堀辰雄の「水族館」という短篇がある。彼自身はこの作品を好まなかったのか自らの書誌に残すことを頑なに拒んでいたようであるが、私は「風立ちぬ」よりも「美しい村」よりもこの「水族館」が好きなのである。
時空間が昭和初期の浅草公園に設定されており、浅草寺と周辺の歓楽街という、都市の中の聖俗入り交じった異様さ(→ちくま文庫、前田愛『都市空間のなかの文学』、川端康成の「浅草紅団」の項を参照のこと)がまず読者の、いや私の心を鷲掴みにする。しかし私を最も興奮させたのはこの点にあらず。筋を追って説明しよう。表題にもなっている「水族館」は浅草六区に存在していた(少なくとも物語世界においては、であるが)建物で、その階上にあるカジノ・フオリーで踊り子をしている小松葉子が主要人物のひとり。もうひとりは、そのレヴューを見つめる常連客の中でも最近仲間入りしたと思しき「私の知つてゐる他の定連とは、全然別種類の、二十をすこし過ぎたばかりの、色の淺黒い美少年」であり、
彼はいつもハイカラな縞の洋服をつけ、大き過ぎる位のハンチングを眞深かにかぶり、三階の隅の柱によりかかりながら、注意深く舞臺の上を見下してゐるのだ。彼はときどき好んで亂暴な身振りをしたが、それのどことなく不自然な感じは、男裝した女だつたならば恐らくかうでもあらうかと想像されるほどだつた。
という形容がなされるのだ。
このふたりが逢い引きをして向かう先を「私」の友人である秦が追跡し突き止める。それは小さな連れ込み宿であり、秦は贔屓にしていた小松が美少年に取られたのだと思って「私」に一緒に来るように知らせ、隣の部屋に泊まることとなる。明け方「私」が隣の部屋を見てみると、
そこには、二個の女の裸體が、手足をからみ合つたまま、異樣な恰好で、ころがつてゐるのであつた。同じくらゐに白いその四つの手足は、それがどちらの身體のだか、分らないほどだつた。……
以降は本稿の大筋とは関係が無いので省略するとともに、興味のある向きには是非とも『堀辰雄全集』にしか掲載されていないが図書館等で入手して読んで頂きたい(本稿の引用はすべて青空文庫からのものだが、諸賢においてはあくまで紙の手触りのもと浅草六区について思いを馳せて頂くことを所望する)。
いずれにせよ私はこの作品を読んでレズビアンという形態の愛情に聖性を見出してしまった。堀の作品全体に出てくる「天使」のモチーフと聖俗の狭間に現れるアンドロギュノス的人物が私の脳髄でさっくりと重なり、否が応にもレズビアン礼賛の気分は高まった。
それからというもの、女子のスポーツチームやアイドルグループにその関係を少しでも見出すと単純に嬉しかった。大人数が群れるものよりは少人数で、その関係性がより色濃く窺えるものの方が好きだった。
私に性的倒錯の気が起こったのはその頃からだった。男女の媾合を想像もしくは窃視するような場面においても興奮を催すことが無くなったのである。それは女性の裸体がどんなに性的魅力を持っていようとそうであった。原因は男であった。ギリシア彫刻の如き滑らかな肌とふんわり隆起した筋肉を持っているのならまだしも、同時代的男子の汚らわしい裸体を晒された瞬間に私の心身は萎えてしまうのであった。ましてや小肥りの男が出ていると私は吐き気すら感じるのであった。
その嫌悪の矛先が自らの肉体に向かうのは時間の問題であった。ただ私には救いがあった。それは――手前味噌で気後れがするのだが、この際なので包み隠さずエゴイスティックに書くとするならば――顔が女性的であり、そのうえ体躯がある程度細いため、ギリシア彫刻的身体へと自らのそれをいわば拡張していく可能性に恵まれているということだった。
どうせ乳房と性器を細工できても、現代医学のもとでは完全なる女性化は望めない。そこで私は身体をギリシア彫刻的それへと変貌させていくことに執心した。トレーニングとプロテインの摂取で胸板がつくられ、肋骨が隠れるようになり、上腕二頭筋がなだらかな丘を形づくるようになった。
そうして次に向かったのは、ある性風俗店であった。そこで幾多の豚達を相手にしてきた手練の女性に綺麗な化粧を施してもらった。普段は脂ぎった中年変態男性達の相手をしていた嬢は最初吃驚していたがとても丁寧に丁寧に私を変えてくれた。これも手前味噌を承知で書くが、そこそこ綺麗であった。
店を出る時に、私は二つの確固たる気持ちを抱えて胸を張っていた――ひとつは自らの倒錯的欲望がひとつの形で結実したという充実感、そしてもうひとつはその店がM性感であるという他ならぬその代償としてお尻を責められるのは辛いなあという気持ちであった。
私はアナル処女であった。