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穢れに捧げ、癒し歌:11

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――――

 「…以上が大戦末期に使われた禁断魔法…|生焔礼賛《しょうえんらいさん》の全てです。」
 交易所との通信を終えたニフィルは船内に展開されていた他の魔法陣に顔を向けた。SHWの大社長と称される若い男と幾多の海戦を切り抜けてきたであろう提督はしかし、その事実に唖然とし、口がふさがらない。
 ニフィルと同じ船内にいたオツベルグとジュリア、そしてダートも知られざるその禁断魔法の能力に呆然としている。
 無理もない、と彼女はひとりごちた。生焔礼賛について詳しく知る者などアルフヘイムでも一握り。代表を務めているダートでさえ例外ではない。
 「…なるほど、生焔礼賛、ね…。SHW艦隊に乗り込んできたあの黒い魚人の正体もよくわかった」
 誰よりも早く冷静さを取り戻したのはヤーだった。ペリソンがちらと彼の方に目を向ける。
 突然SHWの艦隊から「魔法を許可せよ」との信号が送られてきたかと思えば、珍妙な魔法陣によってアルフヘイムの代表とSHWの大社長と面会させられている状況。彼としては心が休まる暇がない。
 その上、とペリソンはヤーの見解に耳を傾けながら考える。
 聞けばこの魔法陣でこの男はSHW船団を動かしていたと言うではないか。つまり自分が相手取っていたのは正真正銘SHWの大社長ヤー・ウィリーだったのだ。
 ペリソンが通信魔法で戦艦の指揮をとれるかと聞かれれば、否、と答えるだろう。初めて通信魔法というものに触れたが、船内を自由に動き回れるわけでもないし、刻一刻と移り変わる戦況を直に確かめられるわけではない。それをヤーは行い、自分と渡り合っていたのだから恐ろしい。
 やはり、天賦の才か。
 初老を迎えた彼は若い男の横顔を羨むように眺めた。
 件のヤーは見解をまとめる。
 「…つまりですね、この状況を止められるのはアルフヘイムの皆さんの魔法しかないのではないか、と思うのです」
 ニフィルの顔が固い。それにヤーが畳み掛ける。
 「このままあの化け物を野放しにしていたのではミシュガルド全土に被害が及ぶばかりか、その後我々の本国が犠牲になりかねません。早急にあの怪物を駆除する必要がある。それには我々SHWでは力不足…そこでこの場を設けさせていただいたのです」
 三国の全ての利害が一致するからこその共同戦線の提案。しかしペリソンは胡乱に聞いた。
 「…だが、魔法しか手立てがない以上我々はどうしろというのだ。SHW大社長ヤー・ウィリー殿。まさかとは思うが我ら甲皇国に囮になれと?」
 「有体に言えばその通りです。いくら魔法と言えど簡単に沈められる相手ではないでしょうから」
 ヤーはあっさりと認めた。
 皇国が渋ることも織り込み済みだ。ここで変に誤魔化せば心証が悪くなる。
 「ですが、我々SHWの船団は既にほぼ壊滅してしまい、あなた方の力を借りる他ないのです。…もちろん皇国の船団だけに囮になれと言っているのではありません。我々も微力ながら怪物の気を引く役目、請け負いましょう」
 「…」
 ペリソンは押し黙った。
 総司令のホロヴィズがいない上に緊急事態だ。ここでの決断は自分の手に委ねられている。
 もしここでSHWの申し出を無下にしたら、後々皇国にとって不利なことになることは目に見えている。もちろん、あの化け物が世界を破壊しつくしてしまえばそんな心配も必要ないのだが。
 確かにSHWの船団はあの化け物によって轟沈した。現在ヤーが率いている船団だけよりも自分たちが加わった方が良いのもわかる。だが。
 「……アルフヘイムと…か」
 ペリソンの重い言葉がニフィルに向けられる。
 戦時中に数多のアルフヘイム船団を壊滅させてきたであろう男にニフィルは向き合った。
 彼の目に映るのは不信だ。否、これはお互い様だろう。ニフィルたちとてこの会合に皇国の人間を呼ぶのには反対した。
 報告所の者たちに頼もしいことを言って見せた反面、皇国と協力など本当はしたくない。
 恐らくあの男も同じ心境なのだろう。
 上辺だけの協力など脆いものだ。それに意味はない。
 ヤーが眉をひそめた。やはりここがネックになるか。
 とはいえ、彼自身も自分に絶対の信頼を置かれているわけではないことを知っている。SHWは皇国とアルフヘイムの間を行き来するものの、両者を結ぶ役目を持っているわけではないのだ。
 ダートがこちらを見ていることに気づく。SHWがこの共同戦線の先にどれほどの利益を得るつもりなのか推しはかっているのだろうか。
 ニフィルも憤懣やるかたなしという体でペリソンの方を見ている。
 当のペリソンは渋面をつくったまま動かない。
 不信の眼差しが複雑に軌跡を描く。
 戦争の禍根はいつまでも、深く、深く人々の胸に存在している。事態が事態だけに感情的な言葉の投げ合いにはならないが、誰も歩み寄りをみせない。
 船内に重たいものが満ちている。
 その時だ。
 乾いた音が爆ぜた。
 「この一大事にそんなことを言っている場合ですか!」
 憤りを抑えるようにタンバリンを鳴らし、オツベルグが吠えたのだ。
 「確かに我々の間には大きな確執がある。しかし、それを乗り越えるためのミシュガルド開拓、交易所の建設ではなかったのですか!?あなたがたはアルフヘイムを攻めた私たちが言うなと言うかもしれません。ですが!ですが甲皇国が乙家、オツベルグ・レイズナーはこの身故に、この出自だからこそ叫ばせていただきます!いつまでも過去に囚われていてはいけない!私は、本気で世界平和を成し遂げたい!あの化け物こそ我々に与えられた試練!今こそ我々が手を取り合うことで世界に示そうではありませんか!新たな世界の在り方を!三国が手を取り合って未来へと歩んでいけるということを!」
 タンバリンを鳴らしながらオツベルグは力説した。反復横跳びも同時にしているのか魔法陣からは顔が現れたり消えたりしている。
 一瞬それに呆けてしまったペリソンだが、すぐに我を取戻し尋ねた。
 「…レイズナー卿……アルフヘイムの艦に…?」
 「それがどうかしましたか!」
 まったく臆さず悪びれない様子のオツベルグががおうと食らいつく。
 「…いや、その…」
 何から聞けばいいのかわからず言葉に詰まる。
 「ペリソン提督」
 そこに助け舟のごとくジュリアが加わった。
 「…!ヴァレフシカ卿まで!やはり乙家とアルフヘイムは…!」
 「それに関しては全てが解決した後にお話ししましょう」
 静かに、しかしその眼に込められた意思は強く、ジュリアは続ける。
 「うちのオツベルグの言葉に間違いはありますまい。ヤー・ウィリー様、それに今ここにいるダート様、ニフィル様にも聞いていただきたいのですが、我々乙家は世界が手を取り合うことを心から望んでいます。もちろん我々が始めた戦争に対する責任は我々がとらせていただくつもりです。それには前途が多難ですが…。…提督、この一件をその一歩とさせていただきたい。別に我々の陣営に加われというつもりはありません。ただ、今だけでも我々に協力してほしい」
 オツベルグのような激しさや音色はないが、それでもその訴えは胸に響く。
 やや表情を動かすペリソンに対し、ニフィルの表情は冷ややかだ。
 「…ただの理想論です。どう責任をとるというのですか。あなたたちに奪われたものは返らない。あなたたちの流した血は戻らないのですよ。一方的に攻めて、今度は一方的に許してほしいなどと、虫がいいにもほどがある!」
 徐々にニフィルの言葉に怒気がはらむ。内に秘められた甚大な魔力が全身からあふれ出る。それを止めようともしない。
 それに臆するオツベルグではない。
 「だから、まずは我々の誠意を見てほしいのです」
 タンバリンが響く。
 「証明させてください。我々があなたたちと協力する意思があることを。|一分《いちぶ》でもいい。私たちに歩み寄っていただきたい」
 なおも言い募ろうとするニフィルを制し、ダートが口を開いた。
 「…我々は人間よりも与えられた生が長い。いずれお主らの中に戦争を知らない世代ができたとしても、我々にその時が来るのはずっと先。お主らが忘れる戦争を儂らはいつまでも忘れない。…許すことも難しいのじゃ。…じゃが、もし…もし、本当に皇国が懺悔の道を進むのなら…忘れないからこそ我々が皇国と向き合う意義があるのかもしれないのぅ」
 信頼とは長い年月をかけて積み上げていくものだ。
 70年に及ぶ戦争が終結してまだ数年。まだ互いに信頼できるかどうか腹の内を探っている段階。共闘にはほど遠い。
 だが、そこから一歩進む必要がある。2人の真摯な思いはきっと、信頼への第一歩。
 この共同戦線はを一時的なものではなく、その先につなげるためのものになるためのものにするために。
 「忘れるなんてこと、ありません。許されるべきだとも考えません」
 確かな声でオツベルグは言う。
 「戦争を知らないことと、忘れることは違いますよダートさん。私たちの世代だけでは無理でも、次の世代、また次の世代と人間は、私たちの思いは未来へ進んでいきます。きっと、乙家は、皇国は、戦争を忘れない。過ちを認め、アルフヘイムと手を取り合う道を選び続けるでしょう」
 オツベルグがペリソンの方へ向き合う。
 目の煌めきが眩しい。
 若さゆえの傲慢な夢。そう一蹴もできる。ペリソンは彼よりも長く生きている。それだけ煌めく夢を汚すものが彼の人生の中に沢山あることも知っている。
 だが、自分がその汚れになる必要はないと思った。
 「…私は見ての通り、もう若くない。君たちのようにそんな途方もない夢を掲げることはできんよ。…だが、応援くらいはしよう。…アルフヘイムの代表よ。はっきり言って、今すぐ貴殿らと手を組めるかといえばそうではない…。故に我ら甲皇国艦隊はこれよりSHWと共に共同で作戦を遂行する」
 それでいいかと確かめるようにペリソンはダートとヤーを交互に見た。
 結果的にはSHWが提唱する三国の共同戦線に参加する形だ。しかし、やはりアルフヘイムと共闘ということは難しいのだろう。
 「儂らもSHWと共に手を組み、かの化け物を止めて見せようぞ」
 ダートが杖を床にうちつける。甲高い音が船内に響いた。
 ヤーはうっすらと笑みを浮かべた。
 紆余曲折はあったが、結果的には当初想定していた通りだ。さらには乙家の発言のお蔭で多少は前向きな共同ができそうだ。
 魔法陣を介して相対する甲皇国の提督と貴族、アルフヘイムの代表と魔術師に向けて彼は凄絶に目を煌めかせた。
 三国が共同して行う作戦。既に方程式は組み立てられつつある。
 「…それでは、亜骨同舟と洒落込みましょうか」
 


――――


 交易所が異様な雰囲気に飲み込まれていることは一目でわかった。
 ブルーは建物の陰から大通りの様子を窺った。だが、気味の悪い魚人のような者たちが徘徊をしていて通るに通れない。
 「駄目だ…ここにもいる…」
 困り顔を向ける先にいるのはヒュドールだ。人魚である彼女が地上でその下半身を晒しているのは非常に珍しい。が、彼女の樽は既に流されてしまっているのだ。
 先日買ってあげた水着が津波で流されなくてよかったと今更ながらブルーは思う。そうでなければ岸からここまで抱えて運んでくるのが色々と難儀だったはずだ。
 浜辺に戻る道中ではブルーだけが一度交易所の様子を見てくるという話であったのだが、彼らもまた黒色の化け物に襲われたのだ。
 その数体の化け物から辛くも逃れ地上に戻ったブルーが、ヒュドールをその場に置いていくことなどできるはずがなかった。
 そして、交易所なら、と賭けた一縷の望みも今消滅したのだ。ブルーは1つ息をついた。
 「海だけじゃなくて地上にもいたのね…」
 「…あれ、亜人なのかな」
 返事を求めるでもなく彼は呟いた。ヒュドールは沈黙を返した。
 答えなど必要ない。彼らの身体の黒を2人は既に知っている。
 それをヒュドールが口にした。
 「…黒い海と関係があるのかしら…」
 ブルーは押し黙った。答えようがなかったかもしれない。あの黒色が恐ろしかったからかもしれない。
 「…とにかく、ここでこのまま隠れてる訳にもいかないよ。酒場に戻ってみよう。もしかしたらミーリスさんやマリーアさんがいるかもしれない」
 そう言ってブルーはヒュドールを抱えた。とりたてて力の強い亜人の血が流れているわけではない彼には大きな負担のはずだ。
 「…ごめんね、ブッ君」
 こんな弱弱しい声を聞くのも初めてだ。その謝罪の意味が分からないブルーではないが、彼はそれを無視した。
 重いだなんて言うものか。何が何でも酒場まで連れて行ってみせる。
 改めて腕に力を込めた時だ。
 金属のこすれ合う音が近づいてくることに気づいた。
 一体何だとブルーが立ちすくんでいると、周囲に防具を着こんだ男たちが現れた。
 どうやら自警団のようだ。
 彼らもブルーたちがいることは意外だったらしく、ぎょっとした顔で立ち止まる。
 一方のブルーとヒュドールは、ようやくまともな人間に出会えた、と肩の力を抜いた。
 もうこれで安心だろう。この人たちに道案内を頼もう。それに、あの黒い怪物が何なのかも。
 「あの、僕たち――」
 しかし、ブルーの言葉を制するように自警団の1人が口を開いた。
 「…魚人……!」
 「…え?」
 男たちの顔が青ざめている。
 何だ。一体何が起きているんだ。
 魚人と言う言葉が周囲の男たちの間を駆ける。
 次第に彼らの表情が険しくなっていくことにヒュドールは気づいた。
 魚人。
 魚人だ。
 あの黒い化け物どもも、最初は魚人だった。
 そして、今目の前にいるこの亜人もまた魚人。
 何故だ。
 もう住民の避難は終わったはずだ。
 どうして今更こんな場所に魚人が2人もいる。
 男たちの疑念が増幅する。
 彼らの中に、一人でも非人間の種族がいれば違ったかもしれない。
 彼らがこの騒動の中で亜人への恐れを抱いていなければ違ったかもしれない・
 疑いに満ち、怒りと憎悪を目に煌めかせた兵士たちはしかし、2人に向かって剣を抜いた。
 「なっ、何を!?」
 驚き叫ぶブルーに対して剣を向けた兵士は怒鳴った。
 「黙れ亜人!交易所に魚人の化け物が現れたことと、お前たちが無関係だとは思えない!ここで何をしていた!言え!」
 「そんな!僕たちは今帰ってきたばかりで…!」
 ヒュドールを抱える両腕に力がこもる。
 目の前にいる彼女を脅えさせるわけにはいかない。
 「帰ってきたばかりだと…?」
 別の兵士の顔が歪んだ。
 「あの大津波の中!どこに行ってどこから帰ってきたというのだ!」
 ブルーは瞠目した。これが人間と魚人の認識の違い。
 彼らの表情はいよいよ険しい。
 怒りを向けられるブルーとヒュドールは逃げ場もなく脚を震わせる。
 残る兵士たちも、あの津波もお前らの仕業かと、アルフヘイムの差し金かと、2人を責めた。
 どうしようもなく、ブルーは違うと喚いた。
 自分たちは関係ない。自分たちは今海から戻ってきたばかりなんだ。お願いだ信じてくれ。そう叫ぶが彼らの耳には届かない。
 「ブッ君…」
 か細い声がする。
 肩を震わせるヒュドールがこちらを見ている。
 彼女だけは守らなければ、とただそう思う。だが、そのためにはどうすればいい。
 理不尽な悪意にブルーは唇をかみしめた。
 震える彼に兵士が一歩近づいた。
 「重要参考人として連行させてもらう。抵抗するならこの場で斬る」
 「…っ!」
 逃げ場はない。既に囲まれている。
 お願いだ。せめて、この人だけでも
 そう訴えようとしても喉が壊れたようにか細い声しかでない。
 ヒュドールがいるのに。
 ヒュドールだけは守りたかったのに。
 何もできず立ち尽くしたブルーに、兵士がさらに一歩近づいたその時だ。



 「――やめなよ」



 閃光が走った。
 まばゆい白に兵士たちが耐えられず目を覆う。
 ブルーも突然の光に目を細めていた。同時に体がぐらりと揺れた。
 がくりと揺さぶられる衝撃。
 気づくとブルーの目の前には、兵士たちがいた。が、もはや彼らに囲まれてはいない。
 何もない空間を包囲する自警団の男たちを外から眺めている状態だ。
 「なっ…?」
 両腕にはちゃんとヒュドールもいる。彼女もまた目をぱちくりとしてこちらを見つめている。
 状況に脳の処理が追いつかない。
 混乱するブルーはそこでようやく自分の身体が何者かに抱えられていることに気づいた。
 腹を抱えるその腕から解放され、ブルーはその人物をしげしげと眺めた。
 くすんだ翡翠色の大剣を背負う男だ。赤い服は首を覆うスカーフの青と対称的で目立つ。
 先端のとがった耳はエルフの証。硬くごわごわとした髪を赤いバンダナでまとめている。無精髭を生やしたその表情は、無。ただ正面を見据えるのみのその瞳にも感情は窺えない。
 予期せぬ闖入者に自警団の男たちは色めきだった。
 「…!何だお前は!」
 「その魚人の仲間か!」
 「答えろ!」
 怒号に眉一つ動かさず、男はただ自警団を眺めている。
 それが彼らを逆撫でする。
 怒りと混乱を抑えきれず、1人の兵士が駆けだした。
 「答えろと言っているだろぉおおおお!」
 叫び声と共に剣を振り下ろした。剣筋は確実にエルフの顔面をとらえている。
 思わずブルーとヒュドールは身を竦めた。
 エルフは微動だにしない。 
 そして、まさに兵士の剣がエルフを斬りつけるその刹那。
 剣とエルフの間に赤い膜が現れた。
 薄氷のごときその赤い膜は剣によっていとも容易くたたき切られるかのように見えたがしかし、兵士の剣を完全に受け止めた。
 予想外の衝撃が兵士の右腕を襲う。鋼鉄に思い切り斬り込んだかのようだ。
 彼の背後で事の成り行きを見ていた他の自警団の者たちも、予期せぬ盾に目を瞠る。
 「…!何だこれはぁっ!」
 エルフから距離を取った兵士が喚く。
 それに答える声がした。
 「…それは我が血液。我が力」
 唸るような低い声。
 ブルーが振り返ると巨大な熊型の亜人がこちらを、いや、兵士たちを睨んでいる。
 全長はブルーをゆうに超える。全身の筋肉と傷痕がその巨体をさらに威圧感のあるものへと変えている。
 その巨体を巡る2対の鎖は装飾だろうか。
 右手にはこれまた巨大な棍棒を持っている。その棍棒の周囲を赤い霧のようなものが漂っている。
 両目には断裂の痕が残り、そこに光はない。
 その獣人が唸り声ともつかぬ音を立てながら一歩前へ踏み出した。
 兵士はひっ、と情けない声を1つ出し、仲間のもとへ逃げた。自警団の者たちも次から次へと現れる亜人に対し、困惑の表情を浮かべ始めている。
 それを感じ取ったのか、獣人はエルフに向かって口を開いた。
 「我らが迅雷の同胞よ、その者らを安全な場所へ」
 「うん、ぼくわかった」
 エルフの声もまた地鳴りのように低く、一言そう発する。
 彼の体からばちりと電気が走った。
 瞬間、白い閃光が弾け、光が収束した時にはその場にエルフの姿も、ブルーたちの姿もなかった。
 それを認めたらしき獣人は、漸う男たちに向かい合う。
 「…さて、醜悪なる人間どもよ。貴様たちは今、我らの仲間を迫害したな?」
 亜人だから。魚人だから。
 それを理由に疑い、罰しようとした。
 「いかなる状況でもそれは許されない。例え貴様たちが恐れを抱いていようと、怒りを覚えていようと」
 獣の体毛が逆立ち、甚大な殺気が爆発した。
 「―ー故に、神罰は執行されるのだ」
 そこで兵士たちは直感した。それが人間の力では太刀打ちし得るものではないと。
 もはや、この場から逃れることはできないと。
 
 

 血の匂いが辺りにたちこめる。
 もはや原形をとどめていないかつて人間だったその肉塊を見て獣人は鼻を鳴らした。
 と、そこで背後に気配を感じた。
 「…迅雷か。彼らは無事か」
 光を失った彼の眼は、背後に佇むエルフの姿を捉えることができない。しかし、鋭敏に研ぎ澄まされた感覚は、その彼が迅雷と呼ぶエルフが首を縦に振ったことを察知した。
 「そうか、それは重畳」
 ならばもはや交易所に長居は無用だ。
 「我らが麗貌の同胞から連絡があった通り、既に報告所には仲間たちも避難しているようだ。この事件に乗して憎き皇国の輩どもの施設を襲撃するという企ては失敗だったようだな」
 「やめなよ」
 間髪入れず、エルフが獣人を制した。
 予想外の反論を受けた獣人は一瞬怪訝な表情を見せたが、すぐに合点がいった。
 
 新たな気配が裏通りに生じている。

 「…あぁ、そうだったな」
 
 先ほど獣人が見せた殺気よりもさらに苛烈な感情が瞳に映る。
 華奢な体を少々露出させた涼やかなその服装とその強い光を放つ目は不釣り合いだ。
 
 「――コラウドの言う通りです。我らが血牙の同胞、ロー・ブラッド。私たちの歩む道は常に正しき裁きの道。そこに“失敗”などありえません。此度の件も同じこと。神罰の優先ではなく、仲間たちの無事を“彼”は選んだのです。」

 見かけによらない硬い声。
 先端だけ黒に染まったレモン色の髪を両側頭部、短く結んでいる。
 熊型の獣人と向き合うとその小柄な体躯はさらに目立つ。

 「難儀なものだな。…それが神託者としての貴公の言葉か。我らが魂依の同胞にして漆黒の英雄」

 彼の正面で立ち止まった少女は凄絶な笑みを見せた。
 ローと呼ばれた獣人もまた、口元を歪めて牙をのぞかせた。そして彼女の名を呼んだ。


 「――ダピカ」

114, 113

  



――――


 いつもの酒場だ、とケーゴは思った。
 目の前に広がる光景。ミーリスさんがいて、マリーアさんがいて、ヒュドールもブルーももいる。
 ただ、あるはずの音が聞こえない。周りにこれだけ客がいるのに。どういうことだろう。
 あるはずの色がない。世界はこんなに黒と白でできていただろうか。
 そして何よりも、目の前でミーリスと話している後姿。これは。
 「…俺……?」
 見覚えのある服装。見覚えのある短剣。
 よく見れば自分には色がついている。黒髪と白色の服で分かり難いが。
 目の前の自分はミーリスと何事か話している。
 一体何を話しているのだろう。
 と、そこでケーゴはもう一人、色のある人物を見つけた。
 ミーリスさんの背後に立っていたからか、その緑色に気づくことが出来なかった。
 あぁ、そうだ。ケーゴは苦笑した。
 あの時も、気づかなかったんだ。あの子の姿はミーリスさんにすっぽりと隠れていたから。

 「…だって、人間の男の子を紹介するなんて言われて…嫌だったんだもの」

 聞いたことのない声。そのはずだった。
 だが、背中に感じた温もりを、掌に触れた柔らかさを、心が覚えている。
 木漏れ日のような、落ち着きのある温かい声。心地よくケーゴの耳をくすぐる。
 予感のように、その声をケーゴは知っていた。

 「…俺はさ。初めて会った時、すごく綺麗なエルフの女の子だなぁって思ったよ」

 背中合わせ。お互いの体温がその存在を教えている。それだけで十分だった。
 ケーゴは柔らかく微笑んだ。きっと顔を合わせていたらこんなこと言えない。
 こんなに心が温かいのはいつぶりだろう。
 「…バカ」
 あぁ、いつもの不機嫌な表情を今しているんだろうな。
 背中越しの言葉と共に、場面が切り替わった。
 色のない路地裏。色のない獣人たちが緑色の服を着ているあの子に詰め寄っている。
 そこに自分が駆け付けた。何かを獣人たちと言い争ったあげく、短剣で魔法弾を放った。
 もはやあの時何を言っていたのかは覚えていない。
 と、そこで彼女が呟いた。
 「そうだ」
 「何?」
 「この時はありがとう。言いそびれてた」
 「今更言うかよ」
 ケーゴは笑った。きっと彼女も微笑んでいるだろう。
 「初めてだったの。人間に助けられたのは」
 「…そっか」
 場面が切り替わった。自分がデコ助のあんちくしょうに追いかけられている。それをあの子は眺めながら、ゆっくりと歩いている。
 「ケーゴはずっと私のこと助けてくれてたね」
 「…うん」
 場面が切り替わった。霧の谷だ。自分とあの子が命からがらあの化け物から逃げているのが見える。あ、靴磨きもいる。
 「それは…私のことが……大切だから?」
 「…うん」
 場面が切り替わった。洞窟だ。機械人形と戦うために自分があの子を背に回している。
 「いつからだろう、私、ケーゴの背中ばかり見るようになった」
 遠い背中。放つ火球の熱は伝わるが、彼の温もりは感じない。
 ケーゴは初めて戦う自分を見つめる彼女の表情を見た。
 悲しそうで、悔しそうで。
 「……」
 黙ってしまったケーゴを彼女の体温が叱咤する。
 「私もね、ケーゴのこと、大切に思ってるの」
 海で、謎の人魚と自分が戦っている。駆けてきたあの子に向かって自分は怒鳴った。
 「…そっか」
 「だから、ケーゴが傷つけば悲しいし、ケーゴが苦しむのは嫌なの」
 黒い化け物と自分が戦っている。遠くのあの子のことは見えていないようだ。
 「…そっか」
 場面が切り替わった。
 今度は見たことのない場所だ。
 相変わらず音もなく、色もない世界。だが、その状況がケーゴの心臓を凍らせた。
 ここは家だ。家の中だ。その筈なのに、辺りが燃えている。
 見たことのない男性が軍服を着た男と対峙している。その傍には血を流して倒ている女性がいる。
 唯一の緑色。あの子が少し離れた場所で何かを叫んでいる。見えない壁でもあるかのように、宙を叩いて泣いている。
 これは。この光景は。
 軍服の男が剣を振り上げた。
 脚を斬られた男性はもはや避けること叶わない。
 「やめ…っ!」
 思わず駆け出しそうになったケーゴの服を彼女が引っ張った。
 動きを止められたケーゴはその理由を尋ねようとした。
 しかし、それより先に彼女が言葉を発した。
 「行かないで、ケーゴ…。どこにも、行かないで…!」
 声が震えている。振り返ろうとしていたケーゴはしかし、その声に立ち止まった。
 今、振り返ってはいけない。
 立ち尽くすケーゴの眼前で男性が斬られた。
 色のない世界に鮮血が散った。
 音のない世界のはずなのに、ケーゴは確かに彼女の叫びを聞いた。
 「…っ」
 これは。この世界は。
 「助けられてばかりなんて…嫌だよ…。守られるのだって、こんなに辛いの…っ」
 「……」
 「何でみんな私から離れて傷ついていくの…?」
 「……」
 「ねぇ、ケーゴ、教えてよ」
 「…それ、は」
 「私の気持ちはどうなるの?私、ケーゴに傷ついてほしくないのに…」
 「……それは…!」
 あの子を守りたい。ずっとそう思っていた。
 守るために力が欲しい。ずっとそう願っていた。
 だけど、守っていたのは。そして、守れなかったのは。
 本当に必要なものは。本当に欲しかったものは。

 
 ――手を握り返したいと思うことはある…かな

 唐突にヒュドールの声が脳裏に響いた。
 はっとケーゴは目を見開いた。
 あの子の手を握り返す。その意味は。
 ゆっくりと振り返る。
 「アンネリエ」
 名前を呼ぶ。
 彼女の顔がこんなにも近い。
 潤んだ瞳がこちらを見ている。
 「ずっとアンネリエのことを守りたいって思ってた。アンネリエのこと、大切で、大事で…何よりも代えがたいと思ったから、どうしても傷ついてほしくなかった。きっと、みんなそうなんだ。みんなアンネリエに傷ついてほしくなくて…自分の事なんてどうでもよくて…!」
 「だけど、それは私も同じ。私もみんなのことが大事。だから、私もみんなのことを守ることに躊躇いはない。私は…自分が守られて当然だなんて思わない」
 「…うん、そうだったんだ。俺、ずっとそれに気づけなかった」
 「当り前よ。ケーゴ、ずっと私に背を向けていたんだから」
 「…ごめん」
 どちらからともなく、手を伸ばす。
 「…手を伸ばすのは」
 「あなたを信じてるから」
 どちらからともなく、手を取り合う。
 「…握り返すのは」
 「俺も君のことを信じているから」
 
 そして、手を握り合えるのは、お互いが近くにいるから。

 「ねぇ、ケーゴ」
 「何?」
 「1つだけ…私が…私たちが守りたいのは――」


115

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