私は受け取った握り飯をその場で無造作に頬張ってやった。
むっ、と思わず声が漏れる。塩味が効きすぎている。まあ独り身の看守の餞別ではこんなものかと己を納得させ続きを口にする。
「これも持っていけ、一之瀬」
“そんなに旨いか?”とでも言いだけな満足顔を浮かべながら、柳看守は更に色々と寄越してきた。お茶、日用品、中古本。その光景はさながら一人息子の巣立ちを見送る母のようでもあるが、残念ながら私も柳も齢六十になる男だ。
『一之瀬被告、再審で無罪』
『三十一年の獄中生活に幕』
『警察、検察死んでも許さぬ』
私はちょっとした時の人だった。
今から三十一年前、私は殺人罪で起訴され無期懲役の身となったが、ここ数年になって急に新証拠だのアリバイだのDNAだのと。私を置き去りにして話は進み、トントン拍子で今年の釈放が決まった。
「色々と苦労するだろうが、達者でな」
申し訳ないと心の中で詫びているのだろうか、それともただ不憫だと哀れんでいるのだろうか。柳看守の表情が複雑なものに見えたのは、私の立場ゆえなのだろうか。差し出された右手に堂々と応え、私は微笑を彼に贈った。
「出てきたぞ!!」
檻の外にはこれでもかと報道機関の大群が押し寄せていた。自然と両肩が重くなる。「警察の捜査体制の見直しを」「失った人生を取り戻したい」「真犯人に償いを」彼らの求める回答を残してやり、私は逃げるようにタクシーへと乗り込んだ。
ふう、と深く息を吐いた。
どちらまで? と言われたって、目的地がある訳ではない。
「とりあえず……、駅まで」
当然のことながらタクシーなんてものも三十一年振りだ。いや、刑務所に入る前は随分生活が苦しかったから、もしかしたらもっと経っているかもしれない。とにかく、心地は悪くない。私は思い切り背もたれに身を任せ、窓の外の世界を眺めた。出所者としてはとても月並みな表現になるが、なんという様変わりだ。目に飛び込んでくるもの全てが初めて見るものばかり。こうして窓の外を眺めているだけでまったく退屈しない。三十一年とは、それ程に途方もなく長い月日なのだ。その月日の代償として、私には九千万の現金が国から支払われることになった。この額について、世間では高いだの安いだのという議論が飛び交ったらしい。まあ飛び交ったと言っても、「安すぎる」という意見が大半だそうだ。人生の半分を失った代償にしては遥かに安すぎると。だが、私はそうは思わない。むしろこんなに貰ってしまって良いのだろうかと思う。何故なら、私は本当に殺したからだ。
駅に着いた。
その佇まいも、入所前と比べると随分近代的だ。……いや、待て、時代を知らない私が“近代的”とはいささか妙な表現だ。くくっ、と思わず苦笑が漏れる。
数日の内に私は部屋を借りた。久しぶりの“娑婆”だったが、手に金はあるのだ、手探りでどうにでもなった。思いっきり贅沢をしてやろうと、月二十万もする高級マンションにした。やたらに設備がしっかりしていて、こんしぇるじゅ? という良く分からない者まで常駐している。どうせ冥土に金は持ち込めんし遺す家族もいないのだ、これくらいは良いだろう。高級マンションに有り余る“退職金”。私の老後は一点の陰りも見えぬ一歩を踏み出したかのように思われた。
――ところがだ。
「不味い」
私は思わず声を上げた。周囲の視線が一斉に集まる。ウエイターもその足をぴたりと止める。
あたりで名高いという高級レストランに来てみたが、なんだこの料理は? まったく口に合わないじゃないか。「からぶりあ直送どぅいあのかなっぺ」も、「釣り魚のかるぱっちょ」も、国産牛のフィレ肉も。どいつもこいつもまるで舌に合わん。
長い刑務所暮らしが私の舌を狂わせたのか? 柳看守の不格好な握り飯が今となってはとても恋しい。あの効きすぎた塩の味がふっと脳裏に浮かぶと、もうそれを求めずにはいられなくなった。私は主菜もそこそこにレストランを飛び出し、スーパーで買った米を抱えマンションへと戻った。バタバタと慌ただしく駆ける私の視線の端で“こんしぇるじゅ”が笑顔で頭を下げている。
部屋に入ると、私は着ていたコートをそこらへ放り出しすぐに握り飯の準備に取り掛かった。……と、ここで私の家には炊飯器が無いことにようやく気が付く。……いや、そもそもだ。よしんば炊飯器があったとしても、米の炊き方が分からん。
ふとあたりを見回すと、高級マンションの一室はすっかり散らかりまるでゴミ屋敷のようになっていた。
このままではまずい……。そう思い、私は家政婦を雇うことを決めたのだった。