■1『俺から私へ』
朝起きたら、チンコが無かった。
目覚ましに叩き起こされ、気だるかった俺は、寝起きに用を足すべくトイレへ向かった。
ズボンを下ろし、ブツを握ろうとしたら、手応えが無く、股間を見ようとしたら、胸が邪魔で見れなかった。
だから、股間を撫でる様に触ってみたら、何にもなかった。
俺は血の気が引いたのがわかった。ついでに尿意も。
ふらふらとトイレを出て、自室に戻り、姿見で自らの姿を見たら、なんとまあ。
あっちこっちに好き勝手跳ねるくせっ毛な髪質は変わってないが、長さが腰まで届くレベルになっていた。胸も、グラビアアイドルを思わせる大きさまで膨らんでいて、腰も砂時計みたいにくびれていた。
ケツは逆に大きくなった気がするが、いったい俺の体どうなってんだ?
……女になった、のか?
まさか、ありえないだろ。
そう思って、スウェットとトレーナーを脱いで、裸を確認してみた。
どっからどう見ても、完璧に女である。男だったら一部分が硬く隆起するところなんのだが、その部分をどっかに落っことしてきたのだ。
「ど、どうすっかな……」
突然女になっちゃう病気とか、あんのかな……。
いや、でも実際になっちまってるわけだし。あるんだろう。俺は病院に電話しようとして、スマホを取るが、そもそもどこの科に見てもらえばいいのか、わからない。
泌尿器科かな?
いやでも、胸があるし……。
さて、どうすっかな。
意外とこういう事態になると、慌てないもんだ。理解がついていってないので、解決策が見つかるとも思えないし。
けどまずは、服を着よう。
ベットに放り出していたスウェットとタンクトップに手を伸ばすと、部屋のドアがいきなり開いて、俺は飛び上がった。
「お兄ちゃーん。いつまで寝てんのさ。昨日帰ってくるの遅かったみたいだけど、だからって学校あるんだか、ら……」
そして、入ってきた妹と、目が合った。
やつは、顔を赤くし、一歩勢いよく退いて、後ろの壁に後頭部をぶつけて、その部分を押さえて痛がったあと、俺を勢いよく指差して、叫んだ。
「へっ、変態!!」
「誰が変態だ!! 勝手に部屋入ってくるお前が悪いんだろうが!」
「おっ、お兄ちゃんの部屋勝手に入ってるのはそっちでしょ!?」
――あ、そうか。
こいつから見れば、俺は今、兄の部屋に無断で入り込んでる全裸の女なのか。
マズイな。弁解しないと、警察呼ばれて、身元不明の女のまま刑務所入るまであり得る。
「ちょ、待って待って! 俺だよ、お前の兄貴の|遊馬有希《あそまゆき》だ! んでもって、お前は妹の|遊馬夜璃子《あそまよりこ》だろ!」
「……」夜璃子は、俺の胸と股間を凝視してから、思いっきり大股で踏み込んできて、俺の胸を鷲掴みにした。
「いたたたたッ! 何!? なにしてんのお前!?」
「これが男の胸なわけないでしょーが!! バカにしてんの!?」
俺はなんとか夜璃子の手を払い除け、胸を押さえた。
超痛え。潰れるかと思った。
そんな恨めしい気持ちで夜璃子を睨んだのだが、やつは何を勘違いしたのか、「何よ。あたしの胸が小さいって言いたいの?」と睨み返してきた。
――ああ、気にしてたんだ。
確かにぺったんこだと思ったことはあるが、妹の胸について本人に言及なんてしたことねえもん。初めて知ったよ。
しかし、気にすることはないぞ、妹よ。
お前は普通に可愛いと思うぞ。
猫目と茶髪のショートカットが、活発で人懐っこい印象を抱かせるからか、すげえ友達が多い。胸は確かにないが、スレンダーで足も長いし、結構モテそうだと思う。
まあ、聞いたこと無いからわかんないけどね。
現在は、学校に行く前だからか、制服である灰色のブレザーを着ていた。胸元の赤いリボンが唯一の色味という、地味めな制服。
「そんな気にする事じゃねえよ。お前の好いた男がお前の胸を好いてくれたらそれでいいじゃないか」
「その哀れんだような言い方がすっげえムカつくんですけど!?」
素早く突き出され、また俺のおっぱいを掴もうとしてきた右手を、俺は素早いスウェーで躱し、間合いを取った。
「悪かった、悪かったよ」
「――って、そんなことより、お兄ちゃんはどこ行ったの! あんた何者!?」
「だから、俺がお兄ちゃんだと言ってるだろ」
右手が突き出されたので、俺はまた躱す。
「だって、無いじゃない!」下を指差す夜璃子。「それに、あるじゃない!」と、今度は胸を指差す。
「せめて名乗るんならお姉ちゃんでしょ! ――いや、どっちにしても信じてないけど!」
「これにゃあ、複雑な事情があるんだよ」知らないけど。まあ、あるだろう。
「……」夜璃子は、無言で制服のポケットからスマホを取り出した。
「……どこ電話しようとしてんのかな?」
「警察」
俺は勢いよく一歩踏み出し、ボクシングのストレートを放つ要領で手を伸ばして、夜璃子のスマホを奪った。
「あっ、何すんの変態! 返しなさいよ!」
「嫌だわ! 話聞けって! 俺がお前の兄貴、有希なの!」
「……じゃあ、いくつか質問するから、答えて」
なんか、『どーせ答えられないだろうけど、仕方ないから諦めさせてやるか』という感じが漂ってくる。犬の躾を諦めた飼い主かお前は。
「オッケー。どんと来い」
「……父親の名前は?」
「|遊馬達哉《あそまたつや》」
「母親の名前は?」
「|遊馬小春《あそまこはる》。俺らが小さい頃に死んでる」
「お兄ちゃんが通ってるガッコの名前は」
「東雲坂男子高等学校」
「……お兄ちゃんの趣味は」
「コンビニのおにぎりを食べ比べる事と、格闘技」
「…………じゃあ、最後。あたしがお兄ちゃんからもらった、最初の誕生日プレゼントは?」
「水彩絵の具」
夜璃子は、俺を見つめて、眉間にシワをよせて一言。
「気持ち悪っ……」
「なんで!? お前まだ信じてねえな!?」
「し、信じられるわけないじゃん……。なんで女の子になってんの……。しかも全裸で……」
「しゃーないだろ。この胸じゃ、股間を直接確認できねえんだからよ」
そう言うと、夜璃子は確認するみたいに俯いた。だが、夜璃子の胸は俺が男の時と大きさがそう変わらない。だから、股間くらいしっかりと見えるだろう。
見えてしまった夜璃子は、また胸をいじられたと思ったのか、俺の胸を思い切り掴んだ。
「痛ッ! お前なんでそんなおっぱいに対して敏感なんだよ!?」
「変な言い方しないでくれる!?」
それでもまだ離そうとしないので、夜璃子の手首を掴んで、なんとか手を離す事に成功した。おっぱいって触られたら無条件で気持よくなるものだと思ってた。罪深いな童貞思考。
「――いいから、服着てよ。それ以上見せつけたら、その胸引きちぎる」
「見せつけた気はさらさら無いが……。わかったよ」
俺は改めて、ベットに放られていたパジャマへと手を伸ばして、着ようとした。
すると、
「おーい夜璃子ー。まだ有希起こせないのかー?」
なんて言いながら、エプロンをかけた我らが父親、遊馬達哉が入ってきた。
そして、今まさに着替えようとしている、全裸の俺と目が合った。見知らぬ女が裸でいたからか、親父は固まってしまって、俺の体を凝視しているようにも見える。
――っていうか、事実してるんだろう。
「何見てんの変態ッ!」と、夜璃子が思い切り親父の顎にアッパーを決めた。
「ぐへッ……!」
小さく声が漏れたかと思いきや、親父は膝から崩れて、仰向けに倒れた。
「ば、バカ夜璃子何やってんだ!? 親父これから会社だぞ!」
俺は親父に駆け寄って、頭を抱き上げる。鼻血を垂らしてるのがなんか嫌だ。
「だ、だって実の父親が若い女の子の裸凝視してたら、普通に気持ち悪かったんだもん」
「わからんでもないが、もうちょい優しくしてやってくれ」
俺は仕方なく、親父を背負って、リビングのソファで寝かせてやることにした。
――全裸のまま。
■
俺は、ようやっと、スウェットとタンクトップを着る事ができたので、親父が起きるまで、夜璃子と一緒に親父が用意した朝食を食べて待った。
リビングのすぐ横にあるダイニングで食べていたので、親父が呻き声を上げたらすぐに駆け寄った。
「おい、親父。大丈夫か?」
「ご、ごめんお父さん。つい殴っちゃって。あ、会社には遅れるって連絡しといたよ」
ソファで寝転がる親父は、全く話を聞いていない。俺を凝視している。
「……夜璃子、こちらはどなただ」
「信じられないだろうけど、お兄ちゃんです」
「……タチの悪い冗談だな」
親父は、可愛いペンギンのイラストが描かれたエプロンを外した。出勤直前だったので、いつもの様にビシっとしたダークブルーのスーツを着ていた。
そして、白髪交じりのオールバックな頭を掻いて、俺を見つめる。
「……冗談じゃ、ないのか?」
頷く俺。
「……信じられんな。なら、いくつか質問を――」
「それ、あたしがやった」
「いや、でも――」
「あたしがやったってば」
「――ぼ、僕にも確認させてくれたって」
「あたしが、やった、ってば」
「……本当に、有希なんだな」
親父、夜璃子のイラッとした声にビビったな?
呆れて物も言えないので、頷いて答えた。
「やっぱり、こういう時は病院に電話するべきかな?」
と、親父が立ち上がって、家電話に近づこうとするが、俺は背後から「それ俺も考えたけど、どこの科に電話するべきかわかんなくって諦めた」と声をかける。
「大きい大学病院とかなら、いろんな科があるから、行ってみればいいんじゃないか?」
「ああ、そうか」
さすが親父。頭いい。
親父が家電を取って、病院の番号を入力しようとしたら、夜璃子がそれを止めた。
「ちょ、待ってお父さん。あのさ、いきなり体が女になっちゃう病気なんて、あると思う?」
「あるんじゃないか? 僕達が知らないだけで。いいかい、夜璃子。自分が知らないからって、この世に無いんだと思っちゃダメだぞ」
「……チッ。さっきお兄ちゃんの裸凝視してたくせに、偉そうに」
かなりの暴言である。舌打ちまでしたし。
「お父さん泣きそうだよ、夜璃子」
「勝手に泣いててよ。……どうでもいいから話戻すけど、病気だとしたらめちゃくちゃ珍しい物でしょ、これ。実験動物とかにされちゃうんじゃない?」
「診察料がかからなくて済むんじゃないか?」と、親父は外人みたいに肩を竦めた。
「言えてる」俺はその肩に肘を乗せて、二人で大笑いした。
「フンッ!」軽いおふざけだったのに、腰の入った綺麗なビンタが、俺と親父を同時に射抜いた。
「お父さんがふざけるのはまだわかるけど、お兄ちゃんはなんでそんな余裕綽々なの?」
「いやあ、実感がなくって……」
「チンコもないよな」
「「だーっはっはっはっは!」」
俺と親父はまた笑った。
すると、夜璃子はソファーの前に置かれていたローテーブルに思い切り踵落としを食らわせた。
ものすごい音で、床まで揺れたので、ローテーブルは割れたかと思ったが、無事だった。
「一生そのままでいいっていうんなら、あたしはなんにも言わないよ」
「いや、いいってことはないけども……。戻る方法がわかんねえしなあ」
結局そこに行き着くのである。
夜璃子も、さすがに戻る方法はわからないので、押し黙ってしまう。当然親父にもわかるわけがなく、みんなが黙ってしまった。
その時だった。
『戻る方法、教えてやろうか?』
その声が、頭に響いたのは。
どうやら全員に聞こえていたらしく、周囲を探すと、薄型テレビの上に、声の主が座っていた。
昔、おばあちゃんの葬式で、棺桶の中でおばあちゃんが着ていたのと同じ死に装束を着た、俺と同い年くらいの少女だった。濡れているみたいにしっとりと輝く黒髪を一本結びにした、鋭い目付きの少女。
薄型テレビの上に座っているという時点ですでに只者ではなかったが、それ以上に只者ではないと感じさせたのは、彼女の体が透けていたから。
背後が見えているのだ。ただの人間が透けているわけないだろう。
その光景に驚いて、俺達三人が固まっていると、少女は血色の悪い唇をいびつに歪ませて、笑いながら言った。
『お前はこの私に呪われたのさ。男に戻りたかったら、女を三人幸せにしてみせな。そうしたら、戻してやるよ』
呪われたから、それを解く為に、女を三人幸せにしろだと?
あまりにも唐突な言葉が、俺の中から言葉を奪う。訊くべき事が多すぎて、なにから訊くべきかわからなかった。
■1『俺から私へ』
何も言えずにいたら、誰よりも先に口を開いたのは、意外な事に親父だった。
「……その発言から察するに、キミが有希を女の子にしたと考えて、いいのかな?」
少女は頷いて、テレビの上から降りる。そうすると、意外に身長が低いことがわかった。俺の胸くらいかな?
『その通り。私の名前は|結《むすび》』
親父は顎に手を添えて、少女――結を見つめる。何を言うべきか考えているのだろう。
「呪い、と言ったね? キミは戻る手段を教えてくれた。そういうところから、有希に原因があると想像するが」
『そうね。話のわかる男だわ』
「俺ぇ?」自分の鼻を指差す俺。
しかし、女の子にされるほど恨まれるきっかけが、思いつかないので、今のところ親父に話を進めてもらおう。
『あなた、昨日の事は覚えてない?』
「昨日ぉー?」
なんかあったっけ?
――俺、昨日は確か、友達とカラオケ行って、そこで遅くまで歌いまくったから疲れてしまい、かなりフラフラで帰ったのは覚えてる。
友達とカラオケに行くと、どれだけ難しい曲を歌えるかとか、面白く歌えるかと競う感じになるので、自然疲れてしまうのだ。
しかも結構夜遅く帰ってきたし、眠かったからなぁ。
『覚えてないのか』あからさまに不快感を表す結。
そんなに怒らすような出来事が、昨日あったか?
腕を組んで、思い出そうとするが、胸が邪魔でいつもの位置で腕が組めず、胸を支える様にした。
その動作でイラッとしたのか、夜璃子が俺の膝にローキックを決めたが、それを我慢しながら、記憶のページを捲る。
■
深夜に入りそうなほど、夜の帳が深く落ちたその時、俺はふらふらと夢遊病患者みたいな足取りで、暗い道を歩いていた。
「あー……無茶しすぎたなぁ」
その時俺の体はまだ男だったので、短い髪が蓄えられた頭を掻きながら、カラオケの記憶を思い返す。
眠くて眠くて限界なので、早く家に帰りたかった俺は、近道することにした。
その帰り道には、『羽鳥神社』があり、そこを通り抜けるとずいぶん早く帰れるのだ。
誰もいない境内は、まるで世界はここしかないとばかりに静かで、鳥居をくぐるとひんやりした空気が肌を撫でる。もう春になったというのに、やっぱり深夜、それも境内という場所だと、そういう霊的な感じがするんだろう。
たくさん体温を失った霊がいるから、空気が冷たくなってるんだろうか。
などと、そんな事を考えながら、本殿の脇を通り抜けていたら、林に紛れるような目立たない位置に、ここらへん一帯で有名な心霊スポット、女郎首塚があった。
なんでも、遊郭に働いていた女が、自分を連れ出してくれると約束し、裏切った男の首を切って殺し、捕まって自らも晒し首にされたが、あまりの怨念の深さに祟りめいた現象が続き、首塚を作るハメになり、これにちょっかいを出したら死ぬというのがここらへんでは有名な怪談である。
俺はたまーにこの近道を通るので、首塚を見るのはこれが初めてではないが、何度見てもちょっと怖い。素通りするのもなんだな、と思うので、通る度に手を合わせて頭を下げ、「失礼しまーす」と言っている。
その日も当然、それをするべく、近づいていくと、二つの不幸が重なった。
一つは、俺がカラオケでした激しいダンスの所為で足がガクガクだった事。
もう一つは、暗闇で足元がよく見えなかった事。
石を踏んづけて前のめりになり、足の力が入らなかったから踏ん張ることができず、支えを求めた右手が、首塚を押した。
まあ、なんだ。
わからないでもないんだよ。相当古いもんだし、できたのは江戸時代頃と聞く。技術も今と比べりゃまだまだ未熟だろうし。
だからわからんでもないんだよ。俺がちょっと寄りかかっただけで、首塚が倒れたのは。
「あ」
ゴドン、と、地中に染みこむような音がした。
幸い周囲には誰もいない。当たり前だ。滅多に誰も来ないからこそ首塚があるんだから。
――弁償とか言われたら、さすがになんともできねえ。まあ、岩が台座に乗ってただけなんだ。なんとかなるだろ。
俺は落としてしまった岩を、なんとか持ち上げて、台座に戻す。
うむ、完璧。
だが、一応謝っておこうということで、先ほど途中だった合掌をしてから、その場を去った。
■
「あぁ、あれか!」
手を叩いて納得する俺。なるほど、呪われるとなったらあれしか思いつかねえわ。
『……やっと思い出したか』こめかみがぴくぴくと痙攣しているところを見ると、結は相当イライラしているらしかった。
「つってもさ、石は戻したろ? 悪かったとは思うけど、性別変えられるほどか?」
『亡者の、特に私みたいな罪人の怨念ってのは、生者からしたら理不尽かもしれないけどね。まあ、私の呪いは義務みたいなもんだから』
「義務でチンコ取られちゃたまんねえよ。返せ俺のチンコ」
『だから、女を三人幸せにしてみなって言ってるだろ? そうしたら、戻してやるって言ってるじゃないか』
「なんで女なんだよ。なんで三人なんだよ」
そう訊くと、なぜか結は、右手で左肘を掴みながら、視線を逸らす。
『……三回だ』
「は?」
小さい声で全然聞こえなかったので、耳に手を当て、彼女の口に耳を近づける。
『三回だ! 私はな、三回も騙された! それもおんなじ男に! 遊郭から助けてくれるっていうからお金も渡したのに! 持ち逃げされたんだ! だから、私に呪われた男には、騙されたのと同じ分だけ女を助けろと言ってるんだ!!』
涙目で俺を睨む結。なんか俺がお前の金持ち逃げした、みたいになってるじゃん。
「一回で気づけよ……。バカじゃないのか……」
そんなんで三人も助けなきゃいけないとか、いい迷惑だわ。
「まあまあ。恋は盲目って言うだろ? きっとその人が好きだったんだよ。ねえ、結ちゃん」
と、親父は結の肩に手を置いて、微笑んだ。
『……ううぅ。人の優しさなんて久しぶりだぁ……』
ついに顔を覆って泣き出す結。
なんだこの光景。
「でも、よかったねお兄ちゃん」いきなり、夜璃子が俺を見上げて、そんな事を言い出した。
なにがよかったと言うのか。今の話で、よかったところなんてあったか?
「だって、女の子三人、幸せにすればいいんでしょ? 楽勝じゃない?」
『ふん。温室育ちの小娘が甘いことを言ってるな』
さっきまで泣いていた結が、胸を張って夜璃子に向かって一歩踏み出してきた。夜璃子よりもちょっと身長が低い所為で、見上げる形になってるのがちょっとおもしろい。
「なにが甘いってのよ?」
「いいか、小娘。今まで、この呪いにかかってきた男は、三人いる」
「お前、三って数字好きなん?」
「だがな、この呪いを解けた男は、誰もいない。どころか、二人幸せにできた男も居ない。最高で一人だけだ」
俺の質問は軽くスルーされた。
――でも、そんなに難しいことなんだろうか?
そりゃあ簡単とは思えないが、絶対解けないってほど難題にも聞こえないんだけどな。
「僕は、彼女の難しいって話は納得だな」
さっきから妙に理解ある親父が、俺と夜璃子の顔を神妙に見つめてきた。
「いいかい、二人共。幸せっていうのはね、ラッキーじゃない。ハッピーなんだ。ツイてたから博打に勝った、ってのはラッキーだ。毎日温かいご飯が食べられるのは、ハッピーだ。幸せにするっていうのはね、そういう積み重ねが物を言うと思うんだ」
俺と夜璃子は、なに朝っぱらからこっ恥ずかしいテンションになってんだろうこの人、と若干引いていたのだが、結はその言葉を噛みしめるみたいに、うんうん頷きながら、親父の背中を叩いていた。
『いいこと言うじゃないのよ! そう、そういう事。だから、逆に女の幸せを掴んだ先代もいたくらいよ』
「マジかよ」それだけは絶対に嫌だ。「っつーか親父。息子が娘から戻ろうってんだから、そういうマイナスな事言わずに、もっと励ませっての」
「んー……」親父はなぜか、腕を組んで天井を見つめて、ポソリと一言。「実は娘の方が、お父さん的には嬉しいし……」
「マジか。ぶっ殺すぞ」
「気持ち悪っ……」
俺と夜璃子からメタクソに言われた所為か、親父は天井を見上げたまま、腕で目を隠した。泣きそうになるくらいなら言うな。
「――あっ、そうだ。私そろそろ学校に行かないと」
ダイニングに置いてあった鞄を持ち、家を出る準備を済ませる夜璃子。
「あ、そっか。俺も行かなきゃ」
「……え、ちょっと待って」
夜璃子は、俺の胸を押し、部屋に戻ろうとした体を静止させる。
「どうした?」
「……お兄ちゃんの学校、男子校でしょ」
「そうだけど――って、そうか!」
俺学校行けねえ!
行ったらAVみたいな事になって、男に囲まれちゃう!
特に、彼女欲しい彼女欲しいと、口癖みたいに言っている連中の集まりなんだ。まず学校に入れねえだろうし、よしんば入れてもまともに授業が受けられるとは思えない。
「うわぁ、どうすっかなあ……中卒はさすがになぁ……」
「えっ、もうそんな未来見据えてんの?」
夜璃子が『まだなんとかなるでしょ』という視線を向けてくるが、しかし学校に行けない以上、就職しかないわけで。
「……これは、仕方ないな」
――親父が秘策あります、みたいなアピースしてきた。
今までの惨状を見るに、できれば頼りたくはないのだが、仕方ない。
「何が仕方ねえんだよ、親父」
「こうなったら、手は一つしかないだろ?」
と、ウインクを飛ばしてくるが、俺は首を傾げて、夜璃子を見る。だが、夜璃子もわかっていないらしく、俺達は見つめ合い、首を傾げていた。
そして、親父は俺の手を取って、一言。
「女子校へ転校だ」
「……その発言から察するに、キミが有希を女の子にしたと考えて、いいのかな?」
少女は頷いて、テレビの上から降りる。そうすると、意外に身長が低いことがわかった。俺の胸くらいかな?
『その通り。私の名前は|結《むすび》』
親父は顎に手を添えて、少女――結を見つめる。何を言うべきか考えているのだろう。
「呪い、と言ったね? キミは戻る手段を教えてくれた。そういうところから、有希に原因があると想像するが」
『そうね。話のわかる男だわ』
「俺ぇ?」自分の鼻を指差す俺。
しかし、女の子にされるほど恨まれるきっかけが、思いつかないので、今のところ親父に話を進めてもらおう。
『あなた、昨日の事は覚えてない?』
「昨日ぉー?」
なんかあったっけ?
――俺、昨日は確か、友達とカラオケ行って、そこで遅くまで歌いまくったから疲れてしまい、かなりフラフラで帰ったのは覚えてる。
友達とカラオケに行くと、どれだけ難しい曲を歌えるかとか、面白く歌えるかと競う感じになるので、自然疲れてしまうのだ。
しかも結構夜遅く帰ってきたし、眠かったからなぁ。
『覚えてないのか』あからさまに不快感を表す結。
そんなに怒らすような出来事が、昨日あったか?
腕を組んで、思い出そうとするが、胸が邪魔でいつもの位置で腕が組めず、胸を支える様にした。
その動作でイラッとしたのか、夜璃子が俺の膝にローキックを決めたが、それを我慢しながら、記憶のページを捲る。
■
深夜に入りそうなほど、夜の帳が深く落ちたその時、俺はふらふらと夢遊病患者みたいな足取りで、暗い道を歩いていた。
「あー……無茶しすぎたなぁ」
その時俺の体はまだ男だったので、短い髪が蓄えられた頭を掻きながら、カラオケの記憶を思い返す。
眠くて眠くて限界なので、早く家に帰りたかった俺は、近道することにした。
その帰り道には、『羽鳥神社』があり、そこを通り抜けるとずいぶん早く帰れるのだ。
誰もいない境内は、まるで世界はここしかないとばかりに静かで、鳥居をくぐるとひんやりした空気が肌を撫でる。もう春になったというのに、やっぱり深夜、それも境内という場所だと、そういう霊的な感じがするんだろう。
たくさん体温を失った霊がいるから、空気が冷たくなってるんだろうか。
などと、そんな事を考えながら、本殿の脇を通り抜けていたら、林に紛れるような目立たない位置に、ここらへん一帯で有名な心霊スポット、女郎首塚があった。
なんでも、遊郭に働いていた女が、自分を連れ出してくれると約束し、裏切った男の首を切って殺し、捕まって自らも晒し首にされたが、あまりの怨念の深さに祟りめいた現象が続き、首塚を作るハメになり、これにちょっかいを出したら死ぬというのがここらへんでは有名な怪談である。
俺はたまーにこの近道を通るので、首塚を見るのはこれが初めてではないが、何度見てもちょっと怖い。素通りするのもなんだな、と思うので、通る度に手を合わせて頭を下げ、「失礼しまーす」と言っている。
その日も当然、それをするべく、近づいていくと、二つの不幸が重なった。
一つは、俺がカラオケでした激しいダンスの所為で足がガクガクだった事。
もう一つは、暗闇で足元がよく見えなかった事。
石を踏んづけて前のめりになり、足の力が入らなかったから踏ん張ることができず、支えを求めた右手が、首塚を押した。
まあ、なんだ。
わからないでもないんだよ。相当古いもんだし、できたのは江戸時代頃と聞く。技術も今と比べりゃまだまだ未熟だろうし。
だからわからんでもないんだよ。俺がちょっと寄りかかっただけで、首塚が倒れたのは。
「あ」
ゴドン、と、地中に染みこむような音がした。
幸い周囲には誰もいない。当たり前だ。滅多に誰も来ないからこそ首塚があるんだから。
――弁償とか言われたら、さすがになんともできねえ。まあ、岩が台座に乗ってただけなんだ。なんとかなるだろ。
俺は落としてしまった岩を、なんとか持ち上げて、台座に戻す。
うむ、完璧。
だが、一応謝っておこうということで、先ほど途中だった合掌をしてから、その場を去った。
■
「あぁ、あれか!」
手を叩いて納得する俺。なるほど、呪われるとなったらあれしか思いつかねえわ。
『……やっと思い出したか』こめかみがぴくぴくと痙攣しているところを見ると、結は相当イライラしているらしかった。
「つってもさ、石は戻したろ? 悪かったとは思うけど、性別変えられるほどか?」
『亡者の、特に私みたいな罪人の怨念ってのは、生者からしたら理不尽かもしれないけどね。まあ、私の呪いは義務みたいなもんだから』
「義務でチンコ取られちゃたまんねえよ。返せ俺のチンコ」
『だから、女を三人幸せにしてみなって言ってるだろ? そうしたら、戻してやるって言ってるじゃないか』
「なんで女なんだよ。なんで三人なんだよ」
そう訊くと、なぜか結は、右手で左肘を掴みながら、視線を逸らす。
『……三回だ』
「は?」
小さい声で全然聞こえなかったので、耳に手を当て、彼女の口に耳を近づける。
『三回だ! 私はな、三回も騙された! それもおんなじ男に! 遊郭から助けてくれるっていうからお金も渡したのに! 持ち逃げされたんだ! だから、私に呪われた男には、騙されたのと同じ分だけ女を助けろと言ってるんだ!!』
涙目で俺を睨む結。なんか俺がお前の金持ち逃げした、みたいになってるじゃん。
「一回で気づけよ……。バカじゃないのか……」
そんなんで三人も助けなきゃいけないとか、いい迷惑だわ。
「まあまあ。恋は盲目って言うだろ? きっとその人が好きだったんだよ。ねえ、結ちゃん」
と、親父は結の肩に手を置いて、微笑んだ。
『……ううぅ。人の優しさなんて久しぶりだぁ……』
ついに顔を覆って泣き出す結。
なんだこの光景。
「でも、よかったねお兄ちゃん」いきなり、夜璃子が俺を見上げて、そんな事を言い出した。
なにがよかったと言うのか。今の話で、よかったところなんてあったか?
「だって、女の子三人、幸せにすればいいんでしょ? 楽勝じゃない?」
『ふん。温室育ちの小娘が甘いことを言ってるな』
さっきまで泣いていた結が、胸を張って夜璃子に向かって一歩踏み出してきた。夜璃子よりもちょっと身長が低い所為で、見上げる形になってるのがちょっとおもしろい。
「なにが甘いってのよ?」
「いいか、小娘。今まで、この呪いにかかってきた男は、三人いる」
「お前、三って数字好きなん?」
「だがな、この呪いを解けた男は、誰もいない。どころか、二人幸せにできた男も居ない。最高で一人だけだ」
俺の質問は軽くスルーされた。
――でも、そんなに難しいことなんだろうか?
そりゃあ簡単とは思えないが、絶対解けないってほど難題にも聞こえないんだけどな。
「僕は、彼女の難しいって話は納得だな」
さっきから妙に理解ある親父が、俺と夜璃子の顔を神妙に見つめてきた。
「いいかい、二人共。幸せっていうのはね、ラッキーじゃない。ハッピーなんだ。ツイてたから博打に勝った、ってのはラッキーだ。毎日温かいご飯が食べられるのは、ハッピーだ。幸せにするっていうのはね、そういう積み重ねが物を言うと思うんだ」
俺と夜璃子は、なに朝っぱらからこっ恥ずかしいテンションになってんだろうこの人、と若干引いていたのだが、結はその言葉を噛みしめるみたいに、うんうん頷きながら、親父の背中を叩いていた。
『いいこと言うじゃないのよ! そう、そういう事。だから、逆に女の幸せを掴んだ先代もいたくらいよ』
「マジかよ」それだけは絶対に嫌だ。「っつーか親父。息子が娘から戻ろうってんだから、そういうマイナスな事言わずに、もっと励ませっての」
「んー……」親父はなぜか、腕を組んで天井を見つめて、ポソリと一言。「実は娘の方が、お父さん的には嬉しいし……」
「マジか。ぶっ殺すぞ」
「気持ち悪っ……」
俺と夜璃子からメタクソに言われた所為か、親父は天井を見上げたまま、腕で目を隠した。泣きそうになるくらいなら言うな。
「――あっ、そうだ。私そろそろ学校に行かないと」
ダイニングに置いてあった鞄を持ち、家を出る準備を済ませる夜璃子。
「あ、そっか。俺も行かなきゃ」
「……え、ちょっと待って」
夜璃子は、俺の胸を押し、部屋に戻ろうとした体を静止させる。
「どうした?」
「……お兄ちゃんの学校、男子校でしょ」
「そうだけど――って、そうか!」
俺学校行けねえ!
行ったらAVみたいな事になって、男に囲まれちゃう!
特に、彼女欲しい彼女欲しいと、口癖みたいに言っている連中の集まりなんだ。まず学校に入れねえだろうし、よしんば入れてもまともに授業が受けられるとは思えない。
「うわぁ、どうすっかなあ……中卒はさすがになぁ……」
「えっ、もうそんな未来見据えてんの?」
夜璃子が『まだなんとかなるでしょ』という視線を向けてくるが、しかし学校に行けない以上、就職しかないわけで。
「……これは、仕方ないな」
――親父が秘策あります、みたいなアピースしてきた。
今までの惨状を見るに、できれば頼りたくはないのだが、仕方ない。
「何が仕方ねえんだよ、親父」
「こうなったら、手は一つしかないだろ?」
と、ウインクを飛ばしてくるが、俺は首を傾げて、夜璃子を見る。だが、夜璃子もわかっていないらしく、俺達は見つめ合い、首を傾げていた。
そして、親父は俺の手を取って、一言。
「女子校へ転校だ」