ウッド編
集団の中にいた。
オリーブの街を出発してから、六日が経っていた。
起伏が大きい道が続いた。国境に近づくと、ずっと見えていた大山の周りに多くの小さい山々があるのが分かった。大山だけが異様に大きい。
国境に向かう道のはずだが、人通りが少なくないのが意外だった。
大きな荷物を抱えている者や、荷車を引いている者、剣をぶら下げて、そういう人たちの周りでいる者などがいた。
ほとんどが商人と、その護衛らしい。
自然と集団ができてきて、そういう中で同道することになっていた。
当然というか、セピアと自分は、珍しそうな目で見られていた。
「まあ、国境を通るなら、ここが一番いいですよ。ルモグラフ将軍は、検査は厳しいですが、賄賂を要求したりしませんからね」
「他の所は、それだけで儲けが飛んじまうからなあ」
「まあ、関所の人間と結託したい商人なら、ここには来れませんな」
「なるほど」
ボルドーは、商人達と話している。
シエラは、人が何故多いのかと、セピアに話してみた。
「冬になると、この一体は雪に閉ざされる。そうなると、国境を越えるのが難しくなるからね。今の内に国境を移動して、できることをやっておこうっていうのが商人の考えみたいだ」
「できること?」
「詳しくは知らないんだ。買い付けとかかな」
それから、数時間進んだ後、一団の中から声が挙がった。
「見えてきた見えてきた」
シエラは、前方に目を凝らす。
小さい山々の間に、建物らしきものがあるのが見えた。さらに先の方、高い所にも、小さく人工物らしきものが見える。
「手前がウッドで、奥が山城と呼ばれる所だ」
セピアが言った。
日が落ちたものの、あと少しでウッドに着くということで、一団はそのまま進んだ。
「夜になると、関所は通過できませんけど、そういう人達の為に、軽く宿泊できる所があるのですよ」
「まあ雑魚寝ですが、野宿よりはいいでしょう」
商人達が話していた。
さらに小一時間歩き、ようやくウッドにたどり着いた。
遠くから見ていて想像していたよりも、巨大な建物だった。
暗くて、全体までは分からないが、石造りだろう。篝火が、至る所で灯っている。入り口らしい所は、門形に石を組み立てたのか、綺麗な半円だった。これも大きく、扉はなかった。その前に三人、兵士が直立しているのが見える。
もし扉をつけるなら、開閉が大変だろうと、何気なく思った。
一団が近づいていくと、さらに中から、五人ほど兵士が出てくる。
一団の先頭から順に、兵士に話していた。終わった者から、門の中に入っていってくようだ。
兵達は、きびきびと動いていた。少し、フーカーズの軍を思い出した。
「門兵に、何て言いましょうか?」
ペイルが、ボルドーに聞く。
「見学に来た、では駄目だろうか?」
「ええっ! そりゃ、駄目ですよ! すげえ怪しいじゃないですか」
「そうか」
ボルドーは、軽く笑みを浮かべていた。
「多分、大丈夫です。このまま行きましょう」
静かな声で、セピアが言った。
「なんで、お前がそんなこと分かるんだよ?」
「来たことがあるので」
「本当か?」
列の前にいた商人が、中に入っていった。ペイルが、前に進むのに躊躇していたが、セピアが躊躇わずに進んでいった。
「カーマインさんを訪ねてきたのですが」
セピアが、門兵の一人に言った。
「カーマイン? カーマイン副将か?」
「ええ、そうです。セピアが来たと言って貰えば、分かると思うのですが……」
「分かった。では、中で待っていてくれ」
門の中に入ると、石造りの通路が少し続いていた。
それを抜けると、視界が広がった。
まず、夜空が見えた。星が見えるが、前方の空は見えない。おそらく、山で隠されているのだろう。
通ってきた道は、そのまま真っ直ぐ続いている。先にある、大きな建物に続いていた。両側は、遠くに壁があるように見える。おそらく城壁というものだろう。その近くにも、大きな建物が、それぞれ一つずつあった。小さい建物は、大きな建物の周りに点々とある。
商人達は、疲れた様子で、右手にある建物に向かっていた。
「ここの副将と知り合いなのか?」
「ええ、まあ」
「本当に?」
ペイルは、ずっと同じ調子だった。心配そうに、ボルドーを見る。
「まあ、セピアに任せてみよう」
ボルドーは、腕を組んで言った。
程なくして、正面の道から、誰かが早足で歩いてくる。
顔が識別できるほど近づくと、その男は驚いたように、目と口を開いた。
歳は三十ぐらいだろうか。頭の両側の毛が短く、頭頂は癖のある毛で栗色だ。彫りの深い顔立ちで、他の兵とは服装が違った。おそらく、位が上なのだろう。
「これは……いや……本当にお懐かしゅうございます。見違えるほどに、ご立派になられた」
男が感慨深げに言うと、セピアが男に近づいた。
「お久しぶりです、カーマインさん。いろいろ、御心配をかけてしまってすみませんでした」
「いえいえいえいえ」
カーマインと言われた男は、両手を顔の横に上げて、顔を左右に振った。
「副将になられたのですね」
「はっ、いや、お陰様で。私のような若輩者ですが、将軍に取り立てていただいて」
「そんな、謙虚すぎますよ。昔から実力はあったのですから」
「は、いや、恐縮です」
言って、カーマインは姿勢を正した。
「その、将軍ですが、今は生憎山城の方に視察に行っておりまして、戻ってくるのは明日になりますが」
「ええ、待たせて貰ってもいいですか?」
「それは、勿論ですよ。本塔の客間に御案内しましょう」
「こちらの三人も一緒なのですが?」
「ええと、この方々は?」
「私の恩人です」
セピアが、静かな声のまま言った。
「ほう」
カーマインは、一端言葉を切り、三人を見る。
「セピア様の御恩人とあらば、勿論、招待したいのも山々ですが、何分ここは軍事の要塞。将軍の許可なく部外者を本塔に入れるわけには……」
「我々は、商人達と同じ所でも構わんぞ」
ボルドーが言う。
「でしたら、私もそちらに行きます」
セピアが言った。
「えっ?」
「やはり、この城塞の責任者の許可を得ずに本塔に入るのは不味いでしょう」
「いえ、しかしセピア様は……」
「私は、あくまで来訪者なので。少なくとも、今は」
セピアが言うと、カーマインは少し頭を下げた。
「……分かりました」
四人は、カーマインに案内されて、正面右側にあった建物に入った。一階は、先に入った商人達でごった返していた。
それらを横目で見ながら、シエラ達は、入り口にすぐ脇にあった階段を上がり、二階に入った。ここには、商人達は入れないようだ。
二階には、いくつか部屋があるようで、通路を挟んで扉がいくつかある。
「宿泊用の部屋ではないのですが、下よりはいいと思います。どの部屋をお使いになっても結構です。後で、簡易の寝台を用意させます。何か申しつけがありましたら、すぐにお呼び下さい。あ、何名か世話人をつけましょうか?」
セピアが少し苦笑する。
「カーマインさん」
「は、申し訳ありません。ついつい昔の癖が……」
それでは、と言ってカーマインは出て行った。
全員がセピアに注目する。
「お前、一体何者だよ?」
ペイルが、恐る恐るという風に口を開いた。
「すみません。秘密にするつもりはなかったのですが……」
言葉を区切る。
「ここの責任者というのは、私の父親なのです」
「ルモグラフ将軍の娘だったのか……」
セピアが頷いた。
ペイルは目を丸くしている。ボルドーは、平然な顔をしていた。
「なんで、ルモグラフ将軍の娘が、ローズにいたんだ? ってか、なんで旅人紛いなことしてたんだよ? あ、いや、してたのですか」
「口調は変えないでほしい。権威があるのは、あくまでも父であって、私ではないのだから」
そう言って、一つ間を置く。
「旅の目的は父に会いに来るため。ローズにいたのは、その……母上の故郷だからだ。昔、母上に付き添って、私もローズに住むことになったので」
「ふうん。えっと、じゃあ、あの街に、お前のかあちゃんがいたのか」
「……ええ、まあ」
セピアが、少し顔を横に向ける。
それから、首を横に振った。
「いや……みんなには聞いておいてもらった方がいいのかな」
そう言うと、目線を真っ直ぐ向けてくる。
「少し話をしてもいいですか?」
オリーブの街を出発してから、六日が経っていた。
起伏が大きい道が続いた。国境に近づくと、ずっと見えていた大山の周りに多くの小さい山々があるのが分かった。大山だけが異様に大きい。
国境に向かう道のはずだが、人通りが少なくないのが意外だった。
大きな荷物を抱えている者や、荷車を引いている者、剣をぶら下げて、そういう人たちの周りでいる者などがいた。
ほとんどが商人と、その護衛らしい。
自然と集団ができてきて、そういう中で同道することになっていた。
当然というか、セピアと自分は、珍しそうな目で見られていた。
「まあ、国境を通るなら、ここが一番いいですよ。ルモグラフ将軍は、検査は厳しいですが、賄賂を要求したりしませんからね」
「他の所は、それだけで儲けが飛んじまうからなあ」
「まあ、関所の人間と結託したい商人なら、ここには来れませんな」
「なるほど」
ボルドーは、商人達と話している。
シエラは、人が何故多いのかと、セピアに話してみた。
「冬になると、この一体は雪に閉ざされる。そうなると、国境を越えるのが難しくなるからね。今の内に国境を移動して、できることをやっておこうっていうのが商人の考えみたいだ」
「できること?」
「詳しくは知らないんだ。買い付けとかかな」
それから、数時間進んだ後、一団の中から声が挙がった。
「見えてきた見えてきた」
シエラは、前方に目を凝らす。
小さい山々の間に、建物らしきものがあるのが見えた。さらに先の方、高い所にも、小さく人工物らしきものが見える。
「手前がウッドで、奥が山城と呼ばれる所だ」
セピアが言った。
日が落ちたものの、あと少しでウッドに着くということで、一団はそのまま進んだ。
「夜になると、関所は通過できませんけど、そういう人達の為に、軽く宿泊できる所があるのですよ」
「まあ雑魚寝ですが、野宿よりはいいでしょう」
商人達が話していた。
さらに小一時間歩き、ようやくウッドにたどり着いた。
遠くから見ていて想像していたよりも、巨大な建物だった。
暗くて、全体までは分からないが、石造りだろう。篝火が、至る所で灯っている。入り口らしい所は、門形に石を組み立てたのか、綺麗な半円だった。これも大きく、扉はなかった。その前に三人、兵士が直立しているのが見える。
もし扉をつけるなら、開閉が大変だろうと、何気なく思った。
一団が近づいていくと、さらに中から、五人ほど兵士が出てくる。
一団の先頭から順に、兵士に話していた。終わった者から、門の中に入っていってくようだ。
兵達は、きびきびと動いていた。少し、フーカーズの軍を思い出した。
「門兵に、何て言いましょうか?」
ペイルが、ボルドーに聞く。
「見学に来た、では駄目だろうか?」
「ええっ! そりゃ、駄目ですよ! すげえ怪しいじゃないですか」
「そうか」
ボルドーは、軽く笑みを浮かべていた。
「多分、大丈夫です。このまま行きましょう」
静かな声で、セピアが言った。
「なんで、お前がそんなこと分かるんだよ?」
「来たことがあるので」
「本当か?」
列の前にいた商人が、中に入っていった。ペイルが、前に進むのに躊躇していたが、セピアが躊躇わずに進んでいった。
「カーマインさんを訪ねてきたのですが」
セピアが、門兵の一人に言った。
「カーマイン? カーマイン副将か?」
「ええ、そうです。セピアが来たと言って貰えば、分かると思うのですが……」
「分かった。では、中で待っていてくれ」
門の中に入ると、石造りの通路が少し続いていた。
それを抜けると、視界が広がった。
まず、夜空が見えた。星が見えるが、前方の空は見えない。おそらく、山で隠されているのだろう。
通ってきた道は、そのまま真っ直ぐ続いている。先にある、大きな建物に続いていた。両側は、遠くに壁があるように見える。おそらく城壁というものだろう。その近くにも、大きな建物が、それぞれ一つずつあった。小さい建物は、大きな建物の周りに点々とある。
商人達は、疲れた様子で、右手にある建物に向かっていた。
「ここの副将と知り合いなのか?」
「ええ、まあ」
「本当に?」
ペイルは、ずっと同じ調子だった。心配そうに、ボルドーを見る。
「まあ、セピアに任せてみよう」
ボルドーは、腕を組んで言った。
程なくして、正面の道から、誰かが早足で歩いてくる。
顔が識別できるほど近づくと、その男は驚いたように、目と口を開いた。
歳は三十ぐらいだろうか。頭の両側の毛が短く、頭頂は癖のある毛で栗色だ。彫りの深い顔立ちで、他の兵とは服装が違った。おそらく、位が上なのだろう。
「これは……いや……本当にお懐かしゅうございます。見違えるほどに、ご立派になられた」
男が感慨深げに言うと、セピアが男に近づいた。
「お久しぶりです、カーマインさん。いろいろ、御心配をかけてしまってすみませんでした」
「いえいえいえいえ」
カーマインと言われた男は、両手を顔の横に上げて、顔を左右に振った。
「副将になられたのですね」
「はっ、いや、お陰様で。私のような若輩者ですが、将軍に取り立てていただいて」
「そんな、謙虚すぎますよ。昔から実力はあったのですから」
「は、いや、恐縮です」
言って、カーマインは姿勢を正した。
「その、将軍ですが、今は生憎山城の方に視察に行っておりまして、戻ってくるのは明日になりますが」
「ええ、待たせて貰ってもいいですか?」
「それは、勿論ですよ。本塔の客間に御案内しましょう」
「こちらの三人も一緒なのですが?」
「ええと、この方々は?」
「私の恩人です」
セピアが、静かな声のまま言った。
「ほう」
カーマインは、一端言葉を切り、三人を見る。
「セピア様の御恩人とあらば、勿論、招待したいのも山々ですが、何分ここは軍事の要塞。将軍の許可なく部外者を本塔に入れるわけには……」
「我々は、商人達と同じ所でも構わんぞ」
ボルドーが言う。
「でしたら、私もそちらに行きます」
セピアが言った。
「えっ?」
「やはり、この城塞の責任者の許可を得ずに本塔に入るのは不味いでしょう」
「いえ、しかしセピア様は……」
「私は、あくまで来訪者なので。少なくとも、今は」
セピアが言うと、カーマインは少し頭を下げた。
「……分かりました」
四人は、カーマインに案内されて、正面右側にあった建物に入った。一階は、先に入った商人達でごった返していた。
それらを横目で見ながら、シエラ達は、入り口にすぐ脇にあった階段を上がり、二階に入った。ここには、商人達は入れないようだ。
二階には、いくつか部屋があるようで、通路を挟んで扉がいくつかある。
「宿泊用の部屋ではないのですが、下よりはいいと思います。どの部屋をお使いになっても結構です。後で、簡易の寝台を用意させます。何か申しつけがありましたら、すぐにお呼び下さい。あ、何名か世話人をつけましょうか?」
セピアが少し苦笑する。
「カーマインさん」
「は、申し訳ありません。ついつい昔の癖が……」
それでは、と言ってカーマインは出て行った。
全員がセピアに注目する。
「お前、一体何者だよ?」
ペイルが、恐る恐るという風に口を開いた。
「すみません。秘密にするつもりはなかったのですが……」
言葉を区切る。
「ここの責任者というのは、私の父親なのです」
「ルモグラフ将軍の娘だったのか……」
セピアが頷いた。
ペイルは目を丸くしている。ボルドーは、平然な顔をしていた。
「なんで、ルモグラフ将軍の娘が、ローズにいたんだ? ってか、なんで旅人紛いなことしてたんだよ? あ、いや、してたのですか」
「口調は変えないでほしい。権威があるのは、あくまでも父であって、私ではないのだから」
そう言って、一つ間を置く。
「旅の目的は父に会いに来るため。ローズにいたのは、その……母上の故郷だからだ。昔、母上に付き添って、私もローズに住むことになったので」
「ふうん。えっと、じゃあ、あの街に、お前のかあちゃんがいたのか」
「……ええ、まあ」
セピアが、少し顔を横に向ける。
それから、首を横に振った。
「いや……みんなには聞いておいてもらった方がいいのかな」
そう言うと、目線を真っ直ぐ向けてくる。
「少し話をしてもいいですか?」
山に雲が掛かっていた。
あの山の頂上に行くと、何があるのだろうと、シエラは思った。
翌日、商人達の大半は出発していった。
あっという間に、宿泊所の一階が閑散とした。
やることがなかったので、宿泊所の前で、シエラはペイルと立ち合いをしていた。
途中から、ボルドーも見ている。
セピアは、就寝は一緒だったが、朝早くどこかへ行っていた。
「大きい声じゃ言えませんけど、酷い親父さんだと思いますよ、俺は」
打ち合いながら、ペイルが言った。
「いくら将軍だからって、奥さんと娘をほったらかしにするなんて」
ボルドーは腕を組んで黙っている。
「六年前か……」
そう呟いた。
昨夜は、セピアから昔の話を聞いた。
父親からは、謝ってほしいわけでも、真意を聞きたいわけでも、迎えてほしいわけでもない、とセピアは言っていた。
ただ、会っておかなければならないと思ったらしい。
自分たちに、できることはないかと聞いたが、セピアは首を振った。
「これは私自身の問題だ。だけど、聞いてくれてありがとう。少しだけ、楽になった気がするよ」
そう言って、力なく笑っていた。
「私が、ここまで来れたのは皆さんのおかげです。本当にありがとうござざいます。その、ただ今の私には大した御礼もできませんので、いつか必ず」
「大袈裟な。同道だと言っただろう。つまり、お互い様だ。お前の為だけではない」
ボルドーが笑って言うと、セピアも少し微笑んだ。
「あの、これからどうされるのですか?」
「そうだな。国境に沿って東にでも向かおうかな」
「いつ出発なさるのですか?」
「まだ決めていない」
「では、明日は私がウッドを案内しましょう」
「いいのか? 勝手に歩き回って。軍事要塞だぜ?」
ペイルが言う。
「カーマインさんの許可はもらっています。ある程度なら構わないと」
「本当かよ。実は、興味があったんだよな」
そういう会話があった。
「あの、ボルドーさん」
「何だ?」
「出発は、セピアがどうなるか、見届けてからにしませんか……?」
ペイルが言うと、ボルドーがおもしろそうに、口角を上げた。
「なんだ、やはり気になるか」
「あ、いや、ええと……ほら、やっぱり結果が分からないと、気になって寝付きが悪くなるかもしれないじゃないですか」
「心配しなくとも、元より、見届けるつもりだ」
「あ、そうなんですか」
立ち会いが止まった。
セピアが、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
城壁に上って、四人は歩いていた。
昨日は分からなかったが、本塔と呼ばれている建物から、さらにずっと奥まで、城壁は続いていた。
上からみれば、おそらくだいたい正方形の形をした城壁があり、その真ん中に本塔があるようだ。
「そういえば、ボルドーさんって、ルモグラフ将軍と面識はあるんですか?」
ペイルが言った。
「面識というほどではないが、顔は見たことがある。随分昔の話だ」
「ボルドーさんほどの人なら、向こうは絶対知っているでしょう」
「どうかな」
「会ったりはしないんですか」
「必要でしたら、私からカーマインさんに話を通してもらいますが?」
先頭を歩いていたセピアが、振り向いて言う。
「ボルドー殿だと分かれば、断るようなことはないでしょう」
「いい、いい」
ボルドーが、手を前で振った。
やがて、城壁の一番北側に着いた。
細い道が、山の方に続いているのが見える。
しばらく辺りを見回していると、その道の先から、土煙が上がっているのが見えた。
やがて、騎馬の集団が見えてくる。三十騎ほどだろうか。
その集団が、下を通っていくのを見送った。
集団の、ほぼ真ん中に、赤っぽい髪の色をした、体格の大きな男がいた。軍装も特徴的だったので、あれがセピアの父親、ルモグラフ将軍なのだろう。
セピアを見ると、複雑そうな表情をしていた。
「何だ? 馬で山を登れるのか?」
ペイルが言う。
「途中までは、行けるのですよ。厩舎も小さいのが一つ山の麓にあって。そこからは、徒歩ですが」
「へえ」
その後、ウッドを一通り見て回り、再び宿泊所に戻った。
ボルドーは、もう少し見たい所があると言って、どこかへ行った。
セピアも、いつの間にかいない。
「なんか久しぶりに、ゆっくりできちまうな。思い詰めててもしょうがない。俺は昼寝でもしようかなあ」
欠伸しながら、ペイルが宿泊所に入っていった。
夕方になっても、セピアの姿が見えなかったので、気になってシエラは、探すことにした。
兵士達に、何度か呼び止められながら、歩き回っていると、西の城壁の上で外を向いて佇んでいるセピアの姿を見つけた。
ちょっと考えたが、近づくことにした。
遠くに夕焼けが見える。
「昔ここで、よく夕日を眺めていたのを思い出していたんだ」
ふいにセピアが言った。
「何も変わらないな、ここは」
シエラは、黙ってセピアの横に並んで立った。
父親と言われても、シエラには何の印象もないと思った。父親だけではなく、母親もそうだ。
それに近いであろう人を考えると、まず浮かんでくるのは、サーモンやカラト、ボルドーである。
ただ、やはり親とは違うのだろう。
黙って、二人で夕焼けを眺めていた。
「親父に会わんのか?」
突然声がして、振り向くとボルドーがいた。
セピアは、少し俯いた。
「……覚悟をして来たつもりでしたが……いざ、目の前にすると、どうも踏ん切りがつかないようです。本当に、自分が情けない」
そう言った。
しばらくしてから、こちらに向かってカーマインが歩いて来るのが見えた。
カーマインは、皆に一礼した後、セピアの前に立った。
緊張した顔をしている。
「セピア様。その、将軍からの言伝です。明日の正午に、練兵場に来るようにと」
言われた瞬間、セピアの体が硬直した。
少ししてから、ゆっくりと息を吐いた。
「そうですか……分かりました」
「では、私は」と言って、カーマインは去っていった。
二人が、セピアに注目する。
「明日か……」
小さく呟いた。
セピアは歩いていた。
ウッドの西側の建物、その隣に練兵場の一つがある。
共は、カーマインだけである。
手配がされているのか、人の気配が周辺にはなかった。
セピアは緊張をしていると自覚していた。
練兵場に呼ばれたということは、間違いなく、立ち合いをやろうというのだろう。それは、想定していたことのはずだった。
しかし、心のどこかで、父親が謝ってくれるのではと考えていたのだろうか。昨日、カーマインに言伝を聞かされた時、思いも寄らない驚きが、体を支配した。
そんなことを望んでいないなど、よくも言えたものだ。
柵に囲まれた、広場にたどり着いた。中は見えない。
「それでは、私はここで」
カーマインが言った。
セピアは頷く。
「あの……セピア様」
セピアは、カーマインを見る。
「い、いえ。何でもありません。それでは」
そう言って、カーマインは歩いていった。
何だろうとは思いながらも、セピアは気持ちを切り替えようと思った。
シエラ達は、宿泊所だろう。
驕りではなく、自分がどうなるか、気になって残っていたのだろうと思う。
それは、気持ち的にありがたいことは事実だった。
父との面会が終われば、そのままシエラ達の旅に、再び同道を願い出ることもできる。
きっと、受け入れてくれるだろうと思う。
深呼吸をしてから、セピアは、ゆっくりと柵の中に入った。
すぐに目に入る。
二十歩ほどの距離で、向こうを向いて立っている、大きな背中。
セピアは、昔、兄達が父と立ち会っていた光景を思い出した。
あの時は、自分には遠い場所だと思っていた。
ここは、その場所なのか。
そして、赤い髪の後頭部が見える。
兄弟の中で、自分だけが父と同じ髪の色だった。
小さい頃は、それがうれしかったんだ。
セピアは、何も言わず、広場の入り口の所で立ったままだった。
ルモグラフも、全く動かない。
少しの間だったのか、長い時間だったのか、そのままの状態が続いた。
やがて、ルモグラフがゆっくりと振り向く。
顎に、刈り揃えられた髭があるのは昔のままだ。歳は、五十に近いはずだが、衰えた様子はまったくない。
目が合った。威圧されるような迫力も、昔のままだと思った。何年ぶりなのだろうか。
その目の視線が、少し下がった。セピアの、手を確認したようだ。
セピアは、いつもの棒を持ってきていた。
ルモグラフも、剣の長さの調練用の棒を持っていた。それを少し上げた。
そして、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
何も言わず、気だけを放っていた。
このまま、やろうということなのだろうか。
セピアは、微妙な怒りを覚えた。
分かっていたとはいえ、いくらなんでも一言もないとは。
負けたくなかった気持ちを思いだしていた。
セピアは、棒を構えた。
あの山の頂上に行くと、何があるのだろうと、シエラは思った。
翌日、商人達の大半は出発していった。
あっという間に、宿泊所の一階が閑散とした。
やることがなかったので、宿泊所の前で、シエラはペイルと立ち合いをしていた。
途中から、ボルドーも見ている。
セピアは、就寝は一緒だったが、朝早くどこかへ行っていた。
「大きい声じゃ言えませんけど、酷い親父さんだと思いますよ、俺は」
打ち合いながら、ペイルが言った。
「いくら将軍だからって、奥さんと娘をほったらかしにするなんて」
ボルドーは腕を組んで黙っている。
「六年前か……」
そう呟いた。
昨夜は、セピアから昔の話を聞いた。
父親からは、謝ってほしいわけでも、真意を聞きたいわけでも、迎えてほしいわけでもない、とセピアは言っていた。
ただ、会っておかなければならないと思ったらしい。
自分たちに、できることはないかと聞いたが、セピアは首を振った。
「これは私自身の問題だ。だけど、聞いてくれてありがとう。少しだけ、楽になった気がするよ」
そう言って、力なく笑っていた。
「私が、ここまで来れたのは皆さんのおかげです。本当にありがとうござざいます。その、ただ今の私には大した御礼もできませんので、いつか必ず」
「大袈裟な。同道だと言っただろう。つまり、お互い様だ。お前の為だけではない」
ボルドーが笑って言うと、セピアも少し微笑んだ。
「あの、これからどうされるのですか?」
「そうだな。国境に沿って東にでも向かおうかな」
「いつ出発なさるのですか?」
「まだ決めていない」
「では、明日は私がウッドを案内しましょう」
「いいのか? 勝手に歩き回って。軍事要塞だぜ?」
ペイルが言う。
「カーマインさんの許可はもらっています。ある程度なら構わないと」
「本当かよ。実は、興味があったんだよな」
そういう会話があった。
「あの、ボルドーさん」
「何だ?」
「出発は、セピアがどうなるか、見届けてからにしませんか……?」
ペイルが言うと、ボルドーがおもしろそうに、口角を上げた。
「なんだ、やはり気になるか」
「あ、いや、ええと……ほら、やっぱり結果が分からないと、気になって寝付きが悪くなるかもしれないじゃないですか」
「心配しなくとも、元より、見届けるつもりだ」
「あ、そうなんですか」
立ち会いが止まった。
セピアが、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
城壁に上って、四人は歩いていた。
昨日は分からなかったが、本塔と呼ばれている建物から、さらにずっと奥まで、城壁は続いていた。
上からみれば、おそらくだいたい正方形の形をした城壁があり、その真ん中に本塔があるようだ。
「そういえば、ボルドーさんって、ルモグラフ将軍と面識はあるんですか?」
ペイルが言った。
「面識というほどではないが、顔は見たことがある。随分昔の話だ」
「ボルドーさんほどの人なら、向こうは絶対知っているでしょう」
「どうかな」
「会ったりはしないんですか」
「必要でしたら、私からカーマインさんに話を通してもらいますが?」
先頭を歩いていたセピアが、振り向いて言う。
「ボルドー殿だと分かれば、断るようなことはないでしょう」
「いい、いい」
ボルドーが、手を前で振った。
やがて、城壁の一番北側に着いた。
細い道が、山の方に続いているのが見える。
しばらく辺りを見回していると、その道の先から、土煙が上がっているのが見えた。
やがて、騎馬の集団が見えてくる。三十騎ほどだろうか。
その集団が、下を通っていくのを見送った。
集団の、ほぼ真ん中に、赤っぽい髪の色をした、体格の大きな男がいた。軍装も特徴的だったので、あれがセピアの父親、ルモグラフ将軍なのだろう。
セピアを見ると、複雑そうな表情をしていた。
「何だ? 馬で山を登れるのか?」
ペイルが言う。
「途中までは、行けるのですよ。厩舎も小さいのが一つ山の麓にあって。そこからは、徒歩ですが」
「へえ」
その後、ウッドを一通り見て回り、再び宿泊所に戻った。
ボルドーは、もう少し見たい所があると言って、どこかへ行った。
セピアも、いつの間にかいない。
「なんか久しぶりに、ゆっくりできちまうな。思い詰めててもしょうがない。俺は昼寝でもしようかなあ」
欠伸しながら、ペイルが宿泊所に入っていった。
夕方になっても、セピアの姿が見えなかったので、気になってシエラは、探すことにした。
兵士達に、何度か呼び止められながら、歩き回っていると、西の城壁の上で外を向いて佇んでいるセピアの姿を見つけた。
ちょっと考えたが、近づくことにした。
遠くに夕焼けが見える。
「昔ここで、よく夕日を眺めていたのを思い出していたんだ」
ふいにセピアが言った。
「何も変わらないな、ここは」
シエラは、黙ってセピアの横に並んで立った。
父親と言われても、シエラには何の印象もないと思った。父親だけではなく、母親もそうだ。
それに近いであろう人を考えると、まず浮かんでくるのは、サーモンやカラト、ボルドーである。
ただ、やはり親とは違うのだろう。
黙って、二人で夕焼けを眺めていた。
「親父に会わんのか?」
突然声がして、振り向くとボルドーがいた。
セピアは、少し俯いた。
「……覚悟をして来たつもりでしたが……いざ、目の前にすると、どうも踏ん切りがつかないようです。本当に、自分が情けない」
そう言った。
しばらくしてから、こちらに向かってカーマインが歩いて来るのが見えた。
カーマインは、皆に一礼した後、セピアの前に立った。
緊張した顔をしている。
「セピア様。その、将軍からの言伝です。明日の正午に、練兵場に来るようにと」
言われた瞬間、セピアの体が硬直した。
少ししてから、ゆっくりと息を吐いた。
「そうですか……分かりました」
「では、私は」と言って、カーマインは去っていった。
二人が、セピアに注目する。
「明日か……」
小さく呟いた。
セピアは歩いていた。
ウッドの西側の建物、その隣に練兵場の一つがある。
共は、カーマインだけである。
手配がされているのか、人の気配が周辺にはなかった。
セピアは緊張をしていると自覚していた。
練兵場に呼ばれたということは、間違いなく、立ち合いをやろうというのだろう。それは、想定していたことのはずだった。
しかし、心のどこかで、父親が謝ってくれるのではと考えていたのだろうか。昨日、カーマインに言伝を聞かされた時、思いも寄らない驚きが、体を支配した。
そんなことを望んでいないなど、よくも言えたものだ。
柵に囲まれた、広場にたどり着いた。中は見えない。
「それでは、私はここで」
カーマインが言った。
セピアは頷く。
「あの……セピア様」
セピアは、カーマインを見る。
「い、いえ。何でもありません。それでは」
そう言って、カーマインは歩いていった。
何だろうとは思いながらも、セピアは気持ちを切り替えようと思った。
シエラ達は、宿泊所だろう。
驕りではなく、自分がどうなるか、気になって残っていたのだろうと思う。
それは、気持ち的にありがたいことは事実だった。
父との面会が終われば、そのままシエラ達の旅に、再び同道を願い出ることもできる。
きっと、受け入れてくれるだろうと思う。
深呼吸をしてから、セピアは、ゆっくりと柵の中に入った。
すぐに目に入る。
二十歩ほどの距離で、向こうを向いて立っている、大きな背中。
セピアは、昔、兄達が父と立ち会っていた光景を思い出した。
あの時は、自分には遠い場所だと思っていた。
ここは、その場所なのか。
そして、赤い髪の後頭部が見える。
兄弟の中で、自分だけが父と同じ髪の色だった。
小さい頃は、それがうれしかったんだ。
セピアは、何も言わず、広場の入り口の所で立ったままだった。
ルモグラフも、全く動かない。
少しの間だったのか、長い時間だったのか、そのままの状態が続いた。
やがて、ルモグラフがゆっくりと振り向く。
顎に、刈り揃えられた髭があるのは昔のままだ。歳は、五十に近いはずだが、衰えた様子はまったくない。
目が合った。威圧されるような迫力も、昔のままだと思った。何年ぶりなのだろうか。
その目の視線が、少し下がった。セピアの、手を確認したようだ。
セピアは、いつもの棒を持ってきていた。
ルモグラフも、剣の長さの調練用の棒を持っていた。それを少し上げた。
そして、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
何も言わず、気だけを放っていた。
このまま、やろうということなのだろうか。
セピアは、微妙な怒りを覚えた。
分かっていたとはいえ、いくらなんでも一言もないとは。
負けたくなかった気持ちを思いだしていた。
セピアは、棒を構えた。
相手と接近した。
攻撃がくる。セピアは、棒で受け止めた。
体格を利用した、重い一撃は、さすがにシエラやペイルと違った。
気を抜けば、簡単に棒を弾き飛ばされると思った。
そして、身のこなしも鮮やかだ。五十近くだとは思えない。
ただ、セピアは、ボルドーを知っている。あの人は七十近いと聞いたことがある。あの異常さを知っているので、驚くことはない。
ルモグラフの緩急をつけた攻撃が続いた。
押してくる威圧に踏ん張りながら、セピアは防御し続けた。
移動する間もない。
防御するしかない。
いや……。
そんなことはない、と思い始めた。
よく見ると、所々に少し隙が見え隠れしている。
反撃できないことはない。
セピアは、ルモグラフの攻撃と攻撃の合間に、反撃を試みた。
セピアの突きを、ルモグラフは捻って避ける。
セピアは、前に出た。そして、攻撃を仕掛けた。
相手が避ける、受ける。そして、こちらの隙に、相手も手を出す。
打ち合いになった。それも、ほぼ互角といってもいいほどだ。
しばらく打ち合いが続いた。途中、セピアは、ボルドーが昨日の夜に言っていた言葉が、何故か、ふと頭に浮かんだ。
六年前にスクレイに何があったか、と言っていた。
ルモグラフの剣術は、どこまでも愚直で真っ直ぐだ。昔のままだ。
武術は、心を投影するものと、彼はよく言っていた。
父の剣筋に、まったく迷いや、邪念などない。
立ち会いでの会話とは、こういうことかと、セピアは思った。
そんなことは、ずっと分かっていたのだ。父に、やましいことなど何もないのだろう。
六年前は、丁度、先の大戦が始まった頃だ。
父は、母と自分を戦線から遠ざけるために、ローズに行くのに何も言わなかったのだ。
そんなことは、分かっていた。ただ、ずっと分からない振りをしていた。
母を失った心の悲しみや苦しみを、自分は、どこかにぶつけたかっただけなのだ。
一人よがりもいいところだ。
セピアは、心の中で自嘲した。馬鹿な自分を、嗤うしかなかった。
六年……。
自分の、この六年は、一体何のためにあったのだろう……。
打ち合いは、なおも続く。
少ししてセピアは、不思議な気分に包まれてきた。
あの父と、互角?
そんなことが、ありえるのか。
もしかすると、父は手を抜いているのか?
しかし、そんなことする人とは思えないし、顔は真剣そうに見える。
武器の押し合いになった時、相手と、かなり接近した。
再び、不思議な気持ちになった。
父と自分は、こんなに身長が近かっただろうか。
自分の身長が、父の胸ほどある。たしか、腹ほどだったと思っていたが。
いや、自分が大きくなったのだ。六年も経ったのだ、当たり前だ。
そうか。
成長したんだ。
身長も武術も。
意味は……。
少なくとも。
私には。
成長なんだ。
それがあれば、いいじゃないか。
心の重しが、少し消えたような気がした。
セピアは、父に勝とうと思った。
きっと、それが自分の成長を見せることができる、一番の方法だ。
相手の連続攻撃を受けながら少し下がる。そして、相手の攻撃の間隙に、渾身の突きを繰り出した。
ルモグラフは、避けきれなかった。肩に当たる。
しかし、ルモグラフは棒を放さなかった。下からの、すくい上げる攻撃で、セピアの棒が手から離れた。
それが、空中で回転する。地に音を立てて落ちた。
間。
セピアは、息を止めていたことに気づき、息を吐いた。
負けた。しかし、意味はあった。
……来て良かった。
セピアは、ルモグラフに向かって一礼をした。それから、棒を拾って、広場から出て行こうと、歩き始めた。
父との立ち会いというのは、最後まで言葉がないのだ。これでいいはずだ。
「強くなったな」
声が聞こえた。
一瞬、どこから聞こえたか分からなかった。
セピアは振り返った。
ルモグラフが、こちらに目を向けている。
見たことがないような、柔和な眼差しだった。
「すまなかった……」
ルモグラフが言った。
瞬間、胸の中で何かが、こみ上げてくる。目頭が熱くなり、溢れてくるものを、堪えきれなかった。
目の前が、見えにくくなった。自分が、泣いていることが分かった。
自分は、やはり言ってほしかったということなのか。
涙が止まらない。セピアは、目を手で擦り続けた。
父の手が、肩に置かれたのが分かった。
空が、夕焼けに染まっていた。
セピアは、昔、母と共に暮らしていたウッド内の宿舎にいた。
六年ぶりということになる。物の配置など、ほとんどが変わっていた。
懐かしさを感じるものなど、ほとんどないと思った。それが、時が経つということなのだろう。
二階にやってきた。そして、奥に入る通路に向かう。
すぐに、ある部屋の前に着いた。
昔、自分と母が使っていた部屋だ。
自然に、足がここに向かった気がする。
一緒にいたカーマインが、鍵の束を取り出し、部屋の鍵を開けた。
「あ、別に入るつもりはなかったのですが……」
「どうぞ」
カーマインが、神妙に頭を下げた。
「ここは今、何に使っているのですか?」
カーマインは、何も言わない。
すっかり変わってしまった部屋など、見たくはないという気持ちもあった。昔の思い出のままで、そっとしておいたほうがいいような気もする。
しかし、ここを見ておく必要もある気もする。だからこそ、ここに自然と足が向いたのではないか。
意を決して、セピアは扉を開けた。
少し、埃の匂いがした。
正面に、窓がある。机があって寝台がある。棚があり、絨毯、燭台、鏡、装飾。
セピアは、呆然としていた自分に気づいた。
昔のままだ。
少し、埃を被っているが、昔のままだ。
「実は、この部屋の主の許可もなく、勝手に部屋の物に手をつけることはならない、という指示が将軍から出ているのです」
言ったカーマインを、セピアは見た。
一つ、疑問が浮かんだ。
「では、六年間まったく手付かずということですか? そうだとすれば、もっと部屋の物が痛んでいたりすると思うのですが」
「我々は、何も手をつけておりません。将軍がまれに、ここで簡単な掃除をしていたのです」
「父上が……」
セピアは、もう一度、部屋の中を見た。
「あの、セピア様」
カーマインが言う。
「将軍は、お母上とセピア様の身を案じて、ウッドから出したのです。決して、厄介払いなどをしたわけではありません」
「わかっています」
セピアが言うと、カーマインは意外そうな顔をした。
「さっき、何か言おうとしていたのは、そのことでしたか」
「え、ええ」
カーマインは、少し考えるような表情をしてから、口を開けた。
「実は、もっと早くに言うべきだと思っていたのですが、将軍から、言う必要はないと言われておりまして」
「え?」
「言い訳のような真似は、なされない人ですから」
カーマインが言った。
まったく……。
随分、うまい具合に、すれ違ったものだ。
セピアは、苦笑した。
「カーマインさん、お願いがあるのですが」
ウッドの北側の城壁の上。そこに、北を向いて立っている男がいた。
ボルドーは、男に近づいた。
「おう」
ボルドーが言うと、男は振り返って、軽く頭を下げた。
ルモグラフである。
「本当に、この度は……」
「無事に終わったのか?」
「ええ。しかし、無事と言っていいのか」
ルモグラフは、そう言って自分の右肩に触れて、少し笑った。
見ると、手当てがされているようだ。
「だから、舐めて掛からない方がいいぞと言ったのだ。わしが鍛えたんだぞ?」
「油断したつもりは、なかったのですが……」
「その割には、うれしそうだな」
「ええ、まあ」
ボルドーは、ルモグラフの横に立った。
実は、ボルドーは昨日に、ルモグラフとここで会っていた。
娘と会うことを躊躇っていたルモグラフに、会って話せと言ったのである。
「しかし、まさか将軍に私のことを覚えてもらえているとは思ってもみませんでした」
「将軍ではない」
「失礼……では、ボルドー殿と呼ばせていただきます」
「何十年か前だったな」
「ええ、都での指揮官訓練でした。ボルドー殿は教官で、私は、何十人かいる新人指揮官の一人でした」
「忘れるわけがないだろう。あの時お前だけが、一人実力が、ずば抜けていたからな」
「本当ですか? 一度も誉められたことがなかったのですが」
「そうだったかな」
ボルドーが、鼻で笑った。
「改めて、御礼を言わせて下さい。娘も、ボルドー殿に、学ばせて貰ったお陰か、随分と成長していまして、驚きました」
「さっきは鍛えたと言ったが、わしは、ほとんど何もしていない。子供とは勝手に成長するものだ」
「まさしく。ただ私は、いい父親ではなかったのでしょう。私自身、逃げていたのですから」
「ローズから呼ばなかったことか」
「娘が、そこで暮らしたいと思うのなら、それでもいいと思ったのです。ウッドに連れてきたところで、父親らしいことは、何一つできる自身がなかったのですから」
「他に、三人息子がいるのだろう?」
「ありがたいことに、厳しく接してきただけなのですが、三人とも中々に育ってくれまして。今は、それぞれ軍人として赴任地におります。それも、男子だからこそだと思ったのです」
「セピアも、弱い娘ではない」
ボルドーが言う。
「お前なりの接し方でいいと思う。いや、あの子には、それが一番いいのだろうさ」
ルモグラフが、少し考える顔をする。
それから深々と頭を下げた。
「不器用だな、親子共々。まったく、そっくりだ」
二人は少しの間、黙って北の山を見つめた。
「ボルドー殿」
ルモグラフが、改まった口調で言う。
「……軍に復帰して貰えることはできないのでしょうか?」
ボルドーは、前を見据えたまま黙っていた。
「一将軍の端くれとして、情けないのは百も承知です。しかし私には、今この国を良い方向に向けることができそうもありません」
「わしにも無理だ」
ボルドーが言った。
「お前にできないことが、わしにできるわけがない」
しばらくルモグラフは、ボルドーを見据えていた。
少しして、息を吐いた。
「失礼しました。今言ったことは忘れて下さい」
ボルドーは、その場を去ろうと振り返って歩き始めた。
ふと思いつき、足を止めた。
「ルモグラフよ、ドライという町は知らんか?」
「ドライ?」
ボルドーは、内心で苦笑し、もう一度歩き始めようと思った。
「ドライというと、あの北のドライのことですか?」
思わずボルドーは、振り返った。
攻撃がくる。セピアは、棒で受け止めた。
体格を利用した、重い一撃は、さすがにシエラやペイルと違った。
気を抜けば、簡単に棒を弾き飛ばされると思った。
そして、身のこなしも鮮やかだ。五十近くだとは思えない。
ただ、セピアは、ボルドーを知っている。あの人は七十近いと聞いたことがある。あの異常さを知っているので、驚くことはない。
ルモグラフの緩急をつけた攻撃が続いた。
押してくる威圧に踏ん張りながら、セピアは防御し続けた。
移動する間もない。
防御するしかない。
いや……。
そんなことはない、と思い始めた。
よく見ると、所々に少し隙が見え隠れしている。
反撃できないことはない。
セピアは、ルモグラフの攻撃と攻撃の合間に、反撃を試みた。
セピアの突きを、ルモグラフは捻って避ける。
セピアは、前に出た。そして、攻撃を仕掛けた。
相手が避ける、受ける。そして、こちらの隙に、相手も手を出す。
打ち合いになった。それも、ほぼ互角といってもいいほどだ。
しばらく打ち合いが続いた。途中、セピアは、ボルドーが昨日の夜に言っていた言葉が、何故か、ふと頭に浮かんだ。
六年前にスクレイに何があったか、と言っていた。
ルモグラフの剣術は、どこまでも愚直で真っ直ぐだ。昔のままだ。
武術は、心を投影するものと、彼はよく言っていた。
父の剣筋に、まったく迷いや、邪念などない。
立ち会いでの会話とは、こういうことかと、セピアは思った。
そんなことは、ずっと分かっていたのだ。父に、やましいことなど何もないのだろう。
六年前は、丁度、先の大戦が始まった頃だ。
父は、母と自分を戦線から遠ざけるために、ローズに行くのに何も言わなかったのだ。
そんなことは、分かっていた。ただ、ずっと分からない振りをしていた。
母を失った心の悲しみや苦しみを、自分は、どこかにぶつけたかっただけなのだ。
一人よがりもいいところだ。
セピアは、心の中で自嘲した。馬鹿な自分を、嗤うしかなかった。
六年……。
自分の、この六年は、一体何のためにあったのだろう……。
打ち合いは、なおも続く。
少ししてセピアは、不思議な気分に包まれてきた。
あの父と、互角?
そんなことが、ありえるのか。
もしかすると、父は手を抜いているのか?
しかし、そんなことする人とは思えないし、顔は真剣そうに見える。
武器の押し合いになった時、相手と、かなり接近した。
再び、不思議な気持ちになった。
父と自分は、こんなに身長が近かっただろうか。
自分の身長が、父の胸ほどある。たしか、腹ほどだったと思っていたが。
いや、自分が大きくなったのだ。六年も経ったのだ、当たり前だ。
そうか。
成長したんだ。
身長も武術も。
意味は……。
少なくとも。
私には。
成長なんだ。
それがあれば、いいじゃないか。
心の重しが、少し消えたような気がした。
セピアは、父に勝とうと思った。
きっと、それが自分の成長を見せることができる、一番の方法だ。
相手の連続攻撃を受けながら少し下がる。そして、相手の攻撃の間隙に、渾身の突きを繰り出した。
ルモグラフは、避けきれなかった。肩に当たる。
しかし、ルモグラフは棒を放さなかった。下からの、すくい上げる攻撃で、セピアの棒が手から離れた。
それが、空中で回転する。地に音を立てて落ちた。
間。
セピアは、息を止めていたことに気づき、息を吐いた。
負けた。しかし、意味はあった。
……来て良かった。
セピアは、ルモグラフに向かって一礼をした。それから、棒を拾って、広場から出て行こうと、歩き始めた。
父との立ち会いというのは、最後まで言葉がないのだ。これでいいはずだ。
「強くなったな」
声が聞こえた。
一瞬、どこから聞こえたか分からなかった。
セピアは振り返った。
ルモグラフが、こちらに目を向けている。
見たことがないような、柔和な眼差しだった。
「すまなかった……」
ルモグラフが言った。
瞬間、胸の中で何かが、こみ上げてくる。目頭が熱くなり、溢れてくるものを、堪えきれなかった。
目の前が、見えにくくなった。自分が、泣いていることが分かった。
自分は、やはり言ってほしかったということなのか。
涙が止まらない。セピアは、目を手で擦り続けた。
父の手が、肩に置かれたのが分かった。
空が、夕焼けに染まっていた。
セピアは、昔、母と共に暮らしていたウッド内の宿舎にいた。
六年ぶりということになる。物の配置など、ほとんどが変わっていた。
懐かしさを感じるものなど、ほとんどないと思った。それが、時が経つということなのだろう。
二階にやってきた。そして、奥に入る通路に向かう。
すぐに、ある部屋の前に着いた。
昔、自分と母が使っていた部屋だ。
自然に、足がここに向かった気がする。
一緒にいたカーマインが、鍵の束を取り出し、部屋の鍵を開けた。
「あ、別に入るつもりはなかったのですが……」
「どうぞ」
カーマインが、神妙に頭を下げた。
「ここは今、何に使っているのですか?」
カーマインは、何も言わない。
すっかり変わってしまった部屋など、見たくはないという気持ちもあった。昔の思い出のままで、そっとしておいたほうがいいような気もする。
しかし、ここを見ておく必要もある気もする。だからこそ、ここに自然と足が向いたのではないか。
意を決して、セピアは扉を開けた。
少し、埃の匂いがした。
正面に、窓がある。机があって寝台がある。棚があり、絨毯、燭台、鏡、装飾。
セピアは、呆然としていた自分に気づいた。
昔のままだ。
少し、埃を被っているが、昔のままだ。
「実は、この部屋の主の許可もなく、勝手に部屋の物に手をつけることはならない、という指示が将軍から出ているのです」
言ったカーマインを、セピアは見た。
一つ、疑問が浮かんだ。
「では、六年間まったく手付かずということですか? そうだとすれば、もっと部屋の物が痛んでいたりすると思うのですが」
「我々は、何も手をつけておりません。将軍がまれに、ここで簡単な掃除をしていたのです」
「父上が……」
セピアは、もう一度、部屋の中を見た。
「あの、セピア様」
カーマインが言う。
「将軍は、お母上とセピア様の身を案じて、ウッドから出したのです。決して、厄介払いなどをしたわけではありません」
「わかっています」
セピアが言うと、カーマインは意外そうな顔をした。
「さっき、何か言おうとしていたのは、そのことでしたか」
「え、ええ」
カーマインは、少し考えるような表情をしてから、口を開けた。
「実は、もっと早くに言うべきだと思っていたのですが、将軍から、言う必要はないと言われておりまして」
「え?」
「言い訳のような真似は、なされない人ですから」
カーマインが言った。
まったく……。
随分、うまい具合に、すれ違ったものだ。
セピアは、苦笑した。
「カーマインさん、お願いがあるのですが」
ウッドの北側の城壁の上。そこに、北を向いて立っている男がいた。
ボルドーは、男に近づいた。
「おう」
ボルドーが言うと、男は振り返って、軽く頭を下げた。
ルモグラフである。
「本当に、この度は……」
「無事に終わったのか?」
「ええ。しかし、無事と言っていいのか」
ルモグラフは、そう言って自分の右肩に触れて、少し笑った。
見ると、手当てがされているようだ。
「だから、舐めて掛からない方がいいぞと言ったのだ。わしが鍛えたんだぞ?」
「油断したつもりは、なかったのですが……」
「その割には、うれしそうだな」
「ええ、まあ」
ボルドーは、ルモグラフの横に立った。
実は、ボルドーは昨日に、ルモグラフとここで会っていた。
娘と会うことを躊躇っていたルモグラフに、会って話せと言ったのである。
「しかし、まさか将軍に私のことを覚えてもらえているとは思ってもみませんでした」
「将軍ではない」
「失礼……では、ボルドー殿と呼ばせていただきます」
「何十年か前だったな」
「ええ、都での指揮官訓練でした。ボルドー殿は教官で、私は、何十人かいる新人指揮官の一人でした」
「忘れるわけがないだろう。あの時お前だけが、一人実力が、ずば抜けていたからな」
「本当ですか? 一度も誉められたことがなかったのですが」
「そうだったかな」
ボルドーが、鼻で笑った。
「改めて、御礼を言わせて下さい。娘も、ボルドー殿に、学ばせて貰ったお陰か、随分と成長していまして、驚きました」
「さっきは鍛えたと言ったが、わしは、ほとんど何もしていない。子供とは勝手に成長するものだ」
「まさしく。ただ私は、いい父親ではなかったのでしょう。私自身、逃げていたのですから」
「ローズから呼ばなかったことか」
「娘が、そこで暮らしたいと思うのなら、それでもいいと思ったのです。ウッドに連れてきたところで、父親らしいことは、何一つできる自身がなかったのですから」
「他に、三人息子がいるのだろう?」
「ありがたいことに、厳しく接してきただけなのですが、三人とも中々に育ってくれまして。今は、それぞれ軍人として赴任地におります。それも、男子だからこそだと思ったのです」
「セピアも、弱い娘ではない」
ボルドーが言う。
「お前なりの接し方でいいと思う。いや、あの子には、それが一番いいのだろうさ」
ルモグラフが、少し考える顔をする。
それから深々と頭を下げた。
「不器用だな、親子共々。まったく、そっくりだ」
二人は少しの間、黙って北の山を見つめた。
「ボルドー殿」
ルモグラフが、改まった口調で言う。
「……軍に復帰して貰えることはできないのでしょうか?」
ボルドーは、前を見据えたまま黙っていた。
「一将軍の端くれとして、情けないのは百も承知です。しかし私には、今この国を良い方向に向けることができそうもありません」
「わしにも無理だ」
ボルドーが言った。
「お前にできないことが、わしにできるわけがない」
しばらくルモグラフは、ボルドーを見据えていた。
少しして、息を吐いた。
「失礼しました。今言ったことは忘れて下さい」
ボルドーは、その場を去ろうと振り返って歩き始めた。
ふと思いつき、足を止めた。
「ルモグラフよ、ドライという町は知らんか?」
「ドライ?」
ボルドーは、内心で苦笑し、もう一度歩き始めようと思った。
「ドライというと、あの北のドライのことですか?」
思わずボルドーは、振り返った。