「むかしな、人魚をエビフライにして食べたことがあってな」
たった一回りしか違わない海洋博士は、顎に手を当て目をつむり、感慨深そうにそう言った。
「せんせい、それは人魚なのですかエビなのですか」
「そう呆れた顔をするでない」
せんせいは赤い容器の弁当箱からエビフライを箸でつかみ僕に見せるように持ち上げた。
「人魚はな、知ってる通り、上半身はヒトで下半身は魚じゃ。
食べた部分は魚である下半身のみでの。
まず胴体を真っ二つにし、中の臓器を綺麗に抜き取り、驚くことに背骨がの、」
「せんせい、そういった話題は出来れば食事中は避けてもらえませんか」
せんせいは嘘じゃ嘘じゃと笑い、エビフライを口に放り込んだ。
「そうじゃの、ちょうど君くらいの年頃のとき、
エビフライくらいの形、大きさで油で揚げられた人魚の肉を食らう機会があっての」
「人魚はそんなに小さいのですか?」
僕は小さな人魚がたくさん泳いでいるアクアブルーの海を思い浮かべた。
「きっとそれは調理師が食べやすいように工夫したのだろうな、
飾り付けにウロコがあった」
「人魚の・・・ウロコですか」
「しかし肝心の味が思い出せなくての」
「せんせい、それは夢で見られたことではないのですか?本当に食べたのですか?」
「食らったのならば旨いまずいは覚えているはずなのだが不思議なものでの。」
食感は覚えている、脂身の少なくパサパサいやギシギシとしたとした口当たりで、咀嚼が疲れる密さであった」
「そう怪訝そうな顔をするでない」
僕もせんせいも、すっかり昼食の箸を止めていた。
「証拠がある」
「その証拠とは」
「人魚の上半身を見た」
せんせいはまたしても目をつむり、語り始めた。
「それは君より5つばかりか年下で、
陸で生活している者には見られない、つややかで美しい髪を持ち、体は引き締まっておるが反して胸は豊かで、
顔の様子はというと、唇は少し青く、肌は白く頬の紅潮は見られなかった、残念ながらまぶたが閉じてあって眼の色は確認できなかった」
「人魚という者の美しささることながら、陸に引き上げられても干からびたりはしないものなのだなと感心したもんだ」
僕は干からびてミイラになった上半身の人魚を思い描こうとしたがうまくできなかった。
「そうあっけにとられるでない」
「仲間たちは、その美しさに惚れ、喜び、人魚の肉の味よりもその上半身を弄ぶのに熱中したようだ」
「人魚の上半身を?」
「君は純粋でよいな」
せんせいはやわらかに笑った。
「内蔵や上半身はその後どうなったのかは知れん。
人魚の味も思い出せん。
しかし私は人魚に出会い、肉を食らったのだ」
せんせいは口元を緩ませ、とても満足そうな顔をしていた
「・・・僕はまだ、せんせいが人魚を食べたと信じきれません」
「そうじゃろうな」
せんせいは少し残念そうに目を伏せた。
「しかし私は人魚を食らったせいだろうか、人魚に呪われておる」
「呪い?ですか?」
人魚といい呪いといい、今日の先生はとてもファンタジックで、僕のほうこそ夢を見ているのではないかと錯覚し始めた。
すると、せんせいは突然白衣と黒のインナーの袖を一気にまくり上げ、奇妙なまでに白い腕を見せてきた。
「ほれ、これが呪いじゃ」
かんらかんらと笑うせんせいの腕はびっしりとウロコで覆われていた。
「せんせい、これは・・・」
「わからん。どうにも私の体の中で人魚が暴れたのか、爪のように伸びて来、ここまで異形にしてしまった。」
その腕に見とれている僕にせんせいは言った。
「私はこれからどうなるのかわからない」
「もしかするとこのまま全身にうろこが生え、終には魚のようになるかもしれん」
「半魚人じゃ半魚人」
「そう冷めた目をするでない」
「そこで君に頼みがある」
「君の判断でよい、私が魚類に分類されるべきと思われた時、私の肉を食らってくれ」
「そう難しそうな顔するでないよ」
「あふたーさーびすはないがの」
「なかなか興味深いものではないか?」
「人魚を食らった者の血肉じゃ」
「どれ、興味深かろう?」
せんせいが本当に人魚をフライにして食べたのかはわからない。
せんせいがこの先どうなるかもわからない。
けれどせんせいは本気だ。
本気で僕に自らの異形の部位を食べさせるつもりだ。
それはせんせいなりの僕への愛情なのかもしれない。
そしてそれを受け入れることが、僕なりのせんせいへの敬愛なのだろうか。
かんらかんらと笑い続けるせんせい。
黒のインナーと白衣に隠れてしまったウロコだらけの腕。
その手首には一部のうろこが剥がされるように歯型があった。
あれはせんせいが自身のその肉を食べようとしたのだろうか。
せんせいはどんな味がするのだろうか
それは人魚の味だろうか
人の味だろうか
そして僕はせんせい食す日が来て、
その味を覚えていられるだろうか
奇しくも、僕の今日の昼食は、白身魚のフライ弁当だった。
人魚
「お前の血、何色だよ」
漫画かなにかで覚えたのであろうセリフでからかわれたとき、雪柳氷(ゆきやなぎ・ひょう)もまだ小学生だった。
「ぼくの血は、なに色なのだろう?」そんな疑問が、氷の右手をカッターナイフへと動かす。
「きっと赤だ。前に鼻血を出したとき、ぼくの血の色は、赤だった」。刃先を左手首に当てる。
さっきまで囃し立てていた同級生の顔から一気に血の気が引く。
氷は一度顔を上げ真っ青な顔色の同級生と目を合わせてから、また視線を左手首へ戻す。そしてカッターナイフを握る右手をゆっくりそのまま右へ引いた。
夕日が差し込みオレンジ色に染まった放課後の教室。
静まり返った教室で氷はずっと見ていた。同級生の顔色よりも、ずっとずっと暗く冷めた、青い血が流れる、自分の左手首を。
アクマジンとは、今から約15年前の小学生のあいだで大流行した漫画「ヴァルキリーナイト」に出てくる架空のキャラクターである。
主人公の両親のカタキであり、悪の組織を牛耳る地獄生まれの魔神。牛のような角、狼のような牙、大きくつり上がった目、長く尖った爪、カラスのような黒い羽を持つ。
「ヴァルキリーナイト」アニメ版第52話などで、体の中を流れる血が青いことを確認出来る。
アクマジンの最期は、主人公の必殺技「リヒトスラッシュ」を喰らい戦闘不能になったところを、物語後半の敵「サギィル」にパワーを利用される形で体ごとすべて吸収されてしまう。
また、アクマジンとは、雪柳氷の小学生時代のアダ名である。
「ほんとうに、アクマジンみたいに強かったらいいのに。みんな、こっぱみじんにしてやるのに。」
氷はだんだんと神経質になっていった。当時の嫌いな教科は図画工作と体育。なぜならその2つがとりわけ怪我をする確率が高いからだ。
プリントを後ろの席へ回すだけでも、とてつもない集中力を使う。小指の先を少し切っただけで氷は青ざめてしまいパニックに陥った。絆創膏に紺色のシミがつく。
打撲痕は誰でも青い。傷口とカサブタが青いのは氷だけ。誰にも血を見せないように必死な毎日。
怪我をすると、またアクマジンとからかわれる。先生からも奇異の目で見られる。
「みんなをこっぱみじんにしていったら、そのなかに1人くらいは、ぼくと同じように、青い血のひとがいるかもしれない。」
週末は病院巡り。両親に連れられ、あちこちの病院で、体のあちこちを徹底的に調べた。
けれども結果はすべて同じ、異常なし。異常なし。異常なし。どこも悪いところはない。原因がなにかもわからない。血液型もO型で間違いない。
「どうしてぼくだけがちがうのだろう。どうして、血が、青いのだろう。」
若い女の担任教師による「アクマジン禁止令」が教室に出されるようになったころから、氷の主食は野菜ジュースになる。
特に赤い色の野菜ジュースやトマトジュースを水の変わりに飲むようにした。
血のように赤い色の飲み物を毎日摂取しているといずれ自分の血も赤くなるのではないか。そんな淡い希望にすがることしか、まだ幼い氷には出来ることはない。
週末の病院巡りは終わったが、今度は大量の野菜ジュースを購入する生活。氷を見つめる両親の視線に、かつてのように愛情が含まれることはなくなった。
両親さえも、我が子のことを、人間ではないのではと疑い始めたのだ。
教室を飛び交う同級生の笑い声から「アクマジン」という単語はなくなっても、氷の血は青いまま、変わることはなかった。
「家庭科」というライバルに勝てなかった氷は、部屋に引きこもることを選んだ。
縫い針、ミシン、包丁。何一つにだって、勝てない。怖い。怪我をしてしまう。
家庭科室で怪我をしたとき、氷は「菌」になっていた。
「うわっ、きたねーっ、伝染るぞ、逃げろ、逃げろ、気持ち悪いな、なんだあいつ」
同級生は氷を囲い込み煽り立てる。しかし誰も氷のすぐそばまで近寄らない。遠くから、あざ笑う。
氷はとっさに血が流れる左手の人指し指を、口に含む。鉄の味だ。血の味がする。
保健室に逃げ込んだ氷はそのまま早退し、もう二度と学校には行かないと心に決めた。
「どうして血が青いんだろう?」
そんな疑問が氷の頭のなかのあちこちに流れる。
「どうして僕だけが青いんだろう?」
毎日思考を巡らせたって、なにもわからない。
「本当に僕だけの血が青い?」
右手に万能包丁を握り、寝静まった両親とまだ幼い妹を見つめる氷の視線は、暗く冷めている。
「本当に?」
倫理観は木っ端微塵に。
悪意は一切含まれていない、純真な、一刺し。
中学生になった氷は、両親に捨てられ、生活の場所を施設へと移した。
氷は自身のの抱える疑問のうち、一つだけ答えが出すことが出来た。
「僕以外の家族みんなの血の色は、ちゃんと赤だった。」