64話 愚か者の末路
「どういうことだ! 話が違うではないか!」
怯えた犬のような悲鳴がゲーリング要塞の地下牢獄に響き渡る。
声の主はフェデリコ・ゴールドウィン。ボルニア要塞を守る黄金騎士団の副騎士団長という要職にありながら、叔父シャロフスキーと共に甲皇軍と通じ、保身のためにアルフヘイムを裏切った愚か者。
フェデリコは甲皇軍への手土産としてクラウスの妻ミーシャを引き渡せば、それで自分の身は安泰だろうと考えていた。ゴールドウィン家は現在のアルフヘイムの支配者であるラギルゥー族の係累でもあるから、恭順の意を示せば、甲皇国がアルフヘイムを支配した後の権力も維持できるものと。
実際、甲皇国皇太子ユリウスの弟だというアウグストからも、「甲皇国によってアルフヘイムが植民地化された後、すぐに甲皇国の人間でエルフを含む亜人の統治ができるとは考えていない。まずは以前の施政者であるエルフを使い、亜人の反乱を防ぎながらの緩やかな統治を目指していく」と、甲皇国がアルフヘイムを征服した後の方針を聞かされていた。
フェデリコはそれを信用してしまい、本家ラギルゥー族らにも「甲皇国はそういう意向だから、我々の一族の安寧のためにも」と、甲皇国に抗い続けるクラウスらの抹殺を図り、甲皇国に媚びを売ろうとしていた。多大な犠牲を払って戦争に勝利しても、防衛戦争だから収奪できる領地もないし、ただ敵を追っ払えるだけだ。ならば、こんな戦争でこれ以上血を流すのは馬鹿らしい。それよりは強大な甲皇国にいち早く恭順の意を示し、自分たちの保身を図ろうではないか! その方がアルフヘイム全体の犠牲も軽く済む。我々は売国奴などではなく、アルフヘイムびとの血をこれ以上流さずに済むため、アルフヘイムを救うために甲皇国との和平の道を模索するのだ!……と、愚かにも主張していたのだ。本家ラギルゥー族らも自分たちの財産を守ることしか考えておらず、保身が図れるのならとフェデリコに賛同してしまった。だがやはり、甲皇国はそんな甘いものではない。
「や、約束が違うではないか!?」
ミーシャを甲皇軍に引き渡してすぐ、フェデリコはすぐさま甲皇軍兵士らに取り押さえられて地面を舐めさせられていた。
「約束? 何のことだ」
フェデリコの頭上から、兵士を指揮するアウグストが冷たい視線と嘲りをもって語り掛けた。
「甲皇国はエルフも他の獣人も等しく絶滅させるつもりだ。エルフによる占領政府などありえない」
「そ、そんなぁ…! この嘘つきぃ! ひどい!」
「お前は子供か」
アウグストは苦笑する。実際にはアウグストはまだ二十歳に届くかどうかという年齢で、長命なエルフ族であるフェデリコより遥かに年下なのだが。
「そちらが勝手に我々の慈悲にすがっていただけだろう? 生憎だが、亜人に慈悲などない」
アウグストはそのままフェデリコを殺すこともできたが、何かに使えるかもしれないと考え、投獄するのみに留めたのだった。
フェデリコを待っていたのは、アルフヘイム総督の豪華な玉座などではなく、冷たい地下牢獄でしかなかった。
「ここから出せ! 俺を誰だと思っている! 俺は……!」
いかに自分が偉大で価値の高い人物かを叫びまくるフェデリコだったが、人気のない地下牢獄では空しく響き渡るだけ。
「なぜだ。なぜこんなことに……」
やがてフェデリコは項垂れ、床に突っ伏してめそめそと泣き出した。今になってようやく、彼は己のしてきたことがいかにとんでもない過ちだったのかを思い知らされていた。
フェデリコがそれまで散々関わっていた甲皇国の人間は乙家の者達だった。彼らは平和主義だと言っていたし、実際、敵国同士だというのに密かにフェデリコやラギルゥー族らと接触を図り、何度となく美食と美女でもって歓待してくれた。甲皇国南部地方を所領とする乙家は、大戦勃発以前にはアルフヘイムとの貿易で多大な利益を挙げていたという歴史もあり、開戦後はその貿易が途絶えて不利益を被っている。今では第三国・SHW経由での貿易を余儀なくされているが、SHWの高い関税に苦しめられ、SHWに世界貿易シェアを半分以上占められ、世界の海での乙家の影響力は益々下がっている。だから終戦後は乙家とアルフヘイム間の貿易再開を!などと、フェデリコにも調子よく言っていた。
だからフェデリコにしても、甲皇国といっても乙家の口当たりの良い言葉と顔にすっかり騙されていた。アルフヘイムが降伏したとしても、その後にエルフによる占領政府が設立されるだろうというアウグストの言葉まで信じてしまった。
しかし、今や甲皇国本国で乙家は力を失いつつあり、代わりに丙家が発言力を増している。丙家といえば亜人絶滅を唱える過激思想の連中だ。そして、アルフヘイムへ侵攻してきた甲皇軍は、海軍は乙家が、陸軍は丙家による将軍・士官が大半を占めている。上陸後の戦功が著しい陸軍・丙家の影響力が増していくのは当然の成り行きであった。
今やもう、フェデリコの狙いは完全に破綻してしまっており、彼は愚かにもそのことに今ようやく気付いたのだった。が、もはやどうしようもない。
「……あああ、腹が減った」
もう二日ほど食事もろくに与えられていなかった。かつては豊穣の地アルフヘイムで最も豊かなゴールドウィン家の御曹司として、飢えなどとはまったく無縁の贅沢な暮らしぶりだった。このような待遇は生まれて初めてのことだ。
「くそーー! せめて飯ぐらい食わせろ!」
「うるさいである!」
ガシャン!
その時、フェデリコが入っている檻が警棒によってぶっ叩かれ、けたたましい音を立てた。
「人の食事中ぐらい静かにするものである」
警棒で檻を叩いたのはまた少女といっていい年頃の女看守だった。手には甲皇軍支給品のパンを切って具材を挟んだサンドイッチ。甲皇国は貧しい土地柄なので、これも工場で科学薬品などと調合して大量生産されたパンだ。アルフヘイムのフローリア産の小麦などを使った柔らかく甘いパンに比べると味気無さそうだが、今のフェデリコには何よりもごちそうに見える。
「お、お前! それを寄越せ! いくら甲皇軍でも捕虜は正当な扱いをすべきだろう! 飢えさせて殺す気なのか!?」
「エルフの貴族様の口には合わないであるよ」
その少女看守…まだ新人らしく、階級章などは付けておらず胸に名札だけ付けられておりダスティ・クラムと書いているが、彼女は嫌味ったらしく、フェデリコに見せつけるようにサンドイッチを食べている。甲皇国の兵卒は平民や下層民の出身が多い。彼女も極めて貧しい育ちなのだろう。語尾に「である」をつければ軍隊用語となると勘違いしているところからして、急に集められてろくに訓練も受けていない新兵ということを物語っている。
が、フェデリコは相手が新兵だろうがお構いなしに慈悲を得ようと考えた。
「そんなこと言わず…お前、私がエルフの大貴族だと知っているのか? それなら私を逃がしてくれたら大金を約束するぞ。どうだ?」
ダスティは無言で手を差し伸べる。
「な、何だ?」
「今、その大金というのを渡せるのであるか?」
「今は持ち合わせはない。だが…」
「では話は終わりである。私は食事を続けるである。静かにするである」
けらけらと笑いながら、ダスティはサンドイッチを食い続ける。みるみるうちにサンドイッチはダスティの口の中に収められていく。
「ううう…」
何ということだろう。豪華な食事ばかり続けてきたフェデリコだが、あんな大した味じゃないと分かっているサンドイッチが物凄く旨そうに見える。
食事を恨めしそうに眺めるフェデリコが余程面白かったのか、ダスティはもう一つ紙で包んだサンドイッチを懐から取り出した。実はそれはフェデリコに支給された分だったが、ダスティは気に食わない囚人に食わせる気はさらさらなく、自分が着服して食べてしまっていた。
「もう一つ食べるである」
「ま、待て! そうだ。それ一つをくれるなら、後で銀貨五枚をやるぞ!」
「ほう、サンドイッチ一つをであるか?」
「そうだ。平民には考えられない大金だろう」
「今」
「だ、だから今は持っていないが…」
ダスティは警棒でフェデリコの顔をぶん殴った。
「痛い!」
「話は終わりである」
「い、痛い、痛い! やめてくれ!」
「ふふふ。殴るのはやめないのである」
嗜虐的な笑みを浮かべ、ダスティはひたすらフェデリコを殴り続けた。最初から無一文の囚人にサンドイッチを恵んでやる気などなかったのだ。
「君、ちょっといいかな?」
ダスティの背後から話しかける者がいた。甲皇軍の軍服を着た兵士らしいが胸の膨らみが見えることから女のようだ。地下牢獄は薄暗いし、軍帽を目深にかぶっていて顔は良く見えない。
「何であるか? 階級と所属は?」
うさん臭そうに女兵士を見咎めるダスティ。当然である。その女兵士は階級章も名札も付けていない。ダスティのように新兵だとしても色々とおかしい。
「まぁまぁ、ここは一つこれに免じて」
と、女兵士はダスティにずっしりと重みのある金貨袋を手渡した。
「しょうがないであるな。五分だけ見逃してあげるである」
ほくほく顔でダスティはその場を立ち去り、金貨を数えるのに没頭してしまう。
「フェデリコ・ゴールドウィンだな」
「そ、そうだ。お前は一体…?」
「私の顔に見覚えはないか?」
「……? お前、もしやエルフか? よ、よーし! よくこの厳重な警戒の中を忍び込んできた! 生憎だが平民一人一人の顔などに興味はない。だがエルフならアルフヘイムびとだ。私のことは良く知っているだろう。名家ラギルゥー族の係累で、ゴールドウィン家の御曹司と言えば」
「勿論良く知っている。お前がどれだけの害悪をもたらしたのかも」
女の口調に一切の親しみはなかった。
相手が味方ではないと察して、フェデリコの胸は早鐘のように鳴り始める。
「クラウスは違った。彼は仲間の一人一人の顔も声も名前も覚えていた。僅かな間を過ごしていただけの仲間だったとしても。共に命を預け合う仲間だから覚えていたんだ。残念ながらお前にはそういう気持ちはまったくなかったようだが」
甲皇軍の軍帽を脱いだその顔は、エルフの長耳も失い、顔や体のあちらこちらに生々しい傷跡を残していたが、確かにそれはクラウス親衛隊第二席サイファ・クラワンタだった。アリューザからの撤退戦の際、丙武軍団の足止めのために殿を引き受けて戦死したかと思われた彼女だが、敵軍の捕虜となって文字通り地獄を見たが生き延びた。そして、隙を見て脱出し、甲皇軍兵士になりすましてこの場に現れていたのである。
「ミーシャさんを甲皇軍に引き渡していたな。裏切者め」
サイファは腰の剣帯からすらりと軍刀を抜く。アルフヘイムの刀剣に比べれば切れ味は落ちるが、これでも十分に人を殺すことはできる。軟弱なエルフの細首ぐらいなら容易く。
「ま、待て…! そうだ。思い出した。お前はそう、確か…えーと!」
慌てふためいて必死に言いつくろうとするが、フェデリコに言葉は浮かんでこない。
「最期に何か言うことはあるか?」
「待て! お、思い出したぞ。お前はあれだ、名前はまだ思い出せないが、俺の部下だ。黄金騎士団の兵士だったが、クラウスの親衛隊に移籍したやつだ。ならばクラウスの情婦だな。では俺がしたことは別にお前の機嫌を損ねることではないはずだ。お前だってクラウスの妻は目障りな存在だったんだろう? 親衛隊の女どもはみんなクラウスの寵愛を求めていたからな! そんな下世話な感情で何が仲間だ。俺を断罪できるとでもいうのか! 一つ、愉快な話を聞かせてやろうか? 俺が憎々しいと思っていたクラウスの妻をさらって甲皇軍に引き渡すまでに、何もしてないと思うか? そうだ、ご想像通り───」
サイファは無慈悲に軍刀をフェデリコの口に突き刺した。
フェデリコの最後の食事は自らの血の味だった。
つづく