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第八話  『獣に訪れる運命』

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 見るも無残な敗け方だ。誰にも言い訳なんかできそうにない。
 叶うなら、あの無法な時間という老いぼれを殴り殺して過去への扉をぶち破り、すべてをやり直したい。そして破滅に意気揚々と突っ込もうとしていた自分の腕を掴み、止めてやりたい。そんな気持ちが、いつも狭山の中にはある。それは真っ赤な唐辛子を水も入れずに飲み込んだように、狭山の身体を熱くする。
 火が出るほどの悔しさ、だ。
 あの真嶋に、最後の勝負で、この俺が、敗けるとは……
 だが、時間は巻き戻せない。一度起こったことは、決して消えない。たとえ誰が忘れても、憶えている人間が一人残らず消滅しても、それは消せない。未来がいつも流れ込んできているのに、どうして過去がなかったなんて言えるのだろう。狭山は勝った。そして敗けた。いつだってその繰り返しだ。
 だから。
 たとえここに、過去への片道切符があったとしても、
 狭山は何度でも、真嶋に『リーチ』をかける。
 どれほどそれを握り潰したいと思っても、
 その手の中にある白紙の切符が、狭山を勝たせたことも、あったから。
 分かつことはできない。めくらなければ『裏』はない、そんな『表』だけのカードは誰も持っていないし、あってはいけない。
 ――誰かが言っていた。
 男の価値は、敗けた時に分かる。
 そんな感傷にへつらってやるつもりはないが、それでも――
 それでも、
 狭山は、右手を差し出した。
 天使のような人形を、勝たせてやった男に対して。
 慶はゆっくりと、初めて会う人間にするようにおずおずと、差し出された狭山の右手を握り締める。
 お互いに、軽く。
 握り締めるほどの力は、すでにもう、出し尽くしていた。
 麦わらのような手応えだった。
「お前は俺を倒して、先にいく」
 狭山は言った。
「お前なら、最後までいくだろう。ま、頑張れよ」
「……ああ」
「だが、お前が何を探しているにせよ、お前は苦しむことになる」
 経典でも読むように抑揚無く、狭山は続けた。
「俺たちは、もう数が少ない。たとえ〈陸〉に戻っても、こんな勝負はできないぜ」
 そうかもしれないな、と慶は思った。確かに、それは真実なのかもしれない。
 だが、ふとまさひろの顔が思い浮かんだ。
 歪んだ光を、まっすぐ慶に向けてきた少年の顔が。
 それは砕けて壊れた輝きだったが、とても綺麗だ。喪われたくらいでは燃え尽きない|灯《ともしび》――
 俺は、と狭山が言った。
「俺はずいぶん長く戦ってきた。それがいつからだったのか、いつ死んだのか、もう憶えてない」
 手を離して、狭山は窓の外でも眺めるように顔を背けた。その目は、この世ならざるものを映している。夕焼けはとうに終わり、分厚く重たい夜が窓の外を塗り潰していた。
「だが、それもここらで潮時だ。潮はいつか引く――俺のツキは、もう落ちた。後悔なんか、ありまくりだな。でも、お前もいつか、こうなる。だから、先に味わっておいてやるよ。俺が」
「ああ、……頼むよ」
 そんな慶に、フッと微笑み、
「これが、敗けね」
 狭山はじっと、革手袋に覆われた掌を見つめた。
「いやなもんだな。本当に、いやな気分で――」
 そして、その掌を、傍らに立つ黒髪の少女人形へと、差し出した。シャムレイは、その回された手を見て、わずかに目を瞠る。
「ザルザロス様――?」
「シャムレイ。……お前にも、世話になったな」
「そんな……恐れ多い、です。私はあなたの、召使ですから、付き従い申し上げるのは、当然なんです。だから――そんな――お手を――」
「俺はお前に、たくさん嘘をついてきた。ああ、みんな嘘だ。だから俺のことなんて気にするな。お前はお前で、頑張れよ」
「ザルザロス、様……」
「元気でな」
 狭山は手を引きかけた。その手を掴んでもらう資格がないと悟ったように。
 その手を――シャムレイは掴んだ。
「私は――ザルザロス様、私は――あっ?」
 ぐっ……と、痛いほどの力でザルザロスに掌を握られ、シャムレイは顔を苦悶に歪めた。奴隷人形は、〈脂貨〉で造られた|奴隷人形《スレイブドール》。バラストグールと同質の、仮初の泥人間――
 シャムレイのことを、狭山の真っ赤な目が、深淵のように覗き込んでいた。
 そして、シャムレイはすべてを悟った。
 ああ――そうだ。
 私は、この人のことが好きだった。
 この人の固い背中が、この人の歪んだ掌が。
 そしてその、紅く輝く勝負の世界で燃える|炎《め》が。
 骨が軋むほど強く握られ、決して離してもらえない。もがき苦しみ逃げようとすると、すがりつくような力で抑えこまれる。熱く呼吸しながら、シャムレイは思った。
 構わない――この人のためなら。
 わたしのことなんて、少しも見てくれない、この人のためなら――
 わたしは―――
「真嶋」
 狭山は慶を見ずに言った。
「俺は敗けた。確かに、お前に。――俺は敗けるのが、誰よりも嫌いなのに」
 狭山の頬を、灰が滑り落ちていく。涙のように。
 家畜に堕ちるか、そのまま滅ぶか。バラストグールとフーファイターに訪れる|運命《ほし》は、狭山に灰に塗れた道を与えたようだった。
「敗けるのは、どうしようもなく、いやなもんだが――
 それでも、
 俺は――
 ほかの誰かじゃなくて、
 ……お前に敗けれて、よかったよ」
「―――さや、」
 伸ばした慶の手は、空を切った。
 ザルザロスのいた椅子には、堆く灰が積もっている。それは卓の上に散っている燃え殻とまったく同じ灰色だった。それが椅子に張られた羅紗を滑って、砂時計のように床に流れ落ちていく。傍らに立つ黒髪の奴隷人形は俯いたまま、なにも言わない。
 それで終わり、だった。










 いつも。
 自分が一番じゃないと、気が済まなかった。
 負けるのはいつだって不愉快だったし、誰かが喋っていたらそれをかき消して自分の意見を叩きつけてやりたくなった。なにがあろうと自分の思い通りにならなければ気に喰わなかったし、刃向かうやつは誰だろうとその首を落としてやろうと思った。いつだって自分が最優先で、敗北者は相手でなければ許せなかった。
 だから、争い続けた。
 自分の『一番』に賭け続けた。
 その結果が、このざまだ。
 椅子には堆く灰が積もり、そこに座っていたはずの男は、もういない。
 いつだって同じ結末が待っている。
 勝てば勝つほど、進めば進むほど、勝者は一人で置き去りにされる。
 誰とも一緒に歩いていけない。
 慶は『額』に触れた。勝負の汗で濡れた髪、その奥で、奪ったばかりの〈ボディ〉が熱く燃えている。部位奪還で手に入れたばかりの〈頭部〉が、確かに自分の中にある。それまでそこを占めていた、かりそめの〈脂貨〉を押し潰して――本当の肉体が。
 勝負は終わった、|決着《けり》がついた。
 だから後はもう、ここから立ち去るだけでいい。
 すぐに次の勝負が、真嶋慶を待っている。
 なのに、
「……いつまでベソかいてんだよ、エンプティ」
 エンプティは答えない。しきりにしゃくりあげ、零れ落ちる涙を手の甲で拭っても拭っても、それは溢れ続ける。傷口から流れる血のように、それは止まらない。
「なにがそんなに悲しいんだ? ……勝っただろ」
「ケイ、さまが……泣かない、から……」
 蜘蛛の巣の刺青が彫られた顔を子供のようにくしゃくしゃにして、エンプティは言った。
「わ、わたし、が、代わりに……泣く、ひっぐ、ん、です……」
「……バカ言うな。ちょっと待て。
 俺はあいつが、嫌いだった。あいつのせいで、俺がいままでどんな目に遭ってきたと思う? あいつに出会ったばかりに、俺はいままで散々だった。あいつこそ、俺にとっては悪魔みたいなやつだった――
 そんなあいつのために、俺が泣く? 憎みこそすれ、そんなこと――バカ言うな、せいせいしたよ、これで今度こそ、もう二度と、
 ――あいつの顔を見なくて済む」

 ぱあん、と。
 乾いた音が鳴った。

 頬を張られた慶は、叩かれた勢いのまま顔を背け、目だけで自分を殴ったエンプティを見上げた。
 エンプティは泣いている。

「あなたは、嘘つきです。あの人は、いやな人だったけど、わたしだって、大嫌い、だった、けど、
 それでも――あの人は、たったひとりの、あなたの、敵でした。
 あなただけの、大切な敵でした。
 それが、分かるから、わたしにも、分かったから、だから、
 だから……
 わたしには、そんな悲しい嘘は、……つかないで、ください」

 わっ、とエンプティは、今度は体当たりで慶の首根っこにぶつかっていった。椅子が揺らいで、慶は危うく倒れそうになり、慌ててその小さな少女の身体を抱く。自然とその手が、金色の髪を押さえていた。

 悲しい?
 悲しいわけがない、だって俺は――
 俺は――……

 何もかも、押し流すようなエンプティの泣き声を聴きながら、慶は狭山のことを考えていた。そして少女が流す涙が首筋に滴り、それがつうっと滑っていき――悲しくなんて、ないはずなのに――

























             焼けつくように、
                    涙が痛む。
















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