「あ?」
旭や日和と別行動で敵影を探していた晶納が、炎上する工場の方角から戦闘の気配を嗅ぎ取り顔を向ける。
ちなみにこの一帯はざっと探し回ってみたが、退避された地区には人っ子一人いなかった。完全にハズレである。
「旭の野郎ォ…騙しやがったなッ!!」
怒りに表情を歪める晶納が思い切り屋根を踏み現場へ一直線に跳ぼうとした時、突然横合いから不自然なまでの突風が吹き荒ぶ。跳躍に専念していた晶納は踏ん張りも利かず、そのまま突風に横殴りにされた。
カツン、と。一本下駄を鳴らして人外が吹き飛ばされた人間を見下ろす。その長く伸びた鼻、僅か赤みがかった顔面。初見であろうとそれが人間ではありえない特徴であるのは明白だった。
土地に詰め込まれるようにぎっしりと乱立された工場の合間合間に伸ばされたパイプに衝突し破壊しながら地表に落下していった人間を見届け、その人外は静かに顎に指を這わせた。
「しまった、殺してしまった。あの獣の、行方、情報。訊き出そうと、思って、いたのだが」
その右手に握る羽団扇で顔を扇ぎポリポリと顎が掻いた人外の足元。工場のトタン屋根。そこから生えた刃を、人外は足を切断される直前で気付き跳び上がって回避する。
瞬く間に刃は屋根を小分けに斬り裂き、内側から食い破るようにその刃の持ち主が現れる。
「ご挨拶じゃねぇかクソ人外。辞世の句はいらねぇな?」
「よし、よく生きてた。これで、訊ける」
こめかみから細く血の筋を流す晶納が、今にも相手の首を引き千切らんばかりの恐ろしい形相で跳び上がった人外を睨め上げるのを真っ向から受けて、赤ら顔の人外はむしろ安心したような顔をして言う。
「白銀の獣、あるいは白銀色の童女。見たか?」
「黙って死ね。吐き気がすんだよテメェら人外は。殺してやるから早く死ね」
マチェットナイフを片手に、聞く耳持たずの晶納の殺意が相手を叩く。
「…獣は、こっちか。それも、猛獣。会話が、不可能」
カツカツと一本下駄で器用に着地した人外、その姿は山伏の装束に酷似していた。
|鈴懸《すずかけ》と呼ばれる法衣を身に纏い、肩から|結袈裟《ゆいげさ》を掛けた出で立ち。羽団扇を握る右手の腕には念珠が二重三重と巻き付いており、頭に乗っているのは|頭襟《ときん》か。
この服装に加え、赤ら顔と長鼻。錫杖こそ無いが象徴たるはあの羽団扇。
もはや自ら真名を名乗っているに等しかった。
「天狗か。テメェもこの一件に絡んでやがるな?絡んでなくても殺すが」
「大天狗、だ。野蛮な、退魔師」
日本三大悪妖怪の一つに数えられる天狗。それも自称する大天狗の称号が本物であるのなら、その実力は容易に推察できる。
日ノ本の国において生息する人外の分類である妖怪種。古来より伝え恐れ畏れられてきた妖の者。その蓄えられた人々の感情の集積、重ねて来た歴史の深さがものを言う人外の法則に依るのなら、その力は…。
(同じ三大妖怪とはいえ、前に闘った幼体の河童なんざ比にならねぇ。大天狗、ならその力量はおそらく大江山の大鬼に匹敵する!!)
その自称の真偽に関しては、先手を打つより先に緩く振るわれた右手の羽団扇が証明してくれた。
(ッ、やべ…!)
ぶわりと大気を撫ぜる羽団扇の先端から、信じられないほど圧縮された風の塊が放出され、二人の立っていた小工場どころか背後にあった工場二つほどを巻き込んで大規模な破壊を引き起こした。
建物が根こそぎ剥ぎ取られ、空に舞い上がり粉々の瓦礫と化して降り落ちて来る。
「………ほう。頑丈、だな。退魔師」
周囲一帯を更地とした大天狗が、下駄を鳴らしてゆっくり歩きながらも正面のそれを見やって感心したような吐息を漏らす。
そこには五体満足に両足で立つ晶納。その前面を盾のように覆う二つの巨大な刃があった。柄は無く、大振りな両刃の剣は鏡合わせのように根元から逆側に同様の寸借で黒曜の輝きを宵闇の中で放つ。
妙に青白い照り返しの刃と、赤黒い静脈血のような色合いの刃。
天秤刀・金脇と銀脇。
『陽向晶納』の真名を以てして解放された力が形を成して主を守っていた。
「…ハッ、クソザコ人外なんかにやられるわけねぇだろ」
威勢よく答え、晶納は地面から引き抜いた最後の一振りを左手に握る。
星の光、夜の陽を総じて三つ納める者。
右手に愛用のナイフを、左手に直刀|柄鋤《かなつき》。頭上を旋回しながら回転する天秤刀二つ。都合四刀流。
「殺す、害悪共は一つ残らず。テメェら人外は皆殺しだ」
並々ならぬ殺気を纏い、晶納はもはや任務のことすら思考の隅に追いやって人外の抹殺にのみ意識を費やす。
-----
むくりと起き上がる影があった。夜の闇の中で街灯の光を押し退ける炎光に照らされる少女が、白銀の髪の上から片手で頭を押さえ周囲をきょろきょろと見回す。
「…、?」
弱り切った体に喝を入れながら立ち上がると、ふと自身の身に纏うものが変わっていることに気付いた。古ぼけたカーテンを引き千切ったかのようなボロ布の下に、いつの間にやら革のジャケットが着せられていた。
明らかに持ち主との体躯の違いが分かるほどにそのジャケットは大きく、前のボタンが留められた上着は少女の上半身はもとより膝辺りまでを隠している。
くん、と意味もなく余った袖を鼻に押し当てて臭いを嗅いでみる。少女の嗅覚は、何故かこのジャケットの持ち主が自分にとって害ある者ではないことを確信させた。正確にはそこに残された妖精種、すなわち『聖族』の残り香が、であるが。
そんな少女の頭上では、黒翼の女性と薄羽の妖精とが視線だけで射殺せそうな形相をぶつけ合いながら衝突していた。
「―――ヒッヒッ」
そして、そんな少女のもとへ音も無く接近した男が気味の悪い笑みを浮かべて少女を捉える。
「やるじゃない、妖精風情が」
「ありがとよ、魔獣風情」
両手にそれぞれ握り込んだ無銘の剣を叩きつけ、衝撃で屋根を陥没させたまま魔獣種の女はばさりと背中の黒翼をはためかせながら半分本音で相手を称賛した。
戦況は妖精アルムエルドに傾いていた。そもそもが、飛行を可能とする薄羽とは違い相手の黒翼はどうやら浮力を踏み出すものではないらしい。空を飛べる者とそうではない者とでは、どう考えたところで前者が優位となるのは自明の理であった。
(ありゃ魔獣種の象徴としての獣性を示すだけの翼だ。俺らと違って飛ぶ為の機能は備えちゃいねえ)
中空から女を見下ろし、アルムエルドは両手の剣を構え滑空から女を斬り捨てんと急降下を始める。
「…はあ…。こんなヤツ相手に…」
浅く吐息を漏らし、女は心底から嫌そうに吐いた息の数倍もの空気を取り込む。と同時。
旋律が、その声帯から紡がれた。
聞いたことも無い唄、丁寧に織り成される声色は、その手の造詣に疎い者であっても感銘を受けるものであった。
ただし、それは通常の唄に非ず。その声は、聴いた者の心や体を蝕む魔の絶唱。
唄に捕らわれた鼓膜から、アルムエルドは自身の異常を察知する。羽が稼働を止め、勢いそのままに女の立つ位置よりだいぶ手前に身を落とした。
(なん、だ…!?羽、いや体が、重い…ッ)
どうにか打ち身をすることなく着地したはいいが、身体が鉛と化したかのような自重の急変にアルムエルドは片膝立ちで目を見開く。
「ふっ!」
困惑するアルムエルドに横薙ぎの蹴りが直撃し、ガードも出来ぬままに横転しながら片手の剣を屋根に突き立てて重い体をどうにか立ち上がらせる。
旋律は尚も続く。
「テメエ…何をした」
「言う必要ないでしょ。邪魔だからそこで横になってなさいって。立ってんのもキツイはずだし」
朱色の髪の隙間から覗く眼光をものともせず、魔獣種の女は顔を別の方向へ向ける。
「ふうん。アイツも来たか」
その方向に何がいるのかは知っている。他でもないアルムエルドが上着を掛けて横たえたあの少女がいる。
…いや、それだけではない。自重に潰れそうな肉体を支えながら、その先の工場に立っている二つの人影を見据える。一つは当然ながら白銀の少女、そしてもう一つは見覚えのない男。細目で、ぐにゃりと不気味に体を折り曲げ捻じれさせた気持ちの悪い人外。
(野郎、新手か…!)
「やめときなさいな」
焦燥感に駆られ飛び出そうとしたアルムエルドの眼前に立ちはだかる女が、親指でずっと後方の工場にいる男を指す。
「あれ、かなり厄介よ。こっちには相当に強力な人外が二人いる。アンタ程度じゃ敵わない。あの子のことを慮るのなら、アンタの介入は余計でしかないわ」
喋り続ける女の声帯からは、言葉以外の旋律が重なって紡がれ続けている。一体どういう仕組みなのか、相手の人外の真名を知らないアルムエルドにはまったくわからない。
女はさらに諭すように続けた。
「命までは取らないわ。あの子だって今は辛いかもしれないけど、その内にどうにか自由にしてみせる。ただその為にはまだ…」
「黙れ」
両手の剣を女に向かって投擲する。不意打ち気味だったとはいえ、真正面から来る攻撃など回避は容易い。あっさりと避けた女には目もくれず、アルムエルドは両手を屋根に叩きつけると同時に大きく跳躍する。
バジッと火花にも似た力の奔流が跳び上がったアルムエルドの手から工場に接続され、それを辿るようにミシリメキリと工場全体が引き剥がされ変形させていく。
「なっ、アンタ!」
驚きその場から退避する女にはやはり一瞥もやらず、剥がした工場から獲得した大量の鉄材を使い巨大で無骨な鉄塊のような剣を生み出す。
アルムエルドは金行の使い手。材料さえあれば、質量さえ足りれば、規格外のサイズの武器ですら精製は可能。
それを自在に振れるかどうかは別として。
「おォおおおおラァアアああああ!!!」
耳障りな旋律を掻き消すように吼え、アルムエルドの両手に握られた大木のような柄を全力で持ち上げ、そして振り下ろす。
「ヒヒッ、手間ァ掛けさせやがって小娘。オラ、戻んぞ」
「…っ」
人型にして人型らしからぬずるりとした気色悪い歩み方で迫る男に、ふるふると首を振るって白銀の少女が拒絶を示す。
男にとって少女の意思などはどうでもいい。多少傷つけたところで問題も発生しない。殴り蹴り気絶させてから連れ帰ればそれで終わりだ。
「クソガキが、二度と逃げようなんて考えが浮かばないように、ちょいと痛めつけてから連れて―――あん?」
柄にしがみ付いたまま体を捻転させ、半円を描いて落ちた巨剣の切っ先が、今まさに暴行の手を伸ばし掛けていた男と少女との間に捻じ込まれ一つの建物を丸ごと両断した。
「ん、なぁああ!?」
「…っ」
突然の出来事に目を白黒させながら瓦解していく工場の屋根で慌てふためく男に、問答無用の顔面パンチを見舞った青年が侮蔑に満ちた表情で唾を吐く。
振り落とした巨剣を橋として、羽を使わずに少女の立つ場所までの到達を可能としたアルムエルドの一撃である。
「舌噛むから口閉じてろ、しゃべんなよ」
崩壊していく工場の瓦礫と闇夜に紛れ、少女を確保したアルムエルドの呟きの直後に少女もろとも姿が掻き消える。
「…、…ん」
「あんの役立たずっ!」
足場としていた工場の大半が巨剣の材料とされてしまったが為に瓦礫の積み重なった地上への着地を余儀なくされた魔獣種の女が吐き捨て、崩壊の煙が巻き上がるその場所へとダッシュで駆けつける。
しかし時既に遅く、逃走した妖精と目的の少女の行方はとうに知れぬものとなっていた。