勇者は琥珀色と共に
朝起きて私達が最初にする仕事は、前線で戦ってくれる人たちが顔を洗うためのお湯を沸かすことだ。
そしてそれが終われば食事の準備だ。私は同じ仲間たちと協力して調理をし、大きな鍋をぐるぐるとかき混ぜる。そうしているうちに皆は起きだし、顔を洗って身支度を整えた人から食べ物を取りに来る。
私達自身が食事をとる頃には、既に兵達は野営地を出発している。
彼らは今日も戦う。出発していった人間のいくらかは、ここに戻ってくることは無い。
最初の頃はそれを受け入れることが出来なかったが、いつの間にか私はそれに慣れ始めていた。
「……あと、何日持つんだろうね。ここも」
いつものように大量の衣服を洗濯していると、隣で同じように洗っていた先輩がそう言った。
「どんどん死者が増えてきている」
「……それでも皆、頑張ってくれてますよ。まだ前線は維持できています」
「東の川沿いのところ、もう陥落したって聞いた?」
「……はい」
「もしそのまま敵が進軍してきているのだとしたら、数日のうちにここに到着する……」
苦々しげに先輩は続けた。
「北と東の両方に人員を割く、なんてことをしたら、今の前線は絶対に崩れてしまう」
「でも、援軍だって来るじゃないですか」
「何言ってるの。中央に残ってるのはあなたと同じ予備兵ばかりじゃない。戦闘訓練もまともに受けていない」
「…………」
予備兵、などと言うが、この場合一般的な意味の予備兵とは少し異なる。
ここで言う予備兵とは、戦力の不足を前に中央が取った緊急処置のことであり、その実態は、国の中から志願する人間をかき集めただけの烏合の衆である。もちろんまともに訓練をする余裕も時間もなく、その練度は著しく低い。
当然、そんな予備兵ばかりの軍がやってきたとして、その戦力をあてにすることはできない。
回復呪文などを唱え、野営地で支援を行う私達はそれでもまだなんとかなる。しかし前線で戦う人たちにとって、まともな訓練がされてないというのは致命的だ。
……ちなみに、慌てて軍に組み込まれたという経緯もあり、私達予備兵には正確な階級が与えられていない。というより、正式に言えば、予備兵である私と正規兵である先輩は同じ立場になってしまっている。
もちろん経験にも実力にもかなりの開きがあり、同じ階級だからと言って対等に接することはできない。そうした実情があり、また、予備兵の何割かは学生だったということもあり、いつの間にか私達予備兵は正規兵のことを『先輩』と呼ぶのが一般的になっていた。
「もし前線が崩壊したら、私達も戦うのよ。攻撃呪文、普段使わないけど覚えてる?」
「……初歩的なものならなんとか。一応毎日確認してます。ただ、あまり自身は無いです」
「ま、それが普通よね。その時は任せなさい。私達は予備と違ってきっちり訓練を受けてるから、守ってあげるわ」
先輩はそう言って笑った。
「だけど……」
最後に、先輩は悲しげな表情で言った。
「――勇者がまだ生きていれば、戦況はもっと良くなっていたのかな」
私は自分でも無意識のうちに、自らの髪に手をやり、そこにある髪留めに触れていた。
◇
魔王が出現すると、それに対抗できるだけの力を持った人間が現れる。その人間は精霊の加護を受けており、普通の人間を遥かに超越した戦闘能力を持つ。それを人は勇者と呼ぶ。
――――が、実際のところ、この伝説が本当にあった出来事を記しているものだと思っている人はほとんどいなかった。多くの人間は、魔王という脅威も、それと戦う勇者も、そのどちらもがただの空想上の存在に過ぎないと思い込んでいた。
それが覆されたのが、今からちょうど十年前。北からやってきた魔物達が突然かつてないほど凶暴化して村を襲い始めた時期だ。人々の間で、魔王が出現したのではないか、という噂が広がり始めたのだ。
それと時期を同じくし、額に伝説と同じ勇者の証が浮かび上がってきた少年が出てきたのだ。
といっても、それはパッと見た限りではただのアザであり、ともすれば誰も気づかずに終わってしまうような地味なものだった。勇者と魔王の伝説については誰もが聞いたことがあったが、そこに記されている勇者の証の模様まで正確に覚えている人などほとんどいなかった。
しかし、私はそれを覚えていた。
私は物心ついた頃から勇者の伝説が好きで、小さい頃から何度もその物語を繰り返し読んでいた。もちろん、その複雑な模様も、私は完璧に覚えていた。
だから、分かったのだ。"彼"の額にあるのが、勇者の証だということに。
私の幼馴染だった彼も、そしてその両親も私の両親も、最初はそれを信じようとはしなかった。だけど私は納得せず、彼こそが勇者である、と主張し続けた。
自分の良く知る幼馴染が伝説の勇者であり、これから人間を守るために戦うのだと思うと、誇らしくて仕方がなかったのだ。
だから私は、幼馴染に呪文の契約をさせてみることにした。
伝説の中では、勇者はこの世界にある全ての呪文を使用することができたとされている。だから彼が本物であるなら魔術の才能があり、それによって証明することができると思ったのだ。
そして、私の目論見はあたった。
普通の人が何十年かけて習得するような魔術を、私の幼馴染である彼はわずか一週間でものにした。
それにより彼は勇者として認められ、魔王と戦うことを義務付けられることになった。
◇
「はぁ……はぁ……」
治療した人数が二十人を越えた頃、先輩はもう立っているのもやっとという状態だった。
「と、とりあえず、危ないのは、治療したから……」
「はい! あとの処置は私に任せて、先輩は少し休んで下さい」
「……ん。何かあったら呼んで……」
少し前まで、私達予備兵が実際に回復呪文を唱える機会はほとんど無かった。しかしそれが、最近では毎晩、私達まで治療の仕事がやってくるようになっている。
実際のところ、兵の数自体は間違いなく減少している。それでも治療の仕事が急激に増えたように感じるのは、前線の兵の多くが、重大な怪我を騙し騙し回復させながら戦っている、という状態にあるからだろう。また、度重なる術の行使により、正規兵の術者に疲労が蓄積しつつあるというのも大きな要因だ。
「ちょっとすまねぇな」
私が、比較的軽い怪我の治療にあたっていると、ふと後ろから声をかけられた。
「こいつ、結構重症みたいなんだ。優先して治療を受けさせてもらうことはできねぇか? 見ての通り、ひどい怪我なんだ。こいつは戦場でよく戦ってくれた。治してくれれば、明日も活躍してくれるだろうぜ。俺が保証する」
彼はそう言いながら、誰のものか分からない人の腕を私に差し出した。肩から先に胴体はついていない。
彼は口調こそ落ち着いているが、その視線はふらふらと泳ぎ、目は虚ろだ。私は感情を必死で抑え込みながら言った。
「ごめんなさい。私にはその怪我の治療はできません」
「そこをなんとか頼む。だって、このままじゃあ……」
何か言おうとしているその男を、近くにいた兵士が何人かで連れて行った。
私は落ち着くために深呼吸をした。すると、強烈な血の臭いが肺の中に入り込んできた。
口元までせり上がってきた吐瀉物を飲み込み、私は次の治療にとりかかった。
◇
勇者として認められた日から、彼は毎日、戦闘技術を身につけるため、中央からやってきた人たちの教育を受けることになった。
私は私で、その時期から回復魔術の勉強を始めた。
伝説では、勇者は何人かでパーティーを組んで旅をしている。だとすれば、私もその仲間の一人になって、彼の手助けをしたいと思うのは当然だった。
彼は確かにしっかりしているが、人よりも性格が優しいところがあり、あまり戦いに向いているとは思えなかった。だからこそ、彼のことを良く知る私が付いて行ってあげなくちゃいけない。……私はそう思っていた。
しかし、勇者としての素質により、急激に戦闘能力を高めていく彼とは反対に、私の勉強はまったく捗らなかった。そもそも魔術というのは一つの学問であり、もともと勉強が嫌いだった私にその素質など有るはずが無かった。
そしてそのまま、時間だけが過ぎていった。
彼は立派な勇者になり、歴戦の兵士たちが十人掛かりでも倒すことが出来ないほどの戦闘能力を身につけた。その戦いの様子はまさしくかつての英雄譚を読んでいるかのようだった。彼はもう完全に、人間の限界をはるかに超えてしまっていた。
さらに時間は流れ、やがて、彼が旅立つ日がやってくる。
彼は伝説通り、何人かの仲間を引き連れて旅に出た。国中から選びぬかれた実力者達。もちろん、その中に私など入れるはずも無い。
「それじゃあ、行ってくる」
彼は、おそらくは泣きそうな顔をしていたであろう私にそう言った。
「これを」
その時彼が手渡した、琥珀色の髪飾り。
決意と、勇気と、そして僅かばかりの寂寥。入り混じった瞳が、今でも私の記憶の中に強く刻みつけられている。その時の彼ほど綺麗な目をした人間に、私はまだ出会ったことがない。
この髪飾りに触れる度、私はその眼差しを思い出す。
◇
治療の途中で突然、先輩はバタリと倒れた。
「先輩!」
顔が真っ青で、体全体が軽く痙攣している。呼吸にも脈拍にもおかしなところはないが、意識は完全にとんでいるらしい。呼びかけても返事はない。
それは魔力を使いすぎた術者によくある症状だった。こうなった時に周りができる処置はなく、ただ本人の魔力が自然と回復するのを待つしか無い。
私は空いているベッドに先輩を寝かせ、その代わりに治療を続けることにした。
昨日まで私が治療していた人たちよりも、その怪我はずっとひどいものだった。私は精神を集中させ、必死に、ただひたすら回復呪文を唱え続けた。
腕がちぎれている人や、目をえぐられている人。明らかにこのままだと死んでしまうというような人の治療は、それまでとは比べ物にならないほどの魔力を必要とした。
最後の一人の治療を終えた頃、私の目の前は真っ暗になっていた。貧血の時、一時的に何も見えなってしまうあの状態とよく似ている。
私は何も考えられず、その場に横になった。そこが地面なのかベッドの上なのかも定かじゃないまま、私は眠りについた。
三時間ほどで、私は目を覚ました。
しかし、先輩が目を覚ますことは無かった。
◇
国中の人間が彼に注目していた。
彼が魔王を倒してくれれば、私達はまた平和に暮らすことができる。誰もがそんなお伽話のような未来を信じ、縋り付いた。
本格的に進撃を始めた魔王軍の強さは凄まじく、人々は皆、この勇者のように、人間の力を越えた存在を心の底から切望していた。
勇者が北に旅立ってから、敵の進軍は止まった。
時折、勇者は今東のほうの砦で戦っているだとか、そういった活躍が正式に公表されることもあった。私はそれを聞きながら、ただ彼の無事を祈り続けた。
子供の頃、私は勇者という存在に憧れていた。そして、自らの幼馴染が勇者になったことを喜んでいた。
しかし、成長するにつれ、それを無条件で信じることができなくなっていた。
皆、勇者という記号しか知らない。彼がどんな人間で、どんな顔で笑い、泣くのか。どんな様子で旅だったのか。それを皆は知らない。
戦うというのは、伝説にあるようなきらびやかな行為ではない。
明日には彼が魔王軍によって殺されているかもしれない。あるいは、もう死んでいるかもしれない。
今更になって、私は彼に勇者の証が出てきたことを誰かに言うべきでは無かったと後悔した。
勇者の活躍の情報は、ある時ぱったりと途絶えた。
何があったのか、色々な噂が人々の間を飛び交った。そしてそれからしばらくしてから、魔王軍の進撃は再開した。
勇者の消息が完全に途絶えたと公式発表がなされたのは、それからすぐのことだった。
勇者は死んだ。その情報は瞬く間に国中に広がっていった。
……実際のところ、彼が死んでいるか生きているかは分からない。しかし現に、魔王軍は進撃を再開している。だとすれば、たとえ生きていたとしても、勇者にはもう戦う力は残っていないと考えるのが妥当だ。
そして現実問題、勇者という戦力が無くては、人間に勝ち目はほとんど無いと言って良かった。
圧倒的に戦力が足りなかった。そのため、即座に予備兵というシステムが作られた。
私はそれに志願した。その頃の私は、最低限の回復呪文は既に習得できていたからだ。
私は戦場に行きたかった。
彼が生きているのか、死んでいるのか、それさえも判断できない状況だが、それでも少しでも真実に近い位置にいたかった。
彼が戦ったのなら、私も戦うしかない。
それは、彼に対する愛情だとか、彼を勇者として見出したことへの後悔だとか、そういう何か理由があったわけではない。
ただ、もっと純粋に、私の今までの人生全てが、そうしなければならないと私に告げていた。
◇
回復呪文を唱え、兵士の治療をする。そして私達の魔力が回復しきる前に、また怪我人がやってくる。その繰り返しの中、私達はただ摩耗していくだけだった。
私と仲良くしてくれた先輩のように、魔力を使い果たしてそのまま亡くなってしまう人が増えてきた。それによって、私のように、予備兵でありながら必死で治療に専念しなくてはならない人も増えてきた。
兵も私達も皆、自分の魂を削り続けていく。明らかに劣勢であり、勝機の見えない戦い。
そんな中、ついにその時はやってきた。
私達の東側に、敵側の援軍が到着したのだ。
慌てて兵を二手に割き、指揮系統もまだ安定していない状態での初戦。
その日、私達は珍しく楽をすることができた。それは言うまでもなく、たった一日で味方の兵士の人数が一気に減ったのが原因だ。死んだ人間を治療することはできない。
その日の夜、私達には武器が支給された。
もう間もなく、この拠点は陥落する。しかし、撤退は許されていない。私達はどうやら、完全に捨て駒となってしまったらしい。
中央の人たちは既に、海を越えて南の大陸に逃げはじめているという。私達は彼らが逃げる時間を稼がなくてはならないのだ。
一日でも二日でも、時間を稼ぐ。それがもはや死亡が確定しかけている私達に与えられた唯一の使命だった。
「ただ相手を足止めするだけだ。あてることは考えなくていい。間隔をあけず、面での攻撃を常に意識しろ」
私は皆と並んでクロスボウを構えていた。
前方から敵軍の進撃する音が響いてくる。
カタカタと何かがぶつかる音がすぐ近くから聞こえた。それは私の歯の根が鳴る音だった。強く奥歯を噛み締める。
「まだだぞ、まだ引きつけろ……」
さらに強く奥歯を噛んだ。そうでなくては、この恐怖を堪えられない。無意識のうちに引き金を引いてしまいかねない。
敵の姿がはっきりと見え始める。彼らはどんどんこちらに近づいてきている。
強く強く奥歯を噛んだ。口の中に鉄の味が広がる。強すぎて口内が出血したらしい。
「撃て――!」
そして私達は一斉に引き金を引いた。
勢い良く放たれた無数の矢は、前方からやってくる敵軍の上に降り注ぐ。
痛みに喘ぐ魔族、とっさに引き返そうとする魔族、それらを指揮するために声を張り上げる魔族……。
恐怖やら憎しみやら悲しみやら、何もかもがぐちゃぐちゃになった頭で、それでも手だけは冷静に動き、私は次の矢をクロスボウに装填していた。
この日、私が生き延びる事ができたのは、本当にただ運が良かっただけだ。
私は東側の戦いに配属されていたから良かったが、北側で私と同じようにクロスボウを持っていた部隊は、敵の反撃に遭って全滅していた。私は偶然、二分の一の確率で生き残ったということだ。
昨日よりもさらにぐっと人数を減らした野営地の中で、私は夜空を見上げていた。
空には無数の星々が瞬いている。
私は星や星座の名前にあまり詳しくない。だけど、確か彼はそういうものがすごく好きだった。彼はよく、星座に関係のある神話などについて私に話してくれた。
もっとも、私は勇者の伝説以外の物語にはほとんど興味を示さず、適当に聞き流していただけなのだが……。
「……生きているよ」
彼は消息不明になり、やがては死んだと噂されるようになった。
本当に彼は死んだのだろうか? どこかに生きているんじゃないだろうか?
「私はここに、生きているよ」
彼はまだ生きていて、私はその時、前線で戦っていて……。私達二人は、そこで奇跡的な再開を果たす。
馬鹿馬鹿しいとは思っていながら、そんなことを以前はよく考えていた。
「……もしそうなら、早く来てね。私達、もうすぐ全滅しちゃうから」
私は夜空に向かって語りかけた。
途端、私はその自分の行動が恥ずかしくなり、思わず笑ってしまった。なんてロマンチックなのだろう。
何もかもが冷えていて、そして透き通っていた。
その冷たさには熱さも同量だけ含まれている。プラスとマイナスが、絶妙なバランスで互いを支えあっている。
これが、戦う前の決意。
彼が自らの瞳に決意を宿し、私に髪飾りを渡した時。彼もまた、この鋭い感覚を味わっていたのだと思う。
突然野営地に響き渡った敵襲の合図に、私はすぐに飛び起きた。
慌てて武器を手に取り外に出る。
まだ空には星が瞬いている。にもかかわらず、視界は妙に明るかった。火がつけられ、あちこちが燃えている。
夜襲だ。
「武器を持って退け! 一度退いて体勢を立て直す!」
誰かが指示を出すが、兵達は完全に恐慌状態に陥っている。
悲鳴は途絶えることがなく、火の手もどんどん勢いを増している。さらに敵軍のものであろう雄叫びが絶えず聞こえていれば、落ち着いて行動などできるはずがない。
そんな中、できるだけ冷静に、とにかく逃げるべきだと走り出した私の前に、突然一体の魔族が現れた。
「――――っ!!」
私だけではなく、相手もまた驚いているようだった。狙って出てきたわけではないらしい。
驚きから回復したのは、私の方が少しだけ早かった。
クロスボウを相手に向け、引き金を引く。鋭く発射された矢は相手の下腹部に突き刺さり、その顔は苦悶に歪んだ。私はクロスボウを放り出し、槍を構え、突いた。
倒れた相手から槍を引き抜き、さらに二度三度とそれを繰り返す。
「はぁ……はぁ……」
悲鳴と足音が混ざった音が、どんどん大きくなっていく。私は震えながら、相手が死んでいることを確認すると、先ほど投げたクロスボウを拾い、矢を装填した。
近接戦闘についてほとんど訓練を受けていない私は、今みたいに何かで相手を怯ませ、その隙をつく、という戦い方しかできない。
また、攻撃呪文も初歩的なものしか覚えておらず、発動に時間がかかる。
クロスボウは矢を装填するのに少し時間がかかるが、発車するのは一瞬だ。……しかしもちろんその性質上、敵が二体以上出てきた時、私に抗うすべはない。
私は武器を抱え、走り出した。とにかく今は逃げなくてはならない。
「誰か! 助けて!!」
すぐ近くではっきりと女性の悲鳴が聞こえた。
とっさにそちらに目をやると、私と同じ、予備兵の女の子が、武装した三体の魔族に囲まれていた。
彼女は武器を持っておらず、丸腰だ。このままだと間違いなく殺される。
そして、その三体の敵は、こちらに背を向けていて私には気づいていない。
ここからならクロスボウを外すことはない。だが、一度発射して私の存在が知られてしまったら、もう一度装填することはできない。
つまり、私が彼女を助けようとすれば私は死に、私が生き残るためには、彼女を見捨てなくてはならない。
「――――」
生きて帰る希望など、とっくに捨てていた。しかし、それは決して、死の恐怖を克服したという意味ではない。
死を思えば、恐ろしく仕方がない。それは根源的な恐怖であり、人は生きているうちにそれを克服することはできない。
だから、もし、自分の命を失うと分かっていてその行動を取ることができるとすれば、それは――
――私も、
クロスボウを向け、引き金を引いた。矢は敵のうちの一人の背中に突き刺さる。その魔族はよろめき、やがて振り向いた。残りの二体も私に気づき、こちらに武器を向ける。
――勇者に、なりたいなぁ……。
伝説の中で勇者は一人。仲間はいても、それは皆、通常より強いだけの普通の人間。人間を越えた勇者という存在には到底届かない。
私も勇者であればよかったのに。
「逃げて!」
私が叫ぶと、彼女は震えながらも後ずさり、そのまま一目散に走り出した。三体の魔族はちらりとそちらに視線をやった後、すぐにこちらに戻した。
武装をした私のほうが危険だと思ったのか、あるいは矢を射られたことによる怒りがあるのか……。
私はクロスボウを捨て、槍を強く握った。
私が勇者だったら……もし彼がここにいたのなら、間違いなく今の私と同じ行動をとっているはずだ。
敵はこちらを見据えてゆっくり進んでくる。私はその三人を前にただ槍を構えた。
善戦したほうだと思う。
三対一での戦いで、こちらはまともな戦闘訓練を受けていない。そんな圧倒的に不利な状況でありながら、なんとか隙をついてそのうちの一体を仕留めることができたのは、我ながら本当に頑張ったと思う。
しかし残った二人に持っていた槍を弾かれた瞬間、私の死はほぼ確定した。
手には小振りな短剣が一本のみ。
二体の魔族は距離をつめてくる。私は現状を打開する策を思いつくこともなく、ただ後ずさる。
死は近づいてきている。
やがて、私はそれ以上下がることのできない場所に追い詰められた。
魔族の片方が大きく剣を振り上げた。私はとっさに短剣をかざし、攻撃を防ごうとする。
がつん、という強い衝撃と、それから少し遅れて鮮血が散った。痛いというよりも熱い。いつも治療中に嗅いでいた血の匂いがむわっと広がる。
腕にかなり深い傷を負ったらしい。時間をかければ回復させることはできるのだろうが、もちろんそんな余裕はない。
手傷を負った私に、その魔族は再び剣を振るった。
またしても短剣で受けようとするが、その力は強く、私はそのまま地面に転がった。
頬にあたる地面が冷たい。早く立ち上がらなくてはならないと思いながらも、うまく体が動かない。
気づけばそんな私のすぐ近くに敵が来ていた。
……ここが、私の死なのか。
せめて、最後まで立ち向かいつづけるべきか――――などと思うのと同時に、その違和感に気づいた。
髪に感じる軽さ。
私の大切な髪留めの重さが、無くなっている。
「え?」
手で触って確認するが、確かに髪留めが無くなっている。
どこにいった? 落とした!? いつ!?
たった今、私の命は消えようとしているにもかかわらず、脳裏を埋め尽くしたのはその髪留めのことだけだった。
必死で目を動かし、髪留めを探す。落としたのだとしたら、ついさっき、敵から攻撃を受けた時だろう。それ以外に考えられない。
必死に視線を這わせ、やがて見つけた。琥珀色のそれはここからちょうど四メートルほど先に無造作に転がっていた。
「――――くっ!」
私は全身をバネのように使い、そちらに向かって跳んだ。傍から見れば芋虫のような動きだっただろう。
敵の振り下ろした剣は私の命を刈り取らず、ただ左足を鋭く刻んだだけだった。
そのまま這いずるように琥珀色の髪留めのもとに向かう。
拾い上げたそれは、いつものように美しく、強かった。ここに秘められた強さは勇者のものではなく、彼自身の強さだ。
私はそれを強く胸に抱いた。この強さと共にあれば、きっと死んでしまっても大丈夫だ。
魔族は再び剣を振り上げる。私の足はもう動かない。抵抗することも逃げることも出来ない。先ほどのように芋虫のような動きをすることも、もう出来ない。本当に本当の終わりだ。
私はただ、目を閉じた。
「…………」
――が、それから十秒程経っただろうか。
一向に攻撃が加えられる気配がなく、私は恐る恐る目を開けた。
「……?」
目の前の二体の魔族は、剣を持った手をだらりと下げ、ただ虚ろな目でどこか遠くを見ていた。
それが何を意味しているのか、私には分からなかった。
何か、放心している? とんでもなく大切な何かを失ってしまったような、空虚さのようなものがその様子から少しだけ伺えた。
何を見ているんだろう? 私は重たい首を動かし、そちらに顔を向――――
どぅっ! と、突然すさまじい衝撃が私の体に叩きつけられた。
何なのかは分からない。分からないが、何かとんでもなく巨大で強い何かが私を思い切り叩いている。私は全身を丸め、身を守ろうとする。
意識が思い切り引っ張られる。視界は乱れ、もはや自分がどういう状態なのかも分からない。
そのままあちこちに全身が叩きつけられ、その度に強い痛みと熱さを感じた。
時間にしてどれくらいなのか。やがてその強い何かが終わった頃、私は傷だらけになっていた。
腕と足の骨が折れている。
呼吸をするだけでもひどい激痛が走る。肋骨が砕け、破片が肺に突き刺さっているのだろう。
靄のかかった意識のまま、私はぼうっと目を開いた。
これだけ強く暴力的な力があったのだ。それが何かは分からないが、とんでもなく危険なものに違いない。――そう思っていた私は、その目に映った景色にただ息を呑んだ。
何か特別なものがあったわけではなかった。自分にとって良いものがあったわけでも、悪いものがあったわけでもなかった。
ただ、そこには光があった。
夜の闇を引き裂く強さを持ち、それでいて何かを祝福するかのような暖かさを持つ、美しい朝の光。
朝陽が、地平からゆっくりと顔を見せ始めていた。
少しの間それに見とれ、それから痛みを堪えて視線を動かした。
先ほどの衝撃によって、まわりの様子はかなり変わっていた。野営地に建てられたテントの多くは倒れ、吹き飛び、バラバラになっている。
そして、先程まで私のすぐ側にいた敵は、既にいなくなっていた。
どこかに吹き飛ばされたのか。あるいは、もう消えてしまったのか。
……かつて読んだ勇者の伝説を思い出した。
勇者は戦いの果て、魔王を倒す。魔王は死ぬと、その中に蓄えられていた魔力が溢れ、それが衝撃波となって四方八方に飛び散るのだ。その衝撃は大きく、地の果てまでも及び、それによって倒壊した建物も多かったと記録されている。またその時、魔王の死に引きずられるかのように、魔王の軍勢は全てどこかに消え去ってしまったという逸話もある。
……つまり。
私は口元に広がる笑みを抑えることができなかった。
もしかすると、これは。とんでもなく都合のいい考えなのかも知れないけれど。
誰かがたった今、魔王を倒したということなのではないか?
そして、今、魔王の近くにまで進撃している部隊など存在しない。
だからもし、魔王を倒す存在がいるとすれば、それは――。
――このまま、私はここで死ぬんだと思っていた。
実際今の私は満身創痍で、ともすればこのまま消え去ってしまいそうな命だ。
だけど、それでもまだ、死ぬことはできないらしい。まだ、彼が生きている可能性があるのだから。
私は目を閉じ、集中して回復呪文を唱え始めた。
やがて、必死に自らの魔力を絞り出し、ギリギリ立ち上がれるくらいにまで治療を済ませた頃。
太陽は地平から完全に顔を出し、そして、新しい一日が始まろうとしていた。
◇
数日経った頃、私達のいる場所に援軍が到着した。
といっても戦いはもう終わってしまっているため、援軍というのは少し語弊がある。救援隊、などと呼ぶべきかもしれない。
彼らはボロボロに傷ついている私達に物資を提供し、回復呪文による治療も行ってくれた。彼らが来るまで、私達は自分たちが死なないように応急処置をするだけで精一杯だった。
治療を受けた私達のほとんどは、馬車に乗って中央に戻って行った。
かつての逸話通り、既に魔王軍は一匹残らず消え去っていた。そのため、ここに残らなくてはならない理由が、私達にはもう無かった。
中央からやってきた救援隊の彼らは、そのまま近くの町の復興作業に取りかかりはじめた。瓦礫をどかし、資材を運び込んでいく。
私はここに残り、彼らの手伝いをすることにした。
帰りたいという気持ちもあった。帰って、家族を安心させたかった。
だけど、それ以上に待ちたかったのだ。
魔王が倒されたのは、まず間違いなく勇者が戦ったからだ。そして、もし彼がまだ生きているのなら、きっと帰って来る。
この場所が、魔王のいた場所から一番近い最前線だ。
最前線で彼と再開する、などという奇跡のような出来事を、私は再び夢見てしまっていた。
以前と同じように、私の一日の最初の仕事は、皆が顔を洗うためのお湯を沸かすことになった。
それから食事を作り、復興作業をする皆に配給していく。それが終われば洗濯などの雑用をし、空いた時間があれば簡単な運搬作業を手伝う。夕方になれば、作業中に出た怪我人の治療をし、夕食の準備もする。
それは戦いが終わる前と同じような日々だった。ただ一点、違うとするならば、それはそこにいる人々の表情だった。
彼らは皆、希望に満ちていた。魔王は消え、戦いは集結した。これからは再び、人間が平和に暮らせる時代がやってくる。
夜は宴が行われ、なけなしの酒を皆で呑んだりもしていた。
――しかし、私の中ではまだ、この戦いは完全に終結したわけではなかった。
その日、私はいつもよりも早く目を覚ました。外はまだ暗い。そのままもう一度眠りにつこうと思ったが、なぜだか目が冴えてしまっている。
仕方なく私は外に出た。
空を見上げるとそこには星の海が広がっている。じっと見ていると、なぜか分からないが、少し落ち着かない気分になってくる。
私は気を静めるため、付近を軽く歩くことにした。
復興が始まったばかりの町を歩く。一瞬だけ、誰かの悲鳴や魔王軍の足音が聞こえたような気がした。私は頭を振ってそのイメージを打ち消す。
時間をかけて、ゆっくりと歩いて行く。
ぐるりと町を周り、もといたテントの場所に戻ってくると、空はもう白み始めていた。
せっかくだから日の出を見ていこう。
私はその場所からさらに進み、町から少し外れた丘のところに向かった。このあたりでは一番景色の良い場所だ。
私が見守る中、ゆっくりと陽の光は世界を照らし始めた。夜のベールに包まれた、崩れた町並みが、神聖な朝の光に晒されていく。それは無残でありながらも、希望を抱かせる光景だった。
日が完全に昇りきるのを見届けると、私はその場を立ち去ろうとした。
しかし、突然、ふわっと何かが軽くなった。
コツン、と固い物が落ちる音。振り向いて見れば、そこには私の琥珀色の髪飾りが落ちている。
私はしゃがんでそれを手に取り、そして、何とは無しに前方を見た。
「――――あ――」
多分この時、私は随分と間抜けな表情をしていたと思う。
遠くに黒く、小さな影が動いているのが見えた。それは人の影だ。誰かがこちらに向かって歩いている。
それが誰なのか、私にはすぐに分かった。こんなに離れていても分かってしまう。ずっとその姿を待ち続けていたのだから、それも当然だ。
私は髪飾りをギュッと握りしめ、それから彼のもとに向かって駈け出した。
了