幼い頃から虚弱だった。物心つく前からもよく体を壊したり病気になったりを繰り返していた。
いつも体は重いし、気分は陰鬱だし、なんの前触れもなく全身に痛みが走り回ることも珍しくはなかった。
これが『生きる』ということなのだと本気で思っていた。だから生きるのは辛かった。
それが変わったのが、確か五歳くらいの時だったと思う。
いきなり全てが変化した。
体は軽く、気分は晴れ晴れとし、そして唐突に走る激痛も無くなった。
同時に、自分の身体の内側から奇妙な違和感を感じるようになった。
自分が本来持っていたものとは、明らかに違う質のモノ。
あとになってわかったことだが、これは自分の身体に起きた能力の発現によって初めて自覚することが出来た、胎児期から取り憑いていた人外の感覚だった。
得体の知れない何かに、この身は侵されていたのだ。
その内側からの浸食を止めたのが、発現した能力。
それから先はこの身は虚弱どころか病気の一つもしなくなり、怪我をしてもあっという間に治るようになった。
この力、その特性を鑑みるに、おそらくは“再生”の力だと数年経って理解した。
こんな力を持っている者は周りには一人もいなかった。だというのに、さらに自分の身体には今もなおこの身を喰らわんとする凶悪な何かが潜んでいる。
異能の発現よりも前から、それこそ産まれる前から憑いていたこの何かをどうにかする術は、おそらく無いのだろう。幸いにも、あのままでは死ぬことの確定していたこの身は“再生”によってどうにか存命可能な状態に拮抗している。折り合いをつけてこの『悪霊』とはやっていくしかない。
…だが、問題はこの『悪霊』だけではなかった。
発現の際に命が助かったことから、誤解していた。
この身にとっては、この“再生”ですらも充分な障害であるということを。
その少年、|東雲《しののめ》|由音《ゆいん》は自分の机に突っ伏してぼんやりと空を見上げていた。
給食が終わり、今は昼休み。中学校内は皆思い思いに体育館やグラウンド、教室や廊下でまで楽しそうに追いかけっこやお喋りに興じていた。
彼も独り机に突っ伏してはいるが、決してクラスメイトの輪から弾かれているわけではない。現に、数十分前の昼休み突入直前において彼はクラスの男子達からサッカーの誘いを受けていた。それをやんわりと断って今こうしているのだ。
人付き合いは良い方だった。会話だって無難にこなすし、これといって嫌われるようなことをしてもいない。だから遊びにも誘われるし、彼もその誘いには極力乗るようにはしていた。
ただ、今日は駄目だった。
体調が悪い、とクラスの男子には言ったが、それも違う。
そもそも彼は病気というものをしたことがない。心因性なものであればともかく、単純な風邪などといったものには絶対に罹らない。
そういう性質を宿しているからだ。彼は病気はおろか、外傷・内傷ですら瞬時に治せてしまう特殊な力を有していた。
彼自身、これを“再生”の能力と自負している。
幼い頃に突如として発現した特殊能力。これにより彼は常時万全を維持できている。
いかなる傷をも瞬時に再生、と説明されればとても便利で羨ましい力を持っていると思われるかもしれない。だが、彼はそれを他言したことは一度もない。
理由は単純。こんな力は普通の人間であればまず持っているはずがないからだ。
人は、自分と同じ性質の大多数を基準として『普通』を判断する。その『普通』に当てはまらない者を、人は避ける傾向にある。
怪我をすれば、絆創膏を貼る。止血をして包帯を巻く。あまりに酷いようなら縫ったり、手術を行ったりする。
それが『普通』だとするならば、やはり東雲由音は『異常』であった。
“再生”は、あまりにも見境なく傷という傷を治し過ぎる。擦過傷程度なら、一秒掛からず治ってしまう。そんなものを誰かに見られれば、まず間違いなく不気味がられる。
だから彼はなるべく怪我をしないように気を付けて来た。
さらに、この力には欠点があった。
(……やっぱ、今日は調子が悪い。安定しない。これじゃ不味い…)
内心で呟きながら、由音は再び窓に顔を向ける。秋晴れの空は雲一つなく、差し込む陽光が机にもたれる由音に穏やかな眠気を与える。
寝てしまえば昼休みもあっという間だ。そんな風に考えて瞳を閉じようとした由音の耳に、教室でふざけあっていた男子達の声が届く。
さっきよりも距離が近づいている。いや、近いどころかこれは…、
「ちょ、あぶね…うわぁっ!」
「!?」
ガッシャァンッ、と後ろを確認せずにふざけていた男子生徒の一人がうとうとし始めていた由音の背中にぶつかり、そのまま足を絡ませて由音ごと机と椅子をひっくり返して倒れ込む。
「いってて…あっ、ごめん東雲!大丈夫か!?」
「なにしてんだよお前~」
「お前が押したからだろっ!」
ふざけ合っていたもう一人がからかう中、ぶつかった生徒は真摯に由音に怪我がないか確認しながら再度謝る。
「ごめんな!どこか打ったか?」
「ぁーーー…ああ、大丈夫だ。なんとも、ねえ……、っ」
顔に不器用な笑みを貼り付けて、冷や汗をどっと滲ませた由音がそう答えると、男子生徒もほっとしたように机と椅子を起こしたあとに由音の背中をぽんと叩いて、一緒にふざけていた友達とまた何事か話し始めた。
「…ッ!」
男子生徒の興味が完全に自分から外れるのを待って、冷や汗を垂らす由音はそのまま椅子に座ることなく走って教室を飛び出した。
廊下を走る足取りは次第に早くなり、トイレの個室に駆け込む頃には全力ダッシュとなっていた。それほどに切羽詰まっていたのだ。
バタンと乱暴に個室トイレの扉を閉めて、由音は左腕を抑えて洋式トイレに腰掛けた。
「はっ、ハァ……ぐ、があ…!ああぁぁああああ!」
左の二の腕には、数センチ程度の軽い切り傷ができていた。転倒の際にどこかに引っ掛けたせいだろう。
無論この程度ならなんてことはない。普通の子供だってこんな傷じゃ泣きもしない。
ただ、今日の由音に限っては少しの怪我でも致命的だった。本人が悩んでいた通り、今日は調子が悪いのだ。
“再生”の調子が、特に悪い。
切り傷は見る間に治る。僅かな血の跡を残してその皮膚には怪我の痕跡の一つも残らない。
だが、その直後にボコンと不可思議な音を立てて、傷があった部分の腕が蠢き始めた。肉が隆起し、膨張する。
ボコココココ!!
(やめろ、クソやめろ!落ち着け、落ちつ)
ボゴ、ゴゴゴバッ!!
「かっ、くぁ…あああああああああああ!!!」
傷のあった場所を中心に、二の腕が本来の三倍も四倍にもなってグロテスクな肉の塊となる。赤黒く変色し、今にも破裂してしまいそうなほどにボコボコと肉が膨らんでいく。
“再生”が、制御できない。
この力は怪我を瞬時に治してくれる、傷をすぐさま塞いでくれる。
だが、普段から押さえ込んでおかなければこうなる危険性もある諸刃の剣だった。加減を間違えてしまえば、激痛と共に『“再生”し過ぎる』という事態が発生する。そうなれば際限なく傷を埋め合わせる人肉が増殖を続け、果ては山のように大きく不気味な人肉の怪物が出来上がるだろう。
問題はこれだけではない。本当に不味いのは、このバランスを崩した“再生”から派生して起こるもう一つの方。
「ぎァ…がガガああ、ゲッ、ぐ、ォぉああああ…!」
肉の膨張と共に、右手で覆った顔面からギュルンと眼球が回る音が鼓膜に響く。その両眼は、昏く淀んだ漆黒に染まり掛けていた。
(悪霊が暴れる…ッ!!くっそ、“再生”がうまく回らない!ヤバい安定を…)
肉体が乗っ取られていく不愉快な感覚が身を包む。皮膚から瘴気のような黒い靄が漏れ始め、いよいよもって悪霊が由音の肉体を蝕む。
「はっは、ふうっ!ふぶぅっ…!すうっ、はっ、はあぁ!」
左腕が異様に膨れ上がり、両眼が漆黒に染まる少年が、そんな状況にも関わらず心を落ち着けようと大きく深呼吸を繰り返す。目を閉じ、内に宿る異能に意識を傾ける。
安定も制御の方法もわからない。ただ前にこうやったらどうにかなったからやっているだけだ。それしか出来ないからやっているだけ。
それでも、確かにその行為に効果はあった。
徐々に“再生”の力が落ち着きを取り戻し、異常に膨張していた左腕が元の原型に収縮していくのを確認して、次に由音は“再生”を悪霊の浸食へ拮抗させて肉体の自由も取り戻す。
「ッはあ!ぜっ、はあ、はあ…ふう」
ようやく体が元に戻り、洋式トイレに腰掛けたまま一気に脱力する。
毎度毎度肝が冷える思いだ。
頻繁に起こることではないとはいえ、たった一度でもしくじれば自我を乗っ取られ、身体の随所が隆起し盛り上がった気味の悪い化物が学校内で暴れ回る惨事に発展する。
荒げた呼吸が戻る頃には、昼休み終了のチャイムが鳴り響いていた。
(……なんなんだ、おれは。なんなんだよ、この力は!)
説明してくれる人はどこにもいない。こんな力を持ってるのが自分しかいないのだから当然と言えば当然だが。
かつて命を救われたこの“再生”の能力に、今は悩まされている。
体を侵す二つの異質に頭を抱えながら、東雲由音は額の汗を拭い個室トイレから出る。
これは彼の中学生時代の話。
まだ自身の力について何も理解しておらず、それ故に陰鬱とした日々を送っていた頃の話。まだ『彼』との出会いに到達していない、東雲由音の暗澹たる時期。
悪霊に取り憑かれ、“再生”という能力に振り回される今の由音からは、あの呆れるほどの元気っぷりは未だその片鱗も見えない。