穢れに捧げ、癒し歌:8
―――――
「刳!」
円錐形の水が回転し、魚人の胴体を貫く。
身体を肉塊と言えるほどまでに崩し、ようやく魚人の動きが止まった。
しかし海からは次から次へと新たな亡者が現れ来るようだ。
それを認めたウルフバードはちぃ、と舌打ちをする。
埒が明かないのだ。
中途な攻撃では魚人の身体は再生する。しかし一体一体に全力を傾けていてはこちらの消耗が激しい。
自分に体力がないのは承知の上だ。だからこそビャクグンを連れているというのに、今回はビャクグンの剣が全く機能していない。
そもそも接近戦自体するべきではないと思われる。
フロスト曰くあの黒い魚人に体を食われたものが、同様に全身黒くなり人々を襲いだしたということだからだ。
故に彼は現在剣の衝撃波というそれはもう人間離れした方法で魚人たちを退けているのだが、決定力に欠ける。
そして、目の前のエルフ女は魚人を凍りつかせることしかしない。せめて広範囲を凍らせてほしいものだが、津波から交易所を守ったその直後でそれはないものねだりだろう。
要するに、相当不利。ウルフバードの頬ににじむ汗は冷や汗だ。
事実、彼らは徐々に後退をしている。既に何体かの亡者は交易所の奥へと歩を進めている。
「おい、エルフ女。お前、この腐敗物共を消滅させられないのか!?」
「無理言わないでくれるかしら…ッ!」
唸るようにフロストは返した。ウルフバードと彼女の視線が何度目になるだろうか、交差する。
目の前の魚人を氷漬けにしながら言い放つ。
「私は氷魔法が専門なのよ!文句言うならあなたがこいつら焼き払ったらどうッ?」
そう言われたウルフバードはその場の3人を包み込むように水の障壁を作り出した。
飛び掛かって来た魚人たちはその激流に阻まれ体を崩す。
「…俺は生憎水魔法しか使えないんでな。魔法に長けたエルフ様にこうやって期待してる訳なんだが」
「それは残念だったわね…ッ」
フロストがウルフバードの背後の魚人を凍結させる。
そうして辺りを見回す。
再びの緊急事態にさきほど津波を防いだ魔法使いをはじめ、今度は剣と盾を持った兵士も駆けつけている。
が、戦況は不利。
物理的な近接攻撃は推奨され得るものではないし、魔法使いたちは津波への対処で魔力を消費している。
「どうしたもんかねこりゃ…」
こうなるなら駐屯所でゆっくり休んでいるんだった、とぼやきながらウルフバードが水を集め刃へと姿を変える。
「大体、こいつらが何者なのかが全く分からないから困るのよッ!」
「確かにな。正体さえわかれば対処のしようもあるってもんだ。…アルフヘイムの魚人とは全く違う奴らってことか」
「……確かに魚人とは違う」
ウルフバードはフロストの口ぶりに引っ掛かりを覚えた。
「…心当たりがあるのか?」
立ち止まったウルフバードをフロストが顧みる。
それまでの怒りとは違う緊張に満ちた視線がウルフバードを刺した。
戦場ながらもエルフとの間に奇妙な空気を共有してしまったウルフバードはしかし、続きを促す。
「…アルフヘイムの沿岸部、お前たちの国が戦争末期に占領していたあの土地。その一帯に禁断魔法が放たれたのは知ってるわね?」
「あぁ」
「その禁断魔法によってその地は不毛の地となってしまった。あの魚人たちみたく、恐ろしいほどの黒に染まって…」
フロストは目を伏せ、ウルフバードは軽く目を見開いた。
「…同じ、黒なのか」
「えぇ、嫌でもわかるわ」
心臓を凍てつかせる黒。死を予感させる黒。本能が忌避を叫ぶ黒。
それがこうして目の前で蠢いている。
誰もが恐怖を押し殺しつつ戦っているに違いない。
フロストの言葉を考えつつウルフバードは辺りを見回した。
「…考えるべきことが多いがそれ以上にこの魚人共が多いな…」
「しかし、最低限交易所の人々の避難が完了するまでは我々で彼らを食い止めねばなりません」
ビャクグンがそう反応し、ウルフバードはため息をついた。
「乗りかかった船は泥船だったな…」
「あら、あなた1人で帰ってもいいのよ?別に私たちは皇国の人間の助けなんて必要としていないもの」
「そういう言葉は…刳!」
水の刃が回転しフロストの死角の魚人を貫いた。
「…1人でこいつらを一掃できるようになってから使うんだな」
そうフロストを見下ろしたウルフバードの頬を氷の刃が掠めていく。その刃はウルフバードにむけて斧を振り上げていた黒い兵隊の右肩を貫き、兵隊の右腕は一時的に地面へと落下した。
「そんな風に人の世話を焼く暇があったら自分の心配でもしてなさいッ!」
「あぁそうかい」
そうして背中合わせに黒い亡者たちを相手取る。
先ほどから何度もお互いを助けているのだがそれをわざわざ意識するような2人ではない。
そんな彼らを横目にやりつつ、ビャクグンは脳内でハナバと会話を続けた。
(ハナバ、報告所への避難者は?)
(それなり…ってところかな。もうここまで数体…数人なのかな、やって来てるよ…あっ、でもこっちにも護衛はいるから大丈夫だよ!)
(…そうか。ニフィル殿との連絡は?)
(…交信は続けてるんだけど向こうも会話を続けてる状態じゃないみたいだよ…)
(…)
海に現れたという巨大な怪物の話を思いだしビャクグンの太刀筋に力がこもった。
戦っているのはこちらだけではない。
彼の懸念が伝染したかのようにフロストもニフィルのことを唐突に思い浮かべた。
「…こんなところで…ッ!」
負けるわけにはいかない。きっとニフィルさんたちは帰ってくる。
その時に交易所をこんな亡者どもで埋め尽くさせてたまるかものか。
――――
「撃ぇーっ!!」
勇ましい号令と共に大砲が火を噴く。
皇国の最新鋭の大砲だ。これを凌ぐ威力の大砲は存在しない。
砲撃が怪物に直撃する。
致命傷ではないだろうが、白濁した表皮がぐちゃりと破れ、黒い体液のようなものがあふれ出す。
「こんなものか…」
ペリソンは忌々しげに舌打ちをした。
いくら最高峰の武装といえども、敵の規模が違う。これでは埒が明かない。
彼は背後に控えていた士官に尋ねた。
「ホロヴィズ最高司令官の艦は?」
「既に危険水域を脱し、現在は皇国領海域ということです」
「そう、か…」
甲皇国のミシュガルド大陸調査司令の無事は一応のこと確保されているらしい。
ならば我々も早急にこの海域を脱出した方が良いだろうと考えた時だ。
ペリソンの頭に引っ掛かるものがあった。
「…迅速……すぎないか…?」
そう、早すぎる。
将軍が乗り込んだ艦はこちらの予想に反して黒い海海域に向かって真っ直ぐに進行していた。
強硬手段か何か策があったのかは知らないが、いずれにせよ黒い海に接近していたのであれば、SHWの艦隊のように拡大したその黒い海域に飲み込まれて操舵不能に陥るなり、怪物によって轟沈するなりしていたとしても不思議ではない。むしろそれが自然だ。
それが、既に甲皇国海域まで辿り着いているとはどういうことだ。
「…まるで…いや…」
ペリソンはそれを口にはしない。聞かれでもすれば不敬にあたりかねない。
が、心中では確信のようにその言葉が渦巻いていた。
――まるでホロヴィズ将軍は、怪物が現れることを知っていて、その上で行動をしていたようではないか。
「…なんてことだ」
本国から派遣した艦隊が到着するころには、ミシュガルドSHW海域に展開していた艦隊が壊滅状態に陥っていた。
それを知らなかったヤーではない。魔法陣による通信が既にほとんど途絶えていたからだ。
だがそれを改めて目の当たりにすると、さしものSHW大社長も言葉を失った。
アルフヘイム代表ダート・スタンとの話し合いの中で派遣が決定した艦隊にも通信魔法陣を展開させ、ようやく現場を落ち着いて見ることができたのだ。
彼の目に飛び込んできたのは天高くそびえ立つ灰色の物体。それが件の怪物であると理解するのに少々の時間を要した。
怪物の周囲は黒い荒波が暴れており、その波の中に艦の残骸が見て取れた。
「…考えろ」
この状況から脱するために何をすればよい。
この脅威から逃れるために何をすればよい。
様々な可能性と戦略が彼の頭を駆ける。
そうして彼はおもむろに口を開いた。
「…あの怪物はどこに向かっている?」
「……非常に緩慢な動きではありますが、恐らくこのまま行くと…ミシュガルド大交易所に…」
口にするのもためらわれるような予想。蒼白になりながら魔法陣に映る乗組員はヤーに応えた。
「…そうか」
大交易所。
ミシュガルド大陸の玄関口であり、中心。
人間も亜人も、甲皇国もアルフヘイムもSHWも入り混じる世界の凝縮。
「…だからこそ、どの国も日和見という訳にはいかない」
ヤーは怪物を目にしたその時から1つ結論を出していた。
即ち、これはSHWの船団をもってしてもどうしようもないということである。
艦隊戦の域を超えている。人間の兵器で状況が打開できるわけがない。
――ならば、人智を超えた術を持つ者たちの力を利用する他にはない。
アルフヘイム艦隊はSHW領海へ進行し、黒い海に限りなく接近して怪物に攻撃を開始していた。
「――世界を包む炎の意思よ、我が手に宿りたまえ。願わくばその加護、その恵み、分け与えたまえ…!」
甲板に立ったエルフが呪文を唱え、炎弾が怪物へ放たれる。
が、その皮膚が焼けることはなく、何事もなかったかのように怪物は耳障りなその鳴き声を発し続ける。
あまりにも効き目がない。
「…やはり、水の性を持っているのですね」
その様子を見ていたニフィルは忌々しげにそう呟いた。
隣に立っていたダートが彼女を仰ぎ見る。
「…やはり、とは彼奴が海中から現れたからということかの」
「それもあります」
奥歯にものの挟まったその言いぶりを追及しようとするダートを差し置き、ニフィルは自らの魔力を解放した。
無言で怪物の方向へ手をかざす。
怪物の動きが止まった。不可視の壁で行く手を遮られているようだ。
うめき声をあげながら無理やりに突破しようと体を動かす。
「…っ、長くは保ちそうにありませんね」
ミシュガルド大陸アルフヘイム領に施された結界魔法と同類の魔法。
外からの脅威に備えるのではなく、内側からの脅威を封じるためのものだ。
ニフィルはアルフヘイム艦隊全体に声を飛ばした。
「私が結界で時間を稼いでいる間に少しでもあれに攻撃を!結界は私たちの魔法だけは通すようになっています!炎系統の魔法は効果が薄いようです、気をつけてください!」
その言葉に応じて魔道士たちの攻撃が怪物に放たれ始める。
1つ1つは小さな魔法ながらも、集中砲火を受けるとさすがに無視できないらしく、怪物は大音響をたてながら身をよじり、そしてアルフヘイムの艦隊に狙いを定めた。
大仰な動きで軟体生物に似た腕を振り上げ、艦を沈めんと海面に叩きつけようとする。
しかし、ニフィルの織りなした結界に阻まれその攻撃は宙で止まる。が、不可視の壁が大きく撓んだことに誰もが気づいた。
「ぐぅ…っ」
衝撃に対する修復はニフィルの魔力をもって行われる。
衝撃が強ければ強いほど、彼女の力は消耗していくのだ。
思わず膝をつく。この一撃を耐えることができたのもニフィルだったからと言うほかない。他の者の魔法では既にアルフヘイム艦隊は壊滅していただろう。
魔道士たちがニフィルのもとへ駆け寄る。
彼女は気にするなと、気丈に立ち上がった。
オツベルグとジュリアはその様子を艦内から眺めていた。
落ち着きなく歩き回りながらオツベルグは唇を噛む。
「…何か私たちにできることはないのでしょうか?このまま何もせずに指をくわえているだけなんて…!」
本気で力に慣れないことを悔やんでいるようだ。
ジュリアはため息をつきながら首を横に振った。
「無理ですわ。私たちには何の力もないですもの」
「……なら、このまま何もせずにただ指をくわえていろと!?」
「言葉を返すようですが、なら我々に何ができるというのです。今は事態の推移を見守る他ありますまい」
「…そんなこと私は認めません!こうなったら私のポエムとタンバリンで――」
「――乙家のお二方」
本気でリズムを刻み始めたオツベルグをジュリアが止めにかかろうとした時だ。
落ち着いた声が操舵室に響き、魔法陣が現れた。中央からはヤーの顔が出現している。
「ヤー・ウィリー様!」
ジュリアが反応した。この緊急事態故に、亜人ばかりが乗り込む船内で同族の顔を見ただけで不思議と安堵が心に広がる。
ヤーはジュリアに尋ねた。
「今そこにはお2人が?」
「ええ、乗組員たちはあの化け物の迎撃で外ですわ」
「そうですか…緊急で話し合いの場を設けたいんです。ダートさんだけでも連れて来ていただけますか?」
「私が行きましょう!」
ヤーの言葉に即座に反応してオツベルグが駆けた。
あまりの反応の速さにヤーは少し苦笑して見せる。
「…彼も不安なようですね」
「…不安ですし…不満なんですわ。自分が何もできないことに」
ジュリアの答えにヤーは深く頷いた。
「分かりますよ。何もできないのが歯がゆいその気持ちは」
「…あら、SHW大社長にして艦隊戦の天才であるヤー・ウィリー様でもそんな経験がありますの?」
その言葉に彼は再び苦笑した。
「所詮は無力な人の身です。こんなこと、いくらでも痛感してきましたよ」
「撃ぇーっ!!」
勇ましい号令と共に大砲が火を噴く。
皇国の最新鋭の大砲だ。これを凌ぐ威力の大砲は存在しない。
砲撃が怪物に直撃する。
致命傷ではないだろうが、白濁した表皮がぐちゃりと破れ、黒い体液のようなものがあふれ出す。
「こんなものか…」
ペリソンは忌々しげに舌打ちをした。
いくら最高峰の武装といえども、敵の規模が違う。これでは埒が明かない。
彼は背後に控えていた士官に尋ねた。
「ホロヴィズ最高司令官の艦は?」
「既に危険水域を脱し、現在は皇国領海域ということです」
「そう、か…」
甲皇国のミシュガルド大陸調査司令の無事は一応のこと確保されているらしい。
ならば我々も早急にこの海域を脱出した方が良いだろうと考えた時だ。
ペリソンの頭に引っ掛かるものがあった。
「…迅速……すぎないか…?」
そう、早すぎる。
将軍が乗り込んだ艦はこちらの予想に反して黒い海海域に向かって真っ直ぐに進行していた。
強硬手段か何か策があったのかは知らないが、いずれにせよ黒い海に接近していたのであれば、SHWの艦隊のように拡大したその黒い海域に飲み込まれて操舵不能に陥るなり、怪物によって轟沈するなりしていたとしても不思議ではない。むしろそれが自然だ。
それが、既に甲皇国海域まで辿り着いているとはどういうことだ。
「…まるで…いや…」
ペリソンはそれを口にはしない。聞かれでもすれば不敬にあたりかねない。
が、心中では確信のようにその言葉が渦巻いていた。
――まるでホロヴィズ将軍は、怪物が現れることを知っていて、その上で行動をしていたようではないか。
「…なんてことだ」
本国から派遣した艦隊が到着するころには、ミシュガルドSHW海域に展開していた艦隊が壊滅状態に陥っていた。
それを知らなかったヤーではない。魔法陣による通信が既にほとんど途絶えていたからだ。
だがそれを改めて目の当たりにすると、さしものSHW大社長も言葉を失った。
アルフヘイム代表ダート・スタンとの話し合いの中で派遣が決定した艦隊にも通信魔法陣を展開させ、ようやく現場を落ち着いて見ることができたのだ。
彼の目に飛び込んできたのは天高くそびえ立つ灰色の物体。それが件の怪物であると理解するのに少々の時間を要した。
怪物の周囲は黒い荒波が暴れており、その波の中に艦の残骸が見て取れた。
「…考えろ」
この状況から脱するために何をすればよい。
この脅威から逃れるために何をすればよい。
様々な可能性と戦略が彼の頭を駆ける。
そうして彼はおもむろに口を開いた。
「…あの怪物はどこに向かっている?」
「……非常に緩慢な動きではありますが、恐らくこのまま行くと…ミシュガルド大交易所に…」
口にするのもためらわれるような予想。蒼白になりながら魔法陣に映る乗組員はヤーに応えた。
「…そうか」
大交易所。
ミシュガルド大陸の玄関口であり、中心。
人間も亜人も、甲皇国もアルフヘイムもSHWも入り混じる世界の凝縮。
「…だからこそ、どの国も日和見という訳にはいかない」
ヤーは怪物を目にしたその時から1つ結論を出していた。
即ち、これはSHWの船団をもってしてもどうしようもないということである。
艦隊戦の域を超えている。人間の兵器で状況が打開できるわけがない。
――ならば、人智を超えた術を持つ者たちの力を利用する他にはない。
アルフヘイム艦隊はSHW領海へ進行し、黒い海に限りなく接近して怪物に攻撃を開始していた。
「――世界を包む炎の意思よ、我が手に宿りたまえ。願わくばその加護、その恵み、分け与えたまえ…!」
甲板に立ったエルフが呪文を唱え、炎弾が怪物へ放たれる。
が、その皮膚が焼けることはなく、何事もなかったかのように怪物は耳障りなその鳴き声を発し続ける。
あまりにも効き目がない。
「…やはり、水の性を持っているのですね」
その様子を見ていたニフィルは忌々しげにそう呟いた。
隣に立っていたダートが彼女を仰ぎ見る。
「…やはり、とは彼奴が海中から現れたからということかの」
「それもあります」
奥歯にものの挟まったその言いぶりを追及しようとするダートを差し置き、ニフィルは自らの魔力を解放した。
無言で怪物の方向へ手をかざす。
怪物の動きが止まった。不可視の壁で行く手を遮られているようだ。
うめき声をあげながら無理やりに突破しようと体を動かす。
「…っ、長くは保ちそうにありませんね」
ミシュガルド大陸アルフヘイム領に施された結界魔法と同類の魔法。
外からの脅威に備えるのではなく、内側からの脅威を封じるためのものだ。
ニフィルはアルフヘイム艦隊全体に声を飛ばした。
「私が結界で時間を稼いでいる間に少しでもあれに攻撃を!結界は私たちの魔法だけは通すようになっています!炎系統の魔法は効果が薄いようです、気をつけてください!」
その言葉に応じて魔道士たちの攻撃が怪物に放たれ始める。
1つ1つは小さな魔法ながらも、集中砲火を受けるとさすがに無視できないらしく、怪物は大音響をたてながら身をよじり、そしてアルフヘイムの艦隊に狙いを定めた。
大仰な動きで軟体生物に似た腕を振り上げ、艦を沈めんと海面に叩きつけようとする。
しかし、ニフィルの織りなした結界に阻まれその攻撃は宙で止まる。が、不可視の壁が大きく撓んだことに誰もが気づいた。
「ぐぅ…っ」
衝撃に対する修復はニフィルの魔力をもって行われる。
衝撃が強ければ強いほど、彼女の力は消耗していくのだ。
思わず膝をつく。この一撃を耐えることができたのもニフィルだったからと言うほかない。他の者の魔法では既にアルフヘイム艦隊は壊滅していただろう。
魔道士たちがニフィルのもとへ駆け寄る。
彼女は気にするなと、気丈に立ち上がった。
オツベルグとジュリアはその様子を艦内から眺めていた。
落ち着きなく歩き回りながらオツベルグは唇を噛む。
「…何か私たちにできることはないのでしょうか?このまま何もせずに指をくわえているだけなんて…!」
本気で力に慣れないことを悔やんでいるようだ。
ジュリアはため息をつきながら首を横に振った。
「無理ですわ。私たちには何の力もないですもの」
「……なら、このまま何もせずにただ指をくわえていろと!?」
「言葉を返すようですが、なら我々に何ができるというのです。今は事態の推移を見守る他ありますまい」
「…そんなこと私は認めません!こうなったら私のポエムとタンバリンで――」
「――乙家のお二方」
本気でリズムを刻み始めたオツベルグをジュリアが止めにかかろうとした時だ。
落ち着いた声が操舵室に響き、魔法陣が現れた。中央からはヤーの顔が出現している。
「ヤー・ウィリー様!」
ジュリアが反応した。この緊急事態故に、亜人ばかりが乗り込む船内で同族の顔を見ただけで不思議と安堵が心に広がる。
ヤーはジュリアに尋ねた。
「今そこにはお2人が?」
「ええ、乗組員たちはあの化け物の迎撃で外ですわ」
「そうですか…緊急で話し合いの場を設けたいんです。ダートさんだけでも連れて来ていただけますか?」
「私が行きましょう!」
ヤーの言葉に即座に反応してオツベルグが駆けた。
あまりの反応の速さにヤーは少し苦笑して見せる。
「…彼も不安なようですね」
「…不安ですし…不満なんですわ。自分が何もできないことに」
ジュリアの答えにヤーは深く頷いた。
「分かりますよ。何もできないのが歯がゆいその気持ちは」
「…あら、SHW大社長にして艦隊戦の天才であるヤー・ウィリー様でもそんな経験がありますの?」
その言葉に彼は再び苦笑した。
「所詮は無力な人の身です。こんなこと、いくらでも痛感してきましたよ」
――――
「アンネリエーっ!!」
叫ぶ。
しかしその必死の叫び声は人々の狂乱にかき消されてしまう。
「どこに行ったんだよ…!」
焦りのあまり無意味なまでに辺りを見回す。交易所を走り回って肺が焼けそうだ。
ケーゴにも状況はわからない。ただ、何か交易所に化け物がやって来て非常に危険であるということだけは理解している。
だから駆ける。だから叫ぶ。
「マスターケーゴ」
人の波をかき分けるケーゴの肩にピクシーが舞い戻った。
「どうだった?」
「私が報告するところによれば、アンネリエ様の姿をこの交易所内で発見することはできませんでした。第二優先順位に設定されていたベルウッド様も同様。私が予想するところによれば、屋内に退避したのではないかと」
「…そうか」
安堵半分、心配半分。
先ほど頭に響いた声を思い出す。
もしかしたらもう既に報告所に避難しているのかもしれない。
ケーゴはそう自分に言い聞かせようとぐっと拳を握った。
大丈夫だ。きっとアンネリエなら大丈夫。
「…交易所に一体何が現れたんだ?」
「私が観察したところによれば、先日交戦した人魚と同様に全身が黒く、正体不明の魔力に覆われた者たちです。先日マスターが交戦した人魚と同様の特徴を持っており、非常に危険な存在であると認定。その数は数百。襲われた者も同様に全身が腐敗したように変貌を遂げ、人々を襲い始めるようです」
「…ってことは数が増えていくってこと?」
ケーゴの頭にアンネリエがそうなってしまったら、と嫌な予想が沸き起こる。
「その通りです。現在南門付近で警備隊をはじめとした部隊がそれらと交戦中。取りこぼした者たちが交易所の内部にまで侵入しています。ただし家屋に侵入しようとする意思はみられません。――今のところは」
「今のところ…!?」
ピクシーはこくりと頷いた。
「私が観察したところによれば彼らは動いている者を狙うようです。今現在は外に人々がいるためそちらに狙いが定められていますが、全員が避難完了した後に彼らがどのような行動に移るかは予測が不可能です」
「…っ」
早くアンネリエに会って安心したい。
体を固くするケーゴの肩でピクシーが突然警告を発した。
「なっ、何だよ!?」
「マスターケーゴに警告。正体不明の魔力をもったものがこちらに接近中。数は5」
「5体…!」
すぐさまケーゴは反対方向へと駆けだした。
「ピクシー、ここから報告所への最短ルートを頼む!」
「了解。私が先行します。ついてきてください」
ピクシーの後を走りながらもケーゴはできるだけ辺りを見回す。
気づけば周囲の人々と逆方向へ走っている。
恐らく皆交易所を守るために南門に向かっているのだろう。
加勢する訳にはいかない。
今はアンネリエが先だ。
津波の時は津波を止めなければ皆死んでいた。それにアンネリエにはベルウッドもピクシーもついていた。
だが今は違う。アンネリエの安否が全くの不明なのだ。化け物の相手をしたって何の解決にもならない。
「アンネリエ…っ!」
焦燥が彼の足を加速させる。焦燥が彼の足をもつれさせる。
転び、ぶつかりながらもケーゴは報告所へ急いだ。
と、そこでピクシーが急停止した。
「どうしたんだよ!?」
そう頭上に叫ぼうとしたが、接近したピクシーに口をおさえられる。
そのままぐいぐいとピクシーはケーゴを押す。
事態を察したケーゴが物陰に身を隠す。
全力疾走した分心臓がうるさい。
汗が流れる。体が熱い。
なんとか息だけでも整えようとしていたその時だ。
聞こえた。
生者のものとは思うえない呻き声。
べちゃりべちゃりと不愉快な足音。
必死に息を止めて気配を殺す。
ピクシーも肩で完全に動きを停止させている。
次第に音が大きくなってくる。胸が爆発しそうだ。
ケーゴはそろりと短剣に手をかけた。
そうしてちらりと物陰から顔を覗かせる。
全身が黒く腐食した獣人だ。ただ、その服には見覚えがある。
「…っ」
得も言われぬ気持ち悪さが腹の底からわき起こる。
思わず手で口をおさえる。
音を立てないように、気取られないように必死に吐き気と戦う。
ピクシーが警鐘を鳴らした。
「こちらに向かってきています。マスターケーゴ、直ちに移動を」
その言葉に動揺したケーゴは今度こそ吐いた。
むせながらも走りだし、そして転んだ。余計にむせる。
つんのめるようにしてまろび立ち上がり、そうしてケーゴはついその亡者を顧みてしまった。
間違いない。よく交易所で見かけた花屋を営んでいた獣人だ。
ピクシーの報告通り、化け物に襲われて自らもその姿に変貌してしまったのだろう。
短剣は抜けなかった。ただ走った。
ただただがむしゃらに走った結果、大通りに出てしまった。
慌てて立ち止まったが既に遅い。ケーゴの目の前には3体の黒い魚型亜人が獲物を求めて徘徊していて、しっかりと彼らに視認されてしまった。
背後からは緩慢ながらも獣人が追いかけてきているはずだ。
「マスターケーゴ、私が戦略を通達するに彼らの動きは緩慢です。魔法弾で注意を引きつつ彼らから逃げる他ありません」
「それ戦略かよ…!」
息も絶え絶えに応える。走って吐いて、体力的にも精神的にも無理がきているのだ。
それでもケーゴは短剣を構える。
全く顔を知らない魚人の方がまだやりやすい。
だが、彼らもまた被害者なのかもしれない。
一瞬、そんな考えが頭をよぎる。
「マスター!」
ピクシーの叱咤で目を覚ましたかのようにケーゴは目を見開く。
魚人がこちらへ手を伸ばしていた。
右足を軸に半身それをよけ、右脚で地面を蹴る。
僅かながら魚人たちと距離をとったケーゴは短剣に炎を纏わせ振り下ろした。
斬撃は炎の衝撃波となって魚人を襲う。
しかしあまり効果的ではないらしく、魚人たちは体を燃やしながらも歩を進めた。
「んなっ!?」
思えば昨日の人魚にも全力の炎を受け止められたのだ。
「注意を引きつけるどころか、全力で叩かないと駄目みたいだ…!」
「炎があまり有効でないようです。マスター、このままクノッヘン通り方面へ」
ピクシーの言葉に従いケーゴが一歩退いたその時だ。
「はぁああああああああああああっ!」
勇ましい声と共に魚人が横一文字に分断された。
黒い胴体はぐしゃりと地面に落ち、そうして背後から彼らを切った者の姿が明らかになる。
鎧と言うにはあまりにも軽装だ。羽織るマントは青く、切れ長の目は獲物を仕留めてもなお鋭い光を放っている女性。
その光景にケーゴが圧倒されていると、曲がり角から薄橙色をした鉄塊が現れた。
「もう!ラナタ、急に走り出して私を護衛する気はありますの?」
鉄塊には手足が生えていて、中から少女が顔を覗かせている。これは何かの機械なのだろうかとケーゴは考えた。
ラナタと呼ばれた剣士はその薄橙色の機械に収まる少女の方へ振り返り、答える。
「申し訳ありません、しかしいずれにせよ露払いは必要でした」
にこりともせずに告げるラナタに対して少女は頬を膨らませる。
「確かにそうですけど…」
2人がやり取りをしている間にケーゴが走ってきた通りから亡者がようやく現れた。
「…っ、あいつまだ…!」
下手に相手を知っているせいで攻撃もしにくい。
躊躇う少年をよそにラナタはすぐさま剣を構えた。
息を飲むケーゴ。彼女は背中越しに尋ねた。
「この化け物はお前の知り合いだったのか?」
「知り合いと言うほどではなかったけど…」
ただ、顔は知っている。
「なんだその程度。ならくだらない情は捨てて今から私がこの化け物を殺すところをしっかりと見ていろ」
そんなケーゴの逡巡をラナタは切り捨てた。
衝撃を受け、ケーゴは言い返す。
「んなっ、化け物って…殺すだなんて!」
「それ以外にない!」
断言し、ラナタは踏み込んだ。
一瞬の内に彼女の剣は亜人を縦に裁断する。
ぐしゃりと分断され地面に倒れた獣人からケーゴは目をそらす。
ラナタは斬られた亜人を見下ろしながら吐き捨てるように言う。
「元に戻す方法はない。こうやって殺してもすぐにまた再生して人々を襲う。…メルタ様お手をお借りします」
「まっかせっなさーい!」
機体の中で意気揚々とメルタと呼ばれた少女は機械の腕を亡者に向ける。既に亡者たちの身体は粘液のように流動し、分断されたその胴が繋がり合おうとしている。
「メルタ☆バーナー!」
叫ぶと同時に腕から火柱が噴き出る。それを再生しようとする亡者たちに浴びせる。
抵抗することもできず魚人も獣人も焼かれ続けた。
嫌な臭いが充満する。
「お尋ねしてもよろしいですか」
無機質な目でそれを見続けるラナタにピクシーが尋ねた。
「…甲皇国の情報デバイスか?……なんでお前がこんなものを持ってるか知らないが、とりあえず話を聞いてやる」
「私が質問を投げかけるに、彼らに炎は有効なのですか?先ほど私のマスターが炎を用いた時にはあまり有効ではないようでしたが」
「確かにこいつらに炎は効きにくい。だからこうして動きを止めた時に一気に焼き尽くす」
「こうして灰になるまでしてようやく脅威でなくなるんですのよ!400年ほど前に皇国で蔓延した黒死病に対しても最終的にはこうして病死者や鼠を焼いて解決を図ったと習いましたわ!歴史に学び、今を生き、未来に託す!これぞ我らが国家の在り方ですわ!」
「動きを止めてから…か。この短剣じゃ無理かもな…」
自らの得物を眺める少年に対しラナタは冷たく告げた。
「いずれにせよお前には無理だ。少しの顔見知りを斬ることに躊躇しているようでは、な。この先お前のよく知る者が化け物になって現れたらお前は何ができる?ただむざむざと殺されて奴らの仲間入りをするというなら、今ここでお前を始末した方がいいくらいだ」
一言一言が胸に刺さる。
噛みつくことのできない正論だ。何も言い返せずケーゴは目を伏せた。
目の前の現実を理解はできる。しかし、それを受け止めることができるほど彼は達観も諦観もしていないのだ。
火炎放射を亡者に放ちながらもメルタが苦笑を見せる。
「まぁまぁ、ラナタ。それくらいにしておきましょう。…そもそも、どうしてあなたはこんな所をうろついていましたの?早く屋内に避難した方がよろしくてよ」
「そうはいかない…んです」
そこでケーゴは当初の目的を思い出す。機械の中の少女は少しだけ自分より年上の様だし、ラナタもおねーさんと同い年くらいであると認め、とってつけたように丁寧語で尋ねた。
「俺、今…えー、知り合い、というか、仲間を探していて。見ませんでしたか?緑色の複で大きな杖を持ったエルフの女の子と灰色の長い髪のエルフ」
ラナタとメルタはお互いに顔を見合わせる。が、両者の記憶にも該当するエルフはいなかったらしく、首を横に振った。
「…そうですか」
消沈した肩に向かって今度はメルタが聞いた。
「…私たちも人を探していますの。あなた、アルペジオという女性の名前を聞いたことは?緑髪で恐らく皇国の軍服を着ているはずですわ」
「…アルペジオさん、ですか」
こころなしかラナタの視線が厳しくなったことを察しつつもケーゴは頭をひねった。
「すみません、こっちもその人は知らないです」
頭を下げたケーゴを横目にラナタは歩き出した。もはやここに留まる意味はないということだろう。化け物の焼却も既に終わっていた。
「それじゃあ私もここで。…報告所にはもう行きましたの?」
「いえ、今から向かうところです」
「そういうこと。その子がいるなら道のりは大丈夫そうね」
合点がいき、ピクシーを見ながらメルタは頷く。
そして表情を硬くしてケーゴの顔に視線を移した。
「…探し人、見つかるといいですわね」
「ありがとうございます。アルペジオって人も見つかるといいですね。ピクシー、行くぞ!」
そう言ってケーゴは駆けだした。
報告所へ急ぐ彼の背中を見送った後、メルタもラナタのもとへと動き出す。
ラナタも相応に焦っているらしく、早くしてくれと目が訴えかけているのが分かる。
「…ねぇラナタ?」
ラナタは先を急いでいる。メルタはそれを追いかけながらも尋ねた。
「何でしょうか」
「この交易所では、亜人がずいぶん大事にされていますのね」
ラナタは何も返せず黙っている。メルタは続けた。
「今の子も、ずいぶんエルフのことを心配しているようでしたわ。…替えがきかないくらい便利な奴隷だったのかしら?」
甲皇国の外、この交易所では様々な種族が入り混じっていた。
彼らは共に語り、肩を組み、そうして笑っていた。
ラナタは黙って聞いている。
「アルフヘイムの要人もいるような大陸で、人々は亜人に対して気を遣わなければならないのかしら?この交易所では人々は亜人に支配されているのかしら。…どちらも違う。それくらい見ればすぐにわかりますわ」
彼らの笑顔は本物だったのだから。
話すうちにメルタの口調が次第に確信を帯び始める。
「この交易所ではみんな平等なのですわ。人間だからとか、エルフだからとか、そんな考えなしで互いに手を取り合っている。…これは異常なことですの?…それとも私達が間違っているとでも言うんですの?」
ラナタは歩みを止めた。
そうしてメルタと向かい合う。
数多の戦場を駆け、幾人もの戦友を持った。
世界の在りようは少なくとも甲皇国という箱の内で人間至上主義に染まったメルタよりも理解している。
「…私たちがアルペジオを思う気持ちと、彼が探し人を思う気持ちは…同じなのでしょうか?」
「…それは……」
どう応えるべきだろうか。
ラナタは考える。
そもそも、彼女自身亜人をよしとは思っていないのだ。
と、そこでラナタはふと思い起こした。
なぜ自分は亜人を嫌悪し、そして斬ることにためらいがないのだろう。
自問し、すぐに自答に至った。
みんなそうしていたからだ。
結局、それは皇国がそう国是を定めたからであり、皇国で生きるためにはそう思う他ないからなのだ。
国にとって都合のいい方策。国が自身を守るための政策。それが人類至上主義。例えそれが世界との間に齟齬を生み出そうとも、皇国が自身を肯定できればそれでよい。
そして自分は人間で、人間の優越を謳う国家でそれに疑問を持たず生きることに不都合はまったくなかったのである。
とはいえどもそんなことをこともあろうに将軍の子女に伝える訳にはいかない。下手をうてば国を侮辱したと裁かれかねない。
「…そういう考え方もあるということでしょう。メルタ様は…メルタ様にもご自身の考えがあるように」
考えた末、ラナタは答えをはぐらかすことに決めた。
「さぁ、急ぎましょう。報告所にアルペジオの姿はありませんでした。もしかしたらどこかで戦っているのかもしれません」
「…えぇ、そうですわね」
疑念がぬぐいきれない表情のままメルタも歩きはじめる。
道すがら、そういえば、とラナタは脳裏に引っ掛かりを覚えた。
いつぞや、亜人と手を取り合う人間と会った気がする。
亜人は人間を守ろうと必死で、人間も亜人のために全霊を傾けていた。
「…どこで会ったんだ…?」
それを思い出すことはできなかった。
「アンネリエーっ!!」
叫ぶ。
しかしその必死の叫び声は人々の狂乱にかき消されてしまう。
「どこに行ったんだよ…!」
焦りのあまり無意味なまでに辺りを見回す。交易所を走り回って肺が焼けそうだ。
ケーゴにも状況はわからない。ただ、何か交易所に化け物がやって来て非常に危険であるということだけは理解している。
だから駆ける。だから叫ぶ。
「マスターケーゴ」
人の波をかき分けるケーゴの肩にピクシーが舞い戻った。
「どうだった?」
「私が報告するところによれば、アンネリエ様の姿をこの交易所内で発見することはできませんでした。第二優先順位に設定されていたベルウッド様も同様。私が予想するところによれば、屋内に退避したのではないかと」
「…そうか」
安堵半分、心配半分。
先ほど頭に響いた声を思い出す。
もしかしたらもう既に報告所に避難しているのかもしれない。
ケーゴはそう自分に言い聞かせようとぐっと拳を握った。
大丈夫だ。きっとアンネリエなら大丈夫。
「…交易所に一体何が現れたんだ?」
「私が観察したところによれば、先日交戦した人魚と同様に全身が黒く、正体不明の魔力に覆われた者たちです。先日マスターが交戦した人魚と同様の特徴を持っており、非常に危険な存在であると認定。その数は数百。襲われた者も同様に全身が腐敗したように変貌を遂げ、人々を襲い始めるようです」
「…ってことは数が増えていくってこと?」
ケーゴの頭にアンネリエがそうなってしまったら、と嫌な予想が沸き起こる。
「その通りです。現在南門付近で警備隊をはじめとした部隊がそれらと交戦中。取りこぼした者たちが交易所の内部にまで侵入しています。ただし家屋に侵入しようとする意思はみられません。――今のところは」
「今のところ…!?」
ピクシーはこくりと頷いた。
「私が観察したところによれば彼らは動いている者を狙うようです。今現在は外に人々がいるためそちらに狙いが定められていますが、全員が避難完了した後に彼らがどのような行動に移るかは予測が不可能です」
「…っ」
早くアンネリエに会って安心したい。
体を固くするケーゴの肩でピクシーが突然警告を発した。
「なっ、何だよ!?」
「マスターケーゴに警告。正体不明の魔力をもったものがこちらに接近中。数は5」
「5体…!」
すぐさまケーゴは反対方向へと駆けだした。
「ピクシー、ここから報告所への最短ルートを頼む!」
「了解。私が先行します。ついてきてください」
ピクシーの後を走りながらもケーゴはできるだけ辺りを見回す。
気づけば周囲の人々と逆方向へ走っている。
恐らく皆交易所を守るために南門に向かっているのだろう。
加勢する訳にはいかない。
今はアンネリエが先だ。
津波の時は津波を止めなければ皆死んでいた。それにアンネリエにはベルウッドもピクシーもついていた。
だが今は違う。アンネリエの安否が全くの不明なのだ。化け物の相手をしたって何の解決にもならない。
「アンネリエ…っ!」
焦燥が彼の足を加速させる。焦燥が彼の足をもつれさせる。
転び、ぶつかりながらもケーゴは報告所へ急いだ。
と、そこでピクシーが急停止した。
「どうしたんだよ!?」
そう頭上に叫ぼうとしたが、接近したピクシーに口をおさえられる。
そのままぐいぐいとピクシーはケーゴを押す。
事態を察したケーゴが物陰に身を隠す。
全力疾走した分心臓がうるさい。
汗が流れる。体が熱い。
なんとか息だけでも整えようとしていたその時だ。
聞こえた。
生者のものとは思うえない呻き声。
べちゃりべちゃりと不愉快な足音。
必死に息を止めて気配を殺す。
ピクシーも肩で完全に動きを停止させている。
次第に音が大きくなってくる。胸が爆発しそうだ。
ケーゴはそろりと短剣に手をかけた。
そうしてちらりと物陰から顔を覗かせる。
全身が黒く腐食した獣人だ。ただ、その服には見覚えがある。
「…っ」
得も言われぬ気持ち悪さが腹の底からわき起こる。
思わず手で口をおさえる。
音を立てないように、気取られないように必死に吐き気と戦う。
ピクシーが警鐘を鳴らした。
「こちらに向かってきています。マスターケーゴ、直ちに移動を」
その言葉に動揺したケーゴは今度こそ吐いた。
むせながらも走りだし、そして転んだ。余計にむせる。
つんのめるようにしてまろび立ち上がり、そうしてケーゴはついその亡者を顧みてしまった。
間違いない。よく交易所で見かけた花屋を営んでいた獣人だ。
ピクシーの報告通り、化け物に襲われて自らもその姿に変貌してしまったのだろう。
短剣は抜けなかった。ただ走った。
ただただがむしゃらに走った結果、大通りに出てしまった。
慌てて立ち止まったが既に遅い。ケーゴの目の前には3体の黒い魚型亜人が獲物を求めて徘徊していて、しっかりと彼らに視認されてしまった。
背後からは緩慢ながらも獣人が追いかけてきているはずだ。
「マスターケーゴ、私が戦略を通達するに彼らの動きは緩慢です。魔法弾で注意を引きつつ彼らから逃げる他ありません」
「それ戦略かよ…!」
息も絶え絶えに応える。走って吐いて、体力的にも精神的にも無理がきているのだ。
それでもケーゴは短剣を構える。
全く顔を知らない魚人の方がまだやりやすい。
だが、彼らもまた被害者なのかもしれない。
一瞬、そんな考えが頭をよぎる。
「マスター!」
ピクシーの叱咤で目を覚ましたかのようにケーゴは目を見開く。
魚人がこちらへ手を伸ばしていた。
右足を軸に半身それをよけ、右脚で地面を蹴る。
僅かながら魚人たちと距離をとったケーゴは短剣に炎を纏わせ振り下ろした。
斬撃は炎の衝撃波となって魚人を襲う。
しかしあまり効果的ではないらしく、魚人たちは体を燃やしながらも歩を進めた。
「んなっ!?」
思えば昨日の人魚にも全力の炎を受け止められたのだ。
「注意を引きつけるどころか、全力で叩かないと駄目みたいだ…!」
「炎があまり有効でないようです。マスター、このままクノッヘン通り方面へ」
ピクシーの言葉に従いケーゴが一歩退いたその時だ。
「はぁああああああああああああっ!」
勇ましい声と共に魚人が横一文字に分断された。
黒い胴体はぐしゃりと地面に落ち、そうして背後から彼らを切った者の姿が明らかになる。
鎧と言うにはあまりにも軽装だ。羽織るマントは青く、切れ長の目は獲物を仕留めてもなお鋭い光を放っている女性。
その光景にケーゴが圧倒されていると、曲がり角から薄橙色をした鉄塊が現れた。
「もう!ラナタ、急に走り出して私を護衛する気はありますの?」
鉄塊には手足が生えていて、中から少女が顔を覗かせている。これは何かの機械なのだろうかとケーゴは考えた。
ラナタと呼ばれた剣士はその薄橙色の機械に収まる少女の方へ振り返り、答える。
「申し訳ありません、しかしいずれにせよ露払いは必要でした」
にこりともせずに告げるラナタに対して少女は頬を膨らませる。
「確かにそうですけど…」
2人がやり取りをしている間にケーゴが走ってきた通りから亡者がようやく現れた。
「…っ、あいつまだ…!」
下手に相手を知っているせいで攻撃もしにくい。
躊躇う少年をよそにラナタはすぐさま剣を構えた。
息を飲むケーゴ。彼女は背中越しに尋ねた。
「この化け物はお前の知り合いだったのか?」
「知り合いと言うほどではなかったけど…」
ただ、顔は知っている。
「なんだその程度。ならくだらない情は捨てて今から私がこの化け物を殺すところをしっかりと見ていろ」
そんなケーゴの逡巡をラナタは切り捨てた。
衝撃を受け、ケーゴは言い返す。
「んなっ、化け物って…殺すだなんて!」
「それ以外にない!」
断言し、ラナタは踏み込んだ。
一瞬の内に彼女の剣は亜人を縦に裁断する。
ぐしゃりと分断され地面に倒れた獣人からケーゴは目をそらす。
ラナタは斬られた亜人を見下ろしながら吐き捨てるように言う。
「元に戻す方法はない。こうやって殺してもすぐにまた再生して人々を襲う。…メルタ様お手をお借りします」
「まっかせっなさーい!」
機体の中で意気揚々とメルタと呼ばれた少女は機械の腕を亡者に向ける。既に亡者たちの身体は粘液のように流動し、分断されたその胴が繋がり合おうとしている。
「メルタ☆バーナー!」
叫ぶと同時に腕から火柱が噴き出る。それを再生しようとする亡者たちに浴びせる。
抵抗することもできず魚人も獣人も焼かれ続けた。
嫌な臭いが充満する。
「お尋ねしてもよろしいですか」
無機質な目でそれを見続けるラナタにピクシーが尋ねた。
「…甲皇国の情報デバイスか?……なんでお前がこんなものを持ってるか知らないが、とりあえず話を聞いてやる」
「私が質問を投げかけるに、彼らに炎は有効なのですか?先ほど私のマスターが炎を用いた時にはあまり有効ではないようでしたが」
「確かにこいつらに炎は効きにくい。だからこうして動きを止めた時に一気に焼き尽くす」
「こうして灰になるまでしてようやく脅威でなくなるんですのよ!400年ほど前に皇国で蔓延した黒死病に対しても最終的にはこうして病死者や鼠を焼いて解決を図ったと習いましたわ!歴史に学び、今を生き、未来に託す!これぞ我らが国家の在り方ですわ!」
「動きを止めてから…か。この短剣じゃ無理かもな…」
自らの得物を眺める少年に対しラナタは冷たく告げた。
「いずれにせよお前には無理だ。少しの顔見知りを斬ることに躊躇しているようでは、な。この先お前のよく知る者が化け物になって現れたらお前は何ができる?ただむざむざと殺されて奴らの仲間入りをするというなら、今ここでお前を始末した方がいいくらいだ」
一言一言が胸に刺さる。
噛みつくことのできない正論だ。何も言い返せずケーゴは目を伏せた。
目の前の現実を理解はできる。しかし、それを受け止めることができるほど彼は達観も諦観もしていないのだ。
火炎放射を亡者に放ちながらもメルタが苦笑を見せる。
「まぁまぁ、ラナタ。それくらいにしておきましょう。…そもそも、どうしてあなたはこんな所をうろついていましたの?早く屋内に避難した方がよろしくてよ」
「そうはいかない…んです」
そこでケーゴは当初の目的を思い出す。機械の中の少女は少しだけ自分より年上の様だし、ラナタもおねーさんと同い年くらいであると認め、とってつけたように丁寧語で尋ねた。
「俺、今…えー、知り合い、というか、仲間を探していて。見ませんでしたか?緑色の複で大きな杖を持ったエルフの女の子と灰色の長い髪のエルフ」
ラナタとメルタはお互いに顔を見合わせる。が、両者の記憶にも該当するエルフはいなかったらしく、首を横に振った。
「…そうですか」
消沈した肩に向かって今度はメルタが聞いた。
「…私たちも人を探していますの。あなた、アルペジオという女性の名前を聞いたことは?緑髪で恐らく皇国の軍服を着ているはずですわ」
「…アルペジオさん、ですか」
こころなしかラナタの視線が厳しくなったことを察しつつもケーゴは頭をひねった。
「すみません、こっちもその人は知らないです」
頭を下げたケーゴを横目にラナタは歩き出した。もはやここに留まる意味はないということだろう。化け物の焼却も既に終わっていた。
「それじゃあ私もここで。…報告所にはもう行きましたの?」
「いえ、今から向かうところです」
「そういうこと。その子がいるなら道のりは大丈夫そうね」
合点がいき、ピクシーを見ながらメルタは頷く。
そして表情を硬くしてケーゴの顔に視線を移した。
「…探し人、見つかるといいですわね」
「ありがとうございます。アルペジオって人も見つかるといいですね。ピクシー、行くぞ!」
そう言ってケーゴは駆けだした。
報告所へ急ぐ彼の背中を見送った後、メルタもラナタのもとへと動き出す。
ラナタも相応に焦っているらしく、早くしてくれと目が訴えかけているのが分かる。
「…ねぇラナタ?」
ラナタは先を急いでいる。メルタはそれを追いかけながらも尋ねた。
「何でしょうか」
「この交易所では、亜人がずいぶん大事にされていますのね」
ラナタは何も返せず黙っている。メルタは続けた。
「今の子も、ずいぶんエルフのことを心配しているようでしたわ。…替えがきかないくらい便利な奴隷だったのかしら?」
甲皇国の外、この交易所では様々な種族が入り混じっていた。
彼らは共に語り、肩を組み、そうして笑っていた。
ラナタは黙って聞いている。
「アルフヘイムの要人もいるような大陸で、人々は亜人に対して気を遣わなければならないのかしら?この交易所では人々は亜人に支配されているのかしら。…どちらも違う。それくらい見ればすぐにわかりますわ」
彼らの笑顔は本物だったのだから。
話すうちにメルタの口調が次第に確信を帯び始める。
「この交易所ではみんな平等なのですわ。人間だからとか、エルフだからとか、そんな考えなしで互いに手を取り合っている。…これは異常なことですの?…それとも私達が間違っているとでも言うんですの?」
ラナタは歩みを止めた。
そうしてメルタと向かい合う。
数多の戦場を駆け、幾人もの戦友を持った。
世界の在りようは少なくとも甲皇国という箱の内で人間至上主義に染まったメルタよりも理解している。
「…私たちがアルペジオを思う気持ちと、彼が探し人を思う気持ちは…同じなのでしょうか?」
「…それは……」
どう応えるべきだろうか。
ラナタは考える。
そもそも、彼女自身亜人をよしとは思っていないのだ。
と、そこでラナタはふと思い起こした。
なぜ自分は亜人を嫌悪し、そして斬ることにためらいがないのだろう。
自問し、すぐに自答に至った。
みんなそうしていたからだ。
結局、それは皇国がそう国是を定めたからであり、皇国で生きるためにはそう思う他ないからなのだ。
国にとって都合のいい方策。国が自身を守るための政策。それが人類至上主義。例えそれが世界との間に齟齬を生み出そうとも、皇国が自身を肯定できればそれでよい。
そして自分は人間で、人間の優越を謳う国家でそれに疑問を持たず生きることに不都合はまったくなかったのである。
とはいえどもそんなことをこともあろうに将軍の子女に伝える訳にはいかない。下手をうてば国を侮辱したと裁かれかねない。
「…そういう考え方もあるということでしょう。メルタ様は…メルタ様にもご自身の考えがあるように」
考えた末、ラナタは答えをはぐらかすことに決めた。
「さぁ、急ぎましょう。報告所にアルペジオの姿はありませんでした。もしかしたらどこかで戦っているのかもしれません」
「…えぇ、そうですわね」
疑念がぬぐいきれない表情のままメルタも歩きはじめる。
道すがら、そういえば、とラナタは脳裏に引っ掛かりを覚えた。
いつぞや、亜人と手を取り合う人間と会った気がする。
亜人は人間を守ろうと必死で、人間も亜人のために全霊を傾けていた。
「…どこで会ったんだ…?」
それを思い出すことはできなかった。