見渡す限り、赤い。
一歩踏み出すとぴちゃりと足元が鳴った。
これは流された血だ。そう悟った。
この戦争の犠牲はあまりにも多い。この世界はその数だけ広がりをみせているのだろう。
そしてきっと、と彼は自分の胸に手を当てた。この身体に流れる血もいつかはこの空間の一部になるのだろう。
もう一歩、脚を前に出す。
限りなく、赤い。
人もエルフも、獣人も鳥人も、流れている血は赤いのだ。ここでは皆、混じりあって1つだ。流れた血に貴賤はない。
それならば、と思う。
行きつく先が一緒なら、何を争う必要があるだろう。逝く時には全てを置いていかねばならない。名前も経験も、地位も名誉も、種族さえも。
意味はないのだ。何もかも。
ゆっくりと彼は腰を下ろし、そのまま仰向けに倒れてみた。
生暖かい液体がぬるりと肌にまとわりつく。不思議と不快感はなかった。
このまま誰でもなくなってしまえないだろうか。人はそれを安寧と呼ぶのだ、きっと。
ゆっくりと、目を閉じた。
「――」
冷たい風が頬を撫で、メゼツはのろのろと覚醒した。
夢だったらしい。だが、やけに心地の良い夢だった。
野営用のテントの色は鬱屈とした緑色で、眠気を覚ますには足りない。
深く息を吐きながら起き上がる。昨日は返り血を拭いてそのまま眠ってしまったらしく、上半身は裸のままだった。左胸に魔紋がある。彼は小さく舌打ちをした。夢の後で早速気分が悪い。
形ばかりに軍服を羽織り、メゼツは外に出た。得物も忘れない。
清浄な空気が身体を清めてくれるようだ。気づかなかったが、あのテントの中は血の匂いで充満していたらしい。なにせ精霊国家の森の中だ。祖国の大地とは違って生命力に満ちている。
ぱちぱちと焚き木が音を立てて燃えている。東の空が白み始めている。じきに火はいらなくなる。そうしたら、戯れにくべられたアルフヘイム兵の骨も焚き木と共に足で踏まれるのだろう。
火の番をしていた兵士は近づいてきた影が誰であるかを認め、慌てて敬礼をした。
「小隊長殿!…お休みになっていた筈では?」
「――目が覚めた。それだけだ」
つまらなそうにそう答えた。それが兵士を委縮させたらしい。
「もっ、申し訳ありません……」
「何を謝る必要がある」
自分よりも年嵩の兵士を見やる。もし自分に兄がいたらこれくらいの年だっただろうか。
兵はしりすぼみにぼそぼそと口を動かしつつも、メゼツの前から退く気配がない。何かしらの逡巡が見て取れる。
見飽きた仕草だ。メゼツは口角をあげてみせた。
「何だ、何か言いたいことがあるのか?」
兵士はびくりと肩を震わせた。そうして半ば諦めたように口を開く。
「その、小隊長におかれましては…夜一人で出歩くのを控えていただけたらと…」
メゼツは胡乱気に首を傾けた。
「危険だからか?」
目の前で彼はがくがくと首を縦に振った。よく見れば視線は自分の持つ大剣に注がれているとメゼツは気づいた。
「その通りです。もし小隊長に何かがあったら…」
「その時は俺の代わりがこの隊を率いることになるだけだ」
そして自分の血もあの赤に混じるのだ。作り笑いが漸う仄かな笑みに変わる。
兵士は必死に言い募る。
「しかし!小隊長は総司令の大切なご子息です!その身にもし何かあれば総司令の心痛たるや…!」
メゼツは兵士を手で制した。そうだな、死は残された者には意味をなすのだ。
息を飲む彼に凄絶に笑って見せる。
「大丈夫だ。もし俺に何かあってもお前たちに処罰はくださないよう親父殿には頼んである」
目の前の男が動揺したのが分かった。正直な奴だ、と内心呟く。
「それは…」
なおも何かを言おうとする彼の肩を叩き、メゼツは歩き出した。これ以上話す気にはならない。
小隊長、総司令のご子息。先ほどの言葉が頭の中で浮かんでは消える。
ここでは血に貴賤がある。あの夢とは違う。
自分は甲皇国の権力者の息子で、前衛基地を任された隊長なのだ。
自分には望まずともその血が流れているのだ。それを背負い続けるのは難しい。
無意識に右頬に手がいく。そこには戦闘能力をあげるための魔紋が刻まれている。
これは血のために必要なものだ。そう期待されているのだから。
だが、期待されているのは果たして誰なのだろう。
総司令の息子だろうか。小隊長だろうか。優秀な兄だろうか。
それならば、自分は自分でなくともいいではないか。
誰もが血に名前をつけて、それを尊ぶ。流されてしまえば誰のものかもわからぬものにだ。
遠い昔。メゼツの胸がきりりと痛む。遠い昔にはいてくださったのだ。
自分の名を呼んで愛してくれた方が、確かにいてくれたのだ。
だが、いつまでも幼少の夢に身を預けていられない。今のメゼツにあるのは赤色の夢だけだ。
血の匂いが鼻を掠めた。
テントから離れた場所に捕虜を捕えた檻があった。
その周りは緑色の木々とは対照的にどす黒い赤色の染みが散乱している。
近くには死体の山があった。
殺す必要はない。だが殺した。理由など知る由もない。
森に集落をつくっていた所謂民間人なのだ。責苦をもって敵の情報を得られることはなかっただろうに。
悼む権利はないだろう。自分も殺した。
だが、あの山の中に自分がいても問題ないように思われた。誰も気づかずに焼き払ってくれることだろう。
泣き声がする。こちらに関しては潔白だ、と檻の中の女たちを見やる。
慰み者にされた彼女たちは、きっともうこの国の土を踏むことはない。この後商業国家に売り払われてしまうのだろうから。
一見すれば人間と見た目はまったく変わらないエルフたちは傷だらけの身体を守るように丸まっている。
みればまだ年端もいかない子供もいる。頬には涙のあとが見てとれた。きっとその涙は、妹が流したものと同じ色をしているはずだ。
ふいにメゼツは大剣に自分の腕をあて、剣を引いてみた。
うっすらと浅い傷ができ血が滲んだ。
足元に飛び散った血とやはり違いはないように見えた。今は赤い鮮血でも時間が経てばこれくらい黒ずむだろう。
森の奥へと足をのばしてみた。東の空はだいぶ明るくなっている。今日もあの世界は広くなるのだろう。
その中に、自分は、とメゼツは空を仰ぎ見た。
今でも母の名を、声を、顔を、仕草を、想いを、覚えている。
あの赤色に包まれる日が来るとして。全てを現世に置いて逝かなければならないとして。
忘れ物を拾ってくれる人はいるだろうか。
メゼツという、血ではなくこの身体に込められた祈りを誰かが救ってくれるのだろうか。
それともそれは、この戦争に勝てば誰もが認めてくれるのものなのだろうか。
静寂に満ちた森の中、彼は肯定も否定も得ることが出来なかった。