Cry for Smile
「あなたがそんなだから!」
今日は母の平手打ちからだった。
あぁ、またか……
「何をするんだ!」
「何をじゃないわよ! 毎日毎日お酒ばっか!」
「うるさいな、俺は疲れてるんだ!」
騒音から逃れるために部屋にこもりCDを流す。
ヘッドフォンから流れ出した音の塊は雑音全てをかき消した。
どこのページだったか……。
僕は再び幻想の世界へ閉じこもる。
いつからだろう、こうなったのは。
昔はこうではなかったはずだ。
いつからこんな風に…
~Cry for Smile~
「こうちゃん起きて」
「ん、んー……」
「ほら、早く起きなさい」
母が開けはなったカーテンから日の光が差し込む。
あまりに眩しくて僕は布団に潜り込む。
「んもう、さっさと降りてきなさいよ」
「ふあーあ。っんー!」
伸びをして体に生気を満たす。
まだ完全に起きていない体を、
どうにか引きずって階段を下りていく。
キッチンにはいい匂いが立ち込めていた。
やはり今日も和食である。
一日の始まりには味噌汁と白米。
そうでないと父の機嫌が悪くなるのだ。
起き抜けにはきつい量を無理やり詰め込み、急いで家を出る。
「気をつけていってらっしゃいねー」
歩道を軽やかに、とは言いがたい。
食べ過ぎたのを後悔しながら駆ける。
通りの生垣にはまだ朝露の残る野菊が咲いていた。
あの公園でも今は綺麗な紅葉が見れるかもしれない。
寄るとしたら帰りだな。
そんなことを考えながら学校へ向かった。
チクタクと時計の音だけが部屋に響く。
……。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
無理な体勢で寝ていたせいか首に違和感がある。
ずれ落ちたヘッドフォンを外し時計を確認する。
見ると落ちてから10分と経っていないらしかった。
静かだな……。
いつもは始まったら1時間は終わらない喧騒が聞こえない。
不審に思い、部屋を出てリビングへ向かう。
そこには机を挟んで向かい合っている両親がいた。
一点を見つめていて、こちらに気付かない。
ゴクリと息を飲む。
嫌な予感がした。
「あっ、こうちゃん…」
こちらに気付いた二人と視線がかち合った。
と、同時に目を逸らす。
すると、はっとした様子で机の上にある紙を隠そうと……。
僕の周りの空気が止まった。
「こうちゃん!」
「こうじ!」
次の瞬間、僕は家を飛び出していた。
暗い路地をわき目も振らず走る。
家を出る時、誰か叫んでいたが止まらない。
耳には入っていたが頭に入ってこない。
さっきの紙。
僕は二人が咄嗟に隠そうとした紙の、ある文字を捉えていた。
離婚届。
嫌だ。
何も考えたくない。
僕は走った。
夜の通りを。
ただひたすらに走り抜けた。
何かを吹っ切るように。
走る以外の事を頭から断ち切った。
このままどこまでも走って行けたら。
しかし、運動不足の僕の体はすぐに根を上げた。
「はぁはぁ…はぁ。」
わき腹がちぎれるように痛い。
肺が、心臓が悲鳴を上げている。
頭がガンガンして、自分の動悸が大きく聞こえる。
どこかで……水を……。
ふらつく足を手で押さえながら辺りを見回す。
ここは……。
そこは近所の公園だった。
かなり走ったつもりだったが、家から1キロと離れていない。
取り合えず水が欲しかった。
汗で濡れたシャツが気持ち悪い。
もう日も回ろうかというのに外は熱気に満ちている。
季節が夏に移り変わっていたことに僕は初めて気付いた。
水道へ着くやいなや頭から水を浴びる。
火照った顔が冷えて気持ちいい。
瞬間、頭の中に映像が流れる。
あれは……?
頭から水を浴び顔を洗う。
不意に肩に手が置かれた。
「頑張ったじゃないか」
振り返ると父が立っていた。
「こうすけがあんなに走るの早かったなんてなぁ」
「父さん知らなかったぞ」
そう言うと、
父は満面の笑みをこぼして僕の背中をドンドンと叩いた。
「今夜は腕によりをかけてご飯作らなくっちゃね」
母が嬉しそうに笑っている。
小学生の時、初めて父が運動会に来てくれた時だ。
あの日は父と母の間で、手を繋いで帰ったっけ。
蛇口を締め乱暴にシャツで顔を拭うと、
ようやく息が整ってきた。
そう言えば、
ここに来るのも久しぶりな気がする。
昔は学校の帰りに友達とよく寄っていた公園だった。
大きなものではない。
ベンチに水道、花壇そしてブランコ。
公園としての最低限の機能を備えているだけ。
所々ペンキの剥げた薄汚い小さなベンチが目に留まる。
まだあった。
小さい頃はヒーローごっこなんてのが流行っていて…
友達がテレビの真似をして、
あのベンチに立って飛び降り必殺技の名前を叫ぶ。
すると敵役の僕は、当たっても無いのに倒れるのだ。
ヒーローはいつも友達。
僕は決まって敵役。
そしてその度に僕は泣いていた。
そんなことをしていると、夕方になって母が迎えに来る。
すると泣いていた僕は、現金にも途端に笑顔になるのだ。
懐かしい夕暮れの風景。
ふと気がつくと周りの景色がぼやけていた。
どこからか泣き声が聞こえる。
いや、違う。
僕はそれが自分の泣き声であるのに気付くため数秒を要した。
髪から滴り落ちる水が涙と混ざり頬を伝って落ちる。
泣いていることを認識した僕は、
それでも泣き止むことが出来なかった。
泣いているのに頭の中は妙に冷静なのが分かる。
泣いたのなんて何年ぶりだろう。
いつから自分は泣かなくなった?
いつの間に、僕は忘れてしまっていたんだろう。
僕は泣いた。
今まで泣かなかった分を取り戻すように。
泣いて、泣いて泣いて、泣き明かした。
その間ずっと考えていた。
父と母と、自分のことを。
そして…夜が明けた。
公園の木々を日の光が青々と照らし出す。
それは公園中に広がり、やがて街全体を包み込む。
泣きはらした僕の目にも光が飛び込んでくる。
その時なぜだか、僕は分かってしまった。
あぁ、そっか。
簡単なことだった。
泣きつくしてしまったら、もう後は笑うしかない。
父は、母は、いつの間にか忘れてしまっていたんだろう。
こんな単純なことなのに。
家に帰ろう。
帰って、三人で話をしよう。
これまでずっと忘れてきてしまっていたことを。
二人は覚えているだろうか?
いいや、忘れていたって思い出させてやる。
泣き方を。
そして笑い方を!