「ハロー、麗しきレディ。突然ですが愛してもいいですか?」
そう言って真木乃伊月がもらったビンタの数は、本日二〇回目を数える。
空は青ざめる。死の淵に立っていても目に映る光景に変わりはないようで、高そうな洋服店のショーウィンドウに投影されている顔は、赤く赤く腫れている。
「愛への道はなかなかに厳しい」
しかし痛みはない頬をさすりながら、伊月は首を傾げる。
「赤くなるっていうことは、血が流れているってこと?」
「そうね。怪我すれば出血もするわ」
飾られている服を眺めながら、結良。
「でもどれだけ失血しても死ぬことはないし、腕を切り落とされても問題ない」
「再生するとか?」
「そのうち生えてくるわ」
「もしかしたらプラナリア的発想で僕が二人に増えたりはしない?」
「しない。落ちた腕は猫の餌になる」
「食わすな食わすな」
自分の体の一部だったものが小動物に食べられるなんて想像もできない。なるべく危険なことをしないようにと心に決め、伊月は人目を気にせず歩き出す。
百万都市にぎりぎり届かない湯佐市は、平日の昼間でも雑踏で溢れることが多い。あらゆる企業の本社が集中しているからの人混みで、夜になるとその勢いは一気に落ちる。要するにドーナツ化現象のぽっかり穴が空いた部分に該当するわけで、背広姿の多い街並みが伊月は嫌いだった。ネクタイを締めた蟻なんてものは勘弁願いたかった。
「確認しておくわね」
人の群れを避け、裏路地に差し掛かったところで結良が言う。
「狭間の住人であることを話していいのは、基本的には幽霊相手だけ。普通に生きている人間に対して決して明かしてはいけない」
「もしもそうなることがあったら?」
「冥界行きの宅急便に詰め込むしかないわね」
「せめて人間扱いを」
「そして、君は願いを叶える幽霊の正体を知ってはいけない」
「してく……ふむ」
かねてより気になっていた事柄に、伊月は抗議の声を止める。
「それは、無条件で幽霊諸兄らの望みを叶える必要がある、と?」
「もちろん強制ではないわ。誰なのかを知ってはいけないけど、相手を選ぶ権利はある。だから、なるべくまともそうな幽霊を選べばいいのよ」
「未練がましく現世にいる連中に」
「ロクな人はいないでしょうね。でもやるしかないの」
オーケー分かった、と伊月は頬を掻く。
「たとえば彼の人が戦争を望んでいたとしても、僕は死なないから、いいか」
「その場合、愛する人の選別が困難になることを忘れないようにね」
「善処しよう」
雲に隠れる太陽が、魔物のように笑う。
○
苔むした匂いは、人が死ぬ時の香りに似ている。
幽霊が集まりそうな場所。現実的かつ常識的に考えれば廃墟になった病院とか人気霊能者の周辺なのだろうが、残念ながら伊月が思い浮かべたのは墓地だった。
「墓地は供養されているから、幽霊はいない」
「それ早く言ってよ」
ぶぇーと不満そうに口を尖らせる伊月。幼児退行した行為に結良は目配せしようともせず、手入れの行き届いていない墓石に目を走らせる。
「ぞんざいな扱いね。死者をなんだと思っているのかしら」
「死人に口なしって言うから、どう扱ってもいいと思ってるんじゃない?」
「不躾ね。今生きている人間と今までに死んだ人間、どちらが多いかなんて考えなくても分かるでしょうに」
「どちらが多いの?」
「簡単な命題だから、自分で調べなさい」
ぶぇーと汚い息の音。
「それに君は運がいいから、そんなことを話している暇はなさそうよ?」
結良はゆらゆらと、名を体現するように笑う。
伊月は目を凝らした。草で荒れ放題の墓地の奥には、他の墓標より明らかに小さな、丸くていびつな墓石が置かれていた。置かれているというより、放られているというべきか。
それに覆い被さるようにして、
透き通った身体の男が、
両手足をついて蹲っていた。
「……ハロー、そこの素敵なジェントルマン」
伊月の声に、男が顔を上げる。
透けていても判る傷だらけの顔は、眼球が欠落していた。
数瞬の躊躇いの後、伊月は唇をひと舐めして。
「“僕は死人、君は幽霊。あなたの願望をひとつだけ”」