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05.弐倉

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 不可視の魔法が二段四十四枚の牌山を作り、そして僕と弐倉はそこから四牌ずつ取った。
『では、ジャンケンを』
 言われるまでもない。
 僕はグーを出した。弐倉はチョキ。
 僕の先攻だ。
 最初に一牌引いてから、五枚になった手牌を開けてみる。

 67青 127赤

 字牌なし。全て数牌だ。ここから一枚切っていくことになる。
 さて……どうする。
 選択肢としては、赤のカラードを目指して青の67を切り飛ばしていくか、もしくは青の67の形のよさ……5を引いても8を引いてもセットになるという利点を重要視して、赤の127から切っていくか。
 ただ、次の順に赤の3を引いて来ればそれでカラード完成。しかし待ちは7と悪い。
 赤の7は二枚しかないため、アガれる確率はとても低い……青の7が来てもアガリはアガリだが。
 僕は結局、赤の7を切り飛ばした。

 青67 赤12

 この形を維持。3―5―8、何色のどれを引いてもゾーンに入れる。
 無理をする必要はない……弐倉戦は七点先取。
 まずは速くアガってリードを取りたい。
「…………」
 弐倉も牌を引き、打つ。
 無色の悪牌。
 字牌整理だが、油断は出来ない。
 僕は弐倉を睨みつつ、二順目の牌を引いた。
「……っ!」
 思わず卓を叩きそうになった。
 それは、赤の5。
 ゾーンには入れるが、カラードにはならないし、待ちも赤の1―2のどちらかで悪い。
 畜生、嫌な気分だ。
 僕は普通に赤の2を切り出した。
 手牌は、

 赤5 青67 赤1

 数字を優先した書き方をすればこうなる。
 赤でも青でも、1が来ればアガリだ。僕は弐倉を見た。
 打て……
 打てば一点。カラードで短期決着はできないが、一点は一点だ。
 そして、あっけなく
「……1」
 弐倉が青の1を打った。
 ロンだ、ロンだが……
 僕の手は動かなかった。吸い寄せられるように視線が青の67にいく。
 悪くない形だ。悪くない。
 弐倉の手が遅ければ。
 モタモタしていてくれれば。
 カラードを目指せるかも……
 これがたとえば、青の5と7に赤の6が紛れ込んでいたら、僕も弐倉の赤1でアガっていたかもしれない。
 だが、青の67は連番なのだ。
 まだ、いくらでも手に変化がある。
 まだ二順。
 まだ二順じゃないか……
 僕はびっしょりと冷や汗をかきながら、そう胸の内で呟き、……弐倉の青1を無視した。
 つまり、アガリを、
 無視した。
 そして牌を引く。
 来たのは、
 ……青の8。
 文句なく、僕は赤の1を合わせ打ちした。
 これで手牌は

 赤5 青678

 待ちは5―8。カラードではないから引いても一点だ。出来ればここから、なんでもいい、青を引きたい。
「……手が進んでるようだな?」
 弐倉の問いかけに、僕はぐっと喉に綿を突っ込まれたような気がした。奴が、こちらを興味深そうに見ている。
 くそ、見るな、僕のことなんか……
 いつもは無視しているくせに……
 こんな時だけ……!!
「私ももうすぐゾーンに入る。打ち合いになりそうだな」
「……黙ってやってくださいよ、先生」
「ふん……」
 弐倉が牌を引く、少しそこで考え、手牌から苦牌を打った。字牌だ。
 ……字牌?
 妙だ、と僕は思った。
 弐倉の捨て牌は、悪、青1、苦(手出し)。
 ということは、青の1を打つときに手牌の中に苦があったことになる。これは確定的に明らか。
 僕の頭脳が回転を始める。
 手の中に数牌と字牌があったら、まずは字牌から外すはずだ。
 それなのに弐倉は先に青の1を打った。
 なぜだろう。
 青の1の周りには何も来ないと思ったのか?
 それとも、いずれ僕の待ち牌になりそうだから先打ちした?
 だとしたら弐倉の読みはズレている、なぜなら1はその時にはもう、僕の待ち牌だったのだから。
 ……弐倉の読みが外れているだけなのか、いや、それだけじゃない気がする。
 手の中に苦牌がありながら切らない理由……それは、おそらくあったのだ。
 ――苦牌が三枚、手の中に。
 つまり、青の1を打った時の弐倉は、「私もそろそろゾーンに入る」どころじゃない。
 すでにあの時、ゾーンに入っていたのだ。
 こういう形だ。

 苦苦苦 ?

 この?待ち。
 そこにこの三順目、何かを引いて一枚字牌を落とした。なぜか。
 その方がいい待ちだから。
 たとえば?が5だとして、そこに6を引いて来れば待ちは4―7。
 5のままだと最大でアガリ牌は三枚しかないが、4―7待ちなら二種八枚で待てる。アガれる確率が確実に高い。
 いま、弐倉はゾーンを張っている。
 そして待ちは、良形だ。
「…………」
 僕は牌を引いた。
 青の9。
 ごくり、と生唾を飲み込む。
 赤の5を切り捨てれば、僕の手牌は青の6789。
 カラードだ。
 だが、赤の5は弐倉の本命・超危険牌。
 切れるかどうか。
 ……わからない。
 刺さる可能性は充分にある。
 だが、ここは行くべきだ。
 行かなきゃならない。だって……
 ……弐倉はカラードじゃないから。

 苦苦 ??

 この?に何が入ろうと、字牌が混ざっていることが確実である以上、それはカラードにはならない。
 つまり、赤の5を振り込んでも一点を失うだけ。
 しかし通れば、僕のカラードは青の6789。
 待ちそのものは六枚あるが、青の残り牌は6と9が一枚ずつ。
 だが、ゼロじゃない。
 三点先取の目が、まだある。
 あるじゃないか。
 それなら――
 僕は卓が震えるほどの力をこめて、赤の5を叩き切った。
 弐倉は、
 ……動かない。
 やった。
 通った。
 青のゾーンに入った!
 これで弐倉が青の6か9を切れば。
 切れば――……
 そして、それは、
 あっけなく叶った。
「……9」
 青の9を弐倉が、少し迷いながらも、切った。
 僕は無我夢中で手牌を倒した。
「ろ、ロン!」
「……っ!!」
 苦虫を噛み潰したような弐倉の顔に、僕は心底ザマミロと思った。
「残念だったな、僕は張っていたんだ。お前と同じように……!! 青のカラード! 三点だ!」
『素晴らしい!』天井に浮き上がった天使が叫んだ。
『お見事です、錬!』
「よし、よしよしよし、よし!」
 僕はガッツポーズを作った。自分が倒したばかりの手牌を見る。
 こんなに。
 こんなに嬉しいことがあったなんて。
 最高の気分だった。
 世界が晴れ渡っていく気がする。
 不安なことなど何もない、心配の種など全て摘み取られた。
 そんな気配、そんな感覚。
 僕は笑顔を抑えきれずに弐倉を見た。そして、それを見た。
 弐倉の目に浮かぶ、ほの暗い闇を。
「…………」
 それは拒絶の視線だった。
 軽蔑の眼差しだった。
 自分のゆく道を遮る障害物、存在しなければどれほどいいかと思わずにはいられない邪魔者を見る目。
 もうさっきまでの教師然とした態度はどこにもなかった。
 僕は、大人にゴミとして見られていた。
「……なんだよ」
「……」
「なんだよその眼は」
「……鬱陶しいんだよ、お前」
 弐倉は手牌を崩した。
「昔っからな」
 教師に言われた、その言葉に、なぜだろう、別に僕は弐倉のことなんか好きじゃなかったのに。
 凄く凄く、傷ついた。
「…………」
 吐き気を覚えながら、僕も手牌を崩した。
『お二人とも、暴言はよくありませんよ。では、二回戦を始めます』
 ミザリルが牌山を整え直し、
『負けた方が先攻になります。弐倉、手牌をどうぞ』
 弐倉が手牌を取った。僕もそれを模倣する。
 落ち着け。
 落ち着くんだ。
 嫌われるなんて、疎まれるなんて。
 慣れてる。飽きてる。
 だから、平気だ。
 ハッキリ言われたって。
 罵られたって。
 弐倉を倒さなきゃ、僕は破滅する。
 それだけは、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
 ――勝たなきゃ。
 僕は手を開けた。

 そうだ、弐倉がどう言おうと、どう思おうと、関係ない。
 僕は三点先取したのだ。
 このアドバンテージは大きい。
 僕はこれからのんびりアガリを目指していき、余裕があったらカラードを狙えばいい。
 無理に拘り危険に身を晒す必要はない。
 なぜなら有利だから。
 怖いのは弐倉にカラードを直撃されることだけ。
 しかし、それはほとんどない。
 この青赤ゼロでは、捨て牌に青が多ければ青の、赤が多ければ赤のカラードを狙っている可能性は少ない。
 そんな余裕はないはずだから。
 つまり簡単な話、僕は弐倉が青を切れば青を、赤を切れば赤の牌を切っていればいいのだ。
 二戦目。
 僕の手牌は悪くなかった。

 青4 赤5 青6 赤8

 ラクなもので、開幕すでにゾーンに入っている。
 カラードでこそないが、弐倉が8を打てばそれでさらに一点。
「……ふむ」
 と、弐倉が何か考え込んでいた。
「どうかしたんですか、先生」
「いや、べつに。ただ、普通の手だなと思っただけだ」
 僕はピリリと警戒した。
 ……普通の手?
 そんな馬鹿なはずはない。
 もしそうなら素直に言ったりしない。嘘つきめ。
 くそったれ、弐倉は……おそらくカラード・チャンスが来たんだ。
 捨て牌は、青の1。
 ということは赤のカラードか……?
 僕は牌を引いた。赤の5だった。
 くそ、切れない。本命だ。最悪。
 僕は仕方なく青の4を切った。
 これで待ちは穴7待ち。
 だがさらに次順で赤の2を持ってきた。
 これも打てない。当然、青の6外しだ。
 僕の手牌は赤2558。
 まるでカラードのようだが、弐倉がゾーンを張っている可能性がある以上、ただただ危険牌が集まっているだけ。
 いっそ弐倉が引きアガってくれたらいいのに。
 そうすればカラードの引きアガリは零点、ただの仕切り直しになる。
 もしそうでなくても、青の5あたりを外してくれれば、赤の5が通る。
 たとえ弐倉が赤の46から青の5を外したのだとしても、同じ数字の赤5ではロンできない。
 頼む……
「くそっ」
 弐倉は舌打ちして、字牌を切り飛ばしてきた。
 手が進んでいないように見せかけているが……騙されてたまるか。
 この世は騙し合いだ。
 本当のことなんて誰も喋ってなんかいないのだ。
 嘘嘘嘘、嘘でこの世は満ちている。
 くだらない嘘で、どうしようもないまやかしでみんな騙し騙され生きている。
 僕は違うぞ。僕は騙されない。
 ……ここで油断すれば、喰われる。
 僕は牌を引いた。
 赤だった。数字は2。
 打てない。
 手牌はこれで赤の22558。真っ赤だ。
 いちおうカラードのゾーンではあるが、すでに三点先取しているのに、いまこんな大物手はいらない……
 くそ、弐倉の捨て牌に2―5―8は無い。
 切るしかない。
 そして僕の選択肢は、8を切るしかなかった。
 どれも危険なら、弐倉が切る可能性のある2―5待ちで……
 いや、待てよ?
 僕は8を切る手を止めた。
 なんだこれ。
 この手、カラードなんかじゃない。
 赤の牌は一つの数字につき二枚まで。この手は2―5待ちだが、赤の2―5牌はすべて僕が使い切っている。
 弐倉が打つ可能性があるのは青の2―5だけだ。
 ……なんてことだ、こんなことが起こっていいのか?
 せっかくありがた迷惑とはいえカラードのゾーンを張れたと思ったのに、危険牌を打たされたあげくにアガっても一点なんて……
 神様は気が狂ってる。
 これで8が刺さったら、殺してやる……
 僕は卓に叩きつけるように8を打った。
 それを見た弐倉が顔をしかめた。
「うるさいやつだな」
「人生が懸かってますから」僕は先生を睨んだ。
「……あんたが僕の人生をどうにかしてくれるわけじゃない、僕はあんたの言いなりにはならない」
「扱いにくいガキめ。だが、まァいいさ」
「え?」
「アガリだ」
 ガシャッ
 弐倉は手牌を倒した。
 青22赤8青8
 奇しくも、僕と似たような二面待ち。僕の8がアガリ牌だった。
「~~~~~~~~っ!!」
 喉から変な声が出る。
 なんで、どうして? こんな、こんな酷いことが起こるんだ?
 弐倉は不愉快そうに僕を見た。
「信じられない」
「……何が?」
「リードしているのはお前だろ、樹畑。よくも負けてる相手を前にして、そんなに悔しそうに出来るな。さっきカラードをアガられた時、私が動揺しなかったと思うのか?」
 ため息をつき、
「お前はつくづく子供だな。自分の思い通りにならなければ当り散らす。それと同じことを耐えている他の人間を無視して。……どうしようもないクズだ。本当にお前は、死んだ方がいい」
「……っ! あ、あんた、教師だろ! そんなこと言っていいのかよ!?」
「同じ口で、もう自分は私の教え子じゃないとも言ったな」
「……うるさいっ! 揚げ足ばかり取るな! だから教師は嫌いなんだ!」
「やれやれ。ミザリル、次のゲームだ」
『ええ、少々お待ちを』
 牌山が作り直され。
 第三ゲームが始まった。

 ああ、畜生。吐き気がする。
 僕は手牌を開けた。よさそうな手だった。
 そう、この〈ゼロ〉、どんな手牌でもそれほど悪くはないのだ。
 可能性は手を伸ばせばすぐにどこにでも転がっている。
 自分にも、そして同時に、相手にも。
 五順でようやくカラードを張った僕は、虎視眈々と弐倉の振込みを待った。が、なんの気なしに切った青の1で……
「ロン」
「え……」
 弐倉は青の4を切っていた。1―4はアンタッチャブル、僕からはアガれない安全な牌はずだったのに……だが弐倉の手を見て、僕は納得した。
 青1赤1 戦戦
 字牌と1の二面待ち。くそっ、引っ掛けられた!
「……卑怯者!」
「どこが。真剣勝負だろ」
「……教師なら、僕に勝ちを譲るべきだろ! 僕は子供なんだから……!」
「お前みたいな不良品、好きになる大人はいないよ」
「……っ!!」
『錬、牌を握り潰さないで下さい』
「黙ってろ……屑天使……!!」
 不良品って言われた。
 不良品って言われた!
 なんで? なんでなんでなんで?
 僕は頑張ってるのに。
 僕はただ、自分の身を守ろうとしているだけなのに。
 僕の心は簡単に傷つく。
 気にするな、落ち着け、冷静になれ。
 弐倉は敵だ、敵なんだ!
 いちいち敵の駄弁に付き合う必要はない、僕はリードしてるんだ、そう、まだ一点、リードが……
「さあ、第四ゲームだ、ミザリル」
『了解です』
 そしてゲームは進行し、あっさりと、僕は弐倉に放銃した。
「ロン」
「なっ……」
 まだ二順だった。
 僕が打ったのは悪牌。単騎待ちしかありえない字牌だ。
「くっそぉ!」
「仕方ないさ、なにせ俺の手は……」
 弐倉がバタリと手牌を倒す。

 悪戦苦闘

「四面待ちだからな」
「はあ!? ……あっ」
 そうか、そうだ。全部違う種類の字牌で、字牌ならどれでもアガれるという役があった。すっかり、忘れていた……だが、四種八枚しかない字牌を揃えるなんて、しかもまだ二順なのに……弐倉に幸運の女神が微笑みつつあるのか? いや、それはない。僕は震える手を握り締めた。そんなこと、あっちゃいけない……だって、
 弐倉が笑った。
 教師が生徒に見せる優しい作り物の笑顔で。
「最初のリードがなくなったな、樹畑」
「う……」
 そう、もう最初の三点はなくなったも同然だ。弐倉の三連続アガリでヤツも三点。同点だ。七点まで……あと四点。
 あと四点……
 僕にはそのゴールまで続く道が、遥か遠い未来へと続いているように漠然とした不安に包まれて見えた。
 手牌を取る手が震える。
「どうした?」弐倉が微笑む。
「負ければ先手だ。よかったじゃないか。そのまま押し切れるかも知れんぞ、樹畑」
「黙っていてください……」
 神経に障るんだ、男の声は。喉元を羽で触られたかのような不愉快さを感じながら、僕は手牌を開ける。
 青18 赤2 悪闘
 低いため息が漏れる。クソみたいな手だ。どうしろっていうんだ、こんなの。
 しかし……と考える。さっき弐倉にアガられた不快な手が蘇る。
 あの字牌の四面待ち、確かにあれは効果的だ。
 というか、このゼロで一番待ちが多いのはあの形じゃないのか?
 数牌じゃどれほど広く受けても3444、この2―5―3待ちが限界……のはずだ。
 アキトに負けてムカッ腹が立ったから、家でノートに書いて検証してみたのだ。これで間違いないはず。
 字牌は確かに数が少ない……しかし、狙う価値はある。
 僕は青の1から外していった。
 こういう時はとにかく端牌から切っていくに限る。
 もちろん、真ん中の牌を残していくと後々ロンされる可能性もあがってしまうが……
 弐倉は、特に音沙汰なく、字牌の悪牌切り。僕はもう持っているから不要な牌だ。
 そして僕の順目。
 するり、と戦牌が入ってきた。
 青8外し。

 赤2 悪戦闘

 赤のカラードを狙っているような気配を見せつつ、悪戦苦闘の一手待ち。
 僕は心臓がドキドキするのを感じていた。
 つらい。
 長距離走の授業を思い出して嫌な気分になる。
 僕は誰かに走らされるのが嫌いだ。
 それなのに、こんな勝負をさせられている。
 僕たち子供はいつだってそうだ。好きでもない文章を読まされ、得意でもない運動をやらされ、通いたくもない学校の門を潜らされる。よく調教された火の輪潜りの虎のように。
 弐倉は、その虎を飼育する調教師だ。
 こんな土壇場になってまで、僕の邪魔をする、調教師……
 僕に何も教えてくれず、救ってすらくれない。
 だから、良心の呵責なんて感じなかった。
 僕はこいつを殺すんだ。
 弐倉が打った苦牌を見て、僕は突き放すように手牌を倒した。
 悪戦苦闘はすでに出来ていた。
「ロン!」
「うぐっ……」
 弐倉が始めて苦しげな顔をした。字牌から離れたばかりの指が震えていた。
「……さっきの仕返しか。性格が、つくづく、悪いな……」
「僕を馬鹿にしているからだ」
 クスクス笑うミザリルを睨み、
「さあ、今度は僕が言う番……第五ゲームだ! さっさと牌山を直せ、屑天使!」
『本当に錬、あなたの口の悪さはとどまるところを知りませんねぇ』
 言いながら、見えない風のような力の流れが牌山を建て直す。
「僕は負けられないんだ」
「……私もそれは同じだ」
 弐倉と数秒、睨み合う。
「四点か。カラードをアガればお前の勝ちだが……そうはいかない。私もアガリ返せば同じ土俵だ」
「それはない」
「……何を根拠に?」
「この第五ゲームに限って、僕が絶対に有利だ」
『それはなぜです、錬?』
 興味を示したのは対戦相手の弐倉ではなく、壁の中の天使だった。
 透明な眼差しをしている。
『なぜです。なぜ、この第五ゲームに限ってあなたが有利なのです?』
「自分で考えろ」
『……あなたは第五ゲームに限ってと言いました。ただのハッタリならそんな言い方はしないでしょう』
「言葉遊びは大嫌いだ。いちいち揚げ足を取るな」
『教えてくれないと、ゲームを始めませんよ?』
「はあ?」
「牌が……」
 弐倉が呟いた。僕も慌てて手牌を起こそうとすると、卓に磁石でくっついたかのように張りついて、取れない。
「おい、ミザリル! 何やってるんだよ!」
『教えてくれないと、ヤです』
「く、屑天使め……いいよ、べつに、簡単なこと!」
 僕は弐倉を指差した。
「この人は、この五回戦でなんでもいいからアガらないと七点圏内に入らない。それに対して、僕はもう四点……可能性は低いけれど、カラードをアガるだけでゲームが決められる。それと同じことだよ」
『同じこと?』
「レートのプレッシャーが違う」
 自分で言うのもムカムカするが、僕は渋々白状した。
「僕は負けても、次がある……時間の猶予はないけれど、ここで終わりってわけじゃない。知野なんてどうでもいいしね。それに対して、弐倉は違う。天国行き候補者の弐倉は、負ければ地獄行きだ。あの手に引きずり込まれて……」
「……手?」
 弐倉が反応した。神経過敏になっていて、受験する高校の名前を聞いただけで飛び上がってしまう中学生のよう。
「手ってなんだ、おい」
「こういうことさ」
「答えろ! 樹畑!」
「嫌だ!」僕は怒鳴り返した。
「あんたたち教師は僕に何も教えなかった! 教えてなんかやるもんか、天国行き候補者が負けたらどうなるのか……どんな風に地獄へ落ちるのか! その身をもって知ればいい!!」
「や、やめろ……やめろっ!!」
 弐倉は卓を叩いた。いつのまにか接着から解かれていた牌山がガシャンと揺れた。
「それ以上、言うな……な、何も言うなっ!!」
「……これだよ、ミザリル」僕は微笑んだ。
「僕はこの第五回戦に限り、余裕がある。二重の面からこの男をリードしている。そして弐倉は焦らざるを得ない……僕は知ってる、このゲームがどれほど人を狂わすか。たとえ参加していなくても、どれほどの恐怖を味わうか」
 僕の脳裏に、コンクリートに吸い込まれて消えた月野の恐怖に染まった顔が蘇ってきた。醜くひきつれたあの表情、思い出すだけで吐き気がしてくる。
「この五回戦で終わらせてやる。弐倉」
 僕は教師を指差した。
「あんたは終わりだ、これから終わる」
 弐倉は、じっと僕の指先を見つめていた。
 その喉が、ごくり、と唾液を嚥下するのを僕は見た。


 特別なことはもう何もしなくていい。
 そう決めた。
 僕は新たに手牌を取る。最後にアガったのは僕だから先手は弐倉だ。
 手牌を開ける。

 青2 赤3 青79

 悪くはない。ただ出来ればゾーンに入っていて欲しかった。面倒だ。
 弐倉が青の2を打ってくる。向こうもゾーンか、それに近い形。そうだ、打ってくればいい。
 僕の順、引いた牌は闘牌、字牌だ。
 それを残して、赤3を切る。

 青279 闘

 形は悪くなった。23の形から3を外して1―4の受けを殺したからだ。
 だが、カラードを目指すなら赤などいらないし、後半弐倉のカラードに刺さるくらいなら今切ったほうがいい。僕は弐倉を見た。
 教師風のややこけた顔つきは、脂汗でびっしょりと汚れている。
 そうだ、ビビれ。
 いつもいつも偉そうにしやがって、所詮お役所仕事の三流が。
 お前なんかに僕のことがわかってたまるか。
 お前なんかに僕が負けるか。
 所詮偽物の大人。なんにも知りはしないんだ。
 子供の手牌すら読み切れないくせに、教師なんかが務まるかよ。
 そんなんじゃないんだ。
 本当の教師はお前みたいな奴なんかじゃない、もっとみんなのことを平等に、キチンと正しく導ける人間を教師と呼ぶんだ。
 こんな、デキの悪い生徒と見たら廊下に放り出してお茶を濁すことしか出来ないヤツはまがい物だ。
 それを今から教えてやる。
 この無能……

 弐倉が赤の7を切る。
 もう溢れてきたらしい。
 おそらく赤のゾーン、待ちは2―5―8か3―6―9か。
 1―4の可能性もなくはないが、僕が赤3を切っている
 。弐倉の手に赤3がある可能性は限りなく低い。
 1―4で刺さるなら、おそらくカラードではないだろう。
 僕はじりじりと手牌の角を撫でた。
 勝負所ってヤツだ。
 思えば、人生で勝負なんてしたことはなかった。
 なぜなら、僕からはそのチャンスが奪われてきたから。
 いつだって、何をするにしたって、誰かが先に持っていった。
 運動が得意なヤツがいればそいつが僕からボールを蹴る権利を奪い、勉強ができるヤツがいればそいつが僕に解答する機会を盗んでいった。
 ただ、僕より優れているというだけで。
 気に入らない理由、気に喰わない現実。
 そんなことばかりだった。
 確かに認めるよ、僕には何も無い。
 けれど何も無いからといって何もさせてもらないというのはどういうことだ?
 そんな余裕がこの世界にはないというのなら、生まれた瞬間に殺して欲しかった。僕は弐倉を睨む。
 いらないと言っておきながら、殺してくれもしない無能。
 そんなだから、勝てないんだよ、お前は。

 僕は牌を引く。
 じわり、とそれを手牌の上に置き、指先をそっとずらしていく。そして見る。
 赤5。
 僕はそれを手牌の中に入れた。
 背筋に悪寒が走る。
 最低最悪の引き。
 おそらくほとんど確実に、この牌は弐倉の手にぶち当たるだろう。
 カラードで三点取られれば、今度は僕がリードされる。
 そうなればほとんど負けたも同然。
 だが、僕は赤5を打った。
 弐倉が信じられないものを見る目で僕を見た。
「……正気か? いくらなんでも、それは……」
「僕はいま、リードしてる」
 僕は弐倉を睨み返した。
「わからないのか? ……ナメてんだよ、あんたを」
「こ……の……っ!!」
「早く引けよ、赤の3―6―9」
「……吠え面かくなよ」
 弐倉が薄く笑って、牌を引く。が、
「畜生ッ!」
 恥も外聞もなく牌を卓に叩きつける。青の4。
「僕の番だな……」
「……お前が間に合うわけがない」
「それはどうだろう。別に人間の屑だからって、引く時は引くさ」
 そして、僕は引いた牌を手に入れた。
 青2789 闘
 字牌を外して、イン・ザ・カラーゾーン、だ。
 その僕の態度を見て理解したのだろう。
 弐倉の顔色が変わった。
 もし僕がカラードなら、この局でゲームエンドに達する可能性がある。
 可能性がある……
「う、嘘だろ?」
「……何が?」
「まだゾーンじゃない、そうだろ?」
「安全候補の字牌を切って?」
「…………」
「いいから引いて、切れ。そうすれば分かる。僕は……早くここから出て行きたいんだ。帰りたいんだ」
「……お前なんかに」
 弐倉はぶつぶつと僕を呪いながら、牌を引き、そして切った。
 それからしばらく、僕たちは字牌や赤の端牌を切り合った。
 面白い見物だった。
 お互いに一枚牌を引くたびに、弐倉の顔色が赤くなったり青くなったりする。
 まるで交通信号だ。チカチカ、チカチカ。
 僕の一挙手一投足を弐倉は無視できない。
 自分の破滅を、もしくは成功を、一瞬でも早く、コンマ0.001秒でも敏感に察したら、それに何かの報償が与えられるかのように。馬鹿が。
 そんなもの、ありはしない。
 見たことない、僕は。
 許してたまるか。
 終わらせてやる。
 切って来い、弐倉。
 それがお前の最後の仕事だ。
 そして弐倉はその牌を切った。運命を分かつその牌、赤のカラードをやっていれば必ずいつかは出ざるを得ない牌、それは、
 ――青の2。
 僕は手牌に手をかけた。すると、
 ぎゅっ……
「痛っ……」
 腕が掴まれた。僕は弐倉を見た。
 弐倉は僕の手を握り締めて、卓を凝視していた。
「……待ってくれ」
「は?」
「……頼む、待ってくれ」
「嫌だ」
 僕は手牌を倒そうとした。だが、弐倉は手を離そうとはしなかった。
「聞いてくれ、樹畑。わ、私は別にお前のことが嫌いだったわけじゃない。嫌いでこんなことするものか。私は強いられているんだ、そこの天使どもに、争うことを!」
「……いまさら?」
 僕は微笑んだ。
 疲れた。
「そんな戯言、聞くと思うわけ? あれだけ散々、僕を滅ぼそうとしておいて」
「違うんだ、それは全部、あの天使のせいなんだ!」
 弐倉は壁の中の天使を指差した。
「あいつらが私を選んだんだ、私が望んだわけじゃない! 天国行きなんてどうでもいい……だが……だが……ま、負ければ地獄行きだ! それは無理だ、私には受け入れられない……だから……だから……」
「生徒を殺してババを押し付けようとした?」
 僕の脳裏に、自分の部屋に引き篭もって震えていた知野霧羽の顔が浮かんだ。
 そして死んでいった月野の顔も。
 確かに弐倉は望んで天国行き候補者になったわけじゃないだろう。
 この天使戦に臨んだわけじゃないだろう。
 だが、それはこっちだって同じだ。理由になんかなるもんか。
「仕方なかったんだ!」
 弐倉は涙を流していた。綺麗な、透明な涙だった。
「私だって、好きで生徒を追い詰めると思うか!? 怖かったんだ……樹畑、私だって、お前と同じ人間なんだ! 怖いと思うこともあれば、死にたくないともがきもする……わかるだろ?」
「僕は負けられない」
「金か? 金なんだろ?」
 弐倉はにへらと笑った。
「代行者の目的はいつだって金だものな。わかるぞ。何か事情があるんだろう? 両親に借金でもあるとか……いいよ、いい、分かった。それは私が代わりに返済しよう。どんな借金をしてでも、その負債を肩代わりしてあげる。だから……」
「ここで負けて、知野を見捨てろって?」
「わかるだろ?」
 弐倉は僕の腕にすがりついてきた。
 僕の質問には、答えずに。
「私には妻子があるんだ。いま、私が死んだら子供はどうなる? まだ小さな子だ……何もわかりはしないんだ。私が養っていかなきゃいけない。わかるだろ、樹畑。お前は頭がいい。それがよくわかった。今までの私の態度で、何か気に入らないことがあったのなら全て謝罪する。悪かった。私が馬鹿だった、許してくれ」
「空々しいね」
「頼むよ」
 弐倉は眉を下げて、泣き笑いのような顔を浮かべ続けた。
「助けてくれ、樹畑……お願いだ……その手牌を倒さないでくれ……!」
「助けてくれ、ね。いまごろ命乞いか……悪いけど」
 僕は絡み付いてくる弐倉の腕を引き剥がした。
「知野にも同じことを頼まれてる」
「じゅ、樹畑ぇ……!!」
「反省するなら、廊下に立ってれば?」
 僕は手牌をガシャリと倒した。
 青2789。
 カラード。
「……地獄にも廊下ぐらいはあるかもよ」
「なぜっ、なんでだっ、こんなに頼んでるのにっ! 私には妻子がっ」
「救ってられるか、そんなの。僕だって大変なんだ」
「金なら私がっ」
「信用できない。……当然だろ?」
『ゲーム終了』
 壁の中の天使が卓の上に滑り上がってきた。
 満面の笑顔で。
『素晴らしいです、錬。あなたは勝利した。とてもいいゲームでした』
「ま、待ってくれ天使! 私はまだ彼と交渉中で……」
『では、刑を執行します。天国行きは知野霧羽、地獄行きは……』
 月野そっくりの顔の中で、ギロリと動いた目が弐倉を見た。
『あなたです、弐倉友和』
「あああああああああああああああああ!!」
 ガレージの電灯がチカチカと明滅する。
 そして暗転するたびに、闇の中に紫色の眼光が浮かび上がった。
 光が差すと何もない、しかし闇が満ちると必ずそれはそこにいた。
 じっと、じっと、息を潜めて弐倉を見ている、紫色の数多の目。
「ひっ」
 弐倉は席を蹴って立ち上がり、一階へ続くドアへと体当たりした。
 しかし何度ガチャガチャとドアノブを回しても、ドアは開かない。
 もう開かない。
「あああああっ! 嫌だっ、嫌だっ、死にたくない、死にたくないっ!」
『諦めなさい、弐倉友和。あなたには、もはや天への門は開かれない』
「なぜっ!? なんでだ、たった一度負けたくらいで、どうしてこんな酷い目に遭わなきゃならない! 責任者を出せ! 神を連れて来い! 私には文句を言う権利がある!」
『ないですよ、敗者には何もね。……そうでしょ、錬?』
 笑顔と一緒に話の矛先を向けてきた天使から、僕は顔を逸らした。
 弐倉は見苦しかった。とても見ていられない。それに、あの顔は嫌でも僕に思い出させる。
 月野の死にざまを。
「あああああああああああああああ!!」
 暗闇の感覚が長くなり、紫色の眼光が弐倉の周囲に取り巻いた。そしてその瞼が唇となり、牙を生やし、ガブリと弐倉に噛み付いた。着たきり雀の背広にしわが寄る。弐倉はずりずりと引っ張られていった。革靴が片方脱げる。
「やめてっ、やめてくれっ! 嫌だ、そっちは嫌、ああ、なんで……」
 そして、最後に甲高い悲鳴が上がって。
 弐倉の気配がガレージの中から、完全に消えた。
 パチリ、と照明がついた。
 そこには僕しかいなかった。
 弐倉が最後に喚いていたあたりには、タイヤのホイールが一つ、転がっているだけだった。
『錬、おめでとうございます。卓を見てごらんなさい』
 そこには、銀色のアタッシュケースが乗っかっていた。
 こんなもの、くだらないB級映画のマフィアが持っているところでしか見たことがない。
 それが現実にあり、その留め具をパチンと開けて中を見れば、そこには、
 ……万札がぎっしりと詰まっていた。
『一億あります。それで急場は凌げるでしょう』
「……急場は?」
『あなたが思っていくよりも、生きていくというのはお金がかかるものなんですよ。こんなもの、はした金に思えるくらいにね』
「……ふざけやがって、もっとよこせ。弐倉を殺したんだぞ? あいつの家族もこれで破滅だ。それに見合うだけの報酬をよこせよ」
『いやあ、凄い神経してますねぇ』
「弐倉を殺しておいて、僕が救われなかったら、あいつだって浮かばれないだろ。そんなの、それこそ無駄じゃないか」
『弐倉はきっと、それでもあなたに不幸になってほしいと願っていると思いますがね』
「……お前が言うな、屑天使。全部お前が悪いんだ」
『助かるチャンスを与えてあげたのは私ですのに。まァいいです、知野に報告にいきましょう』
「なんで?」
『だって、彼女ですからね、天国行きが確定したのは』
 ああ、と思う。そうか。
 べつに僕は、救われてなんかいなかった。
「……行くか」
 僕はアタッシュケースを握って、立ち上がった。
 その中に弐倉の生首が入っているような、それは、そんな重みのあるケースだった。
 足取り鈍く、知野の部屋へと戻る。
 知野はまったく何も起こらなかったかのように、相変わらずベッドに座り込んで、艶を失ったポニーテールを首筋から垂らしながら、俯いていた。
「……何?」
「勝ったよ」
「え?」
「勝った」
 僕は繰り返した。
「天国行きは君になった。もう何も心配しなくていい……少なくとも、死んだ後のことはね」
「……嘘」
『嘘ではありませんよ、霧羽。あなたは天国へ進む資格を得たのです。正しい代行者を選んだ、ということで』
「……天使、それは、本当なの? あたしは、本当に勝ったの?」
『ええ』
「そっ……か……」
 すると、知野は泣き出した。ひっく、ひっく、と、年端もいかない子供のように。
「よかった……本当によかった……」
「おめでとう」
「助かった……これであたしは……救われる……!」
「……じゃあ、僕は帰るよ」
「これでもう何も考えなくていい……これでもう……何も……!」
 ぶつぶつ呟き続ける知野を残して、僕は部屋を出た。
 アタッシュケースを引きずるように運びながら、外に出ると、清々しそうに足元の天使の顔が言った。
『それにしても、本当に、あなたは「ありがとう」と言ってもらえない人なんですねぇ』
「…………」
 構わない。
 構うものか。
 僕は家路を急いだ。とにかく、なんにせよ、金があるんだ。
 金さえあれば、明日が買える。
 少なくとも、今はまだ。

 ○

「ふーん」
 樹畑錬が弐倉友和を地獄送りにしてから三十分後。
 知野霧羽の家の前に、一人の少女が立っていた。
 異国の見物にでも来たかのように、物珍しそうに白い二階建ての家を見上げている。黒いツノつきの帽子を被り、噛むタイプのスティックハーブをくわえている。髪は地毛なのかどうか、金色に近かった。肌が鬼火のように白い。
「アキトが言ってた代行者が天使戦してるっていうから来てみたけど……もう終わってるっぽいね」
 その家からは、もう禍々しい気配はしていない。
 ただ耳を澄ませば、誰かのすすり泣きだけは聞こえてきたが。
「もし仲間に誘えるならと思ってきたけど……でもやっぱり、話を聞いてる限りじゃ使い物にならなそうだけどなァ」
 ピコピコとハーブを動かしながら、ふっとため息をつき、足元にいる黒猫に言う。
「や、ニャンコだ」
 なおん、と猫は鳴いて、少女を見上げる。
「ねぇニャンコ。……アキトはああ言ってたけど、本当に使い物になるクラスの人格破産者(ギャンブラー)が、私たちのほかにいるかな?」
「なおん」
「……無理そうだよねぇ、やっぱ」
 少女はため息をついて、踵を返した。
 少女が去っても、黒猫はその場で毛繕いをし続けた。


 家に帰って、僕は両親の前にアタッシュケースの中身をぶちまけた。
 束にもされていなかった紙幣が堰を切って流れ出し、フローリングの床を埋め尽くした。
 僕はアタッシュケースを投げた。嫌な音がした。
「一億あるよ」
「錬……お前……」と父が言う。
「い、いったいどうしたの、このお金は……?」と母が言う。
「その質問、意味ある?」
 僕は笑った。
「この金がどんな金だろうと、使わないわけにはいかないでしょ。もう破産寸前なんだから。ホラ、ありがとうございますって言ってみろよ。ありがたいだろ? 僕はよく出来た息子だろ?」
 僕は浮かれていたのかもしれない、生まれて初めて手にした大金に。
 そう、確かに金には魔力がある。もっとも僕にそれは少しだけ効かない。ほんの少しだけ。
 僕は家に帰るまでの間、その一億円を握ってどこかへ雲隠れしてしまおう、なんてことは考えなかった。天使は正しいことを一つだけ言っていた。
 たかが一億じゃ、人生は買えない。
 父さんは床に散らばった紙幣を見下ろして、
 フ、と笑った。
 カンに触った。
「……何? 何その笑い方」
「いや」
「言って。何?」
 そして父さんは、なぜか照れくさそうに言った。
「……これっぽっちじゃな」
「は……?」
「急場は凌げても、それだけだな……はした金だ、こんなもの」
「……っ!!」
 僕は父さんを突き飛ばした。
「錬! なにをするの!」
 父さんに駆け寄る母さん。僕は吐き気がした。呆然とする二人を見下ろして、喉元まで言葉が競りあがってくる。
 これっぽっち?
 はした金?
 人を、

 人を殺して取ってきた金だぞ……!!

 僕が、僕がどんな気持ちで弐倉を殺してこの金を掴んできたのか知りもしないくせに、できもしないくせに、……はした金?
 ふざけるな。
 そんなはした金も満足に作れない毒親のくせに。
 勝手なことばかり言いやがって……
 僕はダイニングを飛び出した。ため息が背後から聞こえる。ふざけるな、呆れ返ってるのはこっちだ。なんなんだ? 僕がおかしいのか? 普通の家では、子供が一億握って帰ってきたら、こういう態度を取るのが普通なのか? 金の善悪なんて関係ない、僕はこの生活を守るために人を殺してきたんだ。それなのに……はした金だと?
 僕は自分の部屋に戻る前に、トイレで少し吐いた。まずい、怒り過ぎた。両手まで痺れと怒りを感じながら、部屋に駆け戻って自分のベッドに倒れこみ、頭を押さえこんだ。ガンガンする。
「畜生……」
『可哀想に。錬』
「……まだいたのか、ミザリル」
『ええ。私はあなたが、ほぉんの少しだけ気に入りましたから。ほぉんの少しだけ、ね』
「くそったれの、屑天使め」
 僕はそれ以上、罵る元気もなかった。
 ただ、時間と激怒が過ぎ去っていくのを待った。
 前向きに、前向きに考えよう。
 一億ある。
 少なくともその金が尽きるまでは、この暮らしを続けられるんだ。
 僕はいいことをしたんだ。家族を守った。正しいことをしたんだ。
 弐倉?
 ……思い出しても、恨み言しか浮かんでこない。
 僕はおかしいのだろうか?
 いや、そんなことはもうどうでもいい。
 どうせ弐倉は死んだんだ。後悔したって生き返りはしない。
 奴の分まで、もぎ取ってきた金で生きてやる。
 僕は深呼吸をした。
 そしてくらっとした。眠い。過度の緊張が神経を苛んだらしい。眠ろう。
 そうして僕は平穏無事な惰眠へと落ちていった。
 天使の金、他人の命で。
6

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