私はその日も眠れずに、電気も付いていない暗い部屋の中でぼーっと亡くなった母のことを考えていた。
母は丁度半年前、通り魔に刺されなくなった。
その頃の母は不眠症を患っており、なかなか寝付けない夜は散歩に出ていたのだが、そこを通り魔に狙われてしまったのだ。
(もし、私がなんらかの理由で引き止めていたなら…)
未来を知ることはできないのだから、仕方の無いことだ。しかし私は自分を責めずには居られなかった。
(もし、今私が過去に戻れたなら…)
『たら』『れば』を考えるときりが無い。そんなことはわかりきっているのだが、どうしても考えずにはいられない。
今日はまだまだ眠れそうに無いな。そう考えていたその時
「おい」
不意に後ろから声が聞こえた。私はびくっとした。
きっと今のは空耳だろう。父は今日は出張で家にはいないし、戸締りも完璧だ。外部の人間も入ることはできない。
やはり空耳しかないじゃないか…。
お化けや妖怪の類だとは考えなかった、というか考えないようにしていた。
後ろを振り向けば空耳かどうかはっきりするのだが、できなかった。
振り向いて、お化けがいたらどうしようという思いから振り向けないでいたのだが、その考えはお化けを肯定することに繋がってしまうので(空耳なのに振り向くなんて労力の無駄だから)と自分に言い聞かせた。
結局私はそのまま5分ほど固まっていた。その間ずっと聴覚を研ぎ澄ませていたが、もう呼びかける声は聞こえなかったし、後ろに誰かの気配を感じることも無かった。
そらみろ、やっぱり空耳じゃないかと安心して振り返った瞬間、私はもう一度固まるはめになった。
そこには悪魔がいた。悪魔は一目でこいつは悪魔だ、と分かるようなとても分かりやすい風貌をしていた。
いや、悪魔というよりは『小悪魔』『悪魔君』『悪魔ちゃん』といった風貌。全身は黒光りするほど純粋な黒で包まれており、頭から可愛らしい小さな耳がぴょこっと生えている。
目は当然釣り目なのだが、眼球はくりくりしていて可愛い。口はいたずらっ子がするようなにやーっとした形。手足は驚くほど短く、丁度漫画のドラえもんのような感じだ。
それに尻尾が付いている。細長くひょろひょろしているが、先は矢印の頭のように尖っている。体全体としては小さい。せいぜい50センチといった程度のなんとも愛くるしい悪魔なのだ。
「おっ、やっと振り向いたな」
声も少し高めで、風貌に合った可愛らしさだ。いつの間にか私の感情からは恐怖が消え去り、変わりに生まれたばかりの赤ん坊を愛でるような、小さな子犬を可愛がるような奇妙な気持ちが生まれてきたことに気づいた。
「はっ、怖くて声も出せないか。聞いて驚け、オレは悪魔だ」
私があまりの可愛らしさに見とれて動けないでいるのを『恐怖』のせいだと思い込んだり、悪魔だと分かりきった姿をしているのに改めて自己紹介をしたりと、なんと可愛い奴だろうか。
しかし真面目な話、こいつは何なのだろうか。どう見ても悪魔だし、自分でも悪魔だと言っているのだが、そもそも悪魔なんてものが存在するのだろうか。
「悪魔?」
私は聞き返した。
「そうだ、あんたも良く知っているだろう。地獄の使者、魔王の使いのあの悪魔だ」
地獄や魔王といった言葉も、この可愛らしい風貌の前では恐ろしさも半減する。
「その悪魔がどうしてここに?」
「お前から出る負の感情に寄せられたのさ。悪魔は負の勘定こそがエネルギーになる。人間で言うところの食べ物…いや、酸素みたいなものだな」
「何か悪さをしにきたの?」
「何もしないさ。案外悪魔って言っても大人しい奴が殆どなんだぜ。悪さして負の感情を食べる奴なんて全体の5%にも満たないんじゃないかな。オレはあんたから出てる負の感情を堪能したらさっさと帰るよ」
「負の感情を食べられたらどうなるの?」
「安心しろ、どうにもならんさ」
「悪魔って、案外人畜無害なのね」
「その通り。ところであんた、今でこそ収まっちゃいるが、さっきは凄い勢いで負の感情が出ていたぞ。何かあったのか?」
私は少しためらったが、どうせ寝付けなくて暇であるし、この悪魔はいい悪魔のようだし、話せば少しは楽になるかもしれないと思い母のことを話した。
悪魔は始終私の話を黙って聞いていた。そして全てを話し終えると、ようやく口を開いた。
「死んだ母親を生き返らせたり、あんたを過去の世界に飛ばしたり、声を送ることは不可能だが…そうだな、『メール』ぐらいなら過去の世界に送ることができるな」
「え?」
「お前のお袋さんが亡くなったのは、丁度半年前の今頃なんだろ。半年前のあんたにメールを送らせてやるよ。上手くいけばお袋さんは死ななくて済むかもしれないぞ」
「そんなことできるの?」
悪魔はニヤリと笑った。
「できるさ」
私は反射的に時計を見た。もうそろそろ一時になる。母が亡くなった二時まであと一時間だ。
「今から半年前の私にメールしたとして、母を助けるのは間に合わないかもしれない。どうせなら、半年と一日前に送ってくれない?」
「駄目、というよりできないね。あんたは知らないだろうが時間の渦ってのは非常に複雑なんだ。『半年』という区切りの良い時だからこそ、送ることができるのさ」
「だったら、一年前の私に送らせてよ。そっちのほうが区切りがいいんじゃない?」
「あー、無理無理。過去に遡るほど難しくなるのさ。もっと上の階級の悪魔ならできるだろうが、オレの力じゃ半年が精一杯さ。時間が無いんだろ?つべこべ言ってると間に合うものも間に合わなくなるぜ」
そう言うと悪魔は何処からとも無く携帯電話を取り出した。悪魔の体と同じ純粋な黒色だった。悪魔はそれを私に投げてよこした。画面にはメール作成画面が表示されていた。
私は悪魔に急かされメールを打った。題名を何にしようかと少し考えたがあえて『無題』にした。私は面倒くさがりなので普段から全てのメールは『無題』なのだ。下手に題名を入れると過去の私が不信感を持つかも知れないと考えたからだ。
メールの内容はというと、私としては過去の私にメールが送れるようになった背景から全てを伝えたかったのだが、私は非常にメールを打つのが遅く、残念ながら時間も無いのだ。最優先すべきは母の命。
おそらく私はまだ寝ているだろうから、まずは起こさなければならない。私の送ったメールはこうだ。
『TIME:2007/ 05/13 01:05
TO :高橋 真由美
SUBJECT : 無題
起きています?もし起きていたら返信ください。』
「何で自分に敬語なんだよ」
悪魔が突っ込んでくる。
「いいじゃない、自分と話するのは初めてなんだし…」
しばらく待ってみたが、返信は来ない。
「起きなかったのかな」
私は再びメールを送った。
『TIME:2007/ 05/13 01:10
TO :高橋 真由美
SUBJECT : 無題
起きています?もし起きていたら返信ください。
このメールは悪戯などではありません。至急メ
ールください。 』
少し待ったがやはり返信は来ない。
「ちゃんと届いてるの?」
私は悪魔に尋ねた。
「当たり前だろ。オレを信用しろよ。過去のあんたが、悪戯メールか何かだと思って無視してるんだろ」
「時間が無い…。お願い返信して」
私は三度メールを送る。
『TIME:2007/ 05/13 01:15
TO :高橋 真由美
SUBJECT : 無題
起きていたら返信をください。あなたのお母さん
が危ない。私は未来のあなたです。ある事情から
少しの間だけ、過去の自分にメールを送ることが
できます。起きていたら返信をください。過去の
あなたならお母さんを救うことができます。 』
やはり返信は来ない。
「やっぱ悪戯メールかと思ってるんじゃないか?もし電源を切られていたら、アウトだな」
私は神に祈った。悪魔の力を借りているので、神に祈っても意味は無いのかもしれないがそれでも祈らずには居られなかった。
祈りが通じたのかどうかは知らないが、突然手にした携帯電話から電子音が鳴り響く。
ピピピピピ
「来た…」
『TIME:2007/ 05/13 01:27
FROM:高橋 真由美
SUBJECT : 無題
メール拝見しました。正直、あなたが未来の私だ
といまいち信じることができません。本当に未来
の私だというなら、証拠というか、納得させるな
にか、ありませんか? 』
私は胸が躍った。本当にこのメールは過去の自分へと繋がっている。上手くすれば母を救うことができるのかもしれないのだ。
「どうするんだよ、どうやって信用させるんだ?」
「この質問は来るのが分かってた。私にもし未来からメールが来たらこれと同じ文章で返すと思う―――これ、送れる?」
私は自分の携帯電話を取り出し、そこに記録されている母の画像を見せた。この画像は母の葬式の時に特別に撮らせて貰ったものだ。二度と会えなくなる前に、どうしても母を撮っておきたかったのだ。
「うぇぇ、死んだお袋さんの写真を撮るなんて、あんた悪趣味だな」
「いいから早く送ってよ。できるの?」
「うーん、画像か、やってみるけど、失敗しても責めるなよ」
悪魔は左手に黒色の携帯電話、右手に私の携帯電話を持ち、なにやら念じ始めた。
「何とか送れたぜ。感謝しなよ」
そう言って黒の携帯電話を投げてよこした。と同時に、携帯電話から着信音が鳴り響く。
ピピピピピ
『TIME:2007/ 05/13 01:32
FROM:高橋 真由美
SUBJECT : 無題
あなたの言うことを信じます。母が危ないと書か
れていましたが、どういうことですか? 』
私はすぐに返信する。
『TIME:2007/ 05/13 01:37
TO :高橋 真由美
SUBJECT : 無題
母は、02:00頃、西の公園で通り魔に刺され亡く
なります。急いで。母を助けて。 』
「後は祈るだけ…」
一分、一秒が長く感じた。過去の自分は、今、何をしているのだろうか。私はただ待つだけの時間に押し潰されそうになり、口を開いた。
「あなたは、何故ここまでしてくれるの?」
「…オレにも、親父とお袋がいてさ」
悪魔の目は、私ではなく何処か遠い場所を見つめているようだった。
「オレのお袋も早くに亡くなったんだ。親父の暴力が原因でさ。親父は大嫌いだったけど、お袋は大好きだったんだ。まぁ、あんたを見てるとなんだか自分と重なって、放っておけなかったのさ」
私は何も言えなかった。不器用な性格なので、こんな時なんて言えばいいのか分からなかった。気の利いた言葉一つ言えない自分が恥ずかしかった。
「2時だ」
悪魔の声に、反射的に時計を見る。確かに時刻は2時を示している。どうなったのだろう。私は。そして母は。
「教えてやるよ。お袋さんがどうなったか。気になるだろ」
「え?」
「安心しな。お袋さんは助かったぜ。更に朗報がある。あんたの親父が死んだ。社会的には、丁度半年前に強盗に刺殺されたことになってるよ」
「どういう…こと?」
「お袋さんを狙った通り魔は追っ払ったけど、その通り魔がそのままあんたの家に侵入して親父を殺してしまったのさ。偶然って怖いなぁ…」
悪魔は地の底から響くような恐ろしい声でそう言うと、ニターっと笑った。