清風の年代三六年、西の都市ロウサウンドにて
六月の最初のことだったがマリア・アーミティッジは花壇街の十字路で虹を見た。それは彼女にとって心を砕くのに十分な出来事だった。彼女は生まれて初めて虹というものを見たのだ。それまでは話に聞くだけで、本当に七色の光が空を跨いでるなんて思わなかったからだ。
それをジャックこと〈東のジャクリーン〉に話すと、自分も初めてガチョウ座を見たときは同じような気分になったと言った。
「つまりそれまでは、ガチョウ座というしろものがマジで天に存在するということが信じられず、しかし実際にそれがそこにあったのであたしは、十分かつ格別な感動を得たのです」
「それで世界は変わった?」
「いや驚いただけなのです」
しかしジャックが驚いたというのは信じがたかった。マリアは決してそういうシーンを見たことがなかったし、恐らく永遠に見られないのだろうと考えていた。何があってもいつもと同じく、灰色の目を冷淡にしばたたかせるだけだろうと。
マリアは本題を切り出した。今回のインスピレーションを受けてした決意についてだ。
「あのさジャック、私は前から音楽をやりたいと思っていたんだけど、大学のほうも落ち着いたし、今からひとつ結成してみるというのはどうかな」
「いやあそれは、お誘いは嬉しいですが、どうでしょうかね、と思うんですよ」
「なぜ?」
「あたしはそういうセンスとかないし、ちょっと最近は忙しいし、錬金術とかで」
「いつから錬金術を齧り始めたの?」
「去年から。例えば水を瓶に入れていて、それが分離するのを見ているのです」
「水が分離するって? 何に」
「酸素と水素です」
「ああ、電極入れて電気を流して?」
「いや、ただ眺めていて運よく分離するのを待っているのです」
「それはさあ」マリアは努めて呆れた声を出さないように言った。「生きてるうちには無理なんじゃないかな」
「とにかく提案に難色を示しているのです」
マリアはしかし辛抱強く説得を続け、活動の最中にも関わらずいつでも錬金術の実験をしていいという条件を提示し、ジャックは最終的に合意した――もっともこのあと彼女は錬金術から足を洗ってしまったので、この条件は有名無実化した。
二人は自分たちのバンドに〈クロスロード・レインボウ〉という名を早速付けた。夕刻だった。ロウサウンドの、いつもながら深く暗い、中ほどの階層の酒場〈白ライオン亭〉で、コーラを飲みながらだった。