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序章

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                    *

  ――いいかげんにしろよ。愛奈。小学六年生にまでなったのに、そんな事を言うんじゃない。
 『でも、私には解った。解るんだ。私達は最悪な隣人を持ってしまって、そして、それは私達にいずれ危険なモノをもたらす』
 ――そんな事言ったってどうしようもないだろ。今更住む所を変えられるわけがない。だったら試しに父さんと母さんに頼んでみたら?絶対に叶うはずがないだろうけど。
 『そんな事、私にだって判る、もう変えられないって事は。でも、視えたんだ』
 ――またそれか?いい加減、いい加減もうすぐ中学生なんだから、そんなくだらない嘘は止めろ。そんな事言って友達とか、母さんとかの気を引こうとしたって無駄だからな。
 『……お兄ちゃんに、この事を理解してもらおうとは思わないよ。でも、視えてしまうんだよ。私には視えてしまったんだ、……お兄ちゃん、今後は、絶対にあの人に近づいちゃ駄目だ。――いや、もう遅いか。お兄ちゃんはあの人に《名前》を言ってしまった……』
 ――そんな事言ったって、そんなの無理に決まってるじゃないか。きっと彼女とはまた何度か会うし、それに、それだけの関係だ。隣りに住む住人同士の関係、それだけだよ。……解っただろ?この話はもうおしまいだ。いいな。
 『……でも、本当に視たんだ。あのお姉さんの後ろの《くらやみ》を……』

                    *

 窓の向こうでは、どこかで見たことがあるような灰色の風景が、前から後ろへと次々に流れ行く。時々僕等とすれ違い去ってゆく車達は、皆グレーカラーでその情景に溶け込むように擬態していた。だから、僕はすれ違う一つ一つの車の中にある、一人または数名の人間の人生が乗っている事に実感が湧かない。あの灰色達に乗っている人は、みな僕と同じ人間なのだろうか?色のついた肌を持ち、その目に光はあるのだろうか――それが信じられず僕は、どうしても彼らを同じ灰色の背景とごちゃまぜに捉えてしまう。
 車内に取り付けてある小型モニタに映るTV番組は――平日の昼間だからだろうか――低クオリティなバラエティ番組で、素人にも分かるその粗末な演出に僕は耐えられず、代わりに車の外から見える灰色の情景をぼんやりと眺めていた。きっとその情景と、画面の中で映る人々とはどちらが人間味があるだろうか――きっとその疑問に答えは出ないのだろうが。
 灰色をメインカラーにえつらったワゴンカーの中で、家族のうち自らから会話を発そうとする人は、僕を含めいなかった。父は運転に集中しているかのような様子を演じ続け、母は耳にイヤホンを嵌め込み何か聴いているようだった。隣りでは妹の愛奈が目を瞑ってうなだれていたが、眠りに入っているかどうかは判別がつかない。僕も、自分から会話を切りだすつもりは毛頭なかったから、何をするわけでもなくぼんやりと窓の向こうの景色を眺めていた。
 ――さて、そうしているうちに、やがて車は大通りからその脇の小道へと入り、住宅街を通り抜けて、数分の後とある団地へと着く。
 「ほら、ここが新しい家だぞ」
 父が、何か義務のようにそう唱えたが、その台詞は家族の返事を促すにしては少々小さすぎたようだった。
 車は何本か道を曲がり、トンネルに侵入するかのごとく、地下駐車場へと入って行く。この時から妹の愛奈はいつのまにか起きていて、地下の、コンクリートの壁やそれを照らすオレンジ色のライトを物珍しそうに眺めていた。
 そうして、家族の車は『21』と地面に書かれた一定の域に停まった。父はエンジンを切り、何か解放されるかのように溜息を一つついて、
 「さあ、着いたぞ。ほら、自分たちの荷物は全部持つ」
 と、僕等に呼びかける。僕は軽く頷いて、ドアを開け車から降りた。
 ……実に一時間ぶりの外であった――正確には外ではないのだが、僕は何者かから解放されたかのような、少々の清々しさを感じた。大きく伸びをし、肺に新鮮な――少なくとも芳香剤で濁った車内の空気よりは清らかな――空気を肺に送り込んだ。
 まず、僕等はまず車の後ろから自らの荷物を引きだし、エレベータを用いて地上へと出た。バッグの中には引っ越し屋のトラックに積むには少々大げさな荷物が詰まっていて、それは例えば文房具だったり人形だったりはたまたノートパソコンだったりした。とはいえ、塵も積もれば何とやらで、その重い荷物を運ぶのは一苦労である。
 外ではすでに引っ越し屋のトラックが一台停まっていて、すぐに僕等が契約したそれだと分かった。父はその従業員の一人と数分話していたが、やがて僕と愛奈のところへと歩み寄り、僕等の家具から先に配置する、という旨の事を言った。既定の事であったから僕等も順番通りに、家具の配置を指示するために先に自らのマンションの家へと向かう。
 二重ガラスの自動ドアを潜り抜け、建物の中へと侵入し、すぐ近くのエレベーターへと乗りこむ。
 僕等の部屋の番号は、3021、だった。
 エレベーターの中、僕はちらりと愛奈の様子を見た。愛奈は、年頃にしてはやけに小さい荷物をリュックサックとして背負って、いつもの何を考えているのか分からないような表情を浮かべていたが、その中に一筋の緊張、のような感情が混じっている事に僕は気付き、少し、少しだけ、安心した。――愛奈は、兄の僕でさえ何を考えているのか良く分からない不気味な少女であった。人間であるかどうかも時々疑わしくなる事もあるが、そうは言っても、彼女は小学校では特に問題も起こさず、友達も少ないながらいるそうで、成績も上の中と言った真面目な子供であるそうだ。父と母は彼女のどこか人間味の無い振る舞いに対し『年頃の女の子だから、きっと気難しいところがあるのだろう』と放任しているのだが、たまに彼女が『怪しい事』を言うのを僕は知っていて、それゆえに何となく彼女に対して近寄りがたい印象を持っていた(実の妹にこんな感情を抱くのは間違っているのだろうか?)。
 やがて、役目を終えたエレベーターから降りて、果たして僕等は『3021』とかかったドアを開けて(鍵は既に父親から渡されていた)中へと入った。
 新しい住居は、歓迎するには無骨すぎる重苦しさをもって、僕等を迎えた。当たり前の事ではあるが目の前に広がる空間には何もなかった。玄関の近くには据え置きの下駄箱があって、視線の向こうの方には木製のようなドアがあり、床は所謂フローリングである。だが温かみを帯びた茶色はそれだけで、ほかは全て灰色だ。壁の色も、天井も、そしてこの空間を支配する雰囲気も、全て灰色なのである。
 とりあえず僕等は靴を脱ぎ(『家』であると認識していない空間内で靴を脱ぐという行為に僕は少々の違和感を覚えた)、改めてその家の中を歩いて回った。といっても僕は以前この部屋に、新居の下見として来ているので数分もかけず、である。
 まず玄関から真っ直ぐと廊下が伸びているのだが、右手側に二つのドア、そして左手側にまた二つ、そしてまっすぐと伸びたその廊下の突き当たりにガラスが嵌め込まれたドアが一つ、合計五つ扉が存在している。右手側のドアは、手前側から風呂、トイレに繋がっていて、左手側にはそれぞれ僕と愛奈の部屋となっている。おそらく玄関に近い方に愛奈が住み、そうでないところが僕の部屋となるだろう。
 そして廊下をまっすぐ進むと所謂リビングといった、広い部屋が現れる。右手側にはキッチンがあり、きっと僕等は真ん中の空間にテーブル等を置いて、そこで食事を取る事となる。左手側にもある一定の空間があり、そこにはカーペット等が敷かれ、ソファやテレビなどもまた置かれる事になるだろう。ベランダへ出る大きい窓は前述の食卓の空間と例のソファ空間の二つにあり、二つの部分から出られる事になる。
 左手側にはまたドアがあって、そちらへはおそらく父母が過ごす部屋が存在する。また廊下側の壁には洋風の物置があり、そこに色々と物がしまえるようになっている。全体としてこの家は(団地にしては)全体的に洋風な家となっており、和式の部屋は存在していない(ただし、玄関で靴を脱ぐという事については和風である)。
 そうして僕等が軽く、ぐるりと家を一周しているところへ、例の引っ越し屋の屈強な男達が現れたので果たして僕等も自らの責務を始めて行った。といっても、屈強な男達が次々と運んでくる家具を、僕等は、どこどこへと置いてくれ、と頼んでいく程度で、あらかじめ正しくプランニングされていたその一連の作業はあっという間に終わってしまった。時間にして約三十分ほどであり、その水流のように滞りの無い素早い動作に僕はほとほと感心してしまった。愛奈はあいかわらずの呆けた顔である。
 さて、僕等の部屋のセッティングの次にリビングや父母の部屋に置かれる家具等がすぐにやってくる予定であるから、僕等は早々に新居から出て、エレベーターを降り、トラックにいる父母の元へと戻った。
 曇り空のせいか父母の顔には少し疲れがあるように感じられた。
 責務が終わった事を父親に告げると、彼は、
 「結構早く終わったんだな。多分こっちはそれより時間がかかるから、少しこの周りでも散歩したらどうだ。近所に何があるかどうか知っておくのも面白いだろうしな」 
 「駄目。ここで待ってなさい」
 と、ここで間髪入れず母がそう言った。……こうなるとまた父と母の口げんかの始まりである。僕と愛奈は――少なくとも僕は――またこれか、といつもの出来事のように身体を硬直させる。
 と、意外にもいつもなら理知的に論を展開させる父が、
 「まあまあ、いいだろう。別に二人とも幼稚園生じゃあるまいし。お兄ちゃんがついてるからさ」
 と穏やかな口調で母を宥めた。そうすると母も、小時間後、それ以上何かを言うのを諦めたようで、
 「遠くに行かないでね。何かあったら電話するのよ」
 「大丈夫……別に、ケイタイで地図を視ればいいし」
 僕もそう返事をし、隣りの愛奈に視線を向けた。彼女はいつものように機械人形よろしくうなずき「私も大丈夫」と無機質な声音で呟いた。
 
 
 果たして僕等は、この巨大で灰色な建造物を中心にぐるりと歩き回る事になった。
 父は「困ったら電話しろよ」と母と同じ事を言い、母は何となく不機嫌そうな顔で手を振っていた。どちらにも共通する事は、彼らの立つ位置が、夫婦にしては少し遠いという事だった。
 父と母の仲が日に日に悪くなっている事を、僕等は何となく感づいていた。理論的で効率的でそして無感情な父の意見と、強烈で即効性でそして感情的な母の意見は、大抵激しく反発しあい、大抵規模が大きくなり、そして大抵折衷する事はなく終わって、僕等はその焼野原を恐る恐る歩く生活を強いられたのだ。僕は何故彼らが恋人同士となる事ができ、そして交わって二人もの子供を産む事ができたかについて疑問を抱かざるを得ない。
 僕等は――きっと愛奈もそうだ――日常的に起こるその戦争のせいで、世間一般から見て捻じ曲がった人間へと育ってしまった。もちろん僕はもうすぐ高校生となる時分で、愛奈はまだ小学六年生であるのだが、僕には自分の未来が容易に想像できて、というのは僕等はきっとろくな大人には慣れないのだろう、という事だ。
 何故なら子供というのは愛を貰わなければ上手く育たないからだ。
 愛を受けない子供は愛を知らない大人になってしまうのだ。
 例の団地の敷地から一歩外に出たところで、僕は振り返りその巨大な直方体を見る。灰色に薄汚れ所々染みのできた壁を発見するたび、僕の中の不安と絶望は深まっていく。これから最低でも三年はこの薄汚れたマンションに住まなければいけなくて、その生活はきっと世間一般の高校生のように気楽な生活ではないだろう。もちろん所謂ご近所付き合いなどもあるが、僕は自らの居るこの家庭が近い将来空中分解してしまうかもしれないという事を否定できないのだ。父母が離婚すれば、何とか保たれてきた安寧は崩れ、そして僕等は荒々しい道のりを歩く事になってしまう。父母が離婚すれば僕等はどちらについていくのかを決定しなければいけないし、それによって苗字が変わる可能性だってある。そうすれば学校での友人関係に、『同情』という名の亀裂が走るだろう。子供が偶数人いるからきっと愛奈と僕は離れてしまうだろうし(いくら得体がしれないといっても愛奈と離れるというのには何となく嫌な気分を感じてしまう)そうなると生活は厳しくなる。自分の世話をしてくれていた人間が二分の一に減るのだから当たり前だ。金銭的にも精神的にも子供達は戦わざるを得ない。
 父と母のどちらについていくか、きっと僕には決められないだろう。よくある台詞として、親が子供に訊く『パパとママのどちらについていきたい?』という質問は、子供にとっては酷く不合理だ。何故なら、親達は他人同士で互いに憎み合っている関係だとしても、僕等子供にとっては二人とも平等な『親』なのだ。『パパ』と『ママ』なのであり、それぞれの価値を天秤に量るのは子供にとってのタブーなのである。その質問は、結局は親のエゴでしか生まれないもので、その時点で親にとって子供は『他人』と言えてしまうのだ。
 しかし、僕等にはどうしようもなかった。
 子供達は一体どうすればいいのだろう。親同士の関係は、接着剤を付けるように簡単には修復しない。大人達の関係は、子供達にとっては酷く複雑で、その過程はブラックボックス化されている。一体僕達にどうしろというのだ?
 ――結論から言って、僕等は何もできなかった。ただただ、自分の生まれと運命を呪うしかなかった。愛奈はまだ小さいから良く分からないかもしれないが、兎角僕はそうだった。こうなってしまった全ての条理と現実を。恨まずにはいられなかったのである。
 団地の周りには住宅だったりコンビニだったり墓場だったりがあったのだが、僕にはどうでもいい事だった。頭の中では常にこれからの未来の不安が渦巻き、それに対して気持ちはどんどんと沈んでいった。最近の生活はいつも精神が沈んでいて、趣味だった読書やゲームはずっと手に付かなかった。今手にしている空想は今ここにある現実で簡単に打ち壊せるのだと思うと、どうしようもなくつまらなく感じてしまうのだ。最近はただただ自分の無力感に包まれる為にベッドに横たわってる事がほとんどである。
 やがて何となく歩いてるうちに、僕等は団地の入り口の部分へと一周して戻ってきた。この建物を出入りする為に存在しているいくつかの門は、歩き回るうちにいくつか見たのだが、『ここ』のものが一番立派であった。大型車も通れるような幅の広さで、壁々は僕の背丈より一・五倍大きく、壁の近くに何か機械のようなものがあってその防犯性の良さを示していた。だがその色は中身のそれと同じで、灰色にくすんだ汚らしい姿をしていた。
 兎も角、この建物の敷地は確かに広いが周りを一周するのに一時間もかかるはずなく、果たしてゆっくり目に歩いても十五分ほどして、僕等はゴールへと辿り着いてしまったわけである。
 建物の方にトラックがあるのが見えて、まだ引っ越しの作業が終わっていない様子であるのが分かって、僕は困って溜息をついた。近くに暇つぶしできるようなところなんて無く(コンビニで立ち読みするなどという行為は愛奈に対して教育に宜しくない)またさらに半径を広げてもう一周すれば、迷子になってしまう可能性も出てしまう。
 そこで持っていたスマートフォンを起動させる。愛奈はこれをまだ持っていないから、僕はこれの魅力を彼女に見せないよう一応兄として気を使っていた。無論今回の場合もインターネットサーフィンをするつもりは毛頭無く、この近くに何かないか地図を覗いてみた次第である。
 果たして僕は、ここ(マンション門口)から道を直線に歩いて行ったところに、小さな公園がある事に気付いた。距離も大して遠いというわけではなく、道に迷うという事もおそらくないだろう。
 もちろん愛奈が公園で元気溌剌と遊ぶような子供とは思えなかったが、おそらく暇つぶしにはなると思われた。
 その旨を例の彼女に伝えると、「……まあ、お兄ちゃんが行きたければ、別にいいけど」と小さく告げた。何となく心外であるが、兎角僕等は出発した次第である。
2, 1

  

 直線的に道のりを進む事はこの場では初めてだったが、何の事もない、あいかわらずの変わらない風景である。この細い道の両側にマンションや一軒家が不規則に並び、たまに広い道路を横切るだけで、何も変わらない殺風景な風景だった。ここでもまた灰色ばかりを見てしまい、僕はまた少し憂鬱な気分へとなってしまう。
 先ほどの門口から公園まではせいぜい一五〇メートルほどの距離であったから、僕等は五分もしないうちに目的地へと到着してしまった。入口が小さいから少し戸惑ったが、何て事はない、小さな公園である。
 さて、果たして入ろうとする僕であったが、隣りにいた愛奈はいきなり僕の袖口を引っ張った。
 振り返ると何十センチか下に例の無機質で不気味な顔があり、細い腕と小さい手が僕の服を引っ張っていた。
 「――どうした」
 僕が言うと、彼女は僕から目線を外し、真っ直ぐと公園の入り口の、奥の方に視線を向けた――よく観ると、彼女の表情はいつもの無骨なものよりも少し強張ったものであった。
 ただしそれはエレベーターの中で見た『不安』の表情よりも、どちらかと言えば『恐怖』の表情であった。
 「どうした」
 もう一度僕が繰り返すと、彼女はやがてポツリと呟く。
 「――《くらやみ》が居る」
 ――《くらやみ》とは彼女がたまに口にする言葉で、彼女の設定を引用すればそれは、彼女にしか見えない恐ろしく邪悪で黒い塊の怪物、らしい。彼女の怪しい発言の中に現れる単語の内の一つであり、そしてそれは小学生らしさを表す妄想の一つでもあった。
 もちろんそれは彼女の頭の中にしかあり得ないから、僕は信じていなかった。対応するのも面倒なので僕は無視して行こうとする。
 「待って!」
 数歩の後僕の鼓膜を切り裂いたのは、一度も聞いたことのない彼女の叫び声であった。振り向けば彼女は僕の記憶には存在しない、酷く険しい表情で僕の事を睨みつけている。
 しばらくの空白の間、彼女は口を開く。
 「駄目。帰ろう」
 二言ではあったが、彼女のその声は震えていて、そしてまるで兄を宥めるかのような色彩を持っていた。それには普段よりは確かに感情が籠っていて、僕の心を幾分か震わした。
 しかし宥めるのは僕の方である。
 「何でさ。ただの公園だ」
 前述のように僕は、彼女の、『何か怪しいモノが(ワタシだけ)視える』という妄想に対し同調するつもりは毛頭無かった。何故ならその妄想に、はいそうです、と言ってしまえば彼女の認証欲求は満たされてしまい、その妄想を止めようとは二度としなくなってしまうからだ。小学生ならこういった戯言も笑って済ませられるが、高校生、大学生、さらには社会人になってまでこんな馬鹿げた妄想を言っていてはどうなる事やら計り知れない。
 ある意味では、彼女に対するこの反発は僕なりの『しつけ』であった。
 「駄目。居るの。奥に居るの」
 「いい加減にしろ。どこに居るって言うんだ」
 「あそこに居るの。どこかは解らないけど、確かに居るの」
 さらに歩を進めようとすると彼女は衣類の代わりに僕の腕を掴み直した。小さいながらの握力でその手は僕の手首を握りしめるが、何故かそれは人間の体温とは思えないくらい冷たかった。
 「駄目」
 しかし、ここで引いてしまっては彼女の為にならない事もまた、僕は十分に理解していた。僕は力任せに足を進める代わりに、しゃがんで彼女に向き合い、視線を水平に合わせた。
 彼女の額に汗が何滴かあるのを僕は見つける。
 「駄目、じゃあ、ないんだ」
 僕はできる限り強く、言葉に怒りを込めるようにして彼女に投げかけた。あまり慣れた方法ではなかったが、彼女には十分効果があったようだ、愛奈は身体をビクりと弾ませた。
 「でも……」
 「でも、じゃあない」
 その調子で僕は彼女に繰り返し諭す。
 「愛奈、もう君は、子供じゃないんだ。もうすぐ小学六年生だし、大人にならなくてはいけないんだ。わがままなんて言っていたら下の学年の子供達を呆れさせてしまうし、自立した行動が取れなければそのうち困ってしまう事になるんだよ。君は、一生お父さんとお母さんに甘えるつもりなのか?」
 愛奈が父と母に甘えているところを僕は一度も見たことがないのだが、経験上小学生くらいの子供は『甘える』などの『子供らしい子供』が取る行動を酷く嫌がるから、そういった単語を用いるしかなかった。
 「……解った。……もういいよ」
 意外にも彼女は諦めたかのようにあっけなくそう言ったが、その表情は変わらず影っていた。
 それは――僕が今まで見たことのないようなものであったが――『残念そう』や『悔しい』などのものではまったく違う、別の表情であった。『絶望』――そう言った言葉が一番似合ってはいたが、そういった考えを僕はすぐに頭から取り除いた。ありえない、それは彼女の妄想だ。
 兎角果たして僕等は本来の目的地である例の公園へと入った――『じてんしゃきんし』と書かれた板がはっつけられた柵を抜けて僕等は、まるで覆いかぶさるかのようにアーチ状にカーブした木々の、そのトンネルへと侵入した。木々に生えそろった多量の葉は、今日のただでさえ微量な日光をさらに吸収して、僕等の通る道に降り注ぐのを阻害していた。公園へと続く道は薄暗く、愛奈の不気味な妄想と相まって僕は何か空恐ろしいものを想起してしまいそうだった。
 いつのまにか、外では空だった彼女の手が、僕の手を握りしめていた。最後に彼女と手を繋ぎ合ったのはいつごろだろう――もちろん手を繋いだ事はないという事はあり得なくて、いつまでかは手を繋ぎ合って遊びあう兄妹であったはずなのだが、不思議と僕はその事を思いだせない。確か、僕が中学校に入学した時あたりから、彼女との仲は疎遠になった気がするが、どちらにしろ、彼女の手の、その湿った冷たい肌の感触を感じ取ったのは久しぶりであった。
 トンネルは十メートルほど続き、出口にはまさしく公園といった砂地の、楕円形の広場があった。
 そこは長軸二十メートル、短軸十五メートルほどの、公園にしては比較的小さい面積で、端の方にブランコや砂場、ベンチにトイレなどがそれぞれ散らばっていた。しかし、意外だったのが、楕円の端を囲んでいる二メートルほどある網目状のフェンスが切れ目なく建っているのだが、その網目の隙間から見えるのは決して民家などの『人工物』ではなく木々や草々の『天然物』のみであった事である。――確かに、僕等のいる位置からおよそ一時の方向に石が積み重なって壇を成しているから、正確には天然物ばかりではないのだが、兎も角その壇の上面の、奥の陸地に続いている方にもこれまた木々が鬱蒼と茂っているのである。
 出発する前、GPSを用いた地図によれば、ここの公園はそれほど大きくない面積であったはずで、この公園のすぐ隣にも、建築物を表した白い長方形が描かれていた。地図の縮尺をしっかりと確認したわけではないが、おそらく百メートルを超えているはずはないだろう。
 だから、この広場を覆ってる網目のゲージの、その向こうからは民家の広場やコンクリートの何かが見えるはずで、こんなにも『ここ』が森で囲まれているはずはないのである――木々が、林が、森がこんなに存在していて、僕等が彼らを認知できるはずがないのである。
 まるでこの公園は巨大な森の中心に存在しているみたいだ。
 ふと、つい先ほどまで目にしていた、住宅街や道路や車など全ての物質を支配していた灰色を、僕は何故か欲していた。
 急にあの灰色群を見たくなったのは、恐怖からだろうか。
 僕等を覆っている緑色は生命力に溢れ、また僕等を簡単に捻りつぶせるほどの力と恐ろしさを秘めていた――少なくとも僕はそう感じた。否、僕だけだろうか?
 愛奈も、もしかしたら、この恐怖を、僕より、先に。
 ふと、視界のある一点に注意が向いた。
 そこは蔓草が天井を為している、所謂休憩所のようなものだった。石造りの土台の上に木製のベンチが正方形上に並んでいて、その中央に石でできた粗末なテーブルが存在している。長方形の石の土台の四隅には、何の素材でできているかは不明だが、それぞれ細い柱のようなものがあって、例の格子上に並べた木々を支えている。その格子に、蔓草が絡みついていて一種の自然の天井を作りだしている。
 僕が注意を向けたのはその奥の方である――草々の天井やその近くにそびえたつ巨木のせいでそのあたりは暗くなっているのだが、どうやらうすぼんやりと、その奥の方に『道』が見えるのだ。その道は入口のみその存在を映し出していて奥の方は闇に包まれているのだが、兎も角、道が『ある所』までは続いているようなのである。
 ほぼ無意識に僕の脚は動き出していた。兎に角、その道の奥の方を覗いてみたかったのだ。この公園は隅々を高いフェンスで覆われていると思っていたから、その道を通ればその向こう側に行けるかもしれない、そう思った。
 いや、向こうに行けるかどうかなど、実はどうでもよかった。あの道の向こうの『くらやみ』を知る事こそ、僕には興味あった――歩いて僕は果たして例の休憩所のような場所へと侵入する。蔓草のカーテンやその上に茂る草々が生む闇が、僕を一気に包んだ
 『くらやみ』が一段階、僕を覆う。
 この位置になると、外で見えていたその『道』が実は雑草が茂っている、所謂獣道のようなものと気づいた。道の周辺には、僕の腰の部分まではありそうな草が延々と伸びていて、例の道の先だけがぽっかりと空いているのである。道の部分は誰かが踏み慣らしたかのように雑草が潰れていて、何とか道の体を成している。
vそうして、その先に真っ暗に『くらやみ』が在るのである。
 石畳は切れ、僕はその先へと進む。
 足が草を踏んだ。
 その感触はまるで絨毯のようにふんわりとしていて、まるで僕を誘うかのようである。
 もうすぐ、もうすぐで『くらやみ』を見られる。そう思うと僕はいっそう焦心に駆られる。
 もう一歩進む。雑草はまるで僕の足に絡みつくかのように在る。
 もう一歩進む。段階を踏むように僕の周りは闇へと包まれていく。
 もう一歩進む。『くらやみ』の全貌が少しずつ少しずつ解ってゆく。
 もう一歩進む。まるで『くらやみ』が僕を出迎えてるかのようだ。
 もういっぽ
 そうすることで
 ぼくは
 『くらやみ』に――

 「待ちなさい」

 その言葉はまるで風のように、僕の鼓膜を震わし、僕の魂を優しく撫でた。


 「それ以上進むのは止めなさい――二人とも。その先ではなく、私の方に、歩いてきなさい」
 その声の方を振り返ると、広場の中央の辺りに一人の女性が立っていた。白を基調とした服装で、真っ白なカーディガンの下の、長いスカートがはたはたと風に靡いている。セミロングの頭髪は少し茶がかかっていて、さわさわと揺れていた。だがここからでは細かい顔の様子までは分からない。
 ぎゅう、と左腕の手首に痛みがあるのに気付く。見ると、愛奈の細くて白い右手が、これ以上ないほど強く握りしめていた事が分かった。次いで、彼女の顔を見る――愛奈は、今にも泣きだしそうな顔でこちらを睨みつけていた。
 「……行ってしまうかと思った」
 愛奈はポツリとそう空気を震わせる。
 「お兄さん――かな。兎に角、妹を泣かせるのは兄としてどうかと思うけれどね――まずは、こちらに来なさい」
 さらに向こうの女性が追い打ちを仕掛けるようにそう言って、その言葉で僕は、自分が周りに何かしら迷惑をかけていた事に何となく気付いた。脳髄は、まるで徹夜明けの朝の時のようにぼんやりとして曖昧であったが、兎角僕は元来た道を引き返し、やがて女性の元へと着く。
 遠目で見ると大人っぽく見えていた彼女だったが、その女性は近くで見ればその表情と体つきに若干の幼さを宿していた。私服だから大人のように見えるだけで、実際は十代――おそらく僕と同じくらいの年齢であろう。
 「危なかったよ。君達。……君達は、特に、君の方は(彼女はここで僕の方に視線を向けた)多少負の感情に傾倒しているから、誘われやすいんだよ。負と負は惹かれあうから……電気とは逆だね」
 そう言って彼女は歩を進めた。その先は、この公園の出口の方だ。
 きゅうっと愛奈が僕の手を握りしめる。まだ怖いのだろうか。
 「えっと……」
 僕は何とか絞り出すように、彼女の背に声を投げかけた。彼女はそれを聞いて、足を止めて振り返り、
 「いいから。私から離れないで。そうでないと、帰れなくなるから」
 冷たい声だけれど、けれども、その顔は少しだけ微笑んでいた。
 無事僕等は公園から出て、帰路に帰る事にした。彼女は静かに、しかししっかりと僕に質問を交わしてきた。まず彼女は、僕等が新参者かどうかを聞いてきて、そこから僕等がこの先のマンションの一室に住む事になったことを告げると、
 「へえ。私も実はあそこに住んでるんだ。部屋の位置は3022。――隣りの部屋が何だか騒がしかったから、まさか、とは思ったがやはり君達だったんだね」
 と言った。訊くところによると、僕と彼女は同い年であるらしく、
 「じゃあ、どこに入学するんですか?」
 と(先ほどの一件により僕は彼女に対してついつい敬語を用いてしまう)訊いてみると、
 「――鍵沼高校だよ。おそらく、君と一緒なんじゃないかな」
 と彼女も、僕が入学する高校の名前を伝えた。予想通り僕等は同じ高校に入学するわけで、いきなり名前と顔を見知った友人ができる事はある意味ラッキーであった――僕の高校への不安は、実は家族の不調和と同じくらい大きく、その事もあって高校への入学は憂鬱で仕方なかったからだ。これで何とか独りぼっちにはならずにすむのである。
 僕と彼女が次第に打ち解けていく間、一方で愛奈は、黙ってずっと僕の腕を握りしめていた。彼女の表情を確認するほど会話に余裕があったわけではなかったから観察できなかったのだが、それでも彼女の緊張がまだ解けていない事は少し理解できていた。確かに愛奈には少々人見知りな部分があったので、そういった理由で緊張しているのかもしれない。
 兎角僕等はマンションの、あの一番大きい門口へと着いた。公園には十分ほどしかいなかったように思っていたが、いつのまにか時計の針は、出発からおよそ三十分以上も経っていた。丁度引っ越しの準備が終わっているようで、こちらから見えるトラックには人が集まり始めている。
 「君達はあちらに行ったほうがいいだろう。私は一足先に帰っているよ。何かあったら訪ねて来たまえ」
 何となく男っぽい口調で彼女はそう言い、そして思いだしたかのように「そういえば、私の名前は――」とまた口を開く。
 彼女はこう、自分の名前を言った。
 朽木 詩葉。
 朽ちた木で葉が詩を放つ、と書いて、くちき、しよう。

 空は相変わらず分厚い雲が空を覆っていて、周りのものは全て灰色に浸食されている。建物も、地面も、すれ違う人々も、全て僕には現実味のない灰色に見えた。だが、見上げてよく探してみれば、灰色の雲々のほんの小さな部分に隙間が空いてて、そこから薄らと青空が見えているのである。
 「えっと……僕は――」
 そうして、僕は詩葉に自分の名前を告げた。
 十五年間連れ添ってきた、魂に刻み込まれた名前を。
 「相良 風賀。相を良しとする風を加えた月で」

 相良風賀。さがら、ふうが。

 彼女はそれを聞くと、ふむ、と少し唸り、そして数秒後僕に向きなおり、笑いかけた。
 「いい名だ」
 
                    *

 これからの未来を予兆するように、爽やかな春風が僕等の隙間を通り抜ける――しかしその占いは全くの外れである。おそらく――いや、確実に僕の、僕等の人生は困難を極める事だろう。しかし、僕等は先へと歩まねばならなかった。
 僕等家族はバラバラではあったが、それでも一つの考えだけは一致していて、それは、我々はどんな事があっても必ず幸せになってみせる、という意志であるからだった。


(第一章へ続く)
4, 3

月山馨瑞 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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