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窓の外

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 以前八郎さんが言っていたゲームセンターの場所を思い出しながら、僕は自転車をこいでいた。そこに行けば偶然関係者に出会うということもないわけではないだろう。都合のよすぎる考えだとはわかっていたけれど、他に手の打ちようのない僕はひたすらにペダルを漕ぐ。
 しかし目的地を見つける前に、僕の目は異様な光景に奪われた。自転車を止めて呆然とする。そこはゲームセンターへの通り道にある小さな公園だった。普段は近所にあるマンションの子供達が集まるのであろう。遊具の類は最低限で、飲食店や住宅が密集する窮屈な通りに、体を動かせるスペースを用意しようという意図が見える質素な公園だ。ところがその意図に反して、今その公園にスポーツをしている人は一人たりとも居なかった。それどころか、中にいる誰も身じろぎすらしていない。
 人が少ないとか、そういうことではないのだ。むしろ公園には不自然なほど多くの人がいた。それなのに全員が、凍ってしまったようにその場に固まっている。中には体制を維持するのが難しそうな片足のまま動きを止めている人もいる。それは異常としか言いようがない光景だった。たまたま通りかかった僕以外の通行人もみな足を止めてことの成り行きを見守っている。僕は半開きになっていた口を閉じて、自体を理解するためにネットの裏から公園の中を注視した。
 よく見てみると、固まった群衆の中央辺りに一組の男女がいた。その二人だけは生身の人間らしく動きを見せている。男性のほうがおもむろに女性の目の前でひざを突く。突然周りの人間が動かなくなり、隣にいた男性が目の前にかしずく。女性の方は状況が全く飲み込めていないようで、哀れなほどに狼狽している。反して男性は、このことをすべて知っていたというように淡々と行動をとる。やがて男性は上着のポケットから手のひらで包めるほどの大きさの四角いケースを取り出す。そして女性の目の前でそのふたを開いた。 
 僕はやっと事態が飲み込めた。正式な名前は知らないけれど、これはプロポーズのサプライズなのだ。どこかの番組で見かけたことがある。男性に指輪を見せられた女性は驚きと感動で口を手で覆い、涙を流し始めた(僕が思うに驚きの方が大きいんじゃないか)。すると今まで固まっていたエキストラ達は突然動き出して歓喜の声を上げた。どうやらプロポーズは成功したらしい。男女のカップルは手をつないで公園を後にした。その二人をしばらく見届けて、エキストラ達もぞろぞろと公園を出てきた。
 そのなかに見知った顔を見つける。清々しいサプライズにふさわしいさわやかな風貌、誠士郎さんだ。僕は驚いて声をかけようとする。しかしその前に、一緒にエキストラをつとめていた男性が彼に声をかけた。
「いやー、よかったですね、フォンさん。大成功じゃないですか」
 僕は「フォン」という名前を聞いて、金縛りにあったように固まった。
「そうだね。これ、失敗したらかなりきまずいことになるからね」
「経験あるんですか?」
 二人の会話は平然と続いていく。「フォン」と呼びかけられることに動じる様子もなく、誠士郎さんは微笑みで相手に応じる。やがてエキストラ仲間との談笑を終えた誠士郎さんはそのままこちらに向かって歩いてくる。隠れなくては、という思考が頭をよぎったが、行動に移す前に誠士郎さんの瞳が僕を捉える。
「あれ?岬くん?」
 身をすくめる僕に、誠士郎さんはやはりいつもと変わらない様子で声をかけてくる。
「え、あ、はい」
 僕が明らかに挙動不審な態度をとると彼はいぶかしげな顔をした。
「どうかした?」
「いえ、その、びっくりしちゃって。はじめてですよね、大学以外の場所で会うのって」
 回らない口とは対照的に、僕の頭はあわただしく回転していた。
 彼が「フォン」と呼ばれた場面を僕が目にしていたことに、彼は気づいているのだろうか。「フォン」とはコードネームだ。あの日、路地裏にいた男達の一人、つまりそれは彼がレイプ事件ひいては――これは可能性の話だが――殺人事件の犯人であることを意味する。あの日、僕は「フォン」と呼ばれた男を目撃したか? いや、僕は犯人の彼らがそう呼ぶ人間がいたという情報しかもっていない。誠士郎さんが「フォン」だという確証は得ようもない……本人に確認を取るという以外の方法では。
 僕は危険な考えをすぐさま打ち消した。行動に移すにはあまりに条件が整っていない。とにかく今はこの場をやり過ごすのだ。
「そうだね。僕は大学の周りをうろちょろしていることが多いから顔を合わせていてもおかしくないんだけど。それよりどうかしたかい? 顔色が悪いよ」
「いえ、その、ちょっと風邪気味で」
 言い訳してから後悔した。風邪を引いているのなら、こうして外出していることが不自然になる。
「ふーん、そう。大丈夫? 体調悪いなら今日は早めに寝なよ」
 誠士郎さんは疑うような素振りは見せない。代わりに心配そうに僕を観察している。僕にはどうしてもこの人が凄惨な事件を起こした張本人だとは思えなかった。しかし、人は見かけによらぬものだ。人の心の内なんてどれだけ頑張ったってわかりはしない、僕はそのことをよく知っていた。
「誠士郎さんはなにをしていたんですか?」
 さりげなく探りを入れる。不自然な質問にはなっていないはずだ。
「ああ、今の見てたかい? 説明するとややこしいんだけど、ちょっとしたボランティアだよ、人助け」
「他の人たちも皆誠士郎さんのお友達なんですか」
「お友達というか、有志の集まりってところかな」
 それはどういう集まりなんですか、という言葉を飲み込む。これ以上踏み込めば、意図せず蛇を出してしまうかもしれない。
「そういう岬くんはなにしに出かけるんだい? 風邪だって言うのに」
 口調に皮肉めいた色は見られないが、僕は答えに窮してしまう。しばらくの逡巡の後、言葉を選んだ。
「風邪薬を買いに行くんです。丁度切らしていたので」
「へぇ、そりゃ大変だ。一人で平気かい?」
「ええ、症状は重くありませんから」
 なるべく性急に話して、誠士郎さんと別れた。


 そのあと、ゲームセンターで一日中粘ったものの、結局成果を上げることはできなかった。推理する材料もなく、ただ手がかりを受け身で待つというのは退屈なものだ。誠士郎さんからもう少し手がかりを引き出しておけばよかった。丸一日を徒労に費やして、日が落ちるのを見届けてから、僕は後悔した。


****


 街で起きた強姦事件にK大学の生徒が巻き込まれたらしいという噂を耳にしたのは、それから数日後のことだった。
 連日ワイドショーをにぎわす複数の事件はもはや住民に不気味さや不安を与えるにとどまらず、事件に巻き込まれないための現実的な対応を強いるようになっていた。
 強姦事件に巻き込まれたK大学の女生徒と聞いて、僕の脳裏に真っ先によぎったのは妙子さんのことだった。彼女は利口な人間だからそうそう事件に巻き込まれるようなこともないだろうけれど。どうしても引っかかりを拭えない僕は大学中をまわって彼女を捜した。はじめて大学を訪れたときはその広さに感動をおぼえていたけれど、いざ歩き回ると無駄に大きいというのは不便だ。以前ならばサークル棟で待機していれば週に一度くらいは顔を合わせることができたのだけれど、祐司さんとの喧嘩以来、妙子さんはご無沙汰となってしまった。
 休憩を挟みながら半日もかけてついに見つけた妙子さんの後ろ姿は学生課の受付にあった。職員に書類を渡して事務手続きをしているみたいだ。僕は入り口の外で彼女を待つ。
 十分ほどすると、なぜか晴れやかな顔をして、彼女が自動ドアから出てくる。
「妙子さん」
 僕が呼びかけるとこちらに気いた。
「岬じゃない。どうしたの、久しぶりね」
 言って近づいてくる妙子さんの声はやはり明るくて、どうやら機嫌が良さそうなのは気のせいではないらしい。祐司さんの方はあれから死人のようだというのに。おもしろい対比だ。
「ここで待ってたの? 何の用事?」
「ええ、実は――」
 いいかけて思い直す。本来の目的は彼女の無事の確認だったのだが、こうして大学に顔を出しているなら、事件に巻き込まれたということはないだろう。ならば、すでに用は済んだ。それよりも僕は、久しぶりにあった彼女と話がしたかった。
「ただちょっと妙子さんの顔が見たくなったので」
 口に出してから、気障ったらしい台詞だと自覚する。
「なにそれ」
 小馬鹿にしたように返す彼女に僕は言い訳せずにいられなかった。
「だって妙子さん、ここのところずっとサークル棟に顔を見せないじゃないですか」
「ああ、そうね」
「そうねって……」
「色々思うところがあったのよ、私、祐司と別れたの、知ってる?」
「なんとなく察してはいましたけど」
 あの喧嘩で彼女は正式に別れたと考えているのだろうか、それともそのあとにまた話し合いがあったのか。
「私いままで、自分が女だってことに甘えてたと思うのよ」
 妙子さんは突然思いもよらぬ告白をした。
「なんですか急に」
「急じゃないわよ、前にしたでしょ、昔サッカーやってたって話、そのあと化粧とかを覚えたって」
「はい」
「私、きっとそのときから卑屈になってたのよ。自分が頑張ったってどうせ認められないからって、彼氏作って、友達に自慢して、私はいい男捕まえられる女なのよって見せびらかして。でもそれって不健全じゃない?」
「そう、かもしれませんね」
「別に恋人を作ることが悪いっていうわけじゃないのよ。ただ人に依存して、自分を見誤るようなやり方はそのうちしっぺ返しが来るから。私にはまだ正しい恋愛ができるだけの人間ができてなかったのよ」
「祐司さんのことは、好きじゃないんですか?」
 それは僕の単純な疑問だった。はじめは見栄や利己的な目的のために付き合っていたのだとしても、恋人として長い時間を過ごせば情の一つでも湧いてくるのではないか。そうなるのが、人情というものじゃないか。
「好き、好きかあ。どうだったんだろ、あの人のことは、そうだな、子どもみたいだなって思ってた。基本的に自信家で、物事が自分の思い通りにいかないとだだをこねるの。感情の起伏が激しくて自分勝手なくせに、人に影響されやすいのよね。ほら、子どもみたいでしょ」
 妙子さんの分析はさすがに長く一緒にいるだけあって、的を射ている気がした。けれど彼女の言葉は親愛の情と言うよりも、もう少し突き放した、興味とか、悪く言えば軽蔑も含んだような言い方だった。彼女にとって、祐司さんは最後まで他人だったのだろう。
「それでね、私、休学するのよ」
「え」
 話はまたも跳躍した。今日は彼女には驚かされてばかりだ。
「一年大学を休んで、知り合いの会社に行くことにしたわ。それを将来の仕事にするかはまだわからないけど、今は心が惹かれたことは全部やってみたいの」
「それじゃあもうサークルには来ないんですね」
「ええ、そのつもり。ごめんね、岬は入ったばかりなのに」
「そんな、謝ることじゃありません」
 言いながらも、僕は妙子さんの突飛な行動に裏切られたという気持ちを感じていた。でも、僕の身勝手をあざ笑うかのように彼女は背を向ける。
「それじゃあ、私行くわね。岬も、頑張りなさいよ」
 そういって、彼女は歩いていった。僕が彼女を見た、それが最後だった。


****


「どうして最近顔を出さないのさ」
 妙子さんが正式にサークルを脱退してから皆が集まる機会はますます減って、ほとんど自然消滅みたいな状態に陥っていた。僕は、ここのところ参加する頻度が極端に少なくなった三石くんに高校で文句を言った。
「だってつまらないじゃないか。雰囲気悪くなっただろあそこ」
 三石くんは臆面もなく言い放つ。僕の方がおかしいみたいな顔をするから、愚痴の一つも言いたくなる。
「人を無理矢理誘っておいて自分だけ一抜けはないんじゃない?」
「別に岬が参加することを強制なんかしていないだろ。面倒ならさぼれよ」
 突き放すような言葉に僕はつい反抗したくなるが、彼の言い分にも一理ある。サークル部屋は行っても誰もいないことの方が多いし、いたとしても以前のように楽しく雑談するには気を使うことが多すぎる。すき好んであそこに行くほうが変なのかもしれない。
「それよりもさ」三石くんは輝く瞳で僕に語りかける。「今、高校の奴らとペンションに泊まりにいこうって話があるんだけどお前もどうだ?」
 三石くんはまた、僕の都合などお構いなしに思いつきを言う。相変わらず唯我独尊といった感じだ。とてもじゃないけれどついていけない。彼は自由すぎるんだ。
「綾子ちゃんも来るぞ」
 三石くんはなおもくじけない。しかし今回ばかりは彼に流されるばかりではいられないと思う。彼にとって遊覧会は一時の退屈しのぎに過ぎないのかもしれないが、僕にとってはもう、あそこは唯一の居場所なのだ。このまま自然消滅にはさせたくない。それにしても、
「どうしてそこで藤崎さんが出てくるのさ。いったい何の根拠があるのかわからないけど、彼女の名前を出せば僕が乗り気になるなんて大間違いだよ」
「なんだ、そうなのか。でも中学の頃は仲がよかったじゃないかお前達」
「藤崎さんが誰にでも親切なだけだよ。他の人たちの僕への当たりがきつすぎたんだ。向こうから友好の意志を見せてもらえば僕だって最低限、友人としての振る舞いくらいはできるさ」
「ふーん、まあ、そうかもな」
 三石くんはやっと納得したみたいで僕は安堵する。けれど直後に彼がこぼした一言が、僕を動揺の底に突き落とした。
「そういえば知ってるか? 綾子ちゃん、大村と付き合い始めたんだって」
「え?」
 僕は思わず聞き返す。
「だから、綾子ちゃんが大村と付き合ってるんだって」
 もう一度頭の中で三石くんの言葉を繰り返して、やっと意味を理解する。
 そんなはずはない。なぜだかすぐに事実を否定する言葉が浮かんでくる。その後になって、根拠を探した。藤崎さんと大村くんが付き合っている。それは僕の想定の中にずいぶん前からあったものだ。中学時代、藤崎さんと仲がよかった頃から、彼女が大村くんと知り合いだということは知っていたし、親しげに話しているところも何度か目にした。だからなにも衝撃を受けるようなことはないのだけれど、はじめに浮かんだ言葉の通り、否定する材料もないではない。
 だって彼女はついこの前、僕に付き合ってくれと懇願したのだ。これはつまり愛の告白で、その熱も冷めやらぬうちに別の人間と付き合い始めるというのは些か真心に欠ける行動ではあるまいか。彼女の言葉が上面だけのものであると自ら看破した事実すら忘れて、僕は彼女の不義理に頭を捻った。
「おい岬、大丈夫か。固まってるぞ」
「え、ああ、うん、大丈夫だよ」
 僕は自分に言い聞かせるように、精神の無事を伝える。
 その後三石くんは、やっぱり僕が藤崎さんのことを気にしていたんじゃないかとからかってきた。笑ってそれを誤魔かして、なんとか彼女の話題をかわしながら、僕は必死に自分に言い聞かせた。
 どうってことはない。元々彼女の誠実さに期待などしていないし、僕自身も以前とは違っている。まだまだ社交的とは言えないまでも、今はクラスの皆ともそれなりに仲良くしているし、大学の先輩達とも友達なんだ。藤崎さんが僕の心に占める割合なんて、いまや取るに足りないものだ。僕は大丈夫だ。
 弁明を重ねるたびに、それを欺瞞だと批判する存在が大きくなるのを、僕は努めて無視していた。
 けれど教室の中で対角線に位置する藤崎さんの後ろ姿を見つけて、僕は嘘がつけなくなった。極めて単純で、度し難い現実に突き当たる。
 彼女に告白をされたあの日、告白は断らざるを得なかったけれど、僕は彼女のことが好きだったのだ。
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