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四話

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雨が降っていた。
その人物は白木穂花の家の玄関のチェーンを持って来た工具箱から取り出した専用のペンチで切断すると、インターホンを鳴らすことなく無言で部屋内に押し入った。時刻は正午を過ぎマンションの六階の通路のある電灯は劣化により点滅を繰り返している。明かりが消えるたびに穂花の部屋の前は薄暗くなり、無造作に開け放たれた扉へとざあざあとした地面を穿つ雨音と、凍え切った空の夜風だけが吹き込んだ。その人物は雨で濡れ水滴がしたたる黒褐色のレインコートを靴箱の上に脱ぎ捨てて土足のまま上がっていった。泥にまみれたスニーカーのせいで滑りかけたがすぐそばの手すりに捕まり事なきを得た。あまり物音をたてたくはなかった。
通路を抜け二部屋あるうちのリビングに入るとその人物はまず懐中電灯をつけ辺りを照らした。8畳のリビングには簡素な家具類が適当に並び窓際には大きな本棚がある。本棚の中段は物置のようになっており、マグカップやぬいぐるみ、写真立てが几帳面に並べてあった。近付きその写真立てを乱暴に取ると中の写真に目を通し、彼ーーーもしくは彼女は昂ぶっていく苛立ちのままにそれを足元へと叩きつけた。アンティーク調の可愛らしい写真立ては鈍い悲鳴を上げて砕けその残骸が床の隅々に散っていく。感情のまま、血が滲むほどに握りしめた拳を壁へ向けて勢いよく入れた。薄い壁は凹んで丸いクレーターを作った。
許せない。
胸の奥から濁流のようにせり上がってくる憤怒はその人物が元々から抱えていた疑念と執着を飲み込んで新たな一つの感情を形どっていく。最初に大きな衝撃があった。しかし同じくしてやはり、という気持ちもあった。そのやはりには根拠はなくただの漠然とした予感であったが、写真を見ることで予感は確信へと代わり衝撃は再び怒りへと移る。
次にその人物は散らかった床を踏み締めて部屋の中を物色していく。テーブルの上の小箱の中には指輪やアクセサリーの類が入っていたがそれらには一切手はつけなかった。目的は金というわけではない。およそ二十数分間に及んでリビングを物色した後、キッチンにある冷蔵庫を開けて中にあった缶コーヒーを開けて飲んだ。数口飲んでまだ残ったがそれも放り捨てた。フローリングの床を流れていく液体に罪悪感を感じないでもなかったが生憎微糖は好きではなかった。甘い香りは胸をムカムカさせて次第に眠っていた吐き気を呼び起こす。
舌の上に甘ったるく残ったものも唾液と共に吐き飛ばした。
目当ての物がここにはないとわかるとその人物は廊下に戻りもう一つの部屋の扉を開いた。寝室である。真っ先に視界に入ったのは机の上から部屋の壁全体に光を放ち続けていたノートパソコンだった。画面を覗き込むとどうやら電源を付けっ放しにしているらしくログアウトもされていなかった。その人物は椅子を引いて座りパソコンへと向かった。
メールボックスに溜まった既読済みのメールを斜め読みで流していく。本文もある程度は見ていたが、むしろ注意は差し出し名に向いていた。どこかの店やスパムメールは無視して個人名があるものは全て入念に読んでいく。どこに手掛かり、糸口があるかはわからないからだ。
そしてスクロールさせていくその指は7ヶ月前のあたりのとあるメールで止まる。
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早瀬 啓介 2014年 8月 ○○日

穂花であってるよな? 言われた通りこっちにメール送った。いつ携帯直るん?
とりあえず20日の日曜日はあけてもらったから、なんとかなりそう。あとそれ以外は厳しい。まぁお前に合わせるわ〜

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その人物は黙ったまま後に続く会話を読み、全てに目を通したことを確認すると丁寧にも個人情報欄に記された啓介の住所・電話番号・メールアドレス等を手元に置いたメモに必死に書き込んでいった。もはや無感情に至りどこかで押し殺され続ける衝動は血走った目に現れた。書き終えるとその人物はパソコンを閉じて寝室を出て玄関のレインコートを纏い穂花の家から出た。向かう先は決まっている。エレベーターで一階に降り、なるべく頭上の監視カメラに映らないよう来たときと同じように顔を背けながらマンションを出て、道路の向かいに停めてある車へと水たまりに靴を濡らしながら向かう。雨の勢いは一向に弱まることなく夜の闇に強く響いていた。エンジンをかけると車のライトが円柱状に降り注ぐ雨粒の一つ一つを切り抜いて、まるでそこだけが時が止まっているようである。
その人物はダッシュボードに置いてある湿気でしけた煙草を一本取り出して一息つくように車内にふかした。そして変わらない表情のまま振り上げた右手をハンドルに叩きつけた。その一瞬のみ夜を支配していた雨音は大きなクラクションの音で吹き飛んだ。その人物の両目は真っ直ぐに窓硝子の向こう、闇の遠くへと向いている。
しばらくして車が動き出しその人物はその場を後にした。その人物の頭の中には強い悪意が芽生きかけていた。行き先は考える間も無く自然に出来ていた。
早瀬啓介の家までは十数分である。
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 その朝の目覚めは最悪の一言に尽きてビジネスホテルの固いベッドから上半身を起こした瞬間俺の頭に鈍く重い痛みが迸った。ガンガンガンガン音が連続して、爆発し続けるみたいに俺の頭の中に鳴り響いている。思わずこめかみに手をやって、スクランブルエッグのようにかき混ぜられた思考の中でとりとめもないことを巡らせていると突然ここがどこだかわからなくなってパニくった。あれ、なんで俺はホテルなんかにいるんだろう?
 天井の白い壁を見上げるがでもよく見てみると白というよりかはグレイに近いような気もしてあれなんでグレイなのかボーっと見続けるとその白には影が上塗りされていてグレイに見えたのだとわかった。影の出所をラインを追っていって確かめるとそれは窓際の大きなカーテンから出ていた。どす黒いカーテンの縁は不自然なほどに輝きを放っていて反射的に目をそむける。ベッドから降りてスリッパを履きカーテンを開けると窓の向こうにはどこかで見たような風景が光の中満遍なくも広がっていた。若干銀世界である。
「あぁ」ようやく俺は自分が米原に来たのだと把握し、再確認した。飛び降りでもされたら困るから開閉禁止の四階の窓を大きく開け放って俺は米原の冷たくも酸素に満ち満ちた空気を肺一杯に繰り返し深呼吸する。うーん気分がいい。田舎の自然の空気は良いとか悪いとか賛否両論だけど、やはり俺は都会にはない人間に豊かさをもたらしてくれる特別な何かがあると思う。それが二日酔いの時だと尚更だ。スチームの湿気で曇った窓の下の米原は昨日の夜に雪が降った影響でところどころに白い傘を被っている。遠くでは雪遊びをしている幼い子供達も見受けられる。日光の暖かさを半身に受けていると、子供たちの作る雪だるまの固さがまるで嘘のように感じられる。きっとかつてはあの場にいる俺を大人たちが同じ様なことを考えながら眺めていたのだろう。三月だというのにそこら辺の様子は流石に雪国らしさがあった。
 駅前広場の時計台は午前10時を示している。さて今日は何をしようかななんて笑いながら大きく伸びをしていると俺の部屋のドアをノックする者がいる。
「おい啓介、起きてるか、開けろ」
 その声の指示するとおりに入り口の鍵を開けると昨日ぶりの光太郎がそこにいた。スーツ姿である。相変わらずの仏頂面を顔面に引っさげて愛想がない。
「どうした昼飯か」
「いやまぁそれもあるけど」光太郎は隣の部屋から引いてきたであろうキャリーバッグを扉の段差に詰まらせて、しばらく四苦八苦した後咳き込んだ拍子にこちら側にいれることに成功した。立ちすくむ俺を尻目に荷物を床に放りベッドに腰掛けると、光太郎は上着の胸ポケットから煙草を取り出して溜め息混じりにふかした。
「なるべく早く出よう」煙草の先端がポッと燃え徐々に灰に移っていく。灰の塊がマットの床にポロポロこぼれたが光太郎はそれらを拾おうともしなかった。光太郎は窓辺のほうへ顔を向けていて、俺はなんとなく光太郎の言いたいことをうっすらと察した。
「俺は行かんぞ」
「腹すいてないんか」
「いやそうやなくて」開けっ放しの扉を閉めて、光太郎の隣に座るというのは男二人気持ちが悪いものであったから俺は薄いベニヤ板で工作したようなデスクと椅子に腰掛けた。体重を降ろしていく途端椅子の四脚は軋むので半分中腰のようになる。
「病院へは俺は行かんぞってこと」
「何でや、昨日は行ったやろうが」
「やから昨日行ったからもうええやろう、俺は」
「ええことあるか、お前、奈津美ちゃんから聞いたやろう、お袋さんの状態」
 光太郎は声を低く荒げて指に挟んでいた煙草の火をベッドのマットレスに無理やりに押し付けて消した。曲がりくねった短い蛇のような形になった煙草を窓の外へと投げ、押し付けられたマットレスのそこは丸く焦げている。腰の火傷のようだ、とふと思った。
「聞いたよ、いやそりゃヤバイのはわかるけど知ったことあるかよ」
「知ったことあるかってお前知ったことやろうが。息子やろう。お前とお袋さんの間に色々あったんは、理解してるつもりやけどな、もうそろそろええ加減にせえや」
「ええ加減ってなんじゃその言い方、今さら仲良しこよしにでもなれってか」
「そうや今さらじゃ、もうその時期やねんな、わかっとんのか。仲良しかなんかはそれこそ俺の知ったこっちゃないけどもやな、ある程度の関係には戻っとくべきなんちゃうんか」
「ある程度ってなんやねん」
「親子になれって言ってるんや。今みたいな絶縁状態やのうてもうちょいマシに顔合わせられるくらいになっとけ言うてるんや」
「無理や!」俺は自分でも驚くぐらいの声量で怒鳴った。「できるかほんなもん!」
「やからお前はいつまでそうやって駄々こねてるつもりなんじゃ! いくらひどい親かて親は親やろうが! お前あのお袋さん見て何も思わんかったんか、あぁ!?」
「知るか!」
「ええかアホなお前にもういっぺん俺から言うとくけどな」光太郎が尋常ならざる怒りに満ちた形相で俺を睨みつけながら言う。「お前のお袋さんもう長うないんやぞ、わかるか、もうあとちょっとそこらで死んでまうんじゃ!」
「おう死ねばええわあんなクソババア、清々するわ」
「お前それ本気で言うとんのか」
「当たり前やろが」俺は止まらない貧乏ゆすりを手で抑えながら鼻で笑った。「初めからそうじゃこっちは」
「ならなんでここまでついて来た!」
 光太郎が叫んだその言葉は部屋に反響して木霊する。俺はその言葉に虚を突かれる思いで何か言い返そうとするも上手く口に出てこない。光太郎は変わらずじろりとこちらに眼光を飛ばしていて、俺はそれから逃げるように膝に肘を置き、頬杖をついた。
「なぁ、啓介よ。ほんまに憎いだけやったらここまでくるんか」
 びっくりするほど優しい声を腹から出して光太郎が言う。
「ほんまにお前お袋さんに、心の底から死ね思ってるんか」
 俺は黙りこくって何も言わない。いや俺の中にはお袋に対する憎しみは今日まで確かにあるしあんなお袋はこの世にはいないほうがいいのだとももう何千回考えたかわからない。しかし俺は昨日の夜お袋を殺せなかった、コンセントを引き抜けなかったことがやはりどこかで引っかかり続けている。俺はお袋を一体どうしたいんだろうか。殺したいのか?
生かしたいのか? 光太郎の言うことは的を射ていてどうしても俺の中にはお袋をどこかで許す気持ちがあって、今俺はここにいてお袋の母性を愛を求めているのだろうか。否定はできない。しかしまた一方で俺はお袋を殺したい。なんなんだ。
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 その後階下に降り諍いの糸を引いた気まずい空気の中で無言の朝食を終えると、光太郎がガタンと椅子から立って食器を載せたお盆を抱えながら背中を向けて言った。「喫煙室行ってくる」
 何気なく見送るその背中はしっかりとしたもので、俺の知っている少年時代の面影は失せていた。大人で、大げさに表現をするなら生を感じるものだった。そこには年月がさせた成長があり、また昨晩見たお袋の老朽化したようなみっともない体とは違っている、活力がある。
 ポケットの煙草の箱に手をやりかけてここが禁煙だということをはっと思い出し、しかしだからといって光太郎がいるところへ行くのもなんだかバツが悪く感じられたので、食器を返し、俺はフロントを通ってエレベーターに乗りホテルの外へと出た。自動ドアを潜った瞬間冷えに冷え込んだ空気が鼻先を掠めて、すぐに背中が鳥肌立った。そこでようやく長袖シャツ一枚の薄着に気付き、部屋へと上着を取りに戻ることも考えたが面倒くさい気持ちが寒さを僅かに上回った。煙草を出し火をつけて深々と吸う。前の往来を行く子供は小豆色のジャージを着てブリジストンの自転車に乗っている。俺の中学のジャージだ。部活にいくのだろう。10年以上経った今でもあの野暮ったい色が変わっていないことがなんだか可笑しかった。
ふかしている煙草がだいぶ短くなるまでそれぞれ、様々なところへいく人々の影を眺め続けた。遠く雪で白い山々を背景に、どこかへいく人々の表情のない顔は侘しさを感じさせた。果てしなく広がる無情。煙草を捨てて靴で火を踏みにじると、小高い駅前の広場からこちらへやってくる者がある。これもまた野暮ったい格好で、言うならば森ガールのようだ。小さな顔に不釣合いともとれるごついサングラスを額にあげると、その女はこちらへ手を振って心底嬉しそうに笑った。ああ奈津美だ。
「おう、何してんやお前」
 奈津美はその振り上げた腕を下ろし腰に当て、笑みをうかべたまますっと俺の横に立ち、今しがたあげたばかりのサングラスをまた鼻の上へ掛けた。
「今日非番やし、家おんのも暇やから、あんたらと世間話でもしよか思って」
「ほうか」
「なぁ、煙草、くれる?」
 二本目を口に咥えたとき奈津美が左手を差し出しそう言った。冷気で冷えて赤く腫れ上がったその手は見ているだけでこちらが冷え切って痛くなりそうで、俺は煙草を奈津美の手に落とすようにして渡した。ライターもいるかと訊くと、奈津美は首を小さく横に振って自分のものを鞄から取り出した。白黒のパンダの体に見える子供のような手提げ鞄。奈津美は俺の渡した一本を細い指に挟んで美味そうに吸う。
「お前、煙草吸うんか」
「看護師が吸うたらあかん?」
「別にそう言ってはないやろう」
「そうやね、あんまり臭わんようには気つけてるけどね。ほら、入院患者の人らって引き篭もりがちで、あんまり外の空気吸わんでしょう。敏感なのよ、鼻がね」
 奈津美は自分の鼻を指でつついてかったるそうに言う。奈津美と俺は高校が同じで理系というところも一致していて、腐れ縁か三年間同じクラスだったから奈津美が看護系の進路を望んでいたのは知っていたが、昨日のナース姿は嘘や冗談ではなく、どうやら本当に思うようになったらしい。
「調子はどうや」
「どうみえる?」喜んでいるのか迷惑がっているのか悲しんでいるのか、眉を扁平な八の字にしながら、どうとでも取れる仮面のような複雑な表情でぶっきらぼうにそう俺に質問を返した。
「良さそうにみえるよ」
「本当に?」
 奈津美はその杳として、真意の測りがたい上げた口角を崩すことはない。
「順風満帆やろう、もうすぐ結婚するし看護師にもなれたんやろう。羨ましいよ」
「そう、そっかぁ」
「そうじゃなかったらなんなんや」
「うーん、なんやろね」
 道の脇の側溝に目を落とすとそこで几帳面にも並んだブロックの流れが途切れていて、通り過ぎていく車の排気ガスで汚れている黒ずんだ雪が中で溜まっていた。寂しげだった。降った雪がただ積もっただけにしてはいかにも重たげで水っ気があり、触れればその場から溶けてなくなってしまいそうな柔らかさなどは一切なかったが、きっと今はそうして汚されてただ静かに太陽の光を避けているだけのそれにも美しさと人に慕情を感じさせるだけのものがあったのだろう。しかし、それが何故こうして心細げに薄暗い街の底でただひっそりと消えるまでを忍んでいるのか。
 じっと見つめながらそうやってとりとめのないことに頭を廻らせていると横の奈津美も同じように雪を見つめていることに気がついて、横目に映ったその表情からは先程までの真意の測り難い複雑さは取り払われていてひたすらに無表情だった。奈津美は俺の眼差しに気付くとさっと目を伏せ、煙草を捨てて、またいきなり歩き出して側溝の中へ手を突っ込んで入れた。
「なにしてんの」
「んー」しばらく夢中になったようにその白腕をかき混ぜるようにさせていたが、動きがぱたんと止んだときには奈津美は側溝から手を抜いて何かを固く握り締めながらまた戻ってきて俺にその拳をぱっと開けた。
白雪である。
奈津美が強く握っていたものだから溶けかかっているが、まだ確かに雪はある。
「腕汚れてるぞ」そう一言呟いて、俺は視線を逸らして見なかった。それ以上見ることはなんだか憚られて、ぞっとして、意識より先に無意識的に強く感情が動いて拒んだ。そうした後逆に自分でも驚いて体が強張って煙草を持つ指が空中で静止した。そんな俺を知ってか知らずか、奈津美は泥とガスとで混ざった雪がついたその汚れた腕で俺の止まった手にそっと触れ、包み込むようにして握りしめた。
「ああ、温かぁ」
「冷たいねんやめろや」
 振り放そうとするも奈津美は一向に握り締めた手を離そうとしない。奈津美の腕から溶けて水になった氷が曲線を描きながら伝わってきて俺の手と俺の手を握り締める奈津美の手の内に流れ込む。
「あんたこんな手あったたかったかな」
「冷たくはなかったよたぶん」
「徹の手は温かくなくてもっと冷たいんよね」
「急に旦那の話だすなや」
「ああごめん。啓介誰か良い人いんの?」
「あー・・・・・・」
 その言葉でようやく俺は思い出した。東京に置いてきた俺のたった一人の彼女。彼女といってももう別れてしまったのかまだ続いているのかは俺にも、たぶんあいつにもわからないしどうでもいいけど、さすがに時間も経って少しくらい見苦しい釈明の言葉を聞いてもいいぐらいの余裕も生まれていた。それにこのままなあなあにするのもなんだか釈然としないのも事実ではある。
携帯を出すと画面は真っ暗でボタンを押しても反応はなくて、要はバッテリーがない。二日前、穂花と喧嘩をするようにして一方的にこちらから連絡を途絶えさせて以来充電をした覚えもないし当然だ。動かない画面の奥には放ってきた現実がたんまりとあるようで、頭から冷や水を浴びせられる思いだった。
「どうしたん?」
「いや彼女いるんやけどな、この前喧嘩してそれっきりやねん」
「へぇ、喧嘩の理由は?」
「ああうん」自分から白状したとはいえ気恥ずかしく言いにくかったが、なんでもない風にさらっと言ってしまうことにした。「浮気」
「あら、あんた何してんの」
「俺ちゃうわ、相手のや」
「ああ、なんやアホらし」
「そうやな」
 そうだ、まるでアホらしい。
 近くを車が通り抜けてビュウウと風が往来に吹き荒んだ。それがあまりにも寒いもので全身の産毛が逆立ちそうなくらいだったからかえって奈津美の握る手が暖かく俺の中で目立った。温もりの中に違和感を覚えて見ると銀色の指輪が薬指にはめられている。奈津美の透き通るような白い肌の下には青く静脈が走っていて、銀色はその肌に相応しく似合っていて綺麗だと俺は思う。俺は腕に力を込めて無理やりにその手を振り払った。
「なにすんのよ」奈津美が二重の目を細くさせて俺を睨む。
「誰かに見られて変な噂たてられたら、お前困るやろ。ただでさえ田舎やのによ」
「あかん?」
「そりゃあな、もうガキの頃みたいにはできんよ」
「あ、そ」
 奈津美はいかにも不機嫌そうな声で吐き捨てるように言って道路の対岸に向かっていく。横断道路の白線の列を河に浮く石と石の間を飛ぶようにして行き、地面をブーツの踵が踏む度にニット帽の先の大きな毛玉が楽しげに空を揺れる。
「おい、どこいくんや」
 声高に叫ぶと少ないながらもいる人々がさっとこちらを振り向いて歩みをやめていく。きっと痴話喧嘩なのだろうと思っていることだろうがもちろんそうじゃないしそう思われたくもない。
 奈津美が上着のポケットを持て余した両手の手袋代わりにしながら口先を地面に向かって言い返す。「どうでもええやろーガキじゃないんやから」
「ちょお待て待て俺も行くから、部屋で上着着てくるから」
「先行くよー」
「だから待っとけって」時々奈津美はこうしてへそを曲げると放浪する癖みたいな性質みたいなものがあって、それが普通の場所ならいいが大抵ろくな所へは行かないことを俺は覚えている。今にもどこかへ出発してしまいそうな出発したそうな奈津美にもう一度「待っとけや!」と釘を刺して俺は煙草を捨て、ホテルの部屋に戻る。
 部屋の隅のコンセントを見つけると充電器を刺してスマホをつながせておいて、急いで着替えて準備をし部屋を出て行こうとしたとき、光太郎のことが頭を過ぎって俺は電車へ駆け込み乗車をするサラリーマンのように慌ててデスクの上のメモを千切ってボールペンで一筆したためドアの前に書置きを残しておいた。
『数時間散歩をした後に戻るから』
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昼をまだ済ませていなかった俺たちはまずホテルの向かいの平和堂の空いた喫茶店に入り、窓際のほうへ座って店員が来るのを待った。窓際の席に座ったのには特に理由はなく強いて挙げるなら何となく落ち着くからというぐらいで、今までまったく無自覚だったがどうやら俺は昔から窓際へ座る癖があるそうで、窓から差し込む西日を反射している丸くて茶色いテーブルにぼんやりと頬杖をついたとき、クスと口元が崩れるのを片手で隠した訳を問うと奈津美が笑い混じりにそう俺に告げた。
「日当たり好きやなあ」
「冬だけや」
 舌打ちをしたら、まだ大学生にも満たないだろう童顔の女の店員がそそくさと来て霞むような声で注文を聞いてくる。適当なサンドイッチにブレンドコーヒーと彼女に言うと、奈津美は続けてサーロインステーキ丼を頼んだ。よく食うなと言いかけるとどうやら店員の彼女も同じことを思ったらしく、すこしぽかんとした後に誤魔化しも兼ねてか愛想よい満面に笑った。肩を下げ、凹んだ頬のえくぼが可愛らしかった。
 翻されたマーブル模様のスカートが靡いて厨房の奥に消えると、ガラスコップの水をからんと飲んで奈津美がねぇ、と話しかけた。ゆっくりと両指が沿って胸の前で交差して、眠たげにまどろんだ目はガラスコップのひび割れた氷に落としながら。
「ねぇ、啓介、今の子絵里に似てると思わへん」
 俺は後ろの厨房を見ている。年季の入った厨房は店内よりもずいぶんとぼろっちくて黒い染みだらけのタイルの床を這えばどこかでゴキブリと目が合いそうな気がする。さっきの彼女の姿はない。
「絵里? 高校のときの同級のか」
「そうそう、その絵里。嫌味ったらしくて、一々自慢しいな絵里。ずっと嫌いやったわ」
「嫌いやったって、お前仲良かったやんけ」
「馬鹿やね、あんた。あんなの見せ掛けに決まってるやんか」
 暑いね、と奈津美は上着のカーディガンを脱いで背もたれにかける。肌がピンク色に上気してしっとりと汗を纏っている。
窓の外を数人の老人の集団が通ってその中の一人がこちらをちらと一瞥して、何事もなかったように去っていく。すこし距離が離れてからその男は指から道端の茂みへ煙草を落とした。煙草に火はあったけれど残っている雪の上に落ちて消える。
「絵里か、良いやつやったと思うけどな」
 奈津美は力なさげに小さく首を横に振って、テーブルの中央にある観葉植物の葉っぱを一枚ちぎって俺に見せた。
「ねぇ、こういう葉っぱの細い線みたいなやつ、何ていうんやったっけ? この血管みたいに中で走ってるやつ」
 置かれっ放しだっただろう植物の葉っぱは埃で汚れている。
「葉脈のことか?」
「ああ、そうやね、葉脈葉脈。ほらいつかみんなでブルーメの丘行ったやんか、湖南のほうの、私とあんたと、仲良かった子らと遊びにさ。夏休みやったね。あのときイベントでやってた押し花教室かなんかで作ったラベンダーの押し花、私、まだ持ってるんよ」
「そんなん、あったかなぁ」
「あったよ。今でもたまに戸棚の奥から引っ張り出して見るんやけどね、昔はなんとも思わんかったのに、そんなものでも置いとくものよね、綺麗なもんよ、色はすこしかすれちゃったけどね、また懐かしくて・・・・・・」
 奈津美は指で葉っぱを引っ張ったり、半分に折ったり、端を千切ったりして弄って遊んでいる。よく見ると千切られてぶつ切りになったところから寝癖みたいな葉脈の線が数本顔を見せている。俺は過去の記憶を思い起こす。俺は自転車をこいでいる。道路の段差を隔てた数メートル前を奈津美や他のやつらが先行して、たまに思い出したようにこちらを振り返って言う。おい啓介、のろいぞ。俺は言い返す。うるせぇ俺の自転車小せえんじゃ。真上に太陽があって暑いのに馬鹿みたいに一心に自転車をこぎ続けて向かうのはブルーメノ丘だった。遠い8月のそこでは俺たちは今よりもずっと小さくて、俺の自転車は他のやつらとは違って小学生が使うようなやつで周りのピカピカの通学自転車が羨ましかった。車のクラクションが後ろで鳴ったかと思うと俺たちの横を抜けていく。奈津美がその車に向かって握りこぶしの親指を下に向けてブーイングをすると、他のやつらも、俺もケタケタ笑いながら同じようにする。道中同じようなことが何回も起きる。同じような風景もずいぶん続いている。俺は自転車を追いすがるように漕ぐ。連中は先へ先へ行く。丸い顎の先から汗を滴らせ、何キロも何キロも俺たちはそうしている。
 先程の店員がコーヒーを持ってきて、俺が口をつける前に奈津美が一口飲んでしまう。咎めようとする前に奈津美は渋面でカップを俺の手元に差し出してくる。
「私、いつになってもブラックって合わへんわ。ああ苦い、苦い」
 そう言って奈津美はコップの水を一息に空ける。俺は奈津美が差し出したコーヒーを手に取る。奈津美の唇が触れたところが口紅とコーヒーとで混ざって赤黒くある。俺はそこに重ね合わせるようにして唇をつけて、コーヒーを啜る。鼻腔の下をコーヒーの酸っぱい匂いがくすぐって、そのせいか喉の奥がひくひくして液体はあまり喉を通らない。
 奈津美はスマホを弄り俺を見ていない。
 日向がやけに暖かくて肩に体中の熱が集中しているような錯覚を覚えて、手の平を肩に当てながら外の太陽を見る。いつか見た太陽の色によく似ている。
「春やな」
「え? 何て」
「いや、暖かいからさ、もう春やなって」
「春なんてまだ先よ」
奈津美は表情はなくじっと眼下のスマホを見ながら言った。
駅下のトンネルを歩いている俺たちの頭上をうるさく電車が走っていく。見上げた錆の浮いた線路を鉄の車輪が火花を散らしてすこしその場を跳ねて手を伸ばせば届きそうだがそうはしない。古いコンクリートでできたトンネルの出口は構内に眩しく光を放っていて、はじめの内は物寂しく思われていた周囲のグレイもそう悪くはないとも思える。壁を擦るとひんやりと冬の気配を色濃く残していてトンネルとは言えど周囲に雪の景色がないことが不思議に感じられた。
 奈津美は店を出てからずっと口数が少なく、物憂げな顔で、たまにうわ言の様に空がキレイだとか、ここに来るのが久しぶりだとかと独り言を呟いて、しかし俺には顔を向けず俺も何も言わなかった。
 トンネルを抜けると緩やかな坂道を老婆がカートを押しながらこちらに下ってきて、俺たちを見てお辞儀をしてくる。それに俺たちもお辞儀を返すと笑って、入れ違いに老婆はトンネルの中に入っていく。もしかしたら知っている人物かもしれない。俺が考えていることを察したのか奈津美がトンネルへ吹く風でなびく髪を片手で押さえつけながら俺に言う。啓介、誰かわかる?
空は青く青く澄んで雪が溶けた大きな水たまりも同じぐらい青い。どっか近所の人やとは思うんやけどな。老婆の曲がった背中にはこの辺では心当たりがありすぎて当てにならない。もしかしたら俺のいない数年間で腰が曲がってあんな風に杖代わりにカートを押しているのかもしれない。それともなにか事故を起こして、腰か何かを悪くして、曲がった背中になることを余儀なくされたのだろうか。なんにせよ俺のいないところでそうなったのは覆しようのない事実である。
 坂を上り、陸橋の影に足を踏み入れると奈津美が重たげな口をまた開く。
「コーちゃんどないしはったん?」
「ああ、たぶん今頃ホテルでゆっくりしてんちゃうんかな」
「そういうことちゃうくてさ」
二の句が告げられるのは影を出て日に目を細めてからだった。
「どこか悪いんちゃうん」
「なんで?」
「なんでってあんなに痩せてて、髪だって真っ白やない、私らよりまだ2、3上やろ? どう見たっておかしいよ、わからんの?」
「・・・・・・」
「コーちゃんって結婚してはるっけ」
「やめろや縁起でもない」
「言うよ、だって心配やもん。それにもしものことがあったらどないするのよ」
「そりゃ」まだ三月だというのに立ち止まった赤信号のもう少し向こうは陽炎が揺れて歪んで見える。今日は異様に暑い。俺は上着の袖を肘の手前まで捲くった。「それは本人らの問題やろ、俺らがとやかく言うことちゃうよ」
 信号が青になっても奈津美は何か言いたげな顔をして立ち止まっていて、道路の対岸に渡ってから俺は傍に奈津美がいないことに気付いた。後ろに振り返るとようやく奈津美は歩を進め始めたが信号はもう赤になっていて停まっているトラックの運転手が苛立ったように奈津美を見ている。
 通りに立ち並ぶ見覚えのある住居は、いくつかがどこかのモデルハウスみたいな真新しいものに立て替わっている。古い家屋の二階で洗濯物が風に揺れてその向こうからは幼い子供の歓声とその母親が何か言う声が聞こえる。いったい何がおかしいんだろう。また違うどこかの家からは掃除機の音が響いて忙しない。
31, 30

  

古い電柱のそばに赤く眩しい自動販売機があってそこで俺は適当な缶コーヒーを二本買う。じっとりと熱を持ったスチールから手の平に、そして全身に鋭敏に総毛立つような感覚は回る。これはまるで小さなストーブでカイロだ。俺は奈津美にもう片方を投げて渡す。不器用な奈津美は一瞬ぎこちなくそれを取りこぼしそうになるも股と両手で挟んで掴む。自販機を背もたれ代わりに地べたにしゃがみ込んだ俺のとなりに寄せるように奈津美が座る。
「くっつくなよ」
「寒いときはこうやってね、猫だってくっついて冬を越すんよ。ただの地面やアスファルトじゃ冷たいし、凍え死んじゃうもんね。猫、可愛いよね」
「猫、昔飼ってたわ。ああほういえばいたなぁ猫。俺あんときまだ小学校にも上がってなかったなぁ、いやどうやっけかな。もうだいぶ年食っとったでさ、全然動かんかったなぁ。子供っておもろいもんみるとめちゃくちゃするやろ、大概の猫ってそれ嫌がるから子供には懐かんもんなんやけど、あいつは違ったなぁ。怒らんかったな。名前なんやったっけ、変な名前やった、たぶん親父が付けたんやろな、どうして死んだんやっけな」
「私も今猫飼ってるよ、二匹」
 奈津美が差し出してきたスマホの画面には、不思議そうな顔をした猫が二匹こちらのカメラを覗き込んでいる。
「二年くらい前に友達が里親探しててさ、あんまり可愛いから思わず引き取っちゃったんよ。大変やわ。一人暮らしやからさ、勝手に色々、今でこそマシになったけど」
「今、いくつ」
「赤ちゃんをもらったから、三歳くらいかな」
 そういって奈津美はアルバムの中の写真をめくっていく。写真の背景は一様に屋内で俺の知っているところだ。相当に年季の入った木の壁や床は綺麗に手入れこそされてはいるがところどころに隠せない劣化が見える。
「まだこの家住んでたんか」
 一枚一枚写真をめくっていく指を止めずに、奈津美は画面の猫らに笑顔を向けている。
「ほやで」

 俺たちは近くの通りでタクシーを拾って2キロと少しを行く。行き先は昔住んでいた俺とお袋のアパート。タクシーの運転手の親父は話好きらしく、また俺たちが関西弁なのを知るとにこやかに話題を振ってきた。10分ほどで近くに着いて車から降りてドアを閉めたとき、窓の向こうの親父が明るく言う。「上手くやんなさいよ、二人とも!」
 すこし歩いて見えてくる二階建ての安アパートは屋根の端まで蔓草が押し寄せているところがある。一階のずいぶんと誰も住んでいないであろう部屋の幾つかも亀裂の入った窓ガラスを緑色のガムテープで中から押さえつけている。向かいに見える団地の公園を挟み、他の小さなマンションの五階の一角のベランダに隅々まで多い尽くすような緑が光を透かし、干された布団が薄緑に体を曲げ、離れたここからはそれがまるで緑色の巨体の舌のように見えなくもない。そう、長い時間と風化に悲鳴をあげ、渇きから脱却しようと舌を伸ばす鉄骨の群体のようだ。俺のいない数年であたりは隔てた年月以上の衰えが始まっている。それともここにいたときは当たり前になっていて気付きもしなかったのだろうか。
「あれ、こんなアパートやっけ、ここ」
 奈津美がそう呟いて先に二階へと上がっていく。階段の手すりは赤褐色に錆付いて今にもその形を崩してしまいそうで、一段ずつ上へと上がっていく度に踏み場は金切り声を甲高く上げて、知らないところから舞い上がり目の前に浮かんだほこりを手で払うと鉄の匂いが鼻腔を抜けた。二階からはここに来るまでに通ってきた坂の稜線がくっきりと午後の太陽を反射して明かりを持っている。高い建物のない田舎町はすこし背を伸ばせば向こう側の地平線が覗き見えるような気がする。昔よりは背が伸びたかもしれない。
「啓介さ、勢いで来たけどさ、鍵かかってるよ、当たり前やけど」
 開くはずのないドアのノブを奈津美は回し続ける。
「いっそ壊すか、ボロいし」
「えっ、ほんまに言ってる」
 冗談やと笑って寂びれたドアの前にしゃがみ、俺は口の大きい郵便受けに手を突っ込む。お玉のように手首を曲げて鍋の底をかき混ぜるように動かすと指先が何かを弾き、予感を確信に変化させて、俺はそれを奈津美に突きつける。部屋の合鍵だ。奈津美は無用心ねぇと言いながらも呆れ混じりに笑う。
 鍵を開けてドアを引きかけたところで俺は一瞬思いとどまる。
「なぁ、これって不法侵入にならんよな」
「大丈夫じゃないの、実家に帰ってきた息子やろ」
「それもそうか」
子の性格は親に似るというが俺のお袋は几帳面な性格で、毎朝家の中を隅々まで手早く掃除し、物が家の所定の場所にないと苛立ちを募らせるほどで、かといって俺はそういうことはなくズボラで物ぐさだった。最初はお袋への単純な反抗心からきていたのだろうがいつからかそれが落ち着いて俺の性質に合っているようになってしまった。つまり根本から俺とお袋はまったく剃りが合わず、合うはずもなかったのだろう。
中学生になってから、お袋の俺への虐待は体罰や暴力という形を取らずに放置や精神的な攻撃が多くなっていったのだが、中三の冬に一度だけ凄まじいほどお袋が怒り狂ったことがあった。俺はある用事があって、真夜中に家を抜け出して出かけて、その日はみぞれが更に溶けて重くなったような雪とも雨ともつかない気候で、一歩外に出ると辺りはキャンパスに子供が塗りたくったようなグレイで、俺は音がしないサンダルで、背が伸びて肩が広くなって小さくなったレインコートを静かに羽織って、水溜まりを歩き、朝になる前に帰ってきたときには玄関にお袋が何も言わずに立っていて、泥と溶けかけた雪とが風の潜るつま先を冷やして、ばれた。お袋は泣いたり叫んだり喚き散らしたりそういう感情の起伏を表情や視覚で分かる部分には出さずただひたすらに無表情に俺と俺の姿を見つめていた。だから怒り狂うという表現が人の激情を指すなら俺の表し方は不適当で、お袋が何を考えていたのかも知る由がないが、でも15の未発達な幼い感性はそう感じたのだから、そうなんだろう。目や鼻や口やその他体中のパーツが動き歪んでいたことはなく、無表情という表情は最もベーシックなものなのだから、それまでにも数え切れないほど見た経験はあったけれど、無表情という表現も言葉としてはまた不十分で、無ではない何かがあったように思う。
だから怒り狂った風のお袋はその後俺を押入れに監禁した。2Kの家の4,5畳の和室の押入れの上段は、布団を入れるスペースではなく、ホームセンターに売っている大型犬用のよくわからない金属の檻がそっくり入っていて、何も言わないままのお袋はそこへ犬の代わりに俺を入れて鍵をかけて閉じ込めた。襖を閉められると檻の中は光が遮断されて真っ暗で、怖くて、俺は暴れて泣いたりして出してくれと言うんだけど、素直に出してくれるはずもないことも同時にわかっていて、数時間も経つとなんだか抵抗する気も失せて俺は壁にしなだれている。冷たい壁に耳を当てると薄い壁の向こうからごうごうと水が流れる音が聞こえて、今まで喚き疲れた分の落ち着いた集中が時間を忘れさせてくれる。止むことなくアスファルトの地面に降り積もり、すぐさま融解していく氷の結晶の予感はどこにでも立ち昇っている。それは形がなくなる音であり、雲の端から雪くずが零れ落ちる音であり、宙を迷う水を肩で掻き分けていく夜明け前の人の長靴の音でもある。外界から伝わり土を踏み、感覚が壁を越えて檻を隔てた俺の耳に止まり腹の下、意識が集約する底に落ちて溜まっていく。静かで重い空気が、体の上を覆って海底に引きずりこまれるように感じる。暗闇の中に確かな実体があって次に脳裏を、映像ではない、外の鮮明さが掴んで離さない。人はそれを時に詩にしたり、既存の形式に当てはめて無理やりに感じた余韻を残そうとするけれど、野暮だしまず無駄なのだ。今にも消えていくものをどうしてその美しさを実は目では全てを捉えられない物を残すことができるのか。
いつしか俺は眠ってしまっていて、目を覚ます。どこかで鴉が喚いて、雀が何事かを囀り、肌の上を薄っすらとパッケージしていたひんやりはここにはいず、足元を照らす光に気付くと襖が僅かに開いていてかかっていた鍵も開いていた。押入れの中から出ると、本棚と家財で整っていた部屋の面影は散らかった足の踏み場もない場所に失せている。座布団の横に芳香剤が倒れて、畳の上の染みからラベンダーの匂いが充満している。家の中にお袋の気配はない。敷き詰められたごみを踏みながら窓のカーテンを開くと空はもう朱色に夕方で、みぞれは失せていた。俺は床のごみ同然の塊の中に毛布の切れ端を見つけて引き抜き、押入れの檻の中に戻って全身に被って寝る。襖と檻の扉は開けたまま。すこし寒くてくしゃみをするけど、そんなことはすぐに忘れて眠ってしまった。夢を見たような気がするけど、今となってはもう覚えてはいない。
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壁の向こうからカチャカチャと隣の家庭の食器の音がうるさく届いてくる。玄関脇の部屋を出てL字に曲がり、子供の足で5歩も進むとリビングに着く。台所は8畳の狭いリビングと備え付けになっていて、換気扇の隣りにある小さな長方形のスライドガラスからは西日で採光が良く、キッチンの銀色に光が跳ねて綺麗なのだが、今はもうその面影なんてなくて、窓が遮られるくらいに高く洗い残された食器の山が積まれている。だからベランダから差す光が余計にまぶしく感じられて、台所はその光の束から拒絶されたように薄暗く、冷たい。リビングは30年物のしなびた革の深緑色のソファと、もう見なくなったブラウン管が子あって、すこし懐かしくなってソファに腰掛け、汚れがつかないようにラップで包まれたリモコンを取ってテレビの電源をつけようとするのだけど、テレビは点かず、リモコンの電池がないのに気付き、直接テレビの電源ボタンを押すのだけれど、点かない。テレビの電線がコンセントにしっかりとつながっているのを確認し、また、テレビの電源ボタンがいかれてしまっていることを考えて俺はリモコンのための新しい単三電池を探す。お袋はいつもこういう乾電池や、ネジやクリップ、ほつれてとれた服のボタンなんかは一まとめにリビングの箪笥の一段目の菓子箱の中に入れていて、要するにないよりはあったほうがいいという消極的なものの集まりなんだけれど、使い終わった乾電池を混ぜたり、危険な画鋲なんかもまぜこぜにしているのはがさつな性格からだろう。
そういえば、とふと思い立って引いた箪笥の一段目の棚を戻して、一番下、四段目の棚を引くと敷き詰められた物の隅に見覚えのある箱があって取る。箱の表は透明のプラスチックで出来ていて、中のぎゅうぎゅうに押し入った硬質のそれはうっすらと埃を被っている。中に入っているのは三匹の甲虫だ。背後でパタパタと足音がする。
「あっ、洗濯物びしょ濡れやんかぁ」
 ベランダに入って奈津子が第一声にそう言った。より重みを増した布団から、水の柱が細くタイルの合間を伝い、隅の排水溝に流れているのを思い浮かべた。俺はそのままケースを手にソファの肘置きに腰掛けて、洩れ込んで来る太陽の明かりに輪郭をおぼろげにする、実際よりも空いたような部屋を何も考えず、なんとなくぼんやりと眺めていたのだけれど、しばらくしてベランダの奈津子が何かに小さく悲鳴をあげて、目が覚めたように手元のケースに目をやる。十年以上前に前に動いていた甲虫たちは今にも動き出し羽を広げそうなほどリアルに形を保っている。そういうふうになるように死んだときに保存したのだ。うちのこの地区の裏には山があるから、森から迷い込んできたカブト虫や、ヒラタクワガタなんかがうちのベランダに引っかかっていたりして、それを親父が捕まえて緑色の虫かごに入れ、学校から帰ってきた俺に見せたものだった。そういう迷い虫はどこか傷ついていたりするもので、大抵が早死にしてしまうから、世話はするけれど名前をつけたりはしなかった。愛着が生まれるから。だから俺はこいつらの呼び方はいつも『コンチュウ』で統一していた。それでも親父は世話好きでわざわざ書店で飼育の本を買ったりスーパーで少し高い飼育セットを買ってきて俺と一緒に世話をした。
お袋は虫嫌いだから、了承は得た上であまり目の届かないところに虫籠を置く。その頃は飼い猫のポッコも生きていたから、地面に近い、手の届くようなところではいけない。ポッコは猫の中でも特に好奇心が強い性格で、年中鼻をひくひくさせて、人が新たに持ってきたりしたものは目ざとく見つけて、気に入れば自分のおもちゃにする。保健所から親父が連れてきたときから右の後ろ足が麻痺しているのと、肥満により猫本来のような軽快さでは歩けない。
それらを鑑みて、親父は虫籠を玄関外の室外機の上にしていた。ポッコは放し飼いであったが自分の死角では気付けないし、お袋はなるべく見ることを避けた。俺は毎日帰宅するたびそのカゴを持って家に入る。
理由は分からないが甲虫は春から夏の間くらいの時期にやってくる。一匹目のコンチュウのコクワガタのメスはベランダの網戸にくっ付いていて昼帰宅した俺によって捕まえられた。他の甲虫もそうだがメスは角がないから、はじめ俺はコガネムシとかそういう類のもだと思ったのだけれど、羽を広げたときの茶色の下羽で判別できた。初めから弱っていたのだが、二日目には死んでしまった。どうやら死因は食べさせた餌にもあったようで、キュウリやスイカの皮をあげていたのだけど、後で知ったことだが甲虫にはあまり良くないらしい。
二匹目のカブトムシは立派な角を持っていて、アパートの何もない壁に一匹くっついていたところを親父が捕まえていた。実は俺はカブト虫だけはあまり好きではなく、というか得意ではなく、それはたぶんどこかの道で蟻に集られている頭と胴体が離れたカブト虫の死骸を見てからじゃなかったかと思う。甲虫の体はそのしっかりした外見とは裏腹にひどく壊れやすく、死んだらことさら脆い。ちょうどゼンマイ仕掛けの玩具にひどくよく似ている。何か一つが狂えば、次第に動きを鈍くして、最後にはただの質量を持った物体になる。俺はカブト虫には触れたくなくてだから育てた記憶はほとんどない。生きていたときの記憶はないし死んだときの記憶もない。しかしこうして保存しているのは何故なのだろうか。俺は記憶を辿る。俺は答えを知っていた。このコンチュウは俺の指を噛んだことがある。俺は虫篭の中に指を入れた。それは夜で俺は寝巻きで一人で外の通路に出ていた。その前に俺は布団で寝ている親父とお袋に挟まれて天井を見ていた。ふとした感傷と混在する小さな罪悪感から俺は床から半身を起して彼の元へ向かったのだ。
俺はソファの手前の机にケースを置いて胸元から煙草を抜いて咥えて火をつける。照りつける太陽から俺は目をろくに開くことが出来ない。光線の中の奈津子の僅かなシルエットを、目を凝らしながら追っている。
「そうよ、啓介」姿を現した奈津子は笑顔で、胸いっぱいに濡れた洗濯物を抱え込んでいる。「今日はここに泊まっていこうよ」
「そう、そうやなぁ」
白みを増した煙が風でリビングの奥にそよいでいく。卓上の灰皿には既に煙草の吸殻が丘を作っており、俺はその中にねじ込むようにまだ吸いかけの煙草を埋めた。
「昔は良かった」
 奈津子が使い古しの洗濯籠に腕の洗濯物を入れていく。「なんで?」
「何も考える必要がなかった。正直俺はお袋にひどいことされてたときも色々考えてたけど、そんなん無駄なことやったんかもしれん。ほんまは考えへんくてよかったんや。お袋は間違ってたで、何も許したわけじゃない。でも少し、ほんの少しだけな」
 奈津子は作業の手を止める。俺は肘掛から離れてソファに座る。
「大人になってわかったことなんてなかった。ただ少し図体がでかくなっただけや。俺はあえて今まで気付かんようにしてた。お袋の持っている苦しみにな。そんなん知ってたよ。俺は俺の憎しみは確かや。許したらあかん。ただ知ることも大切なのかもしれん」
「それは本心?」
「本心ではないよ。いやそうするべきと考えてること全部が本心なら、本心なんやろうけど。俺はお袋を殺したいよ、それが本心や。でもここに来て少しだけ冷静になったんかもしれん。そう少しだけ、安心したんや。街も人も本質は何も変わってなんてなかった。俺は東京に逃げて心のどこかで何もかもが変わってるもんやとばかり思ってた。望んでるようで、諦めてた。本当は変わったのは俺やったんかもしれん。そう、何も変わってなかったからさ」
結局何も終わってはいなかったし、始まることもなかった。ただゆらゆらと時間だけが流れて、歳をとり、暇を持て余したが故の気まぐれで俺はここにいるのだろう。ただ何かが変わるとすれば、それはきっと当事者からなのだろうということもわかる。俺は東京にはまだ帰れない。確かめるべきことがたくさんあって、今がたぶんその時期なんだ。
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