特に何も起こらない日常。平凡な毎日。大学を卒業して、ふつーの一般企業に入社してOLになって、帰宅して、ご飯食べて、お風呂入って、テレビ見て、たまにお酒飲んで。そしてベッドに倒れこむように寝る。
私、松川幸子(まつかわさちこ)は平日いつもそんな繰り返しがずっと続いている。今日もクタクタになってのご帰宅。
中肉中背。普通の容姿で特別取り柄もなく、社交的とまではいかないけれど普通に明るい、はず。
ちょっと嘘ついた。最近体重計に乗るのが怖いし、学生時代に比べると肉がつきはじめてきている。美人でもないし、不細工でもない。そのボーダーラインをうろうろしている顔面偏差値と言われたことがあるので、優れた容姿をしているわけではないのは実証済み。
しばらくそんな浮いた話題を自分からしてないので内心焦っている。実家に帰った時の親からの第一声が「ひとりで帰ってきたの」はさすがにきつい。母よ、後半といえどもまだ二十代。そう反論するとと決まっていつもの私があんたくらいの歳は、と聞いてもいない昔話が始まる。うんざりする。
幼なじみの子なんか口ではあーだこーだと恋人の不平不満を言っているけど、実際はというと見ているこっちが胃もたれしそうな感じでいちゃつきやがって、ちょっと、いやかなりの怒りを覚える。
別に無理に恋愛をする必要はないだろうけれど、まわりを見ると漠然といいなあと思えてくる。そう、すっかりしてないな、ご無沙汰だ。
学生の時はいっちょ前に合コンに参加して彼氏ができちゃったり、時間もあったし遊びまくって、振り返ってみればずいぶんと充実していたじゃないか。大学生のときに出来た彼氏と別れて以降、おひとり様状態が継続中。
尚更、今の自分が惨めに見える。泣けてくる。仕事場から帰宅途中、近くのコンビニに寄って缶チューハイを選んでいる自分が。
「……なんてステレオタイプな独身女性なんだ」
自嘲気味に呟いたその言葉は飲み物が陳列されている冷蔵庫の稼働音にかき消された。
店内のスピーカーから流れる流行歌の「会いたい」「愛してる」などというど直球で陳腐に聞こえる言葉が余計自分の惨めさを強調させた。
気になった缶チューハイを二本手に取り、そして立ち読みしている人たちに気付かれないよう小さくため息をついた。随分と、自分もくたびれた社会人になったものだ。
学生時代、コンビニの前を通るたびに、なんて暗い顔をしながら本を読んでいるんだろう、なんて不思議に思っていた。今では私もガラスを隔てた内側にいる人間。帰宅中の若々しい学生たちに、なんて疲れた顔をしてお酒を選んでいるんだ。と、思われているのかもしれない。
こういう時は何をしたって虚しくなるだけだ。わかっている。お酒と一緒に甘いモノでも買って自分を甘やかせよう。今日ばかりはカロリー気にせず糖分を摂取しようとロールケーキを手に取る。さすがケーキと名がつくだけあり、高カロリーだ。自分でも気付かないうちに自然と裏側の成分表示を見ていて、思わず含み笑い。
「女の子だなぁ、ふふ」
まだ二十代だけどやっぱりスタイルというのは女子永遠の課題なわけで、ここで欲に溺れちゃったらおばさんになった時大変だろうし。今見せる相手もいないんですけどね、鏡の前で見ているのは自分ってわけです。そして腹に溜まるばっかなんですけどね。つらい。
どうにでもなれってんだ。そう言ってロールケーキを棚に戻さず、カゴにインしてレジへ向かう。店員のやる気のない声、バーコードリーダーの読み取り音、入店を知らせるベルが鳴る。ただ虚しく、耳から耳へと抜けていく。
無駄に多い小銭を使ってぴったり払う、ちょっといい気分。
「ありがとうございましたー」
軽くなった財布を鞄にしまい、袋をさげて外へ出ると夕焼けのオレンジが目に映った。水性絵の具の水を少なめで描いたような濃い橙。夜になる前、太陽最後の輝き。遠くからカラスの鳴く声が聞こえた、ような気がした。
「カラスが鳴くから帰りましょーっと」
ぶっきらぼうに一フレーズを呟くと、なんだかノスタルジックに襲われた。
昔はよく歌いながら帰ってたっけ。家に近づくにつれ、カレーのにおいが強くなって、ひとりでテンションあがってたなぁ。近所のおじさんにそれを見られて顔真っ赤にして、ウブな反応。そうそう、幼なじみの女の子にベッタリで、頼ってばかりで、その子の服をぎゅっと持って大きい犬がいる家の前を半べそかきながら通ってたっけ。
住宅街を歩くと、そこに残っている思い出ではないのにスライドショーのように似たシーンが頭の中に連続で映写される。夕焼けには不思議な能力があるみたいだ。
コンビニのほぼ裏に位置する自分の部屋があるアパート、超便利。あっという間に我が家だ。
歩きながら鞄の中に放り投げている鍵をとりだすと、そこに付けていた猫のキーホルダーの一部が欠けていることに気付いた。あぁ、結構気に入ってたんだけどな。いろんなものが入ってるところに無造作にいれてるとそうもなるか。すっかり適当になった自分に呆れる。
ただいまと言っても返ってくるわけはなく、その言葉は当てもなく彷徨い空間に四散する。乱暴にパンプスを脱ぎ捨てる。実家でそんなことをすると母親に怒られてしまうが、今は華の一人暮らし。一人暮らしにはもうすっかり慣れて、あまりさみしいと思うことはなくなった。慣れというものは怖いが、そんなものすら慣れてしまった。
鞄をソファに投げて、コンビニで買ったものを冷蔵庫に入れるとそこまで物が入っていない事にその時気付く。
「今日の分はあるかなぁっと。明日買い物いかなきゃなー」
めんどくさいので袋ごとそのまま冷蔵庫に収めてしまう。すっかりズボラ、注意してくれる人がいない分それがどんどんと加速していて、当たり前に変わっていく。
「あーそうだそうだ。コーヒー豆貰ったんだ」
ソファに放り投げたカバンから茶色の紙袋をとりだす。開けるとコーヒーのいいにおいが拡がる。大学の時バイトしていた珈琲ショップに隣接している喫茶店のマスターがいい人で、たまに寄ったりすると美味しいコーヒー豆や紅茶が手に入ったらちょっとだけ分けてくれる。
香りを十分に堪能した後、それを机の上に置いてテレビを付けると、ちょうど天気予報が流れていた。そこに示されていたのは不満が漏れる結果。雨マーク。時々、でも、のち、でもなくただ雨を告げる傘の絵が描かれているだけだった。
「えー、明日雨かぁ。せっかくのお休みなのにさぁ、もう」
職場は土日祝日がお休み。明日は土曜なのでいつも通り二連休。休みの初日が見事に雨という出鼻のくじかれっぷりだ。日曜には晴れるらしいけど、明日の降水確率は午前が八十パーセントで午後は六十と書かれていた。午後に弱くなりそうな気配だけど予報なのであまり期待はしていない。
「服とか買いに行こうと思ったのにさぁ」
テンション下降気味である。別に雨が降るからといって買い物ができないわけじゃないけれど。
「私ってば雨女なのかなぁ。予定がある日によく雨降ってるような……」
ここでふと気付く。あぁ、ひとりごとが多いな。
一人暮らしの弊害、喋る相手がおらず、しかし喋らないわけにもいかない。その答えが無駄に多いひとりごと。急に気付くんだよなぁ、結構どうでもいいときに。ははは、と乾いた笑い。それもたったひとりしかいないこの空間に一瞬で溶けて消える。
「あー……はぁ。先お風呂はいろっかな」
もちろんその問いに似たひとりごとは誰に届くわけではない。ペットでも飼おうかしら。犬とか猫は飼えないだろうから魚系とかハムスターだとか。これじゃホントに独身女のテンプレまんまだ。家に帰ってきてまず話しかけるんだよね。「ただいまー、いい子にいてたかにゃー?」てさ。
となると、やっぱり彼氏とか? 同棲とかしたことないけど大変なんだろうなと容易に予想がつく。喧嘩とかしちゃったらどうするんだろう、顔合わせにくいのに同じとこに住んでるって。
知り合いはどうだったかと思い出してみるが、すっごいくだらない理由で喧嘩して日も変わらないうちに仲直りして、だったか。まるで参考にならない。家出した来たー、と泣きついてきた時も一日かからず帰っていったし。だけどもやっぱり憧れる。やってみたいことのひとつである。
さみしい、さみしいと思っていても寝たら忘れてしまう。意識的に忘れようとしている、脳の防衛本能が働いているのか。自分には関係ないと思って知らんぷりしていた現実が、今になってそこかしこからはっきりと迫ってきている。こうならないであろうという希望的観測を見事に打ち壊して。変わらないと、と思っていてもそれをうまく態度に、行動に移すことができない。虚勢を張れば張るほどつらくなる、しかしそうでもしないといともたやすく壊れてしまいそうだ。
もう慣れてるし。
一人のほうが気楽だ。
呪文のように呟く、そして偽る。言葉の殻で目一杯武装する。中心にある核、芯がまるでない自分。それを恋愛という普遍的なモノを用いて埋めようとする自分。無趣味でミーハー、受動的、いつも人の後ろをついて歩いている。前倣え、右倣え。学生時代の恋愛も後手後手、自分から行ったことがないという事実を今更思い出す。好きな人、ではなく好きになってくれた人を好きになった。ただ、それも愛の形だと言うだろうけれど。
あぁ、自己嫌悪。嫌だ嫌だ。酒を飲んで忘れよう。人間には都合よく忘れることができる能力が付いている。アルコールの力もあって記憶消去をブースト。とりあえずシャワーを浴びてさっぱりしよう。んで晩酌だ。
服と下着を乱暴に洗濯機に放り込む。色気がない。いつものことだ。
◆
お風呂上がり、湯気立ち火照った体に冷えた缶を当てる。冷え冷えのアルミ缶が熱を帯びた肌を冷ましてくれる。冷気が肌に刺さるようなこの感触、気持ちいい。
用意した今日の晩ご飯は昨日残ったカレー。そして冷蔵庫に残っていた野菜ミックスとミニトマトを適当に盛りつけたサラダ。
「いただきます。はいどうぞ、めしあがれ」
一人で一通り食前の挨拶を済ますとさっそく今日買ってきた缶チューハイを空ける。ビールも好きだけど、今日はなんだかジュースのようなチューハイの気分だったのだ。
勢いよく半分ほど喉に流し込む。
「っはぁ、あー酒うめー。この時ばかりは余計な考えもぶっとぶわぁ」
我ながらオヤジくさいと思う。人には見せたくない姿だ。これも一人暮らしの弊害なんだろうか。見せる相手も、注意してくれる人もいないわけだし。
カレーを食べる、チキンカレー。昨日のということで一晩寝かせていることになる。作った時よりコクが出てる、気がする。うん、たぶんね。正直昨日の味などほとんど覚えておらず、一日経っているからコクでてんじゃないというプラシーボ、通っぽく気取ってみる。
これは一人暮らしのいいところになるのかな。あまり得意でなかった家事が上手くなっている。上手くなっている、じゃなくてできるようになったかな。レパートリーの乏しさは否めないけどできるとできないの差はかなりでかい。ま、そこまで難しくないカレーと切っただけのサラダを前にして威張るようなことじゃないけど。
母親から送られてきた料理の本はダンボールに入ったまま。ありがたいけど、まだ暫くはこのままだろう。
カレーを半分も食べていないのに空き缶がひとつできてしまった。いつもよりペースが速い。チューハイなんかアルコールの入ったジュースも同然だ。もう一本もあけてしまおう。カロリーオフとか書いてあるけれど複数本飲んでちゃ意味ないよね、と思いつつも飲むのは止めず。一口目のような感動はないものもキンキンに冷えたお酒が脳を射ぬく。
「っあー、もうオヤジだ、オヤジでいいです」
この手に持っている缶がビールだったらまどうことなくオヤジだったろう。
ついこの間のことだ。足が深刻なレベルで臭くてひとりで「くっせぇ!」なんて言ってテンションあがってた。座るときにどっこいしょとかいうのも少なくともうら若き乙女の口から出るべき言葉じゃない。人には見せることができない行動、言動の数々。しょうがないよね、ひとりなんだから。
なんだ、私は女子力を上げるべきなのか。でも女子力ってワードを意識し始めている時点で女子なんだと。自然体で女性らしさが出ているような人になりたいものだと思いながらカレーをかっ込む。
あぁ、やっぱダメかも。
◆
「つまんないな」
テレビでは相変わらずわけのわからないクイズ番組や微妙なバラエティが放送されている為ひたすらザッピング。ゴールデンタイムなのに。いや、ゴールデンタイムだからだろうか。どれもこれもありきたりで、ドラマですら同じようなものが設定と役者を変えて同じような内容を繰り返している。時代劇も少なくなった。水曜によくある刑事モノは何か魔力があるようでついつい見てしまうモノがあったりする。B級臭は非常に強いけど深夜にあるドラマのほうがおもしろい。ただ当たりはずれがあまりにも大きくて、最近当たりに出会っていない。
リモコンをいじる手を止めて電源を切る。興味のないものを垂れ流して電気代をあげるのはただの無駄だ。切り詰めることができるところは頑張らないと。
ただやることがないのは少しつらい。明日が雨と知っていたのならDVDでも借りに行ったのに。今から出ても間に合うけど、お風呂も入ってお酒も入ってるわけで、さらに行く気力もない。
まとめ買いのワゴンセールで投げ売られていたロンTに、千円で買ったジャージのパンツ。着替えるのもなんだか面倒だ。
大きく息を吐いてソファに背中を預ける。自分好みのものを探し回って見つけた逸品だ。
チャックがついた袋に入ったアーモンドをひとつとって口の中に放り込む。最近ナッツ類が個人的ブームでおやつにつまみに大活躍。ただカロリーが異様に高いので食べすぎには注意している。今日は食後のデザートも用意していることだし。ただ、まだご飯食べたばっかりでデザートの気分ではない。
何をしようかしら。お酒また開ける? 一本残っていたような気がする。それとも今日貰ったコーヒーを淹れて落ち着こうか。もうひとつアーモンドを取り、口に含む。黙々と食べるもんで、それを見た友達から「幸子はげっ歯類!」と揶揄された。動物じゃなくて分類名で言われるなんて。リスとか言われればかわいい動物だからまだいいんだけれど。
そういえば。ふと思い出して、机の上に積まれてある決して纏められているとは言いづらい紙群の中から一枚の写真を手に取る。披露宴の時に撮った一枚。もちろん自分が主役の写真ではない。同僚の子が寿退社、お相手はお医者さんだって。メガネが似合う優しそうな人。結婚指輪なんか付けちゃって、ダイヤの。それがまたすごいのなんの。
元から美人さんで会社の男共から隙あらばと狙われていたような人、最近キレイに磨きがかかったかと思っていたらそういうことだった。内側からでる幸せオーラはその人の姿を三割増しで魅せるというのは真実だった。恋、もだけれどあれは愛だからなんだろうな。結婚って人生で最高のイベントだろうから。しかも寿退社って、すごいなぁ。まぁ相手が相手だからそうだろうけど。
「ウエディングドレス姿、キレイだったなぁ」
純白で、幸せの象徴。女としてこの世に生を受けたからには着てみたいもののひとつ。
彼女、羨望の的だったな。キレイだったな、すごく。
いつか私も、と思ってはみるも、自分がドレスを着てあの場所の主役の一人になるなんて想像ができない。ブーケトスも見事に外れ、私の春はまだまだ地平線の彼方だなと改めて感じることができた。
まず恋だ。結婚より恋愛だ。
しかし頑張ろうって意気込んでうまくできるものでもないわけで。同期や先輩に誘われて合コンには何回か行ったことはあるけど、どうもさっぱり、鳴かず飛ばず。合コンの楽しみ方がイマイチわからなくなってきた。それよりも友達と飲みに行く方が楽しい。
みんなどこで出会ってるんだろう。
再び内部の炭酸ガスが外へと解放されたのを知らせる音が静かな部屋に響く。無意識のうちに冷蔵庫にあったはずのお酒に手をかけてしまっていた。もはやジャンキーだなと反省した後、それを勢いよく飲む。だって開けちゃったんだもの。発泡酒と言えども高いわけだし、もったいない。
デザートと一緒にコーヒーを飲もうと思っていたのに、酒浸りになっちゃったよ。つい数時間前にはデザートを選びながらやっぱり女の子だなあ、私、なーんて思ってたのに。まったく。
そして、まぁ酔えない。すでに缶チューハイを二本空けているというのに、それがただの炭酸飲料だったかの様だ。
頬に手を当てる。シラフの時と変わりはない温度。
酒豪というわけではなく、アルコールに弱いわけでもない。酒に関しても人並みの私、だったがどうにも今日は分解速度がいつもより早いらしい。軽く小腹も空いた。カロリーの高いロールケーキが冷蔵庫で待機しているけど、なんだか甘いものという気分ではなくなっていた。
風に当たるついでにコンビニにでも行こうか。一体どっちがついでなんだろう。
服装は、そのままでいいかな。人がいっぱいいたらそのまま散歩すればいいだけだし、いても二、三人立ち読みしている人がいるくらいでしょ。
ソファの上に投げられたピンク色の薄手のパーカーを羽織り、最近雑貨屋で買ったガマ口の小銭入れをポケットに突っ込む。脱ぎ捨てたパンプスはひっくり返って、履こうとしていたスニーカーの上に転がっていた。困るのは自分なんだから、こういうところから治していこう、と反省しながら散らばった靴を直すのもいつもの事。スニーカーを履くとひんやりとした感覚が足裏に伝わる。靴下をはいていなかったとその時に気付いた。
まぁいいか。鍵を手に取り扉を開けると、夜風が体を撫ぜた。パーカーを着て正解。昼はだんだんと暑くなってきているというのに、日が落ちると前の季節を感じさせる気温になる。
見上げると隠す雲もない、夜空に凛とした月が見える。
忘れてしまおう
夏目漱石は「I Love You」を「月が綺麗ですね」と訳したらしい。そう言っておけば意味が伝わると言ったらしいが、夏目漱石が言うから趣きがあるわけで、私が言ったところでそうですね、という短い同意しか返ってこないだろう。それよりも言う人自体がいない。言ってみたいというより、言われてみたいものだ。
鍵を閉めたのを確認して、コンビニへと歩みを進める。大きく一呼吸。さすがにもう吐く息は白くはない。雨の匂いもまだない。
住宅街なので、夜が更けると車の通りも殆どなく、耳をすまさなくても普通の話し声なら電柱から電柱の距離でも聞こえそうなほど。
雨が降るのを予期してかカエルが盛んに鳴いている。都市部のような開発されたところではなく、田畑がちらほら見える地方の住宅街なだけあって、カエルや虫たちの鳴き声は季節毎よく耳にする。
冬だと思ったらいつの間にか通り過ぎて春になり、梅雨を経て夏へ。長い昼を駆け抜けると秋が実り、再び長い夜を迎える。こうして季節は巡り、また一年、歳をとる。気がつくと四捨五入したら切り上げされる年齢。アラサーなんて厄介な言葉はすぐそこまで来ている。世のお姉様方にはまだひよっこと一蹴されるだろうけど、私もずいぶん歳をとったものだ。気持ちをいくら若く持っても実年齢出せば終わり。かっこいい大人になる予定だったのに、めんどくさい、誰に見せるわけでもないからと言って、パーカーにジャージ、しかもノーメイクすっぴんで出歩いている。もう少し気にした方がいいのかと思いつつも、まぁいいかという諦めにも似た怠惰な気持ちがどうしても勝ってしまうので、多分次も同じ様な服装だろう。
灯りが近付く。あっという間にコンビニだ。
予想通り駐車場に車は止まっておらず、自転車が一台。立ち読みしている人もいないからか、外から見える店内はやけに明るく見えた。ゴミ箱の近くで、買ったばかりだと思われる肉まんを頬張る男性が一人。店員以外ひと気のない店内から察するに自転車はその人のものだろう。もう肉まん買う人っているんだ。っていうか肉まん売ってるんだ。冬によく食べる私にとって、その光景はアンバランスなものに見えた。
大きく一口、あまりに美味しそうに食べるので、肉まんは冬という固定概念で固められている私でもつい食べたくなった。そうだ肉まんを買おう。あとお茶くらいかな。
名も知らない男性に心の中でお礼をする。あなたのおかげで肉まんが食べたくなりました。ありがとう。
店内に入る前に買うものが決まるとなんだか嬉しい気分になるのは私だけなんだろうか。鼻歌交じりで歩くくらいだ。普通の肉まんがいいかな。ピザまんも捨てがたい。ここはカレーまんで攻めるべきだろうか。まずどの肉まんがあるのかすら確認もしてないのに買う気満々。扉に手を掛ける。
その時、右側から誰か自分の名字を呼んだ気がして、その声の方向に顔を向ける。そこには先ほどの肉まんの人がいた。誰だっけと目を細めた刹那、懐かしいという感情が胸の奥からふつふつと湧き出てきた。
「あ、もしかして……総くん?」
久しぶりの同級生との遭遇に思わず学生時代のあだ名で呼んでしまった。
久しぶり、と肉まんを片手にはにかむ彼は中学、高校の同級生。山岸総一郎。
「本当に久しぶりだね」と口に出した時に気付いたが、すでに手遅れ。すっぴんにパーカー、ジャージ姿というあられもない格好を久しぶりに会った同級生、しかも異性に見せてしまった。
「ごめんね。こんな格好で。普段はちゃんとしてるんだけど」
思わず自己擁護、上ずった声、嘘ばればれ。
「あぁ、俺もこんな格好だし」
そう言う彼もパーカーにジャージという私と同じ格好だった。
それにしても、本当に久しぶりだ。
「高校卒業してからだから、もう九年くらいになるのかな」
「そんなに経つんだっけ」
自分で数えて驚いた。そこまで年月は経っているのか。
「全然変わってないよね。身長は、高くなった?」
「どうだろう。測らないからな。自分じゃよくわからないけど、久しぶりに会った同級生にわかってもらえたんなら、変わってないのかな」
高校時代の姿と違うのは少し伸びた身長と、伸びかけのひげくらい。女子から羨ましがられていた長い睫毛も、時間がなくて寝癖をなおさずそのままにしているようなぼさぼさの黒髪も、変わっていない。
六年間のうち半分以上同じクラスになることが多かったので、特別とまではいかないが仲はよかったと自負している。久しぶりに会う同級生との再開はなんだか嬉しいものだ。
「松川は変わったんだけど、変わってないね」
「えー、なにそれ」
褒められているのか馬鹿にされているのか、よくわからないその例えに不満を軽くぶつける。久しぶりだというのになんたる仕打ちだ。
「大人びたというかなんというか……綺麗になってるというか、うん。そんな感じ」
歯切れは良くなかったが、予想してしなかったその答えに不貞腐れそうだった私は面食らった。変な表情をしているのかもしれない。かもしれないと言ったのは自分が今どういう顔をしているのか把握できていないからだ。そこまで酔っていないはずなのに。感情が迷子だ。
「お世辞でもうれしいよ。ありがと」
少し口下手なところも変わっていない同級生になんだかほっとした。真面目な顔でそんなこというのも変わっていない。気持ち体温が上がっているのはお酒のせいもあるんだろう。夜がうまく顔の紅潮を隠してくれたと思う。
「これ総くんの自転車?」
話題を変えようと駐輪場に止められた自転車を指差す。近くでみると随分ボロボロで、満身創痍という言葉がピッタリ当てはまる。
「高校から使ってるやつだよ」
ボロボロなわけだ。グリップはひび割れを起こして反射板は片方ない。サドルはその年数を物語るように擦り切れてつるつる。そんな車体に似合わない真新しいカゴがアンバランスで、どこか憎めない愛らしさすら感じる。
「さすがに新しいの買おうよ」
「なかなかタイミングがね」
私が使ってた自転車はどこにやったかな。自転車なんて久しく乗ってない気がする。
「近くに住んでるの?」
「ここをもうちょっと行った先にね。最近引越してきたんだ。松川は?」
「私はこの裏。ちょっと小腹空いちゃって、散歩がてらね」
「へぇ。コンビニが近くにあるって超優良物件じゃん。うちの近くの病院潰れてコンビニ立ってくれないかな」
「えー、病院も便利でいいじゃん」
「小児科だよ」
「そりゃ関係ないわ」
そのオチについ吹き出してしまった。なんだかツボに入ってしまったようだ。可笑しくてお腹を抱えながら涙目。こんなに笑いのツボが浅いのは確実にお酒のせいだ。
「だ、大丈夫かよ。そんなにおもしろかった?」
「くくっ、苦しい…ひー……んふっ、ぷくく……っはぁ、はぁー、ふぅ落ち着いた。うん、大丈夫、大丈夫。ヘンなツボに入っちゃった」
落ち着かせようと背筋を伸ばして大きく息を吐く。腹筋が鍛えられるんじゃないかというくらいにお腹が痛い。こんなに笑ったのは久しぶりな気がする。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっとお腹痛いけど、嫌な痛みじゃないし。あー、なんだかすごいスッキリしちゃった」
苦しい時こそ笑えと言ったのは誰だろう。今の今までうじうじ考えていた事がきれいに吹っ飛んだような感覚。腹筋の痛みと引き換えに得た爽快感。
「なんだかわからないけど、ならよかった」
学生時代、気難しそうな表情をしていることが多かった彼の優しい笑顔。胸の鼓動がほんの少し早まった。
なんだ、私は欲求不満なのだろうか。いくら最近ご無沙汰と言っても、これじゃただの盛った猫じゃないか。
それとも、これもお酒のせいなんだろうか?
「月が綺麗」
空を見上げ、思わず出た言葉。明日は雨だというのに、雲ひとつ見当たらない夜空。今気がついた。今日は満月だったのだ。
満月は不思議な力があると言われ、感情が高ぶったり、バイオリズムが整ったり、身体能力が上がったりするとか。全部あの月のせいにしよう。今日の私はどこか変だ。
「今日は特別綺麗に見えるね」
同じ満月を、同じ時、同じ場所で見る、彼はそう呟いた。
◆
鍵を閉めたのを確認して、コンビニへと歩みを進める。大きく一呼吸。さすがにもう吐く息は白くはない。雨の匂いもまだない。
住宅街なので、夜が更けると車の通りも殆どなく、耳をすまさなくても普通の話し声なら電柱から電柱の距離でも聞こえそうなほど。
雨が降るのを予期してかカエルが盛んに鳴いている。都市部のような開発されたところではなく、田畑がちらほら見える地方の住宅街なだけあって、カエルや虫たちの鳴き声は季節毎よく耳にする。
冬だと思ったらいつの間にか通り過ぎて春になり、梅雨を経て夏へ。長い昼を駆け抜けると秋が実り、再び長い夜を迎える。こうして季節は巡り、また一年、歳をとる。気がつくと四捨五入したら切り上げされる年齢。アラサーなんて厄介な言葉はすぐそこまで来ている。世のお姉様方にはまだひよっこと一蹴されるだろうけど、私もずいぶん歳をとったものだ。気持ちをいくら若く持っても実年齢出せば終わり。かっこいい大人になる予定だったのに、めんどくさい、誰に見せるわけでもないからと言って、パーカーにジャージ、しかもノーメイクすっぴんで出歩いている。もう少し気にした方がいいのかと思いつつも、まぁいいかという諦めにも似た怠惰な気持ちがどうしても勝ってしまうので、多分次も同じ様な服装だろう。
灯りが近付く。あっという間にコンビニだ。
予想通り駐車場に車は止まっておらず、自転車が一台。立ち読みしている人もいないからか、外から見える店内はやけに明るく見えた。ゴミ箱の近くで、買ったばかりだと思われる肉まんを頬張る男性が一人。店員以外ひと気のない店内から察するに自転車はその人のものだろう。もう肉まん買う人っているんだ。っていうか肉まん売ってるんだ。冬によく食べる私にとって、その光景はアンバランスなものに見えた。
大きく一口、あまりに美味しそうに食べるので、肉まんは冬という固定概念で固められている私でもつい食べたくなった。そうだ肉まんを買おう。あとお茶くらいかな。
名も知らない男性に心の中でお礼をする。あなたのおかげで肉まんが食べたくなりました。ありがとう。
店内に入る前に買うものが決まるとなんだか嬉しい気分になるのは私だけなんだろうか。鼻歌交じりで歩くくらいだ。普通の肉まんがいいかな。ピザまんも捨てがたい。ここはカレーまんで攻めるべきだろうか。まずどの肉まんがあるのかすら確認もしてないのに買う気満々。扉に手を掛ける。
その時、右側から誰か自分の名字を呼んだ気がして、その声の方向に顔を向ける。そこには先ほどの肉まんの人がいた。誰だっけと目を細めた刹那、懐かしいという感情が胸の奥からふつふつと湧き出てきた。
「あ、もしかして……総くん?」
久しぶりの同級生との遭遇に思わず学生時代のあだ名で呼んでしまった。
久しぶり、と肉まんを片手にはにかむ彼は中学、高校の同級生。山岸総一郎。
「本当に久しぶりだね」と口に出した時に気付いたが、すでに手遅れ。すっぴんにパーカー、ジャージ姿というあられもない格好を久しぶりに会った同級生、しかも異性に見せてしまった。
「ごめんね。こんな格好で。普段はちゃんとしてるんだけど」
思わず自己擁護、上ずった声、嘘ばればれ。
「あぁ、俺もこんな格好だし」
そう言う彼もパーカーにジャージという私と同じ格好だった。
それにしても、本当に久しぶりだ。
「高校卒業してからだから、もう九年くらいになるのかな」
「そんなに経つんだっけ」
自分で数えて驚いた。そこまで年月は経っているのか。
「全然変わってないよね。身長は、高くなった?」
「どうだろう。測らないからな。自分じゃよくわからないけど、久しぶりに会った同級生にわかってもらえたんなら、変わってないのかな」
高校時代の姿と違うのは少し伸びた身長と、伸びかけのひげくらい。女子から羨ましがられていた長い睫毛も、時間がなくて寝癖をなおさずそのままにしているようなぼさぼさの黒髪も、変わっていない。
六年間のうち半分以上同じクラスになることが多かったので、特別とまではいかないが仲はよかったと自負している。久しぶりに会う同級生との再開はなんだか嬉しいものだ。
「松川は変わったんだけど、変わってないね」
「えー、なにそれ」
褒められているのか馬鹿にされているのか、よくわからないその例えに不満を軽くぶつける。久しぶりだというのになんたる仕打ちだ。
「大人びたというかなんというか……綺麗になってるというか、うん。そんな感じ」
歯切れは良くなかったが、予想してしなかったその答えに不貞腐れそうだった私は面食らった。変な表情をしているのかもしれない。かもしれないと言ったのは自分が今どういう顔をしているのか把握できていないからだ。そこまで酔っていないはずなのに。感情が迷子だ。
「お世辞でもうれしいよ。ありがと」
少し口下手なところも変わっていない同級生になんだかほっとした。真面目な顔でそんなこというのも変わっていない。気持ち体温が上がっているのはお酒のせいもあるんだろう。夜がうまく顔の紅潮を隠してくれたと思う。
「これ総くんの自転車?」
話題を変えようと駐輪場に止められた自転車を指差す。近くでみると随分ボロボロで、満身創痍という言葉がピッタリ当てはまる。
「高校から使ってるやつだよ」
ボロボロなわけだ。グリップはひび割れを起こして反射板は片方ない。サドルはその年数を物語るように擦り切れてつるつる。そんな車体に似合わない真新しいカゴがアンバランスで、どこか憎めない愛らしさすら感じる。
「さすがに新しいの買おうよ」
「なかなかタイミングがね」
私が使ってた自転車はどこにやったかな。自転車なんて久しく乗ってない気がする。
「近くに住んでるの?」
「ここをもうちょっと行った先にね。最近引越してきたんだ。松川は?」
「私はこの裏。ちょっと小腹空いちゃって、散歩がてらね」
「へぇ。コンビニが近くにあるって超優良物件じゃん。うちの近くの病院潰れてコンビニ立ってくれないかな」
「えー、病院も便利でいいじゃん」
「小児科だよ」
「そりゃ関係ないわ」
そのオチについ吹き出してしまった。なんだかツボに入ってしまったようだ。可笑しくてお腹を抱えながら涙目。こんなに笑いのツボが浅いのは確実にお酒のせいだ。
「だ、大丈夫かよ。そんなにおもしろかった?」
「くくっ、苦しい…ひー……んふっ、ぷくく……っはぁ、はぁー、ふぅ落ち着いた。うん、大丈夫、大丈夫。ヘンなツボに入っちゃった」
落ち着かせようと背筋を伸ばして大きく息を吐く。腹筋が鍛えられるんじゃないかというくらいにお腹が痛い。こんなに笑ったのは久しぶりな気がする。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっとお腹痛いけど、嫌な痛みじゃないし。あー、なんだかすごいスッキリしちゃった」
苦しい時こそ笑えと言ったのは誰だろう。今の今までうじうじ考えていた事がきれいに吹っ飛んだような感覚。腹筋の痛みと引き換えに得た爽快感。
「なんだかわからないけど、ならよかった」
学生時代、気難しそうな表情をしていることが多かった彼の優しい笑顔。胸の鼓動がほんの少し早まった。
なんだ、私は欲求不満なのだろうか。いくら最近ご無沙汰と言っても、これじゃただの盛った猫じゃないか。
それとも、これもお酒のせいなんだろうか?
「月が綺麗」
空を見上げ、思わず出た言葉。明日は雨だというのに、雲ひとつ見当たらない夜空。今気がついた。今日は満月だったのだ。
満月は不思議な力があると言われ、感情が高ぶったり、バイオリズムが整ったり、身体能力が上がったりするとか。全部あの月のせいにしよう。今日の私はどこか変だ。
「今日は特別綺麗に見えるね」
同じ満月を、同じ時、同じ場所で見る、彼はそう呟いた。
◆
今になって思い出した昔話。卒業式のあと、クラスで希望者を募ってカラオケに行った日だ。
みんなが歌い騒いでいる部屋から少し離れたところで、トイレから戻ってきた私を待っていた総くん。いつにもない神妙な顔付きで佇んでいた彼は、まだ濡れていた手を真新しいハンカチで拭いていた私に、ただ簡潔にこう言った。
好きだ、と。
今更言い訳じみてしまうが、私も彼のことが好きだった。ただその好きという感情の意味が私たちの間で大きく異なっていた。
彼は私をひとりの女の子として好きと言ってくれた。その言葉を聞いた時、純粋にすごく嬉しかった。ただ私は彼をひとりの異性として見ることは出来なかった。その時好きな人がいたわけでもなく、恋愛をするのがめんどくさいなどという格好つけな気持ちもなかった。そこには照れ隠しもない。
私は想像力が足りなかったのだ。彼が友人であり続けてくれるという不確定で、自分勝手な想いを壊したくなかった。その居心地の良さにただ甘えて、私は彼の純粋な気持ちを弄んだ。
間をあけて私の口から出た返事は、ごめんなさいという短い、とても残酷な言葉。
彼は私の出す答えをわかっていたのかもしれない。さみしそうなのに、どこか吹っ切れたかのようなすっきりとした表情。そのどちらも感じることができた。自意識過剰なのかもしれない。
それでもまだ好きだから。
そう言って私が戻るはずの、みんなが待つ部屋とは逆への方向へと歩いていった。その背中を追うことも、振り返ることもできずに、私は突き付けられた現実と一緒にただ立ち尽くすことしか出来なかった。
忘れた頃に涙がひとつ小さく零れた。
消すのが面倒なほどRe:が溜まっていたくだらないメールは、そこで終わった。
「どの面下げて普通に話してんだ私……」
朝だというのに薄暗く低い空。予報通り土砂降りとまではいかないが、外に出る気力を吹き飛ばすには十分の雨量。まるで私の今の心情を現しているような天気だ。
昨夜再び登録された彼のメールアドレスを前に、ベッドの上で正座をして難しい顔をしたまま携帯を握りしめる私。過去自分がしでかした事情が今更夢となって襲いかかってきた。アドレスと共に消していた記憶が一気に蘇った。
彼は普通に話しかけてくれた。よそよそしい感じもなかった。でも忘れたわけじゃないだろう。
「私、どうすればいいんだ」
誰にも届くわけがない問いかけは雨音に消されていった。
宛先だけ決められたメール。
書けない本文。
起きたばかりの頭で考えても、なにも浮かばない。怒髪天を衝く勢いでついた大袈裟な寝癖を梳かすことも忘れて携帯とにらめっこ。
静寂に包まれる室内に雨音と時計の秒針の音が響く。カラオケで別れた後、お互い進路も違ったので昨夜まで会うことはなかった。同窓会に参加しても彼の姿は見かけなかったし、あの出来事からアドレスを変更したので彼から連絡がくることもなかった。
「神様恨むよ」
会いたくなかったと言えば嘘になるけど、なにもあんなかたちで再会するなんて。予想もしていなかった。
私の自分勝手な都合を押し付けたとき、連絡つかなくなったとき、彼はどういう気持ちだったのか。考えるだけで申し訳ない気持ちでいっぱいになり、なにも行動できなくなる。
あの頃から私たちはずいぶん成長して大人になった。お互いいい歳だ、経験もあるだろう。今となってはあのことは笑い話になっているのかもしれない。
「なってるわけないでしょー、あぁ、もうっ」
自問自答を繰り返す。仕事ですらこんなに悩んだことはないのに。
声をかけたのは彼の方からとはいえ、それが許してくれたと思うのは自分勝手にも程がある。あまりにも自然で、他愛もない話しかしていなかったので、彼の真意など検討もつかないし、そんなものなどないのかもしれない。
堂々巡りの脳内、めまいがしそう。考えすぎて頭の中がかゆい。
こんなの考え続けても埒が明かない。携帯を放り投げ、ベッドから飛び降り、脇目も振らず冷蔵庫へと向かう。途中机の横に落ちていたテレビのリモコンを蹴り飛ばしたが気にしない。
冷蔵庫の扉を開けると目が覚めるような冷気。めんどくさくて買ったビニール袋のまま突っ込んでたコーラを中から取り出す。キャップを開けると、もやもやとした思考を吹っ切るかのように、勢いよく喉を鳴らしながら飲む。もちろんペットボトルを持っている左手の反対は腰に当てている。気取ったポーズ。
ペットボトルを口から離すと声が出る。それはビールやチューハイなどを飲んだ時と一緒で、その時の解放感、爽快感がたまらなく好きだ。
「えっぷ」
ゲップが出てしまった。しかもなかなかの音量。女としてあるべき姿じゃない。やっぱり、これはもうおっさんだ。
「人には絶対見せられない姿よねぇ」
その時ベッドの上に放り投げた携帯からメールが届いたという着信が鳴った。
朝から誰だろう。
コーラを持ったままベッドに向かうとまたリモコンを蹴飛ばしてしまった。二度ある事は三度あるというので、三度目を起こさないように所定の場所であるテーブルの上に戻す。蹴り飛ばしておいてなんだが、壊れても困る。
携帯を確認すると、なんと総くんからのメールだった。
『おはようございます。昨日は夜遅くまで付き合わせてごめんね。久しぶりに会えて嬉しかった』
絵文字も顔文字も使われていないシンプルなメール。昔から変わっていないなぁと顔が綻ぶ。
そういえば最近他愛もない話題でメールをするなんてしなくなったな。待ち合わせの連絡ばかりだった。
『おはよう!私もテンション上がっていつもより喋っちゃった。通り道ならまた会えるかもね!その時も声かけてよ』
もうすっかり慣れたタッチパネル操作。フリック入力もお手の物。片手持ちで楽々と文字を打っていく。
「送信っと」
私も絵文字を多用した色鮮やかなメールがあまり得意ではない。時々送られてくる母からのメールは、単語から語尾まで色んなところに絵文字が散らばっていてめまいがする。まだまだ気は若いということなのかどうなのか。
なんだか落ち着かない。ふわふわとした感覚。携帯とコーラ片手に部屋を意味もなく徘徊する。そうしないと体も気持ちも宙に浮いちゃいそうで。
姿見の鏡をふと見ると、自分でも引くほどのにやけた、情けない顔をしていた。さっきまで自責の念に駆られてああだこうだと自問自答を繰り返していた自分はどこに行った?
私は、現金な女だ。
みんなが歌い騒いでいる部屋から少し離れたところで、トイレから戻ってきた私を待っていた総くん。いつにもない神妙な顔付きで佇んでいた彼は、まだ濡れていた手を真新しいハンカチで拭いていた私に、ただ簡潔にこう言った。
好きだ、と。
今更言い訳じみてしまうが、私も彼のことが好きだった。ただその好きという感情の意味が私たちの間で大きく異なっていた。
彼は私をひとりの女の子として好きと言ってくれた。その言葉を聞いた時、純粋にすごく嬉しかった。ただ私は彼をひとりの異性として見ることは出来なかった。その時好きな人がいたわけでもなく、恋愛をするのがめんどくさいなどという格好つけな気持ちもなかった。そこには照れ隠しもない。
私は想像力が足りなかったのだ。彼が友人であり続けてくれるという不確定で、自分勝手な想いを壊したくなかった。その居心地の良さにただ甘えて、私は彼の純粋な気持ちを弄んだ。
間をあけて私の口から出た返事は、ごめんなさいという短い、とても残酷な言葉。
彼は私の出す答えをわかっていたのかもしれない。さみしそうなのに、どこか吹っ切れたかのようなすっきりとした表情。そのどちらも感じることができた。自意識過剰なのかもしれない。
それでもまだ好きだから。
そう言って私が戻るはずの、みんなが待つ部屋とは逆への方向へと歩いていった。その背中を追うことも、振り返ることもできずに、私は突き付けられた現実と一緒にただ立ち尽くすことしか出来なかった。
忘れた頃に涙がひとつ小さく零れた。
消すのが面倒なほどRe:が溜まっていたくだらないメールは、そこで終わった。
「どの面下げて普通に話してんだ私……」
朝だというのに薄暗く低い空。予報通り土砂降りとまではいかないが、外に出る気力を吹き飛ばすには十分の雨量。まるで私の今の心情を現しているような天気だ。
昨夜再び登録された彼のメールアドレスを前に、ベッドの上で正座をして難しい顔をしたまま携帯を握りしめる私。過去自分がしでかした事情が今更夢となって襲いかかってきた。アドレスと共に消していた記憶が一気に蘇った。
彼は普通に話しかけてくれた。よそよそしい感じもなかった。でも忘れたわけじゃないだろう。
「私、どうすればいいんだ」
誰にも届くわけがない問いかけは雨音に消されていった。
宛先だけ決められたメール。
書けない本文。
起きたばかりの頭で考えても、なにも浮かばない。怒髪天を衝く勢いでついた大袈裟な寝癖を梳かすことも忘れて携帯とにらめっこ。
静寂に包まれる室内に雨音と時計の秒針の音が響く。カラオケで別れた後、お互い進路も違ったので昨夜まで会うことはなかった。同窓会に参加しても彼の姿は見かけなかったし、あの出来事からアドレスを変更したので彼から連絡がくることもなかった。
「神様恨むよ」
会いたくなかったと言えば嘘になるけど、なにもあんなかたちで再会するなんて。予想もしていなかった。
私の自分勝手な都合を押し付けたとき、連絡つかなくなったとき、彼はどういう気持ちだったのか。考えるだけで申し訳ない気持ちでいっぱいになり、なにも行動できなくなる。
あの頃から私たちはずいぶん成長して大人になった。お互いいい歳だ、経験もあるだろう。今となってはあのことは笑い話になっているのかもしれない。
「なってるわけないでしょー、あぁ、もうっ」
自問自答を繰り返す。仕事ですらこんなに悩んだことはないのに。
声をかけたのは彼の方からとはいえ、それが許してくれたと思うのは自分勝手にも程がある。あまりにも自然で、他愛もない話しかしていなかったので、彼の真意など検討もつかないし、そんなものなどないのかもしれない。
堂々巡りの脳内、めまいがしそう。考えすぎて頭の中がかゆい。
こんなの考え続けても埒が明かない。携帯を放り投げ、ベッドから飛び降り、脇目も振らず冷蔵庫へと向かう。途中机の横に落ちていたテレビのリモコンを蹴り飛ばしたが気にしない。
冷蔵庫の扉を開けると目が覚めるような冷気。めんどくさくて買ったビニール袋のまま突っ込んでたコーラを中から取り出す。キャップを開けると、もやもやとした思考を吹っ切るかのように、勢いよく喉を鳴らしながら飲む。もちろんペットボトルを持っている左手の反対は腰に当てている。気取ったポーズ。
ペットボトルを口から離すと声が出る。それはビールやチューハイなどを飲んだ時と一緒で、その時の解放感、爽快感がたまらなく好きだ。
「えっぷ」
ゲップが出てしまった。しかもなかなかの音量。女としてあるべき姿じゃない。やっぱり、これはもうおっさんだ。
「人には絶対見せられない姿よねぇ」
その時ベッドの上に放り投げた携帯からメールが届いたという着信が鳴った。
朝から誰だろう。
コーラを持ったままベッドに向かうとまたリモコンを蹴飛ばしてしまった。二度ある事は三度あるというので、三度目を起こさないように所定の場所であるテーブルの上に戻す。蹴り飛ばしておいてなんだが、壊れても困る。
携帯を確認すると、なんと総くんからのメールだった。
『おはようございます。昨日は夜遅くまで付き合わせてごめんね。久しぶりに会えて嬉しかった』
絵文字も顔文字も使われていないシンプルなメール。昔から変わっていないなぁと顔が綻ぶ。
そういえば最近他愛もない話題でメールをするなんてしなくなったな。待ち合わせの連絡ばかりだった。
『おはよう!私もテンション上がっていつもより喋っちゃった。通り道ならまた会えるかもね!その時も声かけてよ』
もうすっかり慣れたタッチパネル操作。フリック入力もお手の物。片手持ちで楽々と文字を打っていく。
「送信っと」
私も絵文字を多用した色鮮やかなメールがあまり得意ではない。時々送られてくる母からのメールは、単語から語尾まで色んなところに絵文字が散らばっていてめまいがする。まだまだ気は若いということなのかどうなのか。
なんだか落ち着かない。ふわふわとした感覚。携帯とコーラ片手に部屋を意味もなく徘徊する。そうしないと体も気持ちも宙に浮いちゃいそうで。
姿見の鏡をふと見ると、自分でも引くほどのにやけた、情けない顔をしていた。さっきまで自責の念に駆られてああだこうだと自問自答を繰り返していた自分はどこに行った?
私は、現金な女だ。