イノセント
まえがき
この作品は文芸新都の『匿名で官能小説企画』に投稿された作品のひとつ UNDER MY SKIN の続きを書いたものです(作者了承済み)。
これ単品でも読めないことはないですが、登場人物もそのまま使っているので、できればあちらを先に読んでいただけたらとおもいます。
書きたくて書いたのに、進めるうちに迷子になって着地地点を見失いました。ごめんなさい。
問題があれば消します。
それでは、どうぞ。
「うわ。酷い顔」
部室に入ってくるやいなや、彼女は驚きの声をあげ、怪訝な表情をした。
人の顔を見てその言葉とその表情はかなり失礼な、とおもう以上に、私は自分の状態の悪さを理解していた。口の中はカラカラに乾燥して、全身の水分がなくなっているんじゃないかという錯覚。目元はなんだかかゆい。十人いれば十人が彼女と同じ反応をするだろう。
桜色のハンカチを差し出してきた。昔、私がプレゼントしたもので、まだ使ってくれているんだ、となんだか心の端っこをくすぐられたような気持ちになった。
「……デートじゃなかったの?」
「もうとっくに終わった。連絡しても出ないし、部室に来てみたら死にそうな顔でうなだれてるんだから」
「ごめん」
「謝る前にその顔、どうにかしてきなさい」
促されるまま、ハンカチを受け取って顔を洗いにいく。
手洗い場の鏡に写った人物は、私が想像していたよりもはるかに酷い顔をしていて、まるで映画の中に存在するゾンビをおもわせる顔色。それを落とすように冷たい水でジャブジャブと洗うも、乾燥した目尻が潤っただけだった。
ハンカチを顔に当てると、香水とはまた違う女子特有の甘いにおいが鼻から肺一杯に広がり、脳を麻痺させた。
「まだマシになったんじゃない?」
部屋に戻ると、再び私の顔を見て彼女はそう言った。
洗って返すと伝えると、気にしなくてもいいと言って半ば無理矢理にハンカチを奪われた。と、いってもこれは元々彼女のものなのだから、その表現はおかしいか。
「だいたいわかるから言わなくていい」
軋むパイプ椅子。
「言って楽になるなら聞いてあげないこともないけど」
おもわず笑ってしまった。その反応を見て彼女の頬に赤みがさす。夕日はすっかり落ちたのに。そんなに恥ずかしがるなら言わなければいいのに。
「ありがとう」
「お礼言われるようなことはしてないから」
彼女とは小学校からの付き合いで、一体誰の陰謀なのか、出会ってから今まで同じクラスになった回数の方が圧倒的に多い。この奇跡に近い現象を赤い糸とは呼びたくないけど、私たちの間には綱引きで使われるような太いロープが結ばれているみたいだ。
「ダメだった」
「そっか」
「最後までしたけど」
「なにそれ」
彼女の表情が変わる。明らかに嫌そうな顔をして、手にしていた文庫本を音を立てて閉じた。
「そういうのは家とかホテルでやりなって。お膳立てした私がいうのもなんだけど、先生が来たらどうするつもりだったのよ」
大丈夫だよ。どうせ来ないし。という言葉が口からでかかったけど、それを飲み込んだ。その代わりにごめん、という短い謝罪。
「謝られてもさぁ」
「次から注意するって言いたいけど、多分もうこれっきり」
「最後までやっといて?」
「だって彼女、恋人いるし。男の子の」
背の高い、真面目そうな子だった。確か彼女とはクラスメイトだとかどうとか。正直、あまり覚えていない。
「なのに手を出したって」
「なんなんだろうね」
「こっちが聞きたいよ」
大きなため息。呆れたと態度で言わんばかり。
「よくわかんないんだけどさ、どうしたかったの?」
どうしたかったか?
「恋人にしたいとか、セフレにしたいとか、なんか色々理由はあるじゃない? それであんたは彼女とどういう関係になりたかったわけ?」
しばらく考え込むも、目の前で軽く眉間にしわを寄せて、こちらを睨むように視線を飛ばす彼女が納得できるような答えは出てこなかった。
後輩に彼氏がいることはキスをする前から知っていた。彼女自身の口から私に伝えられていた。それを壊そうだとか、奪ってやろうだなんて気持ちはその瞬間も今現在も生まれていない。恋人同士なんだからやることはやってるだろうとおもいきや、初めてだと言うんだから。
ぎこちなかった口づけも回を重ねるごとにうまくなっていって、最初は私からだったのが、次第に彼女の方からするようになっていった。隠れてするキスの味がすっかりクセになってしまったと、とろんとした顔で言われたら私でなくとも我慢できなくなる。
キスから先のことがしたい、と言い始めたのも彼女からだった。
なんだ。主導権を握っていたつもりでいたのに、踊っていたのは私の方じゃないか。
考えても答えが出るわけがなかった。彼女が求めるまま、流されるまましていただけなんだから。
机を指で叩く音が響く。それはだんだんとテンポをあげていき、目の前で頬杖をついている彼女の苛立ちのバロメーターのようだ。
「わからない」
「はぁ?」
今日一番の大きな声と共にリズムが止まる。
「そんなんでよく行動できたわね……」
「あんまり考えてなかったのかも」
「いや、好きなことに理由はいらないっていうけどさ。動物じゃないんだから」
動物とは、ある意味正しい表現なのかもしれない。ただ欲望のままに彼女の身体を好きにしていたのだから。
「はぁ……とりあえず帰ろ。なんか、考えるだけ無駄な気がしてきた」
体も練習着もボロボロになるまで練習する運動部が帰るような時間帯で、文芸部である自分たちには似合わない下校時刻になっていた。
◆
私はなにを焦っているんだろう。
私はなにを求めているんだろう。
私はなにを考えているんだろう。
終わりのない、意味もない自問自答。
バスから見える外の風景と同じで、ただ前から後ろへ流れていくだけ。
私はこの残り短い高校生活になにか残すことができたのだろうか?
これから先の未来、青春時代を振り返って、昔はよかったと言える日がくるのだろうか?
◆
「やっぱ夜になるとさみぃ」
「朝も寒いよね。今朝気づいたら布団かぶってたし」
桜はとうの昔に散って、長い連休も走り去るように過ぎ、次の季節は夏だというのに、日が昇っていない時間になると未だ寒さが残っていた。
街灯を頼りに歩く。歩く。
肌寒さも合間ってか、視線の先にある道はどこまでも続いているように見えた。
静かな道を歩く。歩く。
「やろうとおもえばずっと寝てられるわ」
「それいつもそうじゃない?」
食い気味の私のツッコミに、隣を歩く彼女は大袈裟にかぶりを振った。
「わかってないなぁ。このタオルケットをかぶって程よい気温っていうのが最高なのだよ。寒すぎないし
暑すぎない」
知らないよ、と笑う私に構わず、彼女はいかにこの適度な肌寒さが睡眠に適しているかを饒舌に語る。これ聞くの何回目だっけ。
彼女と帰る夜の道は変な安心感があって、できることなら一緒に帰宅したいとおもっている。
夜が怖いとか、変質者の心配とか、そういうものではないもので、うまく言語化できない。
「ねぇ」
話を遮る。バス停から私の家まであと半分のところ。
「手、つないでいい?」
彼女の方を見ると、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、なんだかおかしかった。その表情をさせたのは私なんだけど。
「なんだ、なんだ。欲求不満の捌け口を私に変えようってわけ?」
「ただ手をつなぐだけでしょ。キスしようって言ってるわけじゃないんだから、スキンシップだよ。ただのスキンシップ」
「それにしても唐突すぎでしょ」
「そういうもんじゃない?」
「理由もなく?」
「うん」
「ふーん……ま、なんでもいいけどさ」
ひんやりとした感触が右手を覆う。自分から言ったのに、いざつないでみると半身がぞわぞわとして落ち着きがなくなる。
「冷え性?」
「そういうあんたはほっかほかね」
「緊張してるから」
「今更ね」
いつも歩き慣れた、見慣れた道で、いつもの二人で帰路についているだけなのに、今日はなんだか初めて通る場所のように感じた。
このまま時間が止まればいいのに、なんておもっても、時間が有限だからこそこういう気持ちになったのかもしれない。
いつの間にか彼女の左手も同じように熱を帯びていたけど、私は進行方向から視線を外すことができずに、ただただまっすぐ歩くだけだった。
部室に入ってくるやいなや、彼女は驚きの声をあげ、怪訝な表情をした。
人の顔を見てその言葉とその表情はかなり失礼な、とおもう以上に、私は自分の状態の悪さを理解していた。口の中はカラカラに乾燥して、全身の水分がなくなっているんじゃないかという錯覚。目元はなんだかかゆい。十人いれば十人が彼女と同じ反応をするだろう。
桜色のハンカチを差し出してきた。昔、私がプレゼントしたもので、まだ使ってくれているんだ、となんだか心の端っこをくすぐられたような気持ちになった。
「……デートじゃなかったの?」
「もうとっくに終わった。連絡しても出ないし、部室に来てみたら死にそうな顔でうなだれてるんだから」
「ごめん」
「謝る前にその顔、どうにかしてきなさい」
促されるまま、ハンカチを受け取って顔を洗いにいく。
手洗い場の鏡に写った人物は、私が想像していたよりもはるかに酷い顔をしていて、まるで映画の中に存在するゾンビをおもわせる顔色。それを落とすように冷たい水でジャブジャブと洗うも、乾燥した目尻が潤っただけだった。
ハンカチを顔に当てると、香水とはまた違う女子特有の甘いにおいが鼻から肺一杯に広がり、脳を麻痺させた。
「まだマシになったんじゃない?」
部屋に戻ると、再び私の顔を見て彼女はそう言った。
洗って返すと伝えると、気にしなくてもいいと言って半ば無理矢理にハンカチを奪われた。と、いってもこれは元々彼女のものなのだから、その表現はおかしいか。
「だいたいわかるから言わなくていい」
軋むパイプ椅子。
「言って楽になるなら聞いてあげないこともないけど」
おもわず笑ってしまった。その反応を見て彼女の頬に赤みがさす。夕日はすっかり落ちたのに。そんなに恥ずかしがるなら言わなければいいのに。
「ありがとう」
「お礼言われるようなことはしてないから」
彼女とは小学校からの付き合いで、一体誰の陰謀なのか、出会ってから今まで同じクラスになった回数の方が圧倒的に多い。この奇跡に近い現象を赤い糸とは呼びたくないけど、私たちの間には綱引きで使われるような太いロープが結ばれているみたいだ。
「ダメだった」
「そっか」
「最後までしたけど」
「なにそれ」
彼女の表情が変わる。明らかに嫌そうな顔をして、手にしていた文庫本を音を立てて閉じた。
「そういうのは家とかホテルでやりなって。お膳立てした私がいうのもなんだけど、先生が来たらどうするつもりだったのよ」
大丈夫だよ。どうせ来ないし。という言葉が口からでかかったけど、それを飲み込んだ。その代わりにごめん、という短い謝罪。
「謝られてもさぁ」
「次から注意するって言いたいけど、多分もうこれっきり」
「最後までやっといて?」
「だって彼女、恋人いるし。男の子の」
背の高い、真面目そうな子だった。確か彼女とはクラスメイトだとかどうとか。正直、あまり覚えていない。
「なのに手を出したって」
「なんなんだろうね」
「こっちが聞きたいよ」
大きなため息。呆れたと態度で言わんばかり。
「よくわかんないんだけどさ、どうしたかったの?」
どうしたかったか?
「恋人にしたいとか、セフレにしたいとか、なんか色々理由はあるじゃない? それであんたは彼女とどういう関係になりたかったわけ?」
しばらく考え込むも、目の前で軽く眉間にしわを寄せて、こちらを睨むように視線を飛ばす彼女が納得できるような答えは出てこなかった。
後輩に彼氏がいることはキスをする前から知っていた。彼女自身の口から私に伝えられていた。それを壊そうだとか、奪ってやろうだなんて気持ちはその瞬間も今現在も生まれていない。恋人同士なんだからやることはやってるだろうとおもいきや、初めてだと言うんだから。
ぎこちなかった口づけも回を重ねるごとにうまくなっていって、最初は私からだったのが、次第に彼女の方からするようになっていった。隠れてするキスの味がすっかりクセになってしまったと、とろんとした顔で言われたら私でなくとも我慢できなくなる。
キスから先のことがしたい、と言い始めたのも彼女からだった。
なんだ。主導権を握っていたつもりでいたのに、踊っていたのは私の方じゃないか。
考えても答えが出るわけがなかった。彼女が求めるまま、流されるまましていただけなんだから。
机を指で叩く音が響く。それはだんだんとテンポをあげていき、目の前で頬杖をついている彼女の苛立ちのバロメーターのようだ。
「わからない」
「はぁ?」
今日一番の大きな声と共にリズムが止まる。
「そんなんでよく行動できたわね……」
「あんまり考えてなかったのかも」
「いや、好きなことに理由はいらないっていうけどさ。動物じゃないんだから」
動物とは、ある意味正しい表現なのかもしれない。ただ欲望のままに彼女の身体を好きにしていたのだから。
「はぁ……とりあえず帰ろ。なんか、考えるだけ無駄な気がしてきた」
体も練習着もボロボロになるまで練習する運動部が帰るような時間帯で、文芸部である自分たちには似合わない下校時刻になっていた。
◆
私はなにを焦っているんだろう。
私はなにを求めているんだろう。
私はなにを考えているんだろう。
終わりのない、意味もない自問自答。
バスから見える外の風景と同じで、ただ前から後ろへ流れていくだけ。
私はこの残り短い高校生活になにか残すことができたのだろうか?
これから先の未来、青春時代を振り返って、昔はよかったと言える日がくるのだろうか?
◆
「やっぱ夜になるとさみぃ」
「朝も寒いよね。今朝気づいたら布団かぶってたし」
桜はとうの昔に散って、長い連休も走り去るように過ぎ、次の季節は夏だというのに、日が昇っていない時間になると未だ寒さが残っていた。
街灯を頼りに歩く。歩く。
肌寒さも合間ってか、視線の先にある道はどこまでも続いているように見えた。
静かな道を歩く。歩く。
「やろうとおもえばずっと寝てられるわ」
「それいつもそうじゃない?」
食い気味の私のツッコミに、隣を歩く彼女は大袈裟にかぶりを振った。
「わかってないなぁ。このタオルケットをかぶって程よい気温っていうのが最高なのだよ。寒すぎないし
暑すぎない」
知らないよ、と笑う私に構わず、彼女はいかにこの適度な肌寒さが睡眠に適しているかを饒舌に語る。これ聞くの何回目だっけ。
彼女と帰る夜の道は変な安心感があって、できることなら一緒に帰宅したいとおもっている。
夜が怖いとか、変質者の心配とか、そういうものではないもので、うまく言語化できない。
「ねぇ」
話を遮る。バス停から私の家まであと半分のところ。
「手、つないでいい?」
彼女の方を見ると、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、なんだかおかしかった。その表情をさせたのは私なんだけど。
「なんだ、なんだ。欲求不満の捌け口を私に変えようってわけ?」
「ただ手をつなぐだけでしょ。キスしようって言ってるわけじゃないんだから、スキンシップだよ。ただのスキンシップ」
「それにしても唐突すぎでしょ」
「そういうもんじゃない?」
「理由もなく?」
「うん」
「ふーん……ま、なんでもいいけどさ」
ひんやりとした感触が右手を覆う。自分から言ったのに、いざつないでみると半身がぞわぞわとして落ち着きがなくなる。
「冷え性?」
「そういうあんたはほっかほかね」
「緊張してるから」
「今更ね」
いつも歩き慣れた、見慣れた道で、いつもの二人で帰路についているだけなのに、今日はなんだか初めて通る場所のように感じた。
このまま時間が止まればいいのに、なんておもっても、時間が有限だからこそこういう気持ちになったのかもしれない。
いつの間にか彼女の左手も同じように熱を帯びていたけど、私は進行方向から視線を外すことができずに、ただただまっすぐ歩くだけだった。