31話 アウグストの受難
───眩しい。
目覚めた時、すぐに眼に入ってきたのは眩い蝋燭の炎だった。
顔を背けようとするがかなわない。手、足、胴体、首回り…と、体中を鉄の鎖でぎちぎちに縛られ、顔の向きを変えることすらできなくされていた。
そうだった……僕はあの裸みたいな恰好のエルフの少女戦士に負かされ、捕らえられたのだ。
甲皇軍のスパイとして、アルフヘイム軍の誇るボルニア要塞に潜入し、彼らの内部を掻き乱す作戦は成功していたのだが…。
兄上が軍を動かしたので、それに駆けつけようとボルニアを不用意に出たのが拙かった。
連れのジョニーはどうしたのだろう。
恐らく二人ともボルニアに連れ戻され、投獄されたらしい。
僕が捕らわれているこの牢は、蜂の巣のような狭い個室が連なるボルニアでも特に狭い個室だった。
僕の他には誰も見当たらず、ただ蝋燭の炎が鬱陶しく顔を照らす。
恐らく、眠らせない拷問なのだろう。
「ふぅ……」
僕は嘆息する。
これから先、殆ど一睡もできない覚悟が必要だ。
かつん、かつん、かつん…。
遠くから乾いた足音が近づいてくる。
やがてそれは僕の目の前で止まった。
「無様な恰好だな」
高慢な声。人の事を見下した目つき。
金ぴかの鎧に身を包んだその鼻もちならない男は、エルフの将軍フェデリコ・ゴールドウィン。
僕はほっと胸をなでおろした。
「……あんたか。良かった。早くここから出して───」
言い切ることもできず、顔に熱い衝撃が走る。
フェデリコの軍靴が僕の頬を蹴り飛ばしていた。
「黙れ、小僧」
「ど、どういうことだ…?」
混乱した。フェデリコはラギルゥー族の使い走りであり、クラウスを陥れるのにも協力をした男だ。
甲皇軍がアルフヘイムを飲み込もうとしている戦況の中で、保身を図り、僕たちに寝返っているはず。それなのに──。
「貴様の兄とやらは使えんな。甲皇軍はナルヴィア大河から撤退したぞ」
フェデリコは周囲に聞かれるのを警戒しながら、そう小声で僕に囁いた。
耳を疑う。
甲皇軍が敗れ去ったというのか…!?
「甲皇軍も案外大したことはないな。寡兵のクラウスごときに、ユリウスは追いつめられ、殺されかかったというではないか」
「馬鹿な! 兄上が負けるはずはない…」
「負けてはおらんな。互いに惜しいところで痛み分けだったという話だ。が、それでは話にならん」
不満そうなフェデリコの表情を見て、アウグストは察した。
こいつは甲皇軍がもっと強大なものと思っていたのだ。だからアルフヘイムを裏切るというラギルゥー族の選択にも乗った。
しかし、現状は引き分けとなり、戦線は膠着しているのだろう。
その状況ではすぐに立場を明確にすることはできない。
ゆえに、今この場では、アルフヘイムの将軍を続ける必要があるのだ。
「中途半端なことだ。目障りなクラウスだけでも葬り去ってくれればよいものを……」
「兄上はまた立ち上がる。撤退は一時的なものに過ぎないだろう。だから、今は私を解放しろ」
「はっ……」
フェデリコが馬鹿にしきった笑みを見せる。
「ほざくな、下郎が!」
フェデリコの軍靴が眼前に迫る。顔、腹、体中を蹴られ、踏みつけられた。
「貴様たちさえ上手くやっておれば…! この戦果をもとに、クラウスはますます増長する。周りの連中も英雄ともてはやすことだろう。どうしてくれるのだ!」
……やはり、この小心者は保身しか考えていない。自分の貴族としての地位さえ保つことができれば、甲皇軍が勝とうがアルフヘイムが勝とうが、どちらでも良いのだ。
「愚かで、無能な! 人間どもが!」
人が鎖で縛られて動けないのを良いことに、フェデリコは執拗に、容赦なく蹴ってくる。この程度、大して痛まない。少し腹立たしいだけだ。
───それにしても。愚かで無能とは。それは貴様のことだろうが。
今回は甲皇軍が撤退したのかもしれないが、いずれまたアルフヘイムを飲みこまんと襲い来るだろう。
その時になってまた泣きついてくるつもりか?
この僕にこんな真似をしておいて…。
ああ、そうか。少し前に僕が逆にこいつを脅すように近づいていたが、それが腹立たしかったのか? 人間ごときにびびらされたのが。
「そのへんにするのだな」
聞き覚えのある、渋くて低い中年男性の声。
顔も蹴られていて、まぶたのあたりを切ったらしく、良く見えないが…。
「その声は……」
「久しいな、アーベル」
親し気に僕をそう呼ぶのは、やはりダンディ・ハーシェル。父ゲオルクの友人の傭兵だ。
どうやらナルヴィア大河から戻ってきたらしい。
「……私はアウグストだ!」
即座に僕は否定し、ダンディを睨み付ける。
「まったくお前も強情だな。ユリウスというのは古代ミシュガルドに君臨した王の名だという。アウグストもそうなのだろう? いくら兄を慕っているからと言っても、父のつけてくれたアーベルという名を捨てるほどとは」
ダンディは呆れたように肩をすくめている。
くそ、こんな鎖に縛られていなければ、その髭面を平手打ちしてやるものを。
「ところでフェデリコ将軍」
ダンディはがっしりとフェデリコの肩を掴む。
その力強さに、フェデリコは怯む。
当然だ。ダンディのような名のある戦士とこの小心者とでは、格が違う。
「……捕虜への尋問は、手続きに則ってして頂かなくては困りますな。彼はクラウス軍の兵士が捕らえたのだから、管轄はクラウス将軍になる。なぜ貴方がでしゃばるのかな?」
「……ぬぅう! に、人間族ふぜいが!」
「おやおや、お得意の差別主義ですかな? ところで先程、その捕虜と何やら興味深い話をされていたようですが……」
フェデリコはぞっと青ざめ、必死に首を振る。
「な、な、何の事かね! わ、わ、私は何も知らんぞ!」
それ見たことか。
先程の会話を聞きとがめられていたのだろう。
まったく不用意な男だ…。
「消えろ、クソエルフ」
僕が吐き捨てるように言うと、フェデリコは慌てふためき逃げていく。
追求しようとしていたダンディは舌打ちした。
小心者、恩に着ろよ。
「まぁいい。あいつは後だ……アーベルよ、大丈夫か?」
ダンディは、フェデリコに見せていた険しい表情とは打って変わり、僕に優しく微笑んだ。
「酷い怪我をしているな。どれ、見せてみろ…さすがに治癒魔導士は連れてこれんからな」
消毒薬、軟膏、ガーゼ、包帯。フェデリコに見つからぬよう、治療道具を懐に隠していたようだ。
片膝をつき、傷の手当てをしてくれる。ダンディの無骨でごつごつした手。戦士の彼は、戦場で同僚への傷の手当もしてきたのだろう。巨大な剣を振り回すだけが能という訳ではないらしく、意外にも器用だった。
「ゲオルクはお前のことを案じていたぞ」
「……」
気まずい。
厳格な父ゲオルクのしかめっ面が、ダンディの顔に重なって見える。
父の友人に言われたためか、父に叱られた気分となる。
(───アーベル! 情けないぞ! さぁ、剣を持って立ち上がれ!)
父のことは嫌いというか苦手だ。
僕には剣の才能は無いというのに、父は僕に期待をして過酷な修行を課した。
10歳の時、崖の上から突き落とされ、脳内麻薬を出して死の恐怖に打ち勝てと言われた。全身を岩にぶつけてぼろぼろになっただけだった。
12歳の時、50~60キログラムもある王者養成ギプス(全身を包む板金鎧)を装備した上で、114514キロメートルも全速力で走れと言われた。肺が潰れ足の筋肉がちぎれかけた。
14歳の時、裸で滝の中に立たされ、冷たい水が体を打つ中で剣の素振りをしろと言われ、更に崖の上からわざと石を投げつけてこられた。頭に何度も石を落とされて流血した。
16歳の時、王者養成ギプスを装備したまま、シャークロン(サメのような魔物)がうようよする海域に突き落とされた。溺れかけたし食われかけた。
……よく死ななかったものだ。
どうも僕をハイランドの後継にしたがっていたようだが、僕にそれを務める自信は無かった。
(───弟だと? 私の弟や妹は、みな私を殺しに来る敵に過ぎん。貴様は違う? では、役に立ってみせろ)
だから、甲皇国の兄上を頼ろうとした。
兄上も厳しい人だったが、厳しいだけの父と違い、時々優しい。
何より、僕を愛していて、僕を必要と言ってくれた。
……利用されているというのは薄々感じている。
でも、父の元にいるよりは……。
兄上から愛されたいと思うのだ。
蝋燭の炎がゆらゆらと揺れている。
フェデリコもダンディも一人でこの地下牢に来たようだ。地下牢に通じる通路も狭くて息苦しい。捕虜が収容されているだけの場所で、誰も好き好んで近づきたくはないのだろう。
ダンディの教えてくれたところによれば、やはりここはボルニアの奥深くにあり、地下にある捕虜収容所らしい。
僕の連れの傭兵ジョニーもどこかに捕らえられ、尋問を受けているようだ。あいつは口が軽いが、大した情報は知っていないからどうでもいいが。
治療が終わってから、ダンディはずっと僕の身を案じる言葉をかけてくれた。
アルフヘイム軍は僕を捕らえたものの、現時点では僕がやった内部かく乱の策は露見していないようで、単に甲皇軍のスパイらしいというぐらいの疑いしかかけられていない。
それなら堂々としていればよいな。少し心にゆとりが生まれる。
内心、どこまで露見しているのか分からず、焦燥感でいっぱいだった。
お人よしのダンディのおかげで助かった。彼は父から僕をハイランドに連れ帰るようにと頼まれているらしく、僕の罪が軽くなるようアルフヘイム上層部へ嘆願するつもりのようだ。それは好都合。利用させてもらうとする。
それからも彼から情報を引き出そうと、会話を続ける。
が、大したことは分からず、次第に話の内容は父や兄上のことに移る。
「……では、まだ父と和解することはできないのか?」
「……私は、兄上と甲皇国に忠誠を誓っていますから」
「そう、そのお前の兄ユリウスのことだが……」
ダンディから聞かされたナルヴィア大河の戦いの顛末。
僕はさすが兄上だと誇らしい気分になる。
やはり兄上は負けてなどいなかったのだ。むしろクラウスたちを圧倒していたが、余裕しゃくしゃくで撤退したようだ。
「やつの強さの秘密は、あの黒い剣にあると見た」
そう言い、ダンディは皮鎧を脱ぎ、上半身だけ裸となり、わき腹を指さした。黒ずんでいる。
「あの黒い剣からほとばしる黒いオーラにかすっただけでこの有様だ。エルフの治癒魔導士に治療してもらったが回復が遅い。あれは一体何なのだ…?」
教える訳がないだろう。
そう、確かにダンディの見立て通り、あの黒い剣が兄上の強さの秘密だ。
このままではずっとこの地下牢に捕まったままになる。解放されるには交換条件として何か甲皇国の情報を売らなければ難しい。ユリウスのことならこの上ない。
といったことをダンディに諭されるが、僕は黙秘を続けた。
「───おいおい、ダンディ。その小僧はそんな優しい口調で口を割るようなタマじゃねぇだろぉ?」
うっ…。酷い悪臭。そしてまたもや聞き覚えのある下品な言葉遣いと下種い声。
「ボルトリック! 貴様、どうしてここに!?」
オークのような体臭と醜悪な見た目だが、まぎれもなく人間。
ハイランドにおいて父の友人は多いが、厳格で高潔な人柄の父なのに、なぜこんなやつを重用していたのか理解に苦しんでいた。
ボルトリックは脂肪だらけの巨体をゆさゆさ揺らしながら、狭い地下牢に無理やりに入ってくる。
元は大人二人が入るだけで窮屈なぐらいだったので、ボルトリックが入ろうとしてきたのでたまらずダンディが飛び出した。
……って、おい、待て。この狭くて窓もない部屋に、この豚と二人きりだと!?
「よ~~。会いたかったぜぇぇ、アーベルゥ~~~」
眼前に迫った醜悪な面構え。
そして強烈な口臭だった。不愉快極まりない臭いで───ぞっとする邪悪なものを孕んだというか、人間が本能的に嫌がるような死臭だの、腐臭だの、ニートのおっさんが40年洗わず熟成させたパンツの臭いのような───とにかく、酷い悪臭だった。
「ボルトリック、質問に答えろ。なぜ貴様がここに…!?」
背後のダンディが叫ぶように言うと、ボルトリックはそれに放屁で答えた。
直接浴びた訳でなくても分かる。口臭よりもキツイだろう。
「ぐ、ぐおおおっ」
たまらずダンディは数十メートルほど離れていった。
「がはは! 俺はSHWの商人だぜ? このボルニア要塞の築城技術はSHW経由のものだ。つまり、俺がウッドピクス族に売り込んだって訳だよ」
「そ、そうか。俺もSHW経由で軍事顧問として来た時、なぜ既にSHWの軍事技術による要塞が築城されていたのか疑問だったが、貴様の手配だったという訳か…」
「そういうことだ。ところで、このボルニア要塞を築城する時、特に俺はこの地下牢建設にこだわっていてなぁ…ぽちっとな」
ごごごご……。
ボルトリックが壁のスイッチを押すと、途端に地響きが起こる。
突如、天井の石壁が落ちてきて、ボルトリックとダンディの間を遮断した。
「なんと!?」
ダンディが驚いて石壁を叩いているが、びくともしない。
「地下牢に侵入者が来てもこうやって罠をしかけて孤立させたりできるって寸法よ」
「……!」
「さぁて、これで邪魔者は消えたな」
戦慄した。いや、悪寒が走る。
ハイランドにいた時も、妙にこの豚野郎は僕を変な目で見ていたが……。
「やーっと二人きりになれて嬉しいぜ。アーベルちゃん」
穏やかではない。
僕が小さい頃からこいつは父の傍にいたが、ダンディと違って親しみの欠片も無い目つきと声。僕もダンディとは親し気に会話していたが、こいつには近づきたくもなかった。本能的に。
「そうびくびくすんなよ」
そう言い、ボルトリックは地下牢にあぐらをかいて僕の眼前に座り込む。
彼は何の関連があるのか身の上話を始めた。
SHWの裕福な商人の生まれだったが、長兄ジャフと違って卑しい庶子として生まれる。
見た目は男娼をやれるほどに麗しかった。(信じられない)
父には虐げられていて、それが嫌で生家を飛び出し、男娼や悪事には何でも手を染めてのし上がってきた。
「……なぁ、どこかで聞いた話じゃねぇか? 俺とお前は似てるんだよ」
冗談だろ。この豚が…。
「だから俺はハイランドでもお前のことを気にかけてたんだよ。本当だ。どうだ、もしお前がハイランドに戻るというなら、ダンディのようにゲオルクにとりなしてやってもいい。いや、ゲオルクに会うのが嫌なのなら、いっそ俺の養子になるというのはどうだ? ゲオルクは俺に命を助けられた恩があるので、俺には強く言えねぇんだ」
……なるほど。この豚がハイランドで重用されていたのはそういう訳か。
しかしやはり冗談ではない。豚の子供になる気はない。
僕が黙秘を続けていると、ボルトリックの表情が次第に変わってきた。
「……そうかよ。残念だ」
がっし。
不意に、ボルトリックは両手で僕の顔を掴んだ。
ずきゅううううううううん。
……おぞましいことに、ボルトリックの舌が僕の口内にねじこまれた。
「げっげっげっ。やはり綺麗な顔立ちだ…。ゲオルクの妃エレオノーラに良く似ている…」
絶望的な肉塊が僕を押し倒す。
これから先は語りたくもないが…。
行為の最中、ずっとボルトリックは喋っていた。
俺はゲオルクが羨ましかった。俺は誰にも愛されたことがない。男にも女にもだ。見た目だけなら若い頃の俺もちょいとしたもんだったが、殺伐とした世の中で、俺は誰にも油断できず心を許さなかったからな。男も女も抱く時は買うしかなかった。肉だけの関係なんて寂しいもんよ。さっき俺がお前を養子に迎えたいと言ったのは本心だぜ? でもお前は断ったな。まぁ当然だろう。仕方ない。だが俺の愛を拒否するなら、押しつけてやる。俺は前からゲオルクの妃エレオノーラを寝取ってやりたいと思っていてな。やつは友人だが、友人だからこそ、その幸せに嫉妬してんのさ。ああ、エレオノーラによく似たお前を抱けば、少しは憂さも晴れるんじゃないかと思って目をつけていたんだ。げっげっげっ、母親似に生まれてツイてなかったな。恨むならゲオルクを恨め。
父を恨めだって?
そんな気分にはなれない。
僕がこんな目に遭っているのは、どう考えても自業自得だ。
───ああ、でも、兄上…!
無駄とは知りつつも、僕は兄上に救いを求める。
だが、それから一年間、兄上からの助けは遂に来なかった。
つづく