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嵐の声

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かつて家族の団欒の場だったリビングは、
テーブルとソファ以外のすべてが運びだされて
すっかり、住み始めた時と同じになっていた。
ただ壁紙は15年住んだ家主が喫煙者だったせいで
ヤニで黄ばんでいたし、床のフローリングも家具を
引きずった痕がへこんで残っていた。
しかし何より時の隔たりを教えてくれるのは、
ソファに座って向かい合う二人だった。
一人は40を少し過ぎたくらいの女で、長い黒髪をカールさせて、
レースのネグリジェを着ていた。両足のスリッパの先をつつき合わせながら、
深い青色の毛糸でなにやら編んでいる。
膝の上には30年も前の古い編み物雑誌が広げられていた。

__気どり屋な旦那様に、フィッシャーマンセーターはいかがですか?
  暖かなニットは、1960年の流行です。

もう一人は、彼女の前で両の拳を膝の上に乗せて、じっと床を見つめていた。
時折__闇の中から猫がぎょろっと瞳を覗かせるように、前で編み物をする
女を見つめては、また視線をそらしてしまう。それに気づいた女は、
編み物の手を止めると薄い笑みを浮かべて言った。
「……あなた、いい加減に顔を上げたらどうなの。
 それともいまさら、合わせる顔がないとか言うつもり?」
 いいじゃない。最後にお話したって。
 だって今日からわたしたち、ただの他人になるんだもの」
冷たい言葉に、弾かれたように顔を上げる。
その顔を見て、女は嘲るように鼻を鳴らした。

ごつごつした男の輪郭に、べっとりと塗られたファンデーションが
すっかり毛穴をふさいでしまっている。
こういった趣味を持つ男にありがちなことだが、
彼らは自分の男性性をすっかり捨て切ってしまおうとする。
覆い隠してしまいたいと思う。
その心理が、何層ものファンデーションを重ねて
肌をいじめるのだという。
鮮やかな原色のアイシャドウも、てかてか光る真っ赤な唇も、
水商売の女がよく着るような体にフィットしたラメのドレスも
(胸にはこれまた丁寧に詰め物がしてあった!)
すべてが下品で、またすべてが奇怪だった。

「……君は……君は、許してくれると思った。進歩的な女だから」
女は編み物の手を休めると、針と糸をサイドテーブルに置いてため息をついた。
「女、ね!何回も言ったと思うけど、わたしは
 まるで調理道具か何かみたいに女、って表現されるのが大嫌いなの。
 ちゃんと女性、って言ってちょうだい」
「分かった、訂正するよ。君は進歩的で新しい考えを持つ女性だから、
 僕の“こんな側面”も許してくれると思ったんだ」
それを聞くと、女はほほほ、と鳥のように甲高い笑い声をあげた。
これは彼女がどうしようもなく腹がたった時の癖だったが、
男は長年連れ添った間柄でありながらそれを知らなかった。
「公彦さん。あなた、進歩的という言葉を勘違いなさってるんでなくて?
 この社会で生きる以上、“絶対に許されないわがまま”も
 たくさんあるってこと、ご存じないのね」
「悠子」
すがるように名前を呼ぶ。
悠子は立ち上がり、ほとんど空っぽになった冷蔵庫から
ミネラルウォーターを取り出すと、豪快にらっぱ飲みした。
ぷはっ、とかすかに息を漏らしてキャップを閉めると、
また夫に向き直る。
「……ふふっ、今となってはお父様に感謝だわ。
 イギリス仕込みのリベラルな子育てをしてもらったおかげで、
 嫁のつとめだのなんだの、古い考えに縛られずに
 あなたをすっぱり捨てられるもの」
「……すまない」
「あら、謝らなくていいのよ。だってわたし、あなたのこと
 そんなに好きでもなかったから」
驚いたように瞠目した公彦に、またほほほ、と今度は心底面白そうな笑いを見せる。
サイドテーブルから途中の編み物をとって、また編み始めた。
「あら、結婚ってそんなものじゃない。
 お互い燃え上がるような恋をして一緒になった人ほど、
 ほんのすこしの失敗で崩れ去るんだわ。
 わたしはあなたに恋をするんじゃなくて、責任持って愛していこうと思ったの。
 それができる人だと思ったから結婚した……だけど」
悠子はミネラルウォーターをテーブルに置いて、キッチンを歩きまわりながら
編み物を続けた。
ペットボトルの揺れる水中に、まるで宴会の余興のような厚化粧が映るのを、
公彦はぼんやり見つめる。
「あなたはただの男であって、夫じゃなかったのね。
 わたしがこの20年間、ひとりできりきりまいしてたのを
 あなたは腹の中で笑ってたんだわ。なんて残酷な人かしら。
 ねえ、わたしがもう似合わなくなったラメのドレスを着るのは
 楽しい?だから、男のじょうぶな体で、女のいいとこどりだけして、
 女が腹を痛めて産んだ子供も捨てることができるのね」
機関銃のように放たれる罵詈雑言に、
公彦は、何一つ答えることができず下を向いた。
そこでカタ、とかすかな音が玄関から聞こえる。
「詩織だわ。わたしがあんまり遅いから焦れてこっちに来たのね」
悠子は鋭い視線を公彦に向けて、積み上がったダンボールの陰を指さした。
「そこに隠れて」
有無を言わさぬ口調に押され、急いで隠れる。
同時に、玄関の鍵が開いて誰かが入ってきた。
ぱたぱたと軽い足音が近づいて、リビングのドアが放たれる。
ちらっと、赤いランドセルが見えた。

「ママ、まだこんなとこいたの?早くおじいちゃん家に行こうよ」
「え、ええ……そうね」
悠子は、娘の顔を見た途端さっきまでの厳しさが消えて、
しどろもどろになった。
「おじいちゃん待ってるよ。今日はすき焼きだって」
「いいから、先に行って待ってなさい。
 ママはこれが編み上がったら行くから」
詩織ははーい、と素直な返事をして出て行った。

玄関が閉まるのを確認して、悠子が合図する。
さっきと同じように、二人は向かい合った。
またしばらく、居心地の悪い沈黙が流れる。
「……あなた、男が好きなの」
「まあ、どちらかというと」
「数字で言ったら?」
「7:3くらいで男が好きだ」
「じゃあわたしは残り3に入ってた女だったの?」
「そういうことになるな」
悠子の膝の上で、どんどん形を成していく毛糸。
やはり、それは長袖のセーターだった。
彼女の得意な模様編みが施された編み地を、
何度も針が通っては抜ける。機械のように正確な編み目は、
悠子の性格もあらわしているようだった。
「最後に、ひとつだけお願いしていい?」
「……君が望むことなら、なんでも」
「殴らせて。思い切り」
言うなり悠子は立ち上がり、公彦の胸ぐらを掴んで立たせると、
ぶんと腕をしならせてその頬に拳を叩き込んだ。
よろめいたところですかさずもう一発、殴る。
詰めていた偽の乳房が零れ落ちると、忌々しそうに蹴飛ばした。
悠子の力は思っていたより弱かった。
これが全力と言われると、あまりにも悲しいほどに。
殴っている間、悠子の口からは嗚咽と言葉にならない怒声が
ほとばしった。馬乗りになって、両手のひらでばしん、ばしんと公彦の胸を叩く。
彼女はしばらくそのままで、罵るでもなく泣いていた。
「……許してくれると思った、って言ったわね」
公彦の上からどいて、額に手を当てソファに沈み込む。
「……怒ってないわ。はじめから……でも、ひとつだけ言わせて」
悠子は両手で顔を覆って、公彦から目を背けた。
「嘘つき」
公彦は立ち尽くしたまま、初めて見る妻の弱り切った姿から目をそらせずにいた。
遠くで鳴る柱時計が、低く、19時を知らせた。

「いいセーターですね、それ」
バーで隣りに座った男が、公彦の着ているセーターを見て言った。
一瞬、これを着ているのを忘れていた公彦は「そうですか?」と編み地を引っぱってみたり
しながら笑って会釈する。男は既製のスーツだったので、
手作りのあたたかみがある公彦のセーターを羨ましそうに見ていた。
「ええ、それ手作りのフィッシャーマンセーターでしょう。
 結構編むの難しいらしいですよ」
「へえ、私はとんと編み物にうといもので」
隣の男はグラスを空にすると、何気ない調子で言った。
「じゃあ、こんなのご存じですか。
 その色ね、“嵐の海色”って言うんですよ」
「嵐の……海色?」
「ええ、漁師の妻が、危険な海に出る夫に着せたのが始まりなんですがね。
 その色はあらかじめ着せとく喪服の色でもあったとか。
 夫の無事を願ったおまじないですかね」
公彦はそれを聞くと、お代をカウンターに置いて静かに立ち上がった。
「奥さんですか」
「……はい」
「大事にしてくださいね、それ」
それ、が指すのはセーターだろうが、公彦にはどうしても悠子のことを
言われているようで、恥ずかしくなった。そそくさとバーの扉を押して外へ出る。
色とりどりのネオン看板が立ち並ぶ飲み屋街を、コートの襟を立てて歩く。
「……悠子」
セーターの下に隠れたブラジャーのレースが、ちりっと肌に刺さった。
公彦の耳に、どこか遠くから荒れ狂う海の音が届いた。
岩に当たって砕ける波、白いしぶきのすきまから、悠子の甲高い笑い声が
聞こえてくるような気がした。
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