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穢れに捧げ、癒し歌:1

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――――今度こそ、その手を掴む。二度と離さない。





 海中に黒い軌跡が踊った。
 深い青を漆黒が分断するかのようだ。
 その黒を描いているのは人の上半身と魚の下半身を持つ生物。人魚だ。
 幼い少年の顔と胴体はしかし、各所が汚染されているかの如く黒に犯されそこには赤い筋が走る。
 泳ぐたびにうねる魚の下半身もまた、どろりと漆黒で、肉が崩れ落ち骨が露わになっている。
 死人のごとく蒼白な、そしてやはり一部が汚染されたあどけない顔。眼球も黒く、瞳だけが赤く発光している。
 この人魚が泳ぐ跡が黒で示されていくのだ。
 残された黒はそれ自体が穢れのごとく海洋生物を近づけない。
 何かを目指しているのだろうか。何かから逃れているのだろうか。
 少年の人魚は海に不浄をまき散らし続けた。


――――


 精霊国家アルフヘイムは人間以外の種族がそれぞれ自治を行い、それらの小さな自治政府が1つにまとまった地域共同体国家である。
 国としての意思決定は各種族の代表の合議によってなされる。そのとりまとめを行うのがエルフ族であった。が、アルフヘイムの中でもエルフ族がこの取りまとめ役を行うことに劣等感を抱く者もいるし、逆にエルフにおもねる種族も存在する。
 甲皇国の様に一枚岩ではなく様々な種族の思惑が入り組むこの国の特色が、かつての大戦で最終的にアルフヘイムを劣勢に立たせることになったことは言うまでもない。
 ミシュガルド大陸出現の際大陸の東部、憎むべき甲皇国とは対極の位置に拠点を置いた。そこでは戦争の反省もふまえ、各種族が建前上は協調して未知の大陸の探索を行っている。
 レンガ造りの甲皇国駐屯所に対して、アルフヘイムの拠点は大樹をくりぬいた自然の建築物だ。周囲の木々も中をくりぬき様々な用途に供されている。自然との調和を国是とするアルフヘイムらしい開拓拠点となっているのだが。
 「馬鹿な!」
 「そんなこと許されるわけがないだろう!」
 「丙家は何を考えている!?」
 その開拓拠点に激震が走った。
 開拓拠点となっている大樹群の中心。最も背の高い樹の中に設けられた会議室で怒号と混乱が飛び交う。
 甲皇国が、それも主戦派の丙家がアルフヘイムとSHWのミシュガルド領海で捕虜の捜索を行うために艦隊を停留させろというのだ。その要望が穏健派の乙家を通じてもたらされた。
 だが、その狙いは明らかだ。
 交易所での乙家との会談を終え、開拓拠点に戻ったアルフヘイム合議会取り纏め役ダート・スタンは渋面を隠さない。
 「確かに乙家を通じて昨日そのように伝えられた。丙家め…ミシュガルドでもなお領土拡大を狙うか」
 背の低い老齢のエルフだ。だがその出で立ちはつば付の帽子に遮光眼鏡、派手な緑色の法被と異様に若々しい。
 彼と同じテーブルを囲む女性が緊迫した面持ちで口を開く。
 「ダート様、何故すぐに申し出をはねのけなかったのです」
 若干彼を責める口調が混じる。
 薄い青竹色の髪をしたエルフだ。目を布で隠し、緑色を基調としたひらひらとした服装は戦闘向きではない。露出する肌には赤色の魔術文字が刻まれている。
 エルフの名はニフィル・ルル・ニフィーという。
 彼女の問いかけにダートは重々しく首を横に振った。
 「エルカイダの一員を捕えていたが、海に脱走したとのことだ。あくまで国際的なテロリスト集団の一員であるから他国と共に共同で捜索を行いたいと言ってきてのぅ」
 「…っ」
 ニフィルは唇をかんだ。
 エルカイダとは停戦協定後も甲皇国に攻撃行為を行う過激派武装組織だ。蛮行を犯した皇国に対して攻撃を行うその姿勢からアルフヘイムとの関連が叫ばれてはいるが、アルフヘイムもエルカイダも互いに関係のない組織であると建前上は主張している。
 確かに危険な集団であるしその捜索に甲皇国が乗り出すことに間違いはない。だが何が共同だ。それを口実に領海に侵入することは明らかだ。
 思えばあの大戦も甲皇国がアルフヘイムの領海に侵入したことで始まったのだから。
 とはいえども。
 「…ただの捕虜なら交換条約でも何でも提示できましたが、あくまでアルフヘイムとは関連のない国際的犯罪集団。その捜索となれば我らも申し出を無下にするわけにはいかないでしょうね」
 長机の中央に配置された鏡に浮かび上がった壮年の男性の像が状況を冷静に分析した。
 縦長の帽子を被り、白いローブを身に纏う。その衣装の随所に甲皇国の紋章が確認できる。
 男は続けた。
 「甲皇国の本国ではそのような話は聞いていませんから、恐らくは先日大陸に向かったあのホロヴィズの独断でしょうね。ビャクグンから何か報告は来ていないのですか?」
 「来ておりますよ。どうやら丙家の1人、ウルフバード・フォビアの傍にうまくつくことができたらしく、乙家との会談では伝えられなかった丙家の動きまで子細に伝えてくれたわい。ただ、伝達役ハナバ殿の言では、かなりビャクグン殿との連絡が取りづらくなったとのことじゃ。恐らくウルフバードに警戒されているのだろうて」
 鏡に映る男の像が苦笑した。
 「…まったく、彼も変なところで運がいいのか悪いのか」
 「が、よくやってくれておるわい。丙家監視部隊。甲皇国待機班のトクサ殿、お主も含めてのぅ」
 トクサと呼ばれた男は表情を引き締める。
 「慢心はいけませんよ。むしろここからが正念場なんですからね。乙家にも丙家の動向は伝えられているのでしょう?」
 「当然じゃ。乙家と我らアルフヘイムはお主ら丙家監視部隊を通じて全ての情報を共有しておるよ」
 「…そうですか」
 トクサの表情に一瞬浮かんだ懸念をニフィルは見逃さない。
 「もちろん互い腹の内に抱えるものはあるのでしょう。ですが、今回は共通の敵が存在していますから」
 ダートはうむ、と頷きトクサに向かい合った。
 「丙家監視部隊の諸君には引き続き監視を頼む。恐らく本国でも何かしらの動きがあるであろうからの」
 「ええ、わかりました。…して、今回の皇国の申し出、アルフヘイムとしての方針は」
 トクサの問いにダートは立ち上がり、その場に集まった種族の代表たちを見回した。
 「アルフヘイムの友人諸君。これはあの大戦の繰り返しにもなりかねない非常事態じゃ。甲皇国は再び儂らの領土を奪わんとしておる。しかも今回はエルカイダの捜索という大義名分つきじゃ。これを拒否すれば確実に国際的な論壇であの国は我らアルフヘイムを糾弾する。じゃが彼奴らをこの地に近づけることは決してあってはならぬ。そこでじゃ…儂は乙家のみが乗り込んだ艦のみならば妥協が可能なのではないかと思っておる」
 表向き関係のない組織といえどもエルカイダは多くの構成員がアルフヘイム出身者の組織。恐らく一国のみで捜索を行うとなれば疑いの眼差しを向けられる。
 「だがそもそもエルカイダの者が本当に甲皇国の駐屯所から逃げ出したのかどうかもわからんのだぞ!?」
 「だからといってそこを押し問答している時間はないでしょう!」
 「乙家といえども下賤な人間に過ぎぬわ。エルフ、貴様何を考えている」
 「今ダート殿を責めてどうするのですか。これだからあなたたちの種族は」
 「貴様!我らを愚弄するか!?」
 はたしてダートの予想通り、その提案は更なる怒号と混乱を生み出すに至った。
 それほどに人間と非人間の、そして種族間の軋轢は深いのである。不和は敵愾心を呼び、そしてさらなる不和を生む。
 ダートは頭を抱えた。何のために友人たち、と呼びかけたと思っているのだ。諍いのために儂らは集まったのではないのだぞ。
 いよいよ騒然とし始めた部屋にトクサの一喝が響いた。
 「御仁たち!甲皇国が攻め入ってきた後の反応も先の大戦の繰り返しの様ですね。その小競り合いが続いた結果あなた方の故郷はどうなりましたか?」
 冷静な物言いの中にも激情がこもる。
 一見壮年の男性に過ぎないが、齢500を超えるその妖の言葉に、痛いところを突かれた彼らはぐっと押し黙ってしまう。
 戦時中にもかかわらず種族間の諍いを続けた結果、戦争末期には遂に甲皇国の領土侵攻を許し、結果としてアルフヘイムの中でも禁忌とされている魔法によって国土を穢してしまった。今や国土の3分の1が不毛の地、否、それ以上にひどい状態だ。大地は腐り生物が住まう場所はない。海は黒く染まり海域を無に帰した。
 それは紛れもない事実。
 トクサの辛辣な言葉に場が一瞬で静まり返る。
 沈黙の中、ダートはニフィルが唇を固くかみしめているのを認めた。
 
 禁断魔法の発動により甲皇国軍を撃退し、その代償に母なる大地を失った。その一連をアルフヘイムでは「大精霊の両成敗」と呼ぶ。
 特に精霊信仰が強いエルフの間では、この大地に住まう大精霊が邪なる侵略者に裁きの鉄槌を下し、そして国としての誇りを失い共に戦うことをしなかったアルフヘイムの民にも罰を与えたと語られている。
 だがそれを行ったのは、禁忌とされる魔法を発動したのは、大精霊ではない。この話し合いの席につく1人のエルフ、ニフィル・ルル・ニフィーなのだ。
 故に彼女は恐れられる。故に彼女は誇られる。故に彼女は疎んじられ、故に彼女は恨まれる。
 そして、それ故に彼女は誰よりも禁断魔法を忌み嫌う。
 故郷をその手で死の大地へと変貌させ、アルフヘイムの民ごと甲皇国の軍を消し去ったその魔法を。
 誰が好き好んでその魔法を使うだろうか。それでも使わなければ愛する国は、愛する者たちは、全て侵略者の魔の手に落ちていたかもしれない。
 だから、これは正しいこと。
 だから、誰かがしなくてはならなかったこと。
 自分を納得させて、そして禁呪に手を染めた。
 恐らく生涯消えることのないその咎を、彼女は負い続けるのだ。

 ダートは咳ばらいをした。ニフィルがはっと顔をあげる。
 会議はまだ続いているのだ。ぴりぴりとした緊張が今更のように肌を刺す。
 「トクサ殿の言う通りじゃろうて。我々の間で諍いを起こしている訳にはいかぬ。友人諸君、儂は君たちの暴言ではなく意見を聞きたいのじゃ。……断固として皇国の艦隊の侵入に反対する者?」
 まばらながら手が上がった。
 憤懣やるかたないと言った表情だ。
 「では…乙家の者のみなら、という者は?」
 先ほどよりも多くの手があげられた。
 最保守派の者たちは顔を歪める。
 「…一応聞いておくが、丙家を受け入れるという者は…おらんな」
 激しく睨まれダートはすごすごと言葉尻をすぼめた。
 つまり結論は。
 「…では、乙家の者のみが乗り込んだ艦艇のみ、我らアルフヘイムのミシュガルド海域に受け入れることにする。が、諸君らの警戒ももっともじゃ」
 ダートは甲皇国断固反対派の者たちを見やる。少数意見を無下にするようでは協調は生まれない。
 反対派の種族たちを指名し、命じた。
 「国境に我がアルフヘイムの艦隊を並べ、彼奴らの暴挙に備えよ。もしも我らが領土を侵犯しようものなら…まずは十分な警告を与えよ」
 ニフィルは唇を固く結んだまま黙り込んでいた。
 そんなことはないと信じたい。だが、皇国が越えてはならない一線を越えてしまったのなら。

 それは、かの大戦の繰り返し。

 彼女は背筋にうすら寒いものを感じた。


――――


 鏡を通じた連絡を終え、トクサは息をついた。
 石組みの部屋。一人で過ごすにはやや広い。
 今彼がいるのは甲皇国の帝都マンシュタイン。アルフヘイムの民からすれば憎むべき敵の本拠地とでもいえるだろうか。
 その帝都の中心にそびえる甲皇国皇帝が住まう城。その城の一角にトクサは自身専用の部屋を与えられていた。
 それは彼が甲皇国の幹部であるからに他ならない。
 「…ロウよ」
 誰もいない部屋の中、トクサは厳かに呟いた。
 その言葉に反応してトクサの影から一人の人物が音もなく現れた。
 灰色の衣服に身をくるんだ人物だ。甲皇国の者が着用する衣服とは見た目が違う。頭巾で頭と口元も隠し、長い黒髪で右目も隠れている。
 ロウと呼ばれた人物は無言でトクサの命を待った。それを認めたトクサは口を開く。
 「直にミシュガルド大陸の調査兵団から艦隊の増援要請が届くでしょう。その文が誰かの手に渡る前に、処分してください」
 「………御意」
 一言そう発するとロウは再びトクサの影にもぐり姿を消した。
 それまで影の中に感じられた気配が今は完全に消えていることを認め、トクサは息をついた。
 「これで、しばらくの時間稼ぎにはなるでしょうかね…」
 そう一人ごちた時、部屋の戸が叩かれた。
 「入りなさい」
 そう短く返す。
 そろそろと扉が開かれ、一人の少女が中の様子を窺うかのようにゆっくりと顔を見せた。
 それが誰かを確認したトクサは深くため息をつき、ぴしゃりと言った。
 「何ですか、ハシタ。用があるなら早く入ってきなさい」
 少女の肩がびくりと震えた。
 「ごっ、ごめんなさい!」
 転がるように入って来た少女は給仕服に身を包み、紫色の髪をしていた。長い髪を後ろで一つにまとめ、今にも泣きそうな顔でトクサの顔を見上げている。
 「……で、何用ですか?」
 あくまで事務的に聞き返すトクサにハシタは小さく尋ねた。
 「あ、あの、申し訳ありません…えっと…アルフヘイムの火急の用件とは…」
 予想通りの質問にトクサは一瞬目をそらしかけた。
 が、隠しているわけにもいかない。彼女も丙家監視部隊の1人なのだから。
 「……皇国がアルフヘイムの領海に侵入する可能性が高まりました。このままではまた争いが始まってしまうかもしれません」
 ハシタは息をのんだ。
 「そんな…っ!それを防ぐための丙家監視部隊ではなかったのですか…!?」
 トクサはハシタを目で制した。ひっ、と悲鳴をあげてハシタは黙り込む。
 その過剰なまでの反応に寂しさに似た感情を抱きつつも彼女をたしなめた。
 「あまり声を荒げないでください。我らの存在は決して明るみに出てはならないのを忘れたのですか?」
 「もっ、申し訳ありません!!」
 頭をさげるハシタにトクサは静かに伝える。
 「僕らも予期し得ない事態でした。ここまで早く事が進むとは…。ホロヴィズももう少し慎重かと思っていたのですが…」
 ここまで強硬手段に出てくるとは、一体何があったというのか。
 これでは僕ら監視部隊の失態と思われてしまうではないか、とトクサは何度目かわからないため息をついた。
 
 丙家監視部隊とは、アルフヘイムが乙家と協力関係を結んだことで成立した、妖から成る部隊の事だ。
 甲皇国本土とミシュガルド大陸に素性を隠して幾人もの妖が派遣されている。
 その目的は丙家の再びの台頭の阻止。そのような隠密活動にむいていたのが、彼ら妖であったのだ。
 トクサは相手の心を読むことのできる覚だ。彼の護衛を務めるロウは影法師であり、ハシタは姿こそ人間の少女だが、その正体は鵺の亜人だ。
 この数年間、丙家が再び皇国の主導権を握らないようにと彼らは暗躍を続けていた。それは最終的に乙家の利益にもつながるのだが、とトクサはいまいち乗り気ではない面もある。
 だが、彼らの心を読む限り、邪な考えはないようだし、いがみ合っている場合でもないだろうとトクサは考えた上でこの任についているのだ。
 が、どうにも雲行きが怪しい。
 確かにホロヴィズといえば甲皇国の中でもかなりの強硬派で有名だ。
 だが、その動向から自分は目を離したことはない。確かに野心に燃えてはいたが、ここまで性急に事を進める背景があったとは記憶していない。
 トクサは思案しながらハシタに言った。
 「ハシタ、最終的にはあなたにも働いてもらうかもしれません。心構えだけはしておくように」
 「……はい」
 返事が遅い。
 トクサは胡乱気に目を細めた。
 「嫌なのですか?」
 ハシタは慌てて頭を振った。
 「いっいえっ…!ごめ、ごめんなさい…っ。……ただ、怖い…のです」
 「……」
 身をすくめるハシタをトクサは悼むような目つきで見下ろす。
 怖い。
 トクサが知っているハシタはそんな弱弱しい言葉を発しない。
 彼女はあの大戦でも奮闘し、隊の|殿《しんがり》を買って出たほどに勇敢な妖であった。
 それが、この変わりよう。
 トクサの脳裏に禁断魔法によって穢れたアルフヘイムの大地が浮かぶ。
 戦争末期、彼女は禁断魔法が発動されたまさにその場所で戦っていた。
 妖部隊をはじめ、獣人族や植物人族はエルフ族ではないという理由で彼らに切り捨てられてしまった。囮にされたのだ。
 結果として甲皇国軍は壊滅し、停戦協定のきっかけとなったのであるが、その背後には数多の犠牲があった。
 故にトクサはアルフヘイムにも信頼を置いているわけではない。元来、妖の故郷はアルフヘイムとは別に存在している妖の里なのだから、愛国心があるわけでもない。
 閑話休題、いずれにせよハシタは禁断魔法を直にその身に受けた。
 しかし、無事であったのだ。
 それがなぜかは分からない。
 以来ハシタは常に何かに脅えるかようになり、泣き顔が顔面に張り付いてしまった。
 自分の能力を使って彼女の心の内を探ろうとしたこともあった。だが、最後まで見ることができなかった。
 覚としての能力を行使する際、トクサの額には第三の目が現れる。その目に映ったのは、闇。
 否、闇ではない。闇よりも深い何か。それは、黒としか形容できないものであった。
 闇に生きる妖であるトクサでさえ、その黒に恐怖を覚え読心を中断してしまうほど。
 今でも氷塊が背筋を滑り落ちるその感覚が残っている。
 その黒を思い出すたびにうすら寒くなる。情けない話だが、500年の長きを生きた妖である自分が身をすくめてしまうのだ。
 何があったか、それは結局わからず終いであった。
 しかし、己の内にあの黒を抱えているのであれば、彼女の豹変も頷くことができる。
 今目の前にいるハシタは似て非なる、それでも確かにハシタであるはずで。
 苦虫を噛み潰した表情で、トクサはそうですか、とだけ応えた。
 悔しさとも悲しさとも割り切れない気持ちを抑えつける。

 そいえば、あの黒は。

 ふとトクサは思い出した。
 長らく甲皇国にいて忘れていたアルフヘイムの海洋が頭に浮かぶ。
 禁断魔法によって汚染された海。奇怪なことにその汚染域は意思を持っているかのように移動を繰り返しているという。

 ハシタの内に見た黒は、その海の穢れと同じ色をしていた。

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――――


 「海に行きたいわ」
 「行けばいいじゃん」
 いつもの酒場。今日も今日とて真昼間から客があふれ、酔っぱらいの歓声が絶えない。
 そんな中での発言。それに対して端的に返された言葉に、灰色の髪を長く伸ばした靴磨き屋の少女、ベルウッドは牙をむいた。
 「何よその気のない返事は!」
 「俺はこの大陸に遊びに来たんじゃないんだよ!」
 「トレジャーハンターなんて半分お遊びみたいなもんじゃない!!」
 黒髪は肩につかない程度で、運動のしやすそうな衣服。腰にさげるは荷物と短剣。矜持をさらりと逆撫でされたケーゴは吠えた。
 「他にも宿代稼いだり食事代工面したりと色々忙しいんだよ!文句があるなら俺に食事代を払わせるなーっ!!」
 「いつもごちそうさま」
 「どういたしまして」
 互いに一礼。
 そして一瞬で再点火。
 「でもそれとこれとは話が別ぅ!SHWがついに海水浴場を整備したっていうのよ!これは行くっきゃないでしょ!?」
 「何でそんなに行きたいんだよ。お前さ、海水浴場では靴磨きなんてできないんだぞ。みんな水着だろ?」
 「…あんたねぇ、そこまで自分で言っておいて本当に海に行きたくない訳?」
 「え?」
 ケーゴは素直にベルウッドの視線を追う。
 「……あ」
 そして間抜けに口を開けて一言。
 そこにいたのは。
 「ア、アンネリエ、さん」
 アンネリエさんと何故かかしこまって呼ばれた少女は呆れ顔でケーゴを見つめ返す。
 金髪の髪を程よくのばし、緑色のひらひらした服は涼しげだ。顔に浮かべる表情はさらに涼しげで、手には背丈以上にもなりそうな杖を持っている。一見おしとやかな印象を与える彼女の顔に浮かぶ呆れ顔はしかし、不思議とよく似合う。
 一方普段は呼び捨てにしているにも関わらず、思わずさん付けをしてしまったケーゴは要するに、と頭の中を整理した。
 海に遊びに行く。
 それはつまり、アンネリエも水着姿になるということではないだろうか。
 健全な妄想をしてしまい、ケーゴはぴきっと音を立てて固まってしまった。
 みるみるうちに顔が赤くなる思春期の少年の考えが分からないでもないアンネリエはしかし、彼の頭を杖で思い切り叩いた。
 「い゛っ…!」
 煩悩退散。むすりと顔をしかめたアンネリエの前でケーゴは痛そうに頭をさする。
 彼が涙を浮かべている間にアンネリエはさらさらと携帯型黒板に文字を書いていく。
 『仮に海に行ったとしても水着は着ない』
 「…何で…?」
 瘤になっていないだろうかと両手で頭をおさえるケーゴがのろのろと尋ねる。
 『そもそも水着を持っていない』
 「……あー」
 それもそうだ。
 言われてみれば自分だって水着を持っていない。
 トレジャーハンティングをしに来たのであって、泳ぎに来た訳ではないのだから。
 一連の会話を静観していたベルウッドはここで不満げな声を漏らした。
 「いいじゃないのよ!水着ぐらいその辺の店で売ってるでしょ!?」
 「で、それを誰が買うんだよ」
 「あんた水着買うくらいの甲斐性もない訳?」
 「こんの…っ!」
 「マスターケーゴ」
 危うく殴りかかりそうになるケーゴの袖をピクシーが引っ張った。
 手の平程度の大きさの妖精だ。しかし、体の各部が機械化されている。ピクシーは甲皇国が独自に作り上げた人工妖精なのである。
 話の腰を折られたケーゴはむすりとピクシーに目をやる。
 「何だよ」
 「私が地図を投影しながらマスターに案内するに、この地点に服飾店があります」
 「だからいかないって!」
 「それともう一点」
 「何」
 「私が自身を防水性であると誇りながら尋ねるに、私用の水着はあるのでしょうか」
 「知るかーーーーーっ!!!!」


 4人のやり取りを見ていたロビンとシンチーはくすりと笑みを浮かべた。
 「なんと言うか、微笑ましいなぁ」
 大きな荷物はさすがに傍に下ろしている。手元には原稿用紙とペン。濃い青色の髪はこの大陸の滞在期間中にずいぶんと伸びた。そろそろ切ってもらわなければ。はて、この大陸に床屋はあっただろうか。
 詮無いことを考え始めたロビンに向かってシンチーは律儀に頷いて返す。
 「そうですね」
 普段は後ろで一つにまとめている紫がかった髪を今はおろしている。どうやら彼女なりにリラックスしているようだ。褐色の肌に三本の角。半亜人たる従者は主の男を眺めた。
 机に原稿を広げてにらめっこの最中だ。どうやら行き詰っているらしい。
 一体何を書いているのやら、と覗き込んでみるとあの渓谷での出来事が書かれていた。
 思わず身を固くしたシンチーにロビンは穏やかに返した。
 「辛い出来事だったけど…俺は何かの形で彼がいたことを残したい」
 「…」
 答えは返ってこなかった。
 しかし、それが拒絶ではないとロビンは考え再び筆を執った。
 問題はウルフバードに彼らの存在は公にしないように頼まれたという点だ。
 さて、どうやってあの機械兵士たちを倒したことにしようか。この際匿名希望のUさんにしてしまおうか。
 いや、魔法が使える人間など限られている。種族不明匿名希望のUさんにしなければ。
 変なところで悩んでいるロビンから離れて、シンチーはふと初めてヒザーニャと出会ったテーブルを眺めた。
 今は髑髏を被った男が奇声を発している。こんな酔いどれだらけの場所で感傷に浸る方が無理な話か。
 シンチーは寂しげに席に戻った。
 と、そこでケーゴ達がこちらを見ていることに気づいた。
 「…何ですか」
 そっけなく聞く。
 慣れているケーゴはともかく、その物言いにベルウッドたちは少し緊張してしまう。
 仕方なく代表でケーゴが口を開いた。
 「なんかベルウッドがさ、おねーさんとおっさんの距離感が前よりも近い気がするって」
 何かあったの?
 ともすれば顔が噴火するかのごとき質問にしかし、シンチーは平然を何とか保った。
 恐らく気恥ずかしさよりもヒザーニャへの哀悼が勝っていたからだろう。
 「……何でもないです」
 「ふーん」
 「なんでもないねぇ…」
ケーゴとベルウッドはこんな時ばかりは息を合わせてシンチーに詰め寄る。
 逃げ道を探そうとシンチーが振り返ると、先ほどまではなかった酒樽が彼女の行く手を阻んだ。
 「何だか楽しそうな話してるわねん」
 酒樽に浸かっているのは酔っぱらってふらりふらりと均衡を崩しながら機嫌よく鼻歌を歌う人魚だ。
 「おや、ヒュドール。いらっしゃい」
 頭をかきむしっていたロビンも彼女に気づいたらしく挨拶をする。
 ヒュドールはケラケラ笑いながら体を揺らした。
 「いらっしゃいはわたしのセリフよぉ~?わたしはここのお店の人魚なんだからぁん」
 「違いないね」
 へらへら笑いあう二人をよそにそろそろとシンチーは移動を試みるが、すかさずヒュドールが彼女の腕を掴んだ。
 「…で、何の話?」
 「…関係ないです」
 「え~」
 口をとがらせるヒュドールを見ていたベルウッドが、あ、と何かに気づいたように声を漏らした。
 6つの視線が彼女に向かう。
 それに少し戸惑いながらもベルウッドはヒュドールを指さした。
 「水着着てる!」
 えっ、とケーゴが意識的に見ないようにしていたヒュドールの胸に目をやると、確かに貝殻を模した形の水着をつけている。
 ほぇえと眺めていると再びアンネリエに杖で叩かれた。煩悩退散。
 ヒュドールは嬉しそうにその水着を見やった。
 「これねぇ、ブルーがプレゼントしてくれたのよ」
 「ブルーが?」
 ケーゴが頭をおさえながら聞き返す。
 誕生日プレゼントだろうか。
 彼の考えを見透かしたようにベルウッドがため息をついた。
 「バーカ。誕生日じゃなくてもプレゼントはするでしょ?」
 「そうなの?」
 「男は好きな女に貢いでなんぼよ」
 「だからそんなに質素な服着てるのか」
 「どういう意味よぉっ!!」
 再び勃発した小戦争を無視してヒュドールはにへらと笑った。
 「この前ぇ、ブルーが買ってきてくれたの。緊張しっぱなしで可愛かったなぁ」
 彼のことだ。それはもうぎこちなくプレゼントしたのだろうと容易に想像がつく。
 それにしても、とロビンは思った。
 大の男が女性用の水着のしかも上だけ買っていくというのはどことなく狂気的だ。
 通報されなかったのだろうか。
 一方アンネリエは未だに舌戦を繰り広げるケーゴをちらと見た。どうやらこちらの視線には気づいていないようだ。腹立たしいことに。
 別に一緒に行動しているだけだし、不本意だが守ってもらうことも多いから特に貢がせようなどとは思っていないが、彼が何かを贈ってくれるなら受け取ってやらないこともない。
 ただ、ケーゴが女物を選ぶセンスがあるとはとても思えないのである。というか贈り物の才能がなさそうだ。
 ま、そこが彼らしいんだけど。
 本人が聞いたら表情を二転三転させそうなことを考えながら、自分は決して加わることのない口喧嘩を眺める。
 どうやらベルウッドが再び先ほどの話題に舵を切ったようだ。
 「そうだ!あんた水着買ったら!?アンネリエに!」
 「はぁ!?」
 女物の水着なんて買えるか!と叫ぼうとしたが、ブルーが贈った水着を着ているヒュドールの手前、そう邪険にも叫べずケーゴは戸惑う。
 助けを求めようにもロビンは原稿と格闘中、ヒュドールは酔っぱらい中。アンネリエとピクシーがこういう時に助けてくれないのは経験済み。
 「えー、あー…」
 おろおろしながらケーゴはシンチーを見やる。さっと目をそらされた。
 「あー……あっ、そうだおねーさん」
 しかしケーゴは諦めない。
 結局白羽の矢を立てられたシンチーは嫌々ながらケーゴの方を向く。
 彼は苦し紛れに常の疑問を彼女にぶつけてみた。
 「おねーさんって、怪我してもすぐ治っちゃうんだよね?」
 シンチーの向かいに座るロビンが少し反応した。
 それを認めつつシンチーは答えた。
 「…まぁ、大体は」
 「ならさ、どうしてお腹の傷は痕が残ってるの?」
 今度はロビンが確実に顔をあげた。
 ケーゴの言う傷跡とはシンチーの右わき腹にのこる傷跡の事だ。肋骨から腰にかけて割と目立つ傷跡であるが、70年にわたる大戦があったこの世界では特に珍しいものではない。
 が、思えばシンチーは再生能力があるのである。眼球も再生するのだから、それはもう強力な能力なのだろう。
 それが何故。
 黙り込んでしまったシンチーを首をかしげて眺めるケーゴの頭を今度はベルウッドが叩いた。
 「いってぇ!!何すんだよ!?」
 「あんたにはデリカシーってものがないの!?女性に傷痕のことなんて聞くんじゃないわよ!」
 「うっ」
 思い返せば初対面のアンネリエに話せと言い放ったケーゴである。慌てて謝った。
 「わわ、ごめん、おねーさん。俺、気が利かなくて…」
 「…いえ、別に。ただ、良い機会だし……」
 いつもの癖で言葉を途中で省略する。
 ロビンは作業の手を止め、シンチーの話を聞く姿勢をとっている。どうやら彼女の意思を尊重するらしく、自分で語ろうとはしない。
 「…私自身、何故この傷だけ消えないのかわかりません」
 「えっ…?」
 怪訝そうにケーゴは顔を歪めた。
 ではおねーさんは一体何を話そうとしているんだ。
 ケーゴに向かって頷き、シンチーはアンネリエとベルウッドに真剣な眼差しを向けた。
 「……ただ、この傷をつけた相手は分かっています」
 ロビンと出会うより前。否、ロビンと出会うきっかけとなった、あの出来事。
 「…当時奴らは女性を攫っては売り物にして各地を転々としていて…。私も奴らに襲われ、この傷はその時に」
 忌まわしい記憶。己の内に激しい炎が燃え上がる。
 眼前に未だに浮かび上がる黒い炎。そして黒づくめのあの少年。
 どうして捕まらずに命を狙われたのかはわからない。もしかしたら半亜人だったからだろうか。
 いずれにせよその時、シンチーは致命傷を負わされ生死の狭間をさまよっていたのだ。
 「…その時私を助け、面倒をみてくれたのがロビンです」
 ケーゴ達は初めて聞くシンチーの話を半ば呆然と聞いている。
 その様子を見てロビンはやっぱり全員自分の本読んでないんだなぁとしょんぼりする。
 シンチーは目を閉じたまま続けた。
 「あなたたちも気をつけた方がいい。もしターバンを巻いた金歯の男と、その付き人の黒い布で顔を隠した男をもしこの大陸で見つけたら…絶対に逃げなさい」
 純然たる警告。睨むがごとく見つめられたベルウッドとアンネリエは生唾を飲み込みながらも頷く。
 「奴らは…悪魔です」
 苦々しくシンチーはそう吐き捨てた。

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