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.8月2日   アパート「むつみ荘」202号室

「どうして…」
 市ノ瀬清美は、あの日以来、ずっとその言葉を繰り返していた。
「どうして、あの時、隼人から目を離したのだろう…」
 いや、あの時、ひとこと隼人に声をかけていれば。
 ひとこと、「まだ行っちゃだめよ、ママが行くまで待ってなさい」と声をかけていさえすれば。
 夏の日差しは今日も、あの日と同じように白く降り注いでいる。
 遠くにアブラゼミの声がうるさく聞こえている。
 テレビは朝から、最高気温が30度を超えること、熱中症に注意が必要であることを、繰り返し伝えている。
 なんの変哲もない、真夏の1日だった。
 一週間前の、あのことさえなければ。

 その日は、小学校が夏休みに入って最初の土曜日だった。
 休みに入るずっと前から、隼人とはプールに行く約束をしていた。
 今年、隼人は小学校3年生になった。
 去年の夏休みにくらべ、隼人はぐっと大人っぽくなった。
 成長期というのだろうか。体格も一年前よりひとまわり大きくなり、身長も10センチ近く伸びた。
 清美が夫と離婚した時に大声で泣き喚いた幼稚園児の姿はそこになく、たくましい少年の風貌が宿りはじめた。
 皮肉なことに、その顔立ちには、どこか別れた夫の面影が感じられるようになった。
 スポーツマンで二枚目、誰にでも優しかった、そしてその性格のなせる業なのか、いつも周りの女の子との噂が絶えなかった元夫の面影が。
 夫について、噂はいつも清美の元に届いていた。
 アパレルという、女性の多い職場に勤めていた夫の近くには、清美より5歳は若く、ルックスもスタイルもいい若い女の子が大勢いる筈だった。
 だからさ、誤解され易いんだよ、噂なんか、気にするなよ。
 夫はいつもそう言っていた。
 清美もそれはわかっている筈であった。
 短大時代に入っていたサークルで出会って、交際し、結婚するまでの時間の中で、夫のことはある程度理解していると思っていた。夫に限って、表面だけちゃらちゃらした若い女に本気でなびく事はあるまいと、確かに清美も思っていた。
 ――あのメールを見るまでは。
 夫の入浴中に携帯に着信したメール。
 普段は読む気などおこさない清美が、ふっとそのメールを開いて見てしまったのは、魔がさしたというのだろうか、それとも、自分でも気が付かないなにかの予感があったせいだろうか。
 あまりにもあからさまで大胆なそのメールの文面を、清美はいまだに覚えていた。
 若い会社の後輩の女の子からのメールだった。
 その内容は、すでに彼女と夫との間に、親密な関係があることをじゅうぶんに窺わせる内容であった。清美が茫然としているところに、夫が風呂からあがってきた。清美は携帯を手にしたまま半裸の夫を見た。
 夫の表情は、いままで見たことがないほど強張っていた。
 清美の人生のすべてが暗転した瞬間だった。

 夫は出来心だったといい、本気ではなかったのだと言った。
 その一方で、すぐに別れてくれという清美の要求には、はっきりとした明言を避けた。
 いきなり別れを切り出したりすると、下手をしたら相手が自殺しかねない、そう言った。
 それを夫の優しさというべきなのか、優柔不断というべきなのか、清美にはわからなかった。
 しかし、たとえ、相手が自殺するかもしれないにせよ、関係を清算しないという夫の態度は、清美にとってみれば裏切りでしかなかった。
 そこから離婚までは一気に進んだ。ジェットコースターに乗っているようだったと、今になって清美は思う。
 隼人の親権は清美が持つことになり、離婚に至る経緯を勘案して、慰謝料と養育費の額が決められた。
 もちろん、夫にしてみれば、それは精一杯の誠意だったのだろう。それは清美にもわかった。しかし、もともと給料の安い業界でもあり、資産家でもない夫からの養育費は、幼い子供を抱えたシングルマザーが暮らしていくのに充分な額というわけではなかった。
 清美は、できるだけ土日が休みで残業がないという条件で仕事を探し、今では平日の9時から5時まで、近所のスーパーマーケットでパートとして働いていた。
 だから、隼人をプールに連れていくのに土曜日を選んだのだ。
 その約束が決まった日、隼人はアパートの壁にかけてあったカレンダーの日付に、赤いサインペンで大きなマルを描いた。何重にもマルをしただけではあき足らず、そのうえに花びらを足して、花マルにした。

「ママ、ママ、早く!」
 アパートの玄関で隼人が騒いでいた。
 柄物のタンクトップに半ンズポン。頭には麦藁帽子をかぶっている。
 気が早いことに、腰にはふくらませた浮輪を身に着けていた。
「待ちなさい、隼人、ママ、支度をしているから…」
 鏡に向かって日焼け止めのクリームを顔に塗りながら、清美は自分がひどく疲れていることを意識していた。
 その前日の金曜日、バイト先でちょっとしたトラブルがあった。
 トラブルといっても事故や事件ではなく、最年少のバイトの女の子が突然連絡もなく出勤してこなかったのである。
 清美たち古参のバイトはたちは、顔を見合わせて、またかと思った。その女の子、といっても女子大生だが、彼女はアルバイトを趣味のサークル活動かなにかと勘違いしているらしく、時々無断で欠勤した。それでいて翌日はしれっとして出勤してくるのである。
 休んだ理由について説明するわけでもなく、他のアルバイトに迷惑をかけたことを謝るでもなかった。
 売り場主任の紙谷が、あまり強いことを言えない性格であるのをいいことに、彼女のいいかげんな勤務態度は続いていた。そして、その皺寄せはすべて清美たちベテランのアルバイトに来るのだ。
「悪いね…隼人君が待ってるっていうのに」
 主任の紙谷は、本当にすまなそうに清美に言った。
「ええ、でも慣れてますから。誰かが片付けなくちゃいけないんですから、仕事」
 清美は、自分の心の中とは別のことを言った。
 紙谷は悪い人間ではない。シングルマザーである清美の大変さにも理解があって、よく気を使ってくれる。しかし一度、例の女子大生に説教しようとして逆切れされて以来、その娘に強い物言いができなくなってしまった。
「すいません、僕が不甲斐ないせいで皆さんに迷惑かけちゃって」
「でも紙谷さん、やっぱり一度、あの娘にはちゃんと言ってやった方がいいと思うわ」
 内心のいらいらを抑えながら、清美は言った。そのイライラは、紙谷に対してというより、社会人意識を欠いたその女子大生に対するものであった。
 彼女は青春を謳歌しているように見えた。本人に罪の意識が無いぶん、余計にいらいらした。
 金曜日はそういうわけで残業になった。
 本当なら、この炎天下、プールなんて行きたくなかった。
 この暑さでは市民プールは人でごった返しているだろう。
 生ぬるい水に浸かりながら、強烈な夏の紫外線を浴びるために外出するなんて、狂気の沙汰に思えた。
 ――たぶん、そういう意識が、清美の準備をことさらゆっくりにしてしまったのだろう。
 いつまでも鏡の前に座ってのろのろと準備している母のことを、隼人は待ちきれなくなったのに違いない。
 ふと気が付いてアパートの玄関をみると、さっきまでそこにいた隼人の姿が消えていた。
 待ちきれなくなって、先にアパートの外階段を降りていったのだろう。
 その段階になっても、清美はそれをあまり重大なこととは考えていなかった。
 階段を降りると、未舗装の狭い私道に出る。
 それを15メートルほど進むと、交通量の多いバス通りに出る。
 バス通りに飛び出してはいけないという事は、普段から口を酸っぱくして隼人に言い聞かせていた。
 隼人も普段は言いつけをよく守っていた。
 バス通りの手前で清美を待っている。――いつもはその筈だった。
 その時、キーッという鋭く大きな音がした。
 つづいて、ドン、という、重く、鈍い音。
 さらに、誰だかわからないが、女のカン高い悲鳴が聞こえた。
 清美は立ち上がった。
 不安が黒雲のように胸の中に広がっていた。
 まさか!
 隼人の姿を探しながら、アパートを飛び出した。
 サンダルをつっかけて、部屋に鍵もかけないまま、外階段を降りた。
 強烈な夏の日差しの中に、隼人の姿を探したが、見つからなかった。
 私道を駆けていく時、バス通りの方が妙に騒々しいことに気が付いた。
 清美の胸の中の暗雲は、さらにその影を広げた。心臓がバクバク鳴った。
 バス通りに出たところに、人混みができていた。
「救急車! 救急車!」
 男の声が聞こえていた。
 清美は人混みをかきわけるようにして進み出た。
 そして、そこにあり得ない光景を見た。
 広い通りは、強い太陽の光を受けてアスファルトが白く光っていた。
 いつもなら車がひっきりなしに通る筈の通りが、いまは静けさに満ちていた。
 建築資材を積んだ4トントラックが、運転席と荷台が「く」の字になるような形で、奇妙な方向を向いて停車していた。
 アスファルトには黒々としたゴムタイヤの焼けた跡があり、いやな匂いがしていた。
 トラックのすぐ目の前に麦藁帽子が落ちていた。
 隼人の姿は見えなかった。
 やがて、真っ白く光を反射するアスファルトの表面に、変化が現れた。
 4トントラックの荷台の下から、赤黒いしみが広がり始めた。
 それは見る間に面積を広げ、路面にロールシャッハテストのような模様を描き始めた。
 遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。
8月21日  D大学附属病院心療内科外来診察室

 その男は、その日最後の患者を送り出した後に、おずおずと診察室に入ってきた。
 ドクターの石崎は、診察用の椅子をすすめて男を座らせた。
 男の年齢は三十そこそこだろうか。
 今年42歳になる石崎より十歳は確実に下だろう。
 スーツを着ていたが、一目で大型量販店で購入した既製品であることがわかるようなシロモノだった。
 サイズも型も微妙に身体にフィットしていない。
 やけに白さが目立つワイシャは、首まわりのサイズが大きすぎて合っていない。
 襟元には、今どき流行らない細身のストライプのネクタイ。
 おそらく、普段はスーツを着る職場に勤務してはいないのだろう。
 体系は痩せ形、髪の毛はやや天然パーマがかっている。
 眼鏡はかけていない。細い目が、緊張のせいかあちこちに動く。
 まるで初めて就活に出る大学生が、そのまま十歳、としを取ったような感じだと、石崎は思った。
「ええと、紙谷さんでしたね?」
「はい。紙谷良治といいます」
 紙谷は思い出したようにスーツの内ポケットを探り、名刺を出した。
「スーパーマーケットの売り場主任…さん、ですか。お若いのに」
「いえ、主任とは名ばかりで…その、雑用係のようなものですから」
「私の患者さんの事で、なにかご相談があるとか」
「市ノ瀬清美さんの件です」
「ふむ」
 紙谷自身は石崎の患者ではなかった。
 石崎が診ている患者の知人で、相談したい事があると病院に電話してきたのだった。
 患者の名前を聞き、プライベートにかかわる事は話せないと断ったが、どうしても相談に乗ってほしいと言った。
 仕方なく、外来診療のある日の夕方にアポイントメントを入れた。紙谷は指定した時間通りに診察室に現れた。
「それで…」
 石崎は、卓上のコンピュータ・ディスプレイに、市ノ瀬清美の履歴を呼び出した。
 ディスプレイの画面は、紙谷の座っている位置からは見えない。
 市ノ瀬清美の初診は8月14日。
 少し前に小学校に通う一人息子を交通事故で失っていた。
 その後、不眠や幻聴を訴えて近所の神経科医院を受診、その医師の紹介で石崎の診察を受けるようになった患者である。
「失礼ですが、患者とはどういうご関係ですか」
「アルバイト先の、なんというか、上司です」
「なるほど」
「月曜から金曜まで、清美さんにはうちのスーパーで働いてもらっています」
 紙谷はスラックスのポケットから、ワイシャツ同様、真っ白なハンカチを出して額を拭った。
 石崎は、紙谷が患者の事を「清美さん」とファーストネームで読んだことに、軽い違和感を覚えた。
「今日は、お仕事ではないのですか?」
「清美さんは事故以来、店には出ていないので…」
「いや、私が言ったのはあなたの事です」
「私…ですか。いや、私は今日は有給を取ってますので」
「それはまた…。主任さんともなると大変ですね。アルバイトの方のために、有給まで取らなきゃいけないんですか」
「いえ、それはその…仕事ではなく、なんというか、プライベートで」
「ほう」
 石崎はしきりに汗を拭く紙谷を見た。「失礼ですが、患者さんとはなにかその、特別な?」
「いえ…」
「そうですか。しかしですね、一般的に言って、患者のご家族でもない方に、あれこれと症状や治療のお話をする事はできないんですよ」
「仕事上の関係ではいけませんか」
「市ノ瀬さんが仕事に復帰できるか、このままアルバイトを続けても問題はないか、そういうご相談なら、一般論としてお答えすることはできますが」
「いえ、そういう事じゃないんです」
「そういう事じゃない、というと」
 紙谷はそのまま俯くと、黙り込んでしまった。
「あの…」
 苦しそうな声で言った。「僕…清美さんのことが好きなんです」
「ふむ」
 石崎にとって、それは意外な答えというわけではなかった。
 いや、むしろ、紙谷の態度を見て予想した通りだった。それにしても、こういう形でいきなり「告白」されるとは石崎は思っていなかった。
 紙谷は、重大な告白をし終えたというように大きくため息をついた。
 白かった頬に興奮のためか赤味がさしていた。
 緊張がとけたせいか、紙谷の言葉が心なしかなめらかになった。
「まだ清美さんには言えていないんです。でも、いずれ言おうと思っていたんです。もちろん、あの人がバツイチで子持ちだったことも知ってます。それでもいいと思っていたんです。あの、率直に言って、結婚してもいいと思ってました。でも、僕に勇気がなくて。言おう言おうと思っているうちに、あんな事故が起こってしまって」
「事故の後、清美さんには会ったんですか」
「お葬式だのなんだのも手伝いましたし、何回かはあっています。でも、全然、話ができなくて。彼女の方が落ち込んでしまって、何も喋れなくて」
「彼女の親族が、一緒に住んでいると聞いていますが」
「事故の後、実家からお姉さんがこっちに出てきて、いっしょに生活しています。でも清美さんはご実家とうまくいいてないらしくて」
「ほう?」
「最初の結婚の時、実家の御両親は反対されたらしいんです。そのしこりがまだ残っていて、実家には帰りたくないんだと…。彼女のお姉さんは勤めがあるんです。そっちを休むわけにいかないから、清美さんのアパートから毎日出勤していて。それで、清美さんは日中一人になってしまうんです。それも心配なんです。ひょっとして、清美さんが発作的に隼人君の後を追おうとするんじゃないかと」
「それで、あなたはどうしたいと?」
「できればずっと傍についていてあげたいんです。清美さんの傍に…」
 石崎は、うつむいた紙谷の目に光るものを見た。
「でも、いまの状況じゃそれもできなくて…。情けないです」
「お気持ちは分りますが、私に相談されてもお力にはなれませんよ」
 石崎はディスプレイを見ながら言った。
 強迫観念、自傷傾向、幻聴…市ノ瀬清美の現在の症状から見て、考えられない事態ではない。しかし、客観的にいって他人である紙谷にできる事は限られている。
「どうです、一度、彼女のご家族の方を交えて話し合ってみては」
「たぶん、無意味だと思います。清美さんは、隼人君の事故が、自分のせいだと思っているんです」
「そうですね。しかしああいう状況下では、多かれ少なかれ、ご自分に責任を感じることは避けられないと思いますが」
「そういう意味じゃないんです。清美さんは隼人君のことを内心で邪魔に思っていた。鬱陶しいと思っていた。それが、ああいう事故を呼び込んだ原因じゃないかと思っているんです」
「つまり、日々そう願っていた事が実現した、と」
「そう思い込んでいるんです、たぶん」
「しかし彼女は隼人君を可愛がっていたじゃありませんか。虐待もしていないし、むしろ大事に愛情を持って接していた筈ですが」
「外見的には。外から見た感じでは、間違いなく可愛がっていました。でも内心では…時として、邪魔だなとか、この子さえいなければ私はもっと自由になれるのに、といった気持ちが、抑えきれなかったんじゃないかと」
「そう思う根拠でもあるんですか」
「私の職場に、アルバイトで若い女の子がいます。女子大生で、なんというかちゃらちゃらして、遊び回っているような女の子です。仕事も責任感がなくてすぐに休みます。その子を見る清美さんの目が、なんというか…」
「その子を憎んでいると?」
「それもありますが、むしろ羨ましいと思っているんじゃないかと」
「ほう」
「考えてみれば、清美さんはまだ若いんです。綺麗な人だし、遊ぼうと思えばまだまだいけると思うんです。でも、隼人君がいるからそれはできない。今だけじゃない、自分の20代はずっと隼人君を育てる事に費やされてきた…。そう考えると、隼人君のことを邪魔に思う気持ちも清美さんの中にずっとあったと思うんです。それが、事故という形で現実になってしまった」
「なるほど。確かにそれは一面では真理かもしれない。しかし、人間ってそういうものでしょう」
「はあ?」
「たとえば、あなたにしても、子供の頃、両親を鬱陶しいと思った経験はありませんか? あるいは、勢いで『バカヤロー、死んでしまえ』くらいの言葉を口にした事はありませんか?」
「それは…あるような気もしますが」
「そう言った後で後悔した経験は? それもあるでしょう」
「はあ」
「そういうものですよ。家族なんて、1日中、1年中一緒に暮らしているんですよ。時として相手を鬱陶しいと思ったり、消えて欲しいと思ったりしない方がおかしい。でも、それは本心じゃないんです。本心じゃない事は、自分が一番よく分かっている」
「しかし……しかし、清美さんの場合、現実に隼人君が亡くなっているんです。その事で、清美さんは自分の事を責めている。自分が普段、隼人君の事を邪魔にした気持ちが、事故を招いたという固定観念にとらわれているような気がするんです」
「それは本人の意識の問題です。時間をかけて、本人が克服していくしかない問題なんです」
「でも、僕は見ていられないんです。辛くて…このままじゃ、いずれ清美さん自身も押し潰されてしまいそうで…」
「そう思うなら、あなたのような周囲の人たちが患者さんを支えてあげるべきです。一日でも早く、患者さんが日常生活に戻れるように」
「清美さんにわかってもらいたいんんです。隼人君の事故は、清美さんの責任じゃないって。自分を責める必要は無いって。――ひとつ、考えている事があるんです」
「ほう、どんな?」
 考えている事がある、そう言ったところで、紙谷は顔を上げた。
 さっきまでとは違う、なにかを思い詰めた、熱っぽい目をしていた。
 おそらく、その考えというのは、今思いついたものではない。
 紙谷はおそらく、この部屋に入って来る前から、ずっとその「考え」を反芻していたのだろうと石崎は思った。
「隼人君の死が、他の誰かの責任だと伝えるのはどうでしょう」
「責任? どういう事です。意味がわからないな」
「もし、あの事故の日、あの現場に、誰か他の人間がいて、その人間が隼人君をあんな風にしたのだと」
「どういう意味です?」
「隼人君が、誰かに殺されたのだとしたら…」
「殺された? しかし、警察は事故と断定したんでしょう? そう聞いていますが」
「警察の判断が、いつも正しいとは限らないでしょう?」
 紙谷は、いつになく断定的な言い方をした。
 なにかしら、紙谷の内部に、動かしがたい確信のようなものが感じられた。
「あなたは隼人君が殺されたという確証をお持ちなんですか?」
「もし、隼人君の事故が殺人であり、彼女には落ち度がなかった――、そういう風に思ってくれれば、彼女の気持ちも、少しは軽くなる。そうじゃありませんか」
「それはそうかもしれませんね。しかし、もしそうなら、まず最初に警察にあなたが知っている事を言うべきだ」
「……」
 紙谷は不満そうに黙り込んだ。
 何をためらっているのだろうか、と石崎は思った。
 隼人の事故が、殺人であるなら根拠を警察に通報して犯人を逮捕する。
 当たり前のことだ。紙谷が悩むことなど、これっぽっちもない筈だ。
「ちょっと、考えさせてください」
 そう言った瞬間、錯覚かもしれないが、紙谷の唇が自嘲的な笑みを浮かべたように感じられた。
 紙谷がまた視線を膝に落とした。
 会話が途切れて、空調の音だけが妙に大きく聞こえた。
 窓から入る西日が、紙谷の相貌を赤く染めていた。
2, 1

  

9月20日  市営G公園墓地

 空は晴れていた。
 9月に入って、それまでの猛暑が嘘のように涼しくなった。
 月初めに双子のような二つの台風が日本列島を通過した。それが合図だったかのように、周囲の風景は秋色に変化した。
 石崎医師は、公園の入り口のところにある生花店で、花束と線香を買った。
 それを手に持ったまま、管理棟で目的の場所を確認し、歩いてそこへ向かった。綺麗に掃除されたアスファルトの遊歩道が、広い墓地の敷地内に続いていた。
 墓地の中には、ちらほらと人の姿があった。
 石崎は、ちょうど今が彼岸の入りの時期であったことを思い出した。
 墓参の人たちは、それぞれが自分たちの家の墓石の前に立ち、墓を掃除したり、線香を供えたりしていた。
 天気もいいし、半分ピクニックのような気持で来ている家族連れが多いのだろうと石崎は思った。
 墓の下に眠っているのが、ずっと昔に亡くなった人であれば、たとえそれが親しい親族であったとしても、すでに悲しみは癒えている。
 そういう人たちにとっての墓参りは、それほど辛い行事ではないのだ。
 そう考えると、逆に石崎の気持ちは重くなった。
 亡くなって間もない人の墓を訪ねるのは、それとは別の行為なのだと思った。
 墓地は区画整理された町のように番号が振られていた。
 石崎が、目的の地番に当たるブロックに到着すると、そこには先客があった。
 その男は、喪服の上下を着て、あまり大きくない墓石の前で跪いていた。
 石崎には、それが誰か、すぐにわかった。
「紙谷さん」
 石崎が声をかけると、紙谷は振り向いた。
 彼のフォーマルスーツは、綺麗にアイロンがかかっていたが、スリーシーズン物で、いまの時期にはちょっと暑そうに見えた。
 紙谷はスーツの上着に左だけしか袖を通していなかった。
 右腕は袖を通さずに肩から羽織っているだけだ。
 その理由は一目でわかった。
 彼の右腕は、白い繃帯で包まれており、やはり真っ白な三角形の布で、肩から吊られていた。
「先生」
 と、紙谷は意外そうな声で言った。「どうして、ここへ?」
「墓参りをする人間に向かって、どうして、はないでしょう?」
 石崎は、墓石の前の献花台に持ってきた花を差し、ライターを使って線香に火を付けた。
 煙が、秋空にまっすぐ昇っていった。
 線香の先に移った炎を、大きく手を振って消し、墓前に供えた。
 墓の前でしばらく手を合わせてから立ち上がり、石崎は紙谷の方を見た。
「いったい、何かあったんですか? あの夜」
 紙谷は、焦点の定まらないぼんやりとした目で石崎を見ていた。
「ニュース、見なかったんですか?」
「見ましたよ。しかし、あれじゃあ何が起こったんだかさっぱりわからない。やはり、当事者の口から聞かせてもらいたいと思って」
 紙谷の目が伏せられた。
「言いたくないとは思いますがうが、でも、他人に話してしまう事で楽になる事もある」
「どこから話せばいいんですか」
「あなたが、彼女のアパートを訪ねていったところから」
 しばらくの沈黙があった後、紙谷は吹っ切ったように話し始めた。

 8月末、まだ残暑は続いていた。
 その夜も、連続五日、真夏日が続いていて、蒸し暑かった。
 夜になっても、日中の熱気が空気を覆っていた。
 その熱気の中、むつみ荘の部屋で、紙谷は清美と向かい合っていた。
 窓はあいていたが、風はまったく吹いていなかった。部屋の中がサウナみたいになっていた。紙谷はびっしょりと汗をかいていたが、それは暑さのせいばかりではなかった。
 いまさっき、清美に言った一言が、頭の中を駆け巡っていた。
「隼人君を殺したのは、僕なんです」
 紙谷はじっと清美を見ていた。
 ちゃぶ台をはさんで向かい合っている清美は、座ったままうつむいて、日に焼けた畳の表面を見つめていた。
「僕は清美さんが好きでした。いや、いまだって好きなんです」
 なぜだろう、事件の前には、あれだけ言おうとしても言えなかった言葉が、いまは口から自然に流れ出す。
「だから、隼人君が邪魔だった。隼人君のせいで、清美さんが苦労しているのを知っていたから。だから、隼人君を殺そうと思った。そうすれば、清美さんが自由になれると思ったから」
「……」
「あの日、僕はちょうどこの近くを通りかかったんです。バス通りと、アパートからの狭い道が交差するあたりです。そこから、アパートの外階段のところに、隼人君がいるのが見えました。腰に浮輪を着けて、麦藁帽子をかぶっていました。一目でプールに行くんだなとわかりました。清美さんの姿は見えなかった。隼人君が部屋の中に向かってせかすのを見て、清美さんはまだ部屋の中にいるんだなと思いました。その時です、僕の頭の中に悪魔のような考えがよぎったのは」
「……」
「最初は、明確な意図があっての行動ではなかったと思います。隼人君を誘拐しようか…プールに連れて行ってあげるといえば、隼人君はそのまま僕についてくるのじゃないか、そんな漠然とした悪意だったような気がします。理由はありません、たぶん、僕は清美さんとの接点が欲しかったんだと思います。その時、僕の視界に、バス通りの向こうから走って来る、大型のトラックが飛び込んできました。僕は瞬間的に計画を立てました。そして、隼人君を呼んだんです」
「……」
「隼人君はこっちを向きました。前に会ったことのある、お母さんのアルバイト先のおじさんだと、一目でわかったようでした。僕は隼人君を手招きしました。こっちにおいで、というふうに、大きな動作で、手招きをしました」
「……」
「隼人君は階段を駆け下りてきまいた。私道を通って、バス通りとの境にいる僕のところまで、全力で駆けてきました。僕はそれを見ながら、片方の耳で、トラックが接近してくる音を聞いていました。絶好のタイミングだと思いました。ちょうど、僕のところまでたどりついて、僕に飛びつこうとする隼人君をかわし、僕は抱きとめるかわりに隼人君の背中を思い切り押しました」
「……」
「隼人君はバス通りに飛び出しました。そこにタイミングよく――本当にタイミングよく、トラックが走ってきたんです。悲鳴があがりました。僕は一目散で逃げ出しました」
「……」
「逃げて、逃げて、逃げて、逃げまくりました。――。その日いち日は、警察が僕のところに来るんじゃないかとひやひやしてました。でも来なかった。僕のことを現場で目撃した人はいなかった。清美さんにも気付かれなかった。僕は、目的を達しました。いいですか、清美さん、僕が隼人君を殺したんですよ」

「ちょっと待ってください。本当に、あなたが隼人君を殺したんですか?」
 石崎は紙谷の話をさえぎって質問した。
 すぐには信じられない話だった。
 確かに、前に紙谷は隼人の死が殺人であるかのような話をした。しかし自分がやったとは言わなかった。
 もし本当に紙谷が隼人を殺したのだとしたら、清美の事よりも、まず自分の事を心配するものではないだろうか。
 しかし紙谷は、先日から清美の話しかしていない。
 その言葉のはしばしから、人を殺したなら当然持つ筈の、良心の呵責というようなものも感じられない。
 紙谷の告白は石崎にとっては信じ難いものであった。
 線香の白い煙はまっすぐに空へ昇っている。その行く先を、ぼんやりと眺めていた紙谷は、ゆっくりと首を横に振った。
「嘘です。僕はその時、現場にもいませんでした」
「それじゃあ、どうしてそんな嘘をついたんです? あなたは、清美さんの事が好きだったんじゃないんですか」
「彼女の負担を軽くしてあげたいと思ったんです」
 紙谷は言った。「僕が殺したと言えば、自分の責任だと彼女が思う事もなくなるんじゃないかって。誰かを憎む事によって、自分に向けた許せない気持ちが、外に向くんじゃないかって、そう思ったんです」
「しかし、それであなたはよかったんですか? 清美さんと結婚したいと言っていたじゃありませんか。自分の息子を殺した人間と結婚する人はいないでしょう。それでも、よかったんですか?」
「このまま放っておいたら、清美さんは絶対に自殺するって思ったんです。それくらい、彼女は思い詰めていたと思うんです。だから、それを防ぐためには、なんでもしようと思いました」
 石崎は黙った。気持ちは分らなくもなかった。しかし、やはり間違っていたのだ。市ノ瀬清美が受けた心の傷は、やはり自分で克服するしかなかったのだ。たぶん、紙谷もそう感じているだろう。今となっては。
「先生、先生は、いつも患者さんのために墓参りをするんですか?」
 唐突に紙谷が尋ねた。石崎は首を振った。
「まさか。心療内科の患者は、めったに急死したりはしないからね」
「じゃあ、今回は、特別に?」
「まあね」
 石崎は、それ以上、自分が墓参に来た理由を話さなかった。
 話そうとしても、自分でもうまく説明できそうになかった。

「僕が隼人君を殺したんですよ」
 そうはっきり言い切った後の紙谷の記憶は、ぼやけていた。
 蒸し暑かった。脇の下を、汗が流れていく感触があった。
 ふと気が付くと、清美が立ち上がっていた。
 そのまま奥のキッチンに向かって行き、シンクの水道栓をひねった。
 水が落ちる音がした。
 洗い物だろうか? こんな時に?
 そう思っていると水道の音が止んだ。水道が止まっても、そこで清美が何かしている気配があった。
 うかつにも、紙谷は清美が何をしているのか、想像すらしていなかった。思考が麻痺していたのかもしれない。
 ふいに、大声をあげながら、清美が紙谷に向けて突進してきた。
 両手を前に突き出すようにしていて、その先端に光るものがあるのがかろうじてわかった。紙谷が何だろうと思う間もなく、目の前でそれが躍った。ステンレス製の鋭利な包丁が清美の手には握られていた。
「危ない!」
 思わず口に出し、紙谷は本能的に右腕で自分の身体をかばった。
 シュッ、と鋭く空気を切るような気配がして、右腕に痛みを感じた。
 半袖でむき出しになった手首のあたりから、赤い血が飛び散った。
 心臓の鼓動に合わせて、びっくりするほど血が噴き出した。
 またしても、言葉にならない、獣じみた叫び声が、清美の口からほとばしった。
 清美が包丁を構えて、身体ごと突進してきた。
 紙谷は考える暇もなく身体をひねってそれをかわした。体重を乗せた包丁をまともに身体で受け止めたらどうなるか、それを考えたら、避けるしかなかった。
 清美は、二人の間にあった背の低いちゃぶ台につまづいて、バランスを崩した。
 そのまま、奇妙なステップを踏むようによろけ、開いていた窓の方に突っ込んでいった。
 次の瞬間、清美の姿が紙谷の視界から消えた。
 なにが起こったのか、とっさにはわからなかった。ただ、紙谷は、自分が助かったのだという安堵感を確かに感じていた。
 大きく開かれた窓の網戸が枠ごと外れていた。その先には、低い手すりがあり、その向こうには夏の夜の熱い空気が満ちていた。
 紙谷は、おそるおそる窓に近付いた。
 外を見た。
 防犯用の街灯の光で、外の様子がわかった。
 アパートの2階だから、窓から地上まではおよそ3メートルほどの高さがあった。
 砂利を敷き詰めた地面の上に、うつぶせになった清美の全身が見えた。
 夏物の、薄手のワンピース姿で、足は裸足のままだった。
 手足が変な感じに折れ曲がり、右手にはしっかりと包丁を握りしめていた。
 紙谷が見ている間、清美の身体はぴくりとも動かなかった。

「即死だったんです」
 紙谷は言った。「首の骨を折ったらしいって、後で警察の人から聞きました」
 石崎は、紙谷の話に耳を傾けながら、『市ノ瀬家累代ノ墓』と彫り込まれた墓石を眺めていた。
 この墓は、清美の実家の墓だと聞いていた。建ててからすでに何年もたっているらしく、御影石の墓石はところどころ苔が生えている。
 その脇に、ひときわ目立つ、新しい白木の卒塔婆が2本、立っていた。
 そのうち1本には『俗名・市ノ瀬隼人』、もう1本には『俗名・市ノ瀬清美』――2人の名前が並んでいる。
「警察のほうは?」
「相手が先に刃物を持ち出したという事で、正当防衛だと…」
「傷は、もういいんですか?」
「ええ、5針ほど、縫いましたが」
 紙谷は右腕の白い繃帯を見て答えた。それから何か言おうとして口を開きかけたが、結局何も言わずに黙りこんだ。
 石崎も、何か言おうと思った。が、やはりすぐには言葉が見つからなかった。
 事件について、あまり突っ込んだ話はしたくない気分だった。
 したところで、起こってしまった事は変わらない。亡くなった者が生き返るわけでもない。
 石崎はふと、古い詩の一節を思い出した。
『……しばしば私は考える。子供たちは、ただ散歩に出かけただけなのだと!
 もうすぐ家に帰って来るだろう。
 おお、何も心配することはないのだ!
 そう、子供らは散歩に出かけたにすぎないのだ……』
 詩の題名は、確か、『亡き子を偲ぶ歌』といった。
「結局、自分の中にある心の闇は、自分で振り払うしかないんですよ」
 しばらく沈黙した後で、石崎は言った。「誰かが外から引っ張り上げてくれる――そういうものじゃないんです。たとえ精神科医だって、そんな事はできない。できるのは、せいぜい環境を整えてやる事ぐらいです。結局は、自分で闇を抜けるしかないんですよ」
 紙谷は固まったように動かなかった。
 石崎の言葉は、亡くなった市ノ瀬清美ではなく、紙谷自身の事を言ったつもりだった。
 けれど、それが紙谷に通じたかどうかはわからなかった。(了)
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