32歳のとき、勤めていた大手企業の、常軌を逸した長時間労働と仕事の重圧からうつ状態になり、おれは会社を辞めた。その後独学でラーメン作りを学び、35歳で小さな店を開いた。37歳のときに7歳年下の由紀子と結婚、39歳のときに娘の沙希が生まれた。そして46歳の今、決して裕福とは言えないが、何とか家族3人で平凡な暮らしを続けている。
由紀子とはじめて出会ったのは真冬だった。夜10時半、おれの店にひとりの女が左足を引きずりながら入ってきた。それが由紀子だった。若い女だし閉店間際ということもあり、おれはチャーシューを2枚ほど多めにサービスしてやった。由紀子は大喜びし、「おいしい」を連発しながら食べた。客は由紀子だけ。明るい感じの由紀子とおれは、ポツリポツリと他愛もない話を交わした。以降由紀子は、コンビニでのアルバイトが終わる夜10時過ぎに、たびたび店に顔を出すようになった。おれたちは次第に親しくなり1年後に入籍した。
由紀子は高校2年の家族旅行で大きな事故に遭い、両親を失った。由紀子自身命は助かったものの、左足を粉砕骨折し、以来左足が不自由になってしまった。そして高校を卒業してからは、アルバイトを転々としながら一人で暮らしてきた。だが、そんな不幸の影は微塵も見せず、結婚後は朝から晩まで店を手伝い、その明るい性格が何人もの常連客を呼び寄せた。行列ができるわけでもなく、専門誌で紹介されるわけでもないこの店を、なんとか続けていられるのは、半分以上は由紀子のおかげだと思っている。
だがおれは、そんな由紀子を心の中でずっと裏切り続けている。それは倉田佳奈の幻影だった。佳奈はおれが会社にいたときの恋人だった。8歳年下の同僚で、清楚で美しい理想の女だった。しかしおれがうつ状態になるにつれて、佳奈の心は離れていった。そして会社をやめる間際、完全に別れを告げられた。それでもあきらめきれずに、来る日も来る日も電話とメールをし続けた。今で言うストーカー行為である。佳奈は警察に相談し、電話番号、アドレス、住所を変えおれの前から完全に姿を消した。
その後の佳奈の行方は一切知らない。だが、おれは15年経った今でも佳奈のことが忘れられずにいた。隣に寝ている由紀子の横で、おれは何度も何度も佳奈の夢を見た。
もっとも、人生とはそんなものなのかもしれない。誰もが、決して忘れられない激しい感情を心の中に押し込めながら、ささやかで平穏な毎日を過ごしている…。だがおれは、ときどき言いようのない不安に襲われることがある。店が潰れたらどうする?、無理が利かない年齢になったらどうやって食っていく?、沙希がラーメン屋の娘だと学校で馬鹿にされているのではないか?、由紀子はこんな脂くさく地味な生活に満足しているのか?…
不安は不安を呼び、次々と思考を暗闇に引きずり込んでいく。そして、たどり着く場所はいつもひとつ。「もしおれが、あの会社を辞めていなければ今頃は…」。おれは決まって、佳奈と家庭を持ち、経済的にも豊かな暮らしを送る自分の姿を、妄想の中に見るのだった。
ところがある日、そんな妄想が、信じがたい現象により現実の世界に姿を現すこととなった。その夜、店を閉めたあと、築30年の薄汚れた自宅に戻り、おれはいつものように店のブログを更新していた。襖1枚隔てた寝室では、由紀子と沙希が抱き合うようにして寝息を立てている。更新作業を終え人心地つき、ふとした好奇心から、かつて勤めていた会社の名前をPCの検索ウインドウに入力してみた。トップページには、会社名とともに、凛とスーツを着こなした若い男女が青空を指差す画像が映し出された。そしてふとその下の画面に目をやると…。
おれは愕然とした。そこには「新着情報-新役員紹介-常務取締役 高梨謙太郎」と記されていた。高梨謙太郎、それはおれの名だった。おれは、その名前に付されていたハイパーリンクをクリックした。画面が展開する。新たに開かれた画面に、写真付きで高梨謙太郎のプロフィールが表示される。
『…高梨謙太郎。国立帝都大学卒。1990年入社。主に衛星通信装置や携帯電話基地局など、無線通信機器の開発に従事。1998年に超小型マイクロ波通信装置「ドコデモン」の事業責任者として、新興国をはじめとした海外市場の開拓を敢行し…』。
それはまさに、入社以来おれが担ってきた業務そのものだった。そして、濃紺のスーツに身を固め、自信に満ち溢れ微笑む高梨謙太郎の顔写真の主は、おれだった。
そして何よりもおれの目を奪ったのは、高梨謙太郎の趣味を紹介する欄に掲載されていた一枚の写真だった。そこには雪山でスキーを履いた彼が、家族とともに写っていた。ピースサインの彼の横には、2人の子どもとともに、楽しそうに微笑む佳奈がいた。15年が過ぎても全く変わらない、いや、以前よりも輝きを増したといっても過言ではない、美しい佳奈の姿だった。
おれは、ブラウザやパソコン本体を何度も再起動した。だが結果は同じだった。このwebページの中で、おれと佳奈は夫婦になっていた。そこには、おれが今でも狂おしく求め続け、そして決して手に入れることができないすべての理想があった。
この不可解なホームページを発見してからというもの、おれは店が休みの日や由紀子と沙希が寝たあとに、この現象についてさまざまなことを調べた。そしてわかったことは、取締役の高梨謙太郎が表示されるのは、おれのパソコンだけだということだった。スマホを使って、外や家の中のほかの場所で同じURLにアクセスしても、会社のページは表示されるが高梨謙太郎の名はどこにも存在しない。ネットカフェや図書館にあるパソコンからアクセスしても同じ結果となった。さらに、おれのパソコンに高梨謙太郎が表示される時間帯は、深夜0時から1時の間に限られていた。それ以外の時間は、スマホや他のパソコンと同様、高梨謙太郎が表示されることはなかった。
そして、この限られた時間におれのパソコンに送られてくるインターネットの情報は、会社のページだけではなく、すべてが少しずつずれていた。現在の日本の首相は、野々村竜太郎という全く知らない人物だった。昨年のセリーグ優勝チームは横浜イーグルスで、CD売り上げ№1はSGM47、映画興行収入のトップは「アンナと夏の王子様」だった。
おれの頭に「パラレルワールド」という言葉が浮かんだ。時空の歪みにより、ある一定の時間だけ、おれのパソコンがもう一つの世界につながる。そしてその世界でのおれは、会社を辞めずに出世を果たし取締役になった…。そう考えるしか説明がつかなかった。おれが描き続けた妄想は、どこかに存在するもう一つの世界で、現実となっていたのだ。
その後おれは、来る日も来る日も高梨謙太郎のページにアクセスをし続けた。それが、理想を手中に収めた自分自身への嫉妬心を増幅させるだけの意味しか持たないと分かっていても、やめることはできなかった。そしてやがて、「あちらの世界に行くことはできないか?」という考えにとらわれるようになった。おれのパソコンが異世界につながっているのだとすれば、この家のどこか、モデムとパソコンの間の限られた空間のどこかに、異世界につながる入口があるはずだ。その入口の扉は、午前0時から1時の間に開く。入口を突き止めその扉をくぐれば、向こうの世界に行けるのではないか?だが、そう考えるたびにおれは首を振り、自分に言い聞かせた。-仮に向こうの世界に行けたとして、それでどうなる?ただ幸せそうな2人を目の当たりにするだけじゃないか。そこにおれの居場所なんてないじゃないか-。
だが、一度芽生えてしまったこの考えは、おれの頭の中をぐるぐると巡り、次第に抑えきれないものとなっていった。仕事に身が入らず、家族との会話も少しずつ少なくなっていった。そしてここ数日、由紀子と沙希が寝静まったのを確認してから、おれはパソコンとモデムの間の空間を手で探りながら歩き回るようになった。おれのパソコンが本当に異世界とつながっているのだとしたら、この空間のどこかに必ずその世界への入口があるはずだ。
そして5日目、ついに見つけた。それは1階の台所の隣にある納戸の中にあった。ハンガーに吊るされた洋服の間を縫って奥のほうに手を伸ばすと、消しゴムで消すように指先が消えていった。-この先に、もう一つの世界がある-。
翌日、恐る恐るその空間に顔を入れてみた。はじめて見る異世界。入口の向こうには暗闇が広がっていた。目が慣れると、ぼんやりと風景が見えてきた。そこは、古ぼけたブランコやジャングルジムが並ぶ、小さな公園だった。
さらに翌日、意を決して体ごと入口に入った。足が無人の公園の、小さな木の根元を踏みしめた。そしておれは、異世界に降り立った。
その数日後、組合の研修旅行だと由紀子に嘘をついて2日間の休みを作った。初日は由紀子に店を任せ、出かけるふりをした。それから家に戻り、由紀子が帰宅してから約1時間、納戸の中で息を潜めて待った。そして0時を迎えるとともに、向こうの世界へ行った。そして誰もいない公園に降り立ち、歩いた。深夜のため人通りはほとんどないが、繁華街に近いようだ。道を記憶しながらあてどもなく歩き続けると、やがて見慣れた風景が目の前に広がった。そこはおれが暮らす町からさほど遠くない私鉄のターミナル駅だった。別世界といえども何もかもが異なるわけではない。世界が分岐しても、同じ場所、同じ風景、同じ名前はあちこちに存在しているのだ。
おれは、コンビニやファーストフード店で朝が来るのを待った。やがて日が昇り、人々の雑踏が街にあふれ出した。おれはマスクをかけ帽子を被り、電車を乗り継いで目的の場所へ向かった。
ビジネス街にそびえ立つ巨大なビル。15年ぶりに、かつて勤めていた会社の前に立った。懐かしい思いと苦々しい思いが交錯する。あとは夜を待つだけだった。高梨謙太郎が帰宅する時間を。
午後9時、高級そうなスーツに身をまとった高梨謙太郎が通用口から出てきた。そして黒塗りの車に乗り込んだ。おれはすかさずタクシーを拾い後をつけた。約20分後、高級住宅街の、豪邸と言ってよい大きな家の前で、高梨謙太郎は車を降りその家の門をくぐっていった。
おれはタクシーを降り、しばらくしてからその家の前を通り過ぎた。大理石を施した大きな表札には、太い楷書体で「高梨謙太郎 佳奈 卓巳 結衣」と彫られてあった。
午後11時30分、おれは時空をつなげる公園に戻り、缶ビールを2本立て続けに飲んだ。そして0時、周りに誰もいないのを確かめて、再び時空を越え我が家に帰った。そして納戸からそっと足を踏み出し、いったん外に出てから、わざと大きな音を立てて玄関の扉を開けた。2階から由紀子が眠そうな顔で降りてきた。
「おかえりなさい。遅かったのね」。
「ああ、まいったよ。研修の帰りに、もう一杯飲もうって誘われちゃってさ」。
高梨謙太郎の家を突き止めてからというもの、おれにはもう、一つの道しか見えなくなっていた。同じ顔、同じ過去、同じ記憶…。そう、入れ替わればいい。悪魔の声がささやく。絶対に誰も気づかない。やつは紛れもないおれ自身なのだから…。とにかく、やつが一人のときを狙えばいい。向こうの世界に行って、時機を待つのだ。必ずチャンスはある。
しかし、由紀子と沙希はどうする?見捨てるのか?いや、大丈夫だ。由紀子なら一人でやっていける。いずれいい男だって見つけられるだろう。それに、おれが行方不明になれば、7年後には1億の生命保険がおりる。十分暮らしていけるはずだ。
-おれは、決心してしまった-。
その夜が来た。
狭い部屋で今日も、由紀子と沙希は抱き合うように眠っている。由紀子、沙希、ごめんな…。心の中でそうつぶやき、おれはそっと襖を閉めた。そして、ほんの数メートル先にある異世界への扉に向かって一歩足を進めた。そのとき、静かに襖が開いた。由紀子が立っていた。
「パパ、行くのね?」
「由紀子、何で?」
「知っていたの。ずっと様子が変だったから…。パパがいないとき、パソコンの閲覧履歴見て。パパが入口を見つけたことも知ってた。最初はすごく驚いたけど、パパが何を考えているかも、だんだん分かってきた」。
「怒らないのか?」
「ずっと不安だったわ。パパが私たちを見捨てて、向こうの世界に行ってしまったらどうしようかって。パパがいないときに、パソコンもモデムも壊してしまおうかって思ったこともあった。そうすれば、時空の裂け目も消えるかもしれないって」。
「壊せばよかったんだ。そうすれば…」
由紀子は静かに首を振る。
「ねえ、はじめてパパと会った日のこと、覚えてる?」
「もちろん」。
「じゃあさ、あの夜私が、死ぬつもりだったってこと、知ってた?」
おれは耳を疑った。
「衝撃の事実でしょ?…ずっといいことなくてね。生活も苦しかったし。寒くなるとね、左足がものすごく痛くなって。もう死んでもいいかなって思ったの。でも最後に、大好物のラーメン食べてから死のうかなって。どんなときも私、食欲だけはあるのよね。いやになっちゃう。それで、ラーメン屋さんならどこでもいいやって思って、バイトの帰りにたまたま通りがかったお店に入ったの。そしたらパパがいて、とても親切にしてくれて。すごくうれしかった。それで、もう少し生きてみようかなって気持ちになったの。もう少し生きて、またこのラーメン屋さんに来たいなって、思ったの」
返す言葉が、見つからなかった。
「ねえパパ。私はパパと出会えて、本当に幸せだった。パパは私を暗闇の世界から救ってくれたんだよ。そしてずっと、私と沙希のためにだけに生きてくれた。だからね、もしパパがこの先、自分の幸せのために生きようと決めたのなら、笑顔で見送ってあげようって思ったの」。
「沙希のことはどうする?」
「あの子だって、きっと同じように思っているわ。大丈夫、沙希はパパの子だもの」。
「本当に、すまん…」
おれは目を閉じ、もう一歩先に足を進めた。振り返ると、由紀子は静かに微笑んでいた。
その瞳から、一筋の涙がこぼれた。
そのとき、おれの中に数え切れない家族の思い出がよみがえった。
はじめておれのラーメンを食べたときの由紀子の笑顔、
沙希の産声を聞いた日、
お笑い番組で、家族3人腹を抱えて笑った夜…、
二人で小さな店を支えあった日々…、
おれの目から、とめどなく涙があふれた。
そして振り返り、歩み寄って由紀子を抱きしめた。
なぜ気づかなかったのだろう。こんな簡単なことに。
二度と離さない。そうだ。幸福は、ここにある。
<一か月後>
「パパ、早く来てね」
「おう、店が終わったらすっ飛んでいくからな。先にゆっくりママと温泉に入ってるんだぞ」
由紀子と沙希は手を振って家を出て行った。久しぶりの家族旅行のため、明日から2日間店を休むことにした。おれは今日1日店を開けて、閉店後に駆けつけ、宿で由紀子と沙希に合流する予定だ。パソコンとモデムはズタズタに壊して処分した。納戸の奥の時空の裂け目は、それとともに消えてなくなった。
おれは店に来て、開店の準備をするため大きな寸胴に湯を沸かし始めた。そのとき、背後にふと気配を感じて振り返った。そこには、髪とひげを伸ばし放題にし、ボロボロの服を着た中年の男が包丁を持って立っていた。
そうか。おれは一瞬にして悟った。世界は2つだけではなかった。3つ目の世界のおれは、由紀子と出会ってはいなかった。うつ病で会社をやめ、その後はただ転落するばかりだった。その男の風体、服装を見れば容易に想像がつく。そいつは、そいつの住む世界で偶然おれの店のブログを見つけた。そして時機を伺い今ここにたどり着いた。
おれと同じ顔をしたそいつは、おれの前でニヤリと笑った。
おれは目を閉じて言った。
「どうか、由紀子と沙希を幸せにしてやってくれ」。
その言葉と同時に、おれの視界は永遠の闇に閉ざされた。
<END>