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【六】若苗萌黄/メロウイエロウ

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   一

 淡音を失ったという喪失感と後悔は、日を追う毎に私の中に蓄積されていった。
 自分の本質を唯一見抜き、その上で距離を詰めてきてくれた初めての友人は、それこそ泡のように消えてしまったのだ。
 失踪という事情が発覚すると途端に私の周囲には人だかりが出来た。付き合いがまるで無かった淡音と親しかった私は最も重要な人物として捉えられていた。
 マスコミのインタビューの様子から、校内の人間は淡音との付き合いに対して「萌黄だから仲良くできるのだろう」という見解を見せる者が多く、三日も放っておくとそれは「友人の居ない彼女を救おうとしていた女子高生」にまで底上げされ、称えると同時に同情の目で見られるようになった。普段から絶妙な距離感を保って過ごしていた私の生活は一変し、校内の知名度も上がったせいで、私が一番嫌う地位に気がつけば祭り上げられてしまっていた。
 保健室で咲村さんと茅野先生と保健室で会話したのは私にとってかなり支えになった。
 だが気が楽になると同時に、校内で私に対して反感を覚える人間が出始めた。
 ただの目立ちたがりだの世話焼きだの、若苗萌黄をプレッシャーに感じて不登校になったとまで噂を立てられて、いつの間にか私の周囲を見えない疑惑が取り巻いた。
 会話をしてもどこか同情じみた目をされ、反感を覚えたグループには妙に突っかかられ、同情を恋と勘違いした男子からは呼び出される。
 何故、こんなことになってしまったのだろうか。私は普通が良かっただけだ。そしてその普通を目指すことが一番根気がいると知っているからこそ、必死になって動いてきた。お陰で漸く手に入った安息はどこか遠くへと散ってしまった。
――淡音、貴方はどこにいるの。
 群れる女子達の横を一人抜けて私は校門を出る。そこら中から視線を感じた。あれが失踪者と仲が良かった子らしいとか災難だなあとか。
 聞こえないくらいの大きさで話してくれれば良いのに。私が面を上げて周囲を見回すと、彼らはこちらにぎこちない笑みを浮かべた後、気まずさを覚えてか早々に立ち去ってしまう。同情の先にあるのは孤独であり、形だけの友情は塵に等しい。
 私の作ったハリボテの小屋は、少し風が吹いただけで壊れてしまう脆いものだった。ただそれだけのことだ。

「お嬢ちゃん、何かあったのかい」
 下校中の事だった。
 俯いたまま一人校門を潜り、街灯の並ぶスクール・ゾーンを歩いていると、一人の老人に声を掛けられた。
 黒いニット帽に緑色の分厚い眼鏡。身に着けている作務衣は真赤で、私はその奇抜な服装に思わずたじろいでしまう。
 だが老人はそんな私に構わずにっこりと笑みを浮かべると首を傾いだ。
「良くないことでもあったようだ」
「……わかりますか?」
 老人は頷く。
「つい最近もお嬢ちゃんみたいな悲しい顔をしたのに会ったからねえ」
「私の他……」
 私の中で浮かんだのは咲村朱色の事だった。弟の失踪事件でここ最近よく取り上げられていた子だ。多分学校でも何度かすれ違ったことがあるかもしれない。つり目の、気が強そうな女の子。
 私が思考を巡らせているうちに、老人は踵を返すと商店街へ向けて歩き出す。彼の背中を暫く眺めていると、彼は私に向けて手招きをする。
「お嬢ちゃんこっちおいで。少し茶でも飲もうじゃないか」
 突然の誘いに戸惑いながら、しかし気がつけば老人の隣を私は歩いていた。

 甘い物は好きかな、と聞かれて私は頷く。とっても良いお菓子があるんだと老人、桃村継彦―自宅に招き入れてくれた際にそう名乗ってくれた―は機嫌よく私に言って、傍の棚から大福餅を二つ取り出すと、小皿にそれぞれを乗せて、私の前に置いた。
 それをつついてみると、米粉のざらりとした感触、餅の弾力が感じられた。ぎっしり餡が詰まっていてとても美味しそうだ。
「甘い物は好きかな?」
「大好きです。コーヒーとかもお砂糖とかミルクを入れないと飲めなくて」
「それは良かった。ならたんと食べておくれ。まだまだ沢山あるからね」
 そういって微笑む桃村さんに頷いてから、私は大福餅をつまみ、一口齧った。餡のざらりとした食感と、口の中でむぎゅうと締まる餅の感触、そして丁度いいくらいの甘さに幸福感を感じ、もう一口、もう一口と次々と口にしていく。手にしてみると意外と大きいそれは、私の口が小さいのもあるけれど、五口はかかった。
 食べ終わると桃村さんは淹れたてのお茶を湯のみに注いで私に置いてくれた。透き通った緑色の中で茶渋が舞いながら底へと沈んでく。
 時々息を吹きかけながら冷めるのを待っていると、桃村さんは空の小皿にもう一つ大福餅を載せて笑いかける。
 ふと私は入ってきた方、水槽の並ぶ店内に目を凝らす。
 店内は、薄暗くて、でも不思議と悪い気はしなかった。横に取り付けられたポンプがぶくぶくと泡立ち、じいじいと駆動する音が客のいない店内に寂しげに響いている。
「雪浪生はこの商店街を嫌うからねえ」
 切り出したのは、桃村さんの方だった。私が黙っていると、彼は別に責めるつもりは無いんだと慌てて付け足した。
「君くらいの歳になるとやっぱり現代らしさのある町並みに憧れるだろう。こんな商店街よりも大きなショッピングモールだってある。この商店街もね、昔は学校帰りの生徒で賑わっていて、登下校中の生徒に挨拶してたものだよ。まあ最近じゃあ知り合いと適当に会話して、時間になったら店を閉めて寝るだけなんだが」
 遠くを見ながら桃村さんはそう語る。以前を懐かしむかのようなその言葉は、なんだか私自身にも責任があるような気にさせた。
 確かに、この通りはすっかり閑散としている。ついこの間真崎先生に出会った時だってそうだ。私以外に生徒は居なかったし、客も夕餉の買い出しにやって来た主婦ばかりで、それ以外の店はほとんど暇そうにしていた。
 時代が移り変わるとは、こういうことなのだろうか。
「桃村さんは、一人でこの店に?」
 聞いていいのか少しだけ迷ったけれど、結局私は触れることにした。
「今は、孫が一緒に住んでいるんだ。家庭の事情でね」
「お孫さんですか」
「娘の産んだ子なんだよ。とても可愛くてね、ついつい甘やかしてしまう」
 そう語る彼の目の暖かみに、思わず私の心まで緩んでいく。大福を一口齧って、漸く飲めそうなくらいになったお茶を啜る。甘ったるい餅と少し渋いお茶の組み合わせは抜群で、幾らでも入ってしまいそうだ。
「親も、女房も、娘も、私が愛した人は皆この家から出て行ってしまう。私一人を残して、ね。だから、孫がこの家で住むことになった時、まだ見放されたわけではないんだと思ってねえ……」
 桃村さんは頬杖をつくと大福餅に触れる。ぼんやりとした表情でそのまま表面を指でなぞる。
 その間、静謐さが部屋中を包み込んだ。再び店先の水やポンプの音がじいじいと私の周囲を泳ぎ回り、その中で私は口を閉ざし瞼を降ろし、しん、と溶け込み消えていく音達にそっと耳を傾けた。
 淡音は今、どこにいるのだろう。行方知れずの友人の顔を脳裏に浮かべていると、心がざわついた。きっと生きていると言い聞かせるのだけれど、もしかしたらと浮かび上がる不安は拭えず、再会を夢見ながらやがてそれは淡くぼやけて消えていく。
「若苗萌黄さん、と言ったかな」
 沈み込んでいた静寂から引っぱり出されるようにして、私は目覚める。慌ててはい、と答えると桃村さんは何度か頷いた。
「君は、何故浮かない顔をしていたのかな」
「私、ですか?」
「そう、君だ」
 桃村は頷いた。
「なんだか、さっきから私の話ばかりを聞いていたからね。元々は君の世話を焼きたくて声をかけたんだ。君の話をちゃんと聞いておきたいんだ」
 どうだろう、と組んだ拳に顎を乗せて彼は首を傾いだ。
「……友人が、突然消えたんです」
「消えた?」
 桃村さんの言葉に、私は頷く。
「多分、唯一心を許せる友達でした。付き合いこそ長くはなかったけど、言いたいことが言えて、無理して着飾る必要が無くて、一緒にいて窮屈さを感じない。そんな子でした」
 そう、彼女は私のそれまで抑圧していたものを壊した。目立たず、けれど敵を作らずに生きることが最善の生活だと、本心を抑えることがすべてだと感じていた私に、打ち明けることの重要さ、心地良さを教えてくれた。
「やっと、友達と呼べる人ができたと思ったのに、私がそう思った途端に彼女は姿を消してしまって……」
「最後に、その子とは会えたのかい?」
 首を振る。桃村さんは組んでいた手を解くと胸の前で組み直した。
「君は、また彼女に会いたいと、そう思うかい?」
 彼の問いかけに、私は一呼吸入れてから、頷く。
「この先も、できることなら一緒にいたいです」
 例え、周囲に訝られようが、自分を着飾って苦しんで生きていく事は、多分もう出来ない。知ってしまった今、同じ事をできるわけない。
 なんだか、この人の前では色んな事が喋れてしまう。誰にも話せずにいた部分を、並べ直してまとめ直して、ぐちゃぐちゃに絡み合っていた感情を一本一本解すみたいで、言葉にするほど私が緩んでいく。
 いや、むしろ今の私が本当の若苗萌黄なのかもしれない。
「私には何もしてあげる事はできない。だが、君の大切な友人が見つかることを、祈っているよ」
「ありがとう、ございます」
 淡音は大切な友人だ。
 でも、私は未だにそれを彼女に伝えることができていない。恥ずかしくて、強がって、怖くて言えずにいたそれを、失った今言うべきだったと後悔している自分がいる。
 だからこそ、見つけたかった。淡音にもう一度だけ会いたいと思った。
 私は貴方の友達だと、伝えるために。

 桃村さんは店の前まで私を見送ってくれた。結局私のいる間に彼の孫の姿を目にすることはできなくて、それを残念だと告げると、また来るといいよ、と優しく言ってくれた。
「ああ、君の探している子の名前は?」
 別れの間際、桃村さんはそう私に声をかけた。
「藤紅淡音です」
「覚えておこう」
 そう言ってくれた彼は、私の目にはとても頼もしく思えた。
 ああ、誰かを頼るってことは、悪い事ではないんだな。深く彼にお辞儀をした後、アクアショップ桃村を後にして歩き出した。
 不思議と声をかけられる前よりも足取りは軽くて、気持ちも落ち着いていた。あれほどざわついていた心が穏やかだ。
 すっかり陽の暮れた雪浪通りは人の姿も消えつつあり、一つ、また一つとシャッターが降ろされていく。随分な時間まで居たものだと思いながら、つい先日立ち寄った精肉店がまだ開いてるのを見て、私は足を止めた。
「コロッケ、まだありますか?」
「おや、君はこの間の……」
 私の事を覚えてくれていたようで、店主はにっこりと笑ってくれた。
「焼きたてを用意してあげよう。ちょっと待ってなさい」
「あ、でももうすぐ閉店じゃ」
「そんな掛からないから大丈夫。それに、また来てくれた子を無下にはできないさ」
 そう言って店主は腕まくりをするとパン粉を目一杯まぶした芋を揚げ始める。油の跳ねる小気味よい音と共に芳ばしい匂いが立ち込め、私の鼻孔をくすぐった。
 揚げるのにそこまで時間は掛からなかった。どうやら丁度火を止めようとしていたところだったらしく、油の温度がそれほど下がっていなかったらしい。
 揚げたてのコロッケを受け取り、熱々のコロッケに舌をまたやられたくなくて暫く冷めるまで待つことにした。折角わざわざ揚げてもらったけれども、私にはとても食べられない熱さだ。
「それにしても、こんな時間まで学校とは大変だね」
 仕事を終えて片付けを始める店主が、コロッケが冷めるのを待つ私を見て不思議そうに言った。彼の背後の壁に掛けられた丸時計は既に七時を差している。ほんとうにギリギリにやって来てしまったようだ。
 私は首を横に振ってから、精肉店の奥の方を指差した。
「桃村継彦さんのお店にお邪魔してたんです」
「ほう、珍しい。あの桃村さんの家にか」
「珍しいんですか?」
 彼は頷いた。
「昔は陽気な人だったけれども、奥さんが亡くなってから随分と塞ぎこむようになってしまってね。今じゃ雪浪通りでの付き合いにもまるで参加しないのさ」
「そんなにショックだったんですか」
 店主は頷くと腕を組んで唸る。
「今でもよく覚えているよ。あの人と奥さんはとても仲が良かった」
 ショウケースの上に頬杖をついて、彼は目を細める。私には見えないけれど、多分今彼の目には若い頃、「盛況だった」雪浪通りの光景が浮かんでいるに違いない。私が知らない頃の商店街。閑散としたここしか記憶に存在しない私は、少し冷めてきたコロッケをさくり、と口にする。サクサクとした衣から肉と芋の味がじわりとしみわたる。ソースなんて要らないくらいよくできた味だ。今まで食べたコロッケの味を幾つも覚えてはいないけど、少なくともここのコロッケはとても美味しかった。また食べたくなるくらい。
 この味はきっと変わっていないのだろう。
 私は少しだけ、彼の気持ちが共有できたように感じられて嬉しくなった。もう一口さくり。甘くて暖かいコロッケに顔が思わず綻んでしまう。
「桃村さんの奥さん、どんな方だったんですか?」
 私が尋ねると、とても綺麗な人だったと彼は答えた。
「特に髪が綺麗だったね。すごく丁寧に手入れしてるみたいでとても艷やかなんだ。いつも桃村さん、吊り合わないって茶化されてたなあ」
「とても素敵な方だったんですね」
「そうだね、この通りを二人で手を繋いで歩いてたよ。その時の桃村さん、すごく緊張した顔していてね。ああ動きもぎこちなかったかな。奥さんにリラックスして、と言われて更に慌ててたのは見ていて微笑ましかったなあ」
 あと、桃村さんといえば……。懐かしむような穏やかな口調で、私の知らない世界が語られていく。すっかり寂れ、廃れつつある雪浪通りの中で生き続けた彼の言葉を聞きながら、私は時々頷き、時々笑いながら、気がつけば目の前の彼の姿に羨望の眼差しを向けていることに気がついた。
 ここで多くの人達を眺め続けてきた彼の話は面白かった。共感と敵対、そんなくだらない会話から始まる私達の会話なんかよりも暖かくて、人間味のある話で。
 日常に溶け込む術として使っていた会話は、こんなに楽しいものだったのか。街の一角で、通りの人と朗らかに会話をして日々を過ごす。押しつぶされそうにもならない世界。
「コロッケのお陰かな」
 唐突に言われて私は我に返ると店主を見た。彼は頬杖をついたまま口角を上げた。
「前にここに来た時よりも表情が柔らかくなった」
「そこまで、覚えているんですか?」
「ここに来るのは大体が顔馴染みだからね。新顔は覚えておくようにしているんだ」
 自嘲気味にそう言って彼は溜息をついてみせた。そのわざとらしさがどこか可笑しくて、私はくすり、と笑みをこぼす。
「桃村さんとも仲良くしてあげてよ。あの人本当に人と会わないからね。時々でいいから、顔を出してあげるといい」
「また来ます。ここにも。コロッケとても美味しかったから」
「またおいで。まあ、いつもサービスしてあげられはしないけどね」
「あ、でも桃村さん、お孫さんがいるって聞いたから、しょっちゅう行くのはお邪魔になるかも……」
「お孫さん?」
 その瞬間、彼はとても複雑そうな表情を浮かべた。
 お孫さん、ねえ。と彼は頬杖をつくのを辞めると、腕組みをして眉を潜める。
 何か、空気が変わったのを感じた。それまで笑っていた店主は、悲しげな表情を浮かべたまま黙り込んでいた。
 なんだろう、この重たい気分は……。
「どうしたんですか?」
 私が尋ねると、暫く目を泳がせてから、躊躇うように唸り、それから漸く決心がついたのか彼は目を閉じると、その言葉を口にした。

「桃村さんに孫はいない筈だよ」

 突然聞かされた言葉に、私は耳を疑った。
 言葉がうまく認識できない。この人は一体何を言っているのだろうか。だって、彼はそれがあるから寂しさを紛らわせられているって、そう言っていた。
「で、でも確かに桃村さんは孫がうちに居るって……」
「奥さんを亡くしたのと、娘さんは蒸発するように家から居なくなってしまったことが堪えたから、それが原因で……」
「蒸発?」
 ああ、しまったと店主は口を塞いだ。だがもう遅いと思ったのか、諦めたように嘆息を一つする。
「これは君だけの秘密にしてくれよ。桃村さん、奥さんが亡くなってから娘さんを特に大事にするようになってね。まるで奥さんを忘れようとするみたいに娘の自慢ばかりの時期があったんだ」
「とても、可愛がっていたんですね」
「娘さんも桃村さんの事を大事にしていたから丁度良かった。そこまでなら微笑ましい家族風景で済んだんだがね。問題はその後さ」
 深刻そうな顔で彼は続ける。
「ある時、娘さんが男性を家に連れてきた事があってね。夕食の準備も兼ねてうちの店にも寄って行ってくれたんだが、好青年だった。仕立ての良いスーツを着こなした感じの良い男だったよ。会釈なんかする時もこう、四十五度ぴったりで止まるくらい真面目な。冗談じゃなく本当に角度まで考えてたねあれは。ボーイフレンドかって聞くと娘さん頬を紅くして頷いてから、できれば将来……なんて言うんだ。話を聞いた限り五つ程上らしく、良い仕事にも就いているんだとか。一体どこでこんな立派な男性を見つけたのか不思議でならなかったよ」
「五つも上?」彼は頷いた。
「確か彼女が二十歳になるかならないか位だったかな。大学に行かせてもらいながら深夜にはバイト入れて、夕食から何まで家事もこなして、亡くなった母親の代りをしたいって父に内緒にして頑張っていたよ。すぐにバレてバイトは辞めさせられていたがね」
「親孝行な方ですね」
「まあ大学行くのにも無理していたらしいから彼女も思うところがあったんだろう。実際大変な額だったみたいだからね。だからそんな立派な男性を捕まえられた事をとてもめでたく思ったよ。漸く桃村さんも娘さんも再び幸せな家庭を味わうことができるかもしれないとね」
 分かっている。彼の前口上からその後がどうなったのか大体理解している。
 桃村さんの笑顔を思い出しながら、私は生唾を飲み込んだ。
「それで、どうなったんですか?」
 店主はすっかり俯いてしまう。
「あの時の彼は、あまり思い出したくない」
「あの時……?」
「鬼みたいな形相だった」
 あの穏やかな老人からは思い浮かびもしないその表現に、私は困惑する。店主は深呼吸をした。
「彼の家の方が騒がしくなって、俺も気になって通りに出てみたんだ。すると夕暮れ時に娘さんといた男性がこちらに逃げてきた。顔はすっかり恐怖で歪んでいて、腕はばっさり切られて酷い事になっていたよ。助けてほしいと懇願する彼を慌てて家に匿って扉を閉めてから外を改めて見ると、通りの方で桃村さんが住人達に押さえ込まれていたんだ。少し離れたところには血のべったりついた包丁が転がっていて、逃げてきた彼の血が点々と地面についていた」
――傍で娘さんは、泣き崩れていたよ。
 囁くようなその一言に、私も居た堪れなくなって俯いてしまう。
 父を喜ばせたい一心で、必死に育ててくれた父の為にきっと彼女は嫁ぐ事を考えたのだろう。無理をして自分を育てる彼にこれ以上苦労を掛けさせたくなくて。
 必死で愛してくれた。
 育ててくれた。
 そんな父へ立派になった姿を早く見せたくて。
「桃村さん、殺してやると喚き散らしてた。すごい力だったみたいで、大の大人五人が汗まみれになって必死になってた。他の男どもが周囲を囲んで何時何があっても良いようにしていたが、多分一人でも気を抜いていたら今頃あの人は殺人者になっていたかもしれない。すっかり豹変した父を見て、娘さん、とても悲しんでいたよ。あの人がそうなるなんて思っていなかったんだろうな」
 そう告げる店主に、多分違う、と言いかけてから口を閉ざした。もう遥か昔に起こった出来事であって、私がその光景を見ては居ない。そもそも、雪浪通りでそんな事件があったことを聞いたことすら無かった。そんな出来事があれば、自然と広まる可能性があるのではないだろうか。
「警察は、呼ばなかったんですか?」
 私の問いに、店主は首を振る。
「暫く騒いだら突然桃村さん黙り込んで、そのまま家に入っていってしまってね。娘さんが泣き腫らした顔で俺達に「このことはどうか内密にしてください」と懇願してきたからどうにも動けなくなってしまって……。幸い目撃したのも通りの人間だけだったから、彼女がそう言うのなら仕方ない、と。俺はとにかく怪我人の彼を病院に連れていかなくちゃと思ったし、その後商店街の奴等がどう話し合ったのか知らないんだ。ただ、次の日には何事も無かったかのように通りは元に戻っていたから、ああ黙っているべきなんだと悟ったよ」
「娘さんとその男性は、どうなったんです?」
 恐る恐る尋ねたが、彼の表情から大体察することは出来た。
「まあ、うまくいくはずは無いよね。殺されかけたんだ。彼も娘さんのことを思って口裏を合わせてはくれたけど、それっきり通りに来てくれることは無かったし、娘さんと並ぶ姿も見なかったよ」
「そうですか……」
 何があっても結ばれるようなロマンティックな結末は、そう簡単には存在しない。彼は死んでも彼女と添い遂げるよりも、生きることを選択した。それを責められる人間はどこにも居ない。
「程なくして娘さんが黙って家を出て行ってしまった。大学も辞めて、通りの人間の誰にも何も告げずにね。豹変した父の姿が相当堪えたんだろうな」
 姿を消した、という言葉に私は思わず反応する。
「行方不明、ですか?」
「いや、時々手紙が来ていたよ。不定期で直接だったから何時来るか分からず、気付いたら投函されている形で。中身は見たこと無いんだが、捜索願を出さない桃村さんの反応からして、何かしら彼を宥める内容だったのかもしれない」
 行方不明、では無かった。その言葉に私は安心する。
「もう何十年も前の話だ。時効だと思ってもう一つだけ、教えてあげよう。勿論君が黙ってくれると信じてだ」
「私、そこまで信頼できるように見えますか?」
 ここまで聞いておいてなんだが、彼とはほぼ初対面だ。そんな私に何故彼はここまでしてくれるのだろう。
「ああ、そうだなあ……。君がもし周囲に色々と秘密を言える子だったら、多分ここに浮かない顔をして来ないだろうから、かな」
 酷い言われようだが、実際事実だから何も言い返せない。
「それに、どうせ何をしても雪浪通りは廃れるだろうし、今更その事件が明るみに出ても何が起こるわけでもない。ここはもう過去なんだ」
 彼の言葉に、私は少しだけ気持ちが傷んだ。けれど、例え雪浪生がここを利用したとしても、何かが変わることは無いだろう。少しだけ忘れられるまでの時間が長くなるだけだ。
「まあ、置き土産、とでも言えば良いのかな」
「置き土産にしては、重すぎませんか?」
「その通りだ」彼は笑った。
「俺は、娘さんが生きているかどうかだけ、知っている」
 その告白に私は驚いた。
「匿り病院にまで連れて行った俺への礼だったのかな、殺されかけた彼が連絡先を教えてくれてね。婚約こそ無くなったが、娘さんがあの家を出ることには協力していたそうで、今も彼が紹介した場所に住んでいるらしい。勿論桃村さんには伝えないことを約束としてね。俺もあの日の彼を見てしまったら、教えようとはとても思えなかったから、今までずっと秘匿し続けてきた」
「じゃあ、本当にお孫さんは……」
「つい最近彼の知人と連絡を取ったが、今も結婚はしていないそうだ」
「知人?」
「不慮の事故で死んだ、と言われたよ。それっきり、娘さんの行方も知れないままさ」
 全てを話し終えて、店主は肩の力を抜くと一呼吸入れた。随分長い間黙っていたことをとうとう口外できたからだろうか。秘密の共有者が生まれた事による安堵感からだろうか。どちらにせよ、彼の面持ちは晴れやかだった。
「何も無くなった人が縋りつく先ってなんだと思う?」
 綻んだ表情で彼は私にそう問いかける。暫く答えに悩んでいると、彼はとても残念そうな顔を浮かべて、桃村さんの家の方向に目を向けた。
「過去、だと俺は思ってる」
 彼はそれだけ言い終えると、私にもう一つコロッケの包みを渡して作業場へと姿を消してしまった。全てを話し終えた。もう出番は終わりとでも言うみたいにあっさりと、彼は私の前から消えた。
 温いコロッケと火傷しそうなコロッケの二つを手に持ったまま暫くぼうっと突っ立っていたが、やがて足元を見ていた視線を上げると、私は雪浪通りの奥に目を向けた。アクアショップ桃村のある方へ。
 雪浪通りは変わらず静かだった。制服は私一人だったし、どこもシャッターが降りていて、照明が寂しそうに煉瓦の敷き詰められた歩道を照らしている。冷たい風がすう、と私の前を通りすぎて奥へと消えていってしまった。
 何かの死んでいく音がする。
 精肉店の店主が言っていた過去が、雪浪通りを満たしている。
 私は途端に怖くなって踵を返すと雪浪駅へと走り出した。一度も振り返らずに、直ぐにでもここから離れたいと強く願いながら。
 何も無くなった人間が最後に縋りつくのは過去。
 振り向くことがそんなにも甘美なことなのだろうか。時を止めてしまうことがそんなにも快楽なのだろうか。私には分からないけれど、その味を知りたくはないと思った。
 それは、とても心地いいかもしれないけれど、きっと地獄だ。そんな場所に溺れて生き続けるなんてしたくない。
 淡音は一体どこにいるのだろうか。彼女は何故行方を眩ましたのだろう。
 走り続けて、通りを出て歩道、広間、そして改札を駆け抜ける。降りてくる人達を掻き分けながら必死に階段を登って、プラットフォームに辿り着いたところでやっと足は止まった。押しつぶされそうな位痛くて苦しい肺に必死に酸素を供給しながら、笑う膝を両手で押さえ付ける。黄色の線の手前側で荒い呼吸を整えながらいると、やがて電車の赤いボディが私の目の前を横切り、着実にスピードを落としていくと、やがて止まった。
 駅員の言葉と共に扉が開いたのが聞こえて私は顔を上げた。
「そんなに呼吸を荒げて、どうしたんだい」
 目の前の扉から降りてきたモッズコートの青年は、私の方を見てそっと首を傾げると手を差し伸べてきた。
 暫く黙って彼を見つめていると、痺れを切らしたのか彼の方から私の手を取り強引に車内へと私を引っ張り込む。そのやり方があまりにも乱暴だったせいで、向かいの閉じたままの扉に私は後頭部を思い切りぶつけた。割れるように痛い。涙が出てくる。
「大丈夫?」
 青年は私の前にしゃがむと、笑っているような、でもどこか哀しそうにも見える顔で私を覗き込んでいた。

 青年は、恐らく君の友人はねむりひめに連れて行かれたのだろうと私に告げた。
 ねむりひめ、という名称からその存在のディテールまで何一つ聞いたことのない私は、もっとくわしく説明してほしいと懇願した。だが彼は結局微笑むばかりで具体的な部分ははぐらかしたままだった。
 私と彼は自宅前の公園に入って、隣り合うように一つのベンチに座っていた。手には彼がお詫びだと言って渡してきたお汁粉があって、でもそんな水が欲しくなりそうなもの飲みたい気分でもなくて、ただ暖かいのは良いなと思って暫く両手で転がしていた。
 ふと、そういえばあの時渡されたコロッケを思い出し、どこかで落としてしまった事に漸く気付いて酷く損した気分になった。
 美味しかったのになあ、とあの時の一口を思い出していると、お腹がぐう、と大きく一度だけ鳴った。
「もしかして、空腹かな」
 彼は私の顔を覗きこむように問い掛ける。私は思わず目を伏せたが、顔が熱くなるのを感じて、隠し切れないと思って私は諦めると一度だけ頷いた。
「ならこれをあげよう」
 そう言って彼は下げていた鞄から紙袋を取り出すと、コロッケを取り出した。あの精肉店の名前の入ったものだ。
 彼は確か電車でやってきて、私を引っ張りこんでここまで乗ってきた筈だ。何故だろう。私が戸惑っていると、彼はそのうちの一つを私に手渡した。
「朝買ったからすっかり冷めているけど、あの店のコロッケはそれでも旨い」
 そう言ってコロッケを口にする彼を見て、私は彼に続くようにコロッケを齧る。あの熱さも揚げたての食感も無いけれど、確かに冷たくても十分甘くて美味しかった。
「この街は随分とねむりひめに好かれているようだ」
 コロッケを咀嚼しながら彼はそう言う。
「だから、そのねむりひめは何なんです?」
「ねむりひめはねむりひめさ。人間が好物であり、人間に興味がある。人間を最も愛している存在、とでも言えばうまくまとまるかな」
「それは、貴方の中で綺麗にまとまっただけの話で、私には一つも理解できませんよ」
 そう言っても彼はコロッケを口にするばかりで何も説明しようとはしない。肝心な事を答える必要はないと、私は特に気にするものでも無いみたいな言い方だった。友人が失踪した原因かもしれないのに、だ。
「それよりも君は何故、あんなに息を切らしていたんだい」
「息を?」
「プラットフォームでの話さ」
「別に大した事じゃないです。ただ、少し急げば電車に間に合うかもって思っただけです」
 咄嗟に嘘をついたのは、彼に何かやり返したかったからだ。ねむりひめなんて異質なワードを取り出しておきながらちらつかせるだけなんて、性格が悪いにも程がある。
 けれども、彼はその私のぶっきらぼうな言葉を聞いてふうん、と興味無さげに口にすると再びコロッケを咀嚼し始める。その態度に少しだけ苛立ちを覚えていると、彼はコロッケをごくりを飲み込み、ベンチから立ち上がった。
「まあ、君の感じた事はきっと正解だ」
「正解?」
「そう、正解」
 その言葉一つで、なんだか全て知られているような気がして、彼が途端に気味悪く思え始めた。いや、突然車内に引っ張りこんで、更に女子高生を夜の公園に誘う時点で怪しいとは思った。そんな人物と行動を共にしてしまった自分も異常なのかもしれないけれど。
 モッズコートの青年は大きく伸びをすると、揺れているブランコに腰掛けて勢い良く漕ぎだした。子供用のそれは地面スレスレを滑空しながら空中へと向かって飛び出す。しかしやがてブランコは引力に負けて再び地上へ戻っていく。
 前後に揺れているだけなのに、彼はとても楽しそうにブランコを漕いでいた。その無邪気さに呆れてか、気がつくと笑みを漏らす私が居ることに少しして気づいた。
「そのねむりひめを見つけられたとして、私の友達は、助けることはできますか?」
 私の問いに彼は構わずブランコを漕ぎ続ける。ぎい、ぎいと鉄棒と板とを繋ぐチェーンがこすれ合って不快な音を立てている。私は無反応な彼に構わず更に問い掛ける。
「さっきねむりひめは人間を愛してるって言ってましたよね。なのに何故人を襲うんです? 好物ってことは、食べるってことですよね。なんで愛するものを食べようとするんですか。そんなの、どちらも損しかしてないじゃないですか」
「損はしていないよ」
 彼はそう口にした。
 口にして、それから勢いづいたブランコから思い切り飛び降りて一、ニメートル程先に着地した。翻ったモッズコートのはためく音が夜の公園に響く。
「分からないからこそ愛おしくなる。だからねむりひめは人を喰うんだ。そうすることで僕らの全てを知りたがっている。知った上で愛したい。その身に吸収することで永遠を感じられ、喪失を知らずに済む。一生共に生きているように感じられる」
 彼は一体何を言っているのだろう。ねむりひめのその異常にも思える行動理念に現実的な部分なんて無いのに、何故そんな幻想じみた存在を説明することができるのだろうか。
 この人はやっぱり危ない。
 普通に見えるけど、どこか狂っている。
「そんな愛し方、あり得ない」
 ポケットに手を突っ込む彼を睨みつけながら、私はベンチから立ち上がると身構えた。男に勝てるとは思えないけれど、この場所なら悲鳴で誰か気付いてくれるはずだ。
 淡音のことを考えすぎて、雪浪通りでの出来事に困惑し過ぎて私はきっと錯乱していたんだ。じゃなきゃこんな変人について行こうなんて思うはずない。
 だが彼は身構える私のことを見て、残念そうな顔で嘆息すると肩を竦めた。それからポケットに突っ込んだままの両手を曝け出すと私の前に掌を見せる。
「君は僕の事を変人か狂人だと思っているね。まあ否定するつもりは無いけれど、しかし君を襲うなんて下卑た考えを持っていないことだけは信じて欲しい」
「貴方は、一体私に何をしたいの?」
「何をしたい、か」
 そうだな、と彼は再びポケットに手を突っ込むと、瞼を閉じる。
 それっきりすっかり黙りこんでしまった彼を警戒し続けるが、やがて本当に彼に敵意が無い事を理解して、私は握り締めた両拳を解いた。
 少し離れてベンチに座って、依然瞼を閉じたままの彼をそっと盗み見る。
 青年の輪郭を、月光が照らしていた。今夜は晴天だ。雲一つ無い空に大きく、ほんの少し欠けた月が浮いている。
 静寂をそっと包み込むような光の中で、彼はどこか儚げで、悲しげに見えた。現れたばかりの時に見たあの笑っているようにも泣いているようにも見える顔は、後者であることを隠すための仮面なのかもしれない。
「僕は、僕の愛情を表現する為にここに居るんだ。いや、ここに来たと言ったほうが正しいのかもしれない」
「愛?」
「そう、愛」彼は頷く。
「君はさっきあり得ない、と言ったが、愛した人間を痛めつける事で満たされる者、傷めつけられる事で満たされる者や、同性、血縁者に惹かれる者達がいる。それらは性癖という言葉でカムフラージュされているけど、元を正せば愛だ。ならねむりひめの愛情表現だってその一つに過ぎないのではないかな」
 彼の言葉に、私は唇を噛む。
「でも、そんな事に何の関係もない人を……」
「ねむりひめは、求める者しか愛さない」
――求める者?
 彼はそれだけ言い終えると踵を返し、ああ、と顔だけ私に向き直すと笑みを向ける。
「君は友人を見つけて、一体何を望むのかな。その子が見つかることで自分がどう満たされるのか、今一度考えてみるといい」
 言い終わると彼は私の前から姿を消した。
 何処までも奇妙な人だった。私は手にしたままのお汁粉に目を向ける。人肌に触れて少し温くなったその缶を見つめ、それから何度か振ってプルを引くと口を付けて傾ける。
 どろりとした粘性の高い食感と粉っぽさと、粘りつくような甘さが口の中にべったりと残る。やっぱり水が欲しくなったと思いながら、けれどどこにも自販機が無いのを見て溜息をつく。一体彼はどこでこんな不味いお汁粉を買ってきたのだろうか。



   ニ

 一体何がどうなって私はここにいるのだろう。
 淡音に出会って化けの皮を剥がされ、彼女といることの楽しさを知って、でも肝心の彼女は消えて、保健室で聴取を取られ、モッズコートの変な青年にまで出会って……。

 まるで御伽の世界に迷い込んだみたいだ。

 若苗萌黄という「誰に対しても人畜無害」であった筈の女子高生は、今や悲劇のヒロインだ。他人の視線も、言葉も、まるで生温い液体が私の周りを包み込んでいるようで気持ちが悪い。
 それを引き剥がす勇気が無い自分が無様に思えて仕方が無い。
 溜息を吐いて、私は自分の逃げ込んだ教室を眺める。教室二つ分くらいの広さで、窓際に流し台がずらりと設置されている。全て開放された窓の傍には絵筆やパレットが布の上に置かれていた。
 美術室だという事は一目見て分かった。ただ私が不思議に思ったのは放課後だというのに誰一人として部員が居ないことと、画板がたった一つしか無いことだった。
 確か美術部員はそれなりにいた筈だ。文化祭で教室一つを借りて、幾つもの絵画を飾って展覧会をしていた覚えがある。受付に座っていた部員も男女いたし、中もとても充実していた。
 でも、室内はがらんとしていて、隅にイーゼルが一つ、画板と一緒に立てられている。
 私は、なんとなくその画板に描かれているものが気になって、教室の扉を閉めると窓際に置かれたそれに近づいて行く。
 窓から入り込んでくる穏やかな風がふわり私の頬を撫でた。ペパーミント色をしたカーテンが、陽の光と風を受けて心地良さそうに揺れているのを見て、少しだけざわついていた気持ちが落ち着いていくのを感じた。
「なにしてんだろ、本当に……」
 結局私は、爆発してしまった。
 数日経っても変わらず私に関わろうとやってきては心配という言葉をかけ続けてくるグループがいた。周囲の耳に届くような声で何度も、何度も何度も何度も私に声を掛けては「きっと戻ってくるよ」「そんな気にしないで」「萌黄は強いね」なんて言葉を口にしては微笑みかけては満足したように去っていく。
 初めの頃は少しだけそれを有難く思ったけれども、続けばその適当な好意もお節介に変わる。言葉だけで紡がれた慰めの効き目はそれほど長くはない。
 「大丈夫」と微笑む私を見て、彼女たちは何も気が付かなかったのだろうか。私に憐憫の情を向けることで満たされているだけだということが何故わからないのだろうか。
 次第に積み重なっていた不満は、やがて「淡音」という言葉を引き金にして噴出した。私を知ってくれた淡音を悪く言われるのは、心外だったから。何も知らない人間程首を突っ込みたがる。知らないことを覗いて、自分が一番事情を知って、尚且つ頼れる相手であるようにアピールすることで満足しているだけではないか。
 多分それは自分の事でもあったのだろう。「雑草であること」や「当たり障りの無い自分であり続ける」という自分が一番「敵を怖がらないで済むと思った」方法を取り続けたツケも含めて私は破裂した。
 思いつく限りの言葉を吐き出し、髪を振り乱し、両手で力いっぱいに机に爪を立てる。

 何も知らないくせに。

 何も知らないくせに。

 何も……何も知らないくせに。
 
 私だって知らないのに……。

 ありとあらゆる感情を一つ残らず絞り尽くした後に残ったのは、静寂だけだった。ふと我に返り、肩で息をしながら見た教室は暗く冷たく沈んでいて、動揺と、怒りと、悲しみと、そういったマイナスの感情だけが汚泥のように流れこんで私達を汚していた。
 一番お節介を焼きたがった女子の目には、涙が溜まっていた。グッと下唇を噛み締め俯き、嗚咽が漏れそうになるのを堪えながら、ただただ泣いていた。
 誰も悪くない、責められない空間は、ひどく苦しかった。
 それが、今日の出来事。
 多分、私の望んだ「平凡」が死んだ日。

 画板の周囲は散らかっていて、パレットには幾つも色がまだべったりと残っていて、幾つもの色を混ぜあわせたものが乾いてこびりついている。薄い紫の周囲から赤と青がはみ出ている。きっと幾つもの色を重ねてやっと生まれた色なのだろう。
 さて、私は裏から覗きこむようにしてイーゼルに立てかけられた画板に目を向ける。どんな絵を書いているのだろう。
 その瞬間に、扉の開く音がして、私は一瞬飛び上がると目を向けた。自分の閉めてきた扉が開けられていて、そこに一人の女子生徒が立っていた。若干色の抜けたハーフアップの髪型が似合う綺麗な女の子だった。
「ああ、作業中でした?」
 慌ててそう口にする私を、ハーフアップの彼女は不思議そうな目で見て、それから無言でイーゼルの立てられた部屋の隅までやってきた。薄く、けれど丁寧に化粧の施された顔に、私は思わずどきりとする。強すぎず、弱すぎず、周囲に馴染む丁寧なそれは、彼女の魅力をしっかりと引き出していた。
「見ました?」
 血色が良さそうな唇が動く。私が首を横に振ると、彼女は画板の前の丸椅子に座った。
「ごめんなさい、見られたくなかった、ですか?」
 どこかぎこちない言葉に、彼女は首を振る。
「違うんです。どちらかといえば、感想が聞きたかったから。今やっと形になってきたから他の人からはどう見えるかなって」
「見て、いいんですか?」
「寧ろ喜んで」
 恐る恐る尋ねる私に、彼女はにっこりと笑みを浮かべて頷き、画板を向けてくれた。
 突然の来訪者に対しても優しいなとか、笑った顔も綺麗だなとか他愛もない事を考えていたのだけれど、向けられた画板を見て、その他愛もない思考は吹き飛んだ。
 画板の中は、液体で満たされていた。
 幾つもの水彩絵具を塗り重ね、時には滲ませて、濃紺を他の色で潰しては染み込ませて陰翳を作り、下方は昏く、上方は明るく、水面から水底を意識したその風景に、私は感嘆の声を思わず漏らす。
 水面から差し込む光が次第に弱まりながらも、水底を照らす。少し揺らいだだけできっとこの光は濃紺に喰い尽くされそうで、でも光は底を真っ直ぐに照らし出していた。
「水の中を表現するのがとても難しくて、何度も何度も重ねて、やっとそれらしく見えるようになったんです。貴方は、どう思いますか?」
「とても、綺麗な絵だと思います」
 そんな単純なことしか言えない自分が恥ずかしかった。美術部の彼女はきっとこんな意見を求めているわけじゃないと思うのに、それ以外何も出てこない。
 不意に、私は青で埋め尽くされた中に小さな赤がぽつんと存在することに気づいた。それはよく見ると魚の形をしていて、水底から水面を見上げているようだった。
 水の表現を徹底しているのに、この魚だけは輪郭だけそれっぽくして、あとは紅色で塗り潰すように描かれている。私はなんだかそれが不純物のように思えてならなかった。
「これは、魚ですよね?」
 彼女はええ、と頷く。
「なんか、これだけ浮いてるような気がします。綺麗な赤色だけど」
「ああそれ、わざとなんです」
「わざと?」
「そう、わざと」
「私、あんまり芸術とかそういうの分からないんですけど、この赤い魚が何かのメッセージになっているとか、ですか?」
 彼女は口角を上げ、睫毛の長い目を細めた。
「そんな芸術性のある事ではなくて、私が今感じている事をなんとなく形にしただけなの」
「感じていること?」
「そう、この浮いている魚は、本来居るべきでない所にいるの。迷い込んじゃった感じ」
 そう言って彼女は赤い魚をそっと撫でる。その目は寂しそうで、今にも涙が零れ落ちそうなくらいに水っぽかった。
「その魚は、帰りたがっているんですか?」
 私の問いに、彼女は困ったように肩を竦めた、
「それが分からないの。もしかしたら馴染んでしまいたいのかもしれないし、この水底から逃げたがってるのかもしれない。元いた場所に戻って安心したいと思っているかも。でも、私に分かるのは『浮いている』ことだけ」
「難しいですね」
「いずれ答えが出るのかもしれないけれど、私はこれ以上手を加えてあげられない。でもどうにかしたくて、筆を持ったり置いたりを繰り返してて……」
 ふと、彼女は私に目を向けた。大きな瞳に私は映っていて、このまま吸い込まれそうだな、と思った。
「貴方は、どう感じた?」
「この魚について、ですか?」
 彼女は頷いた。私は腕組みをしたまま暫く絵を観察するが、一向に丁度いい言葉が思い浮かばなくて困ってしまう。
 暫く考えて、ふと出てきた言葉を頭の中で繰り返し呟いてみる。多分、うん、これしかない。そう言い聞かせると、漸く私は口を開いた。
「なんだか前向きな選択をしたくて、悩んでいるみたい」
「前向き?」
「ここから出るにせよ、馴染むにせよ、この魚は自分にとって一番良い結果を求めてるんだろうなって」
「いい結果」彼女は繰り返す。
「勿論私が感じたことですよ? 赤ってちょっと強そうに見えるじゃないですか。これがもし青だったらもっと別の印象を持ったかもしれない」
 慌てて取り繕うが、彼女は特に気にする様子もなく、腕を組んだまま自らの書いた絵を見てふむ、と唸っていた。
 この魚はきっといい結果を求める。
 純粋に湧き上がった感情だった。雰囲気や色で汲み取ったのもあるけれど、それは、多分私にはできないやり方に見えたから。
「私、馴染みたかったんです」
 だからだろうか、気付けば私は、そう口にしていた。
 彼女は私の目をじっと見つめて、それから首を傾げると微笑む。どうぞ、と言われている気がして、私は口を開いてしまう。
「誰かの傍にいるくらいの立ち位置にいれば、人のいい部分しか見なくて済む。悪い部分を見て嫌わなくて済むって思って、敢えて上澄みだけ見ていれば、辛くなることもないって」
「そうやってきて、今はどう思っているの?」
「これで良かった。実際私は居ることが当たり前になって、誰とでも気兼ねなく付き合えた。誰かの敵に回ることもなくて心地よかった」
「じゃあ、どうして?」
 そのどうして、の意味は考えなくてもすぐに分かった。
「自分で作ってきた筈の居場所なのに、それが当たり前になればなるほど息苦しくなるんです。誰にでもいい顔をし続けて手に入れた筈の心地良い場所なのに、ふと振り返ってみたら、そこには孤独しか感じない。誰かと話していた事も、遊んだ事も、打ち込んだ事も、そのどれも空っぽに見えてしまう」
 絵を覗きこんで、もう一度赤い魚を見つめる。この魚は、果たして途方に暮れているからなのか、それとも……。
「さっきのいい結果を求めてるって言葉は、きっと私の願望です。丁度良さを求めて、結局空っぽのまま生きてきた私が逃げた選択をこの魚は選ぼうとしている。そんな風に見えたから」
 言い終えて、初対面の人にこれだけ心情を吐露してしまった事が急に気恥ずかしくなって、私は俯いてしまう。けれど、何か達成感じみたものを感じていて、どうしてか笑みが零れそうになった。
「願望、ですか」
「なんかちょっと、痛いですよね。絵の感想を求められただけなのにこんな……」
「絵を見て出てきた言葉なら、それも感想の一つですよ」
 思いもよらない返答に、私は思わず視線を上げた。
 彼女は、穏やかな笑みを浮かべ、顔を上げた私の頭をそっと撫で始める。髪を梳くように細くて滑らかな指が通って行く。その感触の擽ったさに身を捩らせ、じわりと胸に広がっていく温い感触に、目を細めた。
「絵を書いていて、時々「この色は入れるべきじゃなかった」って思うことがあるんです。でも結局そのたった一つ間違えても、その絵はもう戻ることなんてできないから」
「じゃあ、何度も描き直すんですか?」
 彼女は首を振って、絵をそっと細い指で撫でる。
「この絵だって間違いだらけよ。思い描いていた色と全然違うし、構図だって少しづつズレていってる」
「こんなに綺麗なのに?」
「貴方は綺麗だと思った。でも私はこれを失敗だらけと感じている。他の人だってそうよ。時々思い通りにいったって顔を顰める人もいれば、失敗したのに褒めてくれる人もいる」
 彼女は絵の向かいに置かれた丸椅子に行儀よく座ると、絵筆とパレットと手にとり、バケツに筆を浸してからパレットに一滴落とす。乾いていた絵具が鮮やかな色を取り戻していく。
「自分が何故そこに筆を入れてしまったのかを悩むより、失敗だと感じても絶対に最後まで描き上げるべきだと思ったの」
 筆に絵具をつけて、彼女は再び目の前の水底に青を足し始める。淡い水色が既に塗られた色の上に足されていく。
「完璧よりも、誰かに感じ取ってもらえる絵の方が、楽しくなってきちゃったから」
 窓辺のカーテンがふわりと揺れる。
 その直ぐ側で絵を描く彼女に光が当たる。
 ただそれだけ。
 それだけなのに、絵に向かう彼女の表情はとても燦々と煌めいて、生きた顔をしているように思えた。
 テーブルの下に収まっていた椅子を一つ引っ張りだすと、私は彼女の隣まで持って行って座った。不思議そうな目で見る彼女に、私は少し見ていたい、と恥じらいながら告げると、可笑しそうに笑ってから、頷いてくれた。
「そういえば、貴方のお名前は?」
「若苗萌黄です」
「綺麗な名前」
 自分の名前を褒められたことなんて滅多に無かったから、なんだか新鮮に思えた。
「貴方は?」
「幾月絵美。この名前のせいか、絵を描いてても納得されちゃうのよね」
 困った顔をしてみせる彼女、絵美の、けれど暖かみのある表情に私は笑みを零した。
「咄嗟に逃げ込んだのが、美術室で良かった」
「私も、萌黄ちゃんに会えて良かった」
「そうですか?」
「ええ、お友達が増えるって、素敵なことだから」
「友達、なのかな」
「お互いが一緒にいたいと思えたら、友達じゃないかな」
 そう言って微笑む絵美の顔を、私は直視できない。
「放課後はいつもここにいるから、気軽に来てね。今日は顧問が居ないからお休みで人もいないんだけど、普段はもっといるし、私の友達もこれからは部に来てくれるって言っていたから」
「友達もここの子?」
 問いかけながら、私はこの閑散とした美術室を眺める。普段はこのテーブルも片付けられて、絵美のような作業をしている人が多いのだろうか。
「ほとんど幽霊部員なんだけどね。本当は今日から来るって言ってたんだけど、やることがあるみたいでどこか行っちゃった」
「やること、ねえ」
 考えこむ私を見て、絵美はくすりと笑う。何故笑われたのかと首を傾げると、彼女はごめん、とまたくすりと笑みを零す。
「萌黄ちゃんが逃げたかったって言ってたけど、そういえばあの子はむしろ逃げ場を塞いでたなあって。どこか萌黄ちゃんと共通点がある気がしてね」
「逃げ場を塞ぐ?」
「そう、危ないと分かっていても逃げることを考えなくて、茨の道でも突き進もうとしちゃうから、見てるこっちがハラハラしちゃうの」
「随分と無茶する人なんですね」
「そんなところが好きなんだけどね」
「素敵な関係だと思います」
 頷く絵美を見て、私はその関係がとても羨ましく思えた。もし淡音が失踪せずに今もここにいてくれたなら、私も彼女達のようになれたのかもしれない。
 いや、なりたかった。
「そろそろ私は片付けて帰るけど、萌黄ちゃんはどうする?」
 そう言って立ち上がる絵美に同意しようとして、私はふと窓の外を眺める。誰もいない中庭と、向かいの校舎が見える。
 ふと、向かいの校舎の窓を、一人の影が横切るのが見えた。
 三階の廊下で、あまりよくは見えなかったけれど、たなびく艶やかな黒髪と、横顔は、どこか淡音に似ていた。
「ごめんなさい、私はまだ……」
「そっか、残念だなあ。じゃあ今度ね」
 イーゼルと画板を抱えて彼女は「準備室」と書かれた扉まで向かう。扉を開けながら絵美はとても嬉そうに顔を綻ばせ、準備室へと消えた。
 再び窓の外に目を向けると、あの横顔は消えていた。
 見間違えただけかもしれない。長い黒髪の子なんてそう珍しくない。そもそも行方を眩ませて大分経った彼女が突然現れるなんてあり得るだろうか。
 なんにせよ、確かめたいと思った。


22, 21

  


   三

 階段を一段、また一段。
 ぎゅっとつまさきに力を入れて私は階段を登っていく。一段踏みしめる度に、胸の奥がざわついて、息苦しくなった。
 緊張、しているのかもしれない。
「淡音」
 踊り場から呼んでみたが、返答はなかった。
 見間違えだろうか。いや、単に聞こえていないのかもしれない。ともかく彼女を見た廊下をくまなく見て回ろう。それくらいしないと、この不安と希望の入り混じった息苦しさは消えそうにない。
 だが、探そうにも教室の扉の大半は鍵がかけられていて、どこにも彼女が隠れられる場所はなかった。唯一開いていた音楽室も担任が一人だけで、丁度鍵と荷物を手に帰宅するところで、私と共に出ると鍵を締められてしまった。
 その後も何度も同じ場所を行き来してみたが、結果として収穫はなく、私は肩を落としたまま踊り場に戻って、階段に腰を降ろすと溜息を一つ、深く吐き出した。
 眩しいくらいに輝いていた太陽はもうすっかり地平線の向こうに姿を消し、代わりに濃紺がじわりじわりと空に広がって、やがて水色を食べ尽くそうとしている。
 さっき見た絵美が描いた絵も、こんな風に色んな青を塗りつぶして、混ぜあわせた結果生まれたものなのだろうか。そう思うと、あの水底の絵と今の空はどこか似ているように思えた。
「今日、私に友達が出来たよ。淡音」
 身構えないでいられて、自然と笑えて、興味の持てる相手が。
「今までずっと合わせることが一番楽な生き方だと思っていたのにね」
 たった一人の踊り場に、私の声が響く。
「やり直したいとも一瞬思ったけど、多分、戻っても私はまた同じように考えてしまうと思うから、このままでいいや」
 その言葉を聞いたら、淡音は笑ってくれるかな。誰かに合わせている私を哀れんだあの子は、今度こそ喜んでくれるかな。
「言いたいことが一杯あるの。だから、さっさと出てきてよ……藤紅淡音」
 抱き寄せた膝はとても冷たくて、私は縮こまるようにして顔を埋める。刺すような冷たさに思わず身震いしたけれど、私は構わずそのまま膝を抱き続けた。
 窓から差し込んでいた夕陽の姿が無くなって、次第に私の周辺は暗い影で満たされていく。私はその中で息を吐き出した。耳元でごぼ、と泡の生まれるような音がした。
 あの赤い魚が求めているのは、なんだったのだろう。暗くて冷たい水の中で何を考え、どうして外の光を見上げていたのだろうか。
 再び顔を上げ、周囲を暫く見回してから立ち上がると、私はもう一度だけ淡音、と叫んだ。
 だが、私の声が響くばかりで、返答の声が帰ってくることは無かった。
「君は、若苗さんじゃないか」
 反応が無いことに落胆していると、後ろから声がした。つい最近まともに聞いた低くて安定感のある声に、私は振り返ると同時に先生、と声をかけた。


 校舎の見回りが真崎先生で良かった。偶然だったけれど、私が懇願すると彼は教室中の鍵を開けて中を確認させてくれた。というより見回りとして生徒が校舎にいる状況で帰宅できるわけがない。
 隅から隅まで教室を見たが、結局黒髪の彼女が見つかることは無かった。落胆していると、真崎先生は何も言わずにただ私の頭を撫でてくれた。
「その、藤紅淡音って子。未だに消息は不明だそうだね」
 再び踊り場に戻ると、真崎先生は一つ下の階に設置された自販機から缶ジュースを一本買って私に渡す。感謝しながらジュースを飲むと、柑橘系の爽やかな味と冷たさに不思議と気持ちが晴れる。一時的なものであることは分かっているけれど、それでも今の私にとっては十分な存在だ。
「藤紅さんと仲が良かった子はあまりいないって話だったから、君がいてくれて良かった」
「良かった、ですか?」
「そう、警察でも消息がまるで掴めないから、改めて交友関係から確認し直すことになったんだ。彼女、君と一緒にいた姿くらいしか確認できないから、本当なら明日か明後日辺りにその話が行く予定だった」
「やっぱり、なんの痕跡も見当たらないんですね」
 真崎先生はこくりと頷く。
「どこで何してるか分からないって、一番気持ちが悪いですよね」
「気持ち悪い?」
「だって、まだ消息がはっきりしていたら、長い時間をかけて消化できる気がするのに、生死すら不明で何も分からないと、私は悲しむべきなのか「まだ可能性がある」ことに喜ぶべきなのか、分からなくなってくるんです」
 そっか、と真崎先生は一言だけ口にすると私の隣に腰掛けた。
「先生、藤紅さんの親御さんは、どうしているんですか?」
「彼女の親御さんは、居ないよ」
 ずっと気になりながらも口にできなかった事を聞いて、私はやっぱりと俯いた。出会ってから家に行くことも断られ、会話中も家族というワードは意図的に避けられていた気がする。
 そして何より娘にこれだけのことがあっても姿を見せないのは、多分事情があると理解していた。
「藤紅夫妻は、突然強盗に殺されたそうだ」
「強盗?」
「そう、ナイフで全身を切り裂かれていたらしい。淡音さんだけが一人生き残ったが、その時色々あってね、ショックで不安定になってしまったらしい」
 そんな話、聞いたことがなかった。
 じっと先生を見つめていると、彼は首を振った。
「失踪になってから初めて分かったことだ。両親がいないのは分かっていたがまさかそこまでおぞましい事件に遭っていたとはね。どうにか残った財産と父方の親戚からの手助けで生活できているようだが、実質一人暮らしみたいなものだったらしい」
「父方の親戚、ですか……?」
「そう、母親の方は……ああ、これは流石に」
「お願いします」
 ただ一言、そう口にした。真崎先生は暫く困ったような顔をしていたが、引く気配の無い私を見て、溜息を一つ吐き出すと、両手を組んで膝に腕を立てて、その上に顎を乗せる。
「半ば駆け落ちだったそうでね。母親の方の詳細は一切分からず終いだった。名前も性もすっかり変わってしまっていたし、ありとあらゆる面で全てが抹消されていた。そんな事ができるものかと思ったんだけど、現実でそうなっているんだから、その当時は抜け道があったのだろう」
「駆け落ち、ですか」
「ああ、夫の親戚に話を聞いた限りだと、相当酷い叔父だったらしくてね。もし見つかったら下手をすると命に関わると考えてだったらしい。まあ、そんな二人が強盗犯によって命を落とすとは、全く不幸な話だと思う」
 真崎先生は溜息を一つ小さく吐き捨てると肩を落とした。その目は、どこか共感が混じっているような気がして、私は、思わず先生の胸に手を回すと、そっと抱きしめてみせた。
 一瞬びくりと身体を震わせたが、拒絶の意思は無いらしい。もしかしたら、別に私がそういった類の感情から抱きしめたわけではないことを感じ取ったのかもしれない。
 セーターから柔らかくて甘い洗剤の匂いがする。私はその匂いをすう、と嗅ぎながら目を閉じた。
「先生は、無理してると思う」
「……そう思うかい?」
 彼の身体の中で頷く。
「愛した人を理不尽に亡くしたのに、なんでそんな平気そうな顔をしているの?」
「平気、か。別にそういうわけでもないよ」
 セーターにうずめていた顔を上げて、私は彼の顔を見た。哀しそうな、でも目元は乾いたままの複雑な表情だった。
「私は、どうやら妻の死では泣けないみたいなんだ。大切な者を失ったのに、身体がそういう風に反応していなくてね。泣けないことを責めている内に、いつの間にか「悲しみ方」を忘れてしまった」
「だから、穏やかな顔ができるの?」
「そうだよ。多分私は、今壊れてしまっているから、むしろ穏やかな顔しかできない」
「もっと、悲しい事だと思うよ」
「私もそう思うよ」
「でも、今はあの親戚の子がいるでしょう。それが、直るきっかけになったら良いね」
 再びいい匂いのするセーターに顔を埋めると、私の頭を彼は撫で始める。無骨で細い指先で、何度も私の髪を梳いていく。それが気持よくて、私は暫くそのまま彼に抱きついたままいようと思った。
 ネジの一本でも良い。歯車一つでもいい。彼の中の壊れてしまった何かを、取り戻せるきっかけになってあげたいと思った。
「ねえ、先生。私は、淡音にまた会いたい」
「なら、忘れないでいてあげなさい」
「忘れない?」
「君の中で藤紅淡音が生きていた記憶があるのなら、きっと彼女は戻ってくるさ」
「本当に?」
「本当だよ」
 先生から離れて、私は彼の顔をじっと見つめた。真崎葵は相変わらず穏やかな目をしていた。
 その奥、階段を上った先の扉が不意に開いたのは、その時だった。私と先生はそちらの方に目を向けて、それから互いに目を合わせる。
 この階段の先は屋上で、危険防止の為に鍵は普段閉められていた筈だ。でも今、その扉は数センチほど開いていて、使われていなくて随分古びてしまったのだろう、蝶番の擦れる音が一定のリズムで聞こえていた。
 先生の方に目を向けると、彼はポケットから鍵束を取り出し、首を横に振る。開けてはいない、と言いたいらしい。
「屋上に用はあったが、既に開いているとは……。先に誰かが開けたのか?」
「そんな簡単に屋上って開けてもらえるものでしたっけ?」
「いいや、非難訓練や特別な授業以外はそう無い筈だ。ましてや生徒に鍵を貸し出すなんて事はあり得ない」
 訝りながら私達は数センチ開いたままの扉をじっと見ていた。重たい鉄扉の奥から冷えた夜風が吐息みたいに校舎内に吹き込んでいる。
 もしかして、という気持ちはどこかにあった。あの女子高生のシルエットがどこに消えたのか、この階の教室は全て調べたけれど、誰も居なかった。帰ってしまったのかもしれないと思いもしたが、こうして目の前で鍵の開いた扉があるなら、そういう考えに及ぶのは至極真っ当ではないだろうか。
「屋上、行ってみませんか?」
「私は様子を見なくてはならないからね。君も来るのかい?」
 頷く私を見て彼は溜息を一つつくと、先に行かない事を条件に私の動向を許した。
 階段を上がっていく。一段、また一段と上がる度に冷たい風を感じて産毛が逆立っていく。こんな冷えるなんて予報は無かった筈だ。これは果たして本当に気候が生じさせた風なのだろうか。
 それとも、もっと何か別のものではないか。
 まるで拒絶するように冷たい風が私と先生に向かってくる。
「開けるよ」
 とうとう踊り場に着くと、先生はそう言って返答も待たずにノブに手を掛けて、鉄扉を開いた。

 屋上には、少女が一人立っていた。
 雪浪高校指定のブレザーとスカートに身を包み、流れるような黒髪をなびかせながら、彼女は空を見上げていた。
 空は快晴だ。小さな星までよく見えるくらい澄んでいて、月も大きく光り輝いている。
 ただ、一つだけ妙な点を挙げるとすれば、その夜空が湖畔の水面のように揺れている点だった。
 とても幻想的だけれど、同時に不安になる光景だった。
「ねえ、淡音?」
 目の前の黒髪の背中に向かって声をかける。後ろ姿ですぐに理解できた。あれは藤紅淡音であると。
 けれど、彼女は反応を示さず水面みたいに揺れる夜空を眺め続けている。いくら声を掛けても返答も何も無い事に苛立って私が彼女の下に向かおうとすると、先生に引き止められた。
「どうして引き止めるの? どこからどう見ても淡音なのに」
 そうまくし立てる私に首を振ると、彼はじっと睨め付けるように彼女に視線を向ける。何がなんだか分からないと先生と淡音に視線を行ったり来たり続けていると、漸く淡音の方に動きがあった。
「……萌黄?」
 そう言って振り向いた彼女は、確かに淡音だった。不思議そうな顔で首を傾げながら、私の方に身体を向けた。
 久しぶりに見た淡音の姿に私は息を呑む。多分、この不思議な現象の起こっている夜空を背負っているからそう見えるのだろう。彼女は驚くほど艷やかで、淫靡に見えた。揺れる月光に照らされながら髪を掻き上げる姿は、同性である私がどきりとするくらい魅力的に感じられた。まるで恋をしてしまったみたいに胸が苦しくて、彼女が欲しくて堪らなくなった。
「先生、離してよ。あの子が淡音だよ。先生も失踪した子の顔くらいはちゃんと確認しているでしょう?」
 そう訴え続ける私を、しかし真崎葵は離そうとしない。むしろ肩を掴む彼の手はよりいっそう強く、痛みを感じるくらいがっちりと握り締められていた。私が痛いと口にしても、その力は弱まることは無かった。
「萌黄、どうしたの?」
「淡音、なんで突然いなくなっちゃったの。ずっと心配していたんだから!」
 離してほしい。今、私の求めていたものが目の前にいるのに。すぐにでも駆け寄って抱きしめたいのに。諦めかけて、居なくなってしまった事をどうにか納得しようとして、それでもできずに引きずり続けた私の想い人がこうして目の前にいるというのに。
「君は、藤紅淡音」
 真崎先生は、確認するようにそう言った。当たり前じゃない、と強い口調で言ってみるが、彼は私の事なんてほとんど気にせず淡音の方に目を向けていた。
「そうですよ、先生。私は藤紅淡音です」
 そう言って胸元に手をやると彼女は笑う。
「今までどこに行っていたんだ? どうしてこれまで失踪していた」
「失踪? そんなことになっていたんですか、私」
 淡音は驚いた顔をして口に手をやる。だが、彼は納得していない。
「もう一度だけ聞こう。君は藤紅淡音か?」
 彼は、おかしくなってしまったのだろうか。何故そんな確認を続ける必要があるのか。
「藤紅淡音ですよ。一体どうしたんです?」
「君が何故そうなってしまったのかは知らない。これまでの出来事で大体繋がりは出来上がっているが、どうにも私の知っている情報が少なすぎてね。だから、この状況から一つの判断をさせてもらおうと思う」
 真崎先生は、周囲を見回し、夜空をまるで忌まわしいものでも見るみたいにじっと睨みつけると、一呼吸入れてから口を開いた。

「君は、ねむりひめだね」

 一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。ねむりひめ? 藤紅淡音が? あのモッズコートの彼の言っていたねむりひめだと? そんなことあり得るはずがない。だって今目の前で彼女はその姿で存在している。この失踪だって寧ろ彼女がねむりひめに襲われていたかもしれないのだから。
「淡音がなんで、ねむりひめなの」
 訴えかけるような目で真崎先生をじっと見つめる。
「どこで聞いたのか分からないが、君はねむりひめを知っているんだね。なら話は早い。ねむりひめは、誰かの悲劇を好む生物だ。悲しい出来事を抱え、餌として十分な栄養を蓄えた瞬間に食べようとする。そして同時に、その人物の『記憶』を糧にし、自分の中に蓄積させていく」
「記憶を、蓄積?」
「つまり、その人物の性格、生まれてからそれまでの記憶、仕草から癖まで全てを手に入れられるんだ。ここまで言えば、私が何故ねむりひめと彼女を疑うか、分かるね」
「擬態、してるってこと?」
 目の前の淡音が、擬態しているねむりひめであると、彼は言っているのか。
「藤紅淡音はそれまで学生生活を孤独に送ってきた少女だ。それに以前の出来事も含めて十分に餌としての魅力を持っていた可能性は高い」
「そんな、あり得ない! 彼女は私の事を理解してくれたし、大事にしてくれたの。孤独なんかじゃない。彼女は自分の納得する人物としか付き合わないだけよ!」
 身体が熱くなる。抑制が効かない。
 とにかく今、目の前で藤紅淡音を孤独と言い放った彼が許せなくて仕方が無かった。事を荒立てず、形だけの友情こそが全てを思っていた私を変えてくれた彼女に、そんな言葉、許せない。
「そして次の問題は、彼女は“いつから”ねむりひめだったのかだ」
 怒りが、瞬間にして吹き飛んだ。いつから、という彼の言葉に、私は混乱する。
「藤紅淡音は家族を知らない。事件が起きてからずっと親戚に助けられながら過ごしてきた。駆け落ちによる親戚の不在、事情が事情だけに恐らく父方の親戚もあまり面倒見がいいほうではなかったのだろう。そんな少女に、救いの手が降りたらどうなるだろうか」
 救いの、手? 私は困惑の眼差しを淡音に向ける。
 彼女は、そっと微笑んでいた。どこか嬉そうに目を細めて私を見つめ、それからちろりと小さな舌で唇を舐めると、黒髪を描き上げ項を撫でる。その一挙一動が、あまりにも蠱惑的で、まるで別人のように見えた。何か、彼女が藤紅淡音である証拠が見つかれば、真崎先生も勘違いを認めてくれるはず。
 そう思うのに、今、私の中に疑惑がじわりじわりと広がっていく。あれは本当に彼女なのか、分からなくなっていく。
「そして極めつけはね、ねむりひめが現れ、そして獲物を求める時、空が水面にみたいになることなんだ。『対象』を引きずり込む時に、起きる現象があれだ」
 水面に映ったような綺麗な月が揺れている。私はそれを眺めているうちに、足に力が入らなくなって、とうとう地面に座り込んでしまう。
「先生は」
 無意識に出た言葉に、真崎葵は反応する。
「なんで、そんなこと知ってるの?」
 どんな返答が返ってくるのかは大体理解していた。彼の返答が怖くて堪らない。何故、私は問いかけてしまったのだろうか。
 どんどん現実味が無くなっていく世界で、私は取り残された気分で、何をすることもできないまま、ただ声と意識だけでその場にどうにか居座っている状態で。
 だからこそ、この状況を理解したかった。
 先生は、真崎葵は、尋ねた私を細めた目でじっと見つめ、それから肩を落とすと、ポケットに手を突っ込んだ。
「私もまた、ねむりひめに魅入られた人間だからだよ」
 やっぱり、と私は思った。思ってから、彼の側を歩いていたあの少女の姿を思い出す。オーバーオールを着た幼い少女。きっとあの子だと、私は確信する。
「一度だけ、人を餌にしかけてしまったことがある。その子は助かったが、危うく死なせてしまうところだった。その時の経験があるから、私はねむりひめについて知ったんだ」
「死なせてしまうところだった……?」
 私の言葉に、彼は頷いた。頷いてから、その顔を苦悶に歪める。
「私は、あの子に、みどりに……人を殺させたくない。それが習性と分かっていても。でもそれは難解な事だ。ねむりひめの中には人間を求める衝動が備わっているからね」
「人間の味を、知らないまま生きる?」
 私達の会話に、淡音は嘲笑混じりに割り込む。それまでの彼女とは思えないほど、仕草も、表情も変わっていて、それを見る度に私は強く揺さぶられていく。
「あの甘美さを味わえないなんて、人間を愛する幸福を知ることができないなんて、そんな不憫な子も世の中にはいるのね」
 淡音はゆっくりと歩き出す。夜風で流れる髪が、誘惑するような瞳が、私の心を揺さぶる。
「味を知らないままの『私達』なんて脆弱で、悲劇を作り出す力すら持たない。そんな状態を求めるねむりひめが、いると思うかしら?」
 真崎先生は何も言わない。何も言い返せないと言った方が正しいのかもしれない。
「だから、人に寄生するの。悲劇を抱えた人が依存したくなるような、奥底に秘められた願望を写し取って現れる。身を滅ぼしてでも依存したくなるように」
「君に依存する「人物」も、大体特定できている」
「知っていても、今ここで消してしまえば済む話でしょう。だって、ねむりひめの飼い主ってことはつまり、貴方もとっても美味しいってことなんだから」
 気がつくと彼女は真崎先生の目の前に立っていた。その場に立ち臨んだままじっと彼女を見つめる彼の目には、けれど絶望や諦めは無くて、私にはそれがとても不思議に思えた。
「みどり、おいで」

――とぷん。

 水の跳ねる音が聞こえた。
 空に広がる水面に波紋が生まれ、周囲に広がるように波打って消えていく。ほんの一瞬だけだ。その一瞬の後に再び真崎先生に視線を戻した時、オーバーオールの少女がその大きく潤んだ瞳で向かいに立つ淡音を見た後、次に私の姿を見て、小さな指を向けた。
「もえぎ」
 みどりは座り込む私の傍にやってくると首を傾いだ。可愛らしい仕草だが、ここまでの出来事のせいでそれすら反応する余裕が持てなかった。
「もえぎ、まえよりおいしいにおいがする」
「におい?」
 ぺろり、とみどりは私の頬を舐めた。擽ったさに思わず身を退いてしまうと、少女はそれからもう一度首を横に傾がせてみせた。
「この状況を把握しきれない事は当たり前だが、たった一つだけ、理解してほしい。彼女が狙っているのは、君なんだ」
 先生はみどりと私の前に立ってそう言うと、ポケットから小さなナイフを取り出してみせた。取手も作りも簡素な果物ナイフだ。少なくとも、そんなものが効くようには思えない。
「みどり、もえぎを連れて行きなさい」
「たべちゃだめ?」
「だめだ。言っただろう、人は食べてはいけないよ」
「わかった」
 不可思議且つ難解な二人のやり取りを終えて、みどりは私を連れだそうと制服の裾を引っ張り始める。
 淡音が食べようとしているのは、私……? 狙われていたのは自分で、今も真崎葵やみどりよりも淡音は私のことを求めている?
 でも、例え彼女がそうだったとして、横取りされないように唾を付けていただけだとして、あの時、私を変えさせた言葉を吐いたのは紛れもなく彼女だ。
 淡音のお陰で変われたって、私は言いに来ただけなのに。何故逃げなくてはいけないんだろう。そう思うと、どうしても身体が動かない。逃げてはいけないように思えて、いや、淡音をもう見失いたくないと思ってしまう。
「淡音、本当に、私を?」
 身体が震えて、うまく声が出せない。多分皆にはすごく怯えた私の声が聞こえているんだろうなと思うと、すごく恥ずかしくて堪らない。誰にでも愛想よく、周囲に当たり前のように馴染んで、敵を作らずに過ごしてきた私が、今じゃこの体たらくだ。情けない。
 淡音は柔和な笑みを見せると真崎葵から私の下へとやってきて、そっと手を差し伸べてくれる。
「ほら、萌黄」
「若苗さん!」
 目の前で親友が手を差し伸べてくれているのに、これを拒否する理由なんてないじゃない。私はお礼を言いたくて彼女を探し続けていたのだから。
 私は、淡音の手を強く握りしめる。冷たくて、陶器みたいにあきめ細やかな肌に、私は怖いくらい充足感を覚えた。
「萌黄、手を取ってくれて、ありがとう」
 私の手を握り締めて、彼女はそっと微笑んでくれた。
「私は、淡音に、ありがとうって言いたくて、ずっと探してたの」
「ありがとう?」
「私を変えてくれたのは、淡音だから。淡音がいなかったら、私はずっと自分を曝け出すことが怖いままだったから……」
 私は、貴方のおかげでちゃんと自分を持つことが出来た。本心からの言葉だった。淡音はそんな私にそっと微笑みかけると――

――ずぶり、と身体が沈むのを感じた。

 時間もが止まったように感じられた。
 淡音も、真崎先生も、みどりも、皆止まって見える。意識だけが鮮明で、目の前で優しく微笑む彼女を見て、私はたった一言、絞り出すようにして言葉を吐き出した。
「……え?」
 下半身が生温い感触に包まれていくのを感じる。身動きが取れない。淡音との距離が離れていく。湖畔みたいな夜空が遠くに見える。
「私こそありがとう。こんな素敵なご馳走、そうありつけないもの」
 意地悪く微笑む淡音の顔を見て、何もかもが真っ白になった。空気でも掴むみたいに両手を振り回すが、何も支えになるものは無い。既に胸まで沈み込んで、生温い感触が私の身体にぴったりと張り付く。気持ちが悪い。出ないと危ない。どうにかしないと“淡音に食べられてしまう”。
 気がつくと必死に叫んでいる自分がいた。どれだけ叫んでも助けは来ない。先生は何をしているの。みどりは何もしてくれないの。他人を責めたくて堪らなくなる。
 けれど、やがてこうなったのは自分のせいと理解すると、私はどこか諦めが着いたように落ち着いてしまった。
 心が冷えて固まっていくのを感じる。もう視界は暗く塗りつぶされ、残った手もやがて飲み込まれてしまうだろう。
 私は、友達を信じたかっただけなのに。
 初めてできた友達を、信じきりたかっただけなのに。
 自分が変わったことを、見せたかっただけなのに……。
 掠れていく意識の中で、私は絵美の笑った顔を思い出す。会えて良かったと言ってくれた時の事が脳裏に浮かんだ。

 ごぼり、と私の口から泡が出た。
 その泡は粘液のように苦しいこの液体の中で真上に突き進むように浮かび、やがて私の前から消えていった。


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