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鉄血

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 少しだけ後退した。


 本隊の一部を、あらかじめ造っておいた拠点に入れた。
 地形や、敵の陣形などを考えても、すぐにここまで追撃してくることはないだろう。敵が本腰を入れて、再び攻撃をかけようと思うと、始めるまでにも日数がかかるはずだ。つまり、一旦両軍が一息つくということになる。
 少しして、北で戦っていた、グレイとダークの軍も戻ってきた。やはり、損害は大きいようだ。
 今回の戦の犠牲の大部分は、砦の外に出ていた騎馬隊が、ほとんどだ。本隊は、ほぼ損害がないようだ。
 本隊の都への前進は、当分無理だろう。とにかく、もう一度騎馬隊を作り直さなくてはならない。

 それにしても、危ないところだった。ただ、作戦は一応成功した。
 サップとライトが都で、反乱軍の砦が陥落寸前だという情報を、王子の取り巻きの耳に入るように流させたのだ。できるだけ、こちらが苦戦しているように、できるだけ国軍が優勢だという脚色をつけた内容だったはずだ。
 そうなれば、指揮官を交代しろという命令を、王子たちは必ず前線に伝えると確信していた。そして、その伝令を、都を出立してから監視し続けたのだ。時機を合わせて、デルフトの部隊を東に引きつけることで、撤退中の本隊を攻撃されることを回避する。それが、今回の作戦の全貌だった。

 ボルドーは、もう一度全軍を締め直そうと、拠点内を見回ってた。
 少しして、マゼンタが一人でこちらに近づいてくるのが見えて、ボルドーは少し驚いた。
 マゼンタは、シエラの護衛部隊の隊長だ。シエラは、この拠点内にいるとはいえ、随分離れているということになる。
「何かあったのか?」
「その、ボルドー様。実は、殿下の御様子が……」
「殿下が?」
「ボルドー様には、報告したほうがいいと思いまして……」
 ボルドーは、すぐにシエラが使っている幕舎に向かった。

 実は前回の戦では、シエラは本隊の中にはいなかった。敵だけではなく、味方にも、いると思わせていたのだ。本当は、シエラはずっとここにいた。知っている者は、ほんの数人だけだった。砦の攻防は、最悪逃げ場がなくなってしまうので、ボルドーが提案したことだった。

「殿下、ボルドーです。入ってもよろしいでしょうか?」
 少し待ったが、返事はない。
「失礼します」
 言って、ボルドーは幕舎に入った。
 シエラ用に用意された幕舎は、他よりも広い。真ん中には机があり、簡易の棚と寝台が隅に設けられている。
 シエラは、寝台に腰掛けて俯いていた。
 確かに、様子がおかしい。
「いかがされましたか? 殿下」
 言うと、シエラがゆっくりと、こちらに目線を移す。ボルドーは、また少し驚いた。
 目に力が無かった。今にも泣きそうなその表情は、王になると言う前のシエラに戻ったようだった。
「どうしました?」
 もう一度聞く。
「わ、分からない」
 小さな声が返ってきた。
「分からない?」
「……本当に正しいのかどうか、分からない」
「何がですか?」
「私が、やろうとしていることが」
 そう言った。
 どういうことか、ボルドーには分からなかった。
「何かあったのですか?」
 そう問うと、また顔を俯けていた。
「人が」
 呟く。
「沢山、死んでいた」
 言う。
「沢山、運ばれてきた」

 そこまで聞いて、一つ思い浮かんだ。
 今回の戦いで、戦死した者の亡骸を、一旦この砦の近くに集めていたのだ。もしかすると、それを見たのかもしれない。
 しかし、それだけで、ここまで狼狽するものだろうか。
 いや、長年軍事に携わってきたとはいえ、大勢の人間の死体を見て、冷静でいられる自分の感覚の方が、おかしいのかもしれない。
 考えていると、シエラが口を開く。
「分かっている。そんなこと、この戦いを始める前から、分かっていた。いや、本当は分かっていなかった。分かったつもりになっていただけだった。私のために人が死ぬということが、どういうことか」
 続く。
「私のためという理由だけではないことも分かっている。それぞれ、個々の戦う動機があるのだろうということも。でも、私には、自分のせいで死なせてしまったとしか思えない」
 シエラは、俯いたままだった。
「それに、味方だけではない。敵であろうと、その人たちには家族がいたはずなんだ。そういうことも、一度考えてしまうと、もう頭から離れないんだ」
 続く。
「これからも、これが続くと思うと、私は正気を保てるか分からない……」

 覚悟しろ、と始めに言ったはずだぞ。
 そう言おうとして、ボルドーは口を噤んだ。
 いくら口で覚悟と言ったところで、実際に苦難に遭ってしまえば、そんなもの意味をなさないことなど珍しいことではない。ただシエラは、それで許される立場でもないのだ。
 そうだろう。

「殿下」
 ボルドーは、片膝を地につけて、シエラと目線の高さを合わせた。
「……やめますか?」
 シエラの、大きな目がこちらを見る。
「では、もう、やめますか?」
 そう言った。
 シエラは、視線をさまよわせた。
「それは……」
 言って、目線を下げる。
「できない」
 それから、首を振った。





 ボルドーは、自分が使っている幕舎に戻った。
 ペイルが待っていた。
「ペイル、今から西の小城に行ってくれ。あそこにある、兵の名簿の中から、今回の戦の戦死者を抜粋し、その者達が遺書など残してある物があれば、纏めて持ってきてくれ」
「分かりました」
 ペイルが出て行ってから、ボルドーは椅子に座り息を吐いた。

 しばらくして、サップの部下が現れる。
「隊長が、オーカー将軍と接触できました」
「ほう」
 報告を聞く。
 どうやらオーカーは、寝返った後の自分の待遇を気にしているらしい。どういう地位を保証できるかを確認したいようだ。
 ボルドーは考えた。
 シエラの心労のことも考えれば、できるだけ早く、この戦いを終わらせたかった。しかし前回の戦の結果、このままでは、かなり長期化しそうな展開になりつつある。
 このオーカーの寝返りを、最大に効果的に使うことができれば、もしかすれば、一気に短期間で終わらすことも可能かもしれない。

「どこで会う予定なのだ?」
「え?」
「オーカーと、再び会談するのだろ?」
 サップの部下は、困惑した顔をする。
「すいません。私は把握していません」
 必要以上の情報は、抱えていないということだろう。聞いた自分が悪かった。
「すぐに、サップに聞いてきてくれ」
「了解しました」
 サップの部下が出ていく。

 このオーカーの寝返りは、必ず成功させなければならない。そう考えると、最後の説得は自分でやりたかった。それと同時に、どの時機で、どういった方法で寝返るかなどを、綿密に打ち合わせることもやっておきたい。

 ボルドーは、いろいろな状況を想像していた。










 二日経って、サップの部下が報告に来る。
 オーカーとの秘密裏の会談の場所は、スクレイ南部の小さな町であるようだ。それを聞いて、ボルドーはすぐに出立することにした。
 当然、おおごとにはできない。誰か部下を連れていくか考えたが、すぐ周りの者は、誰も手が空いていないようだったので、一人で行くことにした。

 朝に出て、夕方ごろに、目的の町に到着する。
 その町は、あまり大きくなかった。人もそれほど見かけない。ただ、北では戦が起きているが、あまり影響がないように見えた。
 馬を引いて、中心部に向かう。
 サップの部下の誰かが案内してくれる手筈だったはずだが、誰も来ない。少し、早く来てしまったのだろうか。
 目的の建物があった。屋根が高く、倉庫のような建物らしい。会談の場所は、ここだろう。
 すでに一頭、馬が繋がれているのが見えた。
 ボルドーも、その馬の近くに馬を繋ぎ、建物に入った。
 大きな空間だった。木箱や物が、いくつも並べられている。入って正面は通路になっていた。その奥に、こちらに背を向けて立っている人間がいる。
 奥の窓から外を眺めているのだろうか。黒い髪を、頭の後ろで縛っているようだ。服は、平服ではあるが、多少質はいいものに見えた。
 ほぼ間違いない。オーカーだ。
 ボルドーは、足を踏み出した。
 しかし、五歩歩いてボルドーは足を止めた。
 なんだ?
 何か、不思議な感覚を覚えた。
 突如、人の気配を感じる。左右だけでなく、後ろにもだ。
 建物中の物の影から人間が顔を出した。視界に捉えた者は、全員弩を構えていた。
 武器を何も持ってこなかった。咄嗟に、それを後悔した。
 四方八方から、矢が射かけられる。ボルドーは、上体を落としながら、何本かを手で払い落とした。
 それでも、肩に一本、背中に二本、足に一本の矢が突き立った。
 短い矢に、それぼど威力のない弩のようだ。あまり、深くは刺さっていない。

「複雑な心境ですね……貴方なら、絶対にご自身で来る、と思いながらも、どこか来てほしくはなかった、という思いも同時にあります」
 そう声が聞こえた。昔と同じ声だった。
 それから、オーカーは、ゆっくりと振り向いた。
 その顔は、微笑を浮かべていた。

「将軍……貴方は、今日ここで死にます」




 目の前を見ていた。


 グラシアは、自分の仕事のために造られた幕舎の中で、物資関係の書類に目を通していた。自分の部下がやっている仕事なのだが、一応最後の確認は、自分で目を通しておかないと、気が済まない。
「グラシア様」
 少しして、声をかけられた。部下の女が、幕舎の入り口から、顔を覗かせている。
「何?」
「ライトの部下と名乗る者が来ているのですが」
「ん?」
 一瞬、意味が分からなかったが、すぐに思い出す。
 そういえば、ライトが謀略部隊を指揮することになったと、ボルドーから聞かされたことがあったような気がする。ということは、その手の者だろうか。こんなところまで来ているということは、十分な通行許可の証拠を持っていたのだろう。敵の間者ということは、ありえない。
 しかし、だからこそ何故自分の所に来るのかが分からない。
「通して」
「分かりました」
 しばらくして、男が入ってきて、一礼した。
「ライトの部下?」
「そうです、隊長から言伝を預かってきました」
「ちょっと待って。それなら、ボルドーさんの所に行ってよ。私に言われても分からないかも」
「それが、ボルドー様は御不在のようでしたので。ボルドー様が不在の場合、グラシア様に届けるように決められているのですが」
「いない?」
「はい」
「どこに行ったの?」
 ライトの部下は、困惑したような顔をした。
「ごめん、分かるわけないよね。それで、言伝って?」
「はっ、諜報部隊のサップ隊長と連絡がつかなくなっているので、本陣の方から確認をお願いしたい、とのことです」
 聞いて、グラシアは再び思考が鈍くなった。
 まずは、サップとは誰だろう。そういえば、諜報部隊のことも、ボルドーから少し聞かされたことがあったような気がする。それの隊長がサップという名前だったような。
 それと連絡がつかない?
「返答を、すぐに隊長に届けたいのですが」
 男が言った。
「ちょ、ちょっと待って」
 グラシアは、慌てて立ち上がり、自分の部下を何人か呼んだ。
「すぐに、ボルドーさんが、どこにいるか探して。部下の人間にも確認をとることを忘れないように。それから、ルモグラフさんに、すぐにここに来てくれるように言ってきて」
 了解の声を上げ、部下たちが散らばっていく。
 他に何か、やり忘れたことがないか、しばらく考えた。
 ライトの部下が、立ったままだったことに気付く。
「ごめん、もうちょっと待ってて」
 胸騒ぎがした。










 男たちは、弩を捨てて短い剣を構えて接近してきた。
 接近戦ならば、素手でも戦いようがある。
 右から来た者の顎を、裏拳で砕いた。すぐ後ろに来ていた者を、回し蹴りで払いのける。二人同時に飛びかかって来た者の攻撃をかわし、一人の腕を破壊し、剣を奪う。それで、横の者の首を裂いた。
 さらに、数人が飛び込んでくる。ボルドーは、剣を投げて、一人の額に命中させる。二人の攻撃を避けて、壁際まで移動した。
 構えて、心気を集中する。
 次々と続く攻撃を、いなしては殺し、いなしては殺した。そこそこの戦闘能力のある者達ばかりだが、実力が突出している者はいないようだ。
 しばらく戦って、ボルドーは何か違和感を感じた。
 息が上がる。心気が集中しづらい。
 まさか。
 最後に飛びかかってきた者の頭蓋を破壊したところで、視界が少しかすみ始めた。
 やはり、毒か。
 体に突き立ったままの矢を見た。
 自分で自分の心気治療を試みるしかない。それで、症状を緩和できる毒もある。
 しかし、ボルドーは、その考えの見込みが薄いことに気がついた。
 オーカーが、最初に見た時と、同じ所に立っていた。
 この作戦が、オーカーが立てたものだとすると、心気で治すことができる毒を使うというへまは、まずやらないだろう。数人の男たちを捨て駒に使い、毒を全身に回るまでの時間稼ぎをやったということか。
 完全に罠にはまってしまった。もっと慎重にならなくてはならなかった。しかし、事を急いたあまりに、慎重さを欠いてしまった。
 自分の失念以外のなにものでもない。
 屋内には、もう他に、生きている人間はいないようだ。
 ボルドーは、壁にもたれながら、ゆっくりと息を吐いた。
「オーカー、お前」
「はい?」
 余裕の表情のままだった。
「王子の指示か?」
 オーカーは、一つ間をとった。
「いいえ、これは私の独断ですよ」
「独断だと?」
「ええ」
 また間。それから、ゆっくりと視線を上げていた。
「あなたを殺すという大仕事は一人で完遂したかった。王子などに知られれば、邪魔をされる可能性が高いですからね」
 恍惚という風な表情をしていた。あんな顔、昔では見たことがない。
「まあ、終わった後で、報告はしますがね。何しろ、あの鉄血のボルドーの首だ。その戦歴を詳しく知らなくとも、そこそこの評価は貰えるでしょう」
「それが目的か」
 ボルドーは、できるだけ体力を温存させられる体勢を模索しながら喋っていた。
「それも一つです。ただ、すべてではありません」
 オーカーは言った。
「どういうことだ?」
 オーカーは、少し考える仕草をしてから、こちらに向き直した。
「そうですね。せっかくだから、聞いてもらいましょうか。貴方が、毒によって心停止するまで、あと五分といったところでしょう。こういうことをやっていると、誰か人に自慢もできないですし。ましてや、それが将軍ともなると、これ以上の聴衆はいないでしょう」
 そう言う。
「ところで、将軍。ああいう真面目な人間を、諜報のような部隊を指揮させるのは、私はどうかと思いますよ」
 オーカーが、そう言った。しばらく意味を考えてから、ボルドーは愕然とした。
「お前……まさか」
「結局、直前まで私のことを信じていたようです」
「殺したのか、サップを」
「まあ、ああいう真面目な男を騙し討ちするのも、少々気が引けましたが」
 ボルドーは、目を閉じた。
 すまない、サップ。
 自分の責任だ。
 あの世というものがあるのなら、そこでもう一度謝ろう。
 ボルドーは目を開いた。
「まず、将軍。前の大戦のこと、どれほど覚えていますか?」
 ボルドーは、黙っていた。何を言おうとしているのかが分からない。
「あれほど中央が混乱していましたので、国境の軍が破られたのは、それほどおかしいことではない。まあ、ほとんどの人間が、そう考えるでしょう。それにしては、よく保った方だとも。私が、タスカンに行く前は、国境の軍にいたということは覚えていますか?」
 続く。
「私の上官、将軍とも古い馴染みだったそうですね。彼は、非常に有能な指揮官で、それでいて忠義に厚い人でしたよ。あの、国内が混乱していた状態の中で、見事に部下を纏め上げ、そして南下してきたクロス軍に対して、一歩も引かないどころか、圧倒してしまうのではないかと思うような戦い様を見せてくれましたからね。私は思いました。このままでは、クロス軍が、これ以上進めなくなってしまうのではないかと。そして、こうも思いました……それは不味い、と」
 ボルドーは、思わず視線を強めた。
「何だと……?」
「あの人も、惜しい人だとは思ったのですがね」
「まさか……お前が殺したのか」
 オーカーは、ゆっくりと頷いた。
 なんということだ。
「ということは、クロス軍を手引きしたのが、お前だというのか? まさか、前の戦争を裏で主導していたとでも?」
「いえいえ、残念ながら、それほどのことはできませんよ」
 否定。
「私の仕事はあくまでも、クロス軍を、スクレイ国内のある程度のところまで引き入れることです。事前に、クロス国の中の重臣の一人と、そういう打ち合わせをやっていましたから。私の仕事は、それだけでした」
 間。
「しかし、他の戦線でも、似たような奇っ怪な事件や、意味深な不慮の死などがあったことは知っていますか? 戦線だけではない、中央でもあったそうです」
 ボルドーは、黙って聞いていた。
「これらは、何か一つの目的や意志によって行われたことではない。あの外国軍の進入を切っ掛けに、国内外に潜伏していた、思惑や企みが、一斉に水面下から顔を出したというところでしょうか。私は、当事者の一人でありながら、なかなか不思議な心境で、そういうものを眺めていました」
 そう言う。
「あれは、何なのでしょうね」
 オーカーは、少し目を細めた。
「私は、人とは愚かしいものだと、改めて認識することになりましたよ。やはり、自分の為に生きてこその人生だとね。しかし、その中で予想外のことが二つ起こりました。一つは、言うまでもなくスクレイの大逆転です。お見事としか言いようがないですね、あれは。私には、もう阻止のしようがありませんでした。私の謀略は、完全に潰えましたよ」
 そう言って、肩を竦めた。
「まあ、それはそれとして、実は本題は、もう一つの予想外の方なのですがね」
 そう、と続く。
「あなた方のタスカン独立騒動ですよ」
 ボルドーの思考が止まる。
「クロスの進軍の弊害になる場所にタスカンはありました。あの時はまだ、私の謀略は成功途上でしたので、当然私は焦りました。あの時は、それさえ阻めば、もうクロス軍に抗し得るものはないと思っていましたのでね。ですから、私はタスカンに行ったのです」
 ボルドーは、もう何も考えられなかった。
 まさか。
 まさか。
「どうやら、やっと気がついたようですね。ええ、そうです。貴方の親友である、アース殿の本当の死因は毒殺。毒を盛って殺したのは、この私です」
 オーカーは、そう言った。
 アースの顔を思い出した。
 束の間、呆然としている自分に気がついた。
 これは、なんだろうか。
 驚き、嘆き、戸惑い、そういうものはなかった。
 しばらくしてから、笑い声が聞こえた。
「ふ、ふふはは」
 自分の笑いだった。
 馬鹿というしかない。
 この笑いは、自分への嗤いか……いや。
「さて、自慢話も終わったことですし、そろそろ首を頂きましょうか」
 オーカーは、腰につけていた剣を抜いて、ゆっくりと歩き始めた。
「毒を与えてから、そろそろ五分。もう指先一つも動かないでしょう」
 近づいてくる。
「感謝するぞ、オーカー」
 声を出す。口も動かしづらい。聞こえているかどうか分からないが、声に出す。
 オーカーは、少し表情を動かしながらも、そのまま歩を進めている。
「もう何もないと思っていた。ただただ受け入れるしかないと思っていたのだ……それを」
 言った。
「まさか、今になって、俺に仇討ちの機会を与えてくれるとはな」
 ボルドーは、全身の心気と力を、右足と左腕に込めた。
 右足で踏ん張って、飛びかかる。左腕で、オーカーの首を掴んだ。
 一部だけだが、体が動いた。自己心気治療が、多少は利いたのか。
 オーカーの、見開かれた目が見えた。
 勢いで、オーカーが後ろ向きに倒れた。持っていた剣が、床に転がっていった。仰向けに倒れたオーカーの上に、乗っかる形になった。
 もう足も動かない。左の手だけだ。
「こ、こい、つ」
 オーカーが、ボルドーの左腕を、両腕で掴んだ。
 爪を立てているのだろう。血が流れていた。しかし、残念ながらもう感覚がない。
 オーカーの目が血走っていた。
 首を掴んでいる手に、全神経を集中させていた。しかし、手の力が、いつ無くなっても不思議ではない。
「俺の最後の意地とお前、どちらが勝るか勝負といこうか」
 これも、声にはならなかった。
 ただただ、最後の力を左腕に注ぎ込んでいた。

 しばらく、沈思する。
 結局自分は、最後の最後まで間抜けだったな。本当に、自分を嗤いたくなる。
 鉄血だの何だのと言われているが、本当に、いざという時に役に立たない、ただの年寄りなのだ。
 買いかぶりだ。

 ふとオーカーを見ると、白目を剥いて絶命していることが分かった。
「なんだ」
 思ったよりも、呆気がなかった。
 しかし、最後に仇を討つことはできた。
 全身から、力が抜けていくのを感じた。
 これで終わりか。

 ボルドーは想う。
 はたして自分という人間の人生は、どうだったのだろうか。
 軍人として、日々鍛錬に励んだ。アースという友人がいた。それに、戦友と呼べる者達。やがて、スクレイの混乱。夢。アースの死。
 カラトという男との出会い。再び、戦いに赴いた。そして、時代が変わりゆくであろうと思い、去ることを決めた。事の顛末を、ラベンダーの村で聞いたときの思い。その後の鬱屈とした営み。
 そして、雨の日のこと。その後のこと。今に至るまでのこと。

 意味があったではないか。充実していたではないか。
 そう思うには十分だろう。

 本当に、ありがとう。


 ボルドーは、最後に孫の顔を思い浮かべようと思った。








78, 77

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