮肉な笑みを投げた。
「やつは、ここまで来ることはできないよ、インスペクター。君に与えられた権利を行使したければ、地上に降りたほうがいい」
警部の無骨な顔には、なんの表情も浮かんでこない。
慇懃な調子で、ジョシュアに問いを投げる。
「ここのシステムに、かなり自信があるようですな」
ジョシュアは、肩をすくめる。
「ここのシステムを造ったのは建築家にしてシステムエンジニアでもある、ミハイル・アシュケナージだ。彼は建物とそれを管理するシステムをセットで造る。それは、バビロンシステムと呼ばれ、世界中の主要な施設で採用されているんだ」
ジョシュアはぐっと腰をかがめ警部の前に自身の顔を持っていくと、馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「ここのシステムを突破できるんなら、やつを止めることのできるシステムは存在しないさ」
警部は、まるで我が意を得たとでもいうように真面目に頷いてみせる。
「まさに、そのとおりではありませんか?」
ジョシュアは一瞬戸惑ったような顔をした後、派手に笑い出す。
「すげえな、あんたはルパンというこそ泥はペンタゴンやクレムリンの警備も突破できるっていうんだ!」
警部は、当たり前だというように返答する。
「できるでしょうな、やらないだけで」
ジョシュアは、喉の奥で唸る。
「できるとしてもいいぜ、だがここはダメだ」
警部は、何も答えずただ優しく微笑む。
まるで意地をはる子供を相手に、おとなが見せるような笑みであった。
ジョシュアの目が、すっと細まり殺気を帯びる。
「インスペクター、あんたがこのタワーに侵入するにはどうするよ」
警部はジョシュアの問いに、穏やかな笑みを見せて答える。
「おそらく、ここのシステムにハッキングするしかないでしょうな」
ジョシュアは、酷薄な笑みを浮かべ問いを投げる。
「どうやって、ハックする?」
警部は、穏やかな笑みを浮かべたままだが目に戸惑いの色が浮かぶ。
「まずは、ここのコンピュータにアクセスすることでしょうな」
ジョシュアは、喉の奥で笑ってみせる。
「あんたはルパンの手口をさんざん見てきたから、知ってるんだろう。やつが、どうするかを。しかしあいにくとね、ここには無いんだ」
警部の片方の眉が、少し上がる。
「無い、というと?」
「このタワーには、セキュリティコンピューターと呼べるようなものはない」
警部は、あっけにとられた顔になる。
ジョシュアは、悪魔のような笑みを浮かべた。
「クラウド・コンピューティングってやつだ。今時珍しくもないだろう。このタワーのセキュリティシステムは、インターネット上に存在する1500のコンピューターに分散して搭載されている」
警部は、唸るようなため息をつく。
ジョシュアは、楽しげな調子で続ける。
「ルパンが、ハックするには1500箇所のシステムへ同時にアタックする必要がある」
ジョシュアは、宣告を下すように言った。
「インスペクター、あんたが過去に見てきた事件で同様のシステムはあったか?」
警部は、ゆっくりと首を振る。
「無いでしょうな」
「おれはあんたと同じくらいに、過去のルパンが関わったとされる事件を分析したつもりだ。そして、シュミレーションを行った結果こう推論する。やつがここにたどり着くことはない」
警部は、憮然とした表情で言った。
「リリエンタールさん。あんたは確かに、綿密な分析をやったんだろう。けれど、過去のデータから理解できていないことがひとつあるようだ」
「ほう」
ジョシュアは、面白がっている色を目に浮かべる。
「なんだね、それは」
「やつは、同じ手口、同じパターンを使用することはない。まるでそうすることが、ルールだというかのように」
ジョシュアは、鼻で笑う。
「だから、シュミレーションが役に立たないというのか? そんなことは、知ってるよ。むしろ、おれのほうが一歩進んだ推測にたどり着いている」
「ほう」
警部は、薄く笑った。
「ぜひその推測を、聞かせていただきたい」
ジョシュアは、ぐっと背を伸ばし長身をそそり立たせる。
昏い夜空を背負い見下ろしてくるその姿は、魔物のようである。
「ルパンという個人は、存在しない。言ってみれば、それはひとつのルールだ。おれがシミュレートしたのは、そのルールのふるまいだよ」
そしてジョシュアは、悪魔のように笑いだす。
驚いたことに、その笑いに合わせて警部は太太しい笑いを見せた。
ジョシュアとナオミは、驚いた顔で警部を見る。
警部は、落ち着いた調子は崩さず語り出す。
「リリエンタールさん、わたしも同じように思ってます。全ての証拠はひとつの事実に、我々を導く。ルパンは、存在しない。色んな人間がルパンと言う名のゲームを、やっているようにすら見える。ただしかし」
警部は、強い光を放つ目でジョシュアを見つめる。
「だからこそ、わたしはやつが存在すると思ってる」
ジョシュアは、呆れたように口を開きそして閉じた。
「いかれてるな、インスペクター。どういう理屈だ、そいつは」
警部は、どこか楽しげに笑った。
「刑事の勘、だよ」
ジョシュアは、とまどったように警部を見る。
警部は、言葉を続けた。
「全ての証拠がひとつの方向を向いてるのは、そちらに誘導されてると思うべきだ。だから真相は、それと真逆であると考えたほうがいい」
ジョシュアは、肩をすくめただけで沈黙した。
ナオミは、ぽつりと言う。
「なんにせよ、その答えはもうすぐここで確かめられる。それで、いいわね」
ふたりのおとこは、無言のまま頷いた。
ましてや夜の海となると、個体となった闇が満ちている。
ダイビングスーツを纏ったおとこは、闇の中に溶け込みながら片手で水中スクーターを操作し、もう一方の手でダイビングライトを操り海底を照らす。
個体化した闇を光の刃が切り裂き、海底を浮かび上がらせる。
やがておとこは、海底に施工されたケーブルを見出し満足げに頷く。
闇を裂く光でケーブルを照らしながら、辿っていった。
暫く行くと、ケーブルが中継装置に収納されているポイントへたどりつく。
おとこは水中スクーターを巧みに操って、海底の中継装置があるところまで潜っていった。
中継装置のところで、一旦モーターを停止したスクーターを手放し海底へ降りる。
中継装置に、四角い箱をとりつけた。
それは、タイマー型の起爆装置がついた水中爆弾である。
おとこはワイヤーを使って、爆弾を中継装置に固定し終わった。
再び水中スクーターを手に取ると、モーターを起動し水上に向かって移動していく。
おとこは夜の海面に、出た。
遠くに、夜空に向かって聳える水晶の塔にも見えるザ・タワーがある。
その世界一高い塔は、距離感を失わせるような巨大さであった。
すぐ側にあり頭上に覆い被さってくるような、気がする。
実際には、まだ、1キロ以上の距離があるはずだ。
おとこは、海面を移動し小型ボートにたどりつく。
そのボートはよく見ると、SDVと呼ばれるSEAL輸送潜水艇であることが判る。
小型であるが、潜水能力も持っていた。
開かれたハッチに入り込むと、ダイビングスーツを脱ぎ去る。
その下から、テーラードジャケットを身につけた髭面のおとこが現れた。
洒落たジャケット姿のおとこは傍らからテンガロンハットを取り出すと、頭にのせる。
洋上にいながらショットバーでグラスを傾けながらくつろいでいるようなスタイルになったおとこは、懐から煙草を取り出した。
墨を流し込んだような闇に満たされている夜の海に、ポーラスターの光がポツリと灯る。
おとこが吐き出し蒼ざめた光を受ける紫煙が、黒いタールのように落ち着いた海の上を流れてゆく。
おとこは、巨人が天から投げ下ろした杖にも見えるザ・タワーに嘲るような笑みを投げた。
傍らに置かれていたトランシーバーを取り上げると、言葉を発する。
「ああ、こちらは終わった。そっちも、もう済んだのか?」
返事を聞いた髭のおとこは、笑みを楽しげなものに変える。
「オーケードーキー。お楽しみの時間が来たわけだ」
おとこは、深く煙草を吸うと煙をタワーに向かって吐き出す。
「これからおまえをひろいに行く。さあ、天使に会いにいこうじゃあないか」
そういい終えるとおとこはトランシーバーのスイッチを切り、ボートのコックピットへ身を沈める。
上部のハッチを閉めると、エンジンをかけ夜の海へ進みだした。
海を進むSDVの姿は、黒い海獣を思わせる。
金属の海獣は雪のような泡っを水面に残し、静かに漆黒の闇へと潜り消えていった。
ルパンの予告時間が、いよいよ迫ってきたころ。
ナオミのいる最上階に、保守部隊のおとこたちが上がってきた。
四人一組のチームが四つ、16人のおとこたちが配置についてゆく。
その保守部隊を率いる長身のおとこを、ナオミは手招きした。
「警部、対ルパンの特別保安チームのリーダを紹介しておくわ」
警部は、片方の眉をあげ胡散臭そうに保守部隊のおとこたちを見る。
今まで、対ルパン専任チームがあることすら伝えていなかったのでこの土壇場で紹介される警部の気持ちを考えると多少不躾なところもあったが、ナオミはそのようなことは気にせず長身のおとこを傍らに呼んだ。
手足が長く、髪もミュージシャンのように伸ばしており、保安部隊のリーダというよりはアーティストのようなおとこである。
しかし、彫りが深く整った顔立ちの瞳には冷酷な光が宿っており、荒事専門らしい凄みもあった。
「はじめまして、インスペクター・ヘイジ・ミョウジンシタ。わたしは、対ルパン専任部門のチームリーダ、ジョシュア・リリエンタールです」
この身体がでかい異相のおとこがリリエンタール(百合の谷)という名前なのは、何かのジョークだとナオミはいつも感じる。
ジョシュアは死神のように非道な笑みを見せつつ、警部に手をさし出した。
「それにしても、インスペクターとはね。ICPOには捜査権も逮捕権も無いのだから、本来は事務官とお呼びすべきなんでしょうな」
警部は、ジョシュアのさし出した手を無視しながらも、無表情を保って返答をする。
「かつてアルカイダの捜査の際、あまりに各国の情報提供が杜撰だったため、ICPOの協定を見直し各国の許可があれば捜査に介入し逮捕もできるようになったのは、ご存知ありませんか?」
ジョシュアは、鼻で笑う。
「許可があればね」
ジョシュアは、ナオミのほうを振り向いて言った。
「許可を与えたのか、ナオミ?」
ナオミは、頷く。
「捜査権は認めたわよ、何か問題があるかしら」
ジョシュアは、苦笑する。
「まあ、無駄に終わるということ以外に問題はないな」
ジョシュアは、警部のほうへ向き直り皮肉な笑みを投げた。
「やつは、ここまで来ることはできないよ、インスペクター。君に与えられた権利を行使したければ、地上に降りたほうがいい」
警部の無骨な顔には、なんの表情も浮かんでこない。
慇懃な調子で、ジョシュアに問いを投げる。
「ここのシステムに、かなり自信があるようですな」
ジョシュアは、肩をすくめる。
「ここのシステムを造ったのは建築家にしてシステムエンジニアでもある、ミハイル・アシュケナージだ。彼は建物とそれを管理するシステムをセットで造る。それは、バビロンシステムと呼ばれ、世界中の主要な施設で採用されているんだ」
ジョシュアはぐっと腰をかがめ警部の前に自身の顔を持っていくと、馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「ここのシステムを突破できるんなら、やつを止めることのできるシステムは存在しないさ」
警部は、まるで我が意を得たとでもいうように真面目に頷いてみせる。
「まさに、そのとおりではありませんか?」
ジョシュアは一瞬戸惑ったような顔をした後、派手に笑い出す。
「すげえな、あんたはルパンというこそ泥はペンタゴンやクレムリンの警備も突破できるっていうんだ!」
警部は、当たり前だというように返答する。
「できるでしょうな、やらないだけで」
ジョシュアは、喉の奥で唸る。
「できるとしてもいいぜ、だがここはダメだ」
警部は、何も答えずただ優しく微笑む。
まるで意地をはる子供を相手に、おとなが見せるような笑みであった。
ジョシュアの目が、すっと細まり殺気を帯びる。
「インスペクター、あんたがこのタワーに侵入するにはどうするよ」
警部はジョシュアの問いに、穏やかな笑みを見せて答える。
「おそらく、ここのシステムにハッキングするしかないでしょうな」
ジョシュアは、酷薄な笑みを浮かべ問いを投げる。
「どうやって、ハックする?」
警部は、穏やかな笑みを浮かべたままだが目に戸惑いの色が浮かぶ。
「まずは、ここのコンピュータにアクセスすることでしょうな」
ジョシュアは、喉の奥で笑ってみせる。
「あんたはルパンの手口をさんざん見てきたから、知ってるんだろう。やつが、どうするかを。しかしあいにくとね、ここには無いんだ」
警部の片方の眉が、少し上がる。
「無い、というと?」
「このタワーには、セキュリティコンピューターと呼べるようなものはない」
警部は、あっけにとられた顔になる。
ジョシュアは、悪魔のような笑みを浮かべた。
「クラウド・コンピューティングってやつだ。今時珍しくもないだろう。このタワーのセキュリティシステムは、インターネット上に存在する1500のコンピューターに分散して搭載されている」
警部は、唸るようなため息をつく。
ジョシュアは、楽しげな調子で続ける。
「ルパンが、ハックするには1500箇所のシステムへ同時にアタックする必要がある」
ジョシュアは、宣告を下すように言った。
「インスペクター、あんたが過去に見てきた事件で同様のシステムはあったか?」
警部は、ゆっくりと首を振る。
「無いでしょうな」
「おれはあんたと同じくらいに、過去のルパンが関わったとされる事件を分析したつもりだ。そして、シュミレーションを行った結果こう推論する。やつがここにたどり着くことはない」
警部は、憮然とした表情で言った。
「リリエンタールさん。あんたは確かに、綿密な分析をやったんだろう。けれど、過去のデータから理解できていないことがひとつあるようだ」
「ほう」
ジョシュアは、面白がっている色を目に浮かべる。
「なんだね、それは」
「やつは、同じ手口、同じパターンを使用することはない。まるでそうすることが、ルールだというかのように」
ジョシュアは、鼻で笑う。
「だから、シュミレーションが役に立たないというのか? そんなことは、知ってるよ。むしろ、おれのほうが一歩進んだ推測にたどり着いている」
「ほう」
警部は、薄く笑った。
「ぜひその推測を、聞かせていただきたい」
ジョシュアは、ぐっと背を伸ばし長身をそそり立たせる。
昏い夜空を背負い見下ろしてくるその姿は、魔物のようである。
「ルパンという個人は、存在しない。言ってみれば、それはひとつのルールだ。おれがシミュレートしたのは、そのルールのふるまいだよ」
そしてジョシュアは、悪魔のように笑いだす。
驚いたことに、その笑いに合わせて警部は太太しい笑いを見せた。
ジョシュアとナオミは、驚いた顔で警部を見る。
警部は、落ち着いた調子は崩さず語り出す。
「リリエンタールさん、わたしも同じように思ってます。全ての証拠はひとつの事実に、我々を導く。ルパンは、存在しない。色んな人間がルパンと言う名のゲームを、やっているようにすら見える。ただしかし」
警部は、強い光を放つ目でジョシュアを見つめる。
「だからこそ、わたしはやつが存在すると思ってる」
ジョシュアは、呆れたように口を開きそして閉じた。
「いかれてるな、インスペクター。どういう理屈だ、そいつは」
警部は、どこか楽しげに笑った。
「刑事の勘、だよ」
ジョシュアは、とまどったように警部を見る。
警部は、言葉を続けた。
「全ての証拠がひとつの方向を向いてるのは、そちらに誘導されてると思うべきだ。だから真相は、それと真逆であると考えたほうがいい」
ジョシュアは、肩をすくめただけで沈黙した。
ナオミは、ぽつりと言う。
「なんにせよ、その答えはもうすぐここで確かめられる。それで、いいわね」
ふたりのおとこは、無言のまま頷いた。
「驚いたな、こんな場所があったとは」
クロウは、ため息まじりにつぶやく。
彼がクレールに導かれたどり着いたのは、地下のスラム街よりさらに深くに潜った場所であった。
巨大な洞窟であるかのようなその場所は、実は人工的に造られた空間である。
手にしたハンドライトでは全体が掴み取れないが、部分的に照らし出された壁や柱は煉瓦やコンクリートできていた。
それにしても、その場所は冥界のように広く液体となった闇に覆い尽くされている。
まるで、海の底に沈んでしまったかのようだ。
そこが太古の神を祭った墳墓であるといわれても、クロウは納得したであろう静寂と荘厳な雰囲気に満ちている。
闇に満たされているため、姿が十分に見えないが後ろにいるはずのクレールが言葉を発した。
「ここは、かつて帝国軍が最終本土決戦を行うため造りあげた、地下司令部」
クレールは、闇の中でそっと笑う。
「もちろん、戦争に負けた後は放棄されただの廃墟になったのだけれどね」
クロウは、戸惑った声でクレールに問う。
「で、ここがルパンの家だってのかよ」
クレールは、無言のまま足元をハンドライトで照らしながらどんどん進んでゆく。
クロウは、おそるおそるその後を続いた。
突然立ち止まったクレールは、満足げな笑みを見せてクロウに言う。
「さあ、これから凄いものを見せてあげる」
クレールは懐から、拳銃を出した。
「おい」
クロウが、問いを発する前にクレールはその拳銃を頭上に向かって撃つ。
淀んでいた空気を震わせる轟音が響き、照明弾が高い天井に向かって撃ち上げられた。
液体のようにあたりを包んでいた闇を蒸発させる強烈な光を、照明弾が発する。
小さなパラシュートによってゆっくり落下してくる照明弾は、地下のさらに奥深いところにある闇をも駆逐し真昼のようにあたりを照らした。
そこに照らし出された光景に、クロウは息をのむ。
そこは巨大なドーム状の天井を持つ、広場である。
その床には、幾つものアクリル板でできたケースが置かれていた。
クロウは、なぜかそのケースが透明な棺のように思える。
それら、透明な棺に格納されているのは数々の美術品であった。
神秘の笑みを浮かべ女神の美貌を持った、彫像。
色彩の交響楽を響かせるような、美しい絵画。
夜空の星を埋め込んだように煌めく宝石を持つ、装飾品。
初雪のように清らかで白く、液体のようになめらかな曲線を持つ陶磁器。
ひとつの宇宙を閉じ込めたかのように、複雑な幾何学文様を織り上げたタペストリ。
無数の財宝が、無造作にケースに収められ並べられていた。
それらは、クロウには星座のように思える。
ここには、地下に写し取られた天上の星座があった。
それぞれが神話や物語を宿し、神秘の歴史を背負った星座のような存在。
それらが、巨大な広間に幾つも幾つも並べられ、照明弾の光に照らされている。
「これは、ルパンが盗んだ財宝だというのか」
クロウの問いに、クレールはあっさり答える。
「そう、ここにルパンが過去に盗んだ全てがあるわ」
やがて照明弾は床に落ち、再びあたりは闇に閉ざされる。
眩い財宝を見た後では、その闇はハデスの領土より尚昏くあたりを閉ざす。
ぽつりと火が灯り、クレールの姿が闇に浮かび上がった。
彼女が煙草に火を点け、闇の中を少しだけ照らす。
薄い光に照らされたクレールの姿はなぜか幻影のようで、クロウはぞっとした。
「やつは盗んだものをこんなところに無造作に放り出して、どういうつもりだ?」
「さあね。ルパンの気持ちは彼に聞くしかないわね」
クロウは、ため息をつく。
盗んだものを換金しないのであれば、盗む意味がない。
そもそも、ルパンは一体どうやって活動資金を得て、組織を維持していたのだろう。
クロウの想像を、全てが越えている。
クレールは、東洋人がよくみせる曖昧な笑みを浮かべ言った。
「ルパンについて、わたしの想像することを言うことはできるけど。聞きたい?」
クロウは、無言で先を促す。
クレールは、どこか投げやりな調子で言った。
「ルパンは、法や権力なんてものに意味がないということを示したかったんだと思う」
クレールは、クロウが聞いているかどうかを気にせず先を続けた。
「法、権力、国家。それらは弱者や奴隷にこそ相応しい。例えば英雄がひとを殺しても讃えられるけど、奴隷が同じことをすれば撲殺される」
クロウは、苦笑した。
「ラスコーリニコフかよ。やつは英雄きどりなのか?」
「まさか」
クレールは、目を少し細めて煙草の煙を吐き出す。
闇の中を、幽鬼のような紫煙が流れていった。
「彼は、英雄なんて軽蔑してると思うわ。第一彼は、決してひとを殺さなかった」
クロウは、鼻で笑う。
「じゃあ、やつはなんだ」
「知らない」
クレールは、野性の猫みたいに笑う。
「強いて言うなら、泥棒でしょ。ただの、をつけてもいいわ」
クロウは、肩を竦めもうひとつの問いを発する。
「それで、ミハイル・アシュケナージはなんだってここにタワーを建てたんだ。まさか、偶然じゃあないんだろう」
クレールは、闇の中で三日月のように薄く光る目を、上にあげる。
彼女には、見えているようだ。
その先に聳えている、世界一高い塔が。
「もう少しで、判ると思うよ。アシュケナージが天使をここに用意した意味が」
クロウは、ため息まじりにつぶやく。
彼がクレールに導かれたどり着いたのは、地下のスラム街よりさらに深くに潜った場所であった。
巨大な洞窟であるかのようなその場所は、実は人工的に造られた空間である。
手にしたハンドライトでは全体が掴み取れないが、部分的に照らし出された壁や柱は煉瓦やコンクリートできていた。
それにしても、その場所は冥界のように広く液体となった闇に覆い尽くされている。
まるで、海の底に沈んでしまったかのようだ。
そこが太古の神を祭った墳墓であるといわれても、クロウは納得したであろう静寂と荘厳な雰囲気に満ちている。
闇に満たされているため、姿が十分に見えないが後ろにいるはずのクレールが言葉を発した。
「ここは、かつて帝国軍が最終本土決戦を行うため造りあげた、地下司令部」
クレールは、闇の中でそっと笑う。
「もちろん、戦争に負けた後は放棄されただの廃墟になったのだけれどね」
クロウは、戸惑った声でクレールに問う。
「で、ここがルパンの家だってのかよ」
クレールは、無言のまま足元をハンドライトで照らしながらどんどん進んでゆく。
クロウは、おそるおそるその後を続いた。
突然立ち止まったクレールは、満足げな笑みを見せてクロウに言う。
「さあ、これから凄いものを見せてあげる」
クレールは懐から、拳銃を出した。
「おい」
クロウが、問いを発する前にクレールはその拳銃を頭上に向かって撃つ。
淀んでいた空気を震わせる轟音が響き、照明弾が高い天井に向かって撃ち上げられた。
液体のようにあたりを包んでいた闇を蒸発させる強烈な光を、照明弾が発する。
小さなパラシュートによってゆっくり落下してくる照明弾は、地下のさらに奥深いところにある闇をも駆逐し真昼のようにあたりを照らした。
そこに照らし出された光景に、クロウは息をのむ。
そこは巨大なドーム状の天井を持つ、広場である。
その床には、幾つものアクリル板でできたケースが置かれていた。
クロウは、なぜかそのケースが透明な棺のように思える。
それら、透明な棺に格納されているのは数々の美術品であった。
神秘の笑みを浮かべ女神の美貌を持った、彫像。
色彩の交響楽を響かせるような、美しい絵画。
夜空の星を埋め込んだように煌めく宝石を持つ、装飾品。
初雪のように清らかで白く、液体のようになめらかな曲線を持つ陶磁器。
ひとつの宇宙を閉じ込めたかのように、複雑な幾何学文様を織り上げたタペストリ。
無数の財宝が、無造作にケースに収められ並べられていた。
それらは、クロウには星座のように思える。
ここには、地下に写し取られた天上の星座があった。
それぞれが神話や物語を宿し、神秘の歴史を背負った星座のような存在。
それらが、巨大な広間に幾つも幾つも並べられ、照明弾の光に照らされている。
「これは、ルパンが盗んだ財宝だというのか」
クロウの問いに、クレールはあっさり答える。
「そう、ここにルパンが過去に盗んだ全てがあるわ」
やがて照明弾は床に落ち、再びあたりは闇に閉ざされる。
眩い財宝を見た後では、その闇はハデスの領土より尚昏くあたりを閉ざす。
ぽつりと火が灯り、クレールの姿が闇に浮かび上がった。
彼女が煙草に火を点け、闇の中を少しだけ照らす。
薄い光に照らされたクレールの姿はなぜか幻影のようで、クロウはぞっとした。
「やつは盗んだものをこんなところに無造作に放り出して、どういうつもりだ?」
「さあね。ルパンの気持ちは彼に聞くしかないわね」
クロウは、ため息をつく。
盗んだものを換金しないのであれば、盗む意味がない。
そもそも、ルパンは一体どうやって活動資金を得て、組織を維持していたのだろう。
クロウの想像を、全てが越えている。
クレールは、東洋人がよくみせる曖昧な笑みを浮かべ言った。
「ルパンについて、わたしの想像することを言うことはできるけど。聞きたい?」
クロウは、無言で先を促す。
クレールは、どこか投げやりな調子で言った。
「ルパンは、法や権力なんてものに意味がないということを示したかったんだと思う」
クレールは、クロウが聞いているかどうかを気にせず先を続けた。
「法、権力、国家。それらは弱者や奴隷にこそ相応しい。例えば英雄がひとを殺しても讃えられるけど、奴隷が同じことをすれば撲殺される」
クロウは、苦笑した。
「ラスコーリニコフかよ。やつは英雄きどりなのか?」
「まさか」
クレールは、目を少し細めて煙草の煙を吐き出す。
闇の中を、幽鬼のような紫煙が流れていった。
「彼は、英雄なんて軽蔑してると思うわ。第一彼は、決してひとを殺さなかった」
クロウは、鼻で笑う。
「じゃあ、やつはなんだ」
「知らない」
クレールは、野性の猫みたいに笑う。
「強いて言うなら、泥棒でしょ。ただの、をつけてもいいわ」
クロウは、肩を竦めもうひとつの問いを発する。
「それで、ミハイル・アシュケナージはなんだってここにタワーを建てたんだ。まさか、偶然じゃあないんだろう」
クレールは、闇の中で三日月のように薄く光る目を、上にあげる。
彼女には、見えているようだ。
その先に聳えている、世界一高い塔が。
「もう少しで、判ると思うよ。アシュケナージが天使をここに用意した意味が」
最上階、空中投影ディスプレイがタイマを表示し予定時刻へのカウントダウンを始めていた。
それは既に、残り5分をきっている。
中央には、タワーの立体見取り図がホログラムとして投影されていた。
ガラス細工のように精緻で美しいデジタル立体画像は、建物内の状況が全て異常ないことを示している。
警備員たちは、ショットガン型のテイザーガンを手にして配置についてゆく。
彼らが手にしているのは、高電圧を20秒間放出するカプセルを発射するポンプアクション方式のテイザーガンである。
通常のテイザーガンと違って、連射することができた。
実弾を使用しないのは、最上階にある各種の設備を破壊しないための配慮だろう。
警部はあたりを確認しながら、無意識のうちに煙草を出して咥えていた。
それを見咎めたナオミが、眉間に皺をよせる。
「ここは、禁煙よ。警部」
自分の無意識の動作に気づいた警部は、苦笑する。
「電子煙草ですよ、こいつは。禁煙中でね」
ナオミは、馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
警部は居心地悪そうな顔になり、フェイクの煙を吐き出す。
それをごまかすように、部屋に運び込まれたふたつのジェラルミンでできたコンテナを指差した。
「そいつは、なんですかな」
「ああ」
ジョシュアがなぜかきまりが悪そうな顔になり、口ごもりながら答える。
「まあ、なんていうかね。保険みたいなもんだ。うん、まあ。気にせんでくれ」
タイマのカウントダウンが2分を切っており、警部としてもそんなことを気にしている余裕はない。
ふたつのコンテナのことは忘れ、タワーのホログラムに意識を集中する。
時間がくれば、間違いなくどこかで何かがおきるはずだ。
あたりは空気が結晶化したとでもいうかのように、緊張が支配している。
ちょっとした衝撃で爆発する爆薬を、そばに置いているような気分だ。
警部は、腰のホルスターにつけた拳銃に手をおく。
それは愛用のコルトオートマティックではなく、ここの保安部から渡されたゴム弾を装填したリボルバーであった。
ルパンたちを殺さないためというよりは、ここの設備を傷つけないことを目的としたものと思われる
実戦で役にたちそうもないオモチャのような代物であるが、警部はそれでも銃に手を置くことで微かに心が落ち着くのを感じた。
タイマが、いよいよのこり10秒というところまで、くる。
オペレータが、声をあげた。
「残り十秒を切ります。カウントダウンを開始します。9、8、7」
空気は電気を帯びたように、緊張に満たされている。
ジョシュアは薄く笑っていたが、口の端は少し引きつっていた。
ナオミは、不機嫌そうにカウントダウンされていく空中投影ディスプレイのタイマを見つめている。
「6、5、4」
警部は、ホログラムとして映し出されているタワーの立体映像を凝視している。
異常が発生しそうな動きは、どこにも感じられない。
「3、2、1、0」
カウントダウンが終わり、ディスプレイのタイマがマイナス表示に転化する。
ナオミは、不服そうにため息をついた。
「まさか、何もおこらないなんてことは無いでしょうね」
その言葉を待っていたように、それは起こった。
遠くで微かな爆発音が、聞こえた気がする。
同時に、全ての照明が落ちた。
「全システムが、ダウンしました」
オペレータが、驚きを含んだ声で言う。
全くの闇に閉ざされないのは、ドーム状の天上から差し込む月の光が明るいせいだ。
皮肉なことに、照明が全て落ちることで冴え渡る月の美しさを知ることになった
ジョシュアが、吠えるように言う。
「原因を、報告しろ」
非常電源が入り、鬼火のような赤い照明があちこちに灯る。
闇の中に、幻影のようにコンソールディスプレイの照明が蘇ってゆく。
オペレータは、激しくキーを連打してディスプレイに表示される文字列を読み取っていった。
「海底ケーブルの中継機が、爆破されたようです」
ジョシュアは、鼻で笑う。
「海洋側か?」
「そうです」
「海岸側へ、切り替えろ」
「もうやりました」
オペレータの言葉と同時に、ディスプレイが全て蘇り照明が復活する。
空中投影ディスプレイも生き返って、タワーの見取り図を表示した。
警部は、落ち着いた声でいった。
「どうやら、このタワーと外部のシステムを繋いでいる、海底の光ファイバーケーブルをやられたようですな」
ジョシュアが、吐き捨てるように言った。
「二系統あるケーブルのうち、片方を切られただけだ。何の意味もない」
警部は、言葉を重ねる。
「残りも切断されると、どうなりますか?」
ジョシュアは、苦笑する。
「そうしたって意味は、無い。なんでこのタワーが世界一高いのか、知ってるか?」
警部は、首を振る。
「データ通信を無線で行う際、静止衛星と接続するための巨大なアンテナとして機能するんだよ、この塔は。ケーブルが切断されると無線に切り替わるだけだ」
警部は、ため息をつく。
「はじめから無線にしておけば、いいのでは?」
「コストを考えろよ」
多分その後に悪態が入るはずだったが、オペレータの緊迫した声が遮る。
「システムに、侵入されました」
「なんだと!」
ジョシュアが驚きの声をあげ、ナオミが眉を顰めた。
「海岸側ケーブルの中継器へ、保守端末に偽装した装置が取り付けられています」
「全ケーブルを停止して、無線に切り替えろ」
もう一度、照明が消え闇が訪れる。
今度の闇はさっきのものとは違い、微かな安堵感が含まれる闇だ。
そして再度照明が、蘇る。
警部が落ち着いた調子で、言葉を発する。
「まずは、システムをハックしたということですな、ルパンは」
ジョシュアは、警部を睨みつける。
「1500あるうちのひとつやふたつ、どうということはない」
空中投影ディスプレイに、世界地図が映し出される。
ユーロッパ、北米、中東、北アフリカ、アジア各地、南米、ロシア、オーストラリア。
世界地図にシステムの所在を示す、球体が表示される。
青い球体が空中に浮かぶ中、たったひとつ赤い球体が極東にあった。
それが、汚染されたシステムらしい。
それは凶星の輝きを、放っている。
「汚染システムを駆逐しろ」
「できません」
オペレータが、あせった声で言う。
ジョシュアは、目を剥いた。
「汚染が、拡大します」
オペレータの言葉どおりに、赤い球体が増えてゆく。
地図の上に滴らした血が、瞬く間に広がっていくかのようだ。
燎原が火に飲み込まれる様が、ディスプレイの上に描き出されていく。
赤く染まった各システムを示す球体から、ポップアップで赤い警告メッセージが表示される。
ジョシュアは、呆然としてその様を見つめている。
「馬鹿な」
ジョシュアは、蒼ざめた顔で呟く。
「こんなことが可能なのは、やはり」
オペレータが、叫び声をあげる。
「秒間10システムがクラックされています、駆除が間に合いません」
「外部から切り離して、スタンドアロンモードにしろ」
ジョシュアが鋭く命じ、オペレータはコンソールを操作する。
世界地図が真紅に染まる直前に、再び全ての照明が落ち闇がやってきた。
オペレータが、叫ぶ。
「スタンドアロンモードに、切り替わりました」
再び照明がついてゆくが、完全に復元しているわけではない。
30%くらいの照明は、落ちたままだ。
おそらく、外部システムと切り離された場合、このタワーの機能は完全に作動するわけではないらしい。
もう一度、空中投影ディスプレイが復活し、タワーの見取り図がホログラムとして投射される。
それを見た警部は、鋭い声をあげた。
「おい、エレベータが動いているぞ」
空中に投影された塔の中を、赤い箱が上昇していく。
システムの制御を無視した動きなのか、警告メッセージが幾つも表示されていた。
ジョシュアが、オペレータに命じる。
「制御に介入して、停止させろ」
ホログラムの中の赤い箱は、一旦停止する。
もう最上階の、すぐ手前まできていた。
オペレータが悲鳴に近い声を、あげる。
「コントロールを奪われました、制御できません」
ジョシュアは、舌打ちする。
警部は、声をあげた。
「どのエレベータだ!?」
ジョシュアは、部屋の隅にある円筒形の柱を指さす。
そこにはエレベータのドアがあり、その上部パネルが点滅していた。
ジョシュアは、吹っ切ったような声で叫ぶ。
「どうやらルパンのやつが、お出ましになるらしい。手厚く出迎えろ」
警備員の内、1チーム8名がエレベータの前に集結する。
フェースガードのついたヘルメットに、ボディーアーマーで身を固めショットガン型のテイザーガンを手にした警備員たちは特殊部隊の兵士としての訓練を受けているように見えた。
無駄の無い動きで、エレベータの前を固める。
警備員たちの装備であれば、ハンドガン程度の武装では全く歯がたたないだろうと思われた。
エレベータのチャイムが鳴り、エレベータが最上階に到着したことが判る。
「あなたのシミュレーションは、はずれたというこですかな、リリエンタールさん」
「いや」
苦虫を噛み潰したような顔で、ジョシュアは答える。
「全て、シュミレーションどおりだ」
警部が目を剥くの見ながら、ジョシュアはうんざりしたように言った。
「あまりに突拍子もない結果だったから、どこかに計算ミスがあったのだろうと思っていたが。どうやら全てがシミュレーションのとおりに進んでいる」
二人が言葉を交わし終えるのを待っていたというかのように、ジョシュアの言葉が終わったタイミングでエレベータの扉が開いた。
一瞬、テイザーガンを構えた警備員たちが身じろぎをする。
エレベータの扉は完全に開いたが、そこには誰もいなかった。
ただ、無機質な白い箱が空の中身を晒け出しただけである。
扉の両脇にいたふたりの警備員が、テイザーガンを手にして中を覗き込む。
その時、それは魔法のように出現した。
何もないはずの天井から、ぽとりと黒い球形のものが落ちてくる。
あまりに唐突な出来事であったため、一瞬そこにいたものたちは思考を停止してしまったかのようだ。
ただひとり、ジョシュアだけが事態を認識して叫ぶ。
「さがれ!そいつはスタングレネードだ」
ジョシュアの叫びは、間に合わなかった。
張り詰められていた緊張の糸を散り散りに切り裂く轟音と閃光が、迸しった。
警部は、物理的な衝撃となった轟音で頭の中が真っ白になるのを感じる。
しかし、警部は閃光で隠された向こう側、エレベータの天井から光学迷彩シートがふわりと落ちるのを見た。
吸盤で天井に取り付けたハンドルから手を離し、ひとりのおとこがふわりと床におりる。
テーラードスーツを身につけ、テンガロンハットを頭にのせたそのおとこは、髭をたくわえた顔に笑みを浮かべ二丁の拳銃を抜く。
手にしているのは、S&W・M500である。
武骨で巨大な金属の野獣二頭に、おとこは咆哮をあげさせた。
ガラスのような硬質の照明に満たされていた最上階の空気を、無惨に破壊する轟音が響く。
発射されたのは、十発の50口径マグナム弾であったが高速で連射されたため一回の爆発音に聞こえる。
拳銃弾としては最大最強の銃弾が全て正確に、警備員の心臓がある部分に命中していた。
巨大な鉄槌になぎ倒されたように、警備員たちは床に崩れ落ちている。
ボディアーマーを着ていたとしても、44マグナムの三倍は威力があるとされる50口径弾を受けたのだから肋骨は折れただろう。
おとこたちは、死んでいないが重傷であった。
髭面のおとこはくるりと銃を空中で回転させ、スイングアウトした弾倉から空カートリッジを捨てスピードロッダーで次弾を二丁同時に装填する。
滑らかな動作なので、カンマ4秒程度しかかかっていない。
髭面のおとこは黒豹の身のこなしで、銃をかまえたまま床の上で前転し遮蔽物の影に入り込む。
そのおとこを追って、警備員がテイザーガンを撃ったが電撃カプセルは床に転がるばかりであった。
ジョシュアは凶悪な顔をして、叫ぶ。
「いいぞ、やつを追い詰めた。囲んで三方から同時に襲え!」
その言葉に応えるように、獰猛な銃声が轟く。
50口径マグナムがジョシュアのこめかみを掠め、飛び去る。
ジョシュアは、思わず膝をついていた。
警備兵は一斉にテイザーガンを撃ち、髭の男は再び引っ込む。
警部は、ジョシュアに手を差し伸べる。
「大丈夫か?」
その言葉に、ジョシュアは鼻で笑って答える。
「なるほど、やつらは盗みの時に殺しをしないというは、本当らしい」
差し伸べられた手を無視して、立ち上がると声をあげようとした。
その時叫んだのは、ナオミだ。
「あれを見て」
警部は、後ろを振り向く。
床の一部が、円形に火花をあげる。
金属の獣が唸りをあげるような響きが、空気を震わす。
直径1メートルほどの円形に、床が下へと沈んでゆく。
宇宙に繋がっているように真っ黒な穴が、床に開いた。
ジョシュアは、舌打ちする。
警備兵は、二手に分かれた。
髭面のおとこの牽制に、四人。
そして、穴の周囲を四人が取り囲む。
ふたりの警備員が、テイザーガンを構えて穴を覗き込んだ。
その時一瞬、金属の風が吹く。
閃光は、音より速く見えた。
闇に深紅に染まる血の花弁が、舞い散る。
両の足を膝の下で切断された警備員が、穴の中へ落ちた。
ひとりの警備員を盾にして、刀を持ったおとこが地下から上がってくる。
ふたりの警備員は、反射的にテイザーガンを撃ったがそれは足を失った警備員に命中したにすぎない。
足を無くしたそのおとこは電撃を受け、激しく痙攣する。
狂気の舞踏を踊るそのおとこを捨て、刀を手にしたおとこは床を這うように低く走った。
居合道着の上に、革のボディアーマーを羽織ったおとこは長剣を後ろ手にし警備員たちにせまる。
テイザーガンを撃つには、間合いが近すぎた。
警備員は剣を避けるため、銃を目の前にかざす。
無言の気合いが迸り、雷撃の激しさを持った刀が振り下ろされた。
鋼の銃身を持つテイザーガンが両断され、警備員の腕が肩から斬り落とされる。
信じられぬものを見る目で、警備員は自分の肩から迸る血を見つめていた。
金属の輝きを持つ血が、床を深紅に染め上げてゆく。
残った警備員がテイザーガンを撃ったが、それは居合道着のおとこの頭上を通りすぎた。
血に染まる床へ身を投げるようにしたおとこは、刀を一閃させる。
足を両断されたおとこは、血の海へ沈む。
手足が飛び散る惨状となったが、それでも誰も死んではいない。
どのおとこも手当てがはやければ、助かる傷であった。
警部は、ほとんど反射的といってもいい動作で腰から拳銃を抜き撃つ。
居合道着のおとこは刀を一振りし、ゴム弾を空中で斬り落とす。
居合道着のおとこは、つまらなそうな笑みを警部に投げ掛ける。
くだらないものを斬らすなと、いわんばかりだ。
リボルバーを手にした警部は、思わず苦笑した。
居合道着のおとこは後ろに跳躍し、その足元で電撃カプセルが跳ねる。
火花が床を這う電光の蛇となって、走った。
瞬く間に十六人いた警備員は、四人に減っている。
残った警備員は、ジョシュアとナオミを守るように体勢をとった。
いつの間にか、追い詰められている。
ジョシュアは、薄く笑う。
「ハイス鋼の剣に、大口径リボルバーか。ルパンとは、意外とマッチョな盗人だ。ガンマンにサムライなら、ハリウッドがスカウトにくるぜ」
警部は、じろりとジョシュアを見る。
「余裕ですな」
「まあ、残念ながら全て予定通りだからな」
ジョシュアは、後ろにいるナオミに叫ぶ。
「ブラックマジックを発動する」
ナオミは頷くと、床に置いたふたつのジュラルミンケースに指を置く。
指紋認証が作動し、その大きなケースが開いた。
その中から姿を現したものに、警部は息をのむ。
夜の闇を纏った少女たちが、月明かりの下に立つ。
アンティークドールのドレスを思わせるレースをふんだんに使ったメイド服を着て、月光が凝縮したような純白のエプロンをつけ、ビクトリア朝の貴婦人ふうのお辞儀をする。
警部は、呻くように呟いた。
「メイド型局地戦用アンドロイドMDシリーズか。まさか実在するとは」
ジョシュアは、薄く笑う。
「ロスチャイルドが、崩壊寸前のDPRKから買い取ったものだ。こいつは独立したAIを持つため、自律行動ができる」
ジョシュアは挑むように、ガンマンとサムライを睨むと叫ぶ。
「局地戦Aモードだ、MD5、MD6。ガンマンとサムライを生きたままとらえろ!」
ふたりのゴシックロリータ風ドレスを纏った少女は、スカートの裾を掴み優雅にお辞儀する。
そしてレースに飾られたアンティークなスカートの下から、二丁のテイザーガンを取り出す。
警備員のものとは違って、レバーアクション式である。
銃把の下に、給弾用レバーがついていた。
二丁の銃を手にした少女型アンドロイドは、漆黒の風となりルパン一味に襲いかかる。
それは、無造作といってもいい突撃であった。
髭面のおとこは獰猛な笑みを浮かべ、S&W・M500に死の咆哮をあげさせる。
50口径マグナムという凶悪な銃弾が、アンドロイドを貫いたかのように見えた。
しかしその瞬間、陽炎に包まれたように少女の姿が霞む。
髭面のガンマンは、舌打ちする。
そのメイド服は、光学迷彩の機能を持っていた。
銃弾が貫いたのは、残像に過ぎない。
メイド型アンドロイドは、三つの残像を生じさせていた。
黄昏を行き交う幽鬼の姿となったアンドロイドは、三方向から髭面のガンマンを襲う。
三つの幻は、同時にテイザーガンを撃つ。
六丁のテイザーガンが、同時に電撃カプセルを発射したように見えた。
三体の分身となったメイド型アンドロイドは、それぞれ二丁のテイザーガンをくるりと回転させ次弾を給弾する。
実際にガンマンを襲ったのは、二発の電撃カプセルであった。
死角を突くように左下から襲いかかる電撃カプセルを、ガンマンは目にたよらず気配だけで捕らえM500を撃つ。
二発の電撃カプセルは、空中で撃ち落とされた。
同時にガンマンはメイド型アンドロイドの位置を気配で掴んだらしく、瞳を閉ざし何もない空間めがけ二丁のハンドガンを撃つ。
世界の終わりを告げる鐘のような轟音が轟き、虚空からメイド型アンドロイドが出現した。
胸に大きな穴が空き、膝をついて動きを止める。
そのまま完全に停止するかに見えたアンドロイドは突然顔を上げ、何かを叫ぶように口をあけた。
球状の何かが発射され、瞳を閉じたガンマンの上で炸裂する。
アラミド繊維のネットがふわりと、ガンマンの身体を覆った。
ネットには形状記憶合金が編み込まれているらしく、生き物のようにガンマンの身体へ絡みついてゆく。
ネットは、髭面のガンマンを包み込んでその身体から自由を奪う。
一方、居合道着のサムライのほうへも、メイド型アンドロイドは襲いかかっていた。
真夏の光に浮かび上がる陽炎のような幻影となった、三つの残像がサムライを囲む。
サムライは、目を閉じその剣を腰で構える。
残像は同時に二発の電撃カプセルを、放った。
サムライは気配だけで剣をふるい、二発の電撃カプセルを切断し床に落とす。
電撃カプセルは蒼白い火花をあげながら、床を跳ねる。
メイド型アンドロイドは、虚空から浮き上がるようにサムライの背後に出現した。
手にしたナイフをサムライに向かって、振り下ろす。
ナイフは、亜音速となり空気を切り裂いてサムライに襲いかかる。
サムライは、無言のまま裂帛の気合を放ちハイス鋼の剣を車に回す。
全く背後を見ないまま、気配めがけて剣を振るっている。
雷光が空気を切り裂くように、剣はメイド型アンドロイドの腕にくい込んだ。
金属が軋む音が響き、メイド型アンドロイドのナイフを持った手が切り飛ばされる。
しかし、斬り飛ばされたアンドロイドの腕からは、樹脂状のものが吹き出す。
それは粘性を持ち、かつ強靭な弾力も兼ね備えているらしくハイス鋼の剣を搦め捕った。
剣の動きを封じられつつも、サムライは強引に剣の軌道をかえてメイド型アンドロイドの顔面に切っ先を突き立てる。
アンティークドールのように整って美しい顔を、ハイス鋼の刀が切り裂いた。
アンドロイドの顔面が断ち割られるのと同時に、アラミド繊維のネットがアンドロイドの口から放出される。
サムライが後ろに避けようとする前に、ネットは彼の自由を奪う。
こちらネットも、意志のある生き物の動きをしてサムライに絡みつく。
僅か数分の間に、ガンマンとサムライは見事に捕らえられた。
それは既に、残り5分をきっている。
中央には、タワーの立体見取り図がホログラムとして投影されていた。
ガラス細工のように精緻で美しいデジタル立体画像は、建物内の状況が全て異常ないことを示している。
警備員たちは、ショットガン型のテイザーガンを手にして配置についてゆく。
彼らが手にしているのは、高電圧を20秒間放出するカプセルを発射するポンプアクション方式のテイザーガンである。
通常のテイザーガンと違って、連射することができた。
実弾を使用しないのは、最上階にある各種の設備を破壊しないための配慮だろう。
警部はあたりを確認しながら、無意識のうちに煙草を出して咥えていた。
それを見咎めたナオミが、眉間に皺をよせる。
「ここは、禁煙よ。警部」
自分の無意識の動作に気づいた警部は、苦笑する。
「電子煙草ですよ、こいつは。禁煙中でね」
ナオミは、馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
警部は居心地悪そうな顔になり、フェイクの煙を吐き出す。
それをごまかすように、部屋に運び込まれたふたつのジェラルミンでできたコンテナを指差した。
「そいつは、なんですかな」
「ああ」
ジョシュアがなぜかきまりが悪そうな顔になり、口ごもりながら答える。
「まあ、なんていうかね。保険みたいなもんだ。うん、まあ。気にせんでくれ」
タイマのカウントダウンが2分を切っており、警部としてもそんなことを気にしている余裕はない。
ふたつのコンテナのことは忘れ、タワーのホログラムに意識を集中する。
時間がくれば、間違いなくどこかで何かがおきるはずだ。
あたりは空気が結晶化したとでもいうかのように、緊張が支配している。
ちょっとした衝撃で爆発する爆薬を、そばに置いているような気分だ。
警部は、腰のホルスターにつけた拳銃に手をおく。
それは愛用のコルトオートマティックではなく、ここの保安部から渡されたゴム弾を装填したリボルバーであった。
ルパンたちを殺さないためというよりは、ここの設備を傷つけないことを目的としたものと思われる
実戦で役にたちそうもないオモチャのような代物であるが、警部はそれでも銃に手を置くことで微かに心が落ち着くのを感じた。
タイマが、いよいよのこり10秒というところまで、くる。
オペレータが、声をあげた。
「残り十秒を切ります。カウントダウンを開始します。9、8、7」
空気は電気を帯びたように、緊張に満たされている。
ジョシュアは薄く笑っていたが、口の端は少し引きつっていた。
ナオミは、不機嫌そうにカウントダウンされていく空中投影ディスプレイのタイマを見つめている。
「6、5、4」
警部は、ホログラムとして映し出されているタワーの立体映像を凝視している。
異常が発生しそうな動きは、どこにも感じられない。
「3、2、1、0」
カウントダウンが終わり、ディスプレイのタイマがマイナス表示に転化する。
ナオミは、不服そうにため息をついた。
「まさか、何もおこらないなんてことは無いでしょうね」
その言葉を待っていたように、それは起こった。
遠くで微かな爆発音が、聞こえた気がする。
同時に、全ての照明が落ちた。
「全システムが、ダウンしました」
オペレータが、驚きを含んだ声で言う。
全くの闇に閉ざされないのは、ドーム状の天上から差し込む月の光が明るいせいだ。
皮肉なことに、照明が全て落ちることで冴え渡る月の美しさを知ることになった
ジョシュアが、吠えるように言う。
「原因を、報告しろ」
非常電源が入り、鬼火のような赤い照明があちこちに灯る。
闇の中に、幻影のようにコンソールディスプレイの照明が蘇ってゆく。
オペレータは、激しくキーを連打してディスプレイに表示される文字列を読み取っていった。
「海底ケーブルの中継機が、爆破されたようです」
ジョシュアは、鼻で笑う。
「海洋側か?」
「そうです」
「海岸側へ、切り替えろ」
「もうやりました」
オペレータの言葉と同時に、ディスプレイが全て蘇り照明が復活する。
空中投影ディスプレイも生き返って、タワーの見取り図を表示した。
警部は、落ち着いた声でいった。
「どうやら、このタワーと外部のシステムを繋いでいる、海底の光ファイバーケーブルをやられたようですな」
ジョシュアが、吐き捨てるように言った。
「二系統あるケーブルのうち、片方を切られただけだ。何の意味もない」
警部は、言葉を重ねる。
「残りも切断されると、どうなりますか?」
ジョシュアは、苦笑する。
「そうしたって意味は、無い。なんでこのタワーが世界一高いのか、知ってるか?」
警部は、首を振る。
「データ通信を無線で行う際、静止衛星と接続するための巨大なアンテナとして機能するんだよ、この塔は。ケーブルが切断されると無線に切り替わるだけだ」
警部は、ため息をつく。
「はじめから無線にしておけば、いいのでは?」
「コストを考えろよ」
多分その後に悪態が入るはずだったが、オペレータの緊迫した声が遮る。
「システムに、侵入されました」
「なんだと!」
ジョシュアが驚きの声をあげ、ナオミが眉を顰めた。
「海岸側ケーブルの中継器へ、保守端末に偽装した装置が取り付けられています」
「全ケーブルを停止して、無線に切り替えろ」
もう一度、照明が消え闇が訪れる。
今度の闇はさっきのものとは違い、微かな安堵感が含まれる闇だ。
そして再度照明が、蘇る。
警部が落ち着いた調子で、言葉を発する。
「まずは、システムをハックしたということですな、ルパンは」
ジョシュアは、警部を睨みつける。
「1500あるうちのひとつやふたつ、どうということはない」
空中投影ディスプレイに、世界地図が映し出される。
ユーロッパ、北米、中東、北アフリカ、アジア各地、南米、ロシア、オーストラリア。
世界地図にシステムの所在を示す、球体が表示される。
青い球体が空中に浮かぶ中、たったひとつ赤い球体が極東にあった。
それが、汚染されたシステムらしい。
それは凶星の輝きを、放っている。
「汚染システムを駆逐しろ」
「できません」
オペレータが、あせった声で言う。
ジョシュアは、目を剥いた。
「汚染が、拡大します」
オペレータの言葉どおりに、赤い球体が増えてゆく。
地図の上に滴らした血が、瞬く間に広がっていくかのようだ。
燎原が火に飲み込まれる様が、ディスプレイの上に描き出されていく。
赤く染まった各システムを示す球体から、ポップアップで赤い警告メッセージが表示される。
ジョシュアは、呆然としてその様を見つめている。
「馬鹿な」
ジョシュアは、蒼ざめた顔で呟く。
「こんなことが可能なのは、やはり」
オペレータが、叫び声をあげる。
「秒間10システムがクラックされています、駆除が間に合いません」
「外部から切り離して、スタンドアロンモードにしろ」
ジョシュアが鋭く命じ、オペレータはコンソールを操作する。
世界地図が真紅に染まる直前に、再び全ての照明が落ち闇がやってきた。
オペレータが、叫ぶ。
「スタンドアロンモードに、切り替わりました」
再び照明がついてゆくが、完全に復元しているわけではない。
30%くらいの照明は、落ちたままだ。
おそらく、外部システムと切り離された場合、このタワーの機能は完全に作動するわけではないらしい。
もう一度、空中投影ディスプレイが復活し、タワーの見取り図がホログラムとして投射される。
それを見た警部は、鋭い声をあげた。
「おい、エレベータが動いているぞ」
空中に投影された塔の中を、赤い箱が上昇していく。
システムの制御を無視した動きなのか、警告メッセージが幾つも表示されていた。
ジョシュアが、オペレータに命じる。
「制御に介入して、停止させろ」
ホログラムの中の赤い箱は、一旦停止する。
もう最上階の、すぐ手前まできていた。
オペレータが悲鳴に近い声を、あげる。
「コントロールを奪われました、制御できません」
ジョシュアは、舌打ちする。
警部は、声をあげた。
「どのエレベータだ!?」
ジョシュアは、部屋の隅にある円筒形の柱を指さす。
そこにはエレベータのドアがあり、その上部パネルが点滅していた。
ジョシュアは、吹っ切ったような声で叫ぶ。
「どうやらルパンのやつが、お出ましになるらしい。手厚く出迎えろ」
警備員の内、1チーム8名がエレベータの前に集結する。
フェースガードのついたヘルメットに、ボディーアーマーで身を固めショットガン型のテイザーガンを手にした警備員たちは特殊部隊の兵士としての訓練を受けているように見えた。
無駄の無い動きで、エレベータの前を固める。
警備員たちの装備であれば、ハンドガン程度の武装では全く歯がたたないだろうと思われた。
エレベータのチャイムが鳴り、エレベータが最上階に到着したことが判る。
「あなたのシミュレーションは、はずれたというこですかな、リリエンタールさん」
「いや」
苦虫を噛み潰したような顔で、ジョシュアは答える。
「全て、シュミレーションどおりだ」
警部が目を剥くの見ながら、ジョシュアはうんざりしたように言った。
「あまりに突拍子もない結果だったから、どこかに計算ミスがあったのだろうと思っていたが。どうやら全てがシミュレーションのとおりに進んでいる」
二人が言葉を交わし終えるのを待っていたというかのように、ジョシュアの言葉が終わったタイミングでエレベータの扉が開いた。
一瞬、テイザーガンを構えた警備員たちが身じろぎをする。
エレベータの扉は完全に開いたが、そこには誰もいなかった。
ただ、無機質な白い箱が空の中身を晒け出しただけである。
扉の両脇にいたふたりの警備員が、テイザーガンを手にして中を覗き込む。
その時、それは魔法のように出現した。
何もないはずの天井から、ぽとりと黒い球形のものが落ちてくる。
あまりに唐突な出来事であったため、一瞬そこにいたものたちは思考を停止してしまったかのようだ。
ただひとり、ジョシュアだけが事態を認識して叫ぶ。
「さがれ!そいつはスタングレネードだ」
ジョシュアの叫びは、間に合わなかった。
張り詰められていた緊張の糸を散り散りに切り裂く轟音と閃光が、迸しった。
警部は、物理的な衝撃となった轟音で頭の中が真っ白になるのを感じる。
しかし、警部は閃光で隠された向こう側、エレベータの天井から光学迷彩シートがふわりと落ちるのを見た。
吸盤で天井に取り付けたハンドルから手を離し、ひとりのおとこがふわりと床におりる。
テーラードスーツを身につけ、テンガロンハットを頭にのせたそのおとこは、髭をたくわえた顔に笑みを浮かべ二丁の拳銃を抜く。
手にしているのは、S&W・M500である。
武骨で巨大な金属の野獣二頭に、おとこは咆哮をあげさせた。
ガラスのような硬質の照明に満たされていた最上階の空気を、無惨に破壊する轟音が響く。
発射されたのは、十発の50口径マグナム弾であったが高速で連射されたため一回の爆発音に聞こえる。
拳銃弾としては最大最強の銃弾が全て正確に、警備員の心臓がある部分に命中していた。
巨大な鉄槌になぎ倒されたように、警備員たちは床に崩れ落ちている。
ボディアーマーを着ていたとしても、44マグナムの三倍は威力があるとされる50口径弾を受けたのだから肋骨は折れただろう。
おとこたちは、死んでいないが重傷であった。
髭面のおとこはくるりと銃を空中で回転させ、スイングアウトした弾倉から空カートリッジを捨てスピードロッダーで次弾を二丁同時に装填する。
滑らかな動作なので、カンマ4秒程度しかかかっていない。
髭面のおとこは黒豹の身のこなしで、銃をかまえたまま床の上で前転し遮蔽物の影に入り込む。
そのおとこを追って、警備員がテイザーガンを撃ったが電撃カプセルは床に転がるばかりであった。
ジョシュアは凶悪な顔をして、叫ぶ。
「いいぞ、やつを追い詰めた。囲んで三方から同時に襲え!」
その言葉に応えるように、獰猛な銃声が轟く。
50口径マグナムがジョシュアのこめかみを掠め、飛び去る。
ジョシュアは、思わず膝をついていた。
警備兵は一斉にテイザーガンを撃ち、髭の男は再び引っ込む。
警部は、ジョシュアに手を差し伸べる。
「大丈夫か?」
その言葉に、ジョシュアは鼻で笑って答える。
「なるほど、やつらは盗みの時に殺しをしないというは、本当らしい」
差し伸べられた手を無視して、立ち上がると声をあげようとした。
その時叫んだのは、ナオミだ。
「あれを見て」
警部は、後ろを振り向く。
床の一部が、円形に火花をあげる。
金属の獣が唸りをあげるような響きが、空気を震わす。
直径1メートルほどの円形に、床が下へと沈んでゆく。
宇宙に繋がっているように真っ黒な穴が、床に開いた。
ジョシュアは、舌打ちする。
警備兵は、二手に分かれた。
髭面のおとこの牽制に、四人。
そして、穴の周囲を四人が取り囲む。
ふたりの警備員が、テイザーガンを構えて穴を覗き込んだ。
その時一瞬、金属の風が吹く。
閃光は、音より速く見えた。
闇に深紅に染まる血の花弁が、舞い散る。
両の足を膝の下で切断された警備員が、穴の中へ落ちた。
ひとりの警備員を盾にして、刀を持ったおとこが地下から上がってくる。
ふたりの警備員は、反射的にテイザーガンを撃ったがそれは足を失った警備員に命中したにすぎない。
足を無くしたそのおとこは電撃を受け、激しく痙攣する。
狂気の舞踏を踊るそのおとこを捨て、刀を手にしたおとこは床を這うように低く走った。
居合道着の上に、革のボディアーマーを羽織ったおとこは長剣を後ろ手にし警備員たちにせまる。
テイザーガンを撃つには、間合いが近すぎた。
警備員は剣を避けるため、銃を目の前にかざす。
無言の気合いが迸り、雷撃の激しさを持った刀が振り下ろされた。
鋼の銃身を持つテイザーガンが両断され、警備員の腕が肩から斬り落とされる。
信じられぬものを見る目で、警備員は自分の肩から迸る血を見つめていた。
金属の輝きを持つ血が、床を深紅に染め上げてゆく。
残った警備員がテイザーガンを撃ったが、それは居合道着のおとこの頭上を通りすぎた。
血に染まる床へ身を投げるようにしたおとこは、刀を一閃させる。
足を両断されたおとこは、血の海へ沈む。
手足が飛び散る惨状となったが、それでも誰も死んではいない。
どのおとこも手当てがはやければ、助かる傷であった。
警部は、ほとんど反射的といってもいい動作で腰から拳銃を抜き撃つ。
居合道着のおとこは刀を一振りし、ゴム弾を空中で斬り落とす。
居合道着のおとこは、つまらなそうな笑みを警部に投げ掛ける。
くだらないものを斬らすなと、いわんばかりだ。
リボルバーを手にした警部は、思わず苦笑した。
居合道着のおとこは後ろに跳躍し、その足元で電撃カプセルが跳ねる。
火花が床を這う電光の蛇となって、走った。
瞬く間に十六人いた警備員は、四人に減っている。
残った警備員は、ジョシュアとナオミを守るように体勢をとった。
いつの間にか、追い詰められている。
ジョシュアは、薄く笑う。
「ハイス鋼の剣に、大口径リボルバーか。ルパンとは、意外とマッチョな盗人だ。ガンマンにサムライなら、ハリウッドがスカウトにくるぜ」
警部は、じろりとジョシュアを見る。
「余裕ですな」
「まあ、残念ながら全て予定通りだからな」
ジョシュアは、後ろにいるナオミに叫ぶ。
「ブラックマジックを発動する」
ナオミは頷くと、床に置いたふたつのジュラルミンケースに指を置く。
指紋認証が作動し、その大きなケースが開いた。
その中から姿を現したものに、警部は息をのむ。
夜の闇を纏った少女たちが、月明かりの下に立つ。
アンティークドールのドレスを思わせるレースをふんだんに使ったメイド服を着て、月光が凝縮したような純白のエプロンをつけ、ビクトリア朝の貴婦人ふうのお辞儀をする。
警部は、呻くように呟いた。
「メイド型局地戦用アンドロイドMDシリーズか。まさか実在するとは」
ジョシュアは、薄く笑う。
「ロスチャイルドが、崩壊寸前のDPRKから買い取ったものだ。こいつは独立したAIを持つため、自律行動ができる」
ジョシュアは挑むように、ガンマンとサムライを睨むと叫ぶ。
「局地戦Aモードだ、MD5、MD6。ガンマンとサムライを生きたままとらえろ!」
ふたりのゴシックロリータ風ドレスを纏った少女は、スカートの裾を掴み優雅にお辞儀する。
そしてレースに飾られたアンティークなスカートの下から、二丁のテイザーガンを取り出す。
警備員のものとは違って、レバーアクション式である。
銃把の下に、給弾用レバーがついていた。
二丁の銃を手にした少女型アンドロイドは、漆黒の風となりルパン一味に襲いかかる。
それは、無造作といってもいい突撃であった。
髭面のおとこは獰猛な笑みを浮かべ、S&W・M500に死の咆哮をあげさせる。
50口径マグナムという凶悪な銃弾が、アンドロイドを貫いたかのように見えた。
しかしその瞬間、陽炎に包まれたように少女の姿が霞む。
髭面のガンマンは、舌打ちする。
そのメイド服は、光学迷彩の機能を持っていた。
銃弾が貫いたのは、残像に過ぎない。
メイド型アンドロイドは、三つの残像を生じさせていた。
黄昏を行き交う幽鬼の姿となったアンドロイドは、三方向から髭面のガンマンを襲う。
三つの幻は、同時にテイザーガンを撃つ。
六丁のテイザーガンが、同時に電撃カプセルを発射したように見えた。
三体の分身となったメイド型アンドロイドは、それぞれ二丁のテイザーガンをくるりと回転させ次弾を給弾する。
実際にガンマンを襲ったのは、二発の電撃カプセルであった。
死角を突くように左下から襲いかかる電撃カプセルを、ガンマンは目にたよらず気配だけで捕らえM500を撃つ。
二発の電撃カプセルは、空中で撃ち落とされた。
同時にガンマンはメイド型アンドロイドの位置を気配で掴んだらしく、瞳を閉ざし何もない空間めがけ二丁のハンドガンを撃つ。
世界の終わりを告げる鐘のような轟音が轟き、虚空からメイド型アンドロイドが出現した。
胸に大きな穴が空き、膝をついて動きを止める。
そのまま完全に停止するかに見えたアンドロイドは突然顔を上げ、何かを叫ぶように口をあけた。
球状の何かが発射され、瞳を閉じたガンマンの上で炸裂する。
アラミド繊維のネットがふわりと、ガンマンの身体を覆った。
ネットには形状記憶合金が編み込まれているらしく、生き物のようにガンマンの身体へ絡みついてゆく。
ネットは、髭面のガンマンを包み込んでその身体から自由を奪う。
一方、居合道着のサムライのほうへも、メイド型アンドロイドは襲いかかっていた。
真夏の光に浮かび上がる陽炎のような幻影となった、三つの残像がサムライを囲む。
サムライは、目を閉じその剣を腰で構える。
残像は同時に二発の電撃カプセルを、放った。
サムライは気配だけで剣をふるい、二発の電撃カプセルを切断し床に落とす。
電撃カプセルは蒼白い火花をあげながら、床を跳ねる。
メイド型アンドロイドは、虚空から浮き上がるようにサムライの背後に出現した。
手にしたナイフをサムライに向かって、振り下ろす。
ナイフは、亜音速となり空気を切り裂いてサムライに襲いかかる。
サムライは、無言のまま裂帛の気合を放ちハイス鋼の剣を車に回す。
全く背後を見ないまま、気配めがけて剣を振るっている。
雷光が空気を切り裂くように、剣はメイド型アンドロイドの腕にくい込んだ。
金属が軋む音が響き、メイド型アンドロイドのナイフを持った手が切り飛ばされる。
しかし、斬り飛ばされたアンドロイドの腕からは、樹脂状のものが吹き出す。
それは粘性を持ち、かつ強靭な弾力も兼ね備えているらしくハイス鋼の剣を搦め捕った。
剣の動きを封じられつつも、サムライは強引に剣の軌道をかえてメイド型アンドロイドの顔面に切っ先を突き立てる。
アンティークドールのように整って美しい顔を、ハイス鋼の刀が切り裂いた。
アンドロイドの顔面が断ち割られるのと同時に、アラミド繊維のネットがアンドロイドの口から放出される。
サムライが後ろに避けようとする前に、ネットは彼の自由を奪う。
こちらネットも、意志のある生き物の動きをしてサムライに絡みつく。
僅か数分の間に、ガンマンとサムライは見事に捕らえられた。
静寂が戻った塔の最上階を、警部はゆっくり歩いて行く。
黄昏の薄暗さを持つその部屋で、警部はガンマンとサムライの間に立った。
そして、ナオミとジョシュアのほうを向く。
「約束通り、813号の身柄はいただけるのでしょうな」
ナオミは、薄く笑って答えた。
「手続きは、必要ね。第一そのテロリストがルパン一味であるか、確認できてないじゃない」
一瞬、警部の表情が冷たい炎の包まれたように見える。
ナオミは、黙って肩を竦めた。
警部は、髭面のガンマンに目を向ける。
「とりあえず、名乗ってみてはどうかね。それとも無言のまま、テロリストとして扱われてみるか?」
ガンマンは失笑しながら、皮肉な調子で応える。
「名を問うなら、あんたがまず名乗ってみたらどうだい」
意外にも、極東の島国で使われる公用語でガンマンは言った。
警部は懐から写真付きIDカードを取りだし、ガンマンに向ける。
「ICPOの明神下だ。逮捕権はないが、おまえたちを取り調べる権利はある」
ガンマンは、口を歪めて笑う。
「オーケー・ドーキー、明神下の旦那。おれはジム・バーネット。それとそっちのサムライが」
バーネットと名乗ったガンマンは、居合道着のサムライを見る。
「相棒のベシュだ」
ジョシュアは、大笑いする。
「おいおい、それじゃあそこのサムライはインスペクター・ミョウジンシタと同業者かね」
警部は、苦虫を噛み潰したような顔になり質問を発する。
「じゃあおまえが、怪盗ルパンでいいんだな。バーネット」
ガンマンは、笑う。
それはどこか、笑いの仮面をつけているように見える。
「その問いへの答えは、イエスでありノーだ」
警部は、目をすっと細める。
「真面目に答えないのなら、取り調べは終わりだ。テロリストとして人権無視の拷問を、ロスチャイルドにしてもらえ」
「ひとぎきの悪いこと、いわないでよ」
ナオミの虚しく響く抗議は、無視された。
作り物の笑いを貼り付けたまま、ガンマンは言う。
「まあ、かっかするなよ、旦那。話しはするけれど、とりあえず一服させてくれないか?」
警部は、煙草をガンマンの口にくわえさせる。
ジポーのライターを取り出すと、火をつけた。
「ちょっと、勝手なことをして」
ナオミの抗議は、今度も虚しく響いただけだった。
ガンマンは、肘から先は自由になっている左手で煙草を手にすると、紫煙を吐き出す。
そして、言った。
「まず、ルパンに会わせやるよ」
「ほう」
警部は、すっと目を細める。
そして、ガンマンが目でサムライに合図を送っているのに気がついた。
後ろを振り向き、サムライを見る。
サムライは頷くと、唯一自由に動かせる左手の肘から先の部分を使って首の下の皮膚をめくりあげてゆく。
それは皮膚ではなく、どうやらシリコン製のマスクであるようだ。
顔の皮膚を剥ぎ取るように、サムライはあっさりシリコン製マスクを脱ぎさる。
その下に現れたのは、異相のおとこであった。
痩せた、おとこである。
若いといえば若く見えるが、年老いているといえばそうとも見えた。
精悍な姿のようであり、飄々としているようでもある。
とらえどころがないようで、しかしその表情はなぜか強烈な力で目に焼き付けられた。
ふと目をはずしたら忘れてしまいそうな顔形なのに、強いエネルギーを感じる。
「よお、お集まりの皆さん。ざまあない姿で面目ないが」
おとこは、大きく笑う。
その表情は、どこか見るものをひきつける魅力に溢れたものであったが。
同時に、たとえようの無い不安な気持ちを引き起こすような、歪さを秘めている気もする。
「お察しのとおり、おれがルパンだ」
警部は鋭い目で、ルパンと名乗ったおとこを見つめる。
これほど強烈なエネルギーを放つおとこなのに、いや、そうであるがゆえに奇妙なフェイク感がつきまとう。
「まあ、本当はそこの」
ルパンは、すっと目線を頭上にあげる。
そこには、天使の化石を納めた石の卵があった。
「天使をいただく時に、登場するつもりだったんだがなあ。全く、ここが年貢の納め時ってやつかね」
ルパンは、高らかに笑う。
演じているとは思えないような、感情が溢れ出てくるような笑い。
しかし、警部にはそれらが全てリアルなものとは思えなかった。
「まあ、そんなところでいいかな」
ガンマンが独り言のように、ぽつりと言った。
ルパンはその声を聞いたのか、もう一度首のところから皮膚をめくり出す。
警部は、目を剥いてその様を見た。
変装の下は、また変装である。
ルパンの顔をしたシリコン製マスクが剥ぎ取られ、もう一度サムライの顔が姿を現した。
あたかも燦々と照りつけていた太陽が分厚い雲に隠されたかのごとく、強烈な人格が放射していたエナジーが消え去っている。
警部は、まじまじとサムライの顔を見た。
このおとこが、さっきのルパンを演じていたとはとうてい思えない。
全くの、別人に見える。
それは顔形の問題ではなく、内面から放出される人格の力が違うというべきだろうか。
サムライは、口を歪めて笑って見せた。
嘲笑うように、あるいは笑いの仮面を貼り付けたように。
警部は、こころの中で呟く。
(こいつらはまるで、ひとを演じるロボットのようだ)
「まあ、大体判ったと思うんだが」
ガンマンは、ほぼ灰になった煙草を名残惜しそうに床に捨てて言った。
「おれたちは、自分自身に人格制御モジュールを埋め込んでる」
警部は、呻き声をあげる。
「なんだ、そいつは」
「脳内にナノマシンを注入して、シノプシスの発火パターンをコントロールすることで人格をつくりあげることができるんだ」
ガンマンは、少し陽気な調子を装って言葉を続ける。
「その人格制御モジュールによって作り出される架空の人格、それがルパンだ。今回のようにおれたちのどちらかがルパンになることもあれば、もうひとり雇うこともある」
警部は、もの思いにふける顔になった。
そして、問いを発する。
「そのモジュールは、多分ネットワークに繋がってるんだろう」
ガンマンは、乾いた笑い声をあげる。
「正解だ」
「そしてそれは、システムに制御されている」
ガンマンは、にっと笑い髭面を歪める。
「中々冴えてるな、明神下の旦那」
「ようするにルパンとはネットワークに存在する、システムなんだろう。問題はそのシステムが、なんという名であるかだ」
ガンマンは、目をすっと細めて口を皮肉に歪めた。
「そいつは聞かないほうがいいぜ、旦那」
「なぜだ」
ガンマンは、暗く目を光らせる。
「ICPOだからロスチャイルドが手出ししないと思ってるなら、大間違いだぜ」
ジョシュアが、笑い声をあげる。
「おいおい、おれたちはそこまで悪党じゃあない。なあ、ナオミ」
ナオミは憮然とした顔になり、肩を竦める。
「第一インスペクターも、気がついてるだろう。ルパンとはバビロンシステムであると」
世界一高いその搭を支配するシステムが、そもそもルパンであった。
その事実に、最上階にある部屋の空気が凍り付く。
警部は、ジョシュアに向き直る。
「あんたらは、そのことを知っていたのか?」
「まあ、シミュレーションの結果は確かにその事実をしめしていたがね」
ジョシュアは、肩を竦める。
「何かの間違いだと思ってたよ、ついさっきまで」
警部は、ガンマンに向き直る。
「では、ルパンを作ったのはミハイル・アシュケナージなのか?」
「違うね。やつは買ったんだよ」
警部の眉が、つり上がった。
「誰からだ?」
「昔、おれたちの仲間だったおとこ。ラウール・ダンドレジーさ」
ガンマンは、少し遠くを見るめになった。
「ラウールの話をしようか、旦那」
警部は、目で先をうながす。
ガンマンは、静かに頷いた。
「旧ユーゴスラビア。おれとそこの相棒は、傭兵としてそこにいた。おれたちがラウールと会ったのは、そこでだ。やつは兵士でもジャーナリストでもなかったが、なぜか戦場にいたんだ」
ガンマンは、楽しげな笑みを浮かべ語る。
「陽気なおとこであり、誰とでも仲良くなった。おれたちはよく一緒に、酒を酌みかわしたもんだ。やつは古いピカレスク小説の主人公と同じ名前だったから、おれたちは冗談半分でやつをルパンと呼んでいた。まあ、やつは前世紀の物語に登場する人物はいやだったらしく、せめて三世にしてくれといってたがね」
ガンマンは、少し笑った。
警部は、沈黙したままだ。
相変わらず、獲物を狙う猟犬の目でガンマンたちを見ている。
ガンマンはその眼差しを気にした風もなく、昔語りを続けた。
「そもそもなぜやつは、戦場になんかいたのか。やつは探していたんだ」
そして、ふっと視線を上にあげる。
そこには、卵の形をした石があった。
警部は、唸るように言う。
「天使の化石を、探していたということか」
「はっきりとそう聞いたわけじゃあないが、おそらくはな。やつは、深入りしすぎた。そして、姿を消したんだ」
警部は、口を歪める。
「消されたという、わけか」
ガンマンは、首をふる。
「さあな、真相はしらないがね。おれたちは偶然、変わり果てた姿になったラウールを見つけた。やつは拷問によって破壊されていたんだ。手足を動かすことも、ろくに口をきくこともできなくなっていた。たまたま契約の切れたおれたちは、やつをつれて戦場から離れヨーロッパに戻った。そこでおれたちは、やつをシステムにインストールしたんだ」
警部は、問いかける目でガンマンを見る。
ガンマンは、肩を竦めようとしたが縛られているのでうまくいかない。
「おれもうまく説明できんのだがね、旦那。要はシノプシスの発火パターンの特性を、ネットワーク上にばらまいたんだ。地球上のあらゆる電子デバイスに、細分化されコード化されたやつの魂が、混入させられている。それらは連携して動作し、ネットワーク上に擬似的なルパンを造り上げた。それからまもなく、やつの肉体は限界を迎え、死ぬことになったが」
「ルパンはバビロンシステムと、同じってわけだな」
ジョシュアの呟くような言葉に、ガンマンが応える。
「バビロンシステムより遥かに汎用的で、自律性が高い。システムと呼んでいいのかも、おれには判らん。目に見えず形のない得体の知れぬなにかだよ、ルパンは。その目的はひとつ、この世に存在する全てのセキュリティブロックを破壊すること」
「なんの為にだ」
警部の問いかけに、ガンマンは薄く笑って答える。
「ルパンは真性のアナーキストで、おまけに理想主義者だった。要は、個人所有なんてものは無くしてしまったほうがいいって思っていたのさ。例えば、そこにいる」
ガンマンは、ジョシュアとナオミに目を向ける。
「ロスチャイルドの方々が持つ膨大な資産、それらは世界を動かし戦争を勃発させ革命を起こす。しかしそれは結局のところ、システム上のデータに過ぎない。そんなものに動かされるのはごめんだと、ルパンは思っていた。でも。それだけじゃあ、だめなんだ」
ジョシュアが驚いた顔になり、呟く。
「それだけじゃあ、だめ?」
ガンマンは、ニヤリと笑い上をあおいだ。
そこにある、天使の卵を見る。
「ルパンは、よく王が税を徴集するのと、泥棒が盗むことの違いについて語っていた。王の税は、民衆に再分配されるが、泥棒はそうしない。おれたちが王になるためには、盗んだものの再分配が必要だ。しかし単に盗んだものを配っただけでは、個人所有が移転するだけだ。だから、やつはあれが必要だったのさ」
「天使の、化石」
ナオミが、呟くように言った。
ガンマンは、頷く。
警部は、声に苛立ちを滲ませる。
「あんな石の固まりに、何ができる?」
ガンマンは、歌うように語る。
楽しげにすら、見えた。
「おれたちが盗んだ美術品や宝石、それをディラックの海に沈め溶かす。そうすれば、そいつはもう一度天使の化石を使ってディラックの海から取り出せる。幾つでも」
警部は、目を剥いた。
「物質を、コピーするというのか!」
ガンマンは、口を歪める。
「オリジナルを量産するんだ、コピーとは言えない」
警部は、呻き声をあげる。
「そんな、魔法のようなことを」
ガンマンは、光る目で警部を見る。
「天使の卵の中は、時間が逆転してる。天使は化石として産まれ、何億年もかけて生身へと戻り卵から孵化する。だからエントロピーを逆転させ、物質を生成すろことができる。こいつはハイゼンベルク博士が、解明した原理だ。博士のレポートに書かれている歴とした科学さ。そいつは、とても危険なものだがね。そこの、ロスチャイルドの皆さんにとって」
ガンマンは、高らかに笑う。
「なにしろ、何世紀にもわたってため込んだ資産が全て、無になるんだからな!」
ガンマンは、言葉を重ねる。
「この塔は、ハイゼンベルク博士が書いたレポートに基づき天使の化石が持つ力を解明するために建てられた。そうだろう、ロスチャイルド」
ジョシュアは驚愕し、ナオミを見る。
ジョシュアも、天使の化石が何物であるかまでは知らなかったようだ。
ナオミは、目を閉じていた。
そして、再び目を見開く。
暗黒の太陽の輝きが、部屋を満たした。
ナオミは、別人の声で語る。
「たかが泥棒風情が、多くを望みすぎだ。身の程というものを、わきまえろ」
ジョシュアは、もう一度驚愕しナオミを見る。
空気が、重さを増す。
深海の闇が、溢れだしていた。
ナオミの、瞳から。
ナオミは、老人の笑みを浮かべる。
「何を、驚いている。人格制御モジュールは、ルパンだけのものではない」
「長老」
ジョシュアの言葉に、ナオミは首を振る。
「ルパンがシステムというのなら、わたしもシステムだ。残念だったな、ルパン諸君。君たちは、王のところまであと一歩だったのかもしれない。しかし、わたしは君たちを盗人としてインスペクターに引き渡す」
ガンマンは、笑い飛ばす。
「何言ってやがる、おれたちは、泥棒だ。おまえらから盗むこと以外、何も考えちゃいねえよ。それと」
ガンマンは、皮肉な笑みを見せた。
「まさか、おれたちを捕まえたらルパンも捕まったと思うほど、おまえらはおめでたいのか?」
警部は、ふと風が巻き起こるのを感じる。
気のせいかと思ったが、確かに空気の流れがあった。
見上げると、最上階のドーム状になった天井の頂点が開けられている。
そこから金色の剣となった月の光が、指し込んでいた。
月影は、天使の卵に降り注ぐ。
警部は、天使の姿が石の固まりに浮かび上がるのを見て、目を見張った。
突然、ディスプレイに赤い警告メッセージが表示され、アラート音が鳴り響く。
赤い警告メッセージを発するディスプレイは、次々に増えていった。
まるでこの部屋が、燎原の火に飲み込まれていくようだ。
ガンマンが、高らかに笑う。
「おまえたちは、おれたちがそこの石を引っ付かんで盗むためにここへ来たとでも思ってるのか? もちろん、そうじゃあない」
ガンマンは、勝ち誇ったように語る。
「ここに来たのは、スタンドアロン・システムにルパンを注入するためだ。しかし、スタンドアロン・システムはレガシーな仕組みだから乗っとるのに時間がかかる。そのための、時間稼ぎをさせてもらったよ」
深紅の輝きが燃え盛り、システムの悲鳴に満ちたその部屋で、ガンマンは満足げに笑う。
「協力に感謝する、明神下の旦那」
警部は、唸り声をあげた。
黄昏の薄暗さを持つその部屋で、警部はガンマンとサムライの間に立った。
そして、ナオミとジョシュアのほうを向く。
「約束通り、813号の身柄はいただけるのでしょうな」
ナオミは、薄く笑って答えた。
「手続きは、必要ね。第一そのテロリストがルパン一味であるか、確認できてないじゃない」
一瞬、警部の表情が冷たい炎の包まれたように見える。
ナオミは、黙って肩を竦めた。
警部は、髭面のガンマンに目を向ける。
「とりあえず、名乗ってみてはどうかね。それとも無言のまま、テロリストとして扱われてみるか?」
ガンマンは失笑しながら、皮肉な調子で応える。
「名を問うなら、あんたがまず名乗ってみたらどうだい」
意外にも、極東の島国で使われる公用語でガンマンは言った。
警部は懐から写真付きIDカードを取りだし、ガンマンに向ける。
「ICPOの明神下だ。逮捕権はないが、おまえたちを取り調べる権利はある」
ガンマンは、口を歪めて笑う。
「オーケー・ドーキー、明神下の旦那。おれはジム・バーネット。それとそっちのサムライが」
バーネットと名乗ったガンマンは、居合道着のサムライを見る。
「相棒のベシュだ」
ジョシュアは、大笑いする。
「おいおい、それじゃあそこのサムライはインスペクター・ミョウジンシタと同業者かね」
警部は、苦虫を噛み潰したような顔になり質問を発する。
「じゃあおまえが、怪盗ルパンでいいんだな。バーネット」
ガンマンは、笑う。
それはどこか、笑いの仮面をつけているように見える。
「その問いへの答えは、イエスでありノーだ」
警部は、目をすっと細める。
「真面目に答えないのなら、取り調べは終わりだ。テロリストとして人権無視の拷問を、ロスチャイルドにしてもらえ」
「ひとぎきの悪いこと、いわないでよ」
ナオミの虚しく響く抗議は、無視された。
作り物の笑いを貼り付けたまま、ガンマンは言う。
「まあ、かっかするなよ、旦那。話しはするけれど、とりあえず一服させてくれないか?」
警部は、煙草をガンマンの口にくわえさせる。
ジポーのライターを取り出すと、火をつけた。
「ちょっと、勝手なことをして」
ナオミの抗議は、今度も虚しく響いただけだった。
ガンマンは、肘から先は自由になっている左手で煙草を手にすると、紫煙を吐き出す。
そして、言った。
「まず、ルパンに会わせやるよ」
「ほう」
警部は、すっと目を細める。
そして、ガンマンが目でサムライに合図を送っているのに気がついた。
後ろを振り向き、サムライを見る。
サムライは頷くと、唯一自由に動かせる左手の肘から先の部分を使って首の下の皮膚をめくりあげてゆく。
それは皮膚ではなく、どうやらシリコン製のマスクであるようだ。
顔の皮膚を剥ぎ取るように、サムライはあっさりシリコン製マスクを脱ぎさる。
その下に現れたのは、異相のおとこであった。
痩せた、おとこである。
若いといえば若く見えるが、年老いているといえばそうとも見えた。
精悍な姿のようであり、飄々としているようでもある。
とらえどころがないようで、しかしその表情はなぜか強烈な力で目に焼き付けられた。
ふと目をはずしたら忘れてしまいそうな顔形なのに、強いエネルギーを感じる。
「よお、お集まりの皆さん。ざまあない姿で面目ないが」
おとこは、大きく笑う。
その表情は、どこか見るものをひきつける魅力に溢れたものであったが。
同時に、たとえようの無い不安な気持ちを引き起こすような、歪さを秘めている気もする。
「お察しのとおり、おれがルパンだ」
警部は鋭い目で、ルパンと名乗ったおとこを見つめる。
これほど強烈なエネルギーを放つおとこなのに、いや、そうであるがゆえに奇妙なフェイク感がつきまとう。
「まあ、本当はそこの」
ルパンは、すっと目線を頭上にあげる。
そこには、天使の化石を納めた石の卵があった。
「天使をいただく時に、登場するつもりだったんだがなあ。全く、ここが年貢の納め時ってやつかね」
ルパンは、高らかに笑う。
演じているとは思えないような、感情が溢れ出てくるような笑い。
しかし、警部にはそれらが全てリアルなものとは思えなかった。
「まあ、そんなところでいいかな」
ガンマンが独り言のように、ぽつりと言った。
ルパンはその声を聞いたのか、もう一度首のところから皮膚をめくり出す。
警部は、目を剥いてその様を見た。
変装の下は、また変装である。
ルパンの顔をしたシリコン製マスクが剥ぎ取られ、もう一度サムライの顔が姿を現した。
あたかも燦々と照りつけていた太陽が分厚い雲に隠されたかのごとく、強烈な人格が放射していたエナジーが消え去っている。
警部は、まじまじとサムライの顔を見た。
このおとこが、さっきのルパンを演じていたとはとうてい思えない。
全くの、別人に見える。
それは顔形の問題ではなく、内面から放出される人格の力が違うというべきだろうか。
サムライは、口を歪めて笑って見せた。
嘲笑うように、あるいは笑いの仮面を貼り付けたように。
警部は、こころの中で呟く。
(こいつらはまるで、ひとを演じるロボットのようだ)
「まあ、大体判ったと思うんだが」
ガンマンは、ほぼ灰になった煙草を名残惜しそうに床に捨てて言った。
「おれたちは、自分自身に人格制御モジュールを埋め込んでる」
警部は、呻き声をあげる。
「なんだ、そいつは」
「脳内にナノマシンを注入して、シノプシスの発火パターンをコントロールすることで人格をつくりあげることができるんだ」
ガンマンは、少し陽気な調子を装って言葉を続ける。
「その人格制御モジュールによって作り出される架空の人格、それがルパンだ。今回のようにおれたちのどちらかがルパンになることもあれば、もうひとり雇うこともある」
警部は、もの思いにふける顔になった。
そして、問いを発する。
「そのモジュールは、多分ネットワークに繋がってるんだろう」
ガンマンは、乾いた笑い声をあげる。
「正解だ」
「そしてそれは、システムに制御されている」
ガンマンは、にっと笑い髭面を歪める。
「中々冴えてるな、明神下の旦那」
「ようするにルパンとはネットワークに存在する、システムなんだろう。問題はそのシステムが、なんという名であるかだ」
ガンマンは、目をすっと細めて口を皮肉に歪めた。
「そいつは聞かないほうがいいぜ、旦那」
「なぜだ」
ガンマンは、暗く目を光らせる。
「ICPOだからロスチャイルドが手出ししないと思ってるなら、大間違いだぜ」
ジョシュアが、笑い声をあげる。
「おいおい、おれたちはそこまで悪党じゃあない。なあ、ナオミ」
ナオミは憮然とした顔になり、肩を竦める。
「第一インスペクターも、気がついてるだろう。ルパンとはバビロンシステムであると」
世界一高いその搭を支配するシステムが、そもそもルパンであった。
その事実に、最上階にある部屋の空気が凍り付く。
警部は、ジョシュアに向き直る。
「あんたらは、そのことを知っていたのか?」
「まあ、シミュレーションの結果は確かにその事実をしめしていたがね」
ジョシュアは、肩を竦める。
「何かの間違いだと思ってたよ、ついさっきまで」
警部は、ガンマンに向き直る。
「では、ルパンを作ったのはミハイル・アシュケナージなのか?」
「違うね。やつは買ったんだよ」
警部の眉が、つり上がった。
「誰からだ?」
「昔、おれたちの仲間だったおとこ。ラウール・ダンドレジーさ」
ガンマンは、少し遠くを見るめになった。
「ラウールの話をしようか、旦那」
警部は、目で先をうながす。
ガンマンは、静かに頷いた。
「旧ユーゴスラビア。おれとそこの相棒は、傭兵としてそこにいた。おれたちがラウールと会ったのは、そこでだ。やつは兵士でもジャーナリストでもなかったが、なぜか戦場にいたんだ」
ガンマンは、楽しげな笑みを浮かべ語る。
「陽気なおとこであり、誰とでも仲良くなった。おれたちはよく一緒に、酒を酌みかわしたもんだ。やつは古いピカレスク小説の主人公と同じ名前だったから、おれたちは冗談半分でやつをルパンと呼んでいた。まあ、やつは前世紀の物語に登場する人物はいやだったらしく、せめて三世にしてくれといってたがね」
ガンマンは、少し笑った。
警部は、沈黙したままだ。
相変わらず、獲物を狙う猟犬の目でガンマンたちを見ている。
ガンマンはその眼差しを気にした風もなく、昔語りを続けた。
「そもそもなぜやつは、戦場になんかいたのか。やつは探していたんだ」
そして、ふっと視線を上にあげる。
そこには、卵の形をした石があった。
警部は、唸るように言う。
「天使の化石を、探していたということか」
「はっきりとそう聞いたわけじゃあないが、おそらくはな。やつは、深入りしすぎた。そして、姿を消したんだ」
警部は、口を歪める。
「消されたという、わけか」
ガンマンは、首をふる。
「さあな、真相はしらないがね。おれたちは偶然、変わり果てた姿になったラウールを見つけた。やつは拷問によって破壊されていたんだ。手足を動かすことも、ろくに口をきくこともできなくなっていた。たまたま契約の切れたおれたちは、やつをつれて戦場から離れヨーロッパに戻った。そこでおれたちは、やつをシステムにインストールしたんだ」
警部は、問いかける目でガンマンを見る。
ガンマンは、肩を竦めようとしたが縛られているのでうまくいかない。
「おれもうまく説明できんのだがね、旦那。要はシノプシスの発火パターンの特性を、ネットワーク上にばらまいたんだ。地球上のあらゆる電子デバイスに、細分化されコード化されたやつの魂が、混入させられている。それらは連携して動作し、ネットワーク上に擬似的なルパンを造り上げた。それからまもなく、やつの肉体は限界を迎え、死ぬことになったが」
「ルパンはバビロンシステムと、同じってわけだな」
ジョシュアの呟くような言葉に、ガンマンが応える。
「バビロンシステムより遥かに汎用的で、自律性が高い。システムと呼んでいいのかも、おれには判らん。目に見えず形のない得体の知れぬなにかだよ、ルパンは。その目的はひとつ、この世に存在する全てのセキュリティブロックを破壊すること」
「なんの為にだ」
警部の問いかけに、ガンマンは薄く笑って答える。
「ルパンは真性のアナーキストで、おまけに理想主義者だった。要は、個人所有なんてものは無くしてしまったほうがいいって思っていたのさ。例えば、そこにいる」
ガンマンは、ジョシュアとナオミに目を向ける。
「ロスチャイルドの方々が持つ膨大な資産、それらは世界を動かし戦争を勃発させ革命を起こす。しかしそれは結局のところ、システム上のデータに過ぎない。そんなものに動かされるのはごめんだと、ルパンは思っていた。でも。それだけじゃあ、だめなんだ」
ジョシュアが驚いた顔になり、呟く。
「それだけじゃあ、だめ?」
ガンマンは、ニヤリと笑い上をあおいだ。
そこにある、天使の卵を見る。
「ルパンは、よく王が税を徴集するのと、泥棒が盗むことの違いについて語っていた。王の税は、民衆に再分配されるが、泥棒はそうしない。おれたちが王になるためには、盗んだものの再分配が必要だ。しかし単に盗んだものを配っただけでは、個人所有が移転するだけだ。だから、やつはあれが必要だったのさ」
「天使の、化石」
ナオミが、呟くように言った。
ガンマンは、頷く。
警部は、声に苛立ちを滲ませる。
「あんな石の固まりに、何ができる?」
ガンマンは、歌うように語る。
楽しげにすら、見えた。
「おれたちが盗んだ美術品や宝石、それをディラックの海に沈め溶かす。そうすれば、そいつはもう一度天使の化石を使ってディラックの海から取り出せる。幾つでも」
警部は、目を剥いた。
「物質を、コピーするというのか!」
ガンマンは、口を歪める。
「オリジナルを量産するんだ、コピーとは言えない」
警部は、呻き声をあげる。
「そんな、魔法のようなことを」
ガンマンは、光る目で警部を見る。
「天使の卵の中は、時間が逆転してる。天使は化石として産まれ、何億年もかけて生身へと戻り卵から孵化する。だからエントロピーを逆転させ、物質を生成すろことができる。こいつはハイゼンベルク博士が、解明した原理だ。博士のレポートに書かれている歴とした科学さ。そいつは、とても危険なものだがね。そこの、ロスチャイルドの皆さんにとって」
ガンマンは、高らかに笑う。
「なにしろ、何世紀にもわたってため込んだ資産が全て、無になるんだからな!」
ガンマンは、言葉を重ねる。
「この塔は、ハイゼンベルク博士が書いたレポートに基づき天使の化石が持つ力を解明するために建てられた。そうだろう、ロスチャイルド」
ジョシュアは驚愕し、ナオミを見る。
ジョシュアも、天使の化石が何物であるかまでは知らなかったようだ。
ナオミは、目を閉じていた。
そして、再び目を見開く。
暗黒の太陽の輝きが、部屋を満たした。
ナオミは、別人の声で語る。
「たかが泥棒風情が、多くを望みすぎだ。身の程というものを、わきまえろ」
ジョシュアは、もう一度驚愕しナオミを見る。
空気が、重さを増す。
深海の闇が、溢れだしていた。
ナオミの、瞳から。
ナオミは、老人の笑みを浮かべる。
「何を、驚いている。人格制御モジュールは、ルパンだけのものではない」
「長老」
ジョシュアの言葉に、ナオミは首を振る。
「ルパンがシステムというのなら、わたしもシステムだ。残念だったな、ルパン諸君。君たちは、王のところまであと一歩だったのかもしれない。しかし、わたしは君たちを盗人としてインスペクターに引き渡す」
ガンマンは、笑い飛ばす。
「何言ってやがる、おれたちは、泥棒だ。おまえらから盗むこと以外、何も考えちゃいねえよ。それと」
ガンマンは、皮肉な笑みを見せた。
「まさか、おれたちを捕まえたらルパンも捕まったと思うほど、おまえらはおめでたいのか?」
警部は、ふと風が巻き起こるのを感じる。
気のせいかと思ったが、確かに空気の流れがあった。
見上げると、最上階のドーム状になった天井の頂点が開けられている。
そこから金色の剣となった月の光が、指し込んでいた。
月影は、天使の卵に降り注ぐ。
警部は、天使の姿が石の固まりに浮かび上がるのを見て、目を見張った。
突然、ディスプレイに赤い警告メッセージが表示され、アラート音が鳴り響く。
赤い警告メッセージを発するディスプレイは、次々に増えていった。
まるでこの部屋が、燎原の火に飲み込まれていくようだ。
ガンマンが、高らかに笑う。
「おまえたちは、おれたちがそこの石を引っ付かんで盗むためにここへ来たとでも思ってるのか? もちろん、そうじゃあない」
ガンマンは、勝ち誇ったように語る。
「ここに来たのは、スタンドアロン・システムにルパンを注入するためだ。しかし、スタンドアロン・システムはレガシーな仕組みだから乗っとるのに時間がかかる。そのための、時間稼ぎをさせてもらったよ」
深紅の輝きが燃え盛り、システムの悲鳴に満ちたその部屋で、ガンマンは満足げに笑う。
「協力に感謝する、明神下の旦那」
警部は、唸り声をあげた。
「一体これは、どういうことなんだ!」
クロウは、叫んだ。
彼は、とても信じられないものを見ていた。
さっきまで、この地下の大広間にあったはずのルパンたちが集めた財宝が、消え失せたのだ。
あたかも、はじめからここには、何もなかったとでも言うかのように。
いや、むしろ自分が幻覚を見せられていたと疑うべきなのだろうか。
それとも、今見ている景色が幻覚なのか。
がらんとした、巨大な洞窟を思わせる地下広間は、クロウにはとてもリアルに見える。
石でできた、巨大な廃墟は間違いなく現実だ。
しかし、ここにさっきまであった数々の財宝を疑うことも、クロウにはできない。
そんなクロウをよそに、クレールは伽藍の堂と化した広間を平然と歩いていく。
何事もなかった、とでもいうかのようだ。
ふと、クレールは立ち止まり床を蹴る。
床の蓋が空き、物入れが姿を現す。
クレールは、満足げに微笑んだ。
クロウは、ショウウィンドウごしにドレスを物色しているように目を輝かすクレールの隣に来て、床の中を見下ろす。
そこは、武器庫のようだ。
様々なハンドガン、自動ライフル、サブマシンガン、スタングレネードにナイフといった、個人が装備するための武器がひととおり揃っている。
クレールは、楽しげに言った。
「見てよ、FN5-7があるなんて、中々趣味がいいじゃない」
クレールは上機嫌でハンドガンを手にすると、マガジンを銃把に納めてスライドを操作しチェンバーへ初弾を送り込む。
滑らかで、実に手慣れた動作である。
ガンベルトをアーミージャケットの上からつけると、ホルスターへFN5-7を納めて、予備弾倉もベルトに収納した。
さらに、ブルパップ型のコンパクトな自動小銃P90を肩から吊るし、アサルトバッグに手当たり次第予備弾倉や手榴弾を突っ込むと背負いこむ。
「あんた、戦争にでもいく気なのか?」
「まさか」
クレールは、鼻で笑う。
「ルパンを、殺しにいくだけよ」
クロウは、目をむく。
「ルパンは、実在しないんじゃあなかったのか?」
「天使が彼を、ディラックの海から引き出すのよ、聞いてなかったの? 魔女のはなし」
「だって、あれは」
戯言だろうと言おうとして、口を閉ざした。
クレールの瞳が、凶天使の輝きを宿したからだ。
ルパンが実在しない、ようは架空の存在をシンボルとして扱う怪盗団が存在する、そこまではクロウとしても理解可能だ。
その怪盗団とクレールが一戦交えるつもりらしいことは、判った。
しかし、天使だのディラックの海となるとクロウの理解をこえてしまう。
ただ、目の前のおんなが燃え盛る炎のように撒き散らす殺意だけは、ひどくリアルであった。
「なんならあなたも一緒に、ルパンを殺しにいく?」
「冗談じゃない」
クロウは慌てて、首を振る。
クレールは、嘲るように笑うと振り向いてそこにある扉に手をかけた。
いつの間にか手にしている、携帯端末を操作している。
「おい」
クロウは、驚愕した。
さっきまで、そんな扉は無かったはずなのに。
クレールは、艶やかな笑みを浮かべる。
「天使が目覚めた。ここは、天使の裏庭といってもいい。天使の力はここまで届く」
クレールは、扉の中へ、身を投じる。
クレールを飲み込むと扉はぱたりと閉ざされ、闇にのみこまれた。
クロウは、あまりのことに呆然として膝をつく。
「一体、なんだってんだ」
地下の広間は、はじめからそうであったというように、空虚な空間となっている。
あたかも何十年も前からからっぽの廃墟であったように、空気は澱み人気もない。
まるで、全てが夢のようだ。
クロウは、そうこころの中で呟いた。
クロウは、叫んだ。
彼は、とても信じられないものを見ていた。
さっきまで、この地下の大広間にあったはずのルパンたちが集めた財宝が、消え失せたのだ。
あたかも、はじめからここには、何もなかったとでも言うかのように。
いや、むしろ自分が幻覚を見せられていたと疑うべきなのだろうか。
それとも、今見ている景色が幻覚なのか。
がらんとした、巨大な洞窟を思わせる地下広間は、クロウにはとてもリアルに見える。
石でできた、巨大な廃墟は間違いなく現実だ。
しかし、ここにさっきまであった数々の財宝を疑うことも、クロウにはできない。
そんなクロウをよそに、クレールは伽藍の堂と化した広間を平然と歩いていく。
何事もなかった、とでもいうかのようだ。
ふと、クレールは立ち止まり床を蹴る。
床の蓋が空き、物入れが姿を現す。
クレールは、満足げに微笑んだ。
クロウは、ショウウィンドウごしにドレスを物色しているように目を輝かすクレールの隣に来て、床の中を見下ろす。
そこは、武器庫のようだ。
様々なハンドガン、自動ライフル、サブマシンガン、スタングレネードにナイフといった、個人が装備するための武器がひととおり揃っている。
クレールは、楽しげに言った。
「見てよ、FN5-7があるなんて、中々趣味がいいじゃない」
クレールは上機嫌でハンドガンを手にすると、マガジンを銃把に納めてスライドを操作しチェンバーへ初弾を送り込む。
滑らかで、実に手慣れた動作である。
ガンベルトをアーミージャケットの上からつけると、ホルスターへFN5-7を納めて、予備弾倉もベルトに収納した。
さらに、ブルパップ型のコンパクトな自動小銃P90を肩から吊るし、アサルトバッグに手当たり次第予備弾倉や手榴弾を突っ込むと背負いこむ。
「あんた、戦争にでもいく気なのか?」
「まさか」
クレールは、鼻で笑う。
「ルパンを、殺しにいくだけよ」
クロウは、目をむく。
「ルパンは、実在しないんじゃあなかったのか?」
「天使が彼を、ディラックの海から引き出すのよ、聞いてなかったの? 魔女のはなし」
「だって、あれは」
戯言だろうと言おうとして、口を閉ざした。
クレールの瞳が、凶天使の輝きを宿したからだ。
ルパンが実在しない、ようは架空の存在をシンボルとして扱う怪盗団が存在する、そこまではクロウとしても理解可能だ。
その怪盗団とクレールが一戦交えるつもりらしいことは、判った。
しかし、天使だのディラックの海となるとクロウの理解をこえてしまう。
ただ、目の前のおんなが燃え盛る炎のように撒き散らす殺意だけは、ひどくリアルであった。
「なんならあなたも一緒に、ルパンを殺しにいく?」
「冗談じゃない」
クロウは慌てて、首を振る。
クレールは、嘲るように笑うと振り向いてそこにある扉に手をかけた。
いつの間にか手にしている、携帯端末を操作している。
「おい」
クロウは、驚愕した。
さっきまで、そんな扉は無かったはずなのに。
クレールは、艶やかな笑みを浮かべる。
「天使が目覚めた。ここは、天使の裏庭といってもいい。天使の力はここまで届く」
クレールは、扉の中へ、身を投じる。
クレールを飲み込むと扉はぱたりと閉ざされ、闇にのみこまれた。
クロウは、あまりのことに呆然として膝をつく。
「一体、なんだってんだ」
地下の広間は、はじめからそうであったというように、空虚な空間となっている。
あたかも何十年も前からからっぽの廃墟であったように、空気は澱み人気もない。
まるで、全てが夢のようだ。
クロウは、そうこころの中で呟いた。
「侵入したプログラムを、殺せ!」
ジョシュアは、オペレーターにかみついた。
オペレーターは、忙しなくキーボードを操作する。
「さっきから、やってはいますが」
赤い警告メッセージは、幾つか消滅する。
しかし、すぐにそれは消えた倍の数が復活しているようだ。
「何百ものプログラムが1秒間に生成されるんです。いくら殺してもきりがありません」
ジョシュアが唸り声を、あげる。
ナオミが、静かに言った。
「ネットワークに、システムを接続したまえ。幹部用権限を使用すれば、できるだろう。ジョシュア・リリエンタール」
「しかし」
ジョシュアは、躊躇う。
ネットワークに接続すれば、それこそルパンにシステムを支配されてしまう。
そんなジョシュアを、ナオミは昏い瞳で見つめた。
ナオミの瞳は、黒い炎を宿したように輝く。
「マスティマ・プログラムの使用を許可する」
ジョシュアは、驚きで目を見張る。
マスティマ・プログラムはミハイル・アシュケナージが用意した最終兵器であった。
天使にして悪魔であるとともに、殺戮の天使でもあるマスティマの名を持つそのプログラムはバビロンシステムを自壊させることができる。
バビロンシステムは初期状態となり再構築が必要となるが、間違いなくルパンも駆除されるであろう。
マスティマ・プログラムはソフトウェア的な自爆装置といえた。
「時間が無い、すぐにやりたまえ」
ナオミは冷酷な天使の声で、ジョシュアに命ずる。
ジョシュアは無言で頷くと、専用のコンソールを起動した。
それを操作しようとした時、こめかみに気配を感じて横を見る。
驚いたことに、警部がジョシュアの額へ銃をつきつけていた。
「狂ったのか、インスペクター・ミョウジンシタ」
警部は、低い声で言う。
「やめておいたほうが、いい」
「馬鹿を言うな、大体そんなオモチャみたいな拳銃で」
警部は、鼻で笑う。
「ゴム弾だって至近距離で撃たれれば、死ぬさ。それより、判らんのか。これはルパンの罠だ」
ジョシュアは、獣のように唸る。
「たかがICPOの事務官ごときが」
ナオミは虫けらを見る目で、警部を見ながら言った。
「我々のやることを、間違いだというつもりなのか。ミョウジンシタ」
警部は、今回は遠慮なく失笑した。
「あんたらロスチャイルドは世界を支配している、そいつは間違いない。だがな」
警部は重い圧力を持ったナオミの瞳を睨み返し、叫ぶように言った。
「あんたらの支配する世界に、ルパンは属してはいないんだ。泥棒は世界の外に、生きている。それが判らんのか!」
そう言い終えた瞬間、銃声が轟いた。
血飛沫が、警部の肩からあがりジョシュアは驚愕の叫び声をあげる。
警部は、コートの下にボディアーマーをつけていたはずだが銃弾はあっさり貫通していた。
警部は苦痛の呻き声をあげ、膝をつく。
ジョシュアは銃声のしたほうを、見る。
銃口から煙の上がる拳銃を構えたおんなが、立っていた。
おんなは、アーミージャケットを着た凶天使に見える。
美しく、凶悪な笑みを浮かべていた。
警部は、唸るように言う。
「貴様、クレールだな。なんのつもりだ」
「泥棒は、世界の外にいる。いいこと言うわね、インスペクター」
クレールは、上機嫌に言った。
彼女の後ろには、扉がある。
ジョシュアの記憶では、そこには扉は無かったはずなのだが。
クレールは、パーティーに招かれた客のように笑みを浮かべていた。
「殺すには、世界に引き込む必要がある。さあ、ジョシュア・リリエンタール。マスティマに死の剣をふるわせなさい」
ジョシュアは、夢中でコンソールを操作した。
空中投影ディスプレイが再び世界地図を、写し出す。
虚空に浮かび上がったその地図は、血に染められたように赤い球体が浮かんでいる。
ジョシュアの操作に呼応して、その赤い球体は闇に呑まれ暫くした後に青色となって復活した。
燃え盛る凶悪な炎が、世界地図から駆逐されてゆく。
世界地図は、湖の静寂を取り戻していった。
最後の極東の島国で燃え盛っていた赤い球体も消え去り、システムが正常化する。
同時に、悲鳴をあげていたコンソールも沈静化し輝きを取り戻す。
全ては、ルパン一味がくる前の状態に戻った。
ジョシュアはシステムが正常に復帰したのを確認し、警部に微笑みかける。
「どうやら、撃たれ損だったようだな、インスペクター」
持参した救急医療キットを使い止血を終えたらしい警部は、コンソールの片隅に残っている赤い警告灯を指差す。
「あれは、なんだ?」
ジョシュアは怪訝な顔をして、コンソールに向き直り確認をはじめた。
オペレーターが、悲鳴にも似た声をあげる。
「マスティマ・プログラムが、停止しません!」
ジョシュアも、上位権限を使用してマスティマ・プログラムを殺すことを試みる。
殺戮の天使は役割を終えたにも関わらず、死ぬことを拒否した。
ジョシュアは、苦しげな呻き声をあげる。
殺戮の天使は、このタワーに向かって死の剣を振るった。
今再び全てのコンソールと照明が、撃ち殺されたように沈黙する。
それでも、完全な闇にならないのは月影が降り注いでいるせいだ。
蒼ざめた月の光が、あたりを湖の底へと変えてゆく。
天使の卵は、真夜中に燃え盛る太陽となり銀灰色の輝きを宿した。
ドーム状の天井が開き、魔女の悲鳴にも似た風があたりを蹂躙する。
金の刃となった月影が、天使の卵を串刺しにした。
ジョシュアは、驚愕して声をあげる。
「一体何が、おこっている!?」
虚空に、天使の姿が映し出される。
新雪の清らかさを持った純白の翼が闇の中で、輝く。
天使の顔は、死神の闇に覆われている。
薄く白い笑みを、天使は蒼ざめた闇に浮かび上がらせた。
声にならぬ叫びが、あたりを満たしたような気がする。
そして、青く輝く光の剣となったレーザー照射が、天使の卵に浴びせられた。
天使の卵は、青い輝きを真下に向けて放出する。
その輝きの中に、ふたりの人影が出現した。
いつの間にかレーザー照射はとまり、虚空に出現した天使の幻影も消えたが明るい月影の下にふたりの人物が残る。
ひとりは青く輝き、もうひとりは夜の闇から造られた漆黒のひとかげ。
死の闇を練り上げた黒いひとは、風に晒された砂のように崩れ去っていく。
あとに残ったのは、青い人影である。
その姿は、おとこのものだ。
青く輝くそのおとこは、大きく笑った。
「よう、長らく待たせて悪かったな」
若い無垢さを持つようで、老いた邪悪さにまみれている笑みを浮かべ。
陽気さと哀しさを同時に持つ瞳の輝きを、月影の元に晒すそのひとは。
高らかに、宣言した。
「怪盗ルパン、ここに参上」
悲鳴のようにけたたましい笑い声を、おんながあげる。
「ラウール、ラウール! 随分待たせてくれたじゃない」
クレールは、狂気の輝きを目に宿して吠えるように語る。
「ねえ、五年よ。わたしは、五年も待った。ひとくちに五年っていうけれど、夜が」
「夜が、千八百回」
ルパンは、嘲るような笑みを浮かべて言った。
クレールは、胸を刺されたような顔をして黙る。
「朝が、千八百回、昼も同じだけ」
ルパンは、恋人に語るような甘い声で言う。
「聞いたようなこと、言ってるんじゃあねえよ、クレール」
殺意で殺せるのなら、ルパンは百度は死んだであろう。
そんな瞳で、クレールはルパンを睨み拳銃を向ける。
「どうでもいい、ルパン。あなた、ここで死ぬんだから」
「やめろ!」
ジョシュアが、絶叫する。
「そうだ、はじめから判ってたことじゃないか」
ジョシュアは、誰に向けてということもなく、呟くように語る。
「ディラックの海へエネルギーを照射すれば、そこに溶け込んでいた物質が生成される。しかしそれは、ディラック博士のいうとおりに」
ジョシュアの目が、狂おしく光る。
「反物質なんだ」
「何を、言ってる」
警部が、苦しげに言った言葉にジョシュアが答える。
「元々存在してディラックの海へ溶け込んだものが浮上するのは、問題ない。しかし、存在しないものをこの世に作り出すなら当然対創成となる」
警部は、眉をしかめて問う。
「対創成とは?」
ジョシュアは呪いの言葉を吐くように、言った。
「ディラックの海から物質が正のエネルギーを得て新たに創造される場合、正の物質、反物質それぞれ一つづつ対になって産み出される。そうでなければ、エネルギー保存則が崩れてしまう。だが、正物質は正のエントロピーも同時に得るので、崩れ去る。反物質は負のエントロピーを得るから、生き残る。生き残るのは、反物質なんだ」
ジョシュアの目が、昏くつり上がった。
「反物質に正の物質がふれると、対消滅がおこりemc2の方程式どおりエネルギーへ変換される」
ジョシュアは、震えていた。
「あれだけの質量が対消滅したら、地球ごと吹き飛ぶ」
気が付くと、ルパンの両脇にはガンマンとサムライがいた。
ふたりは、隠し持っていたナイフでアラミド繊維のネットを切り裂いたらしい。
そもそも彼らは、捕まっていたわけではなかった。
単に、時間稼ぎをするためにそう、見せかけていただけなのだ。
彼らは、待っていた。
ルパンが、登場するのを。
今、ガンマンはS&W・M500を両手に構え、サムライはハイス鋼の剣を腰にためている。
ガンマンは、ルパンに笑いかけた。
「いやあ、ほれぼれするような登場ぶりだったぜ、ラウール」
「ありがとよ」
ルパンは、ウィンクして見せた。
「おい、クレール」
ガンマンは、揶揄うような調子で言う。
「撃ってみろよ、おれより速く撃てるってんならな」
「くだらない」
ナオミが、地の底から響くような声で言った。
「ルパン、お前は天使の化石をなんとくだらない使い方をするんだ」
ルパンは、楽しげに高笑いする。
「おいおい、ロスチャイルド。お前まさかこのおれが、お前らとちまちま所有権を巡って戦うとでも思ってたのかよ」
ナオミは、昏い瞳でルパンを見つめる。
冥界の王がごとき陰鬱な表情をして、怒りと哀しみをその瞳へ宿らせていた。
「我々は世界というゲーム盤を前にして、対峙していたものと思っていたが」
ルパンは、子供のように腹を抱えて笑った。
それに、ガンマンとサムライの嘲笑があわさる。
「ゔわぁっかじゃねぇの、じいさん」
ルパンは、笑って涙を流しながらナオミを指差す。
「おれたちはさあ、泥棒なの」
ルパンは、急に真面目な顔に戻り、言った。
「お前から、世界そのものを盗む。始めっからそれが目的よ。耄碌してんじゃねえぞ、じいさん」
ナオミは、大審問官のような溜め息を低くつく。
「ルパン、お前のやることに意味は無い。子供じみたことはよせ」
「いかにも、おれは餓鬼さ」
ルパンは、にやりと笑う。
「それの何が、悪いよ」
「ごちゃごちゃ、うるさい」
クレールが叫ぶと、安全ピンをはずした手榴弾を放り投げた。
予想外の行動にガンマンの動作が一拍遅れ、M500が手榴弾目がけて火を吹く。
轟音が響き渡り、爆炎があたりを覆う。
「くそっ」
ジョシュアは、目を見開き爆炎の向こうにいるルパンを追う。
ワイヤーが天使の卵に向かって、伸びている。
ルパンの腰につけられたウィンチが動き、ルパンは爆炎の上へと登ってゆく。
ジョシュアは、絶叫する。
「やめろぉ!」
警部は、溜め息をついた。
「どうやら、念仏を唱える暇もなさそうだ」
青い光を放つルパンは、月の光の下へと姿を現す。
澄んだ南の海が放つ光を帯びたルパンは、愛しいものを眺めるように天使の卵を見た。
「予告どおり、頂戴するぜ」
ルパンは拳を振るって、天使の卵が納められていたケースを粉砕する。
綺羅綺羅輝きながら、透明な雪のように破片が舞い散った。
そして、青く輝くその手を卵に向かってのばす。
一瞬、そこにいるひとびとは、時間が凍りついたように感じた。
しかし、容赦なくその時はやってくる。
世界のどこか遠くで、たったひとりの怪物が目覚めたように感じた。
ほんのひととき、永遠のように感じられるほんのひとときの静寂の後、莫大なエネルギーが解放される。
世界に、白い闇が落ちてくる。
ジョシュアは、オペレーターにかみついた。
オペレーターは、忙しなくキーボードを操作する。
「さっきから、やってはいますが」
赤い警告メッセージは、幾つか消滅する。
しかし、すぐにそれは消えた倍の数が復活しているようだ。
「何百ものプログラムが1秒間に生成されるんです。いくら殺してもきりがありません」
ジョシュアが唸り声を、あげる。
ナオミが、静かに言った。
「ネットワークに、システムを接続したまえ。幹部用権限を使用すれば、できるだろう。ジョシュア・リリエンタール」
「しかし」
ジョシュアは、躊躇う。
ネットワークに接続すれば、それこそルパンにシステムを支配されてしまう。
そんなジョシュアを、ナオミは昏い瞳で見つめた。
ナオミの瞳は、黒い炎を宿したように輝く。
「マスティマ・プログラムの使用を許可する」
ジョシュアは、驚きで目を見張る。
マスティマ・プログラムはミハイル・アシュケナージが用意した最終兵器であった。
天使にして悪魔であるとともに、殺戮の天使でもあるマスティマの名を持つそのプログラムはバビロンシステムを自壊させることができる。
バビロンシステムは初期状態となり再構築が必要となるが、間違いなくルパンも駆除されるであろう。
マスティマ・プログラムはソフトウェア的な自爆装置といえた。
「時間が無い、すぐにやりたまえ」
ナオミは冷酷な天使の声で、ジョシュアに命ずる。
ジョシュアは無言で頷くと、専用のコンソールを起動した。
それを操作しようとした時、こめかみに気配を感じて横を見る。
驚いたことに、警部がジョシュアの額へ銃をつきつけていた。
「狂ったのか、インスペクター・ミョウジンシタ」
警部は、低い声で言う。
「やめておいたほうが、いい」
「馬鹿を言うな、大体そんなオモチャみたいな拳銃で」
警部は、鼻で笑う。
「ゴム弾だって至近距離で撃たれれば、死ぬさ。それより、判らんのか。これはルパンの罠だ」
ジョシュアは、獣のように唸る。
「たかがICPOの事務官ごときが」
ナオミは虫けらを見る目で、警部を見ながら言った。
「我々のやることを、間違いだというつもりなのか。ミョウジンシタ」
警部は、今回は遠慮なく失笑した。
「あんたらロスチャイルドは世界を支配している、そいつは間違いない。だがな」
警部は重い圧力を持ったナオミの瞳を睨み返し、叫ぶように言った。
「あんたらの支配する世界に、ルパンは属してはいないんだ。泥棒は世界の外に、生きている。それが判らんのか!」
そう言い終えた瞬間、銃声が轟いた。
血飛沫が、警部の肩からあがりジョシュアは驚愕の叫び声をあげる。
警部は、コートの下にボディアーマーをつけていたはずだが銃弾はあっさり貫通していた。
警部は苦痛の呻き声をあげ、膝をつく。
ジョシュアは銃声のしたほうを、見る。
銃口から煙の上がる拳銃を構えたおんなが、立っていた。
おんなは、アーミージャケットを着た凶天使に見える。
美しく、凶悪な笑みを浮かべていた。
警部は、唸るように言う。
「貴様、クレールだな。なんのつもりだ」
「泥棒は、世界の外にいる。いいこと言うわね、インスペクター」
クレールは、上機嫌に言った。
彼女の後ろには、扉がある。
ジョシュアの記憶では、そこには扉は無かったはずなのだが。
クレールは、パーティーに招かれた客のように笑みを浮かべていた。
「殺すには、世界に引き込む必要がある。さあ、ジョシュア・リリエンタール。マスティマに死の剣をふるわせなさい」
ジョシュアは、夢中でコンソールを操作した。
空中投影ディスプレイが再び世界地図を、写し出す。
虚空に浮かび上がったその地図は、血に染められたように赤い球体が浮かんでいる。
ジョシュアの操作に呼応して、その赤い球体は闇に呑まれ暫くした後に青色となって復活した。
燃え盛る凶悪な炎が、世界地図から駆逐されてゆく。
世界地図は、湖の静寂を取り戻していった。
最後の極東の島国で燃え盛っていた赤い球体も消え去り、システムが正常化する。
同時に、悲鳴をあげていたコンソールも沈静化し輝きを取り戻す。
全ては、ルパン一味がくる前の状態に戻った。
ジョシュアはシステムが正常に復帰したのを確認し、警部に微笑みかける。
「どうやら、撃たれ損だったようだな、インスペクター」
持参した救急医療キットを使い止血を終えたらしい警部は、コンソールの片隅に残っている赤い警告灯を指差す。
「あれは、なんだ?」
ジョシュアは怪訝な顔をして、コンソールに向き直り確認をはじめた。
オペレーターが、悲鳴にも似た声をあげる。
「マスティマ・プログラムが、停止しません!」
ジョシュアも、上位権限を使用してマスティマ・プログラムを殺すことを試みる。
殺戮の天使は役割を終えたにも関わらず、死ぬことを拒否した。
ジョシュアは、苦しげな呻き声をあげる。
殺戮の天使は、このタワーに向かって死の剣を振るった。
今再び全てのコンソールと照明が、撃ち殺されたように沈黙する。
それでも、完全な闇にならないのは月影が降り注いでいるせいだ。
蒼ざめた月の光が、あたりを湖の底へと変えてゆく。
天使の卵は、真夜中に燃え盛る太陽となり銀灰色の輝きを宿した。
ドーム状の天井が開き、魔女の悲鳴にも似た風があたりを蹂躙する。
金の刃となった月影が、天使の卵を串刺しにした。
ジョシュアは、驚愕して声をあげる。
「一体何が、おこっている!?」
虚空に、天使の姿が映し出される。
新雪の清らかさを持った純白の翼が闇の中で、輝く。
天使の顔は、死神の闇に覆われている。
薄く白い笑みを、天使は蒼ざめた闇に浮かび上がらせた。
声にならぬ叫びが、あたりを満たしたような気がする。
そして、青く輝く光の剣となったレーザー照射が、天使の卵に浴びせられた。
天使の卵は、青い輝きを真下に向けて放出する。
その輝きの中に、ふたりの人影が出現した。
いつの間にかレーザー照射はとまり、虚空に出現した天使の幻影も消えたが明るい月影の下にふたりの人物が残る。
ひとりは青く輝き、もうひとりは夜の闇から造られた漆黒のひとかげ。
死の闇を練り上げた黒いひとは、風に晒された砂のように崩れ去っていく。
あとに残ったのは、青い人影である。
その姿は、おとこのものだ。
青く輝くそのおとこは、大きく笑った。
「よう、長らく待たせて悪かったな」
若い無垢さを持つようで、老いた邪悪さにまみれている笑みを浮かべ。
陽気さと哀しさを同時に持つ瞳の輝きを、月影の元に晒すそのひとは。
高らかに、宣言した。
「怪盗ルパン、ここに参上」
悲鳴のようにけたたましい笑い声を、おんながあげる。
「ラウール、ラウール! 随分待たせてくれたじゃない」
クレールは、狂気の輝きを目に宿して吠えるように語る。
「ねえ、五年よ。わたしは、五年も待った。ひとくちに五年っていうけれど、夜が」
「夜が、千八百回」
ルパンは、嘲るような笑みを浮かべて言った。
クレールは、胸を刺されたような顔をして黙る。
「朝が、千八百回、昼も同じだけ」
ルパンは、恋人に語るような甘い声で言う。
「聞いたようなこと、言ってるんじゃあねえよ、クレール」
殺意で殺せるのなら、ルパンは百度は死んだであろう。
そんな瞳で、クレールはルパンを睨み拳銃を向ける。
「どうでもいい、ルパン。あなた、ここで死ぬんだから」
「やめろ!」
ジョシュアが、絶叫する。
「そうだ、はじめから判ってたことじゃないか」
ジョシュアは、誰に向けてということもなく、呟くように語る。
「ディラックの海へエネルギーを照射すれば、そこに溶け込んでいた物質が生成される。しかしそれは、ディラック博士のいうとおりに」
ジョシュアの目が、狂おしく光る。
「反物質なんだ」
「何を、言ってる」
警部が、苦しげに言った言葉にジョシュアが答える。
「元々存在してディラックの海へ溶け込んだものが浮上するのは、問題ない。しかし、存在しないものをこの世に作り出すなら当然対創成となる」
警部は、眉をしかめて問う。
「対創成とは?」
ジョシュアは呪いの言葉を吐くように、言った。
「ディラックの海から物質が正のエネルギーを得て新たに創造される場合、正の物質、反物質それぞれ一つづつ対になって産み出される。そうでなければ、エネルギー保存則が崩れてしまう。だが、正物質は正のエントロピーも同時に得るので、崩れ去る。反物質は負のエントロピーを得るから、生き残る。生き残るのは、反物質なんだ」
ジョシュアの目が、昏くつり上がった。
「反物質に正の物質がふれると、対消滅がおこりemc2の方程式どおりエネルギーへ変換される」
ジョシュアは、震えていた。
「あれだけの質量が対消滅したら、地球ごと吹き飛ぶ」
気が付くと、ルパンの両脇にはガンマンとサムライがいた。
ふたりは、隠し持っていたナイフでアラミド繊維のネットを切り裂いたらしい。
そもそも彼らは、捕まっていたわけではなかった。
単に、時間稼ぎをするためにそう、見せかけていただけなのだ。
彼らは、待っていた。
ルパンが、登場するのを。
今、ガンマンはS&W・M500を両手に構え、サムライはハイス鋼の剣を腰にためている。
ガンマンは、ルパンに笑いかけた。
「いやあ、ほれぼれするような登場ぶりだったぜ、ラウール」
「ありがとよ」
ルパンは、ウィンクして見せた。
「おい、クレール」
ガンマンは、揶揄うような調子で言う。
「撃ってみろよ、おれより速く撃てるってんならな」
「くだらない」
ナオミが、地の底から響くような声で言った。
「ルパン、お前は天使の化石をなんとくだらない使い方をするんだ」
ルパンは、楽しげに高笑いする。
「おいおい、ロスチャイルド。お前まさかこのおれが、お前らとちまちま所有権を巡って戦うとでも思ってたのかよ」
ナオミは、昏い瞳でルパンを見つめる。
冥界の王がごとき陰鬱な表情をして、怒りと哀しみをその瞳へ宿らせていた。
「我々は世界というゲーム盤を前にして、対峙していたものと思っていたが」
ルパンは、子供のように腹を抱えて笑った。
それに、ガンマンとサムライの嘲笑があわさる。
「ゔわぁっかじゃねぇの、じいさん」
ルパンは、笑って涙を流しながらナオミを指差す。
「おれたちはさあ、泥棒なの」
ルパンは、急に真面目な顔に戻り、言った。
「お前から、世界そのものを盗む。始めっからそれが目的よ。耄碌してんじゃねえぞ、じいさん」
ナオミは、大審問官のような溜め息を低くつく。
「ルパン、お前のやることに意味は無い。子供じみたことはよせ」
「いかにも、おれは餓鬼さ」
ルパンは、にやりと笑う。
「それの何が、悪いよ」
「ごちゃごちゃ、うるさい」
クレールが叫ぶと、安全ピンをはずした手榴弾を放り投げた。
予想外の行動にガンマンの動作が一拍遅れ、M500が手榴弾目がけて火を吹く。
轟音が響き渡り、爆炎があたりを覆う。
「くそっ」
ジョシュアは、目を見開き爆炎の向こうにいるルパンを追う。
ワイヤーが天使の卵に向かって、伸びている。
ルパンの腰につけられたウィンチが動き、ルパンは爆炎の上へと登ってゆく。
ジョシュアは、絶叫する。
「やめろぉ!」
警部は、溜め息をついた。
「どうやら、念仏を唱える暇もなさそうだ」
青い光を放つルパンは、月の光の下へと姿を現す。
澄んだ南の海が放つ光を帯びたルパンは、愛しいものを眺めるように天使の卵を見た。
「予告どおり、頂戴するぜ」
ルパンは拳を振るって、天使の卵が納められていたケースを粉砕する。
綺羅綺羅輝きながら、透明な雪のように破片が舞い散った。
そして、青く輝くその手を卵に向かってのばす。
一瞬、そこにいるひとびとは、時間が凍りついたように感じた。
しかし、容赦なくその時はやってくる。
世界のどこか遠くで、たったひとりの怪物が目覚めたように感じた。
ほんのひととき、永遠のように感じられるほんのひとときの静寂の後、莫大なエネルギーが解放される。
世界に、白い闇が落ちてくる。
クレールは、灰色の闇の中で目覚めた。
自分が生きていることに、少し驚きを覚えた。
生きている、いや、本当に生きているといえるのか?
クレールは上半身を起こし、自分が灰色の砂に埋まっていたことに気がつく。
全ては、灰色の砂に埋まっていた。
そこがかつては都市であったらしいことは、砂に埋まっても尚微かにその形を現している廃墟によって判る。
ふと、クレールは気がつく。
これは、砂では無く灰なのだと。
世界が崩壊し、砂のように細かくなった灰があたりに降り積もっているのだ。
空も鈍い灰色で、埋め尽くされている。
空からは粉雪よりも尚細かな灰が、降り続けているようだ。
その灰が覆った空の果てに、銀色の円盤となった太陽が輝いている。
クレールは、蹌踉めきながら立ち上がった。
身体を、確かめる。
最後に、塔の最上階にいた時に身につけていたアーミージャケットそのままの姿であった。
傷は、どこにもないように見える。
ふと、クレールの視界に真紅が現れた。
その真紅は灰色の世界に垂らされた、一滴の血である。
クレールは無意識のうちに、その真紅に向かって歩いていった。
それは、真紅のアルファロメオである。
アルファロメオ・ジュリアは幌を収納し、オープンカーの状態になっていた。
ガンマンがハンドルを握り、サムライがナビゲータシートに座っている。
そしてその後部座席には、青いテーラードスーツを着たおとこが座っていた。
眠たげな瞳に、スナイパーの鋭さを宿して前を見ているおとこ、ルパンである。
クレールは駆け寄ろうとして、ふと足をとめた。
ルパンの眼差しが向けられているその先に、ひとりのおとこが立っていたためだ。
白衣を翼のようにはためかせ、漆黒のシャツをその下に纏うおとこ。
その姿は、天使にして悪魔のようである。
ルパンが、口を開いた。
「よぉ、ミハイル・アジュケナージ。久しぶりだな」
ミハイルは、礼儀正しく礼をする。
ルパンは、面白がっているような少し哀しみを溶け込ませているような不思議な笑みで、ミハイルを見た。
「答え合わせを、しようじゃねぇか」
ルパンは、謎をかけるスフィンクスの瞳でミハイルを見る。
そしてその笑みは、全てを俯瞰した哲学者のものであった。
「おれはあの天使の化石について色々調べはしたさ、でも実際手に入れたあんたの知識には及ばないかもしれないしな」
ミハイルは、学者の顔で頷く。
「わたしの知ってることは、全て答えますよ」
「いいだろう。まず、天使の化石はプルトニウムから発する中性子線で照射したものを、エネルギーが負の状態にしてディラックの海に引き込むことができる。つまり天使の化石は負のエネルギーが付加された中性子を、照射する。これはいいよな」
ミハイルは、頷く。
「で、ディラックの海に引き込んだものは、ガンマ線の照射で取り出すことができる。しかし、おれやあんたのように一度死んだもの、失われてただの情報に還元されたものは、ディラックの海からは引き出せない。そいつが現れるときは、反物質と正物質の対創成となる。そういうことだな?」
ミハイルは、再び頷いた。
ルパンは、子供のように無邪気で老人のように草臥れた笑みを見せて頷く。
「さて、その反物質が対消滅して世界全体にマイナスエネルギーの中性子線が照射されてディラックの海へ沈んだ、ここはその海の底でいいんだよな」
ミハイルは、口を開く。
「物理学者なら、そういいますが。魔女であれば、ここは怪物の夢というでしょうな」
ルパンは、あははと笑った。
「戯れ言はいいよ。ここからが、答え合わせだ。世界は、この海底からもう一度出現することになる。しかし、それには存在を一意に収縮させる観測者が必要だ。その辺は、ハイゼンベルク博士の不確定性原理やコペンハーゲン解釈のとおりになる。おれたちは、箱の中にいるシュレディンガーの猫だ。箱から出すには、誰かが観測という夢を見ないといけない」
ミハイルは、頷いた。
「世界は、誰かの夢になって蘇ります」
「で、その誰かは、誰なんだ? おれか? おまえか?」
ミハイルは、突然笑った。
悪魔のように邪悪で、天使のように残酷な笑み。
「あなたが決めればいい、ラウール。なぜなら」
ミハイルは、獲物を狙う猛禽の目でルパンを見る。
「天使の化石を納めた卵は、あなたの手にあるんだから」
「さあてなぁ」
ルパンは、ひょいと懐から卵の形をした石を取り出す。
「おれやあんたじゃあ、つまらない夢しか見れないと思うんだよね」
ミハイルは、少し驚いた顔した。
「泥棒であるあなたが創造主になることは望まないと思ってはいましたが、では誰に委ねるというのです」
ルパンは、ぼーんとその石で出来た卵を後ろへ向かって、放り投げる。
クレールは、驚きと共にその卵を受け取った。
「おまえが、世界を創れ。クレール」
クレールは目を見開き、言葉を失う。
ミハイルが、呆れたように笑い声をあげた。
ルパンは、それを無視してクレールに語る。
「世界はなぁ、やっぱりおんなが創るべきだと、おれは思うよ」
クレールは、大きく息を吸って吐き出す。
ミハイルが、笑いながら口をはさむ。
「やれやれ、ラウール。わたしたちは共同正犯なんでしょう」
「まあな」
ルパンは、少し疲れたような笑みを浮かべる。
「おれが、マスティマ・プログラムに仕込んだ仕掛け、あれはミハイル、おまえも気がついたろうからな」
「マスティマ、まさに悪魔にして天使であるその名に相応しい、趣向です」
ミハイルは、狂おしい目でルパンを見た。
「世界を創造する権利があるのは、わたしかあなたルパン、そのどちらかではないですか?」
「まあ、そうだがなぁ」
ルパンはのんきな口調で、言った。
「おんながいりゃあ、そいつ中心に物事はまわる。そういうもんだろ」
真っ黒な殺意が、魔神の笑みを浮かべたミハイルから巻き起こる。
その瞬間、一発の銃声が轟きミハイルは頭から血飛沫をあげ倒れた。
「殺したのか?」
ルパンの問いに、リボルバーを腰に戻しながらガンマンが答える。
「掠っただけだがね。50口径マグナムだ。脳震盪をおこしているさ」
ルパンは、肩をすくめる。
そしてクレールのほうを向くと、楽しげに言った。
「ひとつ聞きたいんだがな、クレール。なんでおまえは、おれを殺そうとするんだ」
「そんなことも、判らないの?」
クレールは、毒を吐き出す口調で言った。
「あんたを手に入れるためよ、ルパン。所有の究極は消費して蕩尽することなの、知ってるでしょ。あなたは世界を蕩尽して、手に入れた」
ルパンは、子供と老人が同居した笑みを、また見せた。
「わたしもあんたを蕩尽して、手に入れる。同じことじゃないの?」
ルパンは、げらげらと笑う。
「違うなあ、おれは泥棒だ。盗むのが目的で所有するのは、おれの役目じゃない。だからクレール。おまえが世界を創るといい。今度は」
ルパンは、魔物の笑みを浮かべた。
「おれがおまえを追いかけ回すような、世界にするといいさ」
クレールは苦笑したが、ルパンは真面目な顔で語る。
「いいか、クレール。世界を、対創成すればいい。正物質の地球は、ロスチャイルドにくれてやれ。反物質の地球を、おれたちでいただこう」
クレールは、眉をひそめる。
「地球をふたつなんて、無茶よ」
「かまいやしねえよ。太陽の公転軌道180度向こう側にそれぞれを配置する。互いに相手が見えないまま、太陽の回りを廻るのさ。正の地球と反地球がね」
ルパンの瞳は真夜中の太陽が放つ、暗い輝きを宿している。
「できるできないではない、やれクレール。こいつはおれたちの最初にして最後のエクソダスだ」
ルパンの言葉には、刃物が潜んでいるようだ。
それはクレールのこころを、切り裂いていく。
「いいか、天使の化石はひとつの生命体なんだ。おれたちとは別の種類の生き物であり、代謝としてプルトニウムの核分裂をおこす危険な存在だがな。こころで、呼び掛けろ。やつは、きっと応える」
クレールは、自分の中にある怒りや哀しみ、喜びや苦悩全てを手の中にある石の卵にぶつけてみる。
クレールは、自分が空っぽになるかと思うくらいありったけの感情を絞りだした。
何故か、脳裏に少女の映像が浮かぶ。
花のように儚げな笑みを浮かべる、可憐な少女。
その子が、呟く。
(いいわよ、クレール。あなたの願い、聞いてあげる)
クレールの瞳に、暁の炎が灯った。
手の中にある、天使の卵がずしりと重くなった気がする。
透明できらびやかな、水晶が歌っているかのような音が聞こえた。
光が踊る様を思わせるその音楽は、頭上で円を描き回っているようだ。
クレールは、空を見上げる。
そこにあるのは灰色の空ではなく、菫色の輝きを持った光の幕だ。
夜明けの空が持つ美しさを備えたその光を見て、クレールはそっと息をのむ。
これは一体、なんだろう。
宙を満たしていく菫色の輝きは、春の空が持つ鮮やかな色彩である。
その中に、無数の刃が突き立てられるかのごとく、金色の骨が出現していく。
クレールは、そっと頷いた。
そう、これは天使の化石が降臨する様なのだ。
しかし、現実の世界と違うことがある。
この世界での天使は、反物質であった。
天使の化石は鮮やかな紫に空を染め上げ、金色に輝く骨を結晶が成長していく様を真似たように広げていく。
金と紫と、骨の内側に抱えられた黒い闇。
それらが、一度に出現していった。
それは、黙示録の光景であり、あまりの荘厳さにクレールは言葉を失う。
水晶の歌は、轟くような音になっていた。
光と音は、狂乱しているかのように灰色の世界を蹂躙していく。
ルパンが、叫ぶ。
「さあ、クレール。天使を従えて、世界を築け!」
そして、ログナロクを駆けるロキの笑い声をあげた。
クレールは、ゆっくりと天使に向かって手を伸ばす。
天使はそれにこたえるように、金と紫と死の黒で彩られた骨の腕をさし伸ばした。
クレールは、その腕に抱きかかえられていく。
天使の抱擁を受けた瞬間、時間が結晶化して凍りついたように感じた。
それは、永遠にも似た一瞬である。
そして宇宙に向かって、ガンマ線が放出された。
ディラックの海が、轟音と共に揺らぐ。
光の剣が、天使から世界中へ放出されていく。
クレールは、意識が純白の闇へ呑み込まれるのを感じた。
自分が生きていることに、少し驚きを覚えた。
生きている、いや、本当に生きているといえるのか?
クレールは上半身を起こし、自分が灰色の砂に埋まっていたことに気がつく。
全ては、灰色の砂に埋まっていた。
そこがかつては都市であったらしいことは、砂に埋まっても尚微かにその形を現している廃墟によって判る。
ふと、クレールは気がつく。
これは、砂では無く灰なのだと。
世界が崩壊し、砂のように細かくなった灰があたりに降り積もっているのだ。
空も鈍い灰色で、埋め尽くされている。
空からは粉雪よりも尚細かな灰が、降り続けているようだ。
その灰が覆った空の果てに、銀色の円盤となった太陽が輝いている。
クレールは、蹌踉めきながら立ち上がった。
身体を、確かめる。
最後に、塔の最上階にいた時に身につけていたアーミージャケットそのままの姿であった。
傷は、どこにもないように見える。
ふと、クレールの視界に真紅が現れた。
その真紅は灰色の世界に垂らされた、一滴の血である。
クレールは無意識のうちに、その真紅に向かって歩いていった。
それは、真紅のアルファロメオである。
アルファロメオ・ジュリアは幌を収納し、オープンカーの状態になっていた。
ガンマンがハンドルを握り、サムライがナビゲータシートに座っている。
そしてその後部座席には、青いテーラードスーツを着たおとこが座っていた。
眠たげな瞳に、スナイパーの鋭さを宿して前を見ているおとこ、ルパンである。
クレールは駆け寄ろうとして、ふと足をとめた。
ルパンの眼差しが向けられているその先に、ひとりのおとこが立っていたためだ。
白衣を翼のようにはためかせ、漆黒のシャツをその下に纏うおとこ。
その姿は、天使にして悪魔のようである。
ルパンが、口を開いた。
「よぉ、ミハイル・アジュケナージ。久しぶりだな」
ミハイルは、礼儀正しく礼をする。
ルパンは、面白がっているような少し哀しみを溶け込ませているような不思議な笑みで、ミハイルを見た。
「答え合わせを、しようじゃねぇか」
ルパンは、謎をかけるスフィンクスの瞳でミハイルを見る。
そしてその笑みは、全てを俯瞰した哲学者のものであった。
「おれはあの天使の化石について色々調べはしたさ、でも実際手に入れたあんたの知識には及ばないかもしれないしな」
ミハイルは、学者の顔で頷く。
「わたしの知ってることは、全て答えますよ」
「いいだろう。まず、天使の化石はプルトニウムから発する中性子線で照射したものを、エネルギーが負の状態にしてディラックの海に引き込むことができる。つまり天使の化石は負のエネルギーが付加された中性子を、照射する。これはいいよな」
ミハイルは、頷く。
「で、ディラックの海に引き込んだものは、ガンマ線の照射で取り出すことができる。しかし、おれやあんたのように一度死んだもの、失われてただの情報に還元されたものは、ディラックの海からは引き出せない。そいつが現れるときは、反物質と正物質の対創成となる。そういうことだな?」
ミハイルは、再び頷いた。
ルパンは、子供のように無邪気で老人のように草臥れた笑みを見せて頷く。
「さて、その反物質が対消滅して世界全体にマイナスエネルギーの中性子線が照射されてディラックの海へ沈んだ、ここはその海の底でいいんだよな」
ミハイルは、口を開く。
「物理学者なら、そういいますが。魔女であれば、ここは怪物の夢というでしょうな」
ルパンは、あははと笑った。
「戯れ言はいいよ。ここからが、答え合わせだ。世界は、この海底からもう一度出現することになる。しかし、それには存在を一意に収縮させる観測者が必要だ。その辺は、ハイゼンベルク博士の不確定性原理やコペンハーゲン解釈のとおりになる。おれたちは、箱の中にいるシュレディンガーの猫だ。箱から出すには、誰かが観測という夢を見ないといけない」
ミハイルは、頷いた。
「世界は、誰かの夢になって蘇ります」
「で、その誰かは、誰なんだ? おれか? おまえか?」
ミハイルは、突然笑った。
悪魔のように邪悪で、天使のように残酷な笑み。
「あなたが決めればいい、ラウール。なぜなら」
ミハイルは、獲物を狙う猛禽の目でルパンを見る。
「天使の化石を納めた卵は、あなたの手にあるんだから」
「さあてなぁ」
ルパンは、ひょいと懐から卵の形をした石を取り出す。
「おれやあんたじゃあ、つまらない夢しか見れないと思うんだよね」
ミハイルは、少し驚いた顔した。
「泥棒であるあなたが創造主になることは望まないと思ってはいましたが、では誰に委ねるというのです」
ルパンは、ぼーんとその石で出来た卵を後ろへ向かって、放り投げる。
クレールは、驚きと共にその卵を受け取った。
「おまえが、世界を創れ。クレール」
クレールは目を見開き、言葉を失う。
ミハイルが、呆れたように笑い声をあげた。
ルパンは、それを無視してクレールに語る。
「世界はなぁ、やっぱりおんなが創るべきだと、おれは思うよ」
クレールは、大きく息を吸って吐き出す。
ミハイルが、笑いながら口をはさむ。
「やれやれ、ラウール。わたしたちは共同正犯なんでしょう」
「まあな」
ルパンは、少し疲れたような笑みを浮かべる。
「おれが、マスティマ・プログラムに仕込んだ仕掛け、あれはミハイル、おまえも気がついたろうからな」
「マスティマ、まさに悪魔にして天使であるその名に相応しい、趣向です」
ミハイルは、狂おしい目でルパンを見た。
「世界を創造する権利があるのは、わたしかあなたルパン、そのどちらかではないですか?」
「まあ、そうだがなぁ」
ルパンはのんきな口調で、言った。
「おんながいりゃあ、そいつ中心に物事はまわる。そういうもんだろ」
真っ黒な殺意が、魔神の笑みを浮かべたミハイルから巻き起こる。
その瞬間、一発の銃声が轟きミハイルは頭から血飛沫をあげ倒れた。
「殺したのか?」
ルパンの問いに、リボルバーを腰に戻しながらガンマンが答える。
「掠っただけだがね。50口径マグナムだ。脳震盪をおこしているさ」
ルパンは、肩をすくめる。
そしてクレールのほうを向くと、楽しげに言った。
「ひとつ聞きたいんだがな、クレール。なんでおまえは、おれを殺そうとするんだ」
「そんなことも、判らないの?」
クレールは、毒を吐き出す口調で言った。
「あんたを手に入れるためよ、ルパン。所有の究極は消費して蕩尽することなの、知ってるでしょ。あなたは世界を蕩尽して、手に入れた」
ルパンは、子供と老人が同居した笑みを、また見せた。
「わたしもあんたを蕩尽して、手に入れる。同じことじゃないの?」
ルパンは、げらげらと笑う。
「違うなあ、おれは泥棒だ。盗むのが目的で所有するのは、おれの役目じゃない。だからクレール。おまえが世界を創るといい。今度は」
ルパンは、魔物の笑みを浮かべた。
「おれがおまえを追いかけ回すような、世界にするといいさ」
クレールは苦笑したが、ルパンは真面目な顔で語る。
「いいか、クレール。世界を、対創成すればいい。正物質の地球は、ロスチャイルドにくれてやれ。反物質の地球を、おれたちでいただこう」
クレールは、眉をひそめる。
「地球をふたつなんて、無茶よ」
「かまいやしねえよ。太陽の公転軌道180度向こう側にそれぞれを配置する。互いに相手が見えないまま、太陽の回りを廻るのさ。正の地球と反地球がね」
ルパンの瞳は真夜中の太陽が放つ、暗い輝きを宿している。
「できるできないではない、やれクレール。こいつはおれたちの最初にして最後のエクソダスだ」
ルパンの言葉には、刃物が潜んでいるようだ。
それはクレールのこころを、切り裂いていく。
「いいか、天使の化石はひとつの生命体なんだ。おれたちとは別の種類の生き物であり、代謝としてプルトニウムの核分裂をおこす危険な存在だがな。こころで、呼び掛けろ。やつは、きっと応える」
クレールは、自分の中にある怒りや哀しみ、喜びや苦悩全てを手の中にある石の卵にぶつけてみる。
クレールは、自分が空っぽになるかと思うくらいありったけの感情を絞りだした。
何故か、脳裏に少女の映像が浮かぶ。
花のように儚げな笑みを浮かべる、可憐な少女。
その子が、呟く。
(いいわよ、クレール。あなたの願い、聞いてあげる)
クレールの瞳に、暁の炎が灯った。
手の中にある、天使の卵がずしりと重くなった気がする。
透明できらびやかな、水晶が歌っているかのような音が聞こえた。
光が踊る様を思わせるその音楽は、頭上で円を描き回っているようだ。
クレールは、空を見上げる。
そこにあるのは灰色の空ではなく、菫色の輝きを持った光の幕だ。
夜明けの空が持つ美しさを備えたその光を見て、クレールはそっと息をのむ。
これは一体、なんだろう。
宙を満たしていく菫色の輝きは、春の空が持つ鮮やかな色彩である。
その中に、無数の刃が突き立てられるかのごとく、金色の骨が出現していく。
クレールは、そっと頷いた。
そう、これは天使の化石が降臨する様なのだ。
しかし、現実の世界と違うことがある。
この世界での天使は、反物質であった。
天使の化石は鮮やかな紫に空を染め上げ、金色に輝く骨を結晶が成長していく様を真似たように広げていく。
金と紫と、骨の内側に抱えられた黒い闇。
それらが、一度に出現していった。
それは、黙示録の光景であり、あまりの荘厳さにクレールは言葉を失う。
水晶の歌は、轟くような音になっていた。
光と音は、狂乱しているかのように灰色の世界を蹂躙していく。
ルパンが、叫ぶ。
「さあ、クレール。天使を従えて、世界を築け!」
そして、ログナロクを駆けるロキの笑い声をあげた。
クレールは、ゆっくりと天使に向かって手を伸ばす。
天使はそれにこたえるように、金と紫と死の黒で彩られた骨の腕をさし伸ばした。
クレールは、その腕に抱きかかえられていく。
天使の抱擁を受けた瞬間、時間が結晶化して凍りついたように感じた。
それは、永遠にも似た一瞬である。
そして宇宙に向かって、ガンマ線が放出された。
ディラックの海が、轟音と共に揺らぐ。
光の剣が、天使から世界中へ放出されていく。
クレールは、意識が純白の闇へ呑み込まれるのを感じた。
バビロン・エリアに天高く聳えるザ・タワーの前に、一台のセダンが停められている。
ひとりのポリスジャケットを纏ったおとこが、その箱型をした武骨なセダンの前にたたずんでいた。
ザ・タワーの正面玄関から姿を現した警部を見ると、律儀に敬礼をする。
警部は、軽く頷き苦笑を浮かべながら言った。
「ご苦労、こちらは全く無駄足だったよ」
ポリスジャケットのおとこは、セダンの扉を開きながら答える。
「何も、おこらなかったのですね」
警部は頷きながら、セダンに乗り込む。
警部を乗せたセダンは、夜の闇へ走り出す。
「予告時間を過ぎても、何も起こらなかった。手の込んだイタズラのようだ」
それにしても、と警部は思う。
何か、違和感がある。
とても大事なことを、忘れ去っているかのようだ。
ふと思いついたことを、口にする。
「あのザ・タワーを設計した建築家は、誰だったかな」
運転しているおとこは、首をかしげる。
「さあ、公開されてなかったと思うのですが。あれはロックフェラー財閥系の企業が建てましたから、その企業と契約した技師だと思うんですが。調べますか?」
「いや、いい」
警部は、気のない返事をした。
運転しているおとこは、気にすることもなく口を開く。
「予告したのは、怪盗813号ですよね。なんだか、こどものころ読んだ冒険小説を思い出しましたよ。確か、ルパンといったか」
その瞬間、警部は刃物で胸を抉られたかのように息をとめる。
それは、デシャビュにも似ていた。
しかし、過去の出来事ではなく、別の世界で起こったことを警部は現実でおこったことだと思うような、不思議な感覚にとらわれている。
自分はどこか別の世界で、ルパンと対峙し対決した。
それは何の根拠も無いにも関わらず、とても深い確信となっている。
その世界は、多分無かったことになった。
奪われたのだ、きっと。
「顔色が悪いですね、明神下警部。停めましょうか?」
警部は、蒼ざめた顔でゆっくりと首を振った。
「いや、いい。これではまるで」
警部は、独り言のように呟く。
「世界を盗まれたような、気分だ」
運転席のおとこは驚いた顔をしてバックミラー越しに警部を見たが、警部はその後何も言わなかった。
セダンは、夜の街を走り去ってゆく。
夜の闇が、セダンを包み込んでいった。
完
ひとりのポリスジャケットを纏ったおとこが、その箱型をした武骨なセダンの前にたたずんでいた。
ザ・タワーの正面玄関から姿を現した警部を見ると、律儀に敬礼をする。
警部は、軽く頷き苦笑を浮かべながら言った。
「ご苦労、こちらは全く無駄足だったよ」
ポリスジャケットのおとこは、セダンの扉を開きながら答える。
「何も、おこらなかったのですね」
警部は頷きながら、セダンに乗り込む。
警部を乗せたセダンは、夜の闇へ走り出す。
「予告時間を過ぎても、何も起こらなかった。手の込んだイタズラのようだ」
それにしても、と警部は思う。
何か、違和感がある。
とても大事なことを、忘れ去っているかのようだ。
ふと思いついたことを、口にする。
「あのザ・タワーを設計した建築家は、誰だったかな」
運転しているおとこは、首をかしげる。
「さあ、公開されてなかったと思うのですが。あれはロックフェラー財閥系の企業が建てましたから、その企業と契約した技師だと思うんですが。調べますか?」
「いや、いい」
警部は、気のない返事をした。
運転しているおとこは、気にすることもなく口を開く。
「予告したのは、怪盗813号ですよね。なんだか、こどものころ読んだ冒険小説を思い出しましたよ。確か、ルパンといったか」
その瞬間、警部は刃物で胸を抉られたかのように息をとめる。
それは、デシャビュにも似ていた。
しかし、過去の出来事ではなく、別の世界で起こったことを警部は現実でおこったことだと思うような、不思議な感覚にとらわれている。
自分はどこか別の世界で、ルパンと対峙し対決した。
それは何の根拠も無いにも関わらず、とても深い確信となっている。
その世界は、多分無かったことになった。
奪われたのだ、きっと。
「顔色が悪いですね、明神下警部。停めましょうか?」
警部は、蒼ざめた顔でゆっくりと首を振った。
「いや、いい。これではまるで」
警部は、独り言のように呟く。
「世界を盗まれたような、気分だ」
運転席のおとこは驚いた顔をしてバックミラー越しに警部を見たが、警部はその後何も言わなかった。
セダンは、夜の街を走り去ってゆく。
夜の闇が、セダンを包み込んでいった。
完