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32 Substitute

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 今回の職場でマリアに仕事を教えるのは、バーバラ・クロスマンという、明らかにこの仕事に嫌気が差している女性で、ため息の回数が極めて多かった。教え方もかなり大雑把で、銃士隊のロレンスがいかに良い上司だったか再認識することになった。この仕事では交戦が発生しないので武器は支給されなかったが、クロスマンは腰に自前のリボルバーをぶら下げていた。渡されたのは懐中時計と、あまり上等ではないダスターコートふうの制服で、それを羽織って路面電車に乗り、中心街の外れまで来た。移動中クロスマンは外の風景や乗ってきた爺さん、マリアの顔などを見てはため息を吐き続けた。
 彼女のごく短い説明によれば、まず機構からカードが毎回何枚か支給され、それがその日のノルマということになる。一枚一枚に〈代理人〉の写真や住所、名前と役割が書いてあるので、それを見てきちんと成されているかチェックする、簡単な仕事だ。二日酔いとかで面倒な日とかは、もう最初に全部チェックしたってことにして、そこらで時間を潰して報告すればいいな、とマリアは考え、クロスマンは実際にそうしているのではないかと推察した。
 この日のノルマは五人、最初はフィリップ・グリーソンという五十五歳のおっさん、痩せて白髪交じりの、大学教授といった感じの顔だった。オリジナルのグリーソン氏は朝十時きっかりに、時計台の音と同時に噴水にコインを投げ入れる習慣があった喫茶店経営者で、しかし数年前に病死。このコイン投入が都市の秩序維持になんらかの影響を与えていたらしく、代役が派遣され、今に至る。
 彼が毎朝十時に行うその行為がどんな意味を持つのか分からないが、確かにマリアも、この都市も帝国も大きすぎ、複雑すぎるという考えを普段から持っていて、まともに回っているのが不思議なくらいだった――「まともに」ではないかもしれないが――それも裏でこうしていろいろな努力を、どこかの誰かがしているからなのだろう。
 電車を降りて噴水広場に行く間、マリアはクロスマンに〈歎息〉の二つ名を付けたが、今更な感じもした。ため息をつくと幸せが逃げると言うが、人生の幸福が全部なくなったのなら、そのあとはどんどん不幸になり続けていくのだろうか。
 時刻は九時五十分だ。二人はグリーソン氏が経営する喫茶店へ入った。銀行員ふうの男が一人、サンドイッチを食べている。店主は二人を見るなり、「ああ、毎度どうも」と会釈した。
「いつもどおり欠かさずやっていますか」クロスマンが言うとグリーソン氏は「もちろんです」と答えた。
「では」とクロスマンは踵を返したのでマリアが、「あの、ちゃんとコインを投入するのを確認したほうがいいんじゃないですか」と発言したとたんまた彼女は歎息、店主は逆に、「そうだね」と同意してくれた。恐らく、毎回とっとと帰るクロスマンにちょっとした不安を覚えていたのだろう。銀行員が勘定を置いて店を出て行ったのは五十六分、噴水は店のすぐ前、〈地母〉が水瓶を抱えたデザインだ。ここから十時までの間、クロスマンは五十回くらいため息を吐いたのではないかとマリアには感じられた。
 十時になる直前、グリーソン氏は手馴れたようにポケットからコインを出してドアを開け、噴水の前へ移動すると、時計台の鐘とともに投げ入れた。
「確かに、確認しました」マリアはそう言ってふと気づいた。毎朝投入しているはずなのに、噴水内のコインは少なすぎるのだ。誰かが持ち去っているのだろうか。
 すると、時計台の鐘が鳴り終わると同時に、やって来た老婦人が無造作に手を噴水に突っ込んで、グリーソン氏の投げたコインを拾い、そのまま立ち去った。その動きは自然で、恐らく毎朝こうしているのだろうとマリアは思った。あの婆さんも、死んだら代役が用意されるのだろうか。あるいはすでに〈代理人〉なのだろうか。
 そんな考えをクロスマンのため息が打ち消し、二人はまた路面電車に乗って次の場所へ向かった。
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