19話 ビビの祈り
山の中に小さな聖堂が打ち捨てられていた。
遠目には、精霊への信仰の永遠を語るように漆喰の白壁が美しく見えたが、近くまで寄ると扉は外れて右に傾き、壁に大穴が空き、そこからぼろぼろと崩れた石粉が舞い飛んでいた。
「山の神様……どうか、どうか、あたしに……力を……」
聖堂の中で、一人のエルフの少女が片膝をつきながら祈りを捧げていた。
まだ幼い顔立ちで、赤い髪を二つ結びにして垂らし、擦り切れてつぎはぎだらけの麻の服をまとっている。
だが、ぼろを着ていてもその赤い瞳は何よりも気高く、美しく、澄んでいる。
まだ、世の中の汚れを知らないその瞳は、明日は今日より良くなると信じて疑わない純真さだけがあった。
「……」
祈りを済ませ、少女は立ち上がる。拳をぎゅっと握りしめ、決意に満ちた赤い瞳を煌かせた。
少女ヴィヴィアことビビは今日で13歳となっていた。
アルフヘイムびとは精霊への信仰を欠かさない。土、風、火、水…あらゆる自然に神々、即ち精霊が宿ると考えられている。
甲皇国、ダヴの民が「ダヴの神」を唯一神として崇めるのとは明確に違う。ダヴの民にとって神とはみだりに軽々しく名前を出して良いものではなく、絶対的で畏怖の対象だ。
対しアルフヘイムは多神教というべきか、より原初的な精霊信仰であり、神々は身近な存在である。
中でも、今や聖都となっているセントヴェリア…その中心にそびえる世界樹には「ウコン」と「ゴフン」と呼ばれる夫婦神が宿ると言われており、民の信仰は篤い。
実際、それら精霊が宿る自然物は、例えば精霊樹、精霊石、精霊水などと呼ばれ、様々な恩恵をアルフヘイムにもたらしてきたのだ。
実り多き豊かな収穫、病苦に対する安らぎの薬、永遠のような長寿、戦いに打ち勝つ強い武器……。
精霊から力を引き出す技術は、最も古い種族であるエルフが牛耳っている。彼らは古代ミシュガルド時代からずっと存続している種族であり、ミシュガルドから受け継がれた技術や文化を高いレベルで再現し、精霊がらみの富や権益を独占、ゆえにアルフヘイムの貴族面をしていられるわけだ。
だが、他種族でも精霊への信仰が篤く素質のあるアルフヘイムびとであれば「巫女」や「聖戦士」などと呼ばれ、独自に精霊の力を引き出すこともできた。
「ビビ、今日のお祈りを済ませてきたの?」
柔らかい声をかけられ、ビビはそうだよーとそっけない調子の声で返す。
ヴィヴィアという古めかしいエルフの名前は発音が難しく、周囲からはビビとも呼ばれるのだ。
「ご両親はきっと無事よ。ビビの祈りはきっと届くわ。あなたのような可愛らしくて良い子の頼みを聞かない神様なんていない」
「……うん、ありがとー。ミーシャ」
真剣に自分の心配をしてくれている様子のミーシャに、ビビは何だか申しわけない気がして愛想笑いを見せる。
───あたしは、そんなに良い子じゃないのにさ。両親のことじゃなく、力を欲して祈りを捧げていたのだから。
「きっと神様は、ビビや私たちの願いを聞き届けてくれて……」
そんなビビの内心などいざ知らず、ミーシャはまたうっとりとした調子で語りだす。
年のころは18か19ほどか。アルフヘイムびとでは珍しい人間の娘ミーシャは、地味な顔立ちで、決して美人ではないが何となく安らぎを覚える笑顔が魅力的だった。
「神様のご加護を得たクラウスが、私たちを助けに来てくれるわ!」
───と、ミーシャ・クルスは幼馴染であるクラウスを信じて疑わない瞳で語った。
かつて離れ離れになった幼馴染は、さる先月、とある甲皇軍の要塞で蜂起した奴隷たちのリーダーとなっていた。
その噂を聞き、ミーシャも大変驚いたものである。
(まさか、あのぼーっとしたクラウスが、そんな)
だけど彼は頼りなさそうに見えるが、芯は強い人だった。ミーシャは人づてに聞こえてくるクラウスの噂に胸をときめかせ躍らせた。
クラウスは付近の要塞でも同じように奴隷たちの蜂起を促し、次々と甲皇軍の武器弾薬を奪い、奴隷たちを戦士に変え、今や「クラウス義勇軍」を組織する英雄とされていた。
そのうち、クラウスがきっと迎えに来てくれる。
ミーシャはことあるごとに嬉しそうにクラウスの話をして、みなに希望を持つように呼び掛けていた。
ビビやミーシャがいるその野山には、およそ100人近い村人達が疎開している。エルフ、人間、ドワーフ、虎や狼の亜人などなど、様々な村から逃げてきた雑多な種族の人々が小屋を建てて共同生活をしていた。
甲皇軍は人間至上主義を掲げて侵略しており、アルフヘイムびとではマイノリティとなる人間はともすれば甲皇人と同一視され、迫害を受けてもおかしくはない。
だがミーシャは違う。人々から熱烈に慕われ、頼られている。
彼女は薬草や香草を扱う店の娘であり、野山での疎開生活でも食べられる野草の種類に詳しく、薬草で人々の傷を癒すこともできる。料理も上手く、ありあわせの食材で栄養価の高い食事を人々に提供していた。また、老人や子供の世話を嫌な顔一つせずに楽し気にやっている。
ミーシャ、今日の晩飯は何? 香草と鳩肉入りの麦粥よ。
ミーシャ、フレッドとイアンが喧嘩してるよ! ダメじゃない。仲良くしなきゃ。ごめんよ~ミーシャ~。
ミーシャ、マルセル爺さんがせき込んでるんだけど…。今いくわ。大丈夫、この薬湯を飲めば良くなるわ。
ミーシャ、ミーシャ、ミーシャ……。
今やミーシャがいなくてはこの疎開生活は成り立たないほどであり、彼女はみんなのお母さんなのだ。
クラウスが頑張っているんだもん。私も頑張らなくっちゃ……そう、ミーシャは明るく話すのだった。
そんな光り輝く笑顔を振りまくミーシャを、ビビは眩しそうに見つめる。
甲皇軍の侵略で村を焼け出され、ビビもエルフの両親が囚われ連れ去られてしまった。他の村人に混じって逃げたビビだが、野山ではぐれてしまい、1人で寂しく二週間も野山をさまよった。ひもじくて死にそうになり、もうダメかと思われた時、ミーシャに拾われたのだ。
(だからミーシャには感謝しているし、お母さんみたいに思っているけど……でも、本当の私のパパとママは……)
ふと暗い影がビビの顔にさす。
もう、両親は死んでいるかもしれない。
甲皇軍の亜人の捕虜に対する取扱いの酷さはビビも噂で聞いている。
抵抗する者は皆殺しにされ、従順な者でも男は奴隷として労役に、女は性奴隷とされ、または凄惨な人体実験の素体とされているという。
だから、無事に両親を取り返せるとはビビも思っていない。
ただ、このままでは済まされないのだ。
「殺してやる。絶対に殺してやるんだ!」
狼の亜人が白い牙を剥き、殺意にまみれた言葉で激した。
ロー・ブラッドは2メートル50センチの大男だ。まとった薄手の肌着はみすぼらしく汚れて生活の厳しさを感じさせるが、肌着姿だけに上半身の逞しさが良く分かる。
彼には美しいエルフの妻と2人の子供がいた。エルフが夫に獣の亜人を選ぶのはめったにないことで、周囲からは美女と野獣と言われて茶化されたものだ。だが彼は特段気にすることもなく、真面目で温厚な働きぶりを見せていた。自分の畑を耕すよりも、賃雇いで働きに出ることの方が多い。ここ最近は領主のムゥシカ家の農場に雇われていた。働けど働けど楽にならない暮らしだが、祈り、耕し、美しい妻と子供2人が待つ家に帰る生活は幸福だったと言える。
それが甲皇軍の侵略により、一夜にして暗転する。
「何を迷うことがある! 今すぐやつらの陣地に殴りこみ、片っ端から殺せばいい!」
ローは棍棒を振りかざす。その棍棒に、自身の両目から流れる血がまとわりつき……やがてその血が鋭利な刃となる。
精霊に善悪などは無い。信心深い者の願いであれば、呪いの祈りも聞き届ける。
妻子を守ろうと戦ったが敗れて重傷を負ったローの目の前で、エルフの妻は凌辱され…子供二人がバラバラの肉片にされた。暖炉の火で炙られた子供の焼肉を、妻は無理矢理食わされた。発狂する妻を甲皇兵どもはゲラゲラと笑いながらも繰り返し犯し、最後に嬲り殺した。その一部始終をローは目撃させられ、血の涙を流す。その時だった。
「あいつらに報いをくれてやらねばならない! 皆殺しだ!!」
ローの怨嗟を聞き遂げた精霊が、彼に血を自在に操る魔法の力を与えた。
彼は失明するほどの出血をするが、代わりにその場にいた甲皇兵を血の刃により皆殺しにしたのだ。
だが、彼の怒りは止まらない。すべての甲皇兵を皆殺しにするまで、彼は止まることはないだろう。
「でも、銃を持った甲皇兵にどう立ち向かうというのですか。戦えるのはロー、あなたとたった数人だけだというのに」
死にに行くようなものでしょう。冷静に、諭すように言うのはミーシャだった。
切り株に腰かけ、野山の疎開民の主だった者たちが会議をしていた。
先程から過激な発言を繰り広げる急進派の代表者がロー。
戦えない女子供を代弁する穏健派の代表者がミーシャ。
主にその2人が論戦をしているが……。
「くそったれ、この憤りを、俺はどうすればいいのだ…!」
「だから待ちなさい……そう何度も言っているじゃない。クラウス義勇軍は、いずれこの地にも辿り着いて、私たちを助けてくれるわ」
「それまで待てと!? 甲皇兵どもが目の前でのさばっているというのに!」
過激な発言を繰り広げるローでも冷静に考えればミーシャの言うことの方が正しいのは分かっていて、イライラを募らせるだけでいつも終わっている。
だが一方で、悪意を持って煽ってくる者もいる。
「だけどよぉ……そもそも、こうなったのは貴族のエルフどもがだらしねぇからじゃねぇか。なぁ、イコ」
「そうそう。俺たちが身を粉にして働いて、税を納めているのは何でだよ、サコ」
「えー、おらっちには難しいことは分かんねぇよ、リャコあにきぃ」
イコ、リャコ、サコの虎人三人兄弟だった。
イコは頭が良く、リャコは口が上手く、サコは力が強い。
まだ若く、素行が悪いことで知られ、ちんぴら扱いされてきた。
そんな彼らも一応は「戦える男」ということで、ローと同様に急進派に属していた。ただし、純粋に甲皇軍と戦おうと願うローと違い、自分たちだけが得をすれば後はどうでもいいと考えるのが虎人三兄弟だった。
「ばっかだなーサコ、殿様が悪いんだよ」
口が達者なリャコが続ける。
「高い税を払っているのは何のためだ? てめぇらを守ってもらうためじゃねぇのか? なぁ、なけなしの麦を納めて、てめぇらは拳骨を食らいたかったのか? 妻を凌辱されたかったのか? てめぇらは玉無しかよ!」
「違う、それは違うわよ。リャコ」
リャコの口車にみなが乗せられないように、勇敢にもミーシャが声を荒げた。大体、身を粉にして働いて税を納めているとか嘘おっしゃい! あんたたちロクデナシどもは、いつものんべんだらりと村人から金をせびってその日暮らししているちんぴらじゃないの! と、ミーシャがずばり指摘すると、村人たちから失笑が沸き起こる。
「それはおいといてだ」
ばつが悪そうにリャコは反論する。
「そんな俺たちでも逃げずにここで戦おうってのに、キルクの殿さまときたら何してるってんだよ」
「キルク・ムゥシカさまは立派な殿さまよ。善政に努めておられて、私たちの暮らしぶりは裕福ではないけどそれなりに良かったわ」
「じゃあ何で、殿さまは俺たちを守って戦ってくれねぇんだよ」
「それは……より高位のエルフの貴族の召集を受け、セントヴェリアに行かなければならなかったんだから仕方ないでしょう。ああでも、ご子息のヴァニッシュド様がおられたけど、あの方は……」
「あの道楽息子どのは前線で勇敢に戦っておられるねぇ。黒龍騎士だの、月影の騎士だの、黒のフュルスト(侯爵)だの、ダークピカチュウだの言われて称えられているとか。けっ、何か侯爵だよ。てめぇは貴族で一番下の男爵でまだ家督も継いでねぇじゃねーか」
それからも口汚くリャコは貴族たちを糾弾した。普段ならちんぴらのリャコの言うことなど誰も気にも留めないだろう。しかし、復讐心に駆られた村人たちの精神状態は普通ではないのだ。
「……まぁ、だから貴族どもは、俺たちのことなんざ気にもしてねぇだろうな」
「………」
ミーシャは口をつぐみ、それ以上は言い返せない。
確かにリャコの言うことも一理あるのだ。
領主たるもの領民を守る義務があるというのに、領主のキルクは聖都に召集を受けたからと出かけてしまい、留守を預かったはずの領主の息子ヴァニッシュドは戦争好きで領民のことなど気にせず前線に行ってしまった。
キルクはそれならと代わりの部下を領地によこしたが、それが能力及ばず……というかそもそもキルク程度の小貴族が賄える兵は多くない。だからヴァニッシュドも領民を守る地味な戦いよりも、より英雄的に戦えるであろう前線へ行ってしまったのだ。
その結果、ムゥシカ家領内は甲皇軍の侵略によって荒らされてしまった。
だが、キルクにしろヴァニッシュドにせよ領民を守るために戦っていたとしても、圧倒的な甲皇軍に勝てるはずもない。半ば仕方のないことなのだ。
だからミーシャも、他の穏健派の者たちも領主を恨む気にはなれない。野山に逃れたので、戦火に巻き込まれたとはいえ命は助かっている。
だが、急進派の、特に身内を殺されたり凌辱されたり大きな被害を受けている者たちの怒りは収まらない。
リャコはなおも言い募った。
「だからよぉ、貴族なんざに遠慮するこたぁねぇ。キルク・ムゥシカの屋敷を奪いに行こうじゃねぇか」
何をとんでもないことを言うの! ミーシャはびっくりして叫んだ。
いくら力及ばず守れなかったといっても、殿さまは守ろうとはしてくださっていたのよ。それなのに。
「昨日、偵察に行ってきたんだが、あの屋敷は甲皇軍の兵士どもが好き勝手に略奪してねぐらにしてやがるんだ。だが、甲皇軍の主力はもうもっと先へ進軍しちまった。だから、あそこの屋敷にいるのは大した数じゃない。せいぜい二、三十ってところだな。しかも厄介な銃なんかも見当たらねぇときた。刀剣しか装備してねぇ。たぶん後方部隊だからだろう」
おお、それならば。
急進派が色めき立った。それならば、何とかなるかもしれない。
死んでいった妻や子供の仇を、残された者たちの悲しみを、癒してやれるかもしれない。
虎人三兄弟は、流れが変わったことにほくそ笑む。彼らの狙いは明白で、戦いにも、復讐なんぞにも興味はないが、貴族の屋敷ならまだ甲皇軍が略奪した後でも金目の物が残っているだろうということだった。甲皇軍が完全に立ち去ったならもう何も残っていないだろうが、まだいるというならその兵士どもが略奪物を持っているはずだ。それを火事場泥棒的に手に入れたいだけなのである。
「これは聖戦だ。俺たちは聖戦士だ!」
ローが棍棒を高く振りかざしながら言った。
おお、おお! それに応える勇ましい男達。
「やつらを血祭りにあげ、死んでいった者たちの魂を慰めるのだ!」
「駄目よ、駄目よ、みんなを危険にさらすことに……」
「クラウスだってできたんだ!」
その名に、ミーシャはまたも口をつぐむ。
クラウスだってできたんだ! 俺たちにできないことはない!
怒号が野山に木霊し、方針は急進派によって押し切られた。
「行きましょう、ビビ」
ミーシャは嘆息し、ビビの手を引っ張る。
ばかな男たちだわ。たかだか二、三十の甲皇兵を殺しても何にもならないじゃない。それでこの隠れ住んでいる野山まで標的にされたらどうするのかしら。ああ、ここも早く引き払わないといけないわね…。そんなことを呟くミーシャの声は、ビビには届いていなかった。
「あたしも行くよ」
ミーシャは心底驚いてビビの顔を見た。
その顔に迷いは無く、澄んだ赤い瞳に僅かに怒りをたぎらせていた。
「ミーシャ、あたしだって……パパやママの仇を取りたいんだ」
満月の夜だった。田舎なので夜は真っ暗闇になるが、ほのかな月明りだけでも僅かに屋敷の様子が窺い知ることができる。襲撃にはちょうどいい。屋敷はどうやら明かりを落として寝静まっているようだ。チャンスである。
ローを筆頭に、虎人三兄弟、ビビ、それに幾人かの村の男達が武装し、キルク・ムゥシカの屋敷へと歩を進めていた。
そこをねぐらにしている甲皇兵を皆殺しにするのだ。
「ビビ。俺についてきてくれて、感謝している」
野山から降りてくる途中で取った小休止の時。
ローが盲いた目をビビに向け、驚くほど穏やかな声で言った。
「えっ…!? う、うん……」
そうだった。今は猛り狂っているように見えるが、元々は妻子思いの優しい男なのだ。
「だが、君のような少女までが戦いに身をさらすことはない。戦いは男たちに任せ、君は後方に。そしてもし我々が敗れた時……君がみんなにそれを知らせに逃げて欲しい」
「ローさんの子供さんたちは、あたしと余り変わらない年頃だったんでしょ」
「……そうだな。だから……」
「あたしのパパとママも、ローさんと同じぐらいの年だったんだよ」
「…………」
「きっとローさんの子供さんたちも、ローさんがいなくなったらこうしていたと思うんだ」
それ以上、ローは何も言えなかった。
彼の目に、血ではない透明の雫が溢れてしまっていたから。
「……だがよ、ローの旦那の言う通りだぜ。俺たちについてきて本当に良かったのか、ビビちゃんよー」
イコがぼそぼそとビビの耳元に囁いた。
この虎人三兄弟は、強い者にはへりくだって弱い者には尊大で、要は小悪党だった。そして利用できるものは何でも利用してやろうと損得勘定で動く。新しい仲間とはいえ小娘にしか過ぎないビビに対し、値踏みする目で見ていた。
「大丈夫だよ。あたしだって戦える」
木こりに使う片刃の斧を手に、ビビは明るく答える。
「それならいいが」
イコはふっと邪悪な笑みを浮かべた。
「酷い光景を見るかもしれねぇが、覚悟しておくんだな」
その言葉は本当だった。
キルク・ムゥシカの屋敷では、戦いではなく、虐殺が行われたのだった。
残っていた甲皇兵たちは、前線から撤退してきた負傷兵だったのだ。
略奪をしていた訳ではなく、単に占領地域で安全と思われたその屋敷で傷を癒していたに過ぎない。
だが、ローや村人たちはお構いなしだった。
相手が殆ど動けないほど重傷の負傷兵ばかりだったとしても、甲皇兵の軍服や鎧をまとった人間が相手ならば容赦はない。
人間の手足や内臓が散乱し、血だまりが屋敷中の床を文字通り赤く染めた。
「ううっ……」
びちゃびちゃと、ビビはその赤く染まった床に吐瀉した。涙も溢れて止まらない。
僅かな数の負傷兵を虐殺したに過ぎないのに、ローやその仲間たちが勝利の雄たけびをあげている。
虎人三兄弟は屋敷にめぼしいものがないか略奪に忙しいようだ。
負傷兵の中に、甲皇軍にちらほらと目立つようになった女性兵がいたらしく、村人たちがズボンを下ろして鈴なりに群がっていた。
果たして、自分が本当に見たかったのはこんな光景なのだろうか。
ビビは屋敷の片隅に座り込み、膝を抱えて俯く。
───この、クソ亜人どもが。
眩い閃光が幾つも走った。
村人たちは何が起きたのか一瞬分からない。
だが、最期に見たのは自らの体が弾け飛んでいく光景だったから、理解することは永遠にないだろう。
「よくも同胞をやってくれちゃったなぁ~~魔法実験の練習台にしようと思っていたのによぉ~~」
異様な風体の男が屋敷に入ってきていた。
目のあたりに赤い化粧か刺青を施していて、毛皮や羽毛を潤沢に使った派手な衣装をまとっている。軍人と名乗らなければ道化師と間違われそうな姿である。
ウルフバード・フォビア。甲皇軍には珍しい魔法の使い手。
彼の呪文により、村人たちは体を四散させたのだった。
「一体……何をやった、貴様ぁ!」
ローがウルフバードの前に立ちはだかる。やっと強そうな敵に出会い、興奮し、白い牙を剥いて獣らしく威嚇する。そして魔法による血の刃を棍棒に巡らせる。
だが、ウルフバードは臆する様子も無く、ローの質問にも答えない。
「後方に送られた負傷兵どもを、好きにして良いと言われたからこんな田舎くんだりまでやってきたのによぉ~~」
パチン、とウルフバードは指を鳴らす。
途端に、ローの血の刃の棍棒が爆発した。
棍棒の破片がローの体を痛めつけ、爆風によって壁に叩きつけられる。
ウルフバードは水を自在に操り、爆発させることができるのだ。
厳密にいえば、至近距離まで近づかなければ水を爆発させることはできず、ゆえに自身も傷ついてしまうから大爆発を起こすこともできず、実戦には余り向かない。
そして彼は部隊を任されても、戯れに部下を爆殺したりする嗜虐的な性格のため、余り大部隊を任されることもない。
だが丙家に連なる血筋の貴族であるから、軍でも蔑ろにはできず、様々な特殊任務に当たらされることも多い。
今回は後方に送られ、重傷で戦線復帰の見込みがない負傷兵の処分を任されていたのだった。
そう、どのみちローたちが襲撃しなくても、この屋敷で虐殺が起こるのは避けられないことだった───。
「な、何が起こった……!?」
「頭の悪い亜人どもには理解できないことさぁ~~」
ウルフバードはにやにやと笑い、指先をローに向ける。水を爆発させる呪文。血も水分を含んでいる。血を操るローにとって相性は最悪と言えた。
「くそっ……こんなところで……」
ローは死を覚悟した。
共に来た村人たちも、士気はまったく高くなかった。ローがやられたのを見て、慌てふためいて逃亡した。虎人三兄弟など真っ先に姿をくらましていた。
そんな状況なのに。
「……離れろ!」
ビビだけが、勇敢にも片刃の斧を両手で握りしめ、ローをかばうようにウルフバードの前に立ちふさがったのである。
「うひゃひゃひゃひゃ!」
哄笑するウルフバード。
「震えてるじゃねぇか、お嬢ちゃん。そんなので戦え……がっ!」
油断である。ビビは類まれな跳躍力で一気にウルフバードとの間の距離を詰め、その鳩尾に強烈なパンチを叩き込んだ。
「ぐおおおおおおおお!」
びちゃびちゃと、吐瀉物を撒き散らすウルフバード。
「こ…この……が、ガキでも亜人は亜人か!」
つい、とウルフバードが指先を自分に向け、その指先に走る光をビビは見た。
───これは。
精霊だった。甲皇軍は精霊を信じないというが、魔法を使うからにはやはり精霊からの力を借りねばならない。
ウルフバードの指先には水の精霊の加護が見られたのだ。
ビビには精霊が見えていた。そう、先程より、体の底から力がみなぎっていた。
「な……なぜだ!?」
ウルフバードは戸惑う。ビビの体内の水分を爆発させ、爆殺しようとしているが、いっこうにビビにその呪文がきかなかった。
ビビの祈りが聞き遂げられていた。
精霊の加護により、彼女の身体能力は何倍にも引き上げられていたのだ。13歳の少女とは思えない素早さ、怪力、そして勇気。
跳躍したビビは、ウルフバードの頭上から降下し、彼を踏み潰した。
「ンゴォォォオォォ!」
情けないうめき声をあげ、ウルフバードは屈服した。
「お、覚えていなさいよ~~!」
ウルフバードが負け犬の遠吠えをしているが、ビビは無視して立ち去っていく。
その後、更に後方からの甲皇軍の増援部隊が迫っているという、他の村人からの知らせにより……。
負傷したローを死なせる訳にはいかないからと、ビビは巨体のローを軽々と担いで屋敷を脱出したのだった。
「なぜ、あいつを殺さなかった」
気絶していたと思われたローが目を覚ましていた。
「だって……」
まだ、人を殺すほどの覚悟はできていなかった。
そうだろうな、とローは小さく微笑む。
「ビビのおかげで命拾いをした。だから何も言わん。だがやはり、君は戦いに出るべきではないな……」
「うん……」
ビビも悩んでいた。このまま戦いに身を投じていいものか。
祈りが通じて力は得たが、この強すぎる力をどう使えばいいのか分からない。
「クラウス義勇軍か……」
ローが小さく呟いた。
「噂を聞く限り、彼らは清廉潔白な連中なのだろうな。ビビもそこでなら、答えを見つけられるかもしれない」
「そうかな?」
「ああ。だが私は違う……もう、答えは見つけている」
「ローさん、これからどうするの?」
「私はもう、後戻りはできないのさ」
ビビはミーシャたちの元へ戻った。そしてその後、ミーシャたちを迎えに来たクラウス義勇軍に参加することになる。
だがローは、クラウス義勇軍には加わらず、彼らとは別の戦場を、アルフヘイム正規軍に加わることを選ぶのだった。
あの時、もしビビがウルフバードを怒りに任せて殺していたら……またビビもローと同じ道を歩んでいたかもしれないが……。
ビビ、そしてローの祈りは聞き遂げられた。
だがその祈りの先にある答えは、各々違うものだったのである。
つづく