この都市はその名の通り、入り江(サウンド)に面しており、小高い丘に沿って建物が密集し、その外側を防壁がぐるりと囲んでいる。海からは湿った潮風が流れ込み、大陸全土や外国から得体の知れない人々や文化、物資が入り込んでくる。
マリアの部屋から窓を開けると、花壇街の通りが見下ろせるが、人と、狭い通りを無理やり通ろうとする車がひしめき合い、ネズミの行列みたいだ。向かいの雑居ビルのせいで海は見えない。
朝起きるとマリアは煙草を吸った。普段は吸わないが、昨日気まぐれに購入したのだった。一本吸って、むせて、窓から屋根の上に投げ捨てた。
大学へ電車で移動する。部屋を出てアパートの階段を下りると、駅に面した路地で、途中、明らかに整備用の通路が開いていて、そこから改札前まですぐに行けた。通勤客や学生、犬の散歩をする人、猿の散歩をする人、逃げ出した猿単独などが改札を通っている。物乞い、娼婦、麻薬密売人、露天商、ミュージシャン、無職業の人、聖職者、旅人、詩人、手に直接魚介類を持った人などもいた。猿を真似て、切符を買わずに改札を乗り越える人が中にはいて、もちろん駅員が角材でぶん殴り、どこかへ連れて行く。
ホームも電車も臭う。潮の香りと血の香り、生臭さ、垢の臭い、そういうのの合わさった饐えた臭いだ。電車で二駅行けばシティカレッジの中央キャンパスだ。大学にはジャックのような、外部の人間とおぼしき不審者もうろうろしている。去年には通り魔が侵入し三人がナイフで刺され、一人が死んだ。
隣の駅で〈液霊〉が乗ってきた。たいてい一メートル半くらいのものばかりだが、そいつは二メートル半ほどあって、ドロドロした体を折り曲げて入り込む。柑橘の臭いが車内を満たし、霊の周囲からは人がいなくなった。不定形の実体型エーテル憑依体で、討伐は〈第二夜警団〉の管轄だが現在ストライキの最中で、まあ数日休む位大丈夫だろうとは思っていたけど、まさか乗り合わせるとはマリアも予想外だった。
「なあ、誰かこいつをどうにかしろよ」誰かが言った。「頭が痛くてしかたがないんだ」しかしもちろん誰も応えない。
〈液霊〉の口に当たる部分から液体が流れ落ち、周囲のエーテルを変異させていた。最初は三半規管への異常と頭痛、乗り物酔いに近いが次第に幻聴・幻覚へとつながり、やがて人生へ絶望するなにかを見て死んでしまう。成体なので尚更危険度は高いが、誰もなにもしようとしない。素人が怪物に手を出すのはあまりよろしくないことだと認識されているのだ。それに、どうしていいかも分からないし、皆、分かったところで何かをするつもりもなさそうだった。
やがて二、三人ほど倒れたようだった。その直後、電車は駅へと滑り込んだ。
何人かの男達が入ってきて――斑模様の外套から、駅側が臨時で雇った〈双尾の豹〉旅団の兵士と分かった――長槍で怪物を突いた。〈液霊〉は穴をあけられた水入りの袋みたいにぺしゃんこになり消えた。マリアはそのまま大学へ行くと授業に出て、やる気がなかったので三十分ほどして講義室を後にし、また電車に乗って家に帰った。